003フィレンツェ、ピサ

イタリア旅行・ピサ~その2

ピサの斜塔として有名な鐘楼。
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1173年に建設開始、3階部分まで作った時に地盤沈下で傾き始め、工事を中断。
1234年以降4階部分が作られたが、また中断。
14世紀に入って再開され、ようやく完成した。
最上階だけ反対側に傾いており、バランスを取るようになっている。
傾きを実感する為に、倒れこんでいる方の真下から見上げたのがこの画像。
圧迫感があります。

反対側に回って真下から見上げた画像。
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圧迫感がありません。
現在は最新の土木工事によって傾きが緩和されています。工法についての説明板がありました。

30分間毎に約30人ずつという制限がありますが、塔に昇る事ができます。
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日本からでも予約できるそうです。
画像は、鐘楼に入場する人たち。

鐘楼に登って手を振る観光客。
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なんか誇らしげに見えます。
また来られたらぜひ昇ってみたい。

上空では珍しく軍用機が何回も飛来していました。
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9月11日だから、テロ対策のデモンストレーションでもしているのかな?
観光客は歓声を上げていました。
広場の片側には土産物屋がずらり。
暑いのでジェラートがうまい!
この後フィレンツェに戻りました。

ピサの歴史をまとめてみました。

・エトルリア時代(紀元前8世紀~)に建設された?
エトルリア時代はエトルスキ族が北・中部イタリアを支配した時代。エトルスキ族の起源ははっきりしていないが、ローマ人がトゥルスキと呼んだ事が“トスカーナ”の名の由来になった。エトルスキ族はフィレンツェ、アレッツォ、オルヴィエートも建設した。

・紀元前3世紀~
ローマ時代のオーレリア街道沿いにあったため、交易の中心地として繁栄。

・10世紀~
地中海に進出したイスラム勢力の脅威で中々発展できなかったが、末頃から活発な商業活動を始める。

・11世紀~
1011年、イスラム軍により略奪される。
1063年、パレルモ沖海戦でイスラム軍を破る。
ジェノヴァと同盟しイスラム勢力をティルレーノ海北部から追い払う。
1096年~十字軍が始まり、西欧諸国に近い事からその準備や輸送で莫大な利益を上げる。

・12世紀~ 
十字軍の活動に伴い東地中海にも進出する。エルサレム攻囲の際200隻の戦艦を派遣し、エルサレムでの勢力が大きくなる。ピサ司教ダイベルトがエルサレム大司教に選ばれる。
12世紀前半には、コルシカ、エルバ、サルデーニャ北部を領有しパレスチナ、シリアの沿岸都市に居留地を得る。居留地では治外法権を得、エルサレム王国では免税特権を与えられていた。
東方貿易での活動が活発になるに従って、ヴェネツィア、ジェノヴァとの抗争が激化する。

・13世紀~ 
1284年、メロリア海戦でジェノヴァに敗れ、海上の覇権を失う。以降内陸への進出を図ってフィレンツェと対立する。

・14世紀~ 
1343年、ピサ大学設立。

・15世紀~ 
1406年、フィレンツェに併合される。
1494年、フィレンツェでサヴォナローラの神政始まる。ピサが独立する。

・16世紀~ 
1509年、フランスに頼ってピサの領有を目指していたフィレンツェに再併合される。
1511年、フランスと教皇庁の対立の中、フランス派のフィレンツェがピサで反教皇派の宗教会議を開く。教皇庁がフランスに勝利した後、フィレンツェは責任を取らされ共和制が崩壊する。
トスカーナ大公コージモ1世がピサの振興を図る。

