« 銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その8(美岱召~フフホト) | トップページ | 銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その10(フフホト・チベット寺院・大召) »

銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その9(フフホト・チベット寺院・席力図召)

席力図召(シレート・ジョー)に着いた。
席力図召は、内モンゴルで最初のチベット仏教寺院かつフフホト最大の寺院である大召をもしのぐ政治力、経済力を持つに至った寺である。
その白いストゥーパ(白塔)は、内モンゴルで最大と言われる。

1585年、アルタン・ハーンの子センゲ・ドゥーレン・ハーンによって建てられた。
席力図召(シレート・ジョウ)の名前は、寺の第一世化身ラマ(活仏)であるシレート・グーシ・チョルジに由来する。

シレート・グーシ・チョルジは16世紀~17世紀の人で、元の名をシディトゥ・ガブジと言っていた。
1578年、チンギス・ハーンの末裔で北元朝のアルタン・ハーンとチベット仏教ゲルク派の高僧ソナム・ギャムツォ(ダライ・ラマ3世)が青海のチャブチャル寺で会談し、チベット仏教がモンゴルに再導入されることが決まった時、シディトゥ・ガブジはダライ・ラマ3世の付き人として参加し、再導入に至る政治活動に関わっていた。
1586年、ダライ・ラマ3世が青海からフフホトを訪れた時、シディトゥ・ガブジも随行していた。彼はサンスクリット、チベット、モンゴル語に精通していた。その為、ダライ・ラマ3世からパンディダ・グーシ・チョルジの称号を与えられた。
アルタン・ハーンもまた、シディトゥ・ガブジを尊敬しており、席力図召に住まわせ、内モンゴルの僧俗両方にチベット仏教を広めさせた。
1588年にダライ・ラマ3世が亡くなる前、「自らの死後にはシディトゥ・ガブジが自分の法座(シレー)に座って、自分の転生者をチベットよりも東に探すように」との遺言を残した。
シディトゥ・ガブジは遺言通り行動し、ユンテン・ギャムツォ(アルタン・ハーンの甥、または孫または甥の子供との説あり)をダライ・ラマ4世に認定した。彼はチンギス・ハーンとチベットの高僧という神聖な2つの血を結合させることに成功した。
シディトゥ・ガブジは、ダライ・ラマ3世の法座(シレー)に座ってダライ・ラマの権威を代行した事から、シレート・グーシ・チョルジと呼ばれるようになった。彼は師として、ダライ・ラマ4世を育てた。
彼の布教活動は、ハルハ部族(15世紀に北元朝のダヤン・ハーンが作ったモンゴルの6部族の一つで、西に位置する)に及んだ。その為、後世のハルハ部族の有力者たちはシレート・グーシ・チョルジに特別な感情を抱いていた。
シレート・グーシ・チョルジは、その宗教学的な見解を「本義必用経」として著した。これは13世紀のフビライ・ハーンの帝師パクスパの著作「彰所知論」を一層発展させた内容であった。
シレート・グーシ・チョルジが亡くなった後、席力図召の最高位のラマは、シレート・グーシ・チョルジの化身ラマであるシレート・ホトクトが務めるようになった。

1688年、タリム盆地の北のジュンガル盆地を拠点とするジュンガル部族※のガルダン・ハーンが、ハルハ部族の内紛に介入して侵攻すると、清朝との戦争が始まった。その際、フフホトは清朝の北辺防護の要とみなされるようになったが、シレート・ホトクト4世が防衛の任に当たった。
その後、フフホト仏教界のリーダーとなり、清・ジュンガル戦争の際、清朝の勝利祈願を行ったことが認められ、大規模な寺院修繕・拡張工事を許され、更に清朝の康熙帝から
「延寿寺」(ウルジ・エゲネクト・ボルガークチ・スゥメ)の寺名が与えられた。席力図召には清・ジュンガル戦争での康熙帝の戦功を満州、モンゴル、チベット、漢字で記す石碑が建てられた。
この頃から、席力図召はフフホトにおける最も政治力・経済力を持つ寺院になった。

