006テルアビブ=ヤッフォ(イスラエル)

イスラエル旅行のまとめ

2005年12月28日~2006年1月4日のイスラエル旅行をまとめました(画像約360枚)。

下記のリンク先は正しくありません。右下のカテゴリ欄から該当の地名を探して入ってください。

旅行目的と、往路・飛行機からの眺め
成田~ウズベキスタン共和国・タシケント空港~カスピ海~アルメニア共和国のセヴァン湖?~トルコ共和国・アララト山

テルアビブ
テルアビブ上空の眺め~ベン・グリオン空港オペラタワー~独立公園~マカビー競技場?~シャロンの野

ヤッフォ
皮なめしシモンの家付近~ハ・ピスガ公園~聖ペテロ教会~ラメセス2世の門アンドロメダの岩とジャーマ・アル・バフル~ジャーマ・アル・マフムディーヤ~クロックタワー

カイザリア
城壁の跡~半円劇場ヘロデの宮殿~戦車競技場十字軍の街~ビザンツ時代のアーチ・モザイク・街路ローマン・ヒッポドローム遠景~水道橋

アッコー(世界遺産)
ハイファとカルメル山遠景~ワイツマン通りから見た旧市街の入口~十字軍の街の入口~フェスティバル・ガーデン~ジャーマ・アル・ジャッザールオスマン帝国の塔~十字軍の街(聖ヨハネ騎士団の本部または治療院牢獄~中庭騎士のホール食堂あるいは地下聖堂脱出路~十字軍時代の墓石)スーク(マルコポーロ通り)?~シーフード・レストラン(アブ・クリスト)ハ・ハガナ通り

ゴラン高原
フーラ盆地~テル・ダン周辺~地雷原~バニアス(バニアスの泉~牧神パンの洞穴~アウグストゥスの神殿~ドルーズ派の聖所神聖なる山羊の墳墓寺院~牧神パンと踊る山羊の神殿~ネメシスの中庭~牧神パンと妖精の中庭~ゼウスの神殿)ヨルダン川の源流~ニムロデの要塞ベンタル山(ヘルモン山の眺め)

ガリラヤ湖周辺
イガル・アロン・センター(二千年前の船)~コロザイン(コラジン)周辺~フーラ国立公園周辺エン・ゲブ(セント・ピーターズ・フィッシュ)ガリラヤ湖上からの眺め(ヒッティンの丘~クルスィ~ベッサイダ)カペルナウム(シナゴーグ~ペテロの家の跡オリーブ圧搾器など)山上の垂訓教会タプハ(パンと魚の増加の教会ペテロ首位権の教会)ガリラヤ湖畔の日の出~キブツ・ゲネサレ~ミグダル(マグダラ)村~ヒッティン(ハッティン)の丘周辺

カナ
フランシスコ会の教会~ギリシャ正教の教会

ナザレ
受胎告知教会(受胎告知の洞穴礼拝堂~日本の聖母子像~ドーム天井~中庭地下の遺構)聖ヨセフの教会~スーク

ツィッポリ(セッフォリス)
下の都市(カルドとデクマヌス)~ナイルの祝祭の家十字軍の要塞~ローマ風の別荘(ディオニュソスのモザイク、ガリラヤのモナリザ)

エズレル平野
タボル山遠景~アフーラ近郊のキブツ経営のレストラン~モレの丘~アイン・ジャールート(巨人の泉)周辺~ギルボア山~ベト・アルファ近郊

ヨルダン川西岸
ベト・シェアン近郊~ヨルダン渓谷アベル・メホラ周辺エリコ周辺~デイル・ハジラ(ゲラシモス)の修道院

死海
死海~ユダの荒野ソドム(ロトの妻)死海の初日の出死海の浮遊体験エン・ボケックエン・ゲディ

マサダ(世界遺産)
ローマ軍の陣地~蛇の道の門頂上南側~石切り場~貯蔵庫群大浴場北の宮殿~ユダの荒野パノラマシナゴーグ~ビザンツ時代の教会~西の宮殿熱心党の居住区~蛇の道

クムラン
監視塔~古代の貯水槽~写経室中庭~集会場~食器室クムラン涸河の磨崖洞穴~陶工の作業場~炊事場



エルサレム旧市街(世界遺産)
オリーブ山(東エルサレムのパノラマ昇天教会遠景~主の祈りの教会~主の泣かれた教会万国民の教会(ゲッセマネの園)聖スティファノス教会~マリアの墓の教会~マグダラのマリア教会遠景)~キドロンの谷(アブサロムの墓~ゼカリヤの墓)
旧市街を囲む城壁(黄金門~シオン門~ダビデの塔~新門オフェル考古学ガーデン~糞門~ロビンソン・アーチ)神殿の丘西壁(嘆きの壁)西壁プラザの入口~エル・カタニン(綿織物市場)通りの入口~岩のドーム(説明のみ)
ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)(第1,2留(説明のみ)~第3留~第4留第5留~第6留第7留~第8,9留(説明のみ)~ムリスタン地区)~
聖墳墓教会(ゴルゴタの丘)(第10留~第11留第12留(イエス死去地)~第13留塗油の石~第14留(イエスの墓)あざけりの教会?~中世の巡礼者が刻んだ十字架聖ヘレナ礼拝堂~聖十字架発見の聖堂~雷で砕かれた岩)
現在のカルドー~ローマ時代のカルドー~ラムバン・シナゴーグシオン山(マリア永眠教会~最後の晩餐の部屋ダビデ王の墓)~ヒンノムの谷

ベツレヘム
ヘロディウム遠景~分離壁~メンジャー通り~メンジャー広場~聖誕教会(入口~ギリシャ正教の礼拝堂イエス生誕の洞穴~フランシスコ会の聖カテリーナ教会ヒエロニムス像~ヒエロニムスの書斎の洞穴、または埋葬の洞穴~羊飼いの野~マール・エリヤス修道院

エルサレム新市街
自由の鐘公園~モンテフィオールの風車~キング・デービッド・ホテル~エルサレム市役所ホテルからの市街パノラマ~弾薬の丘~ヘルツェルの丘ホーリーランド・ホテルの第二神殿時代のエルサレム模型十字架の谷(クネセット~十字架の修道院)~タイム・エレベーター~マミラの池ヤド・ヴァシェム(ホロコースト記念館)~エンカレム遠景ベン・イェフダ通り~ヤッフォ通り~ティホ・ハウス~エチオピア(アビシニア)正教会の教会堂~メア・シェアリーム地区マハネー・イェフダ・スーク~エツ・ハイム教学院?~キング・ジョージ通り~独立公園グレート・シナゴーグ~ウルフソン博物館~新市街の日没

復路・飛行機からの眺め
ベン・グリオン空港(出国審査)天山山脈?~三浦半島

旅の感想・参考資料

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ヘロデ王の生涯
カイザリヤの歴史
ヘレニズム時代のユダヤ人の歴史
マルコ・ポーロのパレスチナ滞在
中東の十字軍の歴史
十字軍騎士団
アッコーの歴史
バニアスの歴史
ペテロの生涯
サラーフ・アッディーン(サラディン)の生涯
ツィッポリの歴史
バイバルスの生涯
第一次ユダヤ反乱
フラウィウス・ヨセフスについて
イエスのエルサレム入城
エルサレムの歴史
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教について
ユダヤ教の習慣
イエスの死刑に至る経緯
聖墳墓教会の歴史
ユダがイエスを裏切った理由
ダビデの生涯
第一次ユダヤ反乱時のエルサレム陥落の様子と、イエスのエルサレム滞在の足取り
ユダヤ人に対する迫害理由
日本人とユダヤ人の類似点

※グーグルアースの画像がより詳細なものに更新されたため、本文中の座標値を修正しました。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その6

ヤッフォを出発して、北のカイザリヤに向います。

テルアビブ市内
に入りました。
海岸線と並行しているハ・ヤルコン通りを北上します。
この通りにはシェラトンやヒルトンなどリゾートホテルが軒を連ねています。
画像はオペラタワー 32 04' 26.37"N 34 45' 57.65"E 。ホテル、ショッピングセンター、映画館があります。
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独立公園
です 32 05' 28.86"N 34 46' 18.78"E 。
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敷地内に何故かヒルトンホテルが建っています。
テルアビブの地名は建国にからんだものが多いようです。

イスラエルの一般的なマンションだそうです。
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外壁は白い石材を貼り付けてある。

