012死海周辺(イスラエル)

イスラエル旅行・クムラン~その3(磨崖洞穴と陶工の作業場)

死海沿岸の、クムラン観光の続きです。

Fi2424846_0e ここは遺跡の東側にある、クムラン涸河の磨崖洞穴です。
(たぶん 31 44' 25.28"N 35 27' 28.29"E )

この周辺の崖には、多数の自然の洞穴があります。
こうした洞穴は、この宗教共同体に属する人たちの住居になったり倉庫になったりし、ある時は天幕に住んでいる人の隠れ家になった

イスラエル独立直前、パレスチナ分割案を巡って揺れた1947年の夏、ベドウィン族の少年が、行方不明になった羊を探していた。
この辺りの洞穴に石を投げ入れて確認していたところ、壷にでも当るような音がした為、中に入って調べて見ると、ヘブライ語の巻物多数が入った壷を見つけた。

これが考古学上の大発見と言われる“死海文書”でした。

死海文書の意義は、まずこの時代の数少ない文字史料である事、次にヘブライ語聖書の本格的写本として最古の物である事(この発見により、既存の物から一挙に千年も遡った)。

当時のユダヤ教を知る上で貴重であり、原始キリスト教誕生の背景を明らかにできる可能性があった。

この時発見された巻物は、当時の不安定なパレスチナ情勢のために管理ができず、人手に渡ってしまいました。
数年かけて、ヘブライ大学が買い集め、今は大学の死海写本館に収められています

その後、ユダの荒野の洞穴では、ベドウィン族が更に多数の巻物を見つけ、各考古学団体による調査も行われてきました。

ここで発見された巻物は、
・ 旧約聖書の正典の写本
・ 外典、偽典
・ 正典の注解書(正典の各節を引用して、「この意味は次のようである・・・」という言葉と共に注解を加えたもの)
・ クムラン共同体の規則書、祈祷文、感謝の詩編、戦いの書(世界の終末における、光の子(クムラン共同体)と闇の子(ローマとヘレニズム世界の支持者)の戦いについて書かれた)、黙示文学(終末論)、暦法、占星術、銅の巻物(周辺に隠された宝物のリスト)
がありました。

羊皮紙に書かれ、乾燥した気候の為、保存状態は良好でした

ここは南側にある、巨大な貯水槽です 31 44' 27.07"N 35 27' 32.43"E 。
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ここは陶工の作業場 31 44' 27.81"N 35 27' 32.50"E で、陶土を洗うための水鉢、貯蔵用ピット、ろくろを回す場所、2つの窯があった。
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これは、陶工の作業場のです 31 44' 27.36"N 35 27' 32.78"E 。
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これは遺跡の北東隅にある炊事場です 31 44' 28.74"N 35 27' 32.63"E 。
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崩れているのは、紀元前31年の地震によるものでしょうか?

第一次ユダヤ反乱の68年、ウェスパシアヌスはローマ軍と共に死海に侵攻し、反ローマだったであろうクムランを破壊しました

クムランで発見された「安息日礼拝の歌」の巻物と同じ物が、マサダ砦でも発見されています。
この事は、陥落後のクムラン共同体のメンバーが、マサダの反乱軍と合流した事を示しています。

マサダの陥落と共にローマ駐留軍も去りましたが、第二次ユダヤ反乱の時、ここは反乱軍の拠点になりました
再びローマ軍により鎮圧された時、ここは以降二度と歴史の表舞台に姿を現しませんでした。

観光を終えて、土産物売り場へ 31 44' 30.14"N 35 27' 32.82"E 。

クムランの土産物屋は品物が豊富でした
死海の化粧品(1個¥600位のAHAVAの石鹸(肌質により3種類あり)、死海の泥パック、死海の塩)、宗教グッズ、遺跡名所の木製組み立て模型、各種DVD、土器の複製品、その他多数。

この後、日没後の道をエルサレムへ。
死海からエルサレムの途中には、ナビームーサ、ワジ・ケルト、マアレー・アドミーム(良きサマリア人の宿)、ベタニヤといった観光地がありますが、暗闇の中、道沿いの標識が見えただけで、「こんな所なのかな~?」と想像するしかありませんでした。

18:00、今回の旅最後にして最大の観光地、エルサレム着。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・クムラン~その2(中庭と集会場)

死海沿岸の、クムラン観光の続きです。

ここは中庭です 31 44' 28.48"N 35 27' 32.11"E 。
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ここの奥には、動物の骨が発掘されたらしい。

遺跡の周囲には、多くの骨が発見されています。
それらは、ほとんどが羊や山羊、場合によっては牛の骨もあり、大型土器片の下や料理用の壷の中に入っていた。
恐らく、儀式的食事で用いられたと思われる

ここは前の画像の左隣の中庭
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奥の壁の向こう側は共同洗濯場だそうです。

この画像の右側は貯水槽、左側は染物作業場(文献によっては洗濯場)。
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ここは、儀式的食事が行われた集会場です 31 44' 27.78"N 35 27' 31.39"E 。
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この食事について、ヨセフスはユダヤ戦記の中でこう述べています。

