008アッコー(イスラエル)

イスラエル旅行・アッコー~その8

アッコー観光の続きです。

レストランを出ると、すっかり日が暮れていました。ちょっと肌寒いです。
残念ながらもう観光はできません。

アッコーには他にも、
ハンマーム(もと浴場で今は市立博物館)
ハーヌル・ウムダーン(隊商宿で、ヤッフォにもあったアブドゥル・ハミッド2世の時計塔が建っている。明るければ見えたかもしれない)
ハーヌル・ファランジュ(ヴェネツィア人居留区にある隊商宿)
などがあります。

画像のアーチは駐車場として使われているようです(たぶん 32 55' 10.02"N 35 04' 05.31"E )。
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夜の街も雰囲気満点です。
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この後、半島の西端を海沿いに走るハ・ハガナ通り 32 55' 12.34"N 35 04' 59.90"E を北に向って歩きました。
暗いので写真はあきらめましたが、海沿いに城壁が聳えていました。

ハ・ハガナ通り沿いには、テンプル騎士団のトンネルもあるらしい。
入ってみたいなあ。

バスの運転手が行方不明で、しばらくうろうろする羽目に。見つけて乗車 32 55' 38.08"N 35 04' 09.69"E 。

バスは真っ暗闇の中を、内陸のガリラヤ湖畔、キブツ・ゲネサレに向いました。

パレスチナでの初めての宿。
もちろん夕食は食べずに就寝。

成田を出発して以来、ようやく落ち着けました。

明日はレバノン、シリア国境のゴラン高原に向います。

ここでアッコーの歴史をまとめます。

① 紀元前19世紀のエジプトの呪詛文書に名前が登場する。

② 紀元前15世紀、エジプトのトゥトモス3世の征服地の表に載る。当時アッコーはエジプト領のカナン人都市で、重要な港町だった。その中心は旧市街から1.5キロ離れたテル・エル・フカルという丘にあった。

③ 紀元前14世紀、エジプトのテル・アマルナ文書の手紙の中に登場。

④ イスラエル王国のダビデ王が征服した。

ソロモン王は、ツロ(フェニキア)の王ヒラムに譲った。これよりフェニキア人の都市になる。

⑥ 紀元前8世紀、アッシリア王センナケリブの征服表に載っていた。

⑦ 紀元前7世紀、アッシリア王アッシュールバニパルが占領し、反抗した住民を厳罰に処した。

⑧ 紀元前4世紀、アケメネス朝ペルシャ王カンビュセスはエジプト攻撃の際、ここに軍勢を集結させた。

⑨ ヘレニズム時代に入った紀元前333年、アレキサンダー大王に占領された。アレキサンダーはここに造幣局を作った。

⑩ 紀元前312年、エジプトのプトレマイオス1世が破壊した。

⑪ エジプトのプトレマイオス2世が再建してプトレマイスと改名された。

⑫ 紀元前200年、セレウコス朝シリアが占領。

⑬ ユダヤでマカバイ家の反乱が起きた時、ここは反ユダヤ的な都市だった。

⑭ 紀元前143年、マカバイ家の指導者ヨナタンがここで捕らえられ、殺された。ヨナタンはセレウコス朝の内紛が起きた時、ディオドトス・トリフォンの側についたが、この機会にユダヤの領土を増やそうと図った。そして自分の立場を強化する為にローマ、スパルタと同盟を結んだ。トリフォンは疑念を抱きヨナタンをここに誘い込んで彼と配下の兵を殺した。