市内北側のハ・ヤルコン川を越えた辺り、マカビー競技場だと思われます。
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“マカビー(鉄槌)”という名は、イスラエルの代表的なビールやスポーツチームの名前に使われています。
ヘレニズム時代にセレウコス朝に対して反乱を起こした英雄、ユダ・マカバイに因んでいるのかもしれません。

テルアビブを出るとシャロンの野が広がっています。
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北のズィカロン・ヤコブまで60キロに渡って続くかんきつ類の畑が広がる平原です。

ソロモン王の恋愛詩(旧約聖書)に「私はシャロンの野花、谷のユリ」という一節がある通り、春は野花が咲き誇る場所らしい。

また、バビロン捕囚時代(後述)の預言者第二イザヤが、捕囚から解放されて再びパレスチナに帰還する事を預言して、
「これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」
と言った(イザヤ書35章2節3節、財団法人日本聖書協会の「口語訳聖書」検索サービスより引用)。

長年マラリヤが発生する沼地だったが、ユダヤ人入植後に再び緑の平野になった。

さてカイザリヤに近づいてきました。


ここで古代オリエント時代のイスラエル人の歴史をまとめます。

1. パレスチナ入植時代(1230BC~)

非武装のイスラエル人がカナン人の町の隣や間に平和的に移動し定住した。
移住した集団はベテルやシケム周辺に入植した北のグループと、カデシュ・バルネアからユダ地方に入植した南のグループがあった。

しばらく後に力を蓄えると、場合によっては武力を用いて町を取得する事もあった。
このころのイスラエル人は様々な集団から成っていて、完全な統一体ではなかった。

彼らはカナン人の行き方から多くを学んだが、独自の信仰は捨てなかった。カナン人はアシュラとアシュトレトを始めとする自然宗教・豊穣宗教の神を信仰していたが、イスラエル人は自身の神がイスラエル人に同伴し恩恵をもたらす啓示宗教を持っていた。

旧約聖書ではこの時代について、モーゼの後継者ヨシュアがヨルダン川を越えてカナンの地に入り、イェリコやハツォルを武力で陥落させた、とある。

2. 士師(カリスマ指導者)の時代(1200BC~)
入植地の周囲にはペリシテ人、アンモン人、モアブ人、ミディアン人がいて絶えず脅かされた。
彼らに対抗する為、士師と呼ばれる指導者に率いられた兵で対抗した。士師は神から召された戦いに抜きん出た人たちで、脅かされた部族から兵を招集し、危機が過ぎ去ると元の生活に戻った。

有名な士師としては、キション川の戦いでイスラエル諸部族を率いてカナン人連合軍に勝った女士師デボラ、ペリシテ人を破ったサムソン(旧約聖書では怪力の勇者として描かれ、デリラの密告で殺されてしまう)がいる。
この防衛戦はイスラエルの諸部族を団結させたが、ユダの諸部族はまだ加わっていなかった。

カナン人の勢力は衰えたが、やがて強力なペリシテ人やアンモン人が攻撃を始めると、士師の組織で対抗するのは難しくなった。より強い指導力でより素早く防衛する政治体制、王制が必要になった。

3. 王制への移行とサウル王の時代(1012BC~)
イスラエルの諸部族は1人の王を望んだ。
当時の指導者、士師サムエルは、王は自分の民に重荷を課す存在で、ただ一つの支配者としての神を否定する、として危惧したが認めざるを得ず、神の名に置いてアンモン人を破った士師サウルを王として選んだ。
サウルは防衛に成功した。彼は行政を組織せず、軍事的な王であり続けた。

その頃ユダの古い家柄の出身で、琴の奏者としてサウルに召されたダビデという若者がいた。
彼はペリシテ人のゴリアテを倒すなど有能な戦士として頭角を現し、その為サウルはライバルとして恐れ殺そうとした。
ダビデは逃れてペリシテ人に雇われて、イスラエル人以外の民族と戦う事になった。

やがてペリシテ人はイスラエル人に総攻撃を仕掛け、ギルボア山で打ち破ってサウルを自害に追い込んだ。戦いの直前にサムエルが黄泉から蘇ってサウルに破滅を告げたと言う。

これを聞いたダビデは故郷ユダに帰り、そこでユダの王に選ばれた。
サウルの跡を継いだ息子と摂政が暗殺されると、イスラエルの諸部族はダビデを王として望んだ。

4. ダビデ王の時代(1004BC~)
今やイスラエルとユダの王になったダビデは、強力な軍隊で周囲の国々を征服し、その版図はパレスチナだけでなくヨルダン、シリア、レバノンに及ぶ大国になった。
これは当時のメソポタミアとエジプトの勢力が衰えていた結果による物だった。メソポタミアのアッシリアはアラム人の侵略に悩まされ、エジプトは二つの国に分裂していた。ダビデはこれらに干渉される事無く力を振るう事ができた。

彼は行政組織を作ってイスラエルとユダを一つの国、イスラエル王国としてまとめた。そして二つの中間にあるエルサレムを首都に定めた。また祭儀的に諸部族をエルサレムに結びつける為、神の契約の箱をエルサレムに運んだ。

しかしイスラエルとユダは必ずしも一枚岩であった訳ではなく、息子アブサロムがイスラエル諸部族の力により王位を得ようと反乱を起こした事もあった。

ダビデは有能な王、旧約聖書に最も詳述された王として後世に伝えられた。
晩年のダビデは後継者問題に悩まされたが、結局息子の1人ソロモンを選んだ。

5. ソロモン王の時代と王国の分裂(965BC~)
ソロモンはまず後継者争いの対抗派閥を締め出した。
そしてダビデの時よりも強力に官僚組織と行政機構を拡大した。また軍備増強の為の駐屯地と穀物倉、戦車部隊を作った。王の住居を強化する為にフェニキア人を雇って神殿(第1神殿)と宮殿を造った。

彼は有能な戦士であるダビデとは違って、賢い裁判官として知られる。シバの女王との知恵比べやソロモンの審判(自分の子だと主張する二人の女に策略を使って本当の母親を割り出した)のエピソードが有名である。
彼は平和な時代に平和的な統治を行なった王として、その栄光が後世に語り継がれた。

しかし軍備増強や建築作業は国民に賦役を強いて諸部族の団結を阻害し、王国の分裂を招く事になった。また結局はダビデが得た版図の一部を手放さなければならなかった。

ソロモンの死後、跡を継いだレハブアムはイスラエル諸部族により重い賦役を要求し、その結果イスラエル諸部族は離反して北イスラエル王国となった。レハブアムは南ユダ王国の王に過ぎなくなった。

6. 北イスラエル王国の状況(926BC~)
北イスラエル王国は、以前ソロモンに対して反乱を起こしエジプトに逃亡していたヤロブアムが王になった。
北王国は南王国と違って多数のカナン人がいたため、両民族の信仰の調整を図らねばならなかった。彼はベテルとダン(後述)に金の子牛を置いて聖所とした(両民族に無理のない神のイメージを追及した結果である)。
また彼の治世以降南王国とたびたび戦争を起こした。

ヤロブアムが死ぬと、王の配下が王の一族を根絶して次の王になる、という現象が続いた。これは、北王国では王は神によって選ばれるという考え方だった為、神の啓示の受領者である預言者の言葉に王の命運が左右された為である。

オムリ王の時、再び政権は安定した。オムリはカナン人との融和策のためカナン人の居住地域に近いサマリアを新首都にした。
その子アハブはフェニキア王の娘と結婚しフェニキアの祭儀を国内に導入する事で北西を安定させた。しかし北東の強力なダマスコ(シリア)が圧迫し、アハブは戦死した。

ヨラム王の時、将軍イエフがフェニキアの祭儀導入に反対していた預言者から王に指名された。イエフは王の一族と丁度訪問していた南王国の一族、そしてフェニキア王の娘とフェニキア神の祭司を皆殺しにした。
彼は30年近く治めたがその間ダマスコによって東ヨルダンを失った。

イエフの死後も北王国とダマスコの緊張は続いた。しかしそれを上回る脅威が既に到来していた。最新の武器と残酷な戦術を持つ職業軍人からなるアッシリア帝国が再び勢力を盛り返していた。時にアッシリアが弱まるとダマスコやアンモン人が侵略した。

北王国はアッシリアに度々朝貢して占領を免れていたが、紀元前773年、帝国をより拡大させようとしたティグラト・ピレセルⅢ世によってついに首都サマリア以外を占領された。その際住民は捕囚としてアッシリアに連れ去られた(アッシリアは征服地の住民を別の場所に分散移住させ、代わりに別の民族を入植させるという統治を行なった。反乱を防ぐ為である)。