「彼らは再び一箇所に集まり、麻布で腰を覆った後、冷水の中に身をつからせる
この潔めの後、彼らは入会の儀式を終えていないものが入室を許されない私室に集まる。
今や彼ら自身が潔められているので、彼らは聖なる宮に向うかのように食堂に向う。
沈黙のうちに席に着くと、パンを焼く者が彼らに順次(パンの)塊を配り、料理人は各自の前に一品だけ盛った皿を置く。
食事の前に祭司が感謝の祈りを口にするが、その祈りが終わるまで誰も食べたりはしない。
朝食が終わると、祭司は再び感謝の祈りを唱える
こうして彼らは、(食事の)始めと終わりに、生命を惜しみなく与えられる方として神に敬意を払うのである。」

彼方に死海が見えます。
死海沿岸は土が塩性で、居住するには不向きだったと思われます。
それで遺跡も、沿岸から離れたこの場所に造られたようです。

ここは集会場の隣の食器室です 31 44' 27.62"N 35 27' 31.12"E 。
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ここからは、小型広口瓶、水差し、大皿、小皿、鉢形土器など千個以上の容器が発掘された

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・クムラン~その1(塔と写経室)

死海観光の続きです。

死海の西北、周囲を峡谷に囲まれた泥灰土の台地にある遺跡、クムランに着きました。

南北100m、東西80mにわたる、このヘレニズム時代の建築群は、近くの洞穴で偶然“死海文書”が発見された事により、発掘された。

この遺跡が何なのか、要塞化された農業共同体、貴族の別荘、といった様々な意見が出ていますが、現在では大方の所、当時のユダヤ教の一派、エッセネ派の宗教共同体の施設とみなされています。

1世紀の地理学者、プリニウスは、著作「自然誌」の中でこう書いているそうだ


「死海の西側で、岸(から)の有害な蒸気の達しない所に、エッセネ派の孤立した部族が(住んでいる)。
それは、世界中の他の部族が及びもしない驚嘆すべき部族である。
女性を入れず、性欲を断ち切り、金を持たず、棕櫚(しゅろ=ヤシの一種)だけを伴侶としているからである。
来る日も来る日も、(人生の試練から)逃れたものたちの群れが受け入れられ、それと同じ数の、人生に疲れ、彼らの生き方に倣う為に運命の大波によってそこに追いやられた者たちが受け入れられている・・・」


当時、ユダヤ教の主流は、神殿祭儀を重視したサドカイ派と、律法に忠実である事を重視したファリサイ派の二つでした。

エッセネ派は、主流派と違って、禁欲的な隠遁生活を送っていたようです。
その目的は、やがて現れるであろうメシアの到来とこの世の終末に備える事でした


参考文献によると、彼らの考え方はこのようなものでした。


「基本的に彼らの思考を支配していたのは“二元論”である。
すなわち、光の力と闇の力、善の天使と悪の天使、また善人と悪人との間で繰り広げられている今や最高潮に達した宇宙規模の、闘争を目撃している証人が彼らであると信じていた。
彼らは自分達が神の選民であると考えていた
また、二人のメシアが現れると信じていた
祭司アロンのような祭司的メシアと王ダビデのような帝王的メシアである。
更に第三の、預言者としてのメシアも現れるはずであった。」


また、エッセネ派を率いていた「義の教師」と呼ばれる人は、もともとエルサレム神殿の大祭司、ツァドク家の人間だったそうだ
しかし、セレウコス朝の内紛に乗じて大祭司になった下級祭司マカバイ家のヨナタン(あるいはその兄弟で、ユダヤ人王朝ハスモン朝の初代君主シモン)に反発して、エルサレム神殿と袂を分かち、マカバイ家を悪の祭司と呼んだ
エッセネ派の目的は、エルサレム神殿を奪回してその祭儀の改革を行う事でもあったようで、このクムランで行われていたであろう礼拝は、本来エルサレム神殿で行うべき犠牲祭儀の代用だったそうです。
これだと単なる権力争いですね。

参考文献によると、クムランの共同体の生活はこのような物でした。


夜明け前に起床し、祈りを捧げた後、午前11時まで工芸品製作や、農作業に励む。
その後、入浴して、白い聖衣に着替えて集合し、食事を行う。
これは祭儀の一部だった。
その他、聖典を読み、律法を勉強し、祈りを唱え、夜警に立った
エッセネ派が使用した古いユダヤの暦は、安息日と祝祭日が重ならないようになっており(ユダヤ教主流派の使う暦は重なる事があり、問題になっていた)、安息日には、火を灯したり調理したり排便する事さえ禁じられていた


画像は、監視塔 31 44' 28.85"N 35 27' 31.58"E 。
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夜警はここに立っていたのだろうか?