⑮ 紀元前104年、ハスモン朝のアレクサンドロス・ヤンナイオスが包囲したが、エジプト軍が接近して包囲を解いた。

⑯ 紀元前65年、ローマの支配下に入る。

⑰ 紀元前47年、カエサルが訪問した。

⑱ 紀元前39年、ローマから帰還したヘロデ王がアンティゴノスを倒す戦いを始めた。

⑲ ネロ帝の時代、ローマ軍第3,5,10,12軍団の退役軍人が入植した。

⑳ 66年の第一次ユダヤ反乱の時、ユダヤ人に反感を持つ住民が2千人のユダヤ人を殺した。また、ヴェスパシアヌスはここに鎮圧軍の基地を置いた。

21 パウロが伝道旅行中に一泊した。ここには既にキリスト教会があった。

22 ビザンツ帝国の支配下に置かれる。

23 636年、イスラム軍が占領した。

24 ウマイヤ朝カリフのムアウィアが、キプロスと北アフリカ攻撃の為の艦隊を作った。

25 1104年、十字軍のボードワン1世がジェノバ艦隊の支援の下、ここを占領し略奪した。

26 1187年、アイユーブ朝のサラーフ・アッディーンが占領する。

27 1189年、エルサレム王ギーの軍2万が包囲すると、サラーフ・アッディーンがそれを包囲するという二重包囲戦になった。1191年、第3回十字軍のイングランド、フランス軍2万が到着して、ついにアッコーは陥落した。

28 エルサレム王国の首都となる(アッカ王国とも言われる)。人口は5万であった。

29 1291年、マムルーク朝のスルタン、エル・マリク・エル・アシュラフが占領、破壊する。パレスチナの十字軍は一掃された。

30 17世紀、エミル・ファクル・エ・ディンが市の一部を再建。

31 18世紀半ば、ダヘル・エル・アムルが内側の城壁を再建する。

32 18世紀後半、アフメッド・アル・ジャッザールがジャーマ・アル・ジャッザール、ハーヌル・ウムダーン、ハンマームを建築し、聖ヨハネ騎士団の廃墟(十字軍の街)の上に要塞を作った。

33 1799年、ナポレオンが2ヶ月に渡って包囲したが、ジャッザールが撃退した。梯子の長さが城壁の高さに50cm及ばなかったという。

34 19世紀、エジプト総督ムハンマド・アリーとオスマン帝国の争奪の舞台になった。

35 20世紀、イギリス委任統治領になり、要塞が監獄として使われた。

36 現在、旧市街はアラブ人、新市街はユダヤ人が住んでいる。

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イスラエル旅行・アッコー~その7

アッコー観光の続きです。

十字軍の街の脱出路を抜けると、そこはアラブ人街だった。
未だに脱出路の出口がどこなのかわかりません。資料によると、隊商宿エル・ボスタ近くらしいが、違うような気もします。
知っている方、教えて下さい。

石造りの情緒あふれる路地を辿って、半島の突端のレストランに急ぐ我々。
日暮れが近い街に点るオレンジ色の街灯が、いい感じです。
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Fi2300693_1e バザールを通過する。

香辛料の香りが鼻をつく。
ここはマルコポーロ通りと呼ばれるスーク 32 55' 18.29"N 35 04' 13.07"E だろうか?

脱出路を出て以来、どこをどう通っているのかさっぱりわかりません。

Fi2300693_2e この辺りは、十字軍の時代にはヴェネツィア商人とジェノバ商人の居留区の境目ではなかったかと思われる。

彼ら商人は港のそばに住んでいた。
街並みは十字軍の時代と違うが、マルコ・ポーロもこの辺に泊まっていたのかも。

壁にはアラビア語の横断幕。油断すると迷いそうな街並み。
じっくり歩いてみたいなあ。

やっとレストランに着いた。
海沿いにあるアブ・クリストというシーフード・レストラン 32 55' 09.56"N 35 04' 07.16"E 。

十字軍時代はピサ商人の居留地だった辺り。

現在16:40。中途半端な時間ですが、実はこれ昼食です。
押せ押せのスケジュールで、アッコーに着いた時既に16時前。
日没になると観光できなくなるとの事で、十字軍の街観光を優先させたのでした。

Fi2300693_3e 現地で食べる初めての食事です。

まずはピタというパンと、前菜です。
ピタに前菜を挟んで食べます。

前菜は、
フムス(ヒヨコ豆のペースト)
・テヒニ(ゴマのペースト)
・ババガヌゥシュ(ナスのペースト)
・カットしたキュウリとトマトをレモンで和えた物
など10品位。

