010ナザレ周辺(イスラエル)

イスラエル旅行・エズレル平野

ツィッポリの観光を終え、後はひたすら死海に向います。
エズレル平原と呼ばれる平野を通って行きます。
エズレル平原は、南はギルボア山、東はベト・シェアン、西はハイファ、北は下ガリラヤ山地の範囲に広がる平野です。
古代の旧約時代から近代まで、多くの戦いが行われた地です。
Fi2362063_0e 画像は、タボル山 32 41' 11.41"N 35 23' 26.66"E 。
エズレル平原の北西端にある独立峰で、ナザレの南東10キロにある。
高さは588m、広さは800×400m。
ヘルモン山カルメル山と並んで有名な山です。
アケメネス朝がここに要塞を造り、作家ヨセフスもここに城砦を築いた。
イエスが変貌した山と見なされ(前述の通り、ヘルモン山を変貌の山とする説がある)、そのため熱心なキリスト教徒であったコンスタンティヌス大帝の母ヘレナが教会を建てた。
その後も教会が建てられたが、十字軍の時代、サラーフ・アッディーンが破壊し、後に要塞が建てられた。
13世紀末に要塞が破壊されると、6世紀の間そのままであったが、
19世紀にギリシャ正教が教会を建て、更にフランシスコ会が教会を建てて現在に至っている。
古代オリエント時代の、士師(カリスマ指導者)の時代に、ここで大きな戦いがありました。
この時代は、イスラエル人とカナン人がたびたび争った時代です。
当時、イスラエル人は各部族毎にバラバラに住んでいた。
しかし通商などの交流はあった。
戦車900台を擁するカナン人の王ヤビンは、それを妨害し、連絡を切断した。
この非常事態に際して、女士師デボラは、ナフタリ族のバラクに神のお告げを伝えた。
6部族から1万の兵を招集し、タボル山に行けと。
また、麓のキション川に布陣するであろうヤビン王の将軍シセラの軍勢を、お前の手に委ねると。
事はお告げ通りに進み、デボラとバラクがタボル山に布陣すると、シセラはキション川に布陣した。
山腹に布陣するイスラエル軍に対して戦車攻撃は無理であった。
バラクは命令一下、全軍でカナン軍を奇襲した。
同時に豪雨がカナン軍を襲い、キション川は氾濫して、馬や戦車はぬかるみにはまって使用不能になった。
戦いは、装備の貧弱なイスラエル部族連合の圧倒的勝利に終った(旧約聖書)。
Fi2362063_1e 昼食です。
たぶん、アフーラ近郊のキブツ経営のレストランだと思います 32 38' 57.35"N 35 17' 25.80"E 。
ここはセルフサービスのバイキングですが、サラダが30種位あったと思います。
肉料理もいくつかあって、チキンカツを頼みました。
隣にスーパーがありました 32 38' 58.44"N 35 17' 25.47"E 。カメラ用の電池もあり、品揃えは豊富でしたが、少し雑然としていて、田舎のスーパーという感じ。
Fi2362063_2e 奥に見えるのは、モレの丘だろうか?
また、ここはアイン・ジャールートの戦場だろうか?
モレの丘
32 36' 50.27"N 35 21' 58.87"E
標高518mの玄武岩の山。
頂上には、ネビー・ダヒーという祠がある。
古代オリエント時代の、士師の時代。
駱駝の遊牧民、ミディアン人がエズレル平原に進入してきて、モレの丘に陣取った。
士師ギデオンは、神のお告げにより、三百人の勇士のみでミディアン人を打ち破り、東ヨルダンの奥に追い払った(旧約聖書)。
アイン・ジャールート(巨人の泉)
13世紀、マムルーク朝のイスラム軍が、不敗のモンゴル軍を破った場所。
13世紀前半、モンゴル人はイランの強国、ホラズム帝国を滅ぼし、続いてヨーロッパではロシアを征服し、ドイツ、ポーランド、ハンガリーを打ち破った。
この後、彼らが中近東に押し寄せるのは明らかだった。
エジプト、シリアのアイユーブ朝のスルタン、サーリフは、モンゴル人の来襲に備えて、軍の強化に着手した。
彼は、生まれながらの騎馬民族で、弓矢の扱いがうまく、モンゴル人に恨みを抱いていた(たびたび襲撃されていた)キプチャク人のクマン族を買って、バフリ・マムルーク(奴隷による私兵)軍団を編成した。