画像は、紀元前8~6世紀の貯水槽 31 44' 28.73"N 35 27' 30.51"E 。
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ここに最初に居住が行われたのは、古代イスラエル王国の時代だった。
旧約聖書には、「塩の町」として記載されている。

当時は、長方形の建物の前に中庭があり、そこには円形の貯水槽があった。
これはその貯水槽だと思われる。

この町は、南ユダ王国の滅亡と共に破壊された。
その後、ヘレニズム時代に再び人が住むようになった。

ここは作業場の近く
画像にあるのは粉引き器とパン焼釜?
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これも貯水槽
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クムラン遺跡の特徴は二つある。

1つは貯水槽がやたらと多いこと。これは、乾燥地帯の飲み水を確保する為に、少ない雨水を溜めておく必要があった事、それに、儀式的沐浴を行う必要があった事による。
周囲の山地から雨水が水路によってここに運ばれ、北西の沈殿用貯水池に入った後、遺跡内の水路によって、各貯水槽に導かれた。

特徴の2つ目は、居住区域が無い事だった。
この遺跡の西には、当時の墓が1100ヶも見つかっており、この付近に大勢の人がいた事は確かでした。
恐らくこれらの人々は、この付近に天幕を張ったり、洞穴で暮らしていた
そしてなつめやしを栽培したり、羊の放牧、場合によっては死海で取れる塩やアスファルトで生計を立てていた。
そしてクムラン遺跡に集まって宗教祭儀を営んでいた

これは写経室 31 44' 28.29"N 35 27' 31.61"E 。
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漆喰を塗った泥土のレンガでできた、3つのテーブルが発見された。
また、壁に沿ったベンチや、インクの壷が発見された。
ここでは書記たちが旧約聖書などの写本を作っていたと思われる

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エン・ゲディ

死海観光の続きです。
Fi2412695_0e ここは、エン・ゲディにある温泉らしいです 31 25' 02.21"N 35 22' 43.87"E 。
さすがに冬でも多くの人が訪れているようです。
エン・ゲディは、死海西岸のオアシスの町です。
町は古代オリエント時代から存在し、ヘレニズム時代にも存続していました。
第一次ユダヤ反乱の際には、シカリ(短剣)党に襲撃されるなど、戦いにより破壊されました。
その後、ローマ軍が駐屯するユダヤ人の村になりましたが、第二次ユダヤ反乱の際には、反乱軍に占拠されて、重要な軍需補給港になりました
南岸及び東岸から小麦を仕入れていたようです。
エン・ゲディとマサダの間のユダの荒野にある、ツェエリム渓谷には、恐らくエン・ゲディ付近の裕福な住人の避難場所と思われる洞穴が見つかっています。
第二次ユダヤ反乱が収まるまで、避難していたと思われ、貯水槽や、日用品の他、多数の貯蔵用の壷と食べ残した食料(様々な実や豆、動物の骨)が残されていたそうです。
人骨や貴重品が残されていない事から、恐らく無事帰還できたのでしょうか?
Fi2412695_1e ここは、エン・ゲディのアルゴット川渓谷の入口だと思います 31 27' 35.49"N 35 23' 43.43"E 。
流域には、テル・ゴレンと呼ばれる紀元前7世紀からビザンツ時代にかけての、住居群や砦があります。
ヘレニズム時代の高度な灌漑施設が残っていて、当時、バルサム樹の栽培による香料生産や、ぶどう、ナツメヤシの栽培が行われていたそうです。
また、より河口に近い場所には、シナゴーグ遺跡が発掘され、鳥や孔雀のモザイクや、罪を犯した者への呪いの銘文などがあるそうです。
Fi2412695_2e ここは、エン・ゲディのダビデ川渓谷の入口です 31 28' 10.07"N 35 23' 34.18"E 。
川の名前からわかるように、古代オリエント時代に、ダビデはこの付近の洞穴、「山羊の岩」に身を隠しました
ダビデはその有能さから、サウル王の嫉妬を買い、ユダの荒野を放浪する身になった
その時、この付近に隠れ、神に対して、「憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。」と心情を述べた。
(旧約聖書・詩編・57編2節 新共同訳より引用)
そして、サウルが彼を追ってこの地に来たとき、たまたま用を足そうとして入った洞穴に、ダビデとその部下がいた。
ダビデは、サウルが「神に選ばれた主君」である事を理由に、部下達に襲うことを禁じた。
それを知ったサウルは、声を上げて泣き、「お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。主によってわたしに誓ってくれ。わたしの後に来るわたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることはない、と。」と言って去った。
(旧約聖書・サムエル記上・24章 新共同訳の一部を引用)
この渓谷の奥には、高さ185mのダビデの滝があります( 31 28' 20.35"N 35 22' 42.90"E 周辺)。
また、その近くには、紀元前3500年頃の宗教的建造物が発掘され、その中庭の中心には円形の祭壇があるそうです。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その6(蛇の道)

死海周辺のマサダ観光の続きです。
Fi2410527_0e これは、熱心党の居住区だと思います 31 19' 00.51"N 35 21' 17.99"E 。
熱心党は、ヘロデ時代の建築物を解体して自分達の住居を作りました。
特に木材が必要とされました。
砦の周りの城壁と塔は、熱心党の家族の住居になりました。
これらからは、皮革製品、籠、ガラスや青銅、石の容器が見つかっています。
またそれらの部屋の隅からは、家族が所有物に火をつけて燃やした跡が見つかっています。
ローマ軍に何物も渡さないと言う、抵抗の表れでしょうか?