種類が多いので飽きる事がなく、おいしかったです。
画像では皿に盛り付けてしまったので、ごっちゃになっています。

Fi2300693_4e メイン・デッシュはシーバス、ヒラメ、エビ、イカ、ムール貝から選べました。

画像はエビです。

結構ボリュームがあったのですが、一日中歩き回っただけあって、なんとなく平らげてしまいました。

イスラエルではコーシェル・フードが一般的です。
コーシェル・フードとはユダヤ教で定められた食べ物の事で、例えばエビ、イカなど鱗のない魚類は食べてはいけません。

しかしこのレストランはアラブ系なのか、食べる事ができます。
最後はアラビック・コーヒーで締め。

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イスラエル旅行・アッコー~その6

十字軍の街観光の続きです。

食堂から伸びている脱出路です。
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脱出路は、十字軍が食堂を作ったときに発見されたようで、ヘレニズム時代のもののようです。
北は旧市街?の城壁、南は港へ通じており、全長350mですが、現在通れるのはその一部、65mのみです。

ナポレオンがアッコーに侵攻した時、オスマン朝の知事アル=ジャッザールは、もしナポレオンが町を占領するような事があれば、この脱出路を使って逃げるつもりだったようです。

途中、別の部屋に道が伸びています。

どうなっているのか見てみたいのですが、後から人が来るので止まる訳にいきません。

途中何回かカーブして・・・。
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先はどうなっているんだろう?ワクワクしながら進んで行きます。

トンネルはどんどん狭くなっていきます。
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やっと出口に出ました。

Fi2297817_3e ここが一体どこなのか、もはや見当も付きません。
出口の脇にはこんな石板が。

これは十字軍時代の墓石で、司教の衣装を身につけた聖ニコラスと思われる聖者(中央)に、死者(左側)が祈りを捧げている図だそうです。



Fi2297817_4e 反対側にもう1つの石板がある。

ラテン語の文章が掘られた大理石。
これは何なのかわかりません。
当時の歴史的事件が刻まれた聖ヨハネ騎士団の指導者を記念する碑が出土されているそうだが、これがそれなのかな?

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イスラエル旅行・アッコー~その5

十字軍の街観光の続きです。

Fi2295280_0e 騎士のホールから中庭に出ました。
次は中庭の南にある食堂に向います。







Fi2295280_1e_2 食堂です。
あるいは地下聖堂とも言われています 32 55' 23.18"N 35 04' 09.07"E 。

なぜ食堂かと言うと、
① 二つの通路を持つ広間である事。
② 東側の壁に3本の煙突がある。
だからだそうです。

3本の太い柱は直径3m。
ここの柱は特に美しいです。

発見された時、この部屋の中は土や石で一杯だった。
18世紀にこの部屋の上に要塞を建てたオスマン朝の知事、アル・ジャッザールが、部屋が重みで潰れないように充填物を入れたそうである。

ここは歓迎式も行われたようです。
ある資料によると、ポーロ一行はここで歓迎されたそうです。

部屋の隅にあるコンソール(壁際に付けられた照明器具)です。
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下に白ユリの装飾が付いています(画像中央)。
白ユリがフランス王家の紋章である事から、この部屋を造ったのは第二回十字軍を指揮したルイ7世と言われている。

十字軍の街には7つのホールがあるらしいですが、公開されているのは以上の3つだけです。

両側に店が建ち並ぶ屋根つきの通りがあるらしいですが、今回そこを歩いたかどうか定かではありません。

この部屋の中央の階段を下りると、脱出路が伸びています。
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最後にこの脱出路に入っていきます。

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イスラエル旅行・アッコー~その4

十字軍の街観光の続きです。

Fi2292378_0e ここは騎士のホールです 32 55' 25.10"N 35 04' 09.30"E 。

本部や牢獄と違って、かなり広そうです。
ここでは騎士達が敵襲に備えて武術の訓練をしていたらしい。

正面奥に、騎士のレリーフがあります。

Fi2292378_1e 中はひんやりとしている。

四角い石が綺麗に積んであります。
ヘレニズム時代の遺跡はもっと雑でした。

ちなみに石切り場が近くにあって、建築用に使われたそうです。


ここも騎士のホールの一部ですが、ちょっと独立しているようです。
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何に使われたのか?

