009ガリラヤ湖周辺、ゴラン高原(イスラエル)

イスラエル旅行・ガリラヤ地方西部

明けて12月31日。
Fi2341453_0e 宿泊地キブツ・ゲネサレ近くの、ガリラヤ湖畔の日の出です。

(撮影場所 32 50' 33.75"N 35 31' 34.93"E )
日の出直後。
渡り鳥の群れが、湖面を通り過ぎて行きます。

Fi2341453_1e 太陽が完全に出ると、湖面に光の道が出来ました。
2005年も色々あったなあ~。
静寂の中で、日の出を拝みたかったのですが、実は西岸のティベリア方面から、ロック音楽が延々と聞こえていたのでした。
年末だからだろうか、町のクラブ・ディスコから聞こえているようです。

Fi2341453_2e 泊まったキブツ・ゲネサレの宿泊棟 32 50' 38.55"N 35 31' 18.90"E の廊下で、小鳥が遊んでいました。
廊下中を始終飛び回っています。
キブツとは、農業集団村の事で、ヘブライ語で「労働」の意味。
ここでは、土地、生産、消費、教育、文化の全てが、構成員の共同の所有になっており、それぞれの能力に応じて労働が分担され、衣食住(収入)と福祉は公平に分配されます。
そして構成員は、生産から消費までの一切の生活を、ここで行っています。
農業が主体ですが、ここのようにホテルを経営している所もあります。
通常のホテルと、特に変わった事はありません。
キブツだからと言って、宿泊客が働かされるわけではありません。
1つのキブツの構成員は、普通5百~7百人位で、キブツに従事する人は、イスラエルの総人口の2.2%だそうです。
キブツができたのは20世紀初頭?で、それまでパレスチナに殖民したユダヤ人は、現地のアラブ人を労働させる経営者だったのですが、自らが労働者になって労働する事で、土地取得を正当化しようとする労働シオニズムという考え方が生まれ、その実践モデルがキブツだったそうです。
キブツ以外に、モシャヴという農業共同村があります。
これは生産物の販売と物品の購入、生産計画は組合で行い、水と農機具も共有だが、生産と消費は個人の自由で行われる(収入は個人の努力と能力次第)というものです。
このキブツ・ゲネサレは1937年に創設され、現在は人口700人で、バナナ、柑橘類、牧草、小麦、綿花の栽培、酪農、養鶏、漁業を行っています。
キブツ・ゲネサレ経営のホテルは、食堂、売店(土産物)、バー、受付のあるメインホール 32 50' 38.35"N 35 31' 21.91"E と、宿泊棟から成っています。
その他に、リハビリ機器製造の工場や、前述のイガル・アロン・センターがあります。
食事はバイキングでしたが、肉がなくて酢漬け?の魚があったのは、珍しかったです。
さて、今日は、ガリラヤ湖の西のカナとナザレの街、ツイッポリの遺跡を観光した後、ヨルダン川西岸沿いに南下して、死海のほとりエン・ボケックに向います。
Fi2341453_3e キブツ・ゲネサレを出て、ガリラヤ湖西岸を南下。すぐの所にミグダル村があります。
(たぶん、このあたり 32 50' 13.11"N 35 29' 52.02"E )
ヘレニズム時代、ここはガリラヤ地方の4大都市のひとつでした。
土器製造と染色工業で栄えました。
また、魚の加工業が盛んで、作家ヨセフスは、ここをタリカエア(魚の塩漬け)と呼びました。
魚の塩漬けは、エルサレム、アレキサンドリア、ローマに輸出されました。
第一次ユダヤ反乱の際、反乱軍の指揮官ヨセフスは、ここでローマの将軍ティトスに敗れました。
ここはマグダラとも言い、新約聖書のマグダラのマリアの出身地です。
イエスが、マグダラにあるファリサイ派の人の家に招かれた時の事、町にいる「罪深い女」(娼婦)が突然入ってきて、イエスの足元に近寄って、泣きながら足に接吻し、香油を塗りました。
イエスがこの家にいる事を聞いて、香油を持ってきたのです。
それを見たファリサイ派の人が、
「この人(イエス)が本当に預言者ならば、この女がどんな女かわかるはずだ。罪深い女なのに」と呟きました。
するとイエスは、「この人が多くの罪を許された事は、私に示した愛の大きさでわかる。赦される事の少ない者は、愛する事も少ない。」と言った。
この女性、マグダラのマリアは、イエスによって「七つの悪霊」を追い出してもらい、十字架に架けられたイエスの最後を見、復活後のイエスに最初に会ったそうです。
Fi2341453_4e ミグダルを過ぎてすぐ、ガリラヤ湖を離れて西側に進みました。
画像中央の奥に見える丘は、ヒッティンの丘と思われます。
(たぶん、このあたり 32 48' 02.07"N 35 27' 26.15"E )
十字軍時代の1187年、アイユーブ朝のスルタン、サラーフ・アッディーン(サラディン)が、ここで十字軍に大勝しました。
サラーフ・アッディーンは、エルサレム王国のボードワン4世と休戦協定を結んでいたが、ボードワンの死後、その配下でカラクの領主、ルノー・ド・シャティヨンは休戦協定を破って、たびたびアラブ人の隊商を襲って略奪した。
6月、サラーフ・アッディーンはジハードを宣言して、騎兵を主力にした1万2千の兵と2万の補助軍を率いて、ダマスカスからエルサレム王国に入った。
これに対し、エルサレム王ギーは、騎士1200、軽装騎兵3500、歩兵1万8千を率いてサーフリーヤ(後述のツィッポリ)に陣を張った。
7月、サラーフ・アッディーンは、十字軍をおびきよせようと、ガラリヤ湖畔のティベリヤを攻めた。
策にはまったギーの軍は、東進してハッティンの丘に陣を張った。
この真夏の時期、水の豊富なガラリヤ湖畔にいるサラーフ・アッディーンに対し、ギーは乾ききったハッティンの丘にいた。
7月4日、ひそかにギーの軍を包囲したサラーフ・アッディーンの軍は、風上から火を放ち、たちまち乾いた草むらは火の海になった。
喉の渇きで弱った十字軍は、イスラム軍騎兵の突撃で壊滅した。
国王ギー以下、ルノー、十字軍の騎士達が捕らえられ、ルノーはサラーフ・アッディーンの手で処刑、騎士達も処刑された。
しかしサラーフ・アッディーンは、ギーにヘルモン山の残雪で冷したバラ香水のシャーベットを勧め、「王は王を殺しません」と言って殺さなかった。
この後、サラーフ・アッディーンは、アッコーを始めとする地中海沿岸都市を落とし、9月に2万の兵でエルサレムを包囲、キリスト教徒の安全保障と引き換えに10月2日、エルサレムは開城された。
サラーフ・アッディーンの厳命により、略奪と殺戮は行われなかった。
第一回十字軍がエルサレムを占領した時、大量のイスラム教徒とユダヤ教徒が殺され、神殿の丘の前を馬に乗って進むと、手綱までが血に染まった、というのと対照的である。この辺の経緯は、概ねリドリー・スコット監督の映画「キングダム・オブ・ヘブン」に描かれています。
(次は、カナの町へ)