マサダの観光が終ったので、山を降ります。
画像は、崖につけられた蛇の道
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時間があれば歩いてみたかったです。
当時、ここに水や物資を運んだ人たちが、どれだけ大変だったかを実感できたかもしれない。

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蛇の道について、作家ヨセフスはこのように述べています
「それに沿って歩く事は、綱渡りで平衡を取るようなものだ。
少しでも滑れば命がない。
常に片側には深淵が口を開け、その恐ろしさは勇猛の士でも震える程である。」
今回は、見所が多い北側だけの観光でしたが、西の宮殿やビザンツ時代の教会のモザイクも見たかったなあ。
あと、頂上の城壁沿いを一周して、マサダの広さを体感したかった。
南側には、大プール地下墓室もあるそうです。
これも一目見たかった。
そんな訳で、降りるのが残念でしたが、次の観光地、クムランに向います。

ここで、今までに何度も登場している歴史家のフラウィウス・ヨセフスについてまとめます。
その著作、「ユダヤ古代史」と「ユダヤ戦記」は、ユダヤ人の歴史を知る上で重要な史料になっています。
ヨセフスは37年頃に名門祭司の家柄に生まれ、若い頃から預言者として意識していたそうだ。
26歳の頃、ローマに行って見聞を広め、ローマの上流階級に知己を得る。
第一次ユダヤ反乱が起きると、不本意ながら反乱軍側のガリラヤ指揮官となり、軍隊と防御施設の強化に努めた。
しかしウェスパシアヌスのローマ軍の力は圧倒的で、ヨタパタの決戦で敗れて捕虜になった。
この時、最期に残った全員で自決する約束をしながら、自らはローマ軍に投降した。
更に、ウェスパシアヌスの好意を得ようとして、ウェスパシアヌスが将来ローマ皇帝になる事を預言した。
まもなくこの預言は的中し、ウェスパシアヌスはヨセフスを解放した
しかも、ウェスパシアヌスの家名であるフラウィウス姓を名乗る事を許されるなど、様々な特権を与えられた。
エルサレム包囲の際は、ローマ側の使者として反乱軍に降伏を促した。
陥落後はローマに住んだが、ユダヤ人から裏切り者の烙印を押され、たびたび非難された。
その中で、様々な著作を完成させた
ユダヤ古代史」は、天地創造から第一次ユダヤ反乱勃発直前までのユダヤ人の歴史。ユダヤ人の歴史を広く世に知らしめる為に著されたという
ユダヤ戦記」は、第一次ユダヤ反乱を中心にした紀元前2世紀以降のユダヤ人の歴史。
フラウィウス朝ローマ帝国を賞賛し、これへの反乱を戒める目的で著されたという
内容的には、ローマ、ユダヤ双方の戦争責任を解除しようとしているそうだ。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その5(北西側パノラマと西の宮殿)

死海周辺のマサダ観光の続きです。
これは、ヘロデの北の宮殿の上段テラスから見た、北西側の景色です。(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
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画像の右端(北)から左側に目を転じると、ユダの荒野の絶壁の台地が迫っています。
ユダの荒野の渓谷には洞窟があって、人が居住した形跡が見られます(後述)。
この台地上には水路がいくつかあって、マサダ砦まで伸びています。
たまたまユダの荒野に雨が降ると、この水路を伝って砦の貯水槽に流れ込むようになっていました。
これを再現する模型が置かれていました。
さて、画像中央から左の台地上に、四角い囲いがいくつか見えると思います。
これはローマ軍の陣地跡です。
そして、左端手前に向って坂道が伸びているのが、ちょっとわかると思います。
( 31 19' 01.11"N 35 21' 07.69"E )
マサダを攻めあぐねたローマのユダヤ総督シルウァは、陣地のある台地上から、マサダ砦の頂上まで、高さ80mの巨大な坂道を造りました
造っている間、敵を近寄らせない為に、頂上に向けて矢や石を発射する攻城塔を建てました。
そして、坂道が完成すると、その上に投石器と破城槌を引き上げて、砦を攻撃させました。
守る方の砦もすごいですが、攻める方のやり方もスケールが大きいです。
反乱軍は必死に抵抗しましたが、ローマ軍は遂に頂上を囲む城壁を破りました
その翌朝、ローマ軍が頂上に入ると、辺りは実に静かで、ただあちこちで炎が燃えているだけでした。
反乱軍は、建物に火をかけて、ことごとく自決していました
ただ7人の女性と子供のみが生き残りました。
ヨセフスのユダヤ戦記に、この最後の様子が描かれています。

