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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その6(パオトウ・チベット寺院・五当召)

パオトウから五当召に行く途中。
火力発電所が見える。パオトウのエネルギー源は石炭。火力発電所で使用している。
Dsc00649a_2Dsc00650aDsc00651aDsc00652aDsc00653aDsc00654aDsc00655aDsc00656aDsc00657aDsc00658a
10:10、五当召(ウータン・ジョー)着。召とはモンゴル語で寺を指す。 

1.五当召の概要
包頭から東北70キロの標高207メートルの山中にある。内モンゴルの中でも重要なチベット仏教寺院。内モンゴル最大のチベット式学問寺院。
文化大革命による破壊をほぼ遁れた(ただし経典類は全て焼却された)ため、創建時からの状態が残っている。
創建は17世紀後半~18世紀後半とされる。1756年には清朝の乾隆帝から「
広覚寺(広大なる悟りを具する寺)」の寺名を賜っている。
主要な宮殿は6個ある。特に創建時からある
ドィンコル・ドゴンや、小ポタラ宮と呼ばれるツォクチェン・ドゴンは有名。
寺の内部には、様々な仏像、壁画があり、見ごたえがある。
 

2.五当召の起こり
五当召は内モンゴル陰山山脈中の五当溝にある事からこの名になったという。
五当溝は5つの川が集まる場所なのでこの名がついたらしい。二つの谷が南に向かって合流し、合流地点の北の山の南面にある。従って草原地帯ではなく、低い山が連なる場所にあり、松林と巨大な岩石がある。
この付近では石炭と石灰が産出される。石炭は燃料及び財源になり、石灰と岩石と樹木はチベット建築物になくてはならないものである。
つまりチベット寺院群が建立される最適地だった。
また、五当召はモンゴル語でバタガル・スムともいう。それはこの付近にバタガル(芍薬)の花が野生しているからとの説があるが、後述する伝説に現れる女性の名前でもある。
開創は17~18世紀と寺伝にあるが、開創についてこのような伝説がある。
フフホト席力図召の化身ラマ(仏、菩薩、過去の偉大な仏道修行者の化身であるチベット仏教僧)のお供でチベットに行ったところ、「汝には良きラマあり」と言われた老人に子ができた。その子はラマと成りチベットにも留学し、業成りて帰国の途中、現在の五当召の在るあたりを他のラマと歩いていた。この谷にバタガルなる女が住んでいて、ラマ達と話を交わし共に茶を喫することになった。そこへ西からジュンガル王が兵20名を連れて北京へ向かう途中通りかかった。ジュンガル王は茶を喫する彼らを見て、自分もまた休息する事となった。ラマは王に茶をすすめる。しかし王は茶釜の小さいのを見て兵20名に飲ましむるにはとても足りるまいと思った。が、不思議な事に、その窯からは次から次と茶が出てきて、十分に兵たちに飲ませる事ができた。王はこの様を見て、このラマが凡庸の者ではないと知り、尊崇の念を抱いた。そこで王はラマに向って、何か望みがあれば援助したいと申し出た。するとラマはここに一宇の建立せられん事を請い、王はこれを受けたのでラマは喜び、その謝礼として王の馬を鞭であおった。すると王の馬はその後いささかも疲れることなく北京に到着したという。しばらくして1751年、現在の五当召ドィンコル堂が建てられるに至った。王に茶をふるまったラマこそかの老人の子であり、五当召の開創者となった。その名をblo-bzan bstan-pahi rgya-mtsho(ロプサン・ギャムツォ?)と言うが、五当召の化身ラマとなり、代々転生する事になるが、最初に建てられた堂の名にちなみ、一般には
ドィンコル・フトクト(フトクトは化身ラマ=活仏)と呼ばれる。
別の説もある。五当召を訪れた外国人にラチモア夫妻がおり、その紀行の中で開創に係る伝説が2つばかり述べられている。それによると寄進者はチャガンタイジなる老人で、開創のラマの名は記されていない。また五当召の事をバトガル・チェリン・スム(バトガル顕教学問寺)というのみで、バトガルの意味は不明である。
 