Fi2292378_3e 隅には出土品と思われる石臼(ぶどう絞り器?)がありました。







Fi2292378_4e 今ではコンサートなどに使われているそうです。
一度ここで聴いてみたいものです。


ここで十字軍騎士団についてまとめます。

十字軍の騎士団(騎士修道会)は、パレスチナの占領地を守る為に作られました。

最初の遠征が行われた後にほとんどの兵士が帰国した為、占領地をどう守るかが問題になった。
一部の兵士が聖地巡礼者を守る為に自ら残ったのがはじまり。
教会が彼らを取り込んだ為、鎧を身に着けながら修道僧のような生活をするという、特異な戦士が生まれた。

代表的な騎士修道会は、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、チュートン騎士団など。

やがて彼らは経済的、軍事的に大勢力に成長し、後に財政難に直面したフランス王フィリップ4世がその財産目当てにテンプル騎士団を壊滅させるという事件が起きている。

聖ヨハネ騎士団は、もともと十字軍が始まる前に巡礼者の医療組織として生まれた。
しかし12世紀には軍事組織としても発展し、エジプト遠征の際には500人の騎士(従者なども含めると2千人位)を派遣できた。

彼らは鎖帷子の上に、白い十字架マークのついた黒いサーコートを身につけていた。
後に衣装が変わり、マルコ・ポーロが訪れた時は、赤地に白い十字架のついたサーコートをまとった彼らを見た事だろう。

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イスラエル旅行・アッコー~その3

十字軍の街観光の続きです。

Fi2289556_0e 本部の奥には牢獄がありました。
画像はその入口です。







Fi2289556_1e 牢獄とは思えない見事なアーチ。

幻想的な眺めです。
のんびりと十字軍時代に想いを馳せていたいものです。





Fi2289556_2e ここは20世紀のイギリス委任統治時代まで、牢獄として使われていたそうです。

武装闘争を行なっていたシオニストが収容されていたのだと思います。
彼らはここから脱出したらしいのですが、詳しい事はわかりません。


部屋の奥には、このような鉄格子があって、更にその奥にも部屋が見えました。
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ここで中庭に出て、騎士のホールに向います。

Fi2289556_4e 中庭は、オスマン時代の高さ30mの城砦に囲まれています 32 55' 24.17"N 35 04' 09.07"E 。

前述の本部または病院は、この中庭の東側に位置するようです。
これから入る騎士のホールは、北側に位置するようです。
西側のホールは、まだ未発掘のようです。

ここは迷路のようで、自分がどこにいるのかわからなくなります。


ここで十字軍の歴史をまとめます。

異教徒に対するキリスト教の聖戦は、既に11世紀半ばのスペインでイスラム教徒からの国土回復戦争(レコンキスタ)という形で実施されていた。
教皇アレキサンデル2世はイスラム教徒と戦う者の全ての罪を許すと宣言し、多くのフランス騎士がレコンキスタに参加していた。

十字軍は、トルコ系のルーム・セルジューク朝に攻撃されたビザンツ帝国のアレクシオス1世が教皇ウルバヌス2世に救援要請を行なった事で始まった。
この時アレクシオスが嘘を吐いたのだろうか、聖地パレスチナではキリスト教徒が男色の辱めを受けて迫害されているという噂が流れた。

