002ヴェネツィア

イタリア旅行・ヴェネツィア~その9

【マルコ・ポーロの家と埋葬地を探す旅の続き】
サン・ロレンツォ教会のすぐ側まで来たが、工事中なのか取り付くしまがない。
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1324年1月8日に、マルコ・ポーロは遺言書を作成した(現在も残っている)。
教会への寄付、中国から連れてきたタタール人の召使を開放しいくらかの金を与えること、サン・ロレンツォ教会に埋葬すること、等々。
その3時間後にマルコ・ポーロは死んだ。

後代の複数の研究者がマルコ・ポーロの遺産について色々調べている。莫大な富を持ち帰ったというエピソードが残っている位なので興味のある所である。結果は様々な細工物だったり不動産だったり・・・。しかし人並み以上だったと言う証拠はどこにもなかった。

マルコ・ポーロはサン・ロレンツォ教会の父ニコロの隣に埋葬された。
しかし1582年から始まった教会の改修工事により、その墓所はわからなくなった。
更に1766~1827年にはその墓石も消滅した事が、記録に残っている。

遺骨はどこに行ったのか?改修の際に共同墓地に捨てられたか教会の礎材になったのか。
いずれにせよこの敷地のどこかに存在しているのだろう。
供養代わりに敦煌鳴沙山の砂を撒いた。
彼はヴェネツィア帰還後結婚し3人の娘をもうけたが、子孫の足取りも1403年で途切れている。

見たところサン・ロレンツォ教会は観光地でも何でもなく、地元の人が普通に通っている教会のようだ。
不審者に思われるのもいやなので早々に立ち去る事にする。
45 26' 13.54"N 12 20' 41.84"E
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サン・マルコ広場に戻ると、天気はすっかり晴れ広場の水も引いていた。
サン・マルコ寺院が燦然と輝いている。
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ファザードの上には、ヴェネツィア共和国の威信の象徴である4頭のブロンズの馬が見えた(画像中央)。1204年にビザンツ帝国を崩壊させた際、コンスタンティノープルの競技場から略奪したものだ。1797年にナポレオンによって持ち去られた後オーストリア軍によって戻された。1979年に保存のためサン・マルコ美術館に移された。ファザードにあるのは複製だそうだ。サン・マルコ小広場の柱の聖テオドルス像も複製との事。

さて、サン・マルコ広場では悪天時のうっぷんを晴らすがごとく、世界中から集まった観光客が鳩とたわむれ大はしゃぎしている。
結婚衣裳のカップルを驚かせようと、足元に鳩の餌を撒くおどけた表情の友人。
鳩を集めるのには失敗したようだ。

大理石の華やかな政庁の建物、最古の喫茶店で映画「旅情」、「エヴァの匂い」、「リプリー」で使われたカフェ・フローリアンの楽団の奏でる音楽に囲まれていると、誰しもうきうきしてくるようだ。
当時のヴェネツィアも、今日に負けない活気とヨーロッパやイスラムからの商人や旅行者で一杯だったのだろう。
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この後広場に面したコッレール博物館を見学した。
2階には昔のヴェネツィアの都市図、地図、御座船の模型、19世紀の家具、統領の肖像画と遺物、硬貨、レパントの海戦関連の品々、衣装、武器がある。ここに中国の広東にあったといわれるマルコ・ポーロの彫像のコピーが置いてあるそうだが、残念ながら日本語しかわからない私は気がつかなかった。

3階は絵画室で、主に15、6世紀の絵画がある。16世紀のヴェネツィアの代表的画家、ヴィットーレ・カルパッチョ(カルパッチョという料理の語源になった)の作品が多い。私は残念ながら彼の代表作「2人のヴェネツィア女」に気が付きませんでした。

上記の彫像以外にマルコ・ポーロに関するものは見あたらなかった。マルコ・ポーロの名はヴェネツィアの空港に冠されているとは言え、市内に際立った物が何もないのはちょっと残念である。
パラ・ドーロや宝物館、鐘楼にも入りたかったが時間がないのであきらめた。


夜のサン・マルコ広場。
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観光客はまだまだ大勢いる。
今日は目的を達成できて、本当によかった。
ところで今ヴェネツィア映画祭をやっているはずだが市内にポスターらしきものはなし。
どこでやっているんだ?ホテルに帰ってTVニュースで見るしかないな。