・17世紀~ 
ガリレオ・ガリレイが「振り子の法則」を発見する。その後ピサ大学の講師になり「落下の法則」を発見する。

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イタリア旅行・ピサ~その1

9月11日。
ピサの半日観光(オプション)に向う。フィレンツェ駅前に集合なのだが、宿泊しているホテル43 45' 58.75"N 11 17' 03.16"Eが駅から遠いので、路線バスに乗る。バス停は住宅地にあり、辺りは日曜の朝なのでひっそりと静かだ。日曜日は安息日なので朝に騒ぐのはご法度だとの事。
フィレンツェ駅前からピサまで、トスカーナ地方名産のイトスギ林や水道橋を眺めながら高速道路を一時間半位。駐車場に着くとヨーロッパ中から何十台も観光バスが乗り付けていて、ピサの知名度の高さに感動する。
ここから連絡バスでドゥオーモ広場へ(画像43 43' 45.04"N 10 23' 23.77"E)。
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ドゥオーモ広場に着いた。瞼に飛び込んできたのは、青い空と緑の芝生を背景に聳える白い3つの建物(画像43 43' 22.05"N 10 23' 34.06"E)。
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清らかで爽やかな印象に思わず「素晴らしい」。巨大な宝箱を見ているようだ。
今回ピサに来たのは、有名なピサの斜塔を見たい!というよりも「東方見聞録」の共著者、ルスティケロの故郷を見たかったからだ。

1296年、マルコ・ポーロは何らかの理由で交戦中のジェノヴァ軍に捕まり、ジェノヴァのパラッツオ・サン・ジョルジオの牢に繋がれた。
(注:以下は断定調で書いていますが、必ずしも史実として証明されている訳ではありません。)
牢内では暇を持て余す囚人が大勢いて、彼らはマルコ・ポーロの口から止め処なく語られる聞いたことも無いような国々の話に夢中になった。やがて噂は市内にも広がり、ジェノヴァの高貴な人間さえ聞きに訪れるようになった。
マルコ・ポーロは、彼らに何度も同じ話をするのにうんざりしてきた。そこで話を本にまとめる事にした。マルコは人気者になっていたので、囚人としてはかなりの自由を享受できた。そこで旅行中のメモをヴェネツィアの自宅から取り寄せたり、本を著述する事も許された。

丁度牢獄にピサのルスティケロという作家がいた。マルコは彼に著述を頼む事にした。ルスティケロはフランス語の読み書きが出来たので、より好都合だった。なぜなら方言の多いイタリア語よりもフランス語の方が万人に受け入れられると考えたからだった。
ルスティケロの一生については定かではないが、パリの国立図書館に、彼が書いたアーサー王伝説の写本があるそうだ。騎士道物語作家だったらしい。彼が過ごした時期のピサは、繁栄の最後の一瞬だった。ドゥオーモと洗礼堂は完成していて、鐘楼は傾きつつも四層目まで作られて放置されていた。アルノ川が弧を描いて流れる市内には、おびただしい塔が林立していた。

彼がジェノヴァの牢獄にいた理由は、ピサを覇権争いから脱落させたメロリアの海戦(1284年)に参加していたからだった。双方200隻のガレー船が戦ったこの戦いで、ピサはジェノヴァに叩きのめされ40隻のガレー船と1万5千の捕虜が連行された。この為「“ピサを見たければジェノヴァに行け”という格言が生まれ・・・市内には、何らかの悲しみを抱えていない家は一軒としてなくなっていた。」(ピサ年代記)
ジェノヴァの牢獄では、毎日30人の捕虜が死亡して海に捨てられたという。
1290年にはジェノヴァ軍がピサの港、ポルト・ピサノを破壊し、ピサの命運は決まった。

さて、「東方見聞録」の著述は1296年から始められた。ルスティケロはマルコの話すばらばらな話を順序立て、章と章、段落と段落の間がスムーズに移行するように工夫し、全体として調和が取れるようにするという編集者の役割を果たした。更にそれをフランス語に翻訳した。とは言え「東方見聞録」は冗長で少々退屈な読み物だと感じる。これが当時の物語の特徴なのか、ルスティケロの能力の限界による物なのかはわからない。
途中1298年のクルゾラ沖の海戦により多数のヴェネツィア人捕虜が収容され、牢獄はごったがえした。病気や飢えが蔓延し、多数の死者が出た。これらの脅威と戦いながら、「東方見聞録」は1298年に完成した。
翌年1299年には講和条約によりヴェネツィア人とピサ人は開放されたので、ぎりぎりの完成だった。ルスティケロという協力者がいなかったら「東方見聞録」は完成せず、マルコ・ポーロも歴史に名を留める事はなかっただろう。解放後のルスティケロの消息はわからない。