この為クレルモン公会議で、聖地への十字軍の派遣を行なう事、参加者はキリストの兵士として免罪される事が決まった。

西欧にとっての十字軍は崇高な聖戦だったが、実際は聖地で一旗揚げようと目論んだり東方貿易の利権を得ようという野望が入り混じった物だった。

一方イスラムにとっては蛮族の侵略以外の何物でもなく、自国の利益の為には「聖戦」のスローガンを掲げる事も、十字軍国家と同盟を結ぶ事もいとわなかった。

十字軍発生の背景
・西欧では人口と生産力が増大していたので外部に進出する余裕があった。
・教皇の権威が高まっていた。
・商人が東方貿易の拡大を望んだ。

十字軍は結果的に西欧に以下の影響をもたらした。
・先進的なビザンツとイスラムの文化、技術を西洋にもたらした。
・大規模な人間、物資の移動と、遠征資金調達の為の徴税業務は、経済・金融の発達をもたらした。
・遠征資金の負担と戦死により騎士(封建領主)が没落し、相対的に国王の権力が強まった。

1. 第一回十字軍(1096~)
①まず隠者ペトルスの民衆十字軍が、後からゴドフロアらのフランス騎士十字軍がアナトリア半島から聖地を目指した。

②民衆十字軍はルーム・セルジューク軍の襲撃で失敗したが、騎士十字軍15万(うち戦闘要員3万5千)はルーム・セルジューク軍を破ってエルサレムを占領、異教徒の大虐殺を行なう。
この過程でシリア、パレスチナにエルサレム王国を始め多数の十字軍国家が建設された。
この頃の中東のイスラム勢力はセルジューク朝の分裂と内紛で弱体化し、十字軍の敵ではなかった。

③十字軍の兵力調達の為、聖堂騎士修道会、テンプル騎士団を設立して大量の移民を行なう。

④南シリアのイスラム国ブーリー朝は、十字軍よりも北シリアのイスラム国家を警戒してエルサレム王国と同盟していた。
イラクのザンギー朝は南シリアを手に入れる為、ブーリー朝に十字軍へのジハード(聖戦)を呼びかけたが失敗する。しかし十字軍国家エデッサの征服に成功した。

2. 第二回十字軍(1147~)
①エデッサ陥落の知らせに衝撃を受けて、フランス王ルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世が参加。
アナトリアで兵力の大半を失いつつ聖地に着いた彼らは、何故かエデッサに向わず同盟を破棄してブーリー朝のダマスカスを攻撃する。

②ブーリー朝の救援依頼を受けたザンギー朝(ヌール・アッディーン)は十字軍を撃退。
同時に念願の南シリア進出を果たす。

③エルサレム王は国力の弱ったエジプトのファーティマ朝攻撃を計画する(豊かなエジプトを占領すれば聖地パレスチナの支配も転がり込む)。
事の重大さを悟ったヌール・アッディーンは救援依頼に応え、機先を制して武将サラーフ・アッディーン(サラディン)を送って防衛する。

④サラーフ・アッディーンは、ファーティマ朝カリフの死後アイユーブ朝を立て、ヌール・アッディーンが死ぬとザンギー朝も併合してエジプト・シリアを統一する。

⑤サラーフ・アッディーンは、ジハードを宣言して十字軍国家への攻撃に着手し、ヒッティン(後述)で大勝した後エルサレムを奪回する。

3. 第三回十字軍(1189~)
①エルサレム陥落に衝撃を受けた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍3万、イングランド王リチャード1世の軍8千、フランス王フィリップ2世の軍数千が参加。
フリードリヒ1世はアナトリアで謎の溺死、神聖ローマ軍は到着前に崩壊しパレスチナに着いたのは千人。

②フィリップ2世は要衝アッコーを占領すると責任は果たしたとばかりに帰還してしまい、サラーフ・アッディーンとリチャード1世の対決になる。
しかし遂にエルサレムは奪回できず、リチャード1世は僅かな領土を確保して和議を結んで帰還する。

4. 第四回十字軍(1202~)
モンフェラート候ボニファティウスが指揮(3万5千)。
海上輸送を担当したヴェネツィアは、十字軍が輸送代金の支払い遅滞に陥ると、その代わりにヴェネツィアに反目する都市ザーラやビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルの攻撃を要求。

