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2017年10月

イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その14(ミーナーブのバザール))

ミーナーブの城塞からバザールに向かう。通りは結構人通りが多い。Dsc02908a11:35、ミーナーブのバザールの広場に着いた。
ミーナーブのバザールは木曜日に大々的に開かれ、露店は広場を埋め尽くす。しかし残念ながら今日は木曜日ではないので、とっても小規模。店は50店ほどか。Dsc02910aDsc02912a600キロ西にある大都市シーラーズから運んできた野菜や果物が売られている。この話が本当だとしたら相当大変な仕事だ。
昔から運ぶのは男の仕事で、売るのは女の仕事だという。しかし今では男も店番をしている。Dsc02909a仮面を着けた
バンダリーの女性がいるが、仮面を外すといたって普通だ。Dsc02911aでも仮面を着けると、やっぱり不気味である。Dsc02914a撮影してくれと言ってきた果物屋の男性。決めポーズがかっこいい。Dsc02916b_2それにしてもおいしそうな果物ばかり。Dsc02913aDsc02915a魚と肉の市場は建物の中にある。Dsc02917aDsc02917b小さな魚を売っているのは女性が多い。Dsc02918aこれはバナナエビというらしい。ペルシャ湾では一般的なエビだ。Dsc02921a他にはマナガツオ、アジ、サンマ、ヒラメかカレイといったところか。中央上の魚はレッド・スナッパーというらしい。Dsc02920a大きな魚をさばくのは男性の仕事らしい。このさわやかな笑顔。Dsc02919aイランの普通の猫。ペルシャ猫は見かけない。Dsc02917c11:44発。次は北60キロのファールヤーブへ。

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その13(ミーナーブの城塞(ビビナザニン))

ミーナーブの城塞(ビビミヌ)からミーナーブの城塞(ビビナザニン)へ向かう。
再び通りがかりの人を呼び止めて道を聞く。Dsc02895a2007年と比べるとイランの女性のファッションはよりカラフルになった。特に都会の若い女性は。
しかしどちらかというとこの地方の女性のファッションは昔から色鮮やかだと思う。古くからインドとの交易が盛んで、影響を受けているのか、テヘランと違って民族衣装的なサリーに近いものが多い。その鮮やかさに目を奪われる事もしばしば。Dsc02896aDsc02898a
ビビナザニンのポルトガル城塞はすぐに見つかった。元々わかりやすい場所にある。遠くからでも一目見れば城塞だとすぐにわかる。Dsc02900aしかし2007年は、ミーナーブ河にかかる橋から小さい姿しか見なかったので、今こうして間近に見ると本当に感動する。やっと会えた、という感じだ。Dsc02901a城塞は、遊歩道を登って辿り着けるようになっている。Dsc02902a城塞の裏側に回る。崩れていて普通の岩と変わらないが、人工物だとはっきりわかる。泥レンガだが、所々石が混ざっている。地面には土器片もあるようだ。Dsc02903a上まで上がろうか迷ったが、斜面が急なうえに崩れやすくて途中であきらめた。上からの眺めは気持ちよかっただろう。Dsc02904aここまで形が整っていると、本当に感動もの。より整った姿は、オーレル・スタインが90年近く前に撮影した写真を見るしかないのだろう。Dsc02905aDsc02907a城塞のすぐ下に、町の中心部がある。城塞の建つ場所がいかに重要だったか、よくわかった。Dsc02906a11:24出発。次はミーナーブのバザールへ。

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その12(ミーナーブの城塞(ビビミヌ))

4日目
ミーナーブのホテル、ツーリスト・イン
8:00前に起きた。こんなに寝たのは久しぶりだ。
今日は、
ミーナーブの城塞、バザールを観光した後、ミーナーブの北60キロのファールヤーブのモスクを見学する。その途中で、「東方見聞録」に記述されている「大傾斜地帯」を見る。そしてバンダル・アッバースのバザールを観光した後、ホルモズガーン州を後にしてテヘランに戻る。
9:00に1階の食堂に行くと、ちょうどAさんがテーブルについたところだった。朝食はナンとサラダの他、ゆで卵、目玉焼き、ジャムとバターの3種類
から選ぶようになっている。私は目玉焼きにした。
Aさんに、ミーナーブの町の夜の様子を尋ねると、バンダル・アッバースのように夜の人出が多いわけではなさそうだった。Dsc02853aDsc02854a9:30、部屋に戻ってスーツケースに荷物を詰め込み終えた後、スーツケースのキーが無いことに気付いた。あわてて部屋を探し回って、ベッドの上に置いてあるのを見てほっとした。
こんなことがあって、1階ロビーに着いたのは集合時間ぎりぎりの10:00だった。Dsc02858a10:12、ミーナーブの城塞に向けて出発。ホテルを出る。Dsc02857aミーナーブの町はテヘランと違って
が多い。街路樹はナツメヤシが多く見られる。Dsc02862a陽光豊かで、明るい町だ。Dsc02863aミーナーブの城塞のうちビビミヌと呼ばれる方に向かう。大通りから城塞への登り路に入る。Dsc02864a車道の終点は公園になっていて、車はそこまでしか入れない。10:25、車を降りた。
ヤギの彫像があった。このヤギは実際この地方に生息しているらしい。Dsc02865a
ザグロス山脈の南端部が見える。何と荒々しい姿。Dsc02868aその中にミーナーブのダム湖がある。Dsc02866aこのダム湖はミーナーブ河の起点であり、ミーナーブの町の水源になっている。Dsc02867aダム湖からいくつかの河が、山あいの平野を町に向かって下っていく。Dsc02870aDsc02869aここからはミーナーブの町や、ペルシャ湾岸まで続く平野が一望できる。Dsc02871aDsc02872aDsc02873aDsc02874aDsc02875aダムの北東へは、ザグロス山脈の山塊がひたすら続く。Dsc02876aDsc02877aさらに階段を上へ上へと上がっていく。Dsc02878aすると城塞の写真が貼ってある大きな看板がある。
そこは広場になっていて、大砲が置かれている。恐らくここが
ビビミヌの城塞の上端部だろうか?Dsc02881aミーナーブの城塞はビビミヌとビビナザニンの2つがある。両方とも女性の名前だ。Aさんによると、もとはアケメネス朝時代以前(紀元前6世紀以前)に造られたのではないか、との事だった。その後、ここにポルトガルが要塞を造った。Dsc02884aこの辺からはミーナーブ河を俯瞰できるが、撮影ポイントによって見え方が違う。広場を外れて色々歩き回ってみるのも楽しい。ただし道から落ちないように気を付けて。Dsc02880aDsc02879aミーナーブ河はダム湖から始まって、緩やかに下っていく。Dsc02882a今の季節は雨が降らないので干上がっているDsc02883aDsc02885aDsc02886a_2やがて河は町に至る。そこにはオーストラリア人が設計した長い橋がかかっているDsc02887a河は町を南北に分断して流れていく。Dsc02888aそして大きく蛇行しながら、ペルシャ湾へと下っていく。Dsc02889a広場には、ナツメヤシの木がたくさんある。今は実の色は緑だが、熟すと黄色や赤色になる。熟すと食べられるが、そのまま干して濃褐色になったものもおいしい。糖分が多い為、味は甘い。
乾燥地でも育ち、カロリーが高く、長期保存が可能なため、中東地域では重要な食糧である。ミーナーブはナツメヤシの原産地である。イランの特産品にもなっている。Dsc02890a気が付かなかったが、広場にはこんなミーナーブの家を再現した休憩所があった。夜この人形を見たらさぞかし怖いだろう。Dsc02891a10:59、出発。
次は
ミーナーブの城塞(ビビナザニン)へ。