その後、「東方見聞録」は僧侶や学者の要望で様々な言語の写本が作成され、その種類は100以上に及んだ。最初はマルコ・ポーロの想像の産物と思われていたその内容は、15世紀から徐々に真実である事がわかりだした。初期の世界地図に書き込まれた地名は、「東方見聞録」の内容から転記された。
ルスティケロが「東方見聞録」の著作を引き受けた理由はわからないが、恐らくいつ死ぬかもしれない牢獄の中で自分の作品を残したかったのだろう。もしそうならその願いは十分に果たされた。

ドゥオーモ。
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1063年に建設が開始され1118年に完成した。
パレルモ沖の海戦でイスラム勢力に勝利した事を記念して作成されたと言われる。
今日は日曜日なのでミサを行なっており、内部の撮影はできなかった。

何度見ても均整のとれた美しい建物だ。
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クーポラは先がとがっていて、イスラム寺院の様式が使われているそうだ。
鐘楼がドゥオーモの陰からこちらを覗き込んでいるようでユーモラス。
これらの建物が建つ前は、ハドリアヌス帝の宮殿があったと言う。

ドゥオーモの周りで盆踊りの練習。
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ではなくて、鐘楼を手で支える図を撮影してるのだ。
日本人、中国人、アメリカ人、ドイツ人、フランス人・・・
世界中の人が同じポーズを取って楽しんでいるのを見ると、しみじみと平和を感じます。

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イタリア旅行・フィレンツェ~その4

ウッフィツィ美術館。
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発音しづらいこの名前はイタリア語のウッフィーチョ(事務所)から来ている。全トスカーナ地方の支配を達成したコージモ1世が1560~1580年にメディチ家の事務所として建造したもの。1569年にトスカーナ大公になったコージモ1世は、フィレンツェ本位の統治からトスカーナ諸都市の振興を図る統治に努めた。

建物はコの字型をしており、13世紀から18世紀の絵画を時代順に鑑賞できる。美術の教科書などで名画として紹介されている絵の本物が次から次と現れる様は圧巻。それらを美術史の流れの中で鑑賞できるのは何とも贅沢であった。敦煌の莫高窟と同様入場前は期待していなかったが、見終わってみると満足感は大きかった。

特に絵画に対する思い入れがない人の場合、専門ガイドによる説明か、美術解説書の携帯をお勧めしたい。ただ漫然と見るより、それぞれの絵に凝縮された作者の想いや時代背景、絵画技法の進化を知った上で見るとより満足感が得られると思います。

16:00前に入場しましたが、並んだ時間は5分位でした。
団体ツアーなので見学時間は僅か1時間半でしたが、博識なガイドAさんの無駄のない説明のおかげで結構おなか一杯になりました。以下は鑑賞した絵の抜粋です。

第2室(13世紀):
「聖母子」(ジョット):それまでの宗教画になかった遠近法を用いた革新的な絵。配色も立体感を出すように工夫されている。

第7室(ルネッサンス初期):
サンロ・ロマーノの戦い(パオロ・ウッチェッロ):近くの槍と遠くの槍の違いや、倒れた槍の配置などに遠近法を使っている。遠近法の進化が見て取れる。
バッティスタ・スフォルツァ、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの肖像画(ピエロ・デッラ・フランチェスカ):優雅でなくしかも横顔!という特異な肖像画。横顔なのはスフォルツァの片目が潰れていたからとの事。背後の風景に遠近法を使用。

第8室(フィリッポ・リッピ):
聖母子と2人の天使:フィリッポ・リッピは美しい尼僧をモデルに絵を描いていたが、描き上げた時には尼僧は孕んでいたと言う。その後その尼僧と夫婦になり、妻をモデルに描いたのがこの絵。大変可憐で個人的には羨ましい。イエスを持ち上げている手前の天使は自分の子供をモデルに描いたもので、イエスよりかわいらしく描く所など作者の人間っぽさを感じさせる。他の画家が描くマリア像と違い荘厳さはないが、俗っぽくしゃれているのが魅力。

