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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その1(成田~ドバイ)

某年9月中旬、1人参加ツアーにてイラン南東部のペルシャ湾岸のホルモズガーン州に行って来ました。
当初予定のコースは以下の通りですが、行けなかった場所もあります。

1日目:22:00成田発、翌3:40ドバイ着。
2日目:7:45ドバイ発、10:25テヘランのイマーム・ホメイニー国際空港着。午後にテヘランのアザーディー・タワー観光。19:30テヘランメヘラーバード空港発、21:00ホルモズガーン州のバンダル・アッバース空港着。
3日目:バンダル・アッバースのスールー地区のモスク見学~ティーアーブ(Tiyab)の港観光~コラーヒー(Kolahi)で海岸観光~バンデザラク(Bandzarak)からミーナーブ河河口方面観光~ゴラーズイーイェ(Gorazuiyeh)の城塞跡観光~バンダレ・カールガーン(Bandar-e-kargan)のマスジェデ・ジャーメ見学~ミーナーブ(ミナーブ)。
4日目:ミーナーブの城塞、バザール観光~「大傾斜地帯」観光~ファールヤーブのモスク見学~22:10バンダル・アッバース空港発~23:55テヘランメヘラーバード空港着。
5日目:トーチャールのテレキャビンにてテヘラン郊外の標高3000mの山岳観光~21:00イマーム・ホメイニー国際空港発~22:50ドバイ着。
6日目:2:40ドバイ発~17:35成田着。

※車窓からの撮影が多いです。見苦しい点はご容赦ください。

今までと同様、マルコ・ポーロゆかりの場所を訪ねるのが目的です。
1271年冬にパレスチナのアークル(現アッコー)を出航したポーロ一行は、トルコのライアス港(現アヤス)に上陸してアナトリア半島東部を東進しました。

その後の道筋は研究者により諸説あります。

① イギリスのサー・ヘンリー・ユールは、一行はイラクに入り、バグダッド通過。バスラ港からペルシャ湾に出て海路旧ホルムズ港に上陸し、ジーロフト~ケルマーン~クボナン~タバス~サブズヴァール~ネイシャーブール~マシュハドを通ってアフガニスタンに向ったとしています。

② イギリスのペルシア領事、パーシー・サイクスは、一行はアララト山の麓を抜けて、タブリーズ~サヴェ~ヤズド~ケルマーン~ジーロフト~旧ホルムズ~ゲノ~ケルマーン~クボナン~タバスを通ってアフガニスタンに向ったとしています。
ちなみにこのサイクスは、現在のパレスチナ問題を複雑化させたイギリスの三枚舌外交のひとつ、サイクス・ピコ条約を結んだ人です。

③ 日本の長澤和俊氏は、タブリーズ~テヘラン~コム~イスファハーン~ヤズド(以降②と同じ)を通ったと著作の中で述べています。

マルコ・ポーロが実際に旅したかどうかも定かではないので、どの説が正しい、とは決められないのですが、私は「東方見聞録」の話の流れから見て②を支持します。

ブログトップページの「マルコ・ポーロの行程図」をご覧になるとおおよそのルートがわかると思います。

「東方見聞録」にはイランに関わるエピソードがいくつかあるのですが、中でも二つのエピソードに注目しました。

ひとつは、ケルマーンから旧ホルムズに向う途中のレオバール平原でカラウナスという山賊集団に襲われ、命からがら逃げ延びた、というものです。
恐らく中国への行程中もっとも危険な事件なのではなかったかと思われます。

もうひとつは、旧ホルムズ港に到着した一行が、停泊する船があまりに貧弱なのを見て海路で中国に行くのをあきらめ、中央アジアを経て中国に向うよう方向転換したことです。
その結果、「東方見聞録」には中国シルクロードの記述が豊富に盛り込まれる事になりました。

今回の訪問先は、レオバール平原と「大傾斜地帯」に辿り着く事、位置が明らかでない旧ホルムズ港跡になるべく近づく事を考慮して決めました。
2007年のバンダル・アッバース、ミーナーブ訪問と目的はほぼ同じですが、今回は前回行けなかった場所やペルシャ湾の景観を見る事を主眼にしました。)


今回の訪問先は通常の旅行ツアーには含まれていない為、行きたい場所を旅行会社に伝えてプランを作成してもらう「受注型企画旅行契約」という形式になりました。
一人参加のツアーみたいなものです。

 