ティグラト・ピレセルが死ぬと、従属諸国に反アッシリアの機運が高まり北王国も荷担したが、その結果シャルマナサルⅤ世により紀元前722年にサマリアも占領された。更に上層階級と住民が捕囚になった。

連れ去られたイスラエル人は独自の共同体を作る事無くアッシリア帝国に同化され、消え去った(この失われた10部族の一部が縄文時代の日本に到達し、日本人と同化したと言う荒唐無稽な説がある。日本人=ユダヤ人説については後述)。

7. 南ユダ王国の状況(926BC~)
王朝が次々と代わった北王国に対して、南王国の政権は安定していた。
例えば前述のイエフが訪問中の南王国の一族を殺した時、南王国では皇太后アタルヤが残りのダビデ王家一族を殺して自ら王になったが、後に運良く生き残っていた一族のヨアシュを祭司が正統な王として認めると、アタルヤは殺されてダビデ王家が復活した。
南王国ではダビデ王家のみが王になるという原則が貫かれた為、アタルヤは預言者に認められる事無く殺された。

ダマスコが力を得ると、北王国同様南王国も侵略された。
北王国がアッシリアに滅ぼされると、イスラエルの独自性や信仰の守護者は南ユダ王国のみになった。ここからユダヤ人の歴史が始まる。

アッシリアは南王国にも侵略し、南王国は朝貢しアッシリアの祭儀を受け入れざるを得なかった。しかし度々反乱を起こした。ヒゼキア王預言者イザヤに励まされながら結局エルサレムの独立は守った。

やがて絶頂期を過ぎたアッシリアに周辺民族が進入し、メソポタミアに新バビロニア王朝が成立すると、南王国のヨシヤ王はアッシリアの従属から逃れてイスラエルの神を復活させる事に力を注いだ。
南王国内でそれを達成すると、彼は北王国の旧領との統合を考えほぼ達成した。
また犠牲祭儀をエルサレム神殿でのみ認め、ここに巡礼させる事で民族の統一を図った。
しかし新勢力バビロニアに対抗すべく今や旧敵アッシリアと同盟したエジプトとの戦いで戦死し、その勢力下に置かれた。

カルケミシュで新バビロニアはエジプトを破り、南王国を服従させた。
やがてネブカドネツァルがエルサレムを包囲し、紀元前597年に陥落させた。王族、上層階級、役人、専門家ら1万人が捕囚され、バビロニアに連れ去られた。

ネブカドネツァルはゼデキヤを南王国の王に任命したが、彼も反乱を起こした為にエルサレムは再び包囲され紀元前587年に陥落した。
この時の第二回捕囚とエルサレムの破壊で南ユダ王国は滅んだ。

8. バビロン捕囚時代(587BC~)
南王国滅亡後のユダ地方は、新バビロニアに忠実なユダヤ人に任された。しかしこれに不満を持つ一部の人達が反乱を起こしてエジプトに移住した事が伝えられている。

新バビロニアはアッシリアと違い、捕囚したユダヤ人を分散させずに一定個所にまとめた。その一つがバビロンの東のテル・アビブという場所で、現在のイスラエル国の主要都市の名前にもなった。

ユダヤ人は捕囚下にあっても自分達のアイデンティティを守ろうと団結し、その結果ユダヤ教が整備され宗派として成立した。また旧約聖書の編集も行なわれた。

その頃、アケメネス朝ペルシャの王キュロスが周囲の国々を征服し始め、紀元前539年にはバビロンが陥落した。
アケメネス朝の他民族の支配方法はアッシリアや新バビロニアとは違っていた。古い法制度や祭儀、土着の行政の保存と回復が国家の内部を安定させると考えられていた。従って捕囚されたユダヤ人も解放され、実際に帰還した人々もいたのではないかと考えられる。

捕囚時代のある預言者は、キュロスは神に選ばれてユダヤ人を解放した、と言い表し、パレスチナへの帰還はモーセのエジプト脱出にも例えられた。

9. アケメネス朝時代(538BC~)
キュロスは勅令によりエルサレム神殿の再建を許可し、財政支援を約束した。
神殿(第二神殿)が再建された事により、統治上の問題が起きた。この頃、ユダ地方は独立した州ではなかったので、アケメネス朝の総督が治めてはおらず、行政官が任命されていた。神殿が再建された事により、宗教的な権威である大祭司が行政に大きな影響を及ぼすようになった。

神殿はできたものの、伝統に基づいた正しい知識でユダヤ人の秩序に心を配る人物がいなかった為、ユダヤ社会の習慣と法は守られなくなった。例えば神への犠牲の執行がいい加減になったり、別の民族の女性との結婚が行なわれた(上層階級にとって、それは権力の強化に繋がった)。
それを知った捕囚された家族の出身のエズラとネヘミヤという指導者が、アケメネス朝の認可の元、ユダ地方にやってきて律法に基づいた以前の秩序を取り戻すべく行動した。更に破壊されていたエルサレムの城壁の再建に取り組んだ。

エルサレムの再建が進むにつれ、ユダ地方を監督していた隣のサマリア人は自分達の権威が失墜するのを恐れて再建を阻もうとした。北王国滅亡後、異邦人が入植したサマリアではイスラエルの神への信仰があったが、ユダヤ人はそれを正統派とはみなさなかった。
ユダが州に昇進すると共に、サマリア人は政治的影響を失いエルサレム神殿とその祭儀から独立した(この分派は今も存続している)。

紀元前4世紀に、マケドニアからアレキサンダーがやって来た事で状況は一変した。アケメネス朝はあっけなく滅亡してしまった。その結果、ギリシャの文化と精神が流入してきた。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その5

ヤッフォ観光の続きです。

これはアンドロメダの岩です 32 03' 22.23"N 34 45' 01.93"E 。
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アンドロメダはエチオピア王ケフェウスと王妃カシオペアの娘です。
ある日カシオペアは、海の妖精ネレイドの50人の姉妹よりも自分の娘は美しいと自慢したために、ネレイドの祖父海神ポセイドンの怒りをかった。
ポセイドンは恐ろしい大鯨を送って、エチオピアの沿岸を荒らし回った。

ケフェウスは、娘を生贄として捧げない限りポセイドンの怒りは収まらないという神託を受け、泣く泣くアンドロメダを海岸の岩に鎖で繋ぐ。
そこに通りかかった主神ゼウスの子ペルセウスは、持っていたメドゥーサの首を使って大鯨を退治した。

彼はほうびとして彼女を妻にもらいうけた。二人は7人の子供をもうけて幸せに暮らしました。
ケフェウス、カシオペア、アンドロメダ、ペルセウスと愛馬ペガサスは、のちに星座となった(ギリシャ神話)。

アンドロメダが繋がれた岩礁です。
ビューポイントがあるのですが、時間が無くて行けませんでした。これはハ・ピスガ公園の少し北東の道路から撮った物です。

左側に見える建物は、ジャーマ・アル・バフル(海のモスク)というイスラム寺院です。 32 03' 19.37"N 34 45' 08.93"E

これはジャーマ・アル・マフムディーヤの尖塔です。 32 03' 17.76"N 34 45' 19.33"E
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19世紀のオスマン帝国時代に建てられたイスラム寺院で、イスラム教徒しか入れないそうです。
ヤッフォには色々な教会、モスクが立ち並んでいます。

これは何でしょうか?
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色大理石の壁面が綺麗だったので思わず撮りました。
ジャーマ・アル・マフムディーヤの一角か、オスマン帝国の官庁か?
壁面の文字が読めたらわかるんですが。

これはクロック・タワーです。 32 03' 18.30"N 34 45' 22.26"E
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20世紀初めに、オスマンの皇帝アブドゥル・ハミッド2世が統治30周年を記念して建てました。ヤッフォの入口にあり、シンボルとも言えます。
ピンク色の入口の扉が可愛らしい。
この皇帝は他の都市にも時計塔を建てているそうです。

これもオスマン時代の建物でしょうか?
今は商店街になっています。
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ヤッフォはこじんまりとしていて、そぞろ歩きしたくなる街です。
古い石造りの教会や家々、海とテルアビブの眺め、立ち並ぶギャラリーでのアート鑑賞、のみの市での買い物・・・。
今回の下車観光時間は20分少々で、実現できず残念です・・・。

これから旧約聖書に関わる場所が色々出てくるので、古代オリエント時代のイスラエル人の歴史をまとめようと思います。

その前に今回は、イスラエル人の祖先がパレスチナに最初に移住した時代を表した旧約聖書の創世記の後半部分と出エジプト記の内容をまとめます。
ただ記述するのは面白くないので、それらがどのような史実を意味しているのかを、参考文献に基づいて付記します。

1.神の啓示により、上メソポタミアのハランから遊牧民の族長アブラハムと甥のロトが「乳と蜜の流れる地」カナン(パレスチナ)にやってくる。
神はこの地を彼らの子孫に与えると約束した。
やがてアブラハムとロトのグループは諍いを起こしたので、二人は相談して別行動をとる事にした。ロトはソドムとゴモラの町が栄える南部を選ぶ。

→当時北からやってきた独自の神、宗教を持つイスラエル人のグループがあったが、土地や町を占領した訳ではなく、町の王には服従して良好な関係を築いた。

2.神は悪徳が栄えるソドムとゴモラの町を滅ぼしたが、ロトの家族だけは脱出させた。ロトはモアブ人アンモン人の祖になった。

→町の王となんらかのトラブル発生か?