第10~14室(ボッティチェリ):
ヴィーナス誕生:この美術館の看板とも言えるボッティチェリの二つの作品の一つ。柔らかで繊細な印象が素晴らしい。
春:「ヴィーナス誕生」と同じ人物、ヴィーナス、風の神ゼフィロス、フローラも登場している。ゼフィロス、フローラから春(プリマヴェーラ)が生まれて足元に花園が広がっている。かつて地面の花園は絵の劣化で良く確認できなかったが、近年の調査で、実に500種類の花が咲き乱れしかもそれらは実在し全て春の花である事が確認されたそうだ。9人の登場人物でストーリーが作られ、盲目の天使の放つ矢の向きなど、絵に登場する物(花も含め)全てが何らかの意味を持つ。「ヴィーナス誕生」の近くにあり、二つを見比べる事ができる。「ヴィーナス誕生」のヴィーナスに比べるとこの絵のヴィーナスの目は左右が不釣合いで醜い。これは肉体の美しさよりも精神性を重視している事の現れだそうだ。

第15室(レオナルド・ダ・ヴィンチ):
キリストの洗礼:ダ・ヴィンチの師、アンドレア・デル・ヴェロッキオとの共作で、ヴェロッキオが16歳のダ・ヴィンチに試しに左端の天使を描かせた物。これを見たヴェロッキオはショックで以降二度と絵を描かなかったという。私はヴェロッキオの天使も良いと思いますが。
東方三博士の礼拝(未完):躍動的でドラマティックな絵だが、遅筆のダ・ヴィンチが製作中に、ミラノのルドヴィコ・イル・モーロに招かれてあちらで「最後の晩餐」に取り掛かったため、遂にこの絵は完成しなかった。もしミラノに行かずにこちらを完成させていたら、やはり名画の誉れ高い作品になったと思う。ダ・ヴィンチの遅筆は有名で、「最後の晩餐」があれほど傷んだのは、じっくり描きたいが為に乾きは遅いが劣化しやすい油絵の具を使用したからと言われる。

第25室(ミケランジェロ):
聖家族:手前に伸びた腕という難しい構図だが、彫刻家であるミケランジェロは解剖学による人体の構造についての知識があり、見事に表現している。衣服に当たる光による立体的な表現も見事。

第26室(ラファエッロ):
ルイ10世の肖像画:教皇ルイ10世の座る椅子の背もたれの丸い真鍮に映る窓や、遠近法の線の中心点が右側外にある点など、絵の外の広がりを感じさせる作品。構図が非常に計算されている。
ひわの聖母:大変有名な作品だが未だに修復中で、下手糞な模写が飾られていた。これなら本物の写真を飾ったほうが良いと不評であった。

第28室(ティツィアーノ):
ウルヴィーノのヴィーナス:優美なヴィーナスも美しいが、体の重みで作られたシーツの皺の表現も見事。

第43室(カラヴァッジョ):
バッカス:非常に写実的で光の使い方もうまい。バッカスといえば酒の神、祝祭の神だが、そのイメージとかけ離れている。後でバッカスの持つ狂気、破壊性を現していると知って、その表現力に驚いた。
メドゥーサ:丸い盾に描かれたメドゥーサの首。その鋭い眼光が脳裏から離れない。

時代が進むにつれ、平面的な絵から躍動的な動きの一瞬をとらえた絵に進化して行くのが解る。
あと、遠近法の技法で左右どちらから見ても同じに見える絵があったが、誰の何と言う作品か忘れてしまった。

館内の写真撮影は禁止だが、撮っている人が結構いて館員がしきりに注意していた。大目に見てもらえるのは外の景色のみ。
前の画像はヴェッキオ宮殿の方向を撮った物で撮影場所は43 46' 04.69"N 11 15' 17.62"E。

この画像はヴェッキオ橋を撮った物。ここからのヴェッキオ橋の写真は至る所で見かけます。
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あと展示物の前のバー付近には赤外線センサーの見えない網があり、バーを越えるとブザーが鳴る。でも網が見えないのでブーブー鳴らしていても気付かない人が多い。結局館員が注意していた。
出口付近にはかなり充実した土産物コーナーがある。ここを出ると再入場できないので注意。出口のすぐ左には郵便局があり両替ができる。レートは良いそうです。二千円札を出したら知らない札だと言われ、ガイドが説明して両替してもらった。