彼らをモンゴル流の騎射部隊に育て上げ、モンゴルの戦術を教えた。
その有能な指揮官に、ルクヌッディーン・バイバルスがいた。
しかし、サーリフが死ぬと、死後の混乱で政権を握ったマムルークの長、アイバクは、サーリフの私兵であるバイバルスとバフリ・マムルーク軍団を追放した。
アイバクはマムルーク朝を建てた。
そのアイバクが暗殺されて、クトゥーズがスルタンになった頃、フラグ麾下のモンゴル軍はすでに中東遠征を開始していた。
バグダッドを落として住民160万とカリフを虐殺した。
そしてエジプトに向けて進撃した。
未曾有の危機に直面して、クトゥーズはバイバルスのバフリ・マムルーク軍団と和解し、共にモンゴルと戦う事にした。
モンゴル軍がパレスチナのガザに達した後、思いがけない幸運がもたらされた。
中国で、モンゴルの皇帝モンケが死に、後継者争いが起こったのだった。
兄フビライを支援する為、フラグは本隊と共に、帰還せねばならなくなった。
家臣のキトブカは3万~6万の兵と共にパレスチナに残った。
バイバルスはこの機を逃さず、12万の兵を率いて出陣した。
密かに十字軍と中立条約を結び、アッコーで十分休養を取った後、モンゴル軍の拠点、ダマスカスに向けて進撃した。
ナザレを南下してアイン・ジャールートに着いた時、キトブカのモンゴル軍と遭遇した。
バイバルスは軍を二手に分け、一軍を付近の渓谷に隠した。
もう一軍に対して、モンゴル軍は猛攻を加え、たまらず退却したイスラム軍を追撃した。
その時、背後から隠れていた一軍が襲いかかり、たちまち形成は逆転、モンゴル軍は惨敗し、キトブカは捕らえられた。
モンゴル流の装備、戦術で、本家を打ち負かしたのであった。
この戦いで、モンゴル軍の不敗神話は打ち砕かれた。逆にイスラム軍の士気は大いに上がった。
この後、フラグは報復の軍を起こそうとしたが、モンゴル帝国内では、皇帝フビライ派とカイドゥ派の間でカイドゥ戦争が起こり、フビライ派のフラグに対してカイドゥ派のベルケがバイバルスと組んで妨害した為、遂に目的が達せられずに死んだ。
その後のモンゴル軍に、昔日の勢いはもはやなかった。
Fi2362063_3e これはギルボア山の北側です。
32 29' 36.84"N 35 24' 39.74"E
ギルボア山は、高さ497mの石灰岩の東西に連なる峰です。
古代オリエント時代、イスラエルのサウル王はここでペリシテ人と決戦しました。
当時、イスラエル人とペリシテ人はたびたび争っていました。
有能な軍人であったサウル王は、ペリシテ人を何度も破っていました。
しかし、遂にペリシテ人は、その総力を結集してサウル王を潰しにかかった。
サウル王はペリシテの戦車軍団に備え、ギルボア山に布陣しました。
しかし、眼下に広がるペリシテの大群を見て、恐れおののいたサウル王は、密かに霊媒師の所に行った。
そこで、かつて彼を王にした士師サムエルの霊の助言を得ようとしたが、サムエルは彼の破滅を預言した。
重い気持で戦いに臨んだサウル王は、ギルボア山のゆるやかな南麓から攻撃したペリシテの戦車軍団に追い詰められ、息子達は戦死、イスラエルの軍は全滅した。
サウル王は生け捕りになるのを恐れ、自害した。
当時、サウル王に追放され、ペリシテ人に雇われてアマレク人と戦っていたダビデは、
サウル王の死を惜しんで、ギルボア山を呪った。
「ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ、お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな」(旧約聖書)
Fi2362063_4e ここは、ベト・アルファ近郊と思われます。
(たぶん、このあたり 32 30' 56.74"N 35 25' 47.25"E )
ギルボア山の北麓に位置しています。
ここのキブツ・ヘフチバのメンバーが、5世紀のシナゴーグを発見した。
ここには保存状態の良いモザイクの床があった。
トーラー(律法)聖櫃、十二黄道宮、アブラハムが息子イサクを捧げる図の、3つの場面が描かれているそうです。
製作者の親子は、モザイクに名を残しているそうです。
この後、ヨルダン川沿いに死海へ