3.子供ができないアブラハムは妻サラの勧めで仕え女のハガルとの間にイシュマエルを設けた(アラブ人の祖)。
サラは神の奇跡で90歳にしてイサクを設けた。しかし神はイサクを生贄として捧げるよう要求し、アブラハムが従おうとすると二人を祝福してその子孫を無数に増やすと言った。
アブラハムはノアの3人の息子のうちセムの系統に属する。言語学上のセム語族やハム語族は、聖書の記述に基づいている。

4.イサクは妻リベカとの間にエサウエドム人の祖)とヤコブを設けたが、リベカはヤコブを愛していたので策略によりヤコブに相続権を得させた。
怒ったエサウの下から逃れたヤコブは独立し、エサウと和解する為の旅の途中で神と戦って勝ち、イスラエルの名を与えられる。
ヤコブは12人の子を設けイスラエル人の祖になった。

→イスラエル人の信仰が土着の神の信仰に勝って、カナンに広まっていった事を表す。また「イスラエル」という連合体があった事を表す。

5.12人のうちヨセフは兄達によってエジプトに売られたが、王に気に入られて高官になる。
やがて飢饉でエジプトに逃れてきた兄達を見たヨセフは、ヤコブと兄達をエジプトに招いて暮らす。ヤコブとヨセフの子はそれぞれイスラエル12部族の祖になった。

→エジプト人は自らの仕事の為にシリアやパレスチナの職人や奴隷を使い、中には高位に昇る人もあったが、エジプトの史料に「ヨセフ」の名はない。ただし飢饉を逃れてイスラエル人の集団がエジプトに移住した事は考えられる。

6.やがてイスラエル人は奴隷として酷使されるようになった。彼らはモーセに率いられて再び「約束の地」カナンを目指す。
追いかけたエジプト軍は紅海で全滅、モーセはシナイ山で神から十戒を授かるがカナンに入る直前のネボ山(ヨルダン領内)で死んだ。
カナンへの定住は後継者のヨシュアに任された。

→当時エジプトのラメセス二世が首都建設を行なっていて、イスラエル人が強制労働に狩り出されたと思われる。
また恐らく実際にモーセが逃亡したと思われるナイル河口の湿地帯では侵入した軍が損害を受ける事があったらしく、エジプト国境軍は追跡の手を緩めたのではと思われる。
その後モーセが地中海岸ではなく内陸のヨルダンを通ったのは、海岸にはエジプトの要塞が多数あったからである。またシナイ山には恐らく古くから聖所があり、そこでモーセら多数の指導者が会合して山の神の権威の下、律法(トーラー)が定められたと思われる。

出エジプト記については、セシル・B・デミル監督の超大作映画「十戒」がわかりやすい。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その4

空港でちょっと問題があり、出遅れましたがやっと観光開始です。

本日(12/29)は、ヤッフォ~カイザリア~アッコーと地中海沿岸を観光して、ガリラヤ湖畔のゲネサレに泊まる予定です。

まずはテルアビブから少し南にある港町ヤッフォへ。


ヤッフォは紀元前15世紀に存在が確認されている古い街ですが、今の街並みは16世紀以降のオスマン・トルコ時代の物です(歴史については最後にまとめます)。
昔からパレスチナの玄関口として栄えました。1271年、マルコポーロもアッコーから海路でこの町に到着、陸路を辿ってエルサレムに向いました。

ヘブライ語の「ヤッフェ(美しい)」もしくは旧約聖書のノアの子ヤペテ(小アジアやメディア人の祖)が名の由来と言われています。
ヨッパ、ジョッパとも言われ、日本の果物屋にも並んでいるジャッファ・スイーティーのジャッファはヤッフォの事です。

今回は時間がなく、ほとんど観光できませんでした。

画像は皮なめしシモンの家に続く旧市街です。
奥に見えるのが、シモンの家の側に建つ灯台です。
 32 03' 13.19"N 34 45' 01.27"E
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皮なめしシモンの家は、イエスの弟子ペテロ(後述)が伝道の途中に泊まった場所です。


当時、皮なめし業はひどい悪臭を放つ為に蔑まされた職業だった。しかしペテロはイエス同様、そうした人々の中で伝道した。
ある日、カイザリア(後述)駐在のローマ軍百卒長コルネリウスの使いがここを訪れ、イエスの信仰を教えて欲しいとペテロに言いました。
当時ユダヤ人が異邦人と交際する事は禁じられていたが、ペテロは天からの異邦人伝道のお告げを受けて、カイザリアにてコルネリウスにバプテスマを授けて教会員とした。
異邦人にキリスト教が伝わるきっかけになった画期的な出来事だったが、ペテロはユダヤ人の強い非難を浴びる事になった。

最近この家は観光客の多さに嫌気が差し、滅多に解放しなくなったとか。今回は遠くから眺めただけです。

手前に何故かナポレオンの像(案内板?)があります。ナポレオンはエジプト遠征の後1799年にヤッフォに上陸してアッコーに向いました。

ここはヤッフォの中心部にあるハ・ピスガ公園です 32 03' 15.53"N 34 45' 11.66"E 。
公園の中央には、旧約聖書のイサクの犠牲をあらわしたオブジェがあります。
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彼方にはテルアビブの街が望め、本当に近くにあることがわかります。

画像中央は古代博物館。 32 03' 17.28"N 34 45' 13.87"E
建物はオスマン時代の官庁を改築したもので、中にはこの辺の出土品や模型がある。
歴史が古い街だけに、色々な物が発掘されているのだ。
博物館の周辺にも、この辺り一帯を囲んでいたと思われる紀元前18世紀のエジプトのヒクソス人王朝時代の土塁が発見されています。

画像左下には野外劇場のステージが見えます。 32 03' 16.91"N 34 45' 12.28"E

聖ペテロ教会です。 32 03' 17.10"N 34 45' 07.78"E
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フランシスコ会の教会で、ルイ9世が作った十字軍の砦の上に19世紀に建てられたそうです。
この周辺にも主に墓などの遺構が発見されている。ヘレニズム時代の建物や、紀元前17世紀の幼児甕棺葬跡など。

ハ・ピスガ公園から聖ペテロ教会に行く途中に、何の変哲もない小さな橋があります。後で「愛の橋」という名前だと知りました。何でそんな名前なのかわかりませんが、ロマンチックのかけらもありませんでした。 32 03' 16.42"N 34 45' 09.16"E

この大きな建物は何なのか?よくわかりませんでした。わかったら書き込む事にします。
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ラムセス2世の門の遺構です。
 32 03' 13.45"N 34 45' 10.06"E
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紀元前13世紀頃の地層から発掘された門の土台、抱き柱、壁です。

壁は黄色と赤褐色の泥レンガ、抱き柱は固く加工した砂岩でラメセス2世の名前と5つの肩書きが刻まれているそうです。

ラムセス2世は紀元前13世紀のエジプト王で、メソポタミアのヒッタイトとシリア・パレスチナをめぐって争った。エジプトが勝ったカデシュの戦車戦が有名。またアブ・シンベル神殿を造営した。旧約聖書のモーセがユダヤ人の奴隷解放を訴えた王とも言われる。