パレスチナに行かずにキリスト教国を攻撃するという失態だが、教皇も追認せざるを得なかった。

5. 第五回十字軍(1217~)
シャンパーニュ公ブリエンヌが指揮(5万)。
エルサレムとの交換を狙ってエジプトのダミエッタを占領しアイユーブ朝の合意を得るが、同行した教皇特使ペラギウスが神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の到着を期待して合意を破ってカイロに進撃、堤を破られて増水したナイル川の中で身動きが取れなくなり敗退。

6. 第六回十字軍(1228~)
十字軍参加の遅延により教皇から破門された神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が指揮。
開明的なシチリアの宮廷で育った為イスラム教に理解があり、アイユーブ朝のスルタンと交友関係があったフリードリヒは、身内争いに悩むスルタンと交渉して戦う事無くエルサレム、ナザレ、ベツレヘムを手に入れた。

しかしイタリアの支配を巡ってフリードリヒと争っていた教皇は、この平和的解決が気に入らずに、フリードリヒ領のイタリアに攻め入った。

またエルサレムは後にダマスカス王によって奪回された。

7. 第七回十字軍(1248~)
フランス王ルイ9世が指揮。
アイユーブ朝のスルタン死去でエジプト占領の好機だったが、土壇場で対モンゴル戦用に育成されていたバイバルス指揮のマムルーク軍団の反撃に遭い、辺境から到着した敵の援軍に補給路を断たれて捕虜になる。
身代金と引き換えに釈放された。

②アイユーブ朝は皇太子が暗殺されて後継者がいなくなり、混乱の後にマムルーク軍団長アイバクに政権移譲された(マムルーク朝)。
アイバクは邪魔なバイバルスを追放。しかしアイバクも部下に暗殺される。

③モンゴル軍のシリア侵攻という国難に直面したマムルーク朝は、不和になっていたバイバルスと和解してモンゴル軍をアイン・ジャールート(後述)で撃退する。
その後バイバルスはスルタンに即位。

8.第八回十字軍(1270)以降
①フランス王ルイ9世がチュニスを攻撃するが、現地で病死して撤退。

②バイバルスは十字軍国家の一掃に取り掛かるが途中で死去。

③1291年に十字軍最後の拠点アッコーが陥落して、十字軍国家はパレスチナから姿を消した。

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イスラエル旅行・アッコー~その2

アッコーの十字軍の街観光の続きです。

ここで今回の旅行の主目的である、マルコ・ポーロのパレスチナ滞在について触れてみます。

1270年末にヴェネツィアを出航したニコロ・ポーロと弟のマッフェオ、息子のマルコは、1271年にアッコーに着きました。

彼らの旅の目的は、モンゴル帝国の皇帝フビライの要求をローマ教皇に伝え、その答えをフビライに伝える事にありました。

フビライの要求とは、
①キリスト教の学者百人を送る事。
②エルサレムのキリストの墓所の上にあるランプの聖油を持って帰ること。
の二つでした。

①については、フビライはキリスト教に関心を持っていたので(彼の母をはじめ、重臣の中にもキリスト教徒がいた)、キリスト教を究めた者が仏教徒やイスラム教徒よりも優れている事を国民に証明出来れば、彼自身入信しても良いと考えていたからだった。
②については、聖油が奇跡を起こすと聞いていたからだった。

これはポーロ家にとってもチャンスで、うまくいけば東方貿易において有利な立場に立つ事ができました。

Fi2286491_0e 画像は十字軍の街の上にある建物、たぶん宝庫の塔です 32 55' 25.86"N 35 04' 11.39"E 。右側はビジターセンターになっています。






ところが、当時は肝心の教皇が空位でした。

1269年にクレメンス4世が死去して以来、枢機卿達はローマのシスティーナ礼拝堂 に集まって、大多数の一致で決まるまで投票を続けていました。
決定したら白い煙を、未決定ならば黒い煙を立てると言う方法でしたが、実に3年間も 黒い煙が立ちつづけました。

怒った貴族達は、決定するまで扉を施錠して枢機卿達を礼拝堂に閉じ込めました。
この「コンクラーベ(鍵のかかった)」という言葉は法王選挙の名前として現在も使われ ています。