バイバルスの生涯です。
バイバルスの功績は、中東に侵攻したモンゴルの脅威を取り除いた事パレスチナの十字軍の一掃をほぼ達成した事の2点だと思います。
彼は、1週間のうちにエジプトのカイロとシリアのダマスカスの両方で、ポロ競技を楽しんだと言われるほどの体力の持ち主で(もちろんカイロとダマスカスの間を自分で移動して)、17年の治世の間に38回も戦争し、その半分は自ら指揮した。
また熱心なイスラム教徒で、神学校や救済施設を多数寄進し、売春を禁じた。
中継貿易を振興するために、アレキサンドリア港を整備し、経済を発展させた。
モンゴルのイル・ハン国や十字軍国家に対抗する為、キプチャク・ハン国やビザンツ帝国と同盟・友好関係を結び、外交の才能を示した。
1223年?、モンゴルに荒らされた中央アジアで、キプチャク人として生まれる。
奴隷に売られたが、片目だった為買い手が付かなかった。
エジプトの武将、ブンドクダーリーが、その馬術の才を認めて買取った。
1246年、エジプトのアイユーブ朝のスルタン、サーリフのバフリ・マムルーク軍団に登用され、指揮官として頭角を現す。
1249年フランス王ルイ9世が率いる十字軍が、エジプトのカイロ近くのマンスーラに迫った時、バイバルスはバフリ・マムルーク軍団を率いて反撃し、危機を救った。
1250年、サーリフの死後スルタンになったトゥーランシャーが、サーリフの私兵であるバフリ・マムルーク軍団を廃して自分の私兵軍団を作ろうとしたため、サーリフの後妻シャジャルッ・ドルとバイバルスらによって暗殺された(アイユーブ朝が滅亡)。
シャジャルッ・ドルがスルタンに推戴されるが、女性がスルタンになった例はなく、アッバース朝カリフから批判され、彼女はバフリ・マムルーク軍団の長老アイバクと結婚して彼をスルタンにした(マムルーク朝)。
しかしバイバルスとバフリ・マムルーク軍団はサーリフの私兵で、アイバクに忠誠を誓わなかった為、アイバクにより襲撃され追放される。
1257年、シャジャルッ・ドルがアイバクを暗殺するが、その妻によって殺される。
1259年、摂政クトゥーズがアイバクの子を廃して、スルタンになる。
中東に侵攻したモンゴル軍がバグダッドを攻撃してアッバース朝カリフを殺した為、バイバルス及びバフリ・マムルーク軍団と手を結んでモンゴルに備えた。
1260年、クトゥーズ、バイバルスのマムルーク朝軍とキトブカのモンゴル軍がアイン・ジャールートで戦い、モンゴル軍が大敗する。
バイバルスはクトゥーズを暗殺してスルタンになる。
モンゴルに滅ぼされたカリフの一族をバグダッドから迎え、カイロでカリフ制を存続させた。
モンゴル国家であるキプチャク・ハン国と同盟して、敵対するイル・ハン国を牽制する一方、パレスチナから十字軍国家を一掃させる戦いを始めた。
1277年、イル・ハン国との戦いの後、ダマスカスの祝賀の席で馬乳酒を飲みすぎて死去。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ツィッポリ~その2

ツィッポリ(セッフォリス)観光の続きです。
Fi2358794_0e これは遺跡の中心にある、丘の上です。
画像の中央左寄り、丘の頂上にあるのが、十字軍の要塞です 32 45' 11.08"N 35 16' 46.17"E 。
その一部は、ローマ時代の石棺や切石を使ったそうです。
この要塞の姿が、丘の上に止まる鳥(ツィボル)のようだったので、ツィッポリになったという説がある。
現在は、発掘物の展示、コンピュータによる遺跡案内を行っている資料館になっているようです。
右側にあるのは、ローマ風の別荘(復元) 32 45' 11.99"N 35 16' 44.68"E 。
どう見ても現代の建物ですが、発掘現場を保護しているのでしょうか?
遺跡の中でも、かなり有名な発掘物です。
前述のナイルの祝祭の家より古く、3世紀前半に造られたそうです。
建物は2階建てで、広さは23×45mです。
遺跡は、真ん中に中庭があり、部屋が取り囲んでいました。
有名なモザイクのある横臥食堂は、中庭の北側に位置します。
ここには、陸橋を通って2階から入りました。