ここでヤッフォの歴史をまとめます。


①紀元前15世紀、エジプト王国のトゥトモス3世が征服した町の一つとして初めて史料に名前が現れた。

②エジプト王の穀倉地帯を守る砦があった。

③ペリシテ人に征服される。

イスラエル王国のソロモン王がエルサレム神殿造営の為に、レバノンの糸杉をここから陸揚げした。

⑤紀元前8世紀、イスラエルの預言者ヨナが主から逃げる為ヤッフォから出航した。
ヨナは主から、「ニネベに行き、ここは悪が栄えているので滅ぼす、と告げよ」と言われるが、ニネベはイスラエルの敵国アッシリアの首都なので、主の言いつけを守るのが怖くてヤッフォから舟で逃げた。
ところが嵐になった為その原因が誰かを決めるクジ引きでヨナが当ってしまい、海に放り出される。
海で大魚に飲み込まれて三日三晩反省させられた後、ニネベに行って言いつけ通りにしたが、ニネベの人々は主に従ったので滅亡を免れた、以下伝々・・・という話。ピノキオの原型と言われる(旧約聖書)。

アッシリア王国のセンナケリブ王に征服された。センナケリブは南ユダ王国のエルサレムを包囲した王。

⑦紀元前5世紀、ペルシア王がフェニキアのシドン王にヤッファの街を贈った。

⑧ヘレニズム時代に入って紀元前3世紀、ギリシャの植民地になる。貨幣の鋳造が行なわれた。

ハスモン朝時代にユダヤ人が支配する。経済的にヤッフォを重視したので、征服の際記念硬貨を鋳造した。

⑩紀元前1世紀、ローマ人が征服して破壊したがすぐに再建。

アウグストゥス帝ヘロデ王にこの街を返した。この地方の中心都市になった。

⑫1世紀、ペテロがコルネリウスの使いに会う(新約聖書)。

⑬中世には、エルサレム巡礼者や商人にとっての玄関口になった。

⑭18世紀末、ナポレオンが上陸した。

⑮19世紀初頭、街がほぼ今の姿になる。

⑯19世紀後半、シオニストに対するアラブ人の反ユダヤ闘争の中心地になる。

⑰移住の結果、ユダヤ人の人口がアラブ人をしのぐ。

⑱1950年、テルアビブ市と合併。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その3

テルアビブ上空です。
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テルアビブ(春の丘)はイスラエル最大の都市です。

元は荒れ果てた砂丘であったが、20世紀初頭に移住したユダヤ人が近代都市建設の為土地を購入したのが始まり。
バルフォア宣言(後述)をきっかけに人口が急増し、ヨーロッパからの移民によりヨーロッパ風の商業・文化都市として発展した。
また地中海に面したリゾート都市でもある。

画像左上がほぼ北です。
上方やや下にある緑地帯はハ・ヤルコン公園 32 05' 50.66"N 34 46' 52.20"E 。
上方やや下、右端にある丸い緑地はハ・メディナ公園 32 05' 11.88"N 34 47' 22.67"E 。
中央少し斜め右上の大きな建物が市役所 32 04' 53.50"N 34 46' 50.01"E 。

市役所の前の通りを左側に行った画像の端付近に初代首相ダヴィド・ベングリオンの家があります。
ベングリオンはポーランド出身で、シオニストとしてオスマン軍と戦った。
イギリス委任統治時代にユダヤ国家準備を指導、イギリス撤退後に自ら起草したイスラエル独立宣言を発表し、選挙で初代首相に選ばれた。

画像右下の緑地の左下周辺に、歴史博物館やビアリク博物館があります。
歴史博物館:ヨーロッパからの移民の歴史を紹介 32 04' 23.42"N 34 46' 14.49"E 。
ビアリク博物館:ハイム・ビアリクという文学者の記念館。

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上の画像のやや東側です。
画像左上少し下に丸いハ・メディナ公園があります。

そこから斜め右下に伸びる道路が突き当たる所の左側に、テルアビブ美術館 32 04' 37.88"N 34 47' 15.83"E 。
19世紀~20世紀の世界の有名な画家の作品を多数展示している。

突き当たる所の右側に、日本大使館があるアジアハウス

画像右上の高層ビルが立ち並んでいる辺りに、28階建てのダイヤモンド・ストックセンターがあります 32 05' 00.93"N 34 48' 10.56"E 。
イスラエルの主要産業はダイヤモンド研磨加工業で、その研磨輸出高はベルギーに次いで世界二位です(1987年)。
かつてヨーロッパのユダヤ人が、迫害を受けても財産を簡単に持ち出せるようダイヤモンドを取り扱ったのがきっかけとか。
また資源が乏しいので、高付加価値の加工業を志向している事も理由のようです。
有名なデビアス社とダイヤモンド産業の覇権をかけて争った事もあるようです。

この辺り、サファリパークと国立公園だと思いますが・・・ 
32 01' 46.95"N 34 49' 18.41"E 。
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市街地とベン・グリオン空港の間にあり、自然史博物館などがある。

テルアビブのベン・グリオン空港
に着きました 32 00' 13.22"N 34 52' 21.68"E 。
最近建て直されたそうで、実に綺麗でした。美術館を歩いているよう。
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今後シリアやレバノンなどに行く予定の人は、パスポートにイスラエルの入国スタンプを押さないように言わなければいけません。
押されていると、上記の国々のビザが発給されません。

しかし対応はその時々で変わるので、押すなと言っても押されてしまったり、逆に記念に押して欲しいのに押されなかったりという事があるそうです。
要は、押してほしいかほしくないか、係官にしっかり伝えた方が良いようです。

逆に、過去にレバノンなどに行った人は、別室で色々質問されます。

荷物の受取場です。

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1972年5月この空港で、後に日本赤軍と名乗った人達が銃を乱射して100人もの一般旅行者を殺傷しました。

パレスチナ解放人民戦線がサベナ航空ハイジャック事件でメンバーを射殺された報復として、チェックの甘い日本人にテルアビブ空港襲撃を依頼しました。
荷物を受け取ったメンバーは、自動小銃と手榴弾を取り出して犯行に及んだ。
更に4ヵ月後にはミュンヘン五輪事件が起きた。


ここでパレスチナ問題(パレスチナの領有を巡るパレスチナ人とユダヤ人入植者の紛争)の経緯をまとめます。


1.前史
①19世紀前半、ヨーロッパ列強の力によりエジプトをムハンマド・アリー(前述)に奪われたオスマン帝国は、国内の西欧化を進める必要性を痛感した。タンジマート改革と呼ばれる上からの改革により、全臣民の法の下での平等と、生命・名誉・財産を保障した。

この結果農地の私有化と商品経済が進行し、農産物の輸出を見込んだ商業的農業が発展したが、一方で農業資金の借金を返せずに土地を手放す没落農民が増えた。手放した土地は金を貸した少数の都市商人の下に集められていった。これが後にシオニスト(ユダヤ人によるパレスチナでの祖国回復を唱える人)の土地購入を容易にした。

②19世紀後半には、ロシアで迫害されていたユダヤ人が大量にパレスチナに流入した。彼らは主にアラブ人を雇用する経営者として入植した(第一次アリヤー)。
※ユダヤ人の迫害については後述。

③ドレフュス事件に代表される反ユダヤ主義に対抗して、テオドール・ヘルツルがユダヤ人の国家建設を主張した(シオニズム運動)。また世界シオニスト機構を設立した。

④20世紀初めに、経営者としてではなく労働者として入植し、共同社会を実現しようとするユダヤ人が大量に現れた(第二次アリヤー)。自らが労働者になる事で土地所有を正当化しようとした。この共同社会の実践的モデルがキブツ(後述)と呼ばれる共同経営村落である。

2.第一次大戦
①オスマン帝国がドイツ側に付くと、イギリスは中東地域でのアラブ人の独立を約束してオスマン帝国に対抗させた(フサイン・マクマホン協定)。アラビアのロレンスが活躍した時期。

②一方で戦費調達のためにユダヤ系財閥のロスチャイルドに、パレスチナでのユダヤ人国家設立を約束した(バルフォア宣言)。

③またフランスとの間で、アラブ地域を両国で分割する秘密協定を結んだ(サイクス・ピコ協定)。

以上の様に、イギリスはパレスチナの領有に関して三者と矛盾する協定を結んだ。パレスチナ問題を複雑にした元凶となり、三枚舌外交と言われた。

3.イギリスの委任統治時代
① 一次大戦中、アレンビー将軍によりパレスチナは軍事占領され、戦後国連の要請によりイギリスの委任統治領になった。
イギリスの統治目的はスエズ運河の防衛とユダヤ人国家樹立で、アラブ人の支援は軽視されていた。