ああ、なんと痛ましい運命の犠牲者達よ。
彼らは己の手で最愛の妻子たちを殺したが、それがその場合に最も軽微な罪に思われたのだ。
とは言え彼らは、己の手でなした事に激しく苦悶し、殺された者より一刻でも長く生き長らえれば、それだけ彼らに不正を働いているように思われた。
彼らは、時をおかず自分達の所持品を積み上げると、それに火を放った。
そして自分達全員の処刑者として10人の者をくじで選出すると、それぞれ妻子の傍らに横たわり、彼女達を腕にしかと抱くと、この痛ましい勤めを果たさねばならぬ男達の一撃の前に首を差し出した。
男達は逡巡する事無く全員を殺害した。
その後、彼らは同じように自分達の運命をくじに託した。
すなわち、くじを引き当てた者が他の9名を殺害してから最後に自決することになった。

貯蔵庫の入口付近で、この時のくじと思われる11個のオストラカ(陶器の破片に記された文書)が発見されました(現在、北側の一角に展示されていました)。
ここにはそれぞれ同じ筆跡で、ベナナタム、ハエメキ、ベナフティ、ズィダ、マルタ、グリダ、ヨヤブという名前の他、反乱軍の司令官であるベン・ヤイルの名前が書かれてありました。
ベン・ヤイルは、陥落したエルサレムからの脱出に成功した、熱心党の幹部でした。
マサダの陥落は、73年でした。
現在、イスラエル軍はここで入隊宣誓式を行い、「マサダを二度と陥落させない」と誓うそうです。

これは大浴場近くの床のモザイクだったと思います。
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蜂の巣形の六角模様があります。
手前のモザイクも何か描かれていたのでしょうか?

これは、反乱軍時代のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)です 31 19' 04.34"N 35 21' 11.51"E 。
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12.5×10.5mの長方形です。
画像の一番奥は北西、エルサレムの方角です。
画像を見ると、壁際に4段の泥漆喰を塗ったベンチがあるのがわかります。
このベンチの一部は、北の宮殿の柱が使われています。
また、中には5本の柱が立っていました。
画像右奥には聖書の保管室がありました。
ここで熱心党の家族が集まって、聖書の朗読を行ったのでしょうか?
部屋の隅の床下に、旧約聖書(申命記とエゼキエル書)が隠されているのが見つかったそうです。
ローマ軍に占領される前に、急いで隠したのかもしれません。
建物の下には、ヘロデ時代のシナゴーグ跡が見つかっています。
このシナゴーグの北には、漆喰塗りのプールが見つかっているそうです。

Fi2406965_3e これは、ビザンツ時代の教会です 31 19' 00.41"N 35 21' 11.70"E 。
砦が陥落した後、しばらくはローマ軍が駐屯していました。
その後、5~6世紀には、修道僧が住んでいました
細長い礼拝堂に、聖器保管室と住居が付属していました。
聖器保管室には、縁を、花、ざくろ、いちじく、オレンジ、ぶどう、十字架と卵の籠、幾何学模様で飾られた、赤黒白黄色のモザイク床がほぼ完全に残っているそうです。

Fi2406965_4e これは、西の宮殿です。
( 31 18' 58.26"N 35 21' 10.66"E )
ヘロデ王が建てた西の宮殿は、マサダで最大の建築物(4000平方m)です。
ここはマサダの管理と、儀式の為に用いられたそうです。
王の住居、仕事場、長さ70mの貯蔵室、管理室、高官の住居から成っています。
王の住居には、玉座が置いてあった部屋、寝室、食堂、広間、執務室、浴場があるそうです。
広間、浴場では色鮮やかなモザイクが見られるそうです。
反乱軍の時代には、管理事務所として使われたそうで、数百の焼けた矢が見つかっているそうです。
また貯蔵室の破壊された壷には、「圧搾したいちじく」等々の名前が書かれていて、いちじく菓子が貯蔵されていたようです。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その4(北の宮殿からのパノラマ)

死海周辺のマサダ観光の続きです。
これは大浴場の熱浴室の外側にある、です。
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ここで火を焚いていました。
浴場は、反乱軍の時代にも使われ続けたそうです。

画像は、北の宮殿の入口付近から、南側を見た所です。
(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
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画像右には、今入って来た大浴場があります。
画像の左から中央にかけて広がっているのは、公共の貯蔵庫です。
手前(北)にあるのは、20×3.8mの細長い貯蔵庫の列です。
その床と天井には粘土が塗られています。
また、奥(南)にあるのは、27×4mの細長い貯蔵庫の列です。
一部の部屋には、全面に水硬モルタルが塗られていて、床には壷を立たせる為の二列の窪みがつけられています。
ここには、油、ぶどう酒、小麦粉が壷に入れられて貯蔵されていたようです。
ヘロデ時代の数百の壷の破片が見つかっています。
反乱軍の時代にも、ここは貯蔵庫として使われていました。
壷には、この時代にインクと炭で書かれた名前が記されているそうです。
また、大量の青銅貨幣や、食料の配給に使われたと思われる、数百のオストラカ(陶器の破片に記された文書)が見つかっています。