フビライの信書を携えて中国から帰ったニコロ・ポーロは、これを聞いてとりあえずヴェネツィアに帰ったのですが、一向に決まる気配がありません。
フビライを待たせる訳にもいかないので、マルコを連れてパレスチナに来たのでした。

ニコロは手始めに、教皇の代理としてパレスチナの十字軍を指揮していた教皇特使テオバルド・ビスコンティ・デ・ピアチェンツァに相談する為に、アッコーに来たのでした。
テオバルドはこれを、キリスト教が中国にまで広まるまたとないチャンスだと考えていました。
しかし決まらない事には仕方がなく、とりあえずポーロ一行はテオバルドの許可状を得て、聖油をもらいにエルサレムに行きました。

Fi2286491_1e 画像は十字軍の街に降りていく入口です 32 55' 25.05"N 35 04' 11.30"E 。

一見地下に降っていくように見えますが、どうもオスマン帝国の時代に十字軍の街の上に要塞を建築した為に、地下室みたいになってしまったようです。




エルサレムから戻っても未だに教皇が決まらないので、ポーロ一行は中国に向けて旅立つ事にしました。
その際テオバルドは、要望に応えられない理由、教皇が決まったら要望に応えるよう努力する事、ポーロ一行が任務遂行の為に大いに努力した事を、教会を代表する公式の手紙に書いて与えました。

ポーロ一行が旅立ってライアスの港にいた時、テオバルドの使者がやってきて、すぐにアッコーに戻れと命令しました。

画像は、入口から出てきた所にある騎士のホールへの入口。
Fi2286491_2e
十字軍時代のアーチの組み方が良くわかる場所との事です。
アーチの真上に逆三角形の石材を組み込んでいます。

実は新教皇にテオバルドが選ばれたのでした。

彼はグレゴリウス10世と名乗り、アッコーに戻ったポーロ一行に祝福を与えました。
そしてフビライに献上する様々な贈り物を渡しましたが、百人の学者は無理だった。

代わりにグリエルモとニコロという二人の司祭に、中国で司教や司祭を任命する権限を与えて同行させました。

一行は再びライアスに向かい、いよいよアルメニアに入ろうとしていた。

ここは聖ヨハネ騎士団の本部または治療院です 32 55' 24.87"N 35 04' 10.80"E 。
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ここは、旧市街の地面から8m下がった所にあります。
まるで葉を広げたヤシの木が連続しているかのような独特のアーチ。
四角い5本の柱が天井を支えています。

ポーロ一行がテオバルトに接見したのは、たぶん司教の館とか城ではないかと思い ますが、このような雰囲気の場所だったのだろうか?

ところが、二人の司祭が逃げ帰るという事態が起きてしまった。

一行は、フビライと仲の良いイル・ハン国の領域(現在のイラン、イラク、トルコ東部)を通って中国に到達しようとしていたが、不敗を誇ったイル・ハン国軍は、エジプトのスルタン、バイバルス(後述)に敗れてかつての勢いを失っていました。

また同じモンゴル人国家で、イル・ハン国の北方にある反フビライ派のキプチャク・ハン国(現在のウクライナ、ロシア、カザフ共和国)とも対立していた。

上記の状況から、アルメニアにはバイバルスのイスラム軍が侵入しており、キリスト教の司祭である彼らは捕らえられるのを恐れたのである。

丁度、十字軍であるテンプル騎士団の一隊がアッコーに向おうとしていた為、二人は騎士団と共に帰ってしまいました。

仕方なくポーロ一行は彼らだけで中国に向いました。そしてマルコ・ポーロの東方見聞録の記述はアルメニアから開始された。

一説によると、二人の司祭は帰還した事を教皇グレゴリウス10世に報告しなかった為、教皇は二人が中国を旅していると思っていたそうである。

またグレゴリウス10世は、イル・ハン国と同盟してバイバルスを挟撃する為に、数年後のリヨンの公会議で十字軍を説教したが、彼の死去で結局実行されなかった。

余談ですが、今回の教皇選挙で中々決まらなかった事が問題になり、リヨンの公会議で選挙改革が行なわれた。この時決まった方式は現在も続いている。

画像は同じく聖ヨハネ騎士団の本部。
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更に奥に進んで行きます。