その為相次ぐ移民で発展するユダヤ人社会と、ユダヤ人の急増に脅かされながら貧困の中に停滞して有効な手が打てないアラブ人社会との間で緊張が高まった。その結果100人以上の死者を出した「嘆きの壁事件」が起きてしまった。
更にアラブ・パレスチナ大反乱と呼ばれる武装闘争を引き起こした。
イギリスは両者を話し合いで解決させようとしたが暗礁に乗り上げてしまう。

4.第二次大戦
①アラブ人がドイツ側に付く事を恐れたイギリスは、一転してユダヤ国家の建設を否定し、アラブ人国家の独立を認めた。
シオニストはイギリスに失望し、以後独力での国家建設を目指す。

一方アメリカのシオニストは有力な政治圧力団体に成長し、アメリカがシオニストを庇護する礎が築かれた。
またナチスによるホロコーストは、ユダヤ人に対する国際世論の同情を呼んだ。

5.戦後~60年代半ば 
①戦後、シオニストはイギリスにユダヤ人国家の設立を要求。拒絶されるとイギリスに対して武装闘争を開始した。

②もはや手におえなくなったイギリスは国連の介入を要請。国連は調査を開始したが、次の選挙戦でユダヤ票が欲しいアメリカのトルーマンはシオニストに有利なパレスチナ分割案を国連で可決させた。アラブ側は受け入れを拒否した。

③パレスチナはシオニストとアラブの軍事衝突で内戦状態になったが、準備を整えていたシオニスト軍はイギリス軍撤退直後に反撃を開始、主要地を占領してイスラエル建国を宣言した。

アラブ諸国は更に軍隊を送ったが結局敗北した(第一次中東戦争)。
この時、イスラエルが占領しなかったヨルダン川西岸地区は領土拡張を狙うヨルダンに、ガザ地区はエジプトの支配下になった。

④第一次中東戦争中にシオニストは、パレスチナのアラブ人(パレスチナ人)を計画的かつ強制的に追い出した。その最中にシオニストの武装組織がパレスチナ人を虐殺する事件が起きた(デイル・ヤーシン村事件)。
パレスチナ難民の帰還を促した国連決議をイスラエルは拒絶した。

追い出されたパレスチナ人はヨルダン川西岸とガザ地区に逃れ、難民キャンプで劣悪な生活を強いられ、アラブ諸国に逃れた人々も差別に苦しんだ。その中で武装闘争によってパレスチナ奪還を目指す新たな民族運動が始まった。

⑤パレスチナ民族運動を支えたのがエジプトのナセルだった。英仏がイスラエルを巻き込み、エジプトのスエズ運河国有化に反発して戦争(第二次中東戦争)を起こすと、パレスチナ解放を目標に掲げてアラブ世界の主導権を握った。この事はパレスチナ人に希望を与え、ナセルが設立に関わったパレスチナ解放機構(PLO)はパレスチナ民族運動の基盤になった。

⑥やがて米ソの冷戦構造に組み込まれたイスラエルとアラブの対立は、ヨルダン川の水利用権の対立やパレスチナ人とイスラエルの衝突を絡ませながら緊迫化し、紅海への出口を封鎖されたイスラエル軍による奇襲攻撃という形で戦争に突入した。

この戦いでイスラエル軍は僅か六日間でアラブ諸国軍を敗走させ、ヨルダン川西岸とガザ地区だけでなくシナイ半島やゴラン高原も占領した(第三次中東戦争)。
ナセルの権威は失墜し、新たに大量のパレスチナ難民が生まれた。

6.60年代後半~湾岸戦争
①エジプトの権威が失墜した事により、その庇護下にあったパレスチナ民族運動は自立して活発な活動をするようになった。

イスラエル軍を撃退したアラファトがPLO議長になるとその活動は大胆になり、その傘下のパレスチナ人民解放戦線やパレスチナ民主解放戦線などの非主流急進派が過激な武装闘争を行なった。
また、アラブ諸国は各々勝手にこれらの運動を自国の都合に合わせて利用し始めた。シリアやイラクは急進派を支え、サウジアラビアは穏健派に協力した。

②PLOの基地があったヨルダンは、自国内で自治政府のようにふるまうPLOに対する危機感からこれらを弾圧した。その為PLOはレバノンに逃れた。

弾圧後、急進派はますます過激なテロを行なうようになり、「テルアビブ空港襲撃事件」や「ミュンヘン五輪事件(スピルバーグが映画化)」を引き起こした。

③エジプトのサダトは占領地の返還とパレスチナ人の自治をイスラエルに要求したが拒絶された為、奇襲攻撃をかけてイスラエルに打撃を与えた(第四次中東戦争)。最後にはアメリカに支援されたイスラエルが戦況を逆転させたが、軍事的優位に基づく自信は大きく揺らいだ。

また、戦争が始まるとかねてからサダトの要請を受けていたアラブ産油国は、イスラエルが占領地から撤退するまで石油輸出を削減すると宣言した(第一次オイルショック)。この為国連はパレスチナ人の民族自決権とPLOの正当性を認める決議を行なった。

④一方PLO主流派はヨルダン川西岸とガザ地区にパレスチナ人国家を作るという現実路線に変換した。しかし急進派がこれに反発して対立が深まった。またPLOが本部を置いたレバノンでは現地勢力(キリスト教右派など)との摩擦により内戦化した。

⑤当時急進派アラブ諸国(シリア、イラク)はPLOやソ連も含めた関係各国全てが参加する和平方式を主張していたが、サダトは国内の経済危機打開のため、アメリカの援助及びシナイ半島返還と引き換えに突然イスラエルと個別に平和条約を結んでしまった。これに怒った急進派諸国により、エジプトはアラブ諸国から孤立し、サダトは暗殺された。

⑥エジプトとの平和条約で後門の狼がいなくなったイスラエルは、PLOの軍事拠点壊滅を図ってレバノンに侵攻した。この為弱体化したPLO主流派はチュニジアに逃れた。この時イスラエルは、キリスト教右派がパレスチナ難民を虐殺するのを黙認した為、国際的に非難された。

⑦一方でヨルダンは西岸の併合に固執し、シリアと接近して弱体化したPLOを押さえ込もうとした。またイスラエルでは和平反対派の右派リクードが政権に就いて西岸とガザでのユダヤ人入植を拡大した。

長年の占領地生活、PLOの弱体化に絶望感が深まったパレスチナ人は、ガザでイスラエル軍用車がパレスチナ人を轢き殺す事件をきっかけに民衆蜂起(インティファーダ)を起こした。

⑧弱体化したPLOに代わってパレスチナ人の心を掴んだのがハマスで、パレスチナ全土の解放とイスラム国家樹立を主張して和平論のPLO主流派と対立した。この為イスラエルはインティファーダに対して容赦ない弾圧を加え、世界の世論はパレスチナ側に傾いた。また、インティファーダを見たヨルダンは領土拡張の夢を諦め、西岸を放棄すると宣言した。

ハマスの伸長を恐れるPLOは、遂にイスラエル国家の生存権を認め、西岸、ガザにパレスチナ人国家独立を宣言し、多くの国の承認を得て完全独立に向けて前進した。

⑨しかし湾岸戦争が勃発すると、長年パレスチナ人を支持したイラクへのパレスチナ人の心情を反映してPLOはイラク支持に回った。その為アラブ産油国や欧米諸国の反発を招いて、パレスチナの独立宣言は反故にされた。

7.湾岸戦争後
①戦争後の中東地域再編をリードしたいアメリカは、中東和平会議を開いてパレスチナ問題を解決しようとしたが進展がないままに終った。

一方、湾岸戦争でスカッドミサイルの威力を見たイスラエルでは、和平推進派の労働党のラビンが政権に就いた。インティファーダを見てパレスチナ民族運動の実力を知ったラビンはイスラエル政府として初めてPLOをパレスチナ人の代表として認め、秘密交渉を行なった結果、西岸とガザでのパレスチナ人の暫定自治と、その後の和平に至る段取りを取り決めた(オスロ合意)。
しかしラビンはイスラエル極右勢力に暗殺された。