3.五当召での教義研究
独自の宗派の研究よりも、一般仏教学に重点が置かれている。
特に顕教(中国などに伝播した北伝の大乗仏教)に重く、密教は軽いのが特色。
たとえば大きなチベット仏教寺院で一般的に行われる密教的な舞踏は行わない。舞踏や音楽を習うよりも、学問に時間を割くという考え方である。
顕教の学習方法は暗記と討論である。討論は
タクサルと呼ばれ、問答形式で行われる。問者一人の周りを数人が円陣を作って座す。問者が円陣の中から一人を指名し問を出す。答者はインド的三段論法で独特の身振りで回答する。このタクサルは、インド仏教の問答の風格を最も後世に残しているものと思われる。
暗記は、タクサルにおいては問者答者とも教科書、参考書は一切携帯しない為、問答を行うには暗記が前提になる。
学部は4学部ある。
顕教学部(チュエ・ラサン):後述
時輪学部(ドィンコル・ラサン):後述
ラマレン学部(ラマレン・ラサン):チベット仏教最大の学僧でゲルク派(後述)の開祖、ツォンカパの著書「ラムリム」を研究する。
密呪学部(アゴワ・ラサン):密教学部(後述)を小規模にしたもの。
五当召においては、各学部は
大ラマが管轄する。その他に大衆部という日々の勤行や主要な法会を行う部があるが、その管轄者はテビラマと呼ばれ、大ラマよりも高貴とされる。 

4.建築様式
西チベットのシガツェにあるタシルンポ寺が手本とされる。
純粋なチベット建築であり、中国様式の影響はない。これが最大の特徴で、モンゴルでは唯一と思われる。
巨大な岩を畳み積んで外壁とし、木材は梁や柱に使うのみ。屋根は陸屋根で、中国式の流れ屋根はない。
山腹に沿って3階建て、4階建てになっているが、山腹からは2階、3階に直接入ることが可能である。
全ての建物の外壁と道路の舗石は石灰で白く塗られている。高貴な仏殿・宮殿にはさらに軒下に黒ずんだ赤い帯状がめぐらされる。帯の部分及び屋上は金の装飾物が布置される。
境内を囲う外塀がなく、境内が判然としない。従って山門もない。これもチベット様式の特徴である。
建物は山形に沿って建てられており、計画性・左右対称性は少ない。
 

5.五当召の各殿堂
7個の主要な堂と、これに付随する倉庫・厨房がある。加えてドィンコル・フトクト、チャンジャ・フトクト、カンジュルワ・フトクトの3人の化身ラマの3宮殿及び倉庫があり、これらは谷の低地から尾根伝いに並んでいる。その両側東西の谷間に多くの僧房が散在している。
広場から見た全景。手前中央がツォクチェン・ドゴン、左側がチュエラ・ドゴン。
Dsc00683aツォクチェン・ドゴン(大衆殿)
谷の最下部の平地にあり、最も大きな堂。日々の勤行や主要な法会を行う。1階の壁の厚さは1.8メートルに達する。1757年建立とされる。
1階入り口には四天王、輪廻図、須弥山図がある。中に入ると前殿で左右両壁に釈尊伝があり、南の壁にも数々の画像がある。1階奥には一切蔵経堂があり、中央奥に文殊、弥勒、観音の像があり高さ6メートルの経棚がある。かつての経典は文化大革命で焼却された為、現在の経典は青海省のタール寺から持ってきたもの。
2階奥が仏殿で、白多羅(ターラー)三尊、釈迦五尊、緑多羅(ターラー)三尊他多数の像がある。前殿には五台山、ポタラ宮、五当召など様々な壁画あり。