別荘に入ると、暗い中、眼下にスポットライトが当った大広間があります。
これは横臥食堂で、横臥しながら食事をしたり、娯楽に興じたりする部屋だったと思われます(ローマ時代は、一般的に床に肩肘を付きながら、片手で食べ物を取って食事していました。テーブルとイスは使いませんでした)。
ここの床には、ディオニュソスのモザイクと言われる、非常に美しいモザイクがあります(画像)。
Fi2358794_1e
これはT字型をしており、大きさは9×7mです。
ギリシャの酒の神ディオニュソスとヘラクレスが飲み比べをする場面が描かれています。
15個のパネルに、神話に題材をとった飲み比べと、当時行われていたディオニュソス信仰の様子が描かれています。
前述のナイルのモザイク(ビザンツ時代の作品)は、一部屋に1つの大きなモザイクが描かれていましたが、ローマ時代には、このように別々の場面のパネルの集合体でした。
中心のパネル(画像の中央やや上)には、ディオニュソス神とヘラクレスの飲み比べが描かれています。
その左側には、ディオニュソスの水浴びの絵があります。
画像下から2段目には、葡萄を足で踏んで絞っている様子が描かれています。
おそらくディオニュソス信仰の儀式の準備ではないでしょうか?
他にも信仰儀式の行列の場面などがあるそうです。
ディオニュソスに対する信仰は、ローマ帝国の至るところで行われていたようです。
このモザイクの周辺を、22個のメダリオンが取り囲んでいます。
画像の一番下には、メダリオンの中に描かれた女性像があります。
これは「ガリラヤのモナリザ」として有名な絵です。
最初見たとき、この女性の顔だけが大きく、美しいので、思わず溜息を漏らしました。
これが発掘された瞬間も、周りから歓声が上がったそうです。
後にこのモザイクのパネルのいくつかは、ビザンツ時代特有のナイル川流域の絵(裸の若者達が鳥とワニを狩っている絵)に差し替えられたとの事です。
このモザイクの価値は、大きく細やかで美しい事もさることながら、ギリシャ神話という虚構の出来事と、ディオニュソス信仰の儀式という現実の出来事を、組み合わせている事だそうです。
Fi2358794_2e これは、この辺に生えていたいなご豆です。
いなご豆は、パレスティナでよく見られる常緑樹で、その豆のさやはかじると甘い味がします。
家畜の飼料として使われているが、干して人間の食料にする事もあるそうです。
新約聖書では、イエスが神の愛を語る例え話に出てきます。
(財産を使い果たした放蕩息子が、空腹の余り豚が食べているいなご豆を食べたいと言った話)
また、
「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」
(新約聖書・新共同訳 マタイによる福音書 3章4節から引用)
ことから、ヨハネのパン(ST.JOHN’S BREAD)とも言われます。
Fi2358794_3e 画像は丘の上から見えた風景。
特に遺跡とは関係ありません。
ここで、今回観光できなかったものを挙げておきます(私が知っている物のみ)。
ローマの劇場:直径37mの半円形で、四千人を収容できた 32 45' 12.30"N 35 16' 46.42"E 。
ユダヤ人地区:都市の最初の居住地区で、ユダヤ人の儀式用浴室があります。
シナゴーグ:下の都市にあり、周りを十二宮で囲まれた太陽の神ヘリオスが描かれたモザイクがあります。
オルフェウスのモザイク:下の都市にあり、建物の中に、竪琴を演奏するオルフェウスのモザイクがあります。
アンナとヨアキムの家:新約聖書の外典「ヤコブ原福音書」によると、ここセッフォリスに聖母マリアの両親、アンナとヨアキムが住んでいたそうです。
1世紀、ここはヘロデ・アンティパスの領地の中心でした。
アンティパスはセッフォリスを再建する為、周辺から多くの建築職人を集めたそうです。
ここからわずか5キロのナザレに当時住んでいた、大工のヨセフとイエスも、ここで仕事をした可能性がある?と、参考資料に書かれていました。
この遺跡のどこかに、イエスの仕事の跡が残っているのかもしれません。
この後、エズレル平原を通過して、死海に向います。
最後にツィッポリの歴史をまとめます。
1.鉄器時代に集落があった。
2.紀元前8世紀、ティベリアからアッコーに至る街道と、エルサレムに至る街道を見下ろす重要な場所だった。
3.紀元前6世紀、アケメネス朝の要塞があったかもしれない。
4.紀元前3世紀、セレウコス朝の砦があった。
5.ハスモン朝時代、ガリラヤ地方の政治の中心地だった。
6.1世紀、ローマのポンペイウスが占領した後、ガビニウスが彼の政庁を建てた。
7.ヴァルスの戦役の時、ローマ軍が占領し、住民を奴隷として売った。
8.ヘロデ王が占領した。
9.ヘロデ王の死後、ヘロデ・アンティパスが支配した。ガリラヤ湖畔にティベリアスを造るまで、ここは統治の中心だった。
10.ネロ帝が、ヘロデ・アグリッパ二世にこの町を贈った。「ネロの平和の町」という名に変わった。
11.第一次ユダヤ反乱の時、ここの住民はローマに味方した。その為破壊されず、エイレノポリス(平和な町)と改称された。反乱後のユダヤ難民が移り住んできた。
12.ユダヤの最高法院、サンヘドリンがあった。
13.3世紀、ユダヤ教の聖典、ミシュナー(律法に対する解釈の口伝。律法は時代に応じて様々な解釈が行われてきた。)が、ここで書物にまとめられた。離散下でユダヤ教信仰を守るのに大きな役割を果たしたとの事。
14.ローマ皇帝コンスタンティウス2世の時、帝国の東側を統治したガルス副帝に対する、ユダヤ人の反乱が起きた。ユダヤ人の指導者が統治したが、ローマに鎮圧された。
15.大地震が起きた。この痕跡は遺跡に残っている。
16.5世紀以降も、ユダヤ人の町だった。またキリスト教の司祭がここに住んだ。
17.7世紀にアラブ人が征服すると、ガリラヤの中心はティベリヤに移り、ここは停滞した。
18.十字軍の時代、ガリラヤ公国の要塞都市だった。町の名がル・サフォリになった。十字軍は、マリアの両親の家の跡に、教会を建てた。
19.16世紀、オスマン帝国の支配下で、サッフォリエという名前になる。
20.18世紀、オスマン朝の総督が再び要塞化した。
21.二次大戦後、イスラエル軍が占領した。ここにモシャヴ(農業共同村)が造られた。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ツィッポリ~その1