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その8

【マルコ・ポーロの家と埋葬地を探す旅の続き】
そのままスカレッタ通りをまっすぐ行くとサンタ・マリーナ広場に出る。
45 26' 18.00"N 12 20' 20.40"E
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更にまっすぐ、ボロゴロコ通りを歩くとサンタ・マリア・フォルモーザ広場に出る。
ここに建つサンタ・マリア・フォルモーザ教会は、聖母の訪問を受けた聖マーニョが7世紀に創建した。今の建物は15世紀以降に作られたもの。
サン・ジョヴァンニ・クリソストーモ教会と同じ、マウロ・コドゥッチの設計。
1611年に建てられた鐘楼の入口にはグロテスクなマスクがあるらしいが見落としてしまった。
45 26' 14.94"N 12 20' 26.13"E
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広場の南側に並ぶサンタ・マリア・フォルモーザ運河の4つの橋のうち、一番左側の橋を渡って南東に進む。
途中左折してMezzo通りに入りSan.Severo運河にかかる橋を渡ろうとしたが場所が良くわからず、結局Sal.Zorzi通りに入って別の橋を渡った(画像)
45 26' 10.17"N 12 20' 34.56"E。
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この辺特にわかりにくく、詳細な地図がないと歩けない。
狭い路地なので全く見通しが利かない。
橋をわたってすぐ左折し運河沿いにひたすら進む。
袋小路に突き当たる直前で右折するとBorgoloco.San.Lorenze通りの入口がある(画像)45 26' 13.30"N 12 20' 32.68"E。
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ここをまっすぐ歩くと・・・。


サン・ロレンツォ運河の向こうにマルコ・ポーロが埋葬されたと言われるサン・ロレンツォ教会がある。
思ったよりも大きいので驚いた。
45 26' 13.49"N 12 20' 38.44"E
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イタリア旅行・ヴェネツィア~その7

【マルコ・ポーロの家と埋葬地を探す旅の続き】
アーチの内側、左側を見る。
大理石と思しき石に十二宮が彫り込まれている。
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アーチの上側。
触れてみる。
これをマルコ・ポーロが使っていたかと思うと実に感無量だ。
アーチを潜った先にも同じ彫刻があるが、こちら側の方が保存状態が良い。
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更に少し東、ミラーコリ小運河のほとりの建物に、ポーロ家があったという記念銘板がある。
45 26' 19.35"N 12 20' 16.69"E
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今このあたりには民衆劇場、マリブラン劇場がある。

ヴェネツィアでのマルコ・ポーロの人生のハイライトは、やはり中国への出発の時と、帰還した時ではないだろうか?
17歳でこの家を出発した時、私が初めて海外旅行に出かけた時のように不安と期待が入り混じった気持だったろうか?
また40歳で20数年ぶりに我が家を見た時、感じていたのは故郷に帰って来たという安心感だろうか。それとも、はるかに進んでいた中国での暮らし振りとの落差にがっかりし、逆に中国を懐かしんでいただろうか?

首尾よく見つけて感動もさめやらぬまま、今度は埋葬地に向う事にする。
ミラーコリ小運河にかかるマルコ・ポーロ橋を渡って、更に東に歩いていく。
45 26' 19.02"N 12 20' 16.42"E
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イタリア旅行・ヴェネツィア~その6

【マルコ・ポーロの家と埋葬地を探す旅の続き】
サン・ジョヴァンニ・クリソストーモ教会に着いた。
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今の建物は1504年に作られた。中にはヴェネチア派絵画の元祖、ジョバンニ・ベッリーニの絵がある。
教会の手前を右折してちょっと東に向うと・・・。


ありました。
「コルテ・プライモ・デル・ミリオン」
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ミリオン地区の看板。
ミリオンは百万の意味でマルコ・ポーロのあだ名。
何でもスケールが大きい中国の事物を当時のヴェネツィアの人に説明するのに「百万」を多用した事から、ほら吹きという意味合いで付けられた不名誉なあだ名だ。
この辺一帯にポーロ家の屋敷があった。