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その11(ミーナーブのツーリスト・イン)

ゴラーズイーイェから東に向かい、ミーナーブに行く。
ミーナーブ市街地の本道に入った。日中の暑さの為、少ないとは言え、さすがに人を多く見かける。人口は5万だそうだ。今でも一般的には、ここが旧ホルムズだと言われる。Dsc02847a14:31、
ミーナーブのホテルイマーム・ホメイニ通り、メッラット・パークのツーリスト・イン(ホテルチェーン)だ。Dsc02855aDsc02856aホテルのロビー。奥が食堂。Dsc02861a1階の様子。Dsc02859a部屋は102号室。小さいホテルだが清潔で居心地は良い。インターネット使用可。イランのほとんどのホテルはインターネットが使用できる。でなければ競争に勝てない。Dsc02850aDsc02851aメッカの方向を示す矢印。Dsc02852a14:40、ホテルの食堂で昼食を食べる
新鮮なサラダと、イランの
エビ料理を食べる事にした。エビは大きいものはなく、小ぶりのものだった。イランのエビはおいしいし、味付けも良い。長粒米のご飯もおいしい。イランに来てよかったと思う。でも香草は未だに少し苦手だ。Dsc02848aDsc02849a15:30、部屋に戻ると強烈な眠気が。そのまま夕食も摂らずに寝てしまった時々目が覚めたが、人の話し声と、アザーン(イスラム教の礼拝の呼びかけ)だろうか、少し気味の悪い歌うような声が延々と聞こえた。聞きながらまた眠った。普通アザーンを気味悪いとは思わないのだが、何だったのだろう?
22時に起きたが、今さら外出する気にもなれず、Tシャツだけ洗濯して23時に再び寝た。
3:30に一旦起きたが、Tシャツは乾いていた。また寝た。こんな風に外国で思い切り寝るのも悪くない。

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その10(ゴラーズイーイェの要塞跡)

バンダレ・カールガーンから北上して、ゴラーズイーイェ(Gorazuiyeh)の要塞跡に向かう。
どこにあるのかよく分からず、地元の人に声をかけて教えてもらいつつ、手探りで進んでいく。Dsc02833aようやくそれらしき小高い丘が見えた。これが
ゴラーズイーイェの要塞跡らしい。
Aさんによると、造られたのはサーサーン朝帝国時代末期の7世紀前半、ホルミズド5世か6世の頃だという。半世紀のち、アラブ=イスラム帝国の侵攻を受け、破壊されたという。Dsc02834aDsc02835a13:40、近くの大きな給水塔の前で車を止めた。Dsc02846a給水塔の直下には、大きな溝がある。地元の若者が親切にも案内してくれた。Dsc02836aここは昔の埋葬地であり、発掘されたのだという。Dsc02837aDsc02838aDsc02839a頂上に遺構のようなものがある小高い丘までは、ちょっと距離があったが、行ってみる事にした。給水塔の周りには柵があり、車は抜けられない。一人で歩いて行く事にした。
歩いていける距離とはいえ、
40度を超える暑さである。無理は禁物だ。Dsc02840a近づいて見たが、今一つ岩なのか遺構なのかわからない。Dsc02841a半周ほど回ってみた。何となく土塁を積み重ねたように見えなくもない。上まで上がろうかと思ったが、無理は避けることにした。Dsc02842a最初は丘に隠れて見えなかったが、その奥には似たような形状の大きな岩がいくつかあった。遺構に見えなくもない。地面には平べったい石のかけらが一面に散らばっている。土器片かどうかわからないが、天然の石だとも思われなかった。
恐らく大きな城塞、あるいは都市遺跡だろうと思われた。Dsc02845a_2Dsc02843a_2Dsc02844a_2更に奥に進もうかとも思ったが、給水塔から離れており、野犬などがいるとやっかいだ。ここで引き返すことにした。ここが旧ホルムズの遺跡だったらどんなに良いだろうかと思いながら。そしてカレサラワンの遺跡はここなのだろうかと思いながら。
今晩の宿泊地、東の
ミーナーブに向けて出発。

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その9(コラーヒー~バンデザラク~バンダレ・カールガーンのマスジェデ・ジャーメ)

コラーヒーの集落から更に南下し、バンデザラクに向かう。Dsc02817a近辺ではエビの養殖で儲けた人たちが、この辺では見かけない瀟洒な家を建築中。
エビ料理は、イランでは結構高いそうだ。Dsc02818aDsc02819aDsc02820a12:30、2007年にも訪れた
クロカシの集落に着いた。入り口にあったザクロのオブジェは、なぜか取り壊されていた。Dsc02821aこの地方特有の仮面を着けたバンダリーの女性が歩いていた。仮面は宗教的な理由から着けるものらしいが、Aさんによると、仮面を着ける行為は9世紀以降のイスラム化以前からあったそうで、理由はきつい太陽の紫外線から顔を守る為だそうだ。
今は既婚者が着けているが、昔は未婚者も着けていて、当時は見合い結婚だったので、親が素顔を見て結婚するかどうか決めていた。Dsc02822a12:45、
バンデザラク(Bandzarak)の集落に入る。ミーナーブ河河口方面に行くことはできなかった。
ゴラーズイーイェ(Gorazuiyeh)を通過。クンビル(Kombil)付近も通過したと思われるが、集落が小さく、気が付かなかった。Dsc02824aDsc02825aDsc02826aDsc02827a13:00、バンダレ・カールガーン(Bandar-e-kargan)の町の入り口にあるマスジェデ・ジャーメに着いた。これで旧ホルムズ港遺跡があると思われる湾の周りを一通り回ったことになる。Dsc02829a2本の大きく立派なミナレット。Dsc02828aDsc02830a地元のモスクであり、観光地ではない為、中に入るのは控えた。Dsc02831aお祈りの前、体を洗い清める場所。Dsc02832a運転手のBさんがお祈りする間、暑いので日陰で休む。
13:11、出発。
次は来た道を戻り、
ゴラーズイーイェの要塞跡へ。

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その8(コラーヒーの海岸)

ティアーブからコラーヒーに向かう。
道標らしきものがどこにもないので、地元の人に道を聞きながら進む。
Dsc02803a最初の川を渡り、コラーヒー(Kolahi)の集落に入る。Dsc02804aモスク?Dsc02805a集落の中を、みたび川を渡る。Dsc02806aDsc02807a集落のはずれに出る。この建物が、何なのかわからない。Dsc02808a先に見える釣り堀のようなものは、エビの養殖場。イランではエビはあまり食用にされなかったが、近年需要が高まり、高値で取引され、養殖されるようになった。Dsc02809a恐らくミーナーブ河の支流の河口付近。漁船が干潮で砂浜に乗り上げている。Dsc02810a11:50、コラーヒーの海岸に着く。ペルシャ湾岸。遠浅の海に漁船が乗り上げている。船は夜の満潮時に出航する。Dsc02812aDsc02813a水がきれいだった。Dsc02815a家族連れが海水浴を楽しんでいた。Dsc02811aDsc02814aDsc02816a「夏期の間にはこの平原を取り巻く砂漠の方向から、とうてい普通の手段では耐え切れないような熱風が何回となく吹きつけてくるから、(中略)首まで水につかって死ぬほどの暑気から身を守るのである。」(東方見聞録)
とにかく
暑い
次はバンデザラク、クンビル付近を通り、
バンダレ・カールガーンのモスクに向かう。