シレート・ホトクト6世は、1756年、席力図召に座床した。
シレート・ホトクト6世の父のセレンはハルハ部族の王族で、康熙帝の側近であり信任が厚かった。セレンの夫人は康熙帝の娘であり、セレンとその息子たちは清・ジュンガル戦争で戦功を立てた。
このような名家の出であったため、席力図召の政治力・経済力は一層高まることになった。毎年多くのハルハ部族のモンゴル人がフフホトを訪れ、ハルハ部とフフホトの人的交流は活発になった。
シレート・ホトクト6世が1785年に亡くなった後、シレート・ホトクト7世もハルハ部族から転生したが、わずか3歳で夭逝してしまった。
清朝の乾隆帝は、ハルハ部族とフフホトの関係が深まることに神経をとがらせ、チンギス・ハーンの末裔から化身ラマが出る事を禁じたため、シレート・ホトクト8世以降は、青海から化身ラマを迎える事になった。

1887年、席力図召は大火に見舞われた。席力図召は幾たびも大火に見舞われたが、そのたびに復興してきた。
しかし、1966年から始まった文化大革命は、席力図召に痛烈な打撃を与えた。多くの文化財が失われ、建物は倉庫に転用された。シレート・ホトクト11世は連日にわたって暴力を受けた。
内モンゴル自治区では、未だに真の信仰の自由は保障されていない。
※ジュンガル部族はオイラト部族連合の1つだが、元々オイラト部族は13世紀に兄フビライ・ハーンと大ハーン位を争って負けたアリクブケを支援していた部族であった。
14世紀末に、アリクブケ家のイェスデルが、大ハーンのトグス・テムルを殺害し、100年前の遺恨を晴らし大ハーンに就くと共にオイラト部族も勢力を拡大していた。
その後、内紛によりモンゴル諸族は混乱し、結果的に西方のオイラト部族連合と東方のフビライ恩顧のモンゴル部族連合に分裂していた。
その中でオイラト部族連合のジュンガル部族は、17世紀後半から勢力を伸ばしていた。

早速、席力図召に入る。
まず
山門がある。左側に鼓楼、右側に鐘楼がある。全くの中国式の建築様式である。Dsc00745aこれが鐘楼。Dsc00738aこれが鼓楼。Dsc00739a前方を見ると門のような過殿がある。
手前には左右2本の柱杆が立っていて、タルチョーと呼ばれるチベットの五色の祈祷旗がぶら下がっている。
参道の左右には金色のマニ車が並んでいる。Dsc00737a
過殿を間近に見る。
緑の瑠璃瓦、赤い柱、金色の屋根飾り、軒下の極彩色の繊細な装飾など、なかなか美しい。
流れ屋根で、全くの中国式。Dsc00741a
過殿をくぐり、中に入る。
左右に
碑亭がある。
清・ジュンガル戦争での康熙帝の戦功を満州、モンゴル、チベット、漢字で記した石碑だ。
「平定ガルダン紀功碑」という。
正面に鉄灯籠が立っている。
奥には、
本堂(大経堂、大雄宝殿)がある。
一番奥に流れ屋根があるが、何だろうか?Dsc00742a
本堂に近づいて見る。
石壁に囲まれたチベット式の建築物だ。
フフホト唯一のチベット式建築物と言われる。
配色は落ち着いた緑に、赤と金が映えて美しい。
壁には左側に六道輪廻図、右側に須弥山図が描かれている。
本堂の中は、タテヨコ8本ずつ、計64本の柱が天井を支えている。従って正方形である。
奥には釈尊像がある。
2階には、緑ターラー菩薩、文殊、釈尊、観音、白ターラー菩薩がある。Dsc00743a
江沢民元国家主席とシレート・ホトクト11世が会見したときの写真らしい。Dsc00740aDsc00735aDsc00736a次は大召へ。


引用・参考文献

ウィキペディア

書名   :モンゴル仏教紀行                                                   
著者名  :菅沼晃 著                                  
出版者  :春秋社 

書名   :蒙古学問寺                                                    
著者名  :長尾雅人 著                                  
出版者  :中公文庫

書名   :内モンゴル自治区フフホト市シレート・ジョー寺の古文書                                                 
著者名  :楊海英/雲廣/編                                  
出版者  :風響社

|

« 銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その8(美岱召~フフホト) | トップページ | 銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その10(フフホト・チベット寺院・大召) »

074フフホト(内蒙古自治区)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その9(フフホト・チベット寺院・席力図召):

« 銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その8(美岱召~フフホト) | トップページ | 銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その10(フフホト・チベット寺院・大召) »