ツィッポリ(セッフォリス)に着きました。
ツィッポリは、ナザレの北西約5キロにあるヘレニズム時代の遺跡です。
ヘレニズム時代に、ここはガリラヤ地方の政治の中心地として栄えました。

ヘロデ・アンティパスは、ここを再建して自分の領土の中心地にしました。
町には、劇場、10のシナゴーグ、教会、2つの市場、貨幣鋳造所、貯水池、水道網がありました。
当時の人口は4万だったそうです。
第一次ユダヤ反乱の時、この町のユダヤ人はローマとの協調を選んだ。
反乱後、多くのユダヤ人は離散したが、ここにはユダヤ人社会が栄えていました。
離散したのは、ローマに反感を持つユダヤ人だけだったのでしょうか?
十字軍の時代には、要塞都市になりました。
エルサレム王ギーは、サラーフ・アッディーンとの決戦のため、ここからヒッティンの丘に向いました。
1992年、ここは国立公園として、市民に解放されました。
Fi2355509_0e 画像は、ここの案内地図です。
なぜか上が北ではなく、右下が北になります。
中心は丘になっていて、そこに十字軍の要塞と、復元されたローマ時代の別荘があります。
丘の東側には、列柱の街路がある下の都市が広がっています。
また、ここにはナイルの祝祭の家と、シナゴーグなどがあります。
丘の北側には、半円劇場があります。
丘の西側には、ユダヤ人地区があります。
今回は時間がないため、下の都市と別荘のみの観光です。
しかしこれらには、重要な2つのモザイク画の観光が含まれています。
Fi2355509_1e これが下の都市です。
2世紀頃に最初の居住が行われ、格子状の街路が作られました。
街路の間にある街区には、様々な建物が立ち並びました。
画像中央から左側にかけて、交差する2つの列柱付きの街路が見えます。
カルド 32 45' 06.54"N 35 16' 51.80"E とデクマヌス 32 45' 07.03"N 35 16' 53.60"E という屋根付きの舗装道でした。
これらの両側には店が建ち並んでいました。
また舗装道には、荷馬車や四輪馬車の車輪のわだちが残っています。
ビザンツ時代の終わりには、これらは幾何学模様のモザイクで舗装されたそうです。
画像の右側には、屋根で覆われた建物が見えますが、ここにはナイルの祝祭の家と呼ばれている所です。
ここは5世紀の初めに、ローマ時代の残骸の上に建てられ、ビザンツ時代の終わりまで使われていたようです。
広さは50×35mで、左右非対称の長方形のかなり大きな建物です。
部屋が20もあり、内部は美しいモザイクで飾られています。
そのため、公営のバシリカではなかったかといわれています。