参考・引用文献:

書名 :完訳東方見聞録 1
シリーズ :平凡社ライブラリー 326
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その7(ティアーブの港)

11:16、 ティアーブ河の河口付近、ティアーブ(Tiyab)の港着。Dsc02784a港というから埠頭をイメージしていたらそんなものはなく、ただ海岸に船が浮かんでいる(座礁している?)ような、船の墓場みたいなところだった。大きな船が手持無沙汰にゴロゴロしていて、それはそれで大迫力。見に来てよかった!
※埠頭はここより少し河を遡ったところ、別の場所にある。Dsc02785aどうも今は干潮時で、夜の満潮時に出港するらしい。Dsc02787aDsc02791aDsc02792ajpg櫓の上には暇そうな漁師さんらしき人たちが詰めていた。箱に入ったPCのモニターが秘密基地感を高めている。Dsc02786a_2Dsc02788a櫓の近くの犬。下痢してるんだかさかんに野グソしていたDsc02789a番犬ファミリー。近づくと盛んに吠えたててうるさいDsc02790aポーロ一行が訪れた時代にこんな大きな船はなかっただろうが、港の様子は案外こんな感じか。Dsc02793aDsc02794aDsc02795aDsc02796aDsc02797aDsc02798aDsc02799aDsc02800aDsc02801aエンジンテストをしていて盛んにポンポン黒煙を吐いている。中々迫力だったDsc02802a11:30発。カラーイーの海岸

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その6(バンダル・アッバースからティアーブへ)

バンダル・アッバースからティアーブに向かう
ティアーブに行くには、まず東100キロにあるミーナーブに行かなければならない。

ペルシャ湾岸の道路を走る。
やけに大きな像が立っている。何をしている像なのかわからない。Aさんに聞くと、収穫を祝い踊る
漁師の像だという。Dsc02748aそういえば、海岸近くでは女たちが水中にもぐって何かを獲っている。エビを獲っているのだという。
海水浴場がしばらく続く。Dsc02750aバンダル・アッバースには3月になると全国から人が来てホテルが一杯になる。
3月はイランの正月に当たる。正月休みに寒さを逃れて温暖なバンダル・アッバースに来るのだ。
9:36、ガソリンスタンドに立ち寄る。イランの車の燃料は、主にガソリンと天然ガスの2種類ある。
今日は天然ガスで走る車。後方のトランクケースに天然ガスを入れるボンベがあり、ガソリンスタンドで補充する。
レバーで、ガソリンか天然ガスかを選択できるようになっている。Dsc02752a
市街地を出ると、やがて道路は海岸から離れ、内陸を走るようになる。Dsc02753aDsc02754a2007年に見たのと同じ光景、道路際に水やジュースを売る露店が立て続けに現れる。この暑さならではの風景だ。Dsc02757a大学、工場は町の外に移動させられている。Dsc02755a沿道は、公園、バーベキュー場、キャンプ場が現れている。
北側を見ると、一面の荒地で、遠くに
ザグロス山脈の南端部が見える。Dsc02756a南側には時折干上がった河が見える。冬にならないと雨が降らず水が流れないのだ。そのような土地柄なので、全長90キロの送水管をミーナーブのダム湖からバンダル・アッバースに引く工事が進められている。Dsc02758aDsc02759aDsc02760aがあるが、キュウリ、ナス、タマネギを育てている。タマネギはイラン人の大好物だし(実際抗菌力があるので体に良い)、キュウリはイランのサラダの定番のようなものだ。これらの畑には細いホースが埋められていて、水を供給するようになっている。
「住民はわれわれのような食物を常食としない。
それというのも、コムギのパンや肉類を常食しようものなら、すぐ病気にかかるものだから、健康を保つ為にそれらを避けて、ナツメヤシの実とマグロの塩漬けとそしてタマネギとをもっぱら摂っており、かかる食事が彼らの健康に適合しているありさまである。」

(東方見聞録)Dsc02762aシュロの林。
「・・・コルモス(ホルムズ)平野というみごとな平地が開け、東西南北に向って二日行程の範囲で広がっている。
ナツメヤシをはじめ各種の果実が豊かに実り河川がそこを流れ、シャコだとかオウムそのほかの禽鳥が繁殖しているが、どれもわれわれの国のものとは種類を異にしたものばかりである。」
(東方見聞録)Dsc02763aDsc02764aDsc02765a10:35、ミーナーブに入った。Dsc02766aティアーブに行くには、ミーナーブの市街地に入る手前で道を海に向って右折しなければならない。途中、道を走る人などにどこで右折すればよいのか聞きながら進んでいく。Dsc02768aDsc02769a日陰で休む人々。Dsc02770aDsc02771aここで、ティアーブもその一部とされる、旧ホルムズについて書きます。
旧ホルムズは800年前に栄えた港町。
現在のホルムズ海峡の名前のもとになった町だ。
記録によると、紀元前4世紀のアレキサンダー大王のインド遠征の帰途、その分遣隊であるネアルコスの艦隊が停泊した
ハルモゼイア地方のアナミス川河口がその場所と言われている。
2世紀の地理学者、プトレマイオスの地理書には
ハルムザと書かれている。
別の書籍によると、町自体は3世紀のサーサーン朝初期に生まれ、ゾロアスター教の神アフラ・マズダに由来して命名され、後世に
オルムズ、ホルムズになった、と書かれている。
また、ホルムズは別名
ムーギスターンとも呼ばれた。
その意味は、拝火教徒の地、霧の地、モンゴル支配の地のいずれかが考えられている。
ポーロ一行は中国に向う途中の1272年に訪れ、東方見聞録ではこのように述べられている。

「コルモス平野を二日間の行程で突き切ると初めて外洋に達するが、この海岸地区に海港都市コルモス(ホルムズ)がある。
この港には、各種の香料・宝石・真珠・絹布・金襴織・象牙そのほかの商品を船舶に満載した商人がインドからやってきて、コルモス市中でこれを売却するのだが、彼ら海商から直接に買い入れた商人は更にこれを第三の商人に転売し、かくしてこれら商品が世界各地に出回るわけである。
実際コルモス市は貿易の殷盛な都市である。」

「これら(ペルシャの)諸王国の住民は、上記した馬匹を連れてインド海に臨むキシやコルモスの町まで出かける。
するとこの地には馬匹を取り扱う業者が来合わせていて、これを買い込みインドに連行し、そしてそこで上記のような高値で売却することになっている。
ところでインドという国は暑気がとても強くて、せっかく馬匹を買い入れても、これを長く飼育することもできなければ繁殖せしめることもできない。
たまたま何かの機会に子ウマが生まれたとしても、四肢が不具であったり奇形をなしていたりして、全く役に立たないものばかりなのである。」