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イスラエル旅行・アッコー~その1

世界遺産の町アッコーに向います。

Fi2283674_0e これはイスラエル第3の都市ハイファ 32 49' 26.80"N 34 58' 39.09"E の一部と思われます。

カルメル山と地中海に挟まれた、岬の上の海と丘の街。
ローマのウェスパシアヌスの軍団駐屯地として作られた。

少数派の宗教が共存する街で、自由と平等の町といわれるそうだ。
またイスラエル唯一の地下鉄がある。

カルメル山は、古代オリエント時代にフェニキアの神バアルの聖所があった。

北イスラエル王国のアハブ王の時、王によるバアルの祭儀導入に反対する預言者エリヤが、カルメル山がイスラエルの神の物である事を証明する為、バアル神の450人の祭司と対決した。
バアルの祭司はバアル神に叫んだが何も起こらなかった。しかしエリヤが叫ぶとイスラエルの神は火で応えて積まれていた犠牲を焼いた(旧約聖書)。

このエピソードは、カルメル山での祭儀がバアル神からイスラエルの神へ移行した事を表しているそうです。

アッコーの旧市街に着きました。

Fi2283674_1e 画像は、ワイツマン通りから見た旧市街の入口 32 55' 28.23"N 35 04' 19.06"E の左側です。

かつて十字軍の時代やオスマン帝国の時代に大いに栄えたアッコー(アッカ、アッコン、アクレ、アークルともいう)は、今はハイファの陰に隠れた一都市に過ぎなくなっています。

旧市街は城壁に囲まれていて、南に突き出た半島になっています。半島の内側はアッコー湾で港になっています。
今の旧市街はアラブ人地区になっていて、その街並みはオスマン帝国時代(18世紀)に造られた物。

かつてイスラム勢力に占領された14世紀にアッコー(アークル)を訪れたドイツの聖職者ルドルフ・フォン・ズーヒェムは、著書「聖地案内記」でこう述べている。

「先にも言った通り、偉大な都市アークルは、海岸に面して四角い切り石で建てられておりました。
・・・・四方に塔が高く堂々と聳え、・・・・それら二つの塔の間には、それぞれ1つの市門がありました。
市内の街路は非常に清潔で、建物は皆同じ切り石で、同じ高さに作られ、そのすべての壁はガラス窓と壁画で美しく飾られていました。
・・・・街の道路は、絹のような布か、美しい天幕の覆いがあり、それが直射日光を遮っておりました。」

Fi2283674_2e 画像は、駐車場でバスを降りて十字軍の街の入口に向う所です 32 55' 25.61"N 35 04' 15.31"E 。

正確に言うと聖ヨハネ騎士団という、聖地巡礼者の医療を担った組織の支配地区です。

十字軍の時代には、十字軍の複数の騎士団が市内に支配地域を持っていて、そこにはそれぞれ総司令部と修道院が建っていました。
また、イタリアやドイツ商人の居住地区があり、港では東西の商品が大量に経由して行きました。
当時の城壁で囲まれた市街は、現在の旧市街の3倍の広さがありました。

日が暮れて観光ができなくなる前に急いで入ります。

Fi2283674_3e 中に入るとフェスティバル・ガーデンという中庭があります 32 55' 25.47"N 35 04' 14.17"E 。

コンサートなどに使われているそうです。城壁に囲まれたこの場所で聴く音楽は格別でしょう。
観光案内所もここにあります。



中庭の向こうにある緑色の屋根のモスクは、ジャーマ・アル・ジャッザールです 32 55' 21.74"N 35 04' 12.83"E 。
Fi2283674_4e
18世紀、オスマン帝国の知事アフメッド・アル・ジャッザールが建てた物で、イスラム教の始祖ムハンマドの頭髪があるとの事。
また内部は大理石、シャンデリア、ペルシャ絨毯で飾られ、相当美しいそうだが今回は観光せず。残念。

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