ナイルの祝祭の家の中です 32 45' 04.92"N 35 16' 51.59"E 。
ナイルの祝祭のモザイク画です。
Fi2355509_2e
これはこの建物の中で最大のモザイクで、しかもほとんど無傷です。
画像の上のほうに、エジプトのナイル川が横切っています。
川に建っている塔は、ナイロメーターと呼ばれる、ナイル川の水位を測る塔です。
ナイル川の上のほうでは、祝祭が行われています。
ナイル川のすぐ下では、おそらく狩りが行われているのだと思います。
その下は、猛獣が相争う弱肉強食の世界が広がっています。
ビザンツ時代には、狩りの場面や、ナイル川流域の場面は、よくモザイクの題材として取り上げられているそうです。
しかしこの絵は、狩りとナイル川という二つのテーマを一つの絵の中に収めているのが独特だそうです。
また、この頃のモザイクは、このように部屋の床面一杯に1つの絵が描かれるようになったそうです。
後で見る、ローマの別荘のモザイクと大きく異なる点です。
こちらは、同じ建物の中にある、別の部屋のモザイクです。
Fi2355509_3e
絵の題材が何か、残念ながらわかりません。狩人のように見えますが
この建物の部屋は、ほとんどモザイクで飾られていたようです。
部屋のいくつかは幾何学模様で飾られ、ケンタウロスや狩人やアマゾン族の絵が、重要な場所の入口を示したりする為に、部分的に組み込まれていました。
残りの部屋は、完全に幾何学模様以外の絵で飾られていました。

Fi2355509_4e これは、アマゾン族の女戦士でしょうか?
この建物には、ProcopiuisとPatriciusという二人の職人の銘が残っているそうです。
恐らくこの建物のモザイクを作った職人でないかと思われます。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ナザレ~その3

ナザレ観光の続きです。
Fi2352563_0e 受胎告知教会のやや北にある、聖ヨセフの教会です 32 42' 11.53"N 35 17' 53.90"E 。
ヨセフはイエスの父親です。
1914年に新築された建物だそうです。

Fi2352563_1e 礼拝堂の中です。
祭壇の上に、聖家族の絵があります。
この部屋から地下に降りる事ができ、そこには岩を切って作った貯水槽、穀物庫の洞穴、ビザンツ時代のモザイク、様々な時代の土器片が見つかった。
ここにもヘレニズム時代、十字軍時代の遺構があった。

Fi2352563_2e 教会の壁にある、大工仕事をする少年イエスの絵です。
イエスの母マリアの夫ヨセフは、ダビデ王の末裔と言われ、大工を家業にしていました。
ベツレヘムの出身でしたが、イエスの生まれる前からナザレで暮らしていました。
ヨセフがマリアと結婚したとき、すでに80歳だったそうで、6人の子供がいたそうです。
その後、ベツレヘムへの旅行とイエスの生誕、エジプトへの逃避行、エルサレムへの旅、と続く。
ヨセフは早くに世を去り、その後はイエスが大工としてマリアを支えたとの事です。

これは、受胎告知教会から道を挟んだ向かいにあるスークです 32 42' 09.93"N 35 17' 49.65"E 。
Fi2352563_3e
狭い路地に店が建ち並んでいます。
ナザレには、この他にも、
イエスが説教した場所とされる、シナゴーグ教会
青年イエスの大理石像がある、青年イエスの教会
復活後のイエスが弟子達と食事したとされる石灰岩、メンザ・クリスティ(あれ、ガリラヤ湖畔にもありましたが・・・)
マリアとイエスが定期的に水を汲みに行ったとされる、マリアの井戸(ティベリア方面から市街に入った時、街道の右手の道端に見えます 32 42' 22.43"N 35 18' 05.11"E )。
その井戸に水を供給する湧き水があり、また受胎告知を受けたとされる地下室があるギリシャ正教の聖ガブリエル教会
イエスが初めてこの町で説教したとき、町の人が怒って彼を突き落とそうとした崖、主の跳躍の山(ここではなく、町の西にある近くの岩がそうだという説がある)。
があります。
この後、ツィッポリに向います。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ナザレ~その2