入口を潜って狭い路地に入る。
急に人通りがなくなりちょっと怖い。
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コルテ・セコンダ・デル・ミリオンの広場に出る。
ちょっと薄汚い感じだ。
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見つけました。
ポーロ家の玄関?と言われている11世紀のビザンツ様式のアーチ。
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画像の場所(アーチ)の”グーグル・アース”(地球検索ブラウザー)での座標は45 26' 19.63"N 12 20' 15.08"Eです。

”グーグル・アース”についてはこちらを。
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20050701303.html

"FLY TO"ボタンを押してすぐ下の窓に上記の座標をコピー&ペーストして入力し、脇のSearchボタンを押すと座標の場所に飛べます。
旅先で歩いた場所などを再確認するのにすごく便利です。

ちなみに今まで紹介した場所の座標です。
①サン・マルコ広場:45 26' 02.41"N 12 20' 16.50"E
②ドゥカーレ宮殿中庭のブロンズ井戸:45 26' 02.74"N 12 20' 23.66"E
③溜息の橋:45 26' 02.44"N 12 20' 26.14"E
④メルチェリーア通りの入口(時計台):45 26' 04.86"N 12 20' 19.02"E
⑤リアルト橋:45 26' 16.92"N 12 20' 08.35"E
⑥ドイツ人商館(中央郵便局):45 26' 17.38"N 12 20' 11.04"E
⑦サン・ジョヴァンニ・クリソストーモ教会:45 26' 20.70"N 12 20' 13.00"E

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その5

【マルコ・ポーロの家と埋葬地を探す旅の続き】
雨も上がったし、観光客は水に浸かりながらむしろ楽しんでいた。
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水深は深いところで20センチ位だったろうか?
私は仕方なく、ずぶずぶと広場を歩いて通過した。

後でホテルに帰ってから靴を洗わずにいたら、たちまち悪臭を放ちはじめた。
たぶん単なる雨水ではなく下水から吹き出た水も混ざっているのだろう。
ヴェネツィアを旅行される方は万が一こういう事態に備えて、つま先から膝まですっぽり覆えるビニール袋を持参される事をお勧めする。

画像付近にはカフェ・クアードリがある。かつてワーグナーが店の前で演奏し、誰も賞賛しないと不満を言ったそうだ。


サン・マルコ広場から北の方向、リアルト橋に向う。
広場とリアルト橋を結ぶメルチェリーア通りには、ブランド品店、みやげもの屋が立ち並んでいる。
二つの観光名所を行き来する観光客でいつもごった返している。
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13世紀に舗装され、「世界で最も快適な街路の一つ」と評された事もある。
マルコ・ポーロも幾度となく通ったに違いない。
舗装されない街路は泥でぬかっていて、当時の女性は高い下駄を履きたがった。
また街路を清潔にしようという考え方はなく、ゴミは家の前の街路に投げ捨てられていた。それを清掃したのは豚だった。


リアルト橋に着いた。
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大運河にかかる橋で、いつも活気に満ちている。
12世紀は浮き橋で、13世紀は木造だった。現在の橋は1591年に作られたもので長さ48メートル、高さ7.5メートル。

リアルトは島内で比較的高い場所にあるため最初に定住が行なわれた。
ヴェネツィアが拡大すると行政機能はサン・マルコに移されたが、商業の中心地であり続けた。最初の銀行は12世紀に開業し西洋と東洋の為替業務を支配した。
「ヴェニスの商人」のシャイロックが金貸し業をした場所でもある。
せっかくだから、橋の上に行ってみる事にする。

リアルト橋から大運河を見下ろす。
通常のサイズに伸ばして見てください。
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リアルト橋についてこのような話があるそうだ。
中国から帰った時マッフェオ・ポーロは汚い衣服を着ていたが、ある日綺麗好きの彼の奥さんが服を乞食に与えてしまった。
それを聞いたマッフェオは血相を変えて、リアルト橋で無意味に糸車を回しながら気違いの振りをし始めた。
ヴェネツィア中にその事が広まって、多くの人が見物に来た。
そして3日目に、服を持った乞食が見物に来たのを見つけると、彼から服を奪って帰ったと言う。
後に、ニコロ、マッフェオ、マルコの3人は多くの人を招いて家で大宴会を開き、それぞれの汚い服を切り裂いた。おびただしい宝石が出て来た。
中国から帰還する際、莫大な金銀を宝石に替えて軽くした上で、盗賊に見つからないよう服の縫い目に巧みに隠したのだった。