チュエラ・ドゴン(顕教学部堂)
ツォクチェン・ドゴンのすぐ西に在り、2番目に大きな堂。第5代当主(第5世化身ラマ)により1835年建立。五当召最大の高さ10メートルの弥勒仏がある。また、第5代当主の像がある。

            ツォクチェン・ドゴン。Dsc00659aDsc00680aDsc00681aチュエラ・ドゴンからドィンコル・ドゴンに向かう途中の道沿いにあるマニ車
マニ車は円筒形で、側面にはマントラが刻まれており、内部にはロール状の経文が納められている。右回り(時計回り)に回転させると、回転させた数だけ経を唱えるのと同じ功徳があるとされている。この季節、素手で触ると張り付いてはがせなくなるから注意。
Dsc00661a同じく左手には僧房が立ち並ぶ。文化大革命で破壊されたが、今世紀に復元された。Dsc00660a高台の上のドィンコル・ドゴン、ドクシト・ドゴンを見上げる。Dsc00671aDsc00672aドィンコル・ドゴン(時輪学部堂)
創建時の堂。4言語で書かれた「広覚寺」の額がある。ツォクチェン・ドゴンの背後の丘上にあり、寺全体の中心位置にある。1階の壁の厚さは2メートルに達する。
前殿と後方の仏殿からなり、前殿1階の壁際には四天王像、シャンバラ国(チベット人が理想とする未来の国)の25王と7法王画像、21の坐仏画像、数百の学師画像とその前にドィンコル・フトクトの塑像安置。またドィンコル・フトクトの師、カンジュルワ化身ラマの像がある。
仏殿1階の左右の壁には十八羅漢画像、奥にはツォンカパ像とその左右に二大弟子、他の四体は不明。

ドクシト・ドゴン(護法秘仏堂)
ドィンコル・ドゴンのすぐ西に在り、ドィンコル・ドゴンに敷設されたとみられる。9体の憤怒仏を祀っている。1750年建立。
中央がドィンコル・ドゴン、左がドクシト・ドゴン。
Dsc00663aDsc00665aタクサルを行う場所。ここだけでなく、この広場のいたるところで行われる。Dsc00664aDsc00666aドクシト・ドゴンからチュエラ・ドゴン後方を見る。手前の建物はサニット倉で、サニットラマ(顕教学部長)が住んでいる。Dsc00675a 輪廻図Dsc00674aタルチョーと呼ばれるチベットの五色の祈祷旗。五色の順番は青・白・赤・緑・黄の順に決まっており、それぞれが天・風・火・水・地すなわち五大を表現する。仏法が風に乗って拡がるよう願いが込められている。Dsc00676aラマレン・ドゴン(ラマレン学部堂)
ドクシト・ドゴンの後方、高所にあり、「ツォンカパの教法を広大にする堂」と記される。第5代当主により1892年建立。
1階奥中央に高さ9メートルのツォンカパ座像があり、左右に二大弟子ゲンドゥン・トゥパ(ダライ・ラマ1世)、ケートゥプジェ(パンチェン・ラマ1世)の像がある。2階中央に供台、他に千灯明、ドクシト五尊がある。
Dsc00677aDsc00667aアゴワ・ドゴン(密呪学部堂)
ドィンコル・ドゴンのはるか後方にあり、「牟尼の教を増長する堂」と記される。
一階内部には、第四代当主の座像、22の仏龕があり、中に釈尊他羅漢像がある。これ以外は壁画で、ドクシト(護法神)が多い。
二階にはツォンカパ像、薬師像、護国天像がある。
Dsc00668aDsc00678aアゴワ・ドゴンのそばの谷間にも、僧房が多数ある。Dsc00669aアゴワ・ドゴンからドィンコル・ドゴン方向へ戻る途中。中央の建物はラブラン倉と思われ、ドィンコル化身ラマ宮殿の一隅にあり、化身ラマに奉仕するための倉である。Dsc00679a更に下ってツォクチェン・ドゴンの横。左の建物はイフ倉と思われる。最大最重要の倉で、ツォクチェン・ドゴンやチュエラ・ドゴン関連の管理を行う。Dsc00670a近くの山だが、タルチョーがいたるところに翻っていて壮観だった。Dsc00682a見学しなかったが、他にソボルガン(モンゴル語で「塔」)がある。
中に各代の化身ラマの位牌、すなわち舎利塔が安置されている。
在家信徒の礼拝所で、この建物の周りを手に数珠を持ち、呪文を唱えながら何千回も回るのである。これにより病気平癒などの功徳があるという。
その為、在家信徒は一定の宿舎に滞在を許される。