ナザレにある、受胎告知教会の続きです。
Fi2349768_0e 2階にある礼拝堂です。
祭壇の後の絵では、一番上に三位一体のシンボル、中央にイエス、周りを聖者と殉教者が囲んでいます。
この部屋も含め、教会中至る所に、世界中の教会からもたらされた聖母マリアの絵が、掲げられています(左の壁に少し見えます)。

沢山ある聖母マリアの絵のうち、長谷川路可という人が描いた、日本の聖母子像です。
Fi2349768_1e
マリアの内掛けの袖は、無数のパールを埋め込んでいます。
多くの絵の中でも、日本代表のこの作品は、出来が良いと思いました。

礼拝堂のドーム天井です。
Fi2349768_2e
聖母マリアを象徴する花、ユリをイメージしています。

Fi2349768_3e 教会の中庭に建っている小部屋です。ちょうど赤ちゃんに対してバプテスマを行うようです。
キリスト教においては、バプテスマとは、キリスト教徒になる時に行う儀式です。
身体を水に浸して、洗う事により、清めます。
バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)のバプテスマが、キリスト教のバプテスマの起源だそうです。

Fi2349768_4e これは中庭の地下にある遺構です 32 42' 08.95"N 35 17' 51.81"E 。
画像中央にあるのは、井戸ではないかと思います。
地下の土地は窪みが多数あり、梨型の穀物倉、ぶどう酒や油の壷を入れるアーチ型の部屋などがあるそうです。
いくつかの穀物倉では古代イスラエルの土器が、ほとんどの部屋にはヘレニズム時代の土器片があったそうです。
この遺構は、ヘレニズム時代のものではないかと思います。
その後、十字軍の時代になって、十字軍騎士タンクレードが大聖堂の建設を命じた為、これらの遺構は教会と、同時期にできた司教の館の下敷きになりました。
それは、当時十字軍が造った教会の中でも、最大の教会だったそうです。
バイバルスによって破壊された後、オスマン朝支配下の18世紀に、フランシスコ会が再び教会を建てました。
この教会は、現在の教会を建てる為に破壊されました。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ナザレ~その1

ナザレ周辺の観光の続きです。
Fi2347451_0e カナの南西6キロにある、ナザレに着きました(撮影場所 32 41' 58.46"N 35 17' 47.48"E )。
丘陵地の盆地にあり、オリーブとイトスギの多い、わりと大きな街です。
人口は6万で、大半はアラブ人です。
イスラエル最大のアラブ人都市です。
イスラム教徒が6割、キリスト教徒が4割だそうです。
ここは旧約聖書やヨセフスの著述では触れられていない、比較的新しい町です。
ただ、カイザリヤで、ナザレに言及する銘文が見つかっているそうです。
Fi2347451_1e 画像は、受胎告知教会です 32 42' 07.79"N 35 17' 51.34"E 。
中近東最大のキリスト教会で、14年かけて造られ、1964年に完成、1969年に聖別されました。
町の中でも、かなり目立つ教会です。
ここで、聖母マリアが天使ガブリエルから、受胎告知を受けました。
またイエスは、この小さな村で教育を受け、育ちました。
当時の人口は、数百名程度だったようです。
そのため、4世紀以降ナザレは、エルサレムやベツレヘムと並ぶ、重要な巡礼地になりました。
その後、イスラム帝国の時代、十字軍の支配(この時、司教座になった)が続き、マムルーク朝のバイバルスが奪還したとき、この町は破壊されました。
オスマン時代の17世紀に、フランシスコ会が廃墟の町に移り住んで教会を建て、20世紀にはイギリス軍の司令部が置かれました。第二次大戦後にイスラエルが占領しました。
画像は、受胎告知教会の前面です。
Fi2347451_2e
アヴェ・マリアのAの形をしています。
壁面の最上部にあるエッチングは、天使ガブリエルと聖母マリアです。
下のほうにある扉には、イエスの生涯が浮き彫りされています。
受胎告知から始まって十字架での最後までの、6つの場面が描かれています。

教会の一階
です。
Fi2347451_3e
画像の左側、地下に下った所に、受胎告知を受けたという洞穴があります。
ここが聖蹟として知られるようになるにつれ、多数の建物が周囲に群がるように建てられました。