最後に、サラーフ・アッディーンの生涯をまとめます。
サラーフ・アッディーンは、正式名を、サラーフ・アッディーン・アブー・アル・ムザッファル・ユースフ・イブン・アイユーブ・イブン・シャージーと言います。
アイユーブ家という、クルド系軍人の家柄で、イラク、シリアのザンギー朝に仕えていました。
1168年、弱体化したエジプトのファーティマ朝が十字軍に占領される危険が生じた為、ザンギー朝のヌール・アッディーンの命で、叔父シールクーフと共にエジプトに派遣されました。
シールクーフが死ぬと、その軍事力を引き継いでエジプトの実権を握り、アイユーブ朝を開く。
1171年、当時イスラム世界は、スンニ派であるアッバース朝カリフ(バグダッド)とシーア派であるファーティマ朝カリフ(カイロ)に分立していたが、サラーフ・アッディーンはファーティマ朝の宰相としてスンニ派への切り替えを進め、虚弱なファーティマ朝カリフの自然死を待って、その王族を隔離して子孫の誕生を防ぎ、アッバース朝カリフの名のもとファーティマ朝を滅ぼした。
1174年、サラーフ・アッディーンの領土拡大を危惧したザンギー朝のヌール・アッディーンとの間に衝突の危機が生じたが、ヌール・アッディーンが死去した。
サラーフ・アッディーンはシリアのダマスカスに進出する。
1175年、ザンギー朝を破り、アッバース朝カリフからエジプト、シリアの支配権を認められる。
この時点で彼の敵は、ザンギー朝と、エルサレム王国のボードワン4世だった。
1176年、ヌール・アッディーンの未亡人と結婚し、その後継者の地位を得る。
1183年、全シリアを併合し、スンニ派の下に、イスラム世界の核心であるエジプト、シリアの再統一に成功する(これが彼の最大の偉業と言われる)。
ボードワン4世とは暫定的な休戦条約を結んでいた。
1185年、イラクのモスルも支配する。
この時点で彼の敵は十字軍のみになった。
1187年、ハッティンでエルサレム王ギーを破り、地中海沿岸都市、エルサレムも占領する。
1191年、第三回十字軍により、アッコーが奪回される。
その後、イングランド王リチャード1世との戦いが繰り広げられる。
1192年、リチャードとの間に休戦条約が結ばれる。
1193年、ダマスカスで病死。
「富は他人の為に使われるべきもの」と言った彼の遺産は、わずかに金貨1枚、銀貨47枚だったという。
彼は寛大で信仰心が篤く、約束を守る人柄から、騎士道精神の模範とされ、十字軍からも褒め称えられた。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ペテロ首位権の教会

ガリラヤ湖周辺のタプハ観光の続きです。
パンと魚の増加の教会のすぐ南東にある、ペテロ首位権の教会に行きます。
画像は、タプハ(七つの泉)の由来になった泉の1つ 32 52' 25.51"N 35 32' 58.82"E 。
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ここから湧き出した水は、張り巡らされた水路によって、教会の敷地内に行き渡っています。
(※画像の泉は、枯れているようでした。)

