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イラン・ガズヴィーン~アラムート~タブリーズ旅行~その9(アラムート城・その3)

念願のアラムートに来たわけですが、その理由と言うのもマルコ・ポーロの東方見聞録に3章もの紙面を割いてアラムートの話が記述されているからなのです。
では、
東方見聞録に書かれている事は真実なのでしょうか?ちなみに東方見聞録には「マルコ・ポーロ氏が多くの人々から語り伝えられたままに」と書かれており、マルコ・ポーロが現地に行っていないのは明らかである。
井筒俊彦氏は、講演記録「イスマイル派「暗殺団」-アラムート城砦のミュトスと思想」の中で、はっきり「嘘」と述べています。その理由は次の通りです。
まず、13世紀にアラムート城陥落後に現地を実地調査したイランの歴史家ジュヴァイニーの著書「成吉思汗(チンギス・ハーン)伝」を読めば明らか、と書いています。恐らく、東方見聞録の「両山脈に挟まれた峡谷中に、彼はとても壮大美麗な庭園を造り」の「庭園」などなかったのでしょうか?
また、東方見聞録の、暗殺者にするべく楽園に連れ込む際に若者に盛った薬はハシシュ(大麻)だとしていますが、それは洋の東西を問わずアラムートの物語の中心には必ずハシシュが出ている事、これらの物語から、暗殺者を表すアサッシン assassiniの語源は麻薬常用者ハシーシー hashishiのヨーロッパ語化された形である事が理由と述べています。その上で、綿密な計画に従い己を失うことなく最後まで暗殺という仕事をやり遂げる事が、麻薬常用者には無理である事、ハシーシーとは麻薬常用者という意味だけでなく、暗殺団の常軌を逸脱した行為に対するイスラム教徒の憎しみの表現であり、実際の意味は社会の嫌われ者、人非人であったという事です。つまり、暗殺者候補の若者に薬を飲ませた事実はなかった、という事らしいです。
また、彼ら暗殺者の、ニザール派教団内での呼び名はフィダーイーであり、その意味は己の生命を犠牲にして己の尊敬する人、ここではイマームや「山の老人」、に忠誠を尽くす人、という意味があるそうで、この事からも、暗殺は天国での快楽を求めて行ったわけではなく、イマームや「山の老人」への忠誠心から、という方が妥当である事らしいです。
このように、東方見聞録の記述は、当時の人々がベールに包まれたニザール派教団内部を空想して作り上げた物語と言う疑いが濃厚です。
では、
アラムート城砦にいた人々(ニザール派)は実際にはどのような人々だったのでしょうか?
それにはまず
ニザール派がどのようにして生まれたのか、と言う点を記述します。
イスラム教は7世紀初めころにムハンマドにより創始された。ベースはユダヤ教とアラビアの土着信仰。元来イスラム教は血統を否定し、神の前ではいかなる人も平等であり、信仰心と敬虔さ、慈愛を重んじる。取り決めは神の言葉であるクルアーンと共同体の合議で決定する。ムハンマド死去後は、共同体のリーダーとして、神の預言者ムハンマドの代理人たるカリフを選出した。
しかし、7世紀後半、4代目カリフのアリーに有力部族ウマイヤ家が反発した事でイスラム教はシーア派とスンニ派に分かれた。シーア派はアリーの子孫だけが神から聖別され、ムハンマドの持つ神の霊性を引き継ぐ神聖な存在、イマームであり、イマームがイスラム共同体の指導者であらねばならず、クルアーンの法的解釈を含めた大きな権限を持つと主張した。一方、スンニ派は保守派であり、ムハンマドとクルアーンだけが絶対的かつ神聖な存在であり、ムハンマドの後継者は今まで通りカリフ(単なるムハンマドの代理人)であるとした。
8世紀半ば、シーア派は7代目イマームの座をめぐり、十二イマーム派とイスマイル派に分かれた。十二イマーム派は穏健派でスンニ派寄り。シーア派の主流であり現代のイラン人の大部分が属する。イスマイル派は急進的な過激派であり、イマームをより神に近い存在として熱狂的に信仰し、神秘的秘教的な面を持つ。当初はメッカを襲撃するなど各地で略奪・殺戮を繰り返したが、行動自体は次第に穏健になり、勢力も拡大して10世紀、チュニジア、エジプトを中心とするファーティマ朝帝国を築いた。そこでは世界最古の大学による学問の研究が行われ、イスラム文化の興隆に寄与した。
11世紀末、イスマイル派はファーティマ朝の跡目争いからムスタアリー派とニザール派に分かれた。勝利したムスタアリー派はシリア以西、ニザール派はイランを中心に活動した。
敗北したニザール派はその後どうしたのか
イマーム・ニザールの側近でアラブ人のハサニ・サッバーフ(第1のハサン)は、ニザール派の中心地となる場所を求めて中東を旅した。そしてついに、イランの山中に理想の場所を見つけた。そこは峻険な地形に囲まれた巨岩からなる城砦であり、その地方の住人は好戦的で反体制的気質だった。その場所アラムート城に、ハサンはイマーム・ニザールの孫を新たにイマームとして迎えて独立政権を創った。
ニザール派においては、イマームは天上の神が顕現化した存在だった。太陽そのものではないが、太陽の光と同等の存在。イマームは限りなく神に近いがゆえに、神の言葉であるクルアーンや、神の啓示を受けた預言者とは言え一人の人間に過ぎないムハンマドを上回る存在。保守的なスンニ派や十二イマーム派から見れば完全な異端で、当然敵対関係になる。
では、多数派の彼らに対抗する
ニザール派の組織はどのようなものか
ニザール派の組織は階層構造になっている。神の前では皆平等という訳ではない。秘教なので、上に上がるに従い教団の奥義が段階的に伝授されていく。
まず頂点に立つのはイマームだが、彼が教団の実務を行っているわけではない。イマームは存在する事に意味があるので、何もする必要がないのだ。奥義を知る必要もないし姿を見せる必要すらない。
事実上の最高指導者は、最高伝教師。ハサニ・サッバーフがこの地位にあった。「山の老人」とは最高伝教師を指す。暗殺者の育成も行う。一時的に最高伝教師がイマームを僭称した時期もあった。
その下にいるのは、上級伝教師。各担当地域の布教活動を統括する。
その配下にいるのが多くの一般の伝教師。実際の布教活動を行う。
その下が一般信徒になるが、一番上がラフィーク(同輩)。奥義の一部を伝授されている。
その下がラーシク(付着者)。イマームに絶対的忠誠の誓いを立てて入信しているが、奥義はほとんど伝授されない。
最下位がフィダーイー(献身者)。奥義の知識は何もなく、ただ伝教師の指示に従い暗殺や攻撃を行う。
伝教師による一般庶民の教化が主活動だが、教化の邪魔になる人間はフィダーイーを使って暗殺する、というのが裏の活動なのだろう。また、要人暗殺は教団の存在感を高める為に行われたのかもしれない。