これが受胎告知の洞穴です。中は煙のすすで煤けています。
(画像の下端は教会の手摺です)
Fi2347451_4e
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。
そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。
神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。
不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
そこで、天使は去って行った。
(ルカによる福音書・1章26~38節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
383年、スペインの巡礼者、エゲリア夫人がここを訪れ、マリアが生活していた大きく見事な洞穴と、そこに置かれた祭壇を見ました。
570年、教会がここに建てられました。
1899年の発掘により、この洞穴近くからビザンツ時代のモザイクが出土されました。
モザイクの銘文は「CONON、エルサレムの助祭の為に」と書かれていました。
教会が建てられた事により、この洞穴は教会に組み込まれて行きました。
洞穴に下りる階段が付けられ、小さな聖卓が設けられました。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・カナ

ガリラヤ湖から西に約20キロ、ナザレ近郊のカナに着きました。
(たぶん、このあたり 32 44' 51.66"N 35 20' 34.83"E )
カナは、かつて作家フラヴィウス・ヨセフスが言及した町で、現在はイスラム教徒とキリスト教徒が住んでいます。
アラブ的な風情が漂う街です。
ここはイエスによる最初の奇跡が行われた場所で、そのためフランシスコ会とギリシャ正教の二つの教会が建っています。
今日は、フランシスコ会の教会を見学します。
画像はその教会の正面です。
Fi2344187_0e

教会の中
です。
Fi2344187_1e
丁度ミサが行われていました。
ここには、6世紀に教会があった事が伝えられています。
しかし17世紀にはモスクが建っていました。
フランシスコ会は、1641年にモスクの隣の家を購入しましたが、200年に渡る交渉の末、1879年にモスクの敷地を手に入れました。
1881年に、ザルツブルグの大聖堂にならい、ここで見つかった古代の遺構を利用して、新しい教会が建てられました。

教会の床下には、大きな石で出来た入れ物がありました。
これは、イエスの奇跡にまつわる水瓶でしょうか?
Fi2344187_2e
ガリラヤ湖畔で、イエスに4人の弟子がついた後の話。
イエスの故郷、ナザレの近くのカナで、イエスの母マリアとイエス、4人の弟子達は結婚式の手伝いに来ていました。
ところが祝宴がまだ続いている最中に、ぶどう酒が底をつく、という事態になった。
これは大変な非礼である。
マリアがイエスにこの事を言うと、イエスは「婦人よ、それが私とあなたに何の関係があるのですか?私の時はまだ来ていません。」と言った。
その後、イエスは清めの為の石の瓶を見つけると、手伝いの女たちに、それを水で満たして、汲んで持っていきなさい、と言った。
女たちがその通りにすると、その水を一口飲んだ世話役が、「酔いが回って後、なお良いぶどう酒を振舞うとは!」と言って花婿を褒め称えた。
水をぶどう酒に変えた、イエスの最初の奇跡です。

これは床下にある物ですが、何の遺跡かよくわかりません。
Fi2344187_3e
1997年に、フランシスコ会の発掘者は、14世紀?の物と思われる中世の教会跡を見つけました。
それは17世紀の巡礼者が、イスラム教徒に接収された古代の教会と言っていた物です。
また、5,6世紀の教会跡も発見されました。
更に現在の祭壇近くのモザイク床では、3,4世紀のアラム語の碑文が見つかっています。
「この床板をつくりしブタの子タンフームの子ユセおよび彼の息子達はその善行の故に祝福されん事を、アーメン」
この他、地下には、様々な遺物が置かれていました。

これは隣にあるギリシャ正教の教会です。
Fi2344187_4e
1885年に建てられました。
この付近の土産物屋では、カナの婚礼ワインを売っています。
小さい物は、1本1ドルです。安いので買いましたが、味見はまだしていません。
実は奇跡が起きたカナは、ケフェル・カナとキルベト・カナの二箇所のうちのどちらかなのですが、ここはケフェル・カナです。
ケフェル・カナは、ティベリアに通じる街道沿いにあり、巡礼には最適の場所です。
そのせいか、ローマ教会とギリシャ教会は、ここを支持しているそうです。
キルベト・カナは、古代の村の遺跡があり、イエスの時代の土器や貨幣が出土しています。
学者はここを支持しているそうです。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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