これは、北の宮殿の上段テラスから、真下を見た所です。
( 31 19' 07.51"N 35 21' 15.19"E )
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北の宮殿は、北端の崖の3段のテラスの上に築かれたヘロデ王の宮殿です。
上段のテラスは居住用に作られ、中、下段のテラスは歓待と休養の為に作られたそうです。
画像の中央に見える円形の構造物は、ここから20m下にある、中段テラスです 31 19' 08.14"N 35 21' 15.39"E 。
この円形構造物は直径15.3mで、この上に2列の柱が丸く立ち並んだ、屋根を持つ建物が建っていたと考えられています。
また、この建物の南側(手前)には、壁画で飾られた大広間があったようです。
中段テラスの上に少し見えているのは、下段テラスです 31 19' 08.55"N 35 21' 15.39"E 。
中段テラスの15m下にあります。
17.6×17.6mの正方形の土台の上に、柱廊で囲まれた正方形の部屋があったと考えられています。
部屋の壁には窓が作られ、外の眺めを見ることが出来たようです。
今私が立っている位置は、上段テラスです。
半円形のバルコニーと、南側の居住棟から成っていましたが、中、下段テラスと同様、建物はもうありません。
居住棟は中庭を挟んで東西に部屋があったようです。
このように、北の宮殿は円形や正方形の建物が建ち並んだ、凝った造りの贅沢な建造物だったようです。
反乱軍の時代には、ここはその特殊な位置から、防御用の拠点として使われたようです。
居住用には使われず、むしろ宮殿の柱、床、天井は、頂上にある居住地を造る為に運び去られたようです。
下段テラスの東の浴場には、指揮官の家族と思われる男女と子供の遺体が発見されました。
地面には血痕らしきものがあり、側には手紙と鎧の一部、サンダルが置かれていました。

これは、上段テラスから眺めた東側の景色です。
(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
Fi2403245_3e
奥のほうに死海が横たわっています。
右側は陸地が覆っていますが、これは死海の中間地点で、北湖と南湖をつなぐ水路が通っています。
砂漠が広がるだけの死の世界。雄大な光景に圧倒されました。
こちらは上の画像の左側、北東側の景色です。
(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
Fi2403245_4e
左側にユダの荒野の絶壁が迫っています。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その3(大浴場)

死海周辺のマサダ観光の続きです。
北側にある大浴場の中に入りました。
( 31 19' 05.56"N 35 21' 14.63"E )
これは更衣室です。
Fi2399318_0e_2
壁はパネル画で装飾されており、天井は幾何学模様と植物図案で装飾されていました。
画像でかすかにわかりますが、床は交互に変わる黒と白の三角タイルが舗装されています。

更衣室の南側に温浴室があります。
Fi2399318_1e
これはぬるめのお湯に浸かる物です。
壁はパネル画で装飾され、床は黒か白で色分けされた三角と四角のタイルで舗装されたそうです。
画像ではよくわかりません。

温浴室の西端に冷浴室があります。
Fi2399318_2e
水硬モルタルを塗った段のついたプールです。

温浴室の東には、熱浴室があります。
Fi2399318_3e
ここは熱めのお湯に浸かる所です。
これは浴場の中で最大の部屋で、北側の壁が半円形のドームになっており、この下に円形で平らな石英でできた水盤があって、その中に浸かりました。
この部屋の壁は特に厚く出来ています。

熱浴室の床
です。
Fi2399318_4e
床板がなくなっていて、その下の構造を見ることが出来ます。
床下は中空になっていて、レンガや石でできた高さ65cmの200本の柱が床板を支えていました。
この床下や、壁に付けられた長方形の粘土管には、水蒸気が充満するようになっていて、熱気が部屋内に溢れるようになっていました。
要するにサウナです
大浴場の外に出ます。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その2(城内パノラマ)