11,12世紀以降、インド洋貿易で馬の取引が活発になった。
ズファール、アデン、シフルのアラブ馬と、イラン内陸部のカズウィーン、クルディスターン、ルーリスターン、シューリスターン、イスファハーン、シーラーズ、シャバンカーラ、クーヒスターンのペルシャ馬が、ホルムズに集められ、インドのマァバールに運ばれて売却されたという。
インドでは10世紀後半以降、南インドでの諸王国の対立と、北インドに侵入したトルコ系、アフガン系国家の対立の激化により、トルコ系民族がもたらした騎馬弓兵による戦闘方法がインド全域に波及し、馬の需要をもたらしたそうである。
また、ポーロ一行は中国からの帰途、1297年に再訪していて、東方見聞録ではこのように述べられている。

「コルモス(ホルムズ)は海に臨んで建てられたりっぱな大都市で、ケルマンのスルタンに隷属している。
しかし都市コルモスの統治は1人のメリックの手中に独占されている。
またコルモス市は管下に多数の都市城邑を有している。
住民はサラセンでマホメットを尊崇する。
(中略)
コルモス市については、既に本書の前章においてキシ、ケルマンとあわせて述べておいたから、それ以上に申し述べる事項はない。
ただどんな経路をとって帰来するにもせよ、このコルモス市にはどうしても立ち寄らねばならないのだから、最後の項目に挙げたにすぎない。」

ホルムズはイラン東部における唯一の
海への玄関口であり、海のシルクロードと陸のシルクロードの接点でもあったのだろう。
その繁栄振りが偲ばれる。

ところが、ポーロ一行が立ち去った後数年で、旧ホルムズは存亡の危機に瀕する事になった。
イスラム史家によると、1299年にケルマン王の侵略を受けて、ホルムズ王とその住民はキシュ島に避難し、次いでジャラウン島(現ホルムズ島。バンダル・アッバスの沖合い6キロにある。)に移ったと言う。
ムスタウフィーによると、1300-1301年、山賊の被害がひどくなったためホルムズ王クトブ・ウッディーン・タハムタンが住民ともどもジャラウン島に移ったと言う。
アブー・アルフィダーゥによると、1300-1301年、モンゴル軍の侵略により町が荒廃した為、ジャラウン島に移ったと言う。

ジャラウン島のホルムズは新ホルムズと呼ばれ、ペルシャ湾貿易最大の拠点となった。
旧ホルムズはその後も存続したが、主に新ホルムズへの物資補給港としての役割を担っただけだったようだ。

ところで私が
旧ホルムズに行く理由なのですが、それはマルコ・ポーロ一行の中国への行程決定に大きな影響を与えた町だったからです。
当初、ポーロ一行はホルムズから中国に向けて出航する予定でした。
その方が陸路よりも早く、楽に中国に到達できると思われたからです。
しかし、事はそううまくは運びませんでした。
港に行った彼らは、とても長期の航海には耐えられそうもない、貧弱な船を目の当たりにしました。

「彼らの船はとても造りが粗末で、難破するものが少なくない。
その理由は、造船に際して鉄釘で組み合わせもせず、もっぱらインドクルミの皮で製した糸で縫い合わすだけだからである。
彼らはインドクルミの皮を水に浸し、それがウマのたてがみ状になると、これをより合わせて糸を作り、この糸を用いて船を縫い合わす。
この糸は海の塩分にあっても腐らないから、十分に堅牢で長持ちするわけである。
彼らの船は舵1つの一本マスト、一枚帆で、甲板はない。
これらの船は積荷を終わると、荷の上に皮革を覆い、その上にインド向け売り込みの馬匹を載せる。
この地方には釘の材料となる鉄がないから、やむなく木釘を使用したり糸で縫い合わせたりする方法をとるのだが、しかしこのために、かかる船で航海する場合、少なからぬ危険が伴うわけなのである。
インド海ではしばしば暴風に見舞われるものだから、この種の船がそれに遭って難破した例は実際のところすこぶる数多いものがあったのである。」(東方見聞録)

一行は仕方なく、陸路で中国に向わざるを得なくなりました。
そしてもと来たケルマンに戻って行きました。
彼らにとって、この事は非常に大きな出来事、残念な出来事だったはずです。
もちろん、東方見聞録の内容にも大きな影響を与えました。

ところで、旧ホルムズに行くには、その場所がわからなくてはいけません(当り前ですが)。
しかし、
旧ホルムズの正確な場所はよくわかっていないようです。
書籍で述べられていた場所を上げると、
ミナブ川北岸の
ティアブ、テペ・スルフ。ブルチク
ミナブ南方16キロの
クンビル
ミナブ南西の
カレサラワンなどがありますが、私が知る限り、ミナブ南西の海岸近くのK103地点のようです。
もっとも最新の情報ではないので、もっと違う場所があるのかもしれませんが。

ちなみに2007年の旅行にあたって、いろいろな旅行会社に旧ホルムズに行きたい旨を打診しましたが、その存在すら知りませんでした。
要するに一部の歴史研究者の研究対象にとどまっている場所のようです。
今回は、現地の詳細な地図もなく道路事情も不明なまま、僅か1日程度の時間で、そのようなマニアックな場所を目指すわけです。
当然、旧ホルムズに関連する遺跡のある場所に辿り着けるとは考えていません。
でも、ある程度近くに行って、どのような場所に存在していたのか、現在の港の様子はどうなのか、その雰囲気だけでも確かめられたら、と思いました。

話を戻します。

ティアーブに向かう道路に入った。あとは直進だ。2007年に比べて沿道の家の数が増えたように感じる。Dsc02772aDsc02773aDsc02774aDsc02775a11:04、1本目の川通過。
11:05、2本目の川通過。
11:06、ティアーブの入り口。何もなかった2007年とは様変わりである。Dsc02777a地元の人に港への行き方を聞きながら進んでいく。Dsc02778a町の中心部に入った。Dsc02780aDsc02781aモスクがある。Dsc02782aあと少しで
ティアーブの港だ!Dsc02783a

参考・引用文献:

書名 :完訳東方見聞録 1
シリーズ :平凡社ライブラリー 326
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

書名 :完訳東方見聞録 2
シリーズ :平凡社ライブラリー 327
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

書名 :大旅行記 3
シリーズ :東洋文庫 630
著者名 :イブン・バットゥータ/〔著〕 , イブン・ジュザイイ/編 , 家島彦一/訳注
出版者 :平凡社

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その5(バンダル・アッバース・スールーのマスジェデ・ジャーメ)

3日目

バンダル・アッバースホマホテルDsc02737a朝6:00に目が覚めたが二度寝して7:00に起きた。8:00までゆっくりシャワーを浴びる。
8:30頃には1階のレストランで朝食を摂ったビュッフェスタイルのメニューは脂っこいものが多かったので、生野菜サラダとハム、おいしそうなナンで簡単な食事を食べた。Dsc02738a8:50、1階ロビーでガイドのAさん、運転手のBさんに会う。Dsc02739aすぐにホテルを出発。しかし外に出たとたんに、その暑さに驚いた
Aさんは、「昨日より暑くなりそうだね」と言う。42度以上になるということか。
東方見聞録には、
「ここはなにしろ太陽が灼熱しきっているのだから、たまらなく暑く、それに至って不健康地である。
外国商人が不幸にもここで客死するようなことがあれば、その貨財いっさいは没収されて(ホルムズ)王の所有に帰する習わしである。」