リアルト橋から少し東側に戻って、北にあるサン・ジョヴァンニ・クリソストーモ教会を目指す。
また雨が強く降り出してきた。
1872年から中央郵便局として使われている、かつてのドイツ人商館の脇を北に向う(画像)。
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ドイツ人商館は1228年には存在したが、今の建物は1508年に作られたもの。
かつてドイツ人技術者は、ムラーノ島の鏡製造において技術的に寄与していた。

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その4

どこをどう通ってきたのかわからないが、大運河に出た。
オレンジやアイボリーの壁、ダークグリーンの窓を基調にした建物が軒を連ねて美しい。
運河上には、ヴァポレット、モーターボート、ゴンドラがせわしなく行き交っている。
おとぎ話の世界にいるようだ。
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有名なリアルト橋を背に、ゴンドラは行く。
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大運河周辺には有名な建造物、史跡が密集している。
じっくり見られないのが残念。
12,3世紀の邸宅パラッツォ・ドナやパラッツォ・パルツィッツァが見られるはずなんだけど。
せめて詳細な地図を持ってくればよかった。

・・・と思っていたのだが、帰国して写真を見ていたら撮った写真の中にパラッツォ・パルツィッツァらしきものがあった。サン・シルヴェストコの船着場に近い事、ビザンツ様式らしきアーチがあるのでたぶんそうだと思う。
ここに差し掛かった時、何故か船頭が指差して「マルコ・ポーロ」と言ったので訳もわからず撮ったのだが、マルコ・ポーロに関係する物とは思われない。どういう意味だったのだろうか?

ゴンドラを降りて、河岸のパリア(paglia)橋から溜息の橋を見る。
溜息の橋は1600年頃作られ、正義を象徴する浮き彫りと当時の統領の紋章が施されている。
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このあとダンドロ館近くのTROVATOREという店で、イカスミのスパゲティとイカと小魚のフライを食べる。
その間、雨が本振りになり雷が大音響と共に鳴り出した。
あの音だと、どこか近くに落ちたな、と思いつつ、午後の自由時間に行動できなくなるのではと、気が気でなかった。

昼食が終ると、他のツアー客が雨宿りするのを尻目にすぐにホテルに向ってダッシュ。
途中サン・マルコ広場では水が浸水しはじめていた。
ホテルに着くと、午後の行動に備えて雨具に身を固めて、雨脚が弱まるのをじっと待った。

雨が止んだので、早速マルコ・ポーロの家と埋葬地を探しに行く。
これらの場所については、一般のガイドブックには載っていないので、前述の本かhttp://veneziancafe.hp.infoseek.co.jp/tour.htmlを参考にした。

ホテルを出て再びサン・マルコ広場へ。
広場までの通りでは、びしょぬれの観光客が疲れ果てた表情でホテルに戻るところだった。
この辺は有名ブランド店が軒を連ねている。
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サン・マルコ広場は完全に水没していた。
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この広場は他の場所よりも低いのですぐ水没する。
9/22の朝日新聞によると、年に30回は水没しているそうだ。
ヴェネツィアの住民は慣れていて、このような時に歩行者が通れるように舗道の脇には小さな橋げたが積まれている。

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その3

ドゥカーレ宮殿に入ると、まず黄金階段の天井の見事な漆喰装飾に目を奪われる(画像)。1559年に完成した儀礼用の階段。
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写真撮影はここまで。

内部には天正少年使節が謁見したとされる部屋(謁見の間?)、世界最大の油絵がある大評議会の間、甲冑、武器がある十人委員会武具の間などがある。
より小ぶりな別の評議室(元老院の間?)は、13世紀の貴族たちの評議の情景を髣髴とさせる物があった。

各部屋に飾られている大きな油絵にはその片隅に「サン・マルコの獅子」が描かれているが、ルネサンス期には覇気に満ちた表情なのに、近世になるとヴェネツィアの衰退を象徴するかのようにうなだれた表情になる。