死海周辺のマサダ観光の続きです。
画像は、頂上の北にある石切場の西から、南側を見た所です。
(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
Fi2396770_0e
まず、頂上の周囲を城壁が囲んでいるのが解ると思います。
その全長は1.4キロあります。
この崖の白雲石を切り出したものです。
城壁はただの壁ではなく、中が中空の部屋になっています
外壁は1.4m、内壁は1mの厚さで、中空部分は4m、城壁全体の幅は6.5mになります。
また、高さは4,5mです。
城壁には、70の部屋、30の塔、4つの門が備え付けられています。
城壁の内側に散らばる建物を見てみます。
まず、画像の右(西)から。
城壁の所々にひときわ高くなっているのは、です。
その城壁をずっと左に辿っていって、中央やや右に見える四角い穴がある建物は、西の門だと思います。
ここからは見えませんが、その西側には傾斜路が続いています。
画像中央付近の奥に見える屋根付きの建物は、西の宮殿(後述)、そのやや手前にある石造りの建物は、ビザンツ時代の教会(後述)。
画像左側から中央にかけての奥に、二つ四角い建物が見えますが、これは小宮殿です。
小宮殿はヘロデ時代の宮廷官僚によって使われたと考えられ、中央の庭と、南側に2本の柱がある広間があるそうです。
右側の建物 31 18' 56.07"N 35 21' 12.43"E の西側には、衣服を置く壁龕(壁のくぼみ)があるプールがあるそうです。
これらは反乱軍時代には多くの家族の住居になりました。
右側の建物には裕福な家族がいたと考えられ、雪花石膏と金でできた贅沢品の容器が見つかっているそうです。
また、左側の建物 31 18' 55.27"N 35 21' 14.62"E は、かまどが設けられて壁画をその煤が覆っていたとの事です。
また、部屋の1つには家具や財産が集められて燃やされた跡があるそうで、反乱軍が最後に燃やしたのかもしれません。
画像の左側、手前に大きく広がっているのは、恐らくヘロデ、ローマ時代の衛兵の兵舎です 31 19' 01.67"N 35 21' 13.50"E 。
中央の庭を中心に9個の居住区画が囲んでいます。
それぞれの居住区画には、庭と二つの部屋が付いています。ここは、マサダの陥落後にローマ兵が駐屯していたようです。
これは石切り場です 31 19' 03.34"N 35 21' 14.94"E 。
Fi2396770_1e
建設材料を切り出す為に使われたのでしょうか?
また、その上にが見えます。
塔は、城壁の一部で、35~90mの間隔で設置されていました。
そのいくつかには、最上階に至る階段が付いていました。
反乱軍時代には、塔は公共の部屋か皮なめし場やパン工場として使われたそうです。

これは石切り場の近くにある部屋の壁画です。
Fi2396770_2e

これは更に北にある、貯蔵庫群(後述)です。
( 31 19' 04.86"N 35 21' 15.20"E 周辺)
Fi2396770_3e
その背後にある建物 31 19' 04.63"N 35 21' 13.54"E は、用途はよくわかりませんが、中庭を部屋で囲まれているそうです。
この建物に付設された貯蔵室には、上等なぶどう酒や武器など、特別な品物が保管されていたようです。
この建物もヘロデ時代の宮廷官僚によって使われたものなのでしょうか?
反乱軍の時代には、祭儀用の浴場と水泳プールが追加され、多くの家族が住んだようです。
食べ物であるなつめやしの堆積が見つかっているそうです。
この画像も貯蔵庫群です(手前)。
Fi2396770_4e
画像右手奥にあるのは、北の宮殿(後述)で、北側の一角を占めるテラスになっています。
宮殿の入口は、画像の人が立ち並んでいる辺りにあったと思われます 31 19' 06.57"N 35 21' 15.63"E 。
画像左手奥にあるのが大浴場 31 19' 05.56"N 35 21' 14.63"E 。
ヘロデ王は、こんな場所にも大量の水を必要とする豪華な浴場を造りました。
ここは庭と4つの部屋から成っています。
大浴場の部屋に入ります。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その1(東側のローマ軍陣地)

死海観光の続きです。
Fi2393421_0e 世界遺産のマサダに着きました(画像中央の台地)。
マサダは、死海西岸の南部にある要塞と宮殿の遺跡です。
孤立した岩壁の頂上にあり、東側(画像で見えている方)は地面から400mの高さ、西側(裏)は周囲から100mの高さです。
といっても、死海は海抜-400mの高さなので、マサダの頂上が海抜0mになります
頂上は細長い菱形で、南北600m、東西300mです。
画像の台地の右端(北)が階段状になっていますが、ここは宮殿が置かれた場所です。後で真上から見ます。
マサダの登り道は東西南北にありますが、東側の「蛇の道」が有名です。
現在は画像の通り、ロープウェイが架かっていて、楽に登れます 31 18' 45.02"N 35 21' 39.04"E 。
Fi2393421_1e
右側の斜面に見えるジグザグの道、これが「蛇の道」です。
マサダは、ヘレニズム時代マカバイ家の反乱指導者で、後に大祭司になったヨナタンが造った要塞です。
その後紀元前73年以降、ヘロデ王は、要塞を増強し、城壁、塔、北と西の宮殿、浴場、倉庫を造りました。
当時ヘロデ王は二つの危険を抱えていました。
1つは、ユダヤ人が独立王朝を作るために自分を倒す事、もう1つはより重大なのですが、エジプトの女王クレオパトラからの攻撃でした。
これらの危険に備えて、避難所として造りました。
実際、紀元前40年に起こったアンティゴノスの反乱のとき、ヘロデは支援を求めてローマに向ったが、その間、家族を800人の男達と共にマサダに非難させました。
アンティゴノスはマサダを包囲しましたが、ヘロデが帰還して救助しました。
Fi2393421_2e ロープウェイに乗って下を眺めると、画像のような四角い遺跡がいくつか見えます。
これはローマ軍の陣地です 31 18' 46.45"N 35 21' 40.29"E 。
ヘロデの死後、ローマの支配下に置かれた66年、第一次ユダヤ反乱が起きました。
この時、熱心党(ゼロータイ)と呼ばれる過激派が、ここのローマ軍を追い出して一大拠点にしました。
しかし、70年にローマ軍によりエルサレムが陥落すると、他の要塞も次々と陥落していきました。
しかしマサダの要塞だけは落ちませんでした。
新しくユダヤ総督に就任したフラウィウス・シルウァは、ローマ第10軍団“フレテンシャス”を率いてマサダを包囲しました。
ユダヤ人奴隷を使ってマサダの周りに壁を作り、逃走出来ないようにした上で攻撃に着手しました。
しかし要塞攻撃は困難を極めました
Fi2393421_3e 画像は更に高度を上げて下を見た所。
左右にローマ軍の陣地が見えます 31 18' 47.81"N 35 21' 48.73"E 他。
マサダを囲む壁らしき物も見えます。
右側では、蛇の道を一生懸命登ってくる人たちが見えました。