と書かれている。
この記述通りの暑さを体感できた。
Dsc02740a今日は、バンダル・アッバースのスールー地区のマスジェデ・ジャーメを見学した後、旧ホルムズ港周辺の地域を回り、ペルシャ湾岸の景色を楽しむ。具体的には、旧ホルムズの候補であるティアーブ(TIAB)の港を観光し、コラーヒー(KOLAHI)で海岸を観光し、バンデザラクではできればミーナーブ河河口へ達する。ゴラーズイーイェでは城塞跡を観光し、バンダレ・カールガーンのマスジェデ・ジャーメを見学する。そして内陸のミーナーブに宿泊する。Dsc02741a9:00、スールー地区のマスジェデ・ジャーメに到着。Dsc02747aマスジェデ・ジャーメは金曜モスクの事で、要するにその地域で最も重要なモスクだ。金曜日にはイスラム教徒が集まって礼拝する。このモスクはスンニ派のモスクだが、シーア派の信徒も利用できる。Dsc02742aAさんによると、16世紀の主だった部分はサファヴィー朝時代に建てられ、19世紀のガージャール朝時代に修復されたという。Dsc02745aミナレット(毎日定時に礼拝を促す呼びかけ(アザーン)を行う塔)が1本しかない事から、元々は11世紀のセルジューク朝時代にできたものではないか、との事だった(12,3世紀以降は、ミナレットは2本が一般様式になる)。Dsc02746aしかしそれにしては真新しい建物なので、近年に建て直されたようにしか見えない。綺麗なタイル装飾を期待していただけに、少しがっかりであった。Dsc02744aDsc02743a9:17、次はティアーブに向かう。

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その4(テヘラン~バンダル・アッバース・ホマホテル)

15:10、テヘラン市内のメヘラーバード空港着。Dsc02729a特にお腹はすいていなかったが、昼食を食べることにした
とにかくさっぱりしたものを食べたかったので、生野菜サラダとヨーグルト。生野菜サラダは日本の野菜よりもうまみがあると感じた。ヨーグルトはイランのデザートの定番。Dsc02730aチキンのキャバーブ、ピクルスと焼きトマト添え。久しぶりのイランの味、うまい。クレープのような薄いナンもやっぱりおいしい。Dsc02731aバンダル・アッバース行きは19:30発なので早めに17:30にチェックイン。手荷物検査をすませ、搭乗ロビーに。夕日がきれいだった。Dsc02732aこの場所は何度も来ているので好奇心をそそるようなものはない。所在なげにイスに座ったり、辺りをうろついたり。

19:00、Aさんから飛行機の出発時刻が遅れるとの情報が。バンダル・アッバースからの出発時刻が遅れたらしい。Aさんの読みでは21:00頃の出発になるとの事。イランの国内便は遅延、キャンセルが当たり前のようにある。その原因は欧米の経済制裁だ。新しい航空機を買えない、航空部品も買えない、それで運行に支障が出る。
カフェで休むことにする。メロンの生ジュースを飲む。うまい。

20:20、ようやく搭乗開始。
20:57、離陸昨晩の機内でまともに寝てないのでさすがに睡魔に勝てない。窓にもたれて眠ってしまった。日本時間では夜中の1:00頃なのだ。
気が付くとバンダル・アッバースまでわずかの地点だった。食べなかった機内食はホテルに持って行く事にした。
22:30、着陸。飛行機のタラップから降りて外に出ると、暑さと不快な湿気が襲う。前回5月に来た時よりも湿気がすごい。


バンダル・アッバースの人口は、Aさんによると50万弱だそうだ。
16世紀に対岸のホルムズ島(新ホルムズ)がポルトガルに奪われると、住民は対岸のバンダル・アッバースに避難して、ここをシャフルーと名付けた。
シャフルーとは、元々大陸側にあった海上交易路の要衝ホルムズ(旧ホルムズ)の一街区の名称で後にホルムズ島の名称になった「ジャラウン」が訛ったものらしい。
つまり、バンダル・アッバースの住民の祖先は旧ホルムズの住民、という事になると思う。
バンダル・アッバースは、旧ホルムズの繁栄を今に伝える場所なのだろう(旧ホルムズについては後日詳細を記載)。
その後、ポルトガルはシャフルーをも占領した。

17世紀になると、サファヴィー朝の英主アッバース1世はシャフルーからポルトガルを追い出し、大規模な港を建設し、町に自分の名前を付けた。
バンダル・アッバースはサファヴィー朝最大の港町、国際貿易港として栄えたが、サファヴィー朝の衰亡と共に衰退していった。
現在は、イランの3大貿易港のひとつになっている。


空港の外に出て運転手のBさんに会う。アフリカの黒人系の顔立ちだ。バンダル・アッバース周辺では珍しくない容貌。すぐホテルに向かうDsc02733a通りの端を見ると、こんな夜更けに、所々で色とりどりのチャードルをまとった女たちが車座になってくつろいでいる。
バンダル・アッバースの日中の気温は41度だったそうだ。とても外に出る気になれない。それで涼しくなる夕方から夜に、外に出てくつろぐのだ。涼しいと言ってもまだ31度の暑さである。
23:25、
ホマホテル。部屋は5階だった。Dsc02734aDsc02735aDsc02736a部屋になだれ込むと0:10には寝た。明日はペルシャ湾岸を観光してミーナーブに行く。

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その3(テヘラン・アザーディー・タワー)