国家審問委員会の間は法廷で、小さな出口がある。有罪を言い渡された被告は、ここから直ちに隣のパーリアの牢獄に連行される。何とも無駄がない。

法廷からパーリアの牢獄間を繋ぐ「溜息の橋」の小窓からpalazzo o delia paglia運河を望む。
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牢獄に入ると一生出られないと言われ、囚人が渡りながら溜息をついたとされる。この小窓から最後の外の景色を見ながら。

パーリアの牢獄の独房は窓がなく、囚人の落書きが見られる。カサノヴァが脱獄した事で有名。


サン・マルコ寺院に入る。
9世紀にエジプトから運ばれた(盗んだ)聖マルコの聖骸が祀られている。
聖マルコは聖テオドルスに変わってヴェネツィアの守護聖人になった。

寺院の創建は830年だが、現在の聖堂は概ね11世紀後半に作られカノッサの屈辱で有名な神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世が聖別式に臨席している。
その後13世紀前半に現在の玉ねぎ型の頂塔がのせられた。また1075年の法令で帰国する船は貴重品を寄進するよう命令され、それを使って表面装飾が施された(小さな尖塔や彫像など)。
更に入口が現在のように5つのアーチに作り変えられた。中央3つの入口付近の彫刻は13世紀のもの。

大聖堂の一番左の入口の上には、画像のような13世紀頃のモザイク画がある。
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「サン・マルコ大聖堂に運ばれる聖マルコの遺体」を描いた物だ。聖堂内部は撮影禁止だが、同様な金色のモザイクがドームやアーチのあらゆる所に施されている。
主に旧約聖書のエピソードを題材にしている絵で、当時は読み書きが出来ない人にも聖書の内容を教える役割を果たしていた。

マルコ・ポーロの少年時代はこのモザイクの装飾作業中で(モザイクは1277年頃完成した)、マルコ・ポーロも職人が働く様子を見たのだろう。


ガラス工房を見学する。

13世紀にはまだ市内にもガラス工場が建っていた(現在は北側のムラーノ島に集中)。
マルコ・ポーロも、ガラス職人の巧みな技を間近で見たであろう。
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ガラス職人は少なくとも13世紀には同業組合を結成し、その製法の秘密を明かす事は無かった。
当時ガラス職人は、あらゆる職人の中で最も尊敬され大事にされていた。
その娘が貴族と結婚した場合、通常ならばこのような身分違いの結婚でできた子供は大評議会の議席を得る事はできなかったが、ガラス職人の場合は認められる事があった。
また統領の就任パレードの先頭は、常にガラス職人の組合だった。

ヴェネツィアンガラスは実用品というよりも工芸品で、耐久性・耐熱性がそれほどあるわけではなく、グラスの場合は値段も最低1万円はするようである。色とりどりのガラスを溶かしてくっつけたペンダントやブローチが買いやすい。


昼前にゴンドラ観光に出発。
小雨が降ってきたので心配したが、無事行なわれてよかった。
想像していたよりもよかったです。
ゴンドラのゆったりとした揺れが心地よい。

運河の水面近く、低い目線から見たヴェネツィアの街は新鮮でした。
運河に面した人々の生活が、生々しく感じられた。
橋を渡る女性は、丈の短いスカートは避けたほうが良い。
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当時のヴェネツィアの家々は、窓が小さく少なく、狭い運河に面しているので光が入ってこず、室内は暗くじめじめしていた。
衛生設備もなく、水洗処理は潮の満ち引きにまかせていた。
人々は光を求めて路上で過ごす事を好んだ。

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その2

デザートはジェラート。
3個も入っていて、こちらの料理はパスタもピザも量が多くて感激です。
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泊まったホテル内はヴェネツィアの路地と同様、通路が迷路のようだ。自分の部屋に行き着くのにひと苦労。
日本の旅館で、2号館、3号館と増築して通路が複雑になっているものがあるが、あれと似ている。

ヴェネツィアのホテルの浴室は水はけが悪く、浴槽に溜めた大量のお湯を排出すると浴室の排出口から汚い水が出て来てびっくりした。

当時、巡礼の途中にヴェネツィアに立ち寄ったバッサウの司教が、宿屋をこう評している。
「ストーブも下水もなく、衛生設備は何もない。ベッドは貧弱で、調度はガタガタに傷んでいる。だが、ヴェネツィアの宿の主人たちは、寝室を花で飾ると言う喜ばしい習慣を持っている」