       
チベット仏教僧(ラマ)。Dsc00684a「バクシ(博士=ラマ僧)はまた多数の寺院・僧院を有しており、その中には教派を同じくする二千人以上の僧侶をも収容し、その規模はさながら小都会のごとき広大なものもある。
これらの僧侶は庶民に比べるとずっとこざっぱりした服装をしており、頭髪と髭を全部そり落としている。
彼らは灯明を煌々と点じ梵歌を声高々と誦して、その奉ずるもろもろの偶像のために以上のような勤行儀式を執行する。
これらバクシたちの中には、教義上その妻帯が認められている者があって、彼らだけは現にそのとおり妻を娶り多数の子供を持っている。」(東方見聞録)
パオトウ市街に戻る。11:26発。
 

1.チベット仏教(ラマ教)について
1)インド初期仏教の教義
仏教は紀元前5世紀頃、インドの
ゴータマ・シッダールタ(釈迦)が説いた教えである。ゴータマ・シッダールタは目覚めた人(ブッダ=仏陀)であったことから仏教と呼ばれる。時代背景として社会が成熟し、社会不安が増大した事、科学技術の進歩により合理的思考が発達した事があげられるという。従来の宗教(精霊信仰など)では解決できない問題が増えたため、時代の要請に応えたともいえそうだ。同時代には、中国の諸子百家、西洋のギリシャ哲学がある為、恐らく世界的現象の一つだったのだろう。
仏教の基本的な考え方は「
因果論」である。種々な原因が寄り集まって現在の結果が作られる為、永久不変の存在はないという考えである。悪い結果からは悪い原因が求められ反省し、良い行いは良い結果を生むであろうという倫理観である(善因善果・悪因悪果)。「輪廻転生」という思想があるが、輪廻転生は、この因果論に基づき良い行い、悪い行いが来世の生の在り方を決めるとされ、悟りを開かない限り輪廻転生から抜け出す事(解脱)ができず、苦しみ続けるとされる。また「縁起」という思想があるが、これも因果論に基づき、全ての結果は原因と条件が関係しあってできるもので、独立不変の結果はないとする。縁起的には全ての事物・考えに永久不変独立絶対のものはなく、絶対的存在は無であり「」であり、それゆえ無常であり苦である。絶対的存在はないので永遠不滅の魂(アートマン)もなく、生存中でも輪廻転生は起こり得るとされる。輪廻転生の苦から逃れるには「悟り」を開くことしかなく、悟りを開く方法として出家・修行・善行があるが、全て個人の実践により行われる。絶対的存在である「神」は存在しないので、神に救いを求めるという考えはない。極めて現実的・実践的な教えであった。 