ニザール派の思想はどのようなものか
イマームが神に限りなく近く、クルアーンやムハンマドをも超える絶対的な存在だったのは前述の通り。イマームの教えなくして人々は真実を知ることができない。
また、イスラム法(シャリーア)に反する思想を持っていた。クルアーンやムハンマドの言行録に基づくイスラム法はイスラム教徒の行動の規範であり、なくてはならないもの。例えば、一日5回の礼拝は、イスラム教徒が神とともにいる時間であり、その為に必要な行為である。しかし、ニザール派では、信徒の霊的復活により、信徒は礼拝の儀式なしに常に神とともにいる事が可能になるとした。これは、神とともにいる為の取り決めであるイスラム法の全面否定、棄却を意味する。霊的復活とは、信徒が地上的存在ではなくなり、天上的存在として蘇る事を意味する。実際、12世紀半ばに、4代目の最高伝教師が復活の儀式を行い、イスラム法を棄却する事件が起きた。イスラム教徒にとって禁忌とされている事が全て可能になったのだった。それは、13世紀前半、6代目の最高伝教師がイスラム法を復権するまで続いた。
13世紀以降、ニザール派は次第に穏健化していく。それは多分に6代目の最高伝教師の反イスマイリズムの思想がきっかけだったが、イランに強力な政権を打ち立てたスンニ派のホラズム・シャー朝の圧力が大きく影響していたかもしれない。

アラムートの最後はどのようなものだったか
「頃はキリスト降誕暦1262年の前後であった。「老人」のこれまでの悪行一切を知った近東タルタール領主アラウは、どうあっても彼を平定しようと決意した。そこで彼は数ある重臣の一人を選び、これに大軍を授けて「老人」の城塞に向わしめた。この軍勢は城塞を攻囲する事三年あまりにしてようやくこれを占拠した。もし城塞内にもっと兵糧があったなら、これくらいの日数では陥落しなかったであろう。しかし攻囲三年にして城内の兵糧は蕩尽したので、城塞は陥り「山の老人」、すなわちアラオディンはその部下と共に挙げて誅滅されたのである。…それとともに、かつて「山の老人」によって実施せられた忌まわしい統治もここに終わりを告げたのである。」(東方見聞録)
モンゴル帝国のフラグ率いる中東方面軍は、1256年から侵攻を開始し、12月にはアラムート城は陥落した。主な城塞は全て陥落したが、ニザール派のイスラム共同体は広範囲に存在していたため、全滅は免れた。ニザール派は現在も存在しており、信徒数約数百万。もちろん昔日の暗殺テロ行為は行われておらず、ただ秘教システムのみが残っている。


参考・引用文献:


書名 :完訳東方見聞録 1
シリーズ :平凡社ライブラリー 326
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社


書名 :井筒俊彦全集 第9巻
著者名 :井筒俊彦/著
出版者 :慶應義塾大学出版会

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