サンタ・クローチェ教会。
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1295年に完成。サンタ・マリア・デル・フィオーレを見た後では簡素に見えてしまう。
しかしここに葬られている人はミケランジェロ、ガリレイ、マキャベリ、ロッシーニ、マルコーニなど有名人ばかり。
43 46' 09.13"N 11 15' 36.59"E

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会。
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1420年に完成した円と正方形の幾何学模様が美しい建物。
9/11のピサ観光の後に行きました。
前の広場は広々としていて休むにはもってこいだが、日陰がないのが残念。
43 46' 24.41"N 11 14' 56.16"E

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イタリア旅行・フィレンツェ~その3

【ヴェッキオ橋】
橋の真中まで来ると、ようやく川が見える。
で、その景色がまた良い。
画像は西側のサンタ・トリニタ橋方面を見たところ。
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夕景で有名らしいが、昼間見ても一瞬時間が止まったかのような軽い衝撃があった(画像より実物のほうがいいです)。
真中に来るまで景色を見せないと言うのは、やはり演出だろうか?

東側のグラツィエ橋方面。
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西側の眺めよりは落ちますね。
右手に見えるのはミケランジェロの丘。

ヴェッキオ宮殿。
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フィレンツェ共和国政庁舎で、サンタ・マリア・デル・フィオーレと同様フィレンツェが有数の都市国家になった1299年に建設が開始された。

映画「ハンニバル」でレクター博士がパッツィ刑事を殺害した現場。
43 46' 10.13"N 11 15' 19.76"E
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劇中、日本人観光ツアー客の声が聞こえたがあんなに遅い時間にツアーをやっているんだろうか?
メディチ家治下の1478年、有能なロレンツォ・デ・メディチを恐れた反対派のパッツィ家は反乱を起こすが市民に阻止されて失敗する。
反対派は捕らえられてヴェッキオ宮殿の窓から縛り首にされた。
反乱の黒幕は、メディチ家に敵対するローヴェレ家出身の教皇シクストゥス4世と言われる。
ヴェッキオ宮殿の建つシニョリーア広場には、メディチ家追放後に統治したサヴォナローラの火刑跡もあるが、カメラフィルムを買っていて見る時間がなくなってしまった。




歴史を知っていた方が観光もより味わい深いと言う事で、フィレンツェの歴史をまとめてみる事にした。大雑把な流れはフィレンツェ以外の都市にも共通している。
とにかく目まぐるしく情勢が変わって、面白いのだが訳がわからなくなる。
13世紀は前述の通りなので、14世紀から。

1330年代まで繁栄の時期が続く。
1340年~:イングランド王エドワード3世に金を貸していたフィレンツェの代表的商社が、その支払停止により金を回収できなくなる。またエドワードの軍備調達業務を請け負った為に敵対するフランス王フィリップ6世が国内のフィレンツェ人の商品を差し押さえる。
これらによりフィレンツェの商社が次々と破産、追い討ちをかけるように黒死病が伝染する。イタリアを不況が覆い一般民衆の不満が増大。危機感を抱いた支配層は権力を1人のリーダーに集中させてより強力な支配を行なわせるようになった。シニョリーア制と言われる。
破産した旧来の商人に代わって、新興商人が力を持ち始める。

1370年~:アヴィニョンの教皇庁がローマへの復帰を図ってローマ近辺の領主を征服し始める。フィレンツェ近辺にも及んできた為、新興商人は教皇庁の徴税業務等で潤ってきた旧勢力を攻撃し、遂に教皇庁に対して戦争を起こす。
この戦争でのフィレンツェの敗北とその後の一連の内紛の結果、再び旧勢力が実権を握りより権力を集中させるようになった。

1390年~:ヴィスコンティ家治下のミラノが急速に勢力を拡大しその支配がフィレンツェ近辺に及んだ為、フィレンツェとミラノは対立する。やがて劣勢になったフィレンツェはミラノに大敗した。
一方オスマン・トルコの圧迫でイタリア内陸部に勢力を拡大しようとしたヴェネツィアは、ミラノの拡大を見てフィレンツェと同盟する。