13:30、アザーディー・タワーに着いた。Dsc02710aアザーディー・タワーは国内便が発着するメヘラーバード空港やバスターミナルに近く、テヘランから入国して地方に行くときには必ず目にする建物だ。私にとってはテヘランの象徴と言ってもいい。Dsc02712aアザーディー・タワーは、パフラヴィー朝時代の1971年、古代ペルシア帝国(アカイメネス朝)建国2500年を記念して建てられた。古代ペルシア礼讃を国是としたパフラヴィー朝を象徴する建物でもある。そのアーチの形状は古代ペルシア建築のアーチを再現している。Dsc02713a高さは45m。Dsc02714a入り口。今日は上に上がれるそうで、よかった。入場料15万リアル。イランの紙幣は額面が大きいので、慣れないとゼロの数を数えるのにとても手間取る。Dsc02715a内部はいくつかのホールがある。最初に入るホールは、パフラヴィー朝の2代目国王であるモハンマド・レザー・シャーのファラー王妃が趣味で集めた工芸品が展示されている。当時制作されたもの以外に、アカイメネス朝、サファヴィー朝、ザンギー朝、ガージャール朝時代のものがある。
しかしここは歴史博物館というよりは、歴史的遺物で客寄せして実は、民族衣装や大理石の造形物、何とも評価しがたい絵画などを売りさばく場所のように思えた。Dsc02720aDsc02716aDsc02717aDsc02719aアザーディー・タワーの設計者の像。Dsc02718aタワーの最上階へは、建設当時からある旧式のエレベーターで上がる。反応の緩慢な、このレトロなエレベーターも見所の一つだと思う。
タワーの最上階は開けた展望台とはいいがたく、狭い隙間から外を眺めるような感じだ。それでもテヘラン市内をある程度俯瞰できる眺めはここに来たからには見ておくべき。Dsc02721a世界で6番目に高い、
ミラドタワー。人気のスポットだそうで、上に上がるのに待ち行列ができるらしい。今回はあきらめた。Dsc02722aバスターミナルが見える。ここは1970年代にはテヘラン市の西の周辺部だったのだ。かつてはテヘランのはずれのこの場所から長距離バスに乗って地方に行ったのだ。それが今では膨張して周りを囲むアルボルズ山脈の山際まで広がったテヘラン市の、真っ只中にある。Dsc02723aこちらは国内線の玄関口、メヘラーバード空港Dsc02724aタワーの建つアザーディー広場は緑が多く、流水もあり(今回は干上がっていたが)、殺風景なテヘラン市街の眺めの中で目に潤いを与えてくれる場所だ。
そしてこの広場は市内でも特に大きいことから、パフラヴィー朝時代以降、様々な国家行事が行われてきた。1980年から8年間も続いた悲惨なイラン・イラク戦争の開戦日である9/21には、ここで軍事パレードが行われる。当日はパレードを見ようとする人たちでごった返し、道路は大渋滞となる。Dsc02725aタワーの最上階からは降りるときは原則エレベーターは使用できない。階段で降りる。その途中に、タワーの上部構造部分の内側が見られる場所がある。Dsc02728aいくつもの窓が目のようで、ちょっと異様な雰囲気を味わえる。Dsc02727aアザーディー広場に建つ自撮りの人の像。この像の由来は残念ながら聞かなかった。Dsc02711aイランでのスマホ普及について、ガイドのAさんは一人1~2台は持っていると言った。田舎町の高齢者が一人残らずスマホを持っているのかどうかは疑問だったけれども、普及率は結構高そうだ。通信会社は3社で、2強1並らしい。通信料はデータ量の従量制。本体は韓国、中国製が主流らしい。
そろそろ
メヘラーバード空港に向かう事にする。

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その2(ドバイ~テヘラン・アザーディー・タワーへ)

ドバイからテヘランに向かう機中
8:50、昼食。イラン便は例によって脂っこいのが多い。フライドポテトはやめといた。クレープのような薄いナンは懐かしい。Dsc02707a10:27(ここからイラン時間で記載)、着陸。入国審査のみで革命防衛隊のチェックはなかった。荷物検査もまあまあ普通か。
11:15、現地ガイドのAさんと会う。ここで日本の旅行会社のケルマーン州のツアーが開始されているとの話を聞く。A社は先週同地を視察したとの事。B社は既に始めているそうだ。今後に期待。
バンダル・アッバース行きの便は夜出発なので時間が空いている。テヘラン市民が集まるような大きな公園に行きたいと話したが、今の季節は日中暑く、今の時間帯は市民は公園には行かないとの事。そこで今まで上まで上がったことのないアザーディー・タワーに行くことにした。ただしアザーディー・タワーは市が管理していて、中に入れる日は不定期との事で、入れるかどうかは行ってみなければわからないとの事。とにかく出発する事に。
12:00、電気街を通る。電気屋さんが軒を並べる。昔は日本のメーカーの看板ばかりだったが、今は見る影もない。圧倒的に多いのはサムスンだ。日本はソニーとパナソニックが少しあるだけ。Dsc02708aDsc02709a12:30、市内の両替所でドルをイランリアルに両替。1ドル=38900リアルだった。
両替は一般的に銀行で行わない。銀行系列の両替所で行う。両替所は多数あるので待ち時間は少ないが、銀行から委託されているのでその分手数料を取られる(レートが悪い)。
山に囲まれて車が多いテヘランは排気ガスがたまりやすい。それでも今回ガスの臭いが鼻につかないのは季節によるものらしい。夏は恐らく上昇気流によって拡散されるらしいが、冬は別だ。
道路は今は比較的空いている。しかし9/23から学校が始まるそうで、そうなると大渋滞を引き起こす。それよりもイランの学校は夏の三カ月が休みだそうで、大変うらやましい。ただし一部の私立では休み期間中も定期的に登校するそうだ。
まもなくアザーディー・タワーに到着する。

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その1(成田~ドバイ)

某年9月中旬、1人参加ツアーにてイラン南東部のペルシャ湾岸のホルモズガーン州に行って来ました。
当初予定のコースは以下の通りですが、行けなかった場所もあります。

1日目:22:00成田発、翌3:40ドバイ着。
2日目:7:45ドバイ発、10:25テヘランのイマーム・ホメイニー国際空港着。午後にテヘランのアザーディー・タワー観光。19:30テヘランメヘラーバード空港発、21:00ホルモズガーン州のバンダル・アッバース空港着。
3日目:バンダル・アッバースのスールー地区のモスク見学~ティーアーブ(Tiyab)の港観光~コラーヒー(Kolahi)で海岸観光~バンデザラク(Bandzarak)からミーナーブ河河口方面観光~ゴラーズイーイェ(Gorazuiyeh)の城塞跡観光~バンダレ・カールガーン(Bandar-e-kargan)のマスジェデ・ジャーメ見学~ミーナーブ(ミナーブ)。
4日目:ミーナーブの城塞、バザール観光~「大傾斜地帯」観光~ファールヤーブのモスク見学~22:10バンダル・アッバース空港発~23:55テヘランメヘラーバード空港着。
5日目:トーチャールのテレキャビンにてテヘラン郊外の標高3000mの山岳観光~21:00イマーム・ホメイニー国際空港発~22:50ドバイ着。
6日目:2:40ドバイ発~17:35成田着。

※車窓からの撮影が多いです。見苦しい点はご容赦ください。

今までと同様、マルコ・ポーロゆかりの場所を訪ねるのが目的です。
1271年冬にパレスチナのアークル(現アッコー)を出航したポーロ一行は、トルコのライアス港(現アヤス)に上陸してアナトリア半島東部を東進しました。

その後の道筋は研究者により諸説あります。

① イギリスのサー・ヘンリー・ユールは、一行はイラクに入り、バグダッド通過。バスラ港からペルシャ湾に出て海路旧ホルムズ港に上陸し、ジーロフト~ケルマーン~クボナン~タバス~サブズヴァール~ネイシャーブール~マシュハドを通ってアフガニスタンに向ったとしています。

② イギリスのペルシア領事、パーシー・サイクスは、一行はアララト山の麓を抜けて、タブリーズ~サヴェ~ヤズド~ケルマーン~ジーロフト~旧ホルムズ~ゲノ~ケルマーン~クボナン~タバスを通ってアフガニスタンに向ったとしています。
ちなみにこのサイクスは、現在のパレスチナ問題を複雑化させたイギリスの三枚舌外交のひとつ、サイクス・ピコ条約を結んだ人です。

③ 日本の長澤和俊氏は、タブリーズ~テヘラン~コム~イスファハーン~ヤズド(以降②と同じ)を通ったと著作の中で述べています。

マルコ・ポーロが実際に旅したかどうかも定かではないので、どの説が正しい、とは決められないのですが、私は「東方見聞録」の話の流れから見て②を支持します。

ブログトップページの「マルコ・ポーロの行程図」をご覧になるとおおよそのルートがわかると思います。

「東方見聞録」にはイランに関わるエピソードがいくつかあるのですが、中でも二つのエピソードに注目しました。

ひとつは、ケルマーンから旧ホルムズに向う途中のレオバール平原でカラウナスという山賊集団に襲われ、命からがら逃げ延びた、というものです。
恐らく中国への行程中もっとも危険な事件なのではなかったかと思われます。