1日目

台風の前触れの小雨の中、家を出た。19:13、空港第二ビル駅着。
3階の出発フロアで手持ちの円をドルに両替しておく。
エミレーツ航空のカウンターでチェックイン。今回はテヘランまでエミレーツ航空なのでドバイでスーツケースを受け取る必要はない。受取はテヘランになる。ただし席は3人掛けの真ん中である。最悪。
早々に手荷物検査、出国審査を済ませ、搭乗口へ。
搭乗開始は遅れて21:43、幸いにも両隣の人は比較的細身の方であった。
22:17離陸。これからテヘランまで17時間近くかかる事を考えると憂鬱で、映画を見る気にもなれなかった。
23:15、夜食。ニース風サラダ、チキンとアプリコットの蒸し煮、マッシュポテト、チョコレートムース。ちょうど九州上空。台風の影響か気流が悪く、少し揺れる。
Dsc02702a足腰が冷えてきた。前回、前々回と冬の飛行機旅で冬服だったので気付かなかったが、夏服だと飛行機の床から寒気が伝わってくる。両隣の方々は手慣れたもので、搭乗直後に、航空会社から貸与される靴下を重ね履きして寒気に備えていた。私も真似して重ね履きする。
食事が終わると、とにかく早く寝たい。でも当然寝付ける訳もない。アルコールを飲みたいが、普段服用している薬の関係で飲む事ができない。眠前薬を飲んで意識が朦朧になる。


2日目

ふと気が付くと3:40、ミャンマー上空。やっと行程の半分か。
6:15、朝食。季節のフルーツ、卵焼きと鶏肉のパテ、ローストポテト、さつまいものソテー、クロワッサン。インド西部(ムンバイ辺り)上空。
Dsc02703a8:24(現地ドバイ時間3:24)、ドバイ国際空港に着陸。
前回と同様、手荷物検査は軽め。テヘラン行きに乗り継ぐが、ターミナルの建物が別なので搭乗口までかなりの時間を要する。ターミナル間トレイン利用。
4:28(ここからドバイ時間で記載)、搭乗口着。まだ人の姿は少なく、床に寝そべっている人数名。
Dsc02704a7:05、搭乗開始。Dsc02706a8:14、予定より30分遅れて離陸。いよいよイランへ出発だ!


【イランの概要について】

以前記載したものですが、再度記載します。

正式国名:「イラン・イスラム共和国」
面積:日本の4.5倍
人口:7910万(2015年)
首都:テヘラン
最高指導者(最高権力者):アリー・ハーメネイー師
元首:ハサン・ロウハーニー大統領


地形:
イラン北部に東西に伸びるアルボルズ山脈、イラン北西部から南東部にかけて斜めにザクロス山脈が伸びる。
二つの山脈の間、イラン東部にキャビール、ルートの大砂漠がある。
ザクロス山脈の東側はイラン高原と呼ばれる高地になっている。

気候:
山脈に遮断されたイラン内陸部は、ペルシャ湾やカスピ海から来る湿った空気が遮断され、降雨が少ない。夏は高温になる。
ザクロス山脈の南のペルシャ湾岸は高温多湿。
アルボルズ山脈の北のカスピ海岸は降雨量が多く豊かな農業地帯になっている。

民族:
ペルシア人(50%)、アゼルバイジャン人(17~25%)、クルド人、ロル人、アラブ人、バルーチ人、ガシュガーイー人、シャーサヴァン人、トルクメン人など。

宗教:
大部分はイスラム教シーア派、他にイスラム教スンナ派、キリスト教(アルメニア教会、アッシリア教会、カトリック、プロテスタント)、ユダヤ教、ゾロアスター教など。

言語:
公用語はペルシア語だが、他にクルド語、ギーラーン語、アーザリー語、トルクメン語、ガシュガーイー語、アラビア語、アッシリア語、アルメニア語がある。

休日:金曜日
通貨:イラン・リアル。
2017
年10/5現在では1リアル=0.00330882円。


治安状況:
2017年10/5現在
、以下の通り。
●パキスタンとの国境地帯
レベル4:退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告)
●ケルマンシャー州及びイーラーム州のイラクとの国境地帯
レベル4:退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告)
●イラク及びアフガニスタンとの国境地帯(上記を除く)
レベル3:渡航は止めてください。(渡航中止勧告)
●シスタン・バルチスタン州(チャバハール市及び同市周辺の自由貿易地域,アフガニスタン及びパキスタン国境地帯を除く)
レベル3:渡航は止めてください。(渡航中止勧告)
●シスタン・バルチスタン州チャバハール市及び同市周辺の自由貿易地域及びケルマーン州
レベル2:不要不急の渡航は止めてください。
●首都テヘラン他,上記地域を除く全地域
レベル1:十分注意してください。