花はありませんでしたが、ヴェネツィアングラスの明かりが花を咲かせていました。
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9月9日。
ヴェネツィアの観光開始。
今日の午前は他のツアー客と主要個所を観光する。そして午後の自由時間に、いよいよマルコ・ポーロの家と埋葬地を探しに行く。

肉眼で見るサン・マルコ広場に感激!
13世紀のサン・マルコ広場は今ほど路面が高くなく、画像右端の鐘楼もまだ低く工事を継続していた。
現在の路面は1722年にトラカイトとイストリア石で敷かれた物。
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三方をアーケードのある建物で囲まれている。
北が旧行政館(画像左に見える)、南が新行政館、西がナポレオン翼。

13世紀のヴェネツィアは、「素朴な生き方とか、政治や商業における潔白とか、厳格高尚な精神といったものはほとんど期待されず、市内は仕事と快楽、情熱と悪徳で常に沸き返っていた」。
「道徳や習慣に厳しい事は一切なく、ヴェネツィアの女はその無節操さでイタリア中に聞こえ」ていた。
隔離後のゴッサムシティみたいな所だったのか?

しかし「市民は本質的には明るく、享楽的で、屈託なく、今と変わらなかった。彼らのカレンダーは、多くの楽しい華やかな聖人の日や、祭日で一杯だった」。
そういえばヴェネツィアの男性は至る所気楽そうに鼻歌を歌っていた。

サン・マルコ運河に面したサン・マルコ小広場。
画像左側はドゥカーレ宮殿、右側はサンソヴィーノ図書館。
ドゥカーレ宮殿の柱廊の近くはブローリオ(策略)と呼ばれ、貴族達が歩きながら策略を巡らした場所。
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2本の大理石の太い柱はフェニキアのチュロスからの略奪品で12世紀に運ばれて来た。3本目の柱もあったが近くの海中に沈んだらしい。2本の柱は長らく横倒しにされていたが1172年に技師ニコラ・バラッチエリが立たせる事に成功した。

右の柱の上には聖テオドルスの像が置かれた。聖テオドルスはポントゥスで殉教したギリシア人兵士でヴェネツィアの最初の守護聖人。ワニを踏んでいる。頭はポントゥス王ミトリダテス像から、胴体はローマ時代の彫刻の一部と考えられている。
左の柱の上はヴェネツィアの象徴、「サン・マルコの獅子」だが、マルコ・ポーロの生存中には置かれていなかった。

13世紀、この2本の柱の間に賭博台が置かれていた。バラッチエリがヴェネツィアにおける賭博の独占権をもらった事による。また、ギャンブルと同時に処刑や拷問もこの柱の間で行なわれるようになった。

当時、この近くの波止場には、ヴェネツィアの輸出品(ガラス、塩、魚、木工品、織物、錬鉄)や、東洋と西洋の積み替え用の荷物(絹、香辛料、宝石、各地の織物)、ギリシャ等の寺院から略奪した大理石の石材が山積みされていた。
ヴェネツィアは中世ヨーロッパ最大の商業都市であり、貨物の集散地だった。

左奥に見えるサン・マルコ運河の向こうのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会は、当時は鐘楼がなく小さな建物だった。

ドゥカーレ宮殿の中庭。
通常のサイズに伸ばして見てください。パノラマ合成が完璧に失敗しています。
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ドゥカーレ宮殿はヴェネツィアの統領の政庁。
810年に城砦として作られたが、残念ながら今の建物は14~15世紀のもの。
12世紀の建物も一部残っているらしいが、どこにあるかわからない。
中庭は16世紀に造られ、画像奥に見えるブロンズの井戸も16世紀。
中庭の北側にはサン・マルコ寺院がある。

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その1

イタリア本土とヴェネツィア本島(ジューデッカ島)を結ぶリベルタ橋からヴェネツィアを望む。心躍る光景だ。
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ヴェネツィアは100以上の島、100の運河、400の橋があると言われる。

マルコ・ポーロの生きた1254年~1324年のヴェネツィアは、東方貿易を巡るジェノヴァとの抗争の時代だった。この頃のヴェネツィアとマルコ・ポーロの動きを年代順にまとめてみた。