もうひとつは、旧ホルムズ港に到着した一行が、停泊する船があまりに貧弱なのを見て海路で中国に行くのをあきらめ、中央アジアを経て中国に向うよう方向転換したことです。
その結果、「東方見聞録」には中国シルクロードの記述が豊富に盛り込まれる事になりました。

今回の訪問先は、レオバール平原と「大傾斜地帯」に辿り着く事、位置が明らかでない旧ホルムズ港跡になるべく近づく事を考慮して決めました。
2007年のバンダル・アッバース、ミーナーブ訪問と目的はほぼ同じですが、今回は前回行けなかった場所やペルシャ湾の景観を見る事を主眼にしました。)


今回の訪問先は通常の旅行ツアーには含まれていない為、行きたい場所を旅行会社に伝えてプランを作成してもらう「受注型企画旅行契約」という形式になりました。
一人参加のツアーみたいなものです。

 

1日目

台風の前触れの小雨の中、家を出た。19:13、空港第二ビル駅着。
3階の出発フロアで手持ちの円をドルに両替しておく。
エミレーツ航空のカウンターでチェックイン。今回はテヘランまでエミレーツ航空なのでドバイでスーツケースを受け取る必要はない。受取はテヘランになる。ただし席は3人掛けの真ん中である。最悪。
早々に手荷物検査、出国審査を済ませ、搭乗口へ。
搭乗開始は遅れて21:43、幸いにも両隣の人は比較的細身の方であった。
22:17離陸。これからテヘランまで17時間近くかかる事を考えると憂鬱で、映画を見る気にもなれなかった。
23:15、夜食。ニース風サラダ、チキンとアプリコットの蒸し煮、マッシュポテト、チョコレートムース。ちょうど九州上空。台風の影響か気流が悪く、少し揺れる。
Dsc02702a足腰が冷えてきた。前回、前々回と冬の飛行機旅で冬服だったので気付かなかったが、夏服だと飛行機の床から寒気が伝わってくる。両隣の方々は手慣れたもので、搭乗直後に、航空会社から貸与される靴下を重ね履きして寒気に備えていた。私も真似して重ね履きする。
食事が終わると、とにかく早く寝たい。でも当然寝付ける訳もない。アルコールを飲みたいが、普段服用している薬の関係で飲む事ができない。眠前薬を飲んで意識が朦朧になる。


2日目

ふと気が付くと3:40、ミャンマー上空。やっと行程の半分か。
6:15、朝食。季節のフルーツ、卵焼きと鶏肉のパテ、ローストポテト、さつまいものソテー、クロワッサン。インド西部(ムンバイ辺り)上空。
Dsc02703a8:24(現地ドバイ時間3:24)、ドバイ国際空港に着陸。
前回と同様、手荷物検査は軽め。テヘラン行きに乗り継ぐが、ターミナルの建物が別なので搭乗口までかなりの時間を要する。ターミナル間トレイン利用。
4:28(ここからドバイ時間で記載)、搭乗口着。まだ人の姿は少なく、床に寝そべっている人数名。
Dsc02704a7:05、搭乗開始。Dsc02706a8:14、予定より30分遅れて離陸。いよいよイランへ出発だ!


【イランの概要について】

以前記載したものですが、再度記載します。

正式国名:「イラン・イスラム共和国」
面積:日本の4.5倍
人口:7910万(2015年)
首都:テヘラン
最高指導者(最高権力者):アリー・ハーメネイー師
元首:ハサン・ロウハーニー大統領


地形:
イラン北部に東西に伸びるアルボルズ山脈、イラン北西部から南東部にかけて斜めにザクロス山脈が伸びる。
二つの山脈の間、イラン東部にキャビール、ルートの大砂漠がある。
ザクロス山脈の東側はイラン高原と呼ばれる高地になっている。

気候:
山脈に遮断されたイラン内陸部は、ペルシャ湾やカスピ海から来る湿った空気が遮断され、降雨が少ない。夏は高温になる。
ザクロス山脈の南のペルシャ湾岸は高温多湿。
アルボルズ山脈の北のカスピ海岸は降雨量が多く豊かな農業地帯になっている。

民族:
ペルシア人(50%)、アゼルバイジャン人(17~25%)、クルド人、ロル人、アラブ人、バルーチ人、ガシュガーイー人、シャーサヴァン人、トルクメン人など。

宗教:
大部分はイスラム教シーア派、他にイスラム教スンナ派、キリスト教(アルメニア教会、アッシリア教会、カトリック、プロテスタント)、ユダヤ教、ゾロアスター教など。

言語:
公用語はペルシア語だが、他にクルド語、ギーラーン語、アーザリー語、トルクメン語、ガシュガーイー語、アラビア語、アッシリア語、アルメニア語がある。

休日:金曜日
通貨:イラン・リアル。
2017
年10/5現在では1リアル=0.00330882円。


治安状況:
2017年10/5現在
、以下の通り。
●パキスタンとの国境地帯
レベル4:退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告)
●ケルマンシャー州及びイーラーム州のイラクとの国境地帯
レベル4:退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告)
●イラク及びアフガニスタンとの国境地帯(上記を除く)
レベル3:渡航は止めてください。(渡航中止勧告)
●シスタン・バルチスタン州(チャバハール市及び同市周辺の自由貿易地域,アフガニスタン及びパキスタン国境地帯を除く)
レベル3:渡航は止めてください。(渡航中止勧告)
●シスタン・バルチスタン州チャバハール市及び同市周辺の自由貿易地域及びケルマーン州
レベル2:不要不急の渡航は止めてください。
●首都テヘラン他,上記地域を除く全地域
レベル1:十分注意してください。