南に下りて行くと、ガリラヤ湖畔に達します。
そこに、ペテロ首位権の教会堂が建っています 32 52' 17.24"N 35 32' 56.78"E 。
素朴なこの教会堂は、4~5世紀に建っていた教会の跡に、1943年にフランシスコ会が建てたものです。
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教会堂の中
です。
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祭壇にあるのは、メンザ・クリスティという大きな岩です。
復活したイエスは、ガリラヤ湖に帰っていた弟子たちの前に現れて、この岩でパンを与えたそうです。
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。
主であることを知っていたからである。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。
魚も同じようにされた。
イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
(ヨハネによる福音書・21章12~14節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)

Fi2338740_3e 教会堂のすぐ側の園地に、イエスと弟子ペテロの像が立っていました 32 52' 16.72"N 35 32' 56.28"E 。
食事の後、イエスがペテロに、自分の後継者として宣教を託している姿だそうです。
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
二度目にイエスは言われた。
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
三度目にイエスは言われた。
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。
そして言った。
「主よ、あなたは何もかもご存じです。
わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
はっきり言っておく。
あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。
しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。
このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
(ヨハネによる福音書・21章15~19節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
ここは、ガリラヤ湖の広々とした眺めと、砂浜が目の前です。
イエスがペテロとアンデレの兄弟を弟子にしたのは、この海辺だそうです。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。
彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
二人はすぐに網を捨てて従った。
(マタイによる福音書・4章18節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
この後、宿泊地のキブツ・ゲネサレに帰りました。
ホテルで軽く自己紹介。
今日も、盛り沢山の一日でした。

ペテロ(ペトロ、ピエトロ)ゆかりの地は、前回旅行したローマにもありました(サン・ピエトロ寺院、ドミネ・クオ・ヴァディス教会)。
どういう人なのか少し気になったので、ペテロの生涯をまとめてみました。
1. ガリラヤ湖畔のベッサイダで生まれる。ギリシャ名をシモンと言った。
2. 職業は漁師だったが、熱心党(前述)に関心があったとも言われる。
3. 洗礼者ヨハネ(後述)の弟子になっていたらしい。その時一回イエスに会っている。
4. ガリラヤ湖畔でイエスに声をかけられ、最初の弟子になる。
5. 弟子の中で最年長者だったので、リーダー的存在になり、常にイエスに付添った。
6. 彼の家族はイエスを支援し、カペルナウムの彼の家がイエスの活動拠点になった。
彼自身は漁業のかたわら、イエスの説教に耳を傾けた。
7. イエスの評判が高くなるとファリサイ派(前述)らが迫害するようになったが、彼の信頼は変わらなかった。
8. イエスと弟子がヘロデ・アンティパス(前述)から逃れてゴラン高原のフィリポ・カイザリア近くを旅した時、彼は弟子を代表して「あなたこそメシア(救世主)です」と言った(ペテロの信仰告白)。
「メシア」とは、神的領域に達した人という意味もあるが、当時のユダヤ人にとってはユダヤ人の独立闘争を指導し神の国を達成する人という意味合いがあった。
この後に、彼が後者の考えを述べると、イエスは否定して叱りつけた。
9. イエスが伝道の為エルサレムに向うと、彼はガリラヤで多数の信徒を集めてエルサレムに向った。
イエスを快く思わないエルサレム神殿の大祭司の暴力的圧力に対抗する為であった。
10.イエスが自分の最後を悟って最後の晩餐(後述)を開いた時、彼に対して、他の者の為に仕える事がメシアの業であると言い、自分の死後の弟子や信者の指導を託した。
11.ゲッセマネ(後述)でイエスが大祭司の配下に襲われた時、彼は抵抗して1人の耳を切り落とした後で逃げた。
12.捕らえられたイエスの様子を見に、大祭司の屋敷に忍び込んだ時に見つかりそうになり、イエスの事を知らない、と三度叫んで見殺しにした(後述)。
13.イエスの処刑後、墓に行ってイエスの死体が無い事を確認した。
14.ガリラヤでイエスの復活に立ち会った。
そこで彼はイエスの事業を継承する事を決意した。
15.イエスの弟子団を作り、入団儀式としてバプテスマを採用した。
またイエスの意義を確かめる為旧約聖書を調べた。
16.エルサレム神殿の前で、大祭司らにイエスを殺した非を訴え、イエスが正しい事を弁証した。
数千の信徒が加わり、更に増加した為、エルサレムに教会を作って指導した。
17.彼は度々奇跡を起こし、教会員も非常に増えたので、彼の名声は頂点に達した。
18.ヤッフォで異邦人コルネリアスの使いに会い、カイザリアでコルネリアスを教会員として受け入れた。
彼はユダヤ人以外の異邦人を受け入れる考えを持っていたが、これはユダヤ人の強い非難を浴びた。
19.アグリッパ1世(前述)が統治者になると、ユダヤ人の人気取り政策のため彼は投獄された。
20.彼は脱獄し、エルサレム教会をヤコブに託してエルサレムを去った。
21.エルサレム会議で、彼はユダヤ人のみを伝道し、パウロは異邦人を伝道する事を取り決めた。
22.妻を伴って小アジア各地のユダヤ人に伝道した。
23.ローマに行って長期間伝道した。
24.ネロ帝のキリスト教徒大迫害に遭い脱出するが、アッピア街道でイエスに会って引き返す。
25.逆さ磔になり殉教(現在サン・ピエトロ寺院がある場所)。
カトリックでは初代ローマ教皇として扱われている。
彼は無学で平凡な漁師に過ぎず、囚われたイエスを否認するなど弱さも持っていたが、誠実な人であったらしい。
イエスもその誠実さゆえに彼を信頼した。
ペテロは、マービン・ルロイ監督の映画「クオ・ヴァディス」に登場します。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・パンと魚の増加の教会