ロープウェイが頂上に到着しました。
画像は蛇の道の最上部です( 31 19' 03.89"N 35 21'
16.90"E )。
Fi2393421_4e
ここまでよくぞ歩いて登ってきた!と声を掛けたくなります。
岩壁に据えられた橋の行く手に、蛇の道の門 31 19' 01.48"N 35 21' 17.29"E が見えます。
マサダに4つある門のうちの1つで、北東にあります。
内部は漆喰が塗られ、床は正方形の石で舗装されています。
その左右には城壁が連なっています。
これらの城壁は独立した部屋状になっています。
橋のすぐ下に見える溝は、たぶん水路だったと思います。
マサダには水源がないので、水を確保する事が優先事項でした。
当時はこの蛇の道を水を背負って登ってきました。
運ばれた水は水路を辿って貯水槽に流れ込みました。

ここで、第一次ユダヤ反乱についてまとめます。
大雑把なまとめは、ヘレニズム時代のユダヤ人の歴史の項番5へ。
ローマの支配になってから、独自の神を信仰するユダヤ人に対し、ローマの総督はたびたび皇帝崇拝を強要するなどの挑発行為を行ってきた。
その為、反乱に至らないまでも、ユダヤ人の暴動が度々起きていた。
66年、ユダヤ総督のゲシウス・フロルスは、私腹を肥やす為にユダヤ神殿の財宝を略奪し、兵士が暴力行為を行った。
これが反乱の直接原因になった(同じ頃カイザリヤで起きたユダヤ人とギリシャ人の土地を巡るいざこざも火種になったと言われる)。
ユダヤ民族主義を掲げる熱心党のメナヒムは、マサダを占領
それに対してユダヤ人貴族階級はローマ総督に武力介入を要請、ヘロデ王のひ孫アグリッパ二世はユダヤ人騎兵2千を送ったが、鎮圧に失敗する。
反乱軍はエルサレムの記録保管所の借用書を焼き捨て、エルサレムの城内に入った
穏健派のユダヤの大祭司は、シモン・バル・ギオラ率いる反ローマのシカリ(短剣)党により刺殺された。
シリア総督ケスティウス・ガルスが鎮圧に乗り出したが、冬が到来して食料調達が困難になり、撤退した所を反乱軍に待ち伏せされて敗退した。
エルサレムでは依然として穏健派が優勢だったが、この思いがけない勝利によって、反ローマに傾いたと思われる。
67年、ローマ皇帝ネロは、フラウィウス・ウェスパシアヌスを鎮圧に当らせた。
ウェスパシアヌスは長男ティトゥスにもエジプトから派兵させ、総勢6万になった。
彼は手始めにガリラヤ地方を掃討した。
この時、ガリラヤの反乱軍指揮官で後の歴史家・作家フラウィウス・ヨセフスが投降した。
ガリラヤの過激分子、ギスカラのヨハネはエルサレムに逃げ込み、熱心党の幹部になって町を支配した。
ウェスパシアヌスはユダヤ地方の大半を平定してエルサレムを孤立させた
しかし、ローマでネロ帝が自殺し、内戦が始まった。
東方のローマ軍団から皇帝に推戴されたウェスパシアヌスは、後事を長男ティトゥスに託してローマに帰還した。
70年、ティトゥスは2個軍団でエルサレムの包囲を開始した。
一方、エルサレム城内では、ギスカラのヨハネの恐怖政治に反対した市民が、シカリ党のシモン・バル・ギオラを呼んだ為、両者の間で内戦が始まった
その際、町の食料貯蔵庫も焼け落ちてしまった。
ティトゥスは巨大な破城槌でエルサレム要塞を攻め落とし、激しい白兵戦の末、神殿の丘を占領した。
その日は奇しくも、紀元前6世紀にバビロニアのネブカドネツァル王がエルサレムを陥落させた日と同じだった。
その後はローマ軍による殺戮と略奪が続いた。
71年、ティトゥスはローマに凱旋し、ギスカラのヨハネとシモン・バル・ギオラはローマで処刑されて晒された。
他の者は殺されるか奴隷になった。
事実上、反乱は鎮圧されたが、この時点でマサダはまだ陥落していなかった
そして、エルサレムから脱出したユダヤ人の一団があった。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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