2)インドにおける仏教の変遷
紀元前4世紀頃、ゴータマ・シッダールタの教義の解釈をめぐって多くの派閥に分かれるという
部派仏教の時代に入った。そのうちの上座部仏教(従来小乗仏教という蔑称でよばれていたもの)は、東南アジアに伝播した。
紀元前後、民衆の要請に充分応える事ができなくなっていた部派仏教に、
大乗仏教という新しい思想が現れた。これは、自分の解脱を優先していた当初からの教義に対し、出家や修行をしなくても、他者への救済(利他行)を続けていれば、未来の世で解脱できる(仏陀に成る=成仏)という考えである。これはアフガニスタンを経て東アジアに伝播した(中国には1世紀に伝播、日本には漢訳経典が6世紀に伝播)。
その後、大きな思想転換があった。無神論である仏教が有神論的傾向を持つようになってきたのである。「
勝初仏」と呼ばれる絶対最高の創造神的なものが現れたのである。勝初仏は「縁起をするもの」であり、あらゆるものの不変の第一原因になるものである。この誕生の背景は、仏教がより民衆の要請に応えるべくインド民俗信仰、汎神教的なヒンドゥー教の要素を取り入れたり、新しく現れたイスラム教などの熱狂的献身的な唯一最高神への信仰に対抗するためだったかもしれない。汎神教的な諸仏は自受法楽的(自らの悟りを味わい楽しむこと)であるのに対し、一神教的な勝初仏になったのは仏になる手前の段階である菩薩であり、利他的な救済者としての性格を帯びるようになった。菩薩が勝初仏になったというのは、そもそもゴータマ・シッダールタ自身が師を持たず一人で悟りを開いた事から、「最初」「原本」「最高」という思想への発展が行われ、成仏しなくとも「原本」になりうる、という事からだったかもしれない。これら汎神教と一神教的な仏教は、仏は必ず菩薩であった、という事から結びつく。つまり菩薩が仏を生み、仏が菩薩を生む、を繰り返していけば、最初に成仏した一神教的な勝初仏を頂点とした多くの仏(=神)のピラミッド構造、転化して汎神教的なマンダラ的世界が完成する。勝初仏からあらゆるものが創造される。
7世紀にはこのような「
密教」が盛んになった。密教では修行及び秘密の儀式(例えば即身成仏)により成仏する。密教は中国には7世紀、日本には9世紀に「真言宗」として伝播した。チベットに仏教が伝播したのは7世紀以降で、主に8~11世紀であった。
しかしインドでの仏教は既に衰退へと進んでいた。6世紀に侵入したエフタルはゾロアスター教系の一神教であり、仏教徒を弾圧した。同じ6世紀以降、ヒンドゥー教が伸長し、仏教を圧迫、12世紀にはイスラム教のゴール朝が弾圧し、インドから仏教は一掃された。
 

3)チベット仏教の誕生
チベットは地形が険しく、気候も厳しい。なぜそこに仏教は伝播したのか?インドの隣国であるにもかかわらず、7世紀まで伝播しなかったのはなぜなのか?それは前記のような仏教への弾圧が背景にある。弾圧のたびに、仏教徒は隣国(東南アジアなど)へ逃れたのである。特にインド最大最後の仏教寺院ヴィクラマシーラ寺の座主は、破壊を受けてチベットに亡命した。
しかしチベットの文明度はインドに比べると低く、複雑な仏教を充分に受け入れる事が難しかった。仏経典をチベット語に翻訳する為、文字の開発や新しい用語を発明する必要が頻繁に生じた。それは中国の僧侶が仏経典を漢訳するのとは比較にならないほど困難な作業だったと思われる。
ところが、上記の様な悪条件が、インド仏教とチベット仏教の相似性を生むことになった。チベットが仏教を本格的に受け入れたのは国教化された8世紀とされるが、一時衰退し11世紀に復興した。これはインド仏教後期、というかほとんど末期の教義である。それは基本的には大乗仏教で密教だったが、他国に比べて最後期にあたるものである。従ってインド仏教最後期の教義が引き継がれているのである。また、チベット語への翻訳の困難さは、逆に仏経典を正確に直訳する事に繋がった。新造語を大量に作り、元のサンスクリット語の文体を想像できるレベルにまで直訳したのだ。また、量においても原典や漢訳をしのいでいる。現存する経典で、チベット訳にあってサンスクリット原典や漢訳にないものが沢山ある。また教団の形態も、インド仏教の形態を引き継いでいると思われる。
 