【イランの歴史について】

以前記載したものですが、再度記載します。

1. 有史以前・古代オリエント時代
 
イランでは紀元前七千年には農耕社会が存在していた。
 
古代オリエント時代には、イランは長い間メソポタミア文明の辺境だった。
 
しかし、イラン南西部のアケメネス朝ペルシアが古代オリエント世界全域を初め  て統一する事に成功した。
 
その後継者であるサーサーン朝ペルシアと共に高度なイラン文明を作り上げた。

① 紀元前七千年にはガンジュ・ダッレで排水溝を備えた集落が存在していた。

② 紀元前四千年以降、エラム人は徐々にイラン高原南西部を代表する政治勢力に発展したが、アッシリアに滅ぼされた。

③ 紀元前二千年以降、中央アジアの遊牧民でインド・ヨーロッパ語系のアーリア人と呼ばれる集団が、オリエント世界に移動して来て、馬と鉄器をもたらした。
 
非アーリア人は次第にアーリア人に同化していった。
 
アーリア人は現在のイラン人、インド人の大部分を占めている。

④ アッシリア滅亡後、イラン高原西部を支配したのがメディア人(アーリア系=イラン系)で、次第に南西部と東部に勢力が拡大した。

⑤ メディアを倒したのがイラン南西部のアケメネス家率いるペルシア人(イラン系)で、騎馬弓兵と寛容な政策をもって紀元前6世紀には古代オリエント世界を統一した。
 
ギリシア、エジプトからイラン、中央アジアにまたがる大帝国が成立した。

⑥ 紀元前4世紀、マケドニアのアレキサンダー大王がアケメネス朝を滅ぼし、死後は後継国家セレウコス朝が支配。
 
彼らはアケメネス朝の統治政策を踏襲した。

⑦ 紀元前3世紀、イラン高原北東部のパルティア人(イラン系)がセレウコス朝から独立した。
 
彼らはアケメネス朝の統治政策を踏襲した。
 
イラン高原に進出したローマ帝国とたびたび争った。

⑧ 3世紀、イラン南西部のペルシア人(イラン系)がパルティアを倒してサーサーン朝が成立した。
 
ローマ帝国をたびたび破り、7世紀にはアナトリア、エジプトから中央アジアにまたがる領土を獲得した。



2. イスラム化とトルコ、モンゴルの支配
 
イランは7世紀にアラブ・イスラム帝国に征服された後、次第にイスラム教化した。
 
11世紀、イスラム化した中央アジアのトルコ系遊牧集団が、高度な文明を持つイスラム世界に移動し始め、その後モンゴル人が侵入した。
 
圧倒的な武力を持つトルコ系、モンゴル系民族はイランの政治、軍事を掌握したが、行政はアケメネス朝以来のイラン系の官僚、役人が担っていた。

① 7世紀、アラブ・イスラム帝国がサーサーン朝を滅ぼし、ウマイヤ朝、アッバース朝のカリフ(イスラム教における神の使いの代理人、政治的最高権力者)がイランを支配下に置いた。
 