②次の首相には和平反対派リクードのネタニヤフが就いた(選挙前にパレスチナ人テロが激化したせいか?)。その為和平交渉は停止し、ユダヤ人入植地は再び拡大した。

③ワンマン振りで国民の人気がなくなったネタニヤフは選挙で敗れ、労働党のバラクが政権に就いた。和平交渉が再開されたが中々合意に至らず中断した。

④リクードの党首で中東戦争の英雄シャロンがエルサレムにあるイスラム教の聖地アル・アクサ・モスクに足を踏み入れたため、怒ったパレスチナ人が蜂起する(第二次インティファーダ)。

一方、和平交渉が再開されイスラエルの譲歩もあって合意寸前になったが、丁度行なわれた選挙でシャロンが首相になってしまい、和平交渉は決裂した。
シャロンはパレスチナ人のインティファーダに対して強硬策で臨み、入植地域も拡大した為、パレスチナ人との報復合戦の泥沼にはまり込んでしまった。

⑤アメリカのブッシュ政権はパレスチナ問題への不介入の姿勢を示していたが、同時多発テロが発生すると一転して積極策に変わった。イスラエルとパレスチナ双方に和平への取り組みを求めた。
しかしパレスチナ側はイスラエルを庇護し続けたアメリカへのテロに喝采を浴びせ、むしろテロは増加した。
それに対してシャロンも報復やアラファトの監禁、パレスチナ難民の虐殺で臨むという悪循環に陥った。更にシャロンは国内のユダヤ人優勢の人口比を維持する為、一方的に西岸とガザを分離壁で囲いこみ始めた。囲い込まれたパレスチナ自治区は経済的に封鎖された。

⑥イラク戦争に臨んでいたブッシュは、中東の安定化の為にはパレスチナ問題の解決が不可欠と考え、ロードマップと言われるイスラエル国家とパレスチナ国家の平和的共存への具体的な段取りを提案し、シャロンとパレスチナ自治政府のアッバスは受け入れた。
しかし急進派ハマスが反発してテロを激化させた為、シャロンも報復で臨み、全く実行されないまま時が過ぎた。

⑦しかし現在では、和平への難問解決に向けての取り組み(ジュネーブ合意)がなされたり、アラファト死去後に急進派が攻撃抑止を約束した事、シャロンが持ち前の押しの強さをユダヤ人入植者にも発揮しガザからの撤退を実現させた事、シャロン自身が右派リクードを抜けて中道新党カディマを作った事で、和平に向けて前進しているように思える。

ただしアッバスの力の限界から相変わらずテロが収まらない事、西岸からの撤退を実現できる唯一の政治家シャロンの入院により、今後のイスラエル、パレスチナの選挙結果次第では予断を許さない状況である。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その2

アルメニア上空の眺めです。
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なんとアララト山(5,156m)が見えました。
39 42' 05.00"N 44 18' 19.27"E
アララト山は旧約聖書のノアの箱舟が漂着した場所です。
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アダムから九代経ったが、地上には悪がはびこってしまった。神は人間を創造したことを後悔し、創造した物全てを洪水で滅ぼそうと決心した。
ただし義人ノアとその家族と、全ての動物一つがいを箱舟に入れて助ける事にした。
ノアの家族は、周りの人に嘲られながら箱舟を作りつづけた。
やがて神が降らせた雨は四十日四十夜降り続き、地上の生き物は全て滅んだ。
雨が止んだ後も水はなかなか引かず、ようやくアララト山に漂着した。
神はノアに二度と洪水で滅ぼす事はない、と約束した。

アララト山には漂着跡の船型地形や錨が発見されたと言われるが、真疑の程はわかりません。洪水については、メソポタミア地方のティグリス、ユーフラテス川の洪水を参考にしたのではと言われる。

マルコ・ポーロも東方見聞録で、”大アルメニアの中央に「ノアの箱舟山」と言われるコップ型の高山があり、誰も山頂を極めた者がいない。山麓では万年雪に潤された牧草の生育が旺盛で、夏になると多くの人が家畜を連れてやってくる。”と述べています。

旧約聖書の地に向う途中で、アララト山が見えるとはラッキーでした。進行方向に向って左側窓際の座席に座ると見えます。

トルコ上空。
遠くに高そうな独立峰があります。何という山だろうか?
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2時間後、ようやくパレスチナの海岸が見えてきました。
下に見えるのはテルアビブの海水浴場。5キロに渡って続くリゾート海岸です。
32 05' 22.84"N 34 46' 12.79"E
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イスラエルの面積は四国より一回り大きい程度。実際車で移動するとかなり狭く感じます。
人口は670万人。
公用語はヘブライ語とアラビア語。
宗教はユダヤ教80%、イスラム教15%。
首都は西エルサレムだが、各国の公館はテルアビブにある。
時差は日本の7時間遅れ。画像の時刻はイスラエル時間に合わせてあります。

アララト山が出たついでに、ここでイスラエルと関係深い旧約聖書の創世記の最初の部分についてまとめます。
旧約聖書は、「律法(トーラー)と呼ばれる祭儀と行動規範の書(=モーセ五書)と、イスラエルの興廃を中心とする歴史、および将来の救済を予告する預言書、さらにユダヤ教では諸書と呼ばれる詩や知恵文学からなる」大量の書物です。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典になっています。

そのうち創世記は一番最初の書物で律法のひとつです。著者はモーセと言われています。

1. 天地創造(神が七日で創った)
2. アダムとイブ、失楽園
3. カインとアベル(アダムとイブの長子カインが弟アベルを殺す話)
4. ノアの箱舟
5. バベルの塔(ノアから更に時が経ち、ニムロデ王が神に挑戦してバベルの塔を造ったので、神が怒って人々の言語を分けて分裂させた話)

以上が創世記の最初の部分で、ここから先はカナンの地(パレスチナ)入植以降の話が続く。
また後でまとめたいと思います。

創世記の前半部分はジョン・ヒューストン監督の大作映画「天地創造」が解りやすいです。大味ですが映像は迫力あります。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その1

12/28~1/4に旅行会社のツアーにてイスラエルに行きました。
コースはテルアビブ~ヤッフォ~カイザリア~アッコー~ガリラヤ湖~ゴラン高原~ナザレ~死海~エルサレム~ベツレヘム~テルアビブです。

今までと同様、マルコポーロゆかりの地を訪ねるというのが一番の訪問理由です(1270年末にヴェネツィアを発ったポーロ一行は1271年に十字軍最後の根拠地アッコーに到着、エルサレムを往復して同年冬に中国に向け出発しました)。
それ以外にも、3つの宗教の聖地で世界史的に重要な場所である事にも大いに惹かれました。

以前から行きたいと思っていましたが、治安が悪くてツアーを催行する旅行会社がありませんでした。しかし2004年10月にパレスチナ自治政府のアラファト議長が亡くなると、過激派組織が2005年内にイスラエルへの攻撃を控える事を約束、イスラエルは軍と植民者をガザから撤退させるなど、和平ムードのもと治安がだいぶ改善されました。これに伴い、国内の旅行会社数社がツアーを再開しました。

12/28現在、外務省が発表する危険情報では、イスラエルの危険度はインドやフィリピンと同程度になっています。現地の事情に通じたガイドが終日付添って、身勝手な行動をせずに周囲の状況に気を配れば、十分安全な旅行が楽しめると判断しました。

前回のイタリア旅行からわずか3ヶ月後の旅行で、本当はもっと間をあけて旅行したかったのですが、イスラエルの政情は不安定でこの先治安が悪化するとも限らず、思い切って行く事にしました。

12月28日。

画像は正月ムードの成田空港。
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日が変わって12月29日。
ウズベキスタン航空にて途中関西空港で客を拾い、ウズベキスタン共和国の首都タシケントに向います。

現在日本からイスラエルへの直行便はありません。イスラエル政府は直行便への搭乗時に武装したイスラエル兵によるチェックを要求します。日本政府は成田空港にイスラエル兵を常駐させる訳にいかないので、直行便がないそうです。


画像はタシケント空港41 15' 28.54"N 69 16' 31.14"E 。
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日本と同様寒いです。今冬初めて雪を見ました。
空港では乗り継ぎ便の搭乗まで簡素なロビーで待ちます。免税店が1軒あり、タバコ、酒、化粧品、お菓子、ウズベキスタン人形、焼き物の食器、織物を売っています。
他にバーのカウンターが1つ。

チェックイン時には靴も調べられます。

日本からイスラエルに向うルートとしては、ヨーロッパ経由で行くかタシケント経由で行くのが一般的だそうですが、ヨーロッパ経由だとそれぞれの距離の長短の関係から日本からヨーロッパまでは大型機、ヨーロッパからイスラエルまでは中型機になり、大人数だと後者の予約が取りづらいそうです。