ガリラヤ湖周辺の観光の続きです。
祝福の山の南、カペルナウムの西にある、タプハを観光します。
タプハはアラビア語で、ギリシャ語ではヘプタペゴン(七つの泉)と言います。
実際に泉が点在する場所です。
Fi2335976_0e ここは、パンと魚の増加の教会です 32 52' 24.81"N 35 32' 56.99"E 周辺。
イエスがここで行った奇跡を記念して、5世紀に建てられたものです。
教会堂、前庭、宿坊からなり、南北56m、西側33m、東側24.3mの台形をしています。
教会堂は東、前庭は西です。
前庭の中央には、直径5mの大鉢(カンタルス)が置いてあり、前庭の東西南を宿坊用の部屋が囲んでいます。
また、教会の敷地の床の至る所に、主に幾何学模様のモザイクが施されています。
モザイクは、この教会の見せ場と言えます。
教会堂の内部です。
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教会堂はバシリカ様式で、25m×19mの広さです。
基礎と土台は白い石灰岩で、その他は玄武岩で造られていて、内部は湖の砂とセメントを混ぜ合わせたモルタルで塗られています。
教会堂の奥には、半径3.3mの半円形のアプスがあり、その壁に沿って聖職者用の椅子が据えられています。
アプスの正面は、6.9m×6mの内陣になっていて、その中に卓上の祭壇があります。
また、祭壇の下には、「主の食卓」と言われる未加工の大きな石灰岩が置かれていて、十字架の痕跡が残っています。
内陣からこちらに向って、左右をそれぞれ4本の列柱が立っています。
列柱の外側を側廊と言って幅3.6m、列柱の間の広間を身廊と言って幅7.9mあります。
また、内陣の左右両脇には、翼廊という小広間があります。

Fi2335976_2e 内陣の中、祭壇の脇に、十字架の付いたパンを入れた籠と、両側を2匹の魚が挟むモザイクがあります。
ここで使われているモザイクの嵌め石は、10cm平方あたり76個だそうです。
また、この近くには、「聖なる父」を記念した銘文があります。
パンと魚のモザイクは、五つのパンと二匹の魚で、5千人以上の人々を満腹させたという、イエスの奇跡にまつわる物です。
使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。
イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。
イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。
「群衆を解散させてください。
そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。
わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
しかし、イエスは言われた。
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」
彼らは言った。
「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
というのは、男が五千人ほどいたからである。
イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
すべての人が食べて満腹した。
そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
(ルカによる福音書・9章10~17節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
貧しい群衆に対して、イエスが自分の僅かな食料を、分かち合いの心で配った結果、皆が満足した、とも取れます。
しかし男だけでも五千人というのは、並大抵の人数ではありません。
参考資料によると、この件の直前に人望があった宗教指導者、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)が、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに殺されており、また時期は過越しの祭(ユダヤ人の三大季節祭のひとつで、モーセによるエジプトからの解放を祝う意もある)の頃であり、この会食の後、人々がイエスを王にしようとした、という記述があるそうだ。
群集の中には、イエスを担ぎ上げてユダヤの独立を図ろうとする人々もいたのではないか、と書かれていました。
モザイクの中で主要なものは、左右の翼廊で発見された6.5×5.5mの長方形のパネルです。
それぞれ蓮の花で縁取られていて、中には動植物と建物の絵が一面に描かれています。
画像は右(南)側の翼廊のパネルです。
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画像奥の中央には、蓮の葉から飛び出そうとしている水蛇の子に、襲いかかろうとしているアネハヅルが見えます。
また奥の右端の方に、ギリシャ文字で6~10の数字がついた塔(ガリラヤ湖の水位を測る河川水位計)が見えます。
画像中程から下にかけて、二羽のあひると一羽の鶴があります。
蓮を覗き込む、鶴の目線がユーモラスです。
左(北)側のパネルは、上から、インド睡蓮の花に乗る赤とさかのあひる、鴨、二羽のあひる、赤いきょうちくとう、青鷺、黒雁、インド睡蓮に乗る鳩、いぐさとあひる、青鷺、イシチドリ、ハシビロガモ、シノリガモ、二羽の鵜を従えた白鳥、水蛇を殺そうとしているフラミンゴ、蓮の蕾の上に乗る四十雀、いぐさといばら。
昔のガリラヤ地方の自然の豊かさを目の当たりにしているようです。
他に町の門と東屋、塔もあります。
ここには火災で焼けた跡があります。
ここで使われているモザイクの嵌め石は、10cm平方あたり100~105個だそうです。