1430年~:権力争いの結果、大商人コージモ・デ・メディチがフィレンツェの支配者になる。軍事力を持たないメディチ家は直接統治できないので共和国の選挙に介入して支配した。
ギリシア古典研究サークルのメンバーだったコージモは学者や芸術家を支援し、やがて上層市民は「学芸愛護」を競うようになった。フィレンツェがルネサンスの中心地になった理由。

1454年~:オスマン・トルコによるビザンツ帝国の滅亡により、脅威にさらされたヴェネツィアとミラノは戦いを止め和解する。更にフィレンツェ、教皇庁、ナポリ王国が加わって25年間のイタリア同盟を結ぶ。しばらく平和が続く。この時フランチェスコ・スフォルツァがミラノの実権を握った。

1469年~:コージモが死去してしばらく後、孫のロレンツォが跡を継ぐ。彼は優れた外交能力でイタリア5大勢力の均衡を保ち、平和と安定を維持した。これによりルネサンス文化がイタリア全土に広がった。
「学芸愛護」の家庭で育ったロレンツォは学者や芸術家への支援を惜しまず、ルネサンスの最盛期をもたらした。

1492年~:ロレンツォの死と、教皇アレクサンデル6世とその子チェーザレ・ボルジアによる教皇領拡大の野心により5大勢力の均衡が崩れる。
間もなくトルコ征服を夢想したフランス王シャルル8世がイタリア遠征を開始し、いともあっけなくフィレンツェ、教皇庁、ナポリ王国に進撃してしまう。当時フランスやスペインは強力な集権的国家になっており、イタリア諸国にこれを止める力はなかった。
教皇庁、神聖ローマ帝国、スペイン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を締結してフランスに対抗すると、ようやくシャルル8世は撤退した。この遠征により脆弱なイタリアが露見して、以降イタリアは周辺の列強の抗争の場になる。

遠征の際、ロレンツォの跡を継いだピエーロは進んでフランスの軍門に降った為、弱腰を避難されてメディチ家はフィレンツェから追放され、共和制に戻る。ルネサンス末期の神秘主義の風潮の下、ロレンツォの生前からメディチ家による専制支配を糾弾していたサン・マルコ修道院長のサヴォナローラが神政を開始し、禁欲的な政治を行なう。しかし教皇の堕落を批判した為に破門され、反対派が力を得て火刑に処せられる。

1499年~:シャルル8世の後フランス王になったルイ12世がイタリア遠征を企てる。標的をミラノに絞り、領土の分割等を条件に巧みにヴェネツィアやチェーザレ・ボルジアと同盟して攻略した。ミラノのルドヴィコ・イル・モーロはフランスに捕らえられた。
更にスペインとナポリ王国の分割協定を結んだルイ12世はナポリ王国を占領したが、分割方法でもめたスペインに攻められ最終的にナポリ王国はスペインの支配下に置かれた。
たちまちイタリア5大勢力のうち2つが消滅した。
一方、チェーザレ・ボルジアとメディチ家の脅威にさらされたフィレンツェはフランスの保護に頼っていた。チェーザレ・ボルジア失脚後の教皇ユリウス2世はフェッラーラを狙ってヴェネツィア、スペインと同盟し、フェッラーラを支援するフランスと対立した。

1512年~:ラヴェンナで教皇とフランスが決戦し教皇側が勝った。フランスはイタリアから総退却し、フランス側のフィレンツェはスペインの攻撃で共和制が崩壊し、メディチ家が復権した。その後メディチ家から教皇が出るとフィレンツェと教皇の結び付きは強固になった。

1519年~:スペインのカルロス1世がカール5世として神聖ローマ帝国を後継した。元々の神聖ローマ帝国とフランスの対立と、イタリアを巡るスペインとフランスの利害がカール5世(カルロス1世)対フランスのフランソワ1世という形に集約され、ネーデルランドやイタリアで戦争が勃発し1559年まで続いた(イタリア戦争)。
カール5世は圧倒的に優勢で、フランスを打ち負かした。カール5世の拡大を恐れた教皇クレメンス7世はミラノ、ヴェネツィア、フランスと同盟して対抗したが再び打ち負かされ、ローマは蹂躙された。これを聞いたフィレンツェ市民は教皇側のメディチ家を追放し、共和制に戻した。しかし1529年にカール5世とイタリア諸君主を集めた和約によりイタリアでのカール5世の支配が確定すると、スペインはフィレンツェを占領して再びメディチ家を支配者に据えた。
フランソワ1世はオスマン・トルコと同盟して三たびカール5世に戦いを挑んだが、戦況は思うように進まず結局和解した。