しかしイスラム教化は進まなかった。
 
公用語としてアラビア語が使われた。

② 9世紀以降、アッバース朝の権威が衰えると、イランで独立王朝が次々と生まれた。
 
ターヒル朝(イラン系)、サーマーン朝(イラン系)、サッファール朝(イラン系)、ブワイフ朝(ダイラム人)、ガズナ朝(トルコ系)。
 
経済の発展とともに、イスラムへの改宗が進んだ。

③ 11世紀、イランに移動して来たトルコ人遊牧集団を取締る事を期待され、トルコ系のセルジューク家が支配者として迎えられる。
 
最盛期には地中海岸から中央アジアを支配したが、後継争いから分裂する。
 
ペルシャ語が再び公用語になる。

④ 12世紀、イラン北東部のホラズムシャー(トルコ系)がセルジューク朝を滅ぼし、イランと中央アジアを支配する。

⑤ 13世紀、チンギス・ハンのモンゴル軍がホラズムシャー朝を滅ぼし、イランを支配下に置く。
 
後にモンゴル人はイランにイルハン国を建国、14世紀にはイスラムに改宗した。
 
しかし内紛により同国でのチンギス・ハンの血統は絶えた。

⑥ イルハン家が絶えると各地に政権が誕生した。
 
イルハン朝の後継国家ジャライル朝(モンゴル系)、ムザッファル朝(イラン系)、地域勢力サルバダール。

⑦ ティムール(モンゴル系)が上記諸政権を滅ぼし、西アジア全域を支配する。
 
死後後継争いが起こり、西側をカラコユンル朝(トルコ系)次いでアクコユンル朝(トルコ系)に奪われた。
 
16世紀、シャイバーニー朝(ウズベク人)に滅ぼされたが、その子孫はインドでムガール朝を建国した。

⑧ シーア派サファヴィー教団の教主イスマーイール1世が、信徒であるトルコ系遊牧民の軍事力によって、内紛で弱体化したアクコユンル朝を滅ぼし、更に領土を拡大した。
 
死後、混乱が続いたが、アッバース1世は軍事・統治体制の改革によって領土を拡大し、最盛期を築いた。
 
また、この時代にシーア派十二イマーム派がイランに定着した。
 
経済的にも繁栄したが、無能な王が続くと徐々に衰退し、18世紀には各地で反乱が起きた。

⑨ サファヴィー朝は領土の東をアフガン人、西をオスマン朝に奪われた。
 
結局サファヴィー朝の宰相が滅ぼしてアフシャール朝(トルコ系)を建て、領域を拡大した。
 
その死後は地方勢力が抗争を繰り返した。

⑩ ザンド朝(イラン、クルド系)が統一に成功するが、十数年後には後継者争いが始まった。



3. 近代・現代
 
19世紀になると、イランは西洋列強のグレートゲームに翻弄され、ついには半植民地化する。
 
これに反発して立憲国家樹立への闘争が始まる。
 
この過程でイラン・ナショナリズムを形成する4つの立場が現われ、近現代のイランの政治を形作った。
a.
西欧流の民主主義確立により、自立と独立を目指す。
b.
イスラム以前の古代イランの伝統を重視する。
c.
マルクス主義の影響の元、列強の植民地支配からの独立を最優先にする。
d.
イスラム教こそがイラン国民を団結させる。

① ザンド朝とアフシャール朝を滅ぼしたのがガージャール朝で、テヘランを都とした。
 
強力な軍隊と官僚機構を持たず、地方の有力者に対する統治は名目的なものだった。

② 19世紀に入ると、フランスとロシアの南下政策と、イランをインド防衛の最前線とみなすイギリスの間で、ガージャール朝は翻弄された。
 
列強からの政治的独立を保つ為の努力が続けられたが、次第に利権を奪われ半植民地化していった。

③ 20世紀になると、列強の干渉とガージャール朝の専制政治への反対運動が生まれ、立憲国家を目指す動きになった。
 
憲法制定と国民議会の設立に成功し、派閥政争の混乱の中でも改革への取り組みが行われたが、利権喪失を恐れたロシア軍の進駐により失敗した。

④ 列強の占領と政情不安により、イラン全土は無政府状態になった。
 
強力な中央政府を望む声が高まり、イギリスの支援によるクーデター成功の後、パフラヴィー朝が成立した。
 
国軍と官僚機構の強化により中央集権化を進め、古代イラン礼賛ナショナリズムに基づき、司法の反イスラム化、西洋化を行った。

⑤ パフラヴィー朝の中央偏重政策は地方の不満を呼び、国内の政局は不安定化した。
 
農地の分配・汚職の追放による改革は、見せ掛けで終った。
 
権力強化の為、拡大した軍と官僚機構による抑圧が進められた。
 
一方、欧米の干渉により石油の完全国有化に失敗したものの、莫大な石油収入は急激な経済発展を生んだ。
 
その裏で貧富の差の拡大が深刻になった。

⑥ 経済格差と抑圧に対する不満が高まる中、抑圧された宗教界の憤懣をきっかけに始まったデモが全土に拡大し、その圧倒的な人数の前にパフラヴィー朝は崩壊した。
 
イスラム臨時革命政府が樹立され、後にイスラム法学者が統治するイスラム共和国が樹立された。
 
国内政策においては急速なイスラム化を進め、外交においては米ソに属さない独自路線で孤立を招いた。
 
80年代後半以降、急進的な革命路線から言論の自由と国際協調を重視する路線に移り始めたものの、改革派を締め上げるイスラム法学者を中心とした保守派、という図式は現在も変わっていないように見える。

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