使われている顔料ですが、石灰岩を原料としていて、2種の青、明灰色、3種の赤、2種の黄色が用いられています。
また、北の翼廊の北側には二羽の孔雀のモザイク、東側にはサウルスという人についての銘文があるそうです。
Fi2335976_4e こちらは左(北)の側廊の柱の間にあるモザイクです。
おそらく、穴熊と戦う鳥です。
この他に、花冠を頂いた二羽の鳥、二羽の青鷺、二羽の黒雁があります。
童話の挿絵を見ているようで、なんだか和みます。
ここで使われているモザイクの嵌め石は、10cm平方あたり105~107個だそうです。
ここのモザイクには2つの特徴があるそうで、
今まで幾何学模様しかなかったパレスチナの教会の床に、絵画的モザイクを導入した事、
ナイル川流域の風景(ヘレニズム時代のモザイク画の主要な題材で、後述のツィッポリでも見られます)に、ガリラヤ湖の動植物が組み合わさっている事、
だそうです。
また、この教会堂の下には、更に古い時代の礼拝堂が発掘されているそうです。
この教会は、7世紀初めにササン朝ペルシアによって破壊されたようです。
その後は忘れ去られていましたが、発掘後に復元され、現在に至っています。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・山上の垂訓教会

ガリラヤ湖周辺の観光の続きです。
Fi2332937_0e 画像は、祝福の山の上に建つ、山上の垂訓教会です 32 52' 50.73"N 35 33' 20.96"E 。
祝福の山は、ガリラヤ湖の湖面から125mの高さがある丘です。
イエスは、ここで12使徒を選びました。
また、イエスの評判を聞いて集まって来た、大勢の群集を見たイエスは、この丘に登って弟子達に教えを語りました。
それは山上の垂訓として知られる、次の言葉です。
心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
(マタイによる福音書・5章3節~10節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
山上の垂訓教会の中の8つの壁には、上記の8つの句がラテン語で記されています。
Fi2332937_1e
また、
「敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈れ」
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」
「求めよ、されば、与えられん。
捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」
「狭き門よりはいれ。
滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
そして、そこからはいって行く者が多い」
(以上、マタイによる福音書・7章 一部を除き財団法人日本聖書協会・口語訳から引用)
と言った有名なフレーズが、ここで生まれました。
この八角形の教会は、フランシスコ会が1937年に建てました。

Fi2332937_2e 教会の裏手には、手入れされた庭園が広がっています。
でも、ここにいると丘の上という感じではないです。下の眺めがよく見えませんでした。
「丘」のイメージを撮りたいときは、教会からかなり下った場所から狙った方が良いと思います。
ちなみに、イエスが垂訓を行った場所は、ここではなくハッティンの丘だ、という説もあるようです。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・カペルナウム~その2

ガリラヤ湖畔のカペルナウム観光の続きです。
Fi2329808_0e 画像の左側は、オリーブ油を絞る石臼 32 52' 49.96"N 35 34' 28.83"E 周辺。

置いてある大きな石で潰したようです。
右はオリーブ圧搾器。オリーブ油が溝を伝って下のくぼみに溜まる仕掛けのようです。

Fi2329808_1e この辺には、シナゴーグのあちこちの部分が散乱していました。
これらの破片のおかげで、シナゴーグの外観がほぼ完全に再現できるようになりました。
シナゴーグの北壁と東壁、北側の列柱は復元されたものです。
画像には、コリント式の柱頭、建物の上層部分、モザイク壁画が並べられています。
どれも様々な彫刻、模様で一杯です。
Fi2329808_2e これは、花模様と幾何学模様を囲んだメダリオンを浮彫した、シナゴーグのフリーズ(列柱の上に載っている屋根の一部)です。
こうした彫刻には、ユダヤ教の祭具であるメノラー、角笛、香シャベルや、旧約聖書に現れるぶどう、ざくろなどがある。
「(神から賜った地は)小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」
(申命記・8章8節)
真ん中にあるダビデの星は、魔術的な意味合いの物ではないか?と文献にありました。
他に五角形の星型もあるそうです。
Fi2329808_3e この浮彫は契約の箱を運ぶ車、トーラー(律法)聖櫃だそうです。
日本で言うと山車のようなものだそうです。
何か行事がある時に、建物の奥から運び出したのでしょうか?
これら彫刻の中には、生き物もあったそうですが、そのほとんどは偶像破壊主義者(イスラム教徒?)によって破壊されたそうです。
これでカペルナウムの観光が終りました。
現在15:00、ここの気温23度。