1555年~:フランソワ1世の後のアンリ2世がフィレンツェ近郊のシエナのスペインへの反乱を支援すると、フィレンツェはスペイン側に立って勝利し、カール5世の後のスペイン王フェリペ2世によりシエナの領有を認められた。

1559年、アンリ2世とフェリペ2世は和約しイタリア戦争が終った。フランスは宗教紛争により内政に専念しなければならなくなり、イタリアにおけるスペインの支配が確定した。

1569年、メディチ家はトスカーナ大公の称号を与えられたが、相変わらずスペインの強い影響から逃れる事は出来ず、国家活動は沈滞した。

1571年、スペインの無敵艦隊がレパントの海戦でオスマン・トルコを破り、トルコの脅威は減退したがスペインの支配は強力になり、特に南イタリアにおいて過酷な支配を行なった。

17世紀:フェリペ2世の死と30年戦争によってハプスブルク家(スペイン、オーストリア)の力が弱まり、ブルボン家(フランス)との力が均衡する。これにより再びイタリアは両家の抗争に巻き込まれる。

18世紀:スペイン継承戦争、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争の間、イタリアは両家の抗争の場になり、度々支配者が入れ替わった。トスカーナ大公国はポーランド継承戦争の時にオーストリアの影響下に置かれ、メディチ家断絶後はオーストリア皇女マリア・テレジアの夫ロートリンゲン公フランツ・シュテファンが領有し、当時のイタリア諸国の中では際立って近代的な政治が行なわれた(公平な税制、裁判。拷問・死刑、宗教裁判の廃止。自由小農民の育成など)。
イタリアではこのような啓蒙主義的改革は外国人支配者によって行なわれたが、保守的な意識から抜け出せない民衆に受け入れられず、改革は後退した。
一方知識層の中には啓蒙思想の影響を受けて、イタリア諸国の時代遅れな専制政治や外国人支配を変える必要を感じ始めた人々がいて、後のイタリア統一運動へと繋がっていった。しかしこの時点では抑圧され無気力になった民衆を動かす力にはならなかった。
(以下中断)

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イタリア旅行・フィレンツェ~その2

サンタ・マリア・デル・フィオーレの中。
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驚くほど地味で簡素。
外見とは大違い。
天井近くには若干きらびやかなモザイクらしきものがありましたが。

サン・ジョバンニの洗礼堂。
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サンタ・マリア・デル・フィオーレのドゥオーモよりも古い。
当時は、全ての新生児は決められた日にここの洗礼盤で一斉に洗礼を受けた。
これによって、フィレンツェ市民としての同胞意識を育んだ。
サン・ジョバンニはフィレンツェの守護聖人。
ヴェネツィアにとってのサン・マルコと同様、都市が固有の守護聖人を持つことによって宗教意識を共有し、結束力を高めた。

洗礼堂の見せ場、天国の扉。
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ヴェッキオ橋43 46' 05.13"N 11 15' 09.78"E。
沿道に建物が続いていてアルノ川が見えないので、大抵は橋を渡っている事に気づかないようだ。
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橋の両側は貴金属の店が軒を連ねる。
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黄金の詰まったショーケースがこれだけあると、よだれが出てきそうだ。
世界一贅沢な橋かもしれない。
でも、力の象徴である黄金があぶなっかしい橋の上にあるという所に違和感を覚えるのは私だけだろうか?
橋は交通の要所で自然に人が集まる場所だから、誰が見ても気持ちよい貴金属屋を持ってきたのか?