4)チベット仏教の教義
全ての命あるものが持つ仏の性質を開発し、菩薩となり
六波羅蜜(6つの修行の達成)を行い、結果として成仏する事を目的とする。その為に「智慧」と「方便」を重視する。
「智慧」とは「
空性」を理解する事だが、「空性」とは、ゴータマ・シッダールタが説いた「縁起」をより深く一般化したもので、あらゆる現象が原因と条件の関係性の上に成り立ち、関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっており、それゆえそれ自身で存在するという実体は存在せず、全ての存在は「空」(無実体・無我)であるとするもの。
「方便」とは悟りに近づく方法の事で、「
菩提心」(悟りと命あるものの救済を強く願う心を持つこと)と「大慈悲」(他の生命に対して自他怨親のない平等な気持ちを持つこと)を言う。
また、僧院教育の現場においては、密教的な修行よりも、存在・認識についての教学・論争による論理的思考能力と正確な概念知の獲得を重視している。
成仏を速やかに達成するための特別な方便として、各宗派においてインド後期密教の流れを汲む
無上ヨーガ・タントラの実践が行われている。無上ヨーガ・タントラとは、8世紀後半以降に作られたインド後期密教経典群のチベット仏教における総称。本尊の観想を中心とした生起次第を重視する父タントラ、身体修練によって空性大楽の獲得を目指す究竟次第を重視する母タントラ、それらを不可分に実践する不ニタントラの三段階がある。
父タントラは、ブッダとその性的パートナーが「性的ヨーガ」を実践して曼荼羅を生成する過程を追体験する修行が中核となっている。性的ヨーガは、現在の出家僧団においてはあくまで観念上の教義として昇華され、なおかつ一般の修行と教学を修得した者のみに開示される秘法とされた。
母タントラは、性的要素に呪殺、黒魔術的・オカルト(隠秘学)的要素も加わっているとされるが、本来は、修行者の身体における四輪や五輪等に代表される
チャクラ(人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す)や「五秘密」などの内的ヨーガを重視した心身変容と、ブッダ(覚者)の智慧との合一を図る内容が中核となっている。
不ニタントラは、「時輪タントラ」の事であり、父タントラと母タントラの統合を企図したものである一方、イスラーム勢力の脅威が迫っていた時代状況を反映し、イスラームとの最終戦争を予言するくだりもある。
呪術的、性的な要素については、出家僧団内においては実際的な行法としては禁止されたものの、その背景にある深遠な哲学自体は認められたため、教学および象徴的造形としては残された。
ラマと呼ばれる高僧、特に
化身ラマ(仏、菩薩、過去の偉大な仏道修行者の化身であるチベット仏教僧)を尊崇することからかつては一般にラマ教と呼ばれ、仏教とは異質な宗教と見なす事もあったが、末期インド仏教の継承者との一般の認識を得るにつれ、現在では使用されなくなっている。 

5)宗派と信仰対象
宗派は
ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4つがある。
信仰対象は、最高位の仏としての勝初仏があり、その他、明王、歓喜仏、阿弥陀如来、十一面観音、文殊菩薩、ターラー菩薩、パルデン・ラモがある。
聖地としては、ダライ・ラマの宮殿である
ポタラ宮大召、小召、レボン、セラ、ガンデンの各寺院を擁するチベットの首府ラサ、チベット高原のカイラス山(6566m)と麓のマナサロワル湖、中国山西省の五台山が有名である。 