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イスラエル旅行・カペルナウム~その1

ガリラヤ湖周辺の観光の続きです。
まず、湖畔のカペルナウムを観光します。
カペルナウムは、地中海とシリアのダマスカスを結ぶ通商路上にある漁村です。
ローマ軍がここに駐屯し、百人隊長がシナゴーグ(集会所)を造りました。
ヘロデ王の子、フィリポスとアンティパスの領土の境界線がここにあり、交易税を徴収する税関があった。
イエスは、初期の宣教において、ここを根拠地にしました。
第一次ユダヤ反乱の指揮官で、後に「ユダヤ戦記」等を著した作家、フラヴィウス・ヨセフスは、ヨルダン川の戦いで負傷し、ここに運ばれました。
2世紀以降、ユダヤ人キリスト教徒がここに教会を建てて住んでいた。
画像は、カペルナウムに向う所。道沿いの潅木の花 32 52' 50.47"N 35 34' 24.59"E が綺麗でした。
Fi2326439_0e

カペルナウムには、前述のシナゴーグの遺跡があります 32 52' 51.85"N 35 34' 30.54"E 。
画像は、そのシナゴーグの土台です。
Fi2326439_1e
黒い石は玄武岩で、2千年前のイエスの時代のシナゴーグ跡です。
その上の白い石は石灰岩で、3世紀に建てられたシナゴーグの跡です。
ここではない別の場所から運ばれて来た石です。
Fi2326439_2e 3世紀に建てられたシナゴーグの中です。
初期ガリラヤ型式シナゴーグという様式だそうで、その中で最も立派で保存状態が良い物です。
広さは、20.4×18.65m。
シナゴーグの前面は、南、エルサレムの方向を向いています。
前面の前に、両側に階段が付いた台地があります。
この画像は、その台地から撮ったもの。
部屋の中は、東西と北の三辺に円柱が立ち並んでいます。
柱の台座はアッティカ式、柱頭はコリント式と言うそうで、高さ7m以上。
その上には二階の間があって、主に女性の祈りの場だった。
一階の部屋の壁面には、石造りのベンチが設けられていて、床は敷石で舗装されている。
また、円柱にはギリシャ語とアラム語の碑文が彫られていて、このように書かれているそうです。
「モスの子、ヘロデ及びその子ユストスは、彼らの息子達と共に、この円柱を建立せり。」
「ゼビダーの子、ヨハナンの子、ハルフ、この円柱を造れり、彼の上に祝福あらん事を。」
ここはシナゴーグの東隣にある、中庭です 32 52' 51.77"N 35 34' 31.10"E 。
Fi2326439_3e
幅11.25mの不等辺四角形で、三方を列柱で囲まれ、床は敷石で舗装されています。
画像は、敷石に彫られた当時のゲームの跡。何のゲームかは、わかりません。

これはシナゴーグの前(南)に広がる遺構です。
Fi2326439_4e
2千年前の家屋は、湖岸で集めた黒玄武岩を積み上げて造りました。
屋根は木の枝や幹で組まれて、土と藁を混ぜたものを塗っていました。
奥に見えるのは、シナゴーグの近くにあったと言われるペテロの家の跡で、その上に5世紀ごろに八角形の教会が建てられました。
現在、更にその上に建物があるようです 32 52' 50.10"N 35 34' 30.86"E 。
30歳の時、イエスはナザレで初めての宣教を行ったが、不調だった。
彼はここカペルナウムに移り住んで、シナゴーグで度々説教を行った。
小ローマと言われたデカポリス(十の都市)の領域に近く、色々な人々が住んでいたカペルナウムは、彼の新しい教えを受け入れやすかったそうである。
彼はここで、ペテロの義理の母や、ローマ百人隊長の部下の病気を治すなど、数々の奇跡を行った。
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
(マタイによる福音書・8章14、15節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
カペルナウムの町の大部分は、シナゴーグの東側にあるようです。
見た記憶がないので、たぶんまだ埋まっているのだと思います。

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イスラエル旅行・ガリラヤ湖~その2

ガリラヤ湖遊覧の続きです。
ガリラヤ湖は、南北21キロ、東西12キロ、最大水深44メートルで、周りを400m位の山々に囲まれています。
琵琶湖の1/4の広さです。
また、海面下210mにあり、世界最低所の淡水湖です。
ゲネサレ湖、ギンネサルの海、ティベリヤの海とも言われます。
ヘブライ語のキネレット(琴)の意味だそうです。
豊かな水と肥沃な土地のせいで、この辺は実に緑が豊かです。
そのため、古代から多くの都市が栄えました。
また、現在のこの辺りの眺めは、大昔とさしてかわらないそうです。
Fi2323913_0e これは西岸を眺めたところ。
画像中央の崖みたいになっている場所の、奥にうっすらと見える丘は、サラーフ・アッディーンが十字軍を破った、ハッティンの丘です(後述)。
岸には、ガリラヤ湖畔最大の都市、ティベリヤ 32 47' 38.47"N 35 31' 58.46"E があります。
ヘレニズム時代、ヘロデ王の子、ヘロデ・アンティパスが自分の領地の首都として造りました。
第2代ローマ皇帝ティベリウスに敬意を表した名前です。
ここでガリラヤ湖での、イエスにまつわる話を載せます。
まずはイエスと弟子が、ベッサイダに向う途中で嵐に遭った話です。
イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。
イエスは眠っておられた。

弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」
そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
(マタイによる福音書・8章23節~27節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用) 
ガリラヤ湖では、危険な山おろしが突然襲ってきます。
Fi2323913_1e こちらは東岸です。
クルスィ 32 49' 41.06"N 35 39' 16.28"E といって、国立公園やビザンツ時代の遺跡がある所です。
ここでのイエスにまつわる話。
一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。
イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。
「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」
イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。
この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。
イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。
たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。
そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。
ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。
悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。
悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。
すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。
この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。
そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。
彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。
成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。
そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。
彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。
そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。
悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。
「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」
その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
(ルカによる福音書・8章26節~39節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
Fi2323913_2e こちらは北東岸のベッサイダ 32 54' 37.15"N 35 37' 49.98"E です。
ヘロデ王の子、フィリポスがここに町を造って、ローマ皇帝アウグストゥスの娘の名に因み、ユリアと名付けました。
また、イエスの十二使徒のうち、ペテロ、アンデレ、ピリポの故郷でもあります。
この近くの湖面を、イエスは歩いて渡りました。
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
皆はイエスを見ておびえたのである。
しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
(マルコによる福音書・6章45節~52節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
Fi2323913_3e さて、いよいよ北西岸の船着場に近づきました。
山上の垂訓の丘、我々の観光バスが見えます。
運転手さん、お疲れです。
これから、イエスにまつわる観光地を見学します。

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イスラエル旅行・ガリラヤ湖~その1

ゴラン高原から再びガリラヤ湖畔へ。
ガリラヤ湖東岸のエン・ゲブに着きました。
(たぶん、ここ 32 47' 11.49"N 35 38' 11.03"E )
ここで昼食。
午前中の爽やかな高原ドライブのお陰で、食欲旺盛です。
Fi2321255_0e ゴラン高原はワインの産地でもあり、ヤルデンワインを飲んで見る事にしました(画像)。
その他はお決まりのピタと前菜、オニオンスープ。
デザートはなつめやし。

Fi2321255_1e これがメイン・デッシュのセント・ピーターズ・フィシュ(聖ペテロの魚)です。
このような由来があります。
(イエスと弟子達の)一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。

ペトロは、「納めます」と言った。
そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。
「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。
自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」
ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。
「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。
しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。
湖に行って釣りをしなさい。
最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。
それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
(マタイによる福音書・17章24~27節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
つまり、神の子イエスは神殿税を納める必要がない、という事のようです。
しかしそれでは角が立つので、ペテロに釣らせた魚が咥えている銀貨を支払ったとの事です。
銀貨を咥えた魚が、ガリラヤ湖で採れるセント・ピーターズ・フィシュ(黒スズメダイ)です。
予想外の可愛い顔。食べるのがかわいそうだった。
揚げて調理されていて、軽い塩味とレモン汁が付いた、さっぱり味の白身魚でした。
このような何かの由来で名物になっている食べ物は、不味いんじゃないかと思っていましたが、結構美味しくて皆さん隅々まで丁寧に食べていました。
Fi2321255_2e さてレストラン近くの船着場から、湖を渡って北岸のカペナウムに行きます。
向こうから二階建ての大きな遊覧船がやって来て、イタリア人団体客をどっと吐き出しました。
この立派な舟に乗るのだな、と思っていたら、実はその隣にある小さな木造船でした。
小さいけれども、こちらは前述の二千年前の船を真似たそうで、雰囲気があってよかったです。
なんと船上で、日の丸掲揚と君が代吹奏(録音テープ)。
Fi2321255_3e
国旗掲揚なんて高校以来かなあ。
緊張してしまった。
イスラエルは周りを敵に囲まれているので、国家意識が強いのだろうか?

Fi2321255_4e さっきのレストランのピタの余りを、ちぎって投げるとカモメが殺到します。
空中でうまく捕ってくれる様子が見事で、面白かった。
知床遊覧船を思い出しました。
ガリラヤ湖周辺は、イエスの宣教活動の中心でした。
ここからしばらく、イエス・キリストに関する場所が続きます。
イエスの生涯をまとめておこうと思ったのですが、時間がないので後でまとめます。