1204年、ヴェネツィアの統領ダンドロが第4回十字軍と共にビザンツ帝国を崩壊させ、新たにラテン帝国を建国した。これによりクレタ島などの新領土を大幅に増やし、東方貿易において圧倒的優位に立った。
1230年、ドミニコ会とフランチェスコ会が到来。教会の建造を始める。
1254年、父ニコロと叔父マッフェオがコンスタンチノープルに向け旅に出る(背景としてヴェネツィア商人の東地中海における優位があった)。
ヴェネツィアでマルコ・ポーロ誕生。
その後ニコロとマッフェオはラテン帝国とビザンツ帝国間の不穏な動きを察して黒海方面に移動。最終的に中国まで行くことになる。
1261年、小アジアに逃れて抵抗していたビザンツ皇帝がジェノヴァと共同してラテン帝国を倒し、ビザンツ帝国を再建した。ヴェネツィアは苦境に。ジェノヴァとの抗争が激化。
1268年、ロレンツォ・ティエポロが統領に選ばれる。
1269年、ニコロとマッフェオが中国の上都(=シャンドウ、ザナドゥ)からヴェネツィアに帰還する。

1270年、ニコロ、マッフェオ、マルコが中国に旅立つ。
1274年、上都に到着。
1282年、教皇マルティヌス4世が、フランスのアンジュー家のシチリア王復位への助力を断られた腹いせに、ヴェネツィアに聖務停止令を出す。あらゆる宗教行事が禁止に。
1285年、地震と洪水が発生。
1290年、ニコロ、マッフェオ、マルコが中国を出発。
1291年、十字軍の根拠地、パレスチナのアークル(=アクレ、アッカ)がエジプトのマムルーク朝に占領される。ヴェネツィアはイスラム教徒との協定でキリスト教巡礼者の護衛に関する独占的権利を得る。これにより東方貿易で優位に立つ。ジェノヴァが反発。
1294年、ライアスの海戦でヴェネツィアがジェノヴァに敗れる。
1295年、ニコロ、マッフェオ、マルコがヴェネツィアに帰還。

1296年、マルコがジェノヴァ軍に捕まる。牢獄内で東方見聞録の作成開始。
1298年、クルゾラ沖の海戦でヴェネツィアがジェノヴァに大敗。東方見聞録の作成完了。ニコロ・ポーロ死亡?
1299年、ミラノのマテオ・ヴィスコンティの仲裁で、ヴェネツィアは不利益を被ることなくジェノヴァとの停戦条約に調印する。マルコが釈放されヴェネツィアに帰還。
1309年、フェラーラのエステ家の後継者問題でヴェネツィアとローマ教皇が対立。クレメンス5世がヴェネツィアと市民を破門する。ヨーロッパ各地で商業活動に深刻な影響。
1310年、上記の問題に乗じてマルコ・ケリーニが反乱を起こすが失敗する。
1310~1318年、マッフェオ・ポーロ死亡。ヴェネツィアが多額の罰金をローマ教皇に払い、破門を解除される。
1321年、ダンテがヴェネツィアを訪れる。
1324年、マルコ・ポーロ死亡。
1347年、大地震。
1348年、黒死病が伝染して荒廃する。

災害等はあったものの、商業活動地域の拡大、ジェノヴァの衰退、自身の政治体制安定度の高さから、このあとヴェネツィアは順調に発展を続け間もなく絶頂期を迎えることになる。

車が入れるのはローマ広場までで、ここからはモーターボートでホテルに向う。
ヴェネツィア本島内の交通手段は船と足だけだ。
目立つのは観光客ばかりで、そのせいか落し物をするとすぐに拾って声をかけてくれる。
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大運河を経てホテル近くの船着場へ。
建物の表玄関は運河に面してつけられている。
運河はメイン・ストリートなのだ。
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船着場からホテルまで細い路地を通る。
島内は至る所建物が密集して狭い路地が毛細血管のようだ。
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13世紀のヴェネツィアは既に土地不足だった。
市民の商品に対する飽くなき欲望を満たす為に、外国から労働者、技術者が連れてこられ、工場が次々に建てられた。
ガラス工場は、大評議会の命令でムラーノ島に移転させられた。

LA Caravellaという店で夕食。
1皿目の料理のトマトスパゲティは中々おいしい。
メインディッシュのサーモン・グリルはまあまあ。
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