日本からタシケントまでは約8時間、タシケントからイスラエルまでは約5時間なので、それぞれ同規模の航空機の運行になります。
乗り継ぎの待ち時間等々を含めると到着するまで18時間近くかかります。


途中、カスピ海 (40 29' 54.86"N 51 25' 42.19"E) の上を横断します。画像はカスピ海の東岸に差し掛かったところ。
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こちらの画像はカスピ海の西岸に差し掛かったところ。バクー油田らしきものが見えました。
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横断に要した時間は25分でした。地球は狭いです。
この後、イラクを迂回してトルコ方面に向います。


凍てついた見慣れない風景が続きます。異星を眺めているような気分です。アルメニア共和国のセヴァン湖だろうか?40 16' 00.94"N 45 38' 32.43"E
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さてイスラエルに着く前にパレスチナ地方の歴史をまとめる事にしました。
パレスチナ地方には様々な民族、文化、宗教の史跡が混在しており、整理しないと混乱します。

「イスラエル」と言うのはユダヤ人の祖であるヤコブの別名なので、一般の書籍でイスラエル史というとユダヤ人の歴史を指すようです。ユダヤ人は世界各地に離散したので、今のイスラエル国がある場所にずっとまとまって暮らしていた訳ではありません。
(旧約聖書によると、アブラハムの孫であるヤコブは兄エサウとの和解の旅の途中、東ヨルダンのヤボク川で神と格闘し勝った。この時神からイシャラー(勝者)エル(神)、つまり神の勝者という名をもらった。)

現在イスラエルとパレスチナ自治政府がある地域は、地理的な区分けではシリア南部、またはパレスチナ地方と呼ばれます。パレスチナという名前は、紀元前13世紀にギリシャから「海の民」の一部としてシリア南部に上陸したペリシテ人に由来しています。最新鋭の鉄器を使うペリシテ人は、長い間イスラエル人のライバルでした。

1. 石器時代(紀元前11000年~紀元前30世紀)
ナトゥーフ期と呼ばれる定時狩猟採集段階から、穀物栽培と家畜飼育の新石器時代に移行。イェリコ(後述)などで塔や周壁を備えた大集落ができる。やがて土器の製作が始まる。

2. 古代オリエント時代(紀元前30世紀~紀元前4世紀)
青銅器時代に入り、生産力の増大に伴って大小多くの都市が生まれる。比較的肥沃なパレスチナにはアムル人、カナーン人、ペリシテ人、イスラエル人が陸続と移住した。
またエジプト文明とメソポタミア文明の中間地点に当る事から両者の衝突の場になった。数千年に渡りヒッタイト、アッシリア、新バビロニアがエジプト諸王朝と支配権をめぐってたびたび争っていたが、たまたま両者が弱体化すると小王朝が分立した。

中でもイスラエル人はダビデ王、ソロモン王の頃首都をエルサレムに置きシリア南部とパレスチナを領有したが(イスラエル王国)、ソロモン王の死後北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、エジプトとメソポタミアの力が復活すると両国とも滅ぼされた(この時北イスラエルが先に滅亡して構成していた部族が消滅した為、残った南ユダの部族がユダヤ人として後世に残った)。

最終的に他民族支配に寛容なアケメネス朝ペルシャに支配された。

ユダヤ教(後述)が完成したのはこの時期。
旧約聖書(後述)はパレスチナへの移住からローマ支配の直前までのイスラエル人、ユダヤ人の歴史等を記述したもの。

3. ヘレニズム時代(紀元前4世紀~6世紀)
マケドニアのアレキサンダー大王がアケメネス朝を倒して支配下に置き、ギリシャ・ヘレニズム文化が伝わった。その後継者であるセレウコス朝シリアがユダヤ人にギリシャの神を強要した事から反乱が起き、結局ユダヤ人は独立する事に成功した(ハスモン朝)。

しかしポンペイウスのローマ軍がセレウコス朝もろともハスモン朝を滅ぼし、ローマの支配下に入った。
ローマに取り入っていたイドマヤ人のヘロデはパレスチナの支配を任されたが(ヘロデ王国)、その死後しばらくして再びローマの支配下に入った。キリストが活動したのはこの頃である。

ヘロデ家とローマの支配の間、抑圧され続けたユダヤ人は、ユダヤ総督がユダヤ神殿を略奪した事で反乱を起したがローマの将軍ティトスによって鎮圧された。その後再び反乱を起こしたが五賢帝ハドリアヌスにより徹底的に破壊され、ユダヤ人はエルサレムから追放、世界各地に離散(ディアスポラ)した。
エルサレムはローマ風に作り変えられ、キリスト教が公認されると聖地として整備された。

ローマ帝国分裂後は、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国の攻防の地になった。

4. イスラム帝国と十字軍の時代(7世紀~15世紀)
7世紀にムハンマド(マホメット)が創始したイスラム教の大征服の波がパレスチナに押し寄せ、10世紀までアラブ系イスラム帝国の支配下に入った(正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝)。イスラム帝国は他宗教に寛容で、多くのキリスト教巡礼者も訪れたパレスチナは平和な日々が続いた。

9世紀以降、他地域から流入したりマムルーク(奴隷)としてカリフ(イスラム教における神の使いの代理人、政治的最高権力者)に購入されたトルコ、イラン、モンゴル系の軍人がイスラム帝国の政治に介在または各地で独立しはじめ、11世紀にはトルコ系のセルジューク朝がパレスチナを支配した。

しかしセルジューク朝に攻撃されたビザンツ帝国がローマ教皇に助けを求めた為、11世紀末~13世紀に西欧から十字軍(後述)が聖地奪還を目指してパレスチナに侵攻、占拠した。
やがて態勢を立て直したイスラム勢力(ザンギー朝、アイユーブ朝)はジハード(聖戦)を唱えて反撃、マムルーク朝の時完全に奪還した。

マムルーク朝は16世紀にトルコ系のオスマン帝国に滅ぼされた。

5. オスマン=トルコ帝国の支配(16世紀~20世紀)
広大なオスマン帝国の中で、パレスチナはダマスカス州総督が支配する帝国直轄領の1地方に過ぎなくなった。オスマン帝国は地元の名家を活用した支配を行なった。

17世紀末からフランスとの綿花の交易が活発化したアッコーは、18世紀半ばにはシリア最重要の港になった。交易独占で巨利を得たシリア・パレスチナの地域勢力は、一層保護主義的な経済体制の確立を目指し、ヨーロッパ列強の力を利用してオスマン帝国からの自立を図った。その為オスマン帝国のシリア・パレスチナ支配が揺らぎ始めた。

18世紀末には、ナポレオンがアッコーに侵攻したが失敗した。

19世紀には、エジプト総督ムハンマド・アリーが一時期シリア・パレスチナを支配してオスマン帝国に取って代わる勢いを見せたが、大幅な政治勢力の変動を望まないヨーロッパ列強の干渉で挫折した。しかしエジプトは実質的にアリーの支配下になりオスマン帝国から切り離された。

これ以降、ヨーロッパ列強はキリスト教徒保護を名目にエルサレムに進出し、オスマン帝国の弱体化を図った。
結局第一次大戦での敗北により、オスマン帝国のパレスチナ支配は終った。

6.近現代(19世紀以降)
近現代はパレスチナ問題(後述)に尽きる。
19世紀から迫害を逃れたユダヤ人がパレスチナに入植を開始。
第一次大戦後、国際連盟の要請という形でイギリスの委任統治領になった。
パレスチナの領有をめぐるユダヤ人とアラブ人の対立の中、第二次大戦が発生。

大戦後、イギリスの撤収を待ってユダヤ人がパレスチナの一部を占領、イスラエルを建国。
反発したアラブ諸国との間に中東戦争が勃発する。しかしアラブ諸国は敗走を重ね、4次に渡る戦争でパレスチナのアラブ人(パレスチナ人)は追放され難民化、イスラエルはアメリカの庇護の下、全パレスチナを占領する。

パレスチナ人が民族運動によってパレスチナ地域に独立国家樹立を目指しているのが、今の状況です。

以降少しずつUPする予定です。
参考文献は旅行日記の最後に挙げます。
移動中の車窓から撮った写真が多く、見苦しい物もありますがご了承ください。
画像の中には、私が記述している場所かどうか確信が持てないものがあります。
ほとんど確信が無い物は「XXXか?」。
少し確信が無い物は「XXXと思われる」。
というように表現します。

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