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イスラエル旅行・ゴラン高原~その2

ゴラン高原観光の続きです。
ゴラン高原のキブツ、メロン・ゴランの近くの、ベンタル山に着きました。33 07' 46.74"N 35 47' 07.89"E 
ここはイスラエルの東端の国境地帯です。
目の前に、シリアとの間にある中立地帯の町、クネイトラがあります。
中立地帯には、国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)という軍隊が駐留していて、オーストリア、カナダを中心に千名余りが活動しています。
自衛隊も40名程参加しています。
そのため、このベンタル山にも国連の車両が停まっていました。
画像は、ベンタル山から見た、周囲のパノラマです。
通常のサイズに伸ばして見てください。
P300a
実に雄大な景色で、ゴラン高原が一望の下です。
画像左端が南で右端が北、中央は西になります。
左端にあるのは、イスラエルで一番高いところ(1165m)にあるコーヒーショップ、コーヒー・アナン(雲)です 33 07' 44.10"N 35 47' 06.83"E 。
他のブログに書いてあったのですが、店の名前が、現国連事務総長の名前とよく似ています。
その下には塹壕と銃座があります。ここは昔イスラエル軍の砦だったようです。
右に視線を移すと、イスラエル領内のゴラン高原の景色が続きます。
こちらは、前の画像の続きで、更に右側です。
通常のサイズに伸ばして見てください。
Fi2318796_1e
左端にある白い山は、ヘルモン山(2815m)。
少し右の山すその奥に、シリアの首都ダマスカスがあります。
その下にある旋回銃座は、中に入って回転させる事ができます。
ヘルモン山から右側は中立地帯です。
画像中央あたりに、たぶんクネイトラの町 33 07' 26.05"N 35 49' 29.75"E があり、その周辺に自衛隊が駐屯しているそうです。
ここは標高が高く、風も強いので、結構寒かったです。
第三次中東戦争の時、クネイトラから西側の幹線道路上には、シリア軍の機甲・機械化旅団4個が展開していました。
6月9日、イスラエル軍のマンドラー機甲旅団とゴラニ歩兵旅団は、シリア軍の対戦車防御が手薄なゴラン高原北部を攻撃し、大損害を受けながらテルファヘル、ナムシュ、カラを突破しました。
味方の兵士が上を渡れるように、鉄条網の上に身を投げ出したといいます。
6月10日にはバニアスを占領し、シリア軍は浮き足立って逃げ出しました。
午後2時にはクネイトラが無血占領され、ゴラン高原一帯がイスラエル軍の占領下になりました。
今やイスラエルが、シリアのダマスカス平原を見下ろす立場になりました。
これ以降、ゴラン高原は休戦地区になっています。
第三次中東戦争は六日間戦争と言われ、イスラエル軍がたったの六日間でエジプト、ヨルダン、シリアを破った戦いです。
そのためアラブ諸国では、屈辱の大きさからナクサ(挫折)と言われました。
1974年から、UNDOFがゴラン高原におけるイスラエル・シリア間の停戦監視、及び両軍の兵力引き離しに関する履行状況の監視を行っています。
(中東戦争の背景であるパレスチナ問題については、こちら
Fi2318796_2e ヘルモン山(2815m)です 33 24' 36.87"N 35 51' 00.19"E 。
正確に言うと、右端がアマナ山、中央がセニル山、左端がヘルモン山です。
古くから聖なる山と呼ばれ、その斜面には多くの聖所遺跡があります。
山頂には真夏でも残雪があり、大気中の水分が急激に冷却する夜間には、大量の露が発生する、という事が旧約聖書にも書かれています。
また、新約聖書によると、フィリポ・カイザリヤでのペテロの信仰告白の六日後、イエスと三人の弟子がヘルモン山に登ったそうです。
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」
イエスが、その神性により変貌した出来事だそうです。
ヘルモン山の残雪は、ヨルダン川の水源になっています。
この雪は、富裕階級の飲み物を冷す為に用いられました。
十字軍の時代、サラーフ・アッディーンは夏のヒッティンでの勝利の後、捕らえたエルサレム王ギーに、ヘルモン山の雪で冷したバラ香水のシャーベットを薦めて労わりました。
現在、この山への登りは7時間かかるそうです。
さて、そろそろガリラヤ湖に帰る時間になりました。
ベンタル山には、鉄の廃材(軍事廃材か?)で作った恐竜やら動物やらのオブジェが並べてあります。
中立地帯という、ただでさえ特殊で緊張感のある場所で見る、変なオブジェの数々は、かなり妙な気分にさせてくれます。
Fi2318796_3e 画像は、ゴラン高原を南下中の風景。

※参考文献は、旅行日記の最後に挙げます。

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イスラエル旅行・ゴラン高原~その1

バニアスを出発して、ゴラン高原の上を通ってガリラヤ湖に帰ります。
Fi2315496_0e ヨルダン川の源流にいた牛。
思わず目が合ってしまった。
食肉用だそうである。

Fi2315496_1e 丘の上の城砦は、ニムロデの要塞 33 15' 08.21"N 35 42' 48.02"E 。
十字軍の砦との説明でしたが、別の資料によると、イスラム帝国が造ったようです。
1228年、アイユーブ朝の総督が、十字軍のダマスカス進撃を阻止する為に、途上にあるこの場所に建てたようです。
マムルーク朝のバイバルスが、それを更に強化しました。
十字軍がパレスチナから一掃されると、無用の長物になりました。
現在は、国立公園になっています。
Fi2315496_2e これは別の方角から見た所。
中には、天守閣、貯水池、見張り塔、外部への抜け穴があるそうです。
天守閣からの眺めは絶景でしょう。
接近する敵軍の様子も、一目瞭然です。

Fi2315496_3e ゴラン高原の景色です。
車窓から撮ったので、残念ながら影が映ってしまいました。
でもここは見渡す限りの緑で、気持の良いドライブが楽しめます。
ゴラン高原は、標高2815mのヘルモン山から、南のヤムルーク渓谷まで、70キロにわたって南北に連なる高原です。
テルという火山丘や、火山岩が無数に転がっていて、ちょっと日本の阿蘇山あたりに似ているかもしれません。

※参考文献は、旅行日記の終わりに挙げます。

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