【イランの歴史について】

以前記載したものですが、再度記載します。

1. 有史以前・古代オリエント時代
 
イランでは紀元前七千年には農耕社会が存在していた。
 
古代オリエント時代には、イランは長い間メソポタミア文明の辺境だった。
 
しかし、イラン南西部のアケメネス朝ペルシアが古代オリエント世界全域を初め  て統一する事に成功した。
 
その後継者であるサーサーン朝ペルシアと共に高度なイラン文明を作り上げた。

① 紀元前七千年にはガンジュ・ダッレで排水溝を備えた集落が存在していた。

② 紀元前四千年以降、エラム人は徐々にイラン高原南西部を代表する政治勢力に発展したが、アッシリアに滅ぼされた。

③ 紀元前二千年以降、中央アジアの遊牧民でインド・ヨーロッパ語系のアーリア人と呼ばれる集団が、オリエント世界に移動して来て、馬と鉄器をもたらした。
 
非アーリア人は次第にアーリア人に同化していった。
 
アーリア人は現在のイラン人、インド人の大部分を占めている。

④ アッシリア滅亡後、イラン高原西部を支配したのがメディア人(アーリア系=イラン系)で、次第に南西部と東部に勢力が拡大した。

⑤ メディアを倒したのがイラン南西部のアケメネス家率いるペルシア人(イラン系)で、騎馬弓兵と寛容な政策をもって紀元前6世紀には古代オリエント世界を統一した。
 
ギリシア、エジプトからイラン、中央アジアにまたがる大帝国が成立した。

⑥ 紀元前4世紀、マケドニアのアレキサンダー大王がアケメネス朝を滅ぼし、死後は後継国家セレウコス朝が支配。
 
彼らはアケメネス朝の統治政策を踏襲した。

⑦ 紀元前3世紀、イラン高原北東部のパルティア人(イラン系)がセレウコス朝から独立した。
 
彼らはアケメネス朝の統治政策を踏襲した。
 
イラン高原に進出したローマ帝国とたびたび争った。

⑧ 3世紀、イラン南西部のペルシア人(イラン系)がパルティアを倒してサーサーン朝が成立した。
 
ローマ帝国をたびたび破り、7世紀にはアナトリア、エジプトから中央アジアにまたがる領土を獲得した。



2. イスラム化とトルコ、モンゴルの支配
 
イランは7世紀にアラブ・イスラム帝国に征服された後、次第にイスラム教化した。
 
11世紀、イスラム化した中央アジアのトルコ系遊牧集団が、高度な文明を持つイスラム世界に移動し始め、その後モンゴル人が侵入した。
 
圧倒的な武力を持つトルコ系、モンゴル系民族はイランの政治、軍事を掌握したが、行政はアケメネス朝以来のイラン系の官僚、役人が担っていた。

① 7世紀、アラブ・イスラム帝国がサーサーン朝を滅ぼし、ウマイヤ朝、アッバース朝のカリフ(イスラム教における神の使いの代理人、政治的最高権力者)がイランを支配下に置いた。
 
しかしイスラム教化は進まなかった。
 
公用語としてアラビア語が使われた。

② 9世紀以降、アッバース朝の権威が衰えると、イランで独立王朝が次々と生まれた。
 
ターヒル朝(イラン系)、サーマーン朝(イラン系)、サッファール朝(イラン系)、ブワイフ朝(ダイラム人)、ガズナ朝(トルコ系)。
 
経済の発展とともに、イスラムへの改宗が進んだ。

③ 11世紀、イランに移動して来たトルコ人遊牧集団を取締る事を期待され、トルコ系のセルジューク家が支配者として迎えられる。
 
最盛期には地中海岸から中央アジアを支配したが、後継争いから分裂する。
 
ペルシャ語が再び公用語になる。

④ 12世紀、イラン北東部のホラズムシャー(トルコ系)がセルジューク朝を滅ぼし、イランと中央アジアを支配する。

⑤ 13世紀、チンギス・ハンのモンゴル軍がホラズムシャー朝を滅ぼし、イランを支配下に置く。
 
後にモンゴル人はイランにイルハン国を建国、14世紀にはイスラムに改宗した。
 
しかし内紛により同国でのチンギス・ハンの血統は絶えた。

⑥ イルハン家が絶えると各地に政権が誕生した。
 
イルハン朝の後継国家ジャライル朝(モンゴル系)、ムザッファル朝(イラン系)、地域勢力サルバダール。

⑦ ティムール(モンゴル系)が上記諸政権を滅ぼし、西アジア全域を支配する。
 
死後後継争いが起こり、西側をカラコユンル朝(トルコ系)次いでアクコユンル朝(トルコ系)に奪われた。
 
16世紀、シャイバーニー朝(ウズベク人)に滅ぼされたが、その子孫はインドでムガール朝を建国した。

⑧ シーア派サファヴィー教団の教主イスマーイール1世が、信徒であるトルコ系遊牧民の軍事力によって、内紛で弱体化したアクコユンル朝を滅ぼし、更に領土を拡大した。
 
死後、混乱が続いたが、アッバース1世は軍事・統治体制の改革によって領土を拡大し、最盛期を築いた。
 
また、この時代にシーア派十二イマーム派がイランに定着した。
 
経済的にも繁栄したが、無能な王が続くと徐々に衰退し、18世紀には各地で反乱が起きた。

⑨ サファヴィー朝は領土の東をアフガン人、西をオスマン朝に奪われた。
 
結局サファヴィー朝の宰相が滅ぼしてアフシャール朝(トルコ系)を建て、領域を拡大した。
 
その死後は地方勢力が抗争を繰り返した。

⑩ ザンド朝(イラン、クルド系)が統一に成功するが、十数年後には後継者争いが始まった。



3. 近代・現代
 
19世紀になると、イランは西洋列強のグレートゲームに翻弄され、ついには半植民地化する。
 
これに反発して立憲国家樹立への闘争が始まる。
 
この過程でイラン・ナショナリズムを形成する4つの立場が現われ、近現代のイランの政治を形作った。
a.
西欧流の民主主義確立により、自立と独立を目指す。
b.
イスラム以前の古代イランの伝統を重視する。
c.
マルクス主義の影響の元、列強の植民地支配からの独立を最優先にする。
d.
イスラム教こそがイラン国民を団結させる。

① ザンド朝とアフシャール朝を滅ぼしたのがガージャール朝で、テヘランを都とした。
 
強力な軍隊と官僚機構を持たず、地方の有力者に対する統治は名目的なものだった。

② 19世紀に入ると、フランスとロシアの南下政策と、イランをインド防衛の最前線とみなすイギリスの間で、ガージャール朝は翻弄された。
 
列強からの政治的独立を保つ為の努力が続けられたが、次第に利権を奪われ半植民地化していった。

③ 20世紀になると、列強の干渉とガージャール朝の専制政治への反対運動が生まれ、立憲国家を目指す動きになった。
 
憲法制定と国民議会の設立に成功し、派閥政争の混乱の中でも改革への取り組みが行われたが、利権喪失を恐れたロシア軍の進駐により失敗した。

④ 列強の占領と政情不安により、イラン全土は無政府状態になった。
 
強力な中央政府を望む声が高まり、イギリスの支援によるクーデター成功の後、パフラヴィー朝が成立した。
 
国軍と官僚機構の強化により中央集権化を進め、古代イラン礼賛ナショナリズムに基づき、司法の反イスラム化、西洋化を行った。

⑤ パフラヴィー朝の中央偏重政策は地方の不満を呼び、国内の政局は不安定化した。
 
農地の分配・汚職の追放による改革は、見せ掛けで終った。
 
権力強化の為、拡大した軍と官僚機構による抑圧が進められた。
 
一方、欧米の干渉により石油の完全国有化に失敗したものの、莫大な石油収入は急激な経済発展を生んだ。
 
その裏で貧富の差の拡大が深刻になった。

⑥ 経済格差と抑圧に対する不満が高まる中、抑圧された宗教界の憤懣をきっかけに始まったデモが全土に拡大し、その圧倒的な人数の前にパフラヴィー朝は崩壊した。
 
イスラム臨時革命政府が樹立され、後にイスラム法学者が統治するイスラム共和国が樹立された。
 
国内政策においては急速なイスラム化を進め、外交においては米ソに属さない独自路線で孤立を招いた。
 
80年代後半以降、急進的な革命路線から言論の自由と国際協調を重視する路線に移り始めたものの、改革派を締め上げるイスラム法学者を中心とした保守派、という図式は現在も変わっていないように見える。

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