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イタリア旅行・フィレンツェ~その1

9月10日。
ヴェネツィアを離れ、フィレンツェに向う。
今回の旅の最大の目的を果たしたので、割と気楽になった。
途中パドヴァ45 24' 36.13"N 11 52' 11.92"Eを通るので何か昔の建築物が見れるかなと期待したが、高速道路は市街地からかなり離れた場所を通っていた為結局何も見えなかった。

13世紀、パドヴァには大学教授で哲学者・天文学者・医師のピエトロ・ダーバノという人がいた。シチリアに伝わっていたアヴェロイズム(アリストテレス哲学に基づく考え方)を北イタリアに移入し、後に近代自然科学へ影響を与えたパドヴァ学派の基になった人だ。
彼はマルコ・ポーロに会って色々質問し、パドヴァに戻って論文を書いた。その中の「赤道直下で人間は生存可能か?」という問題について、マルコ・ポーロが話した内容に触れている。

マルコ・ポーロの東方見聞録はコロンブスを刺激しアメリカ大陸を発見させたと言われるが、上記の様にルネサンスの先駆けとなる考え方にも多少は影響を与えたようである。自由闊達で宗教にもとらわれない当時のヴェネツィアの雰囲気の中で育ったマルコ・ポーロは、事実をありのままに話し、旅行記にまとめた。結局事実に勝る物はなく、それゆえ後代の人に影響を与え続けているのだろう。

さて、車窓の風景を眺めると鄙びた田園風景の中に、ひっきりなしに教会が現れるのに気づいた。
日本人である私の感覚からすると、これほど教会が沢山あることに大分奇異な印象を受けたが、考えてみれば日本の農村にも神社や祠は至る所にあって、結局それと同じ事かと思った。
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フィレンツェに着いた。
まずミケランジェロの丘43 45' 48.32"N 11 15' 53.18"Eでフィレンツェ市街を一望する。
通常のサイズに伸ばして見てください。
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ヴェッキオ橋、ウッフィツィ美術館、ヴェッキオ宮、ドゥオーモ、サンタ・クローチェ教会・・・アルノ川北岸側の市街が全て見渡せました。
街並みは綺麗でしたが、ヴェネツィアの街並みを見た後では新鮮味はなかった。もっと晴れていれば印象が良かったかも。

フィレンツェは13世紀頃からようやく発展し始めた後発の都市国家だった。
イスラム海賊が地中海沿岸を荒らし回った為、襲撃の恐れがある海岸沿いの道が敬遠され、内陸の道が通商路となり、路上のフィレンツェに発展のチャンスが訪れた。
同じような地理的条件で先に発達していたシエナが没落し、その代わりに教皇庁からアルプス以北の徴税業務を委託され、金融業が発達。
フランドルやイングランドで商業・金融活動をしているうちに毛織物や羊毛を輸入して加工するようになった。それが東方へ輸出する西欧の主力商品になった。それまで立ち遅れていた西欧にはたいした輸出品がなかった。
金融面ではフィオリーノ金貨を発行したが、その品位の安定度から国際市場の決済手段になった。
こうして13世紀末には、フィレンツェは有力な都市国家として台頭した。

この後TAVERNETTAという店で、旬の野菜入りフェトチーネパスタとフィレンツェ風ステーキを食べた。割とおいしかった。

左から、洗礼堂、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母教会)のドゥオーモ、ジョットの鐘楼。
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ミラノやヴェネツィアのドゥオーモと違い、ピンクやグリーンの大理石をふんだんに使った、実に華やかな建物群だ。

合成が失敗してしまい、見苦しくてすいません。
43 46' 21.92"N 11 15' 17.99"E
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ジョットの鐘楼は高さ85メートル。
背後のサンタ・マリア・デル・フィオーレは1296年に建設開始、172年後に完成。
キューポラの屋上には登ることができ、そこからのフィレンツェ市街の眺めは素晴らしいそうだが、結構順番待ちで並ぶようだ。

サンタ・マリア・デル・フィオーレの入口。
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表面の配色といい彫刻の配置といい、品があって素晴らしい出来栄えだ。
ダンテもこの建物が作られていくのを見ていたのだろう。
完成した現在の姿を見たら、どのような言葉を発するだろうか。
1321年、ダンテはラヴェンナ市長の命でヴェネツィアを訪れた。
お互い有名人だったマルコ・ポーロと顔位は合わせたのだろうか。

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