6)歴史
①仏教伝来とチベット仏教の誕生
7世紀前半、吐蕃の
ソンツェン・ガンポ王が仏教に帰依、8世紀には国教とされた。8世紀から9世紀にかけてサンスクリット語の経典をチベット語訳する事業がすすめられ、チベット大蔵経として完成した。
②分裂
9世紀の吐蕃王朝滅亡と共にチベット仏教の出家教団は衰退し、インドで流行していた在家密教が主流になった。チベット仏教は四散した吐蕃王家が建国した西チベットのグゲ王国が保持していた。
③復興
11世紀、インドから入国した
アティーシャにより出家教団が再興された。顕教(中国などに伝播した北伝の大乗仏教)の哲学研究が行われる一方で、インドから後期密教がもたらされた。ここから顕教と密教を総合的に学習する伝統が生まれた。
④サキャ派政権とモンゴルへの伝播
13世紀、チベットはモンゴル帝国の侵攻を受けたが、
サキャ派政権はチベットの自治支配権を得た。さらに、フビライがモンゴル皇帝に即位すると、座主の甥パクスパは元朝の帝師として遇され、他の宗教を退けて一地域の宗教に過ぎなかったチベット仏教を元朝の国教にする事に成功するという偉業を成し遂げた。その結果チベット仏教はモンゴル人貴族に広く浸透した。
カギュ派ゲルク派
14世紀後半、元朝が北に追われるとカギュ派系パクモドゥ派が政権を握った。
カギュ派衰退後は、カギュ派系のカルマ派と15世紀に誕生したゲルク派が競うようになった。両派は化身ラマを座主として勢力を伸ばした。そのうち、ゲルク派の最上位化身ラマを
ダライ・ラマといい、16世紀に北元朝のアルタン・ハーンが定めた称号である。
⑥ゲルク派の
ダライ・ラマ政権
ゲルク派は、過度の性的ヨーガを禁じ、無実体・無我を観ずる事を重視した。また、在家修行よりも教団での出家修行を重視した。部派仏教、顕教、密教を統合した修道体系を構築した。
17世紀半ば、オイラート部がチベットを征服し、グシ・ハン朝を開くと、ゲルク派のダライ・ラマをチベット仏教全宗派の最高権威とした。これによりゲルク派が正統派として認知されるようになった。
グシ・ハン朝を滅亡させた清朝も、ダライ・ラマ政権の後ろ盾になった。
近代になると、ロシアやイギリスがチベットと交渉するようになり、チベット仏教の研究も進んだ。
⑦チベット動乱と亡命政権
20世紀後半、中華人民共和国のチベット支配に対する反乱が起きた。
チベット動乱と呼ばれる。ダライ・ラマ政権や他宗派の座主、多くのチベット人がインドやネパールに亡命した。ダライ・ラマ政権はインドで存続し、国際的な布教活動を行うようになった。
一方、チベット本土では、文化大革命時の弾圧を経て中華人民共和国の統制によるチベット仏教の存続が行われている。
 

7)チベット寺院について
チベット寺院は大きく2種類に分けられる。学堂を中心とした
学問寺と、化身ラマを中心とした化身ラマ寺である。
元々ゴータマ・シッダールタ生存中には、寺はなく、ただ教団の修行者の住居・学堂と遊園があるのみであった。修行者は人里離れた学堂と遊園で学行に励んだ。
ゴータマ・シッダールタ死去後、その供養の為、遺物を納める塔を建て、後に発明された仏像と共に住居・学堂の中心になり、寺院になったと思われる。
化身ラマ寺の代表格は、かつてのラサのポタラ宮殿である。ポタラ宮殿は化身ラマであるダライ・ラマを中心とした寺院で、民衆の信仰の対象であり、政治の中心地でもあった。学問を行う場所ではない。同じように化身ラマが中心となる寺院が、チベット、モンゴルを中心に多数ある。
 

8)学問寺について
学問寺は、主に学問・研究を行う学僧からなる場所だが、毎日宗教的な礼拝勤行もあり、定期的に法事や法会も行われる。大きな法会としては、
大祈願会(モンラム・チェンポ)、大衆供(ツォクチェ)がある。
同時にほとんどの僧侶が、いずれかの学部に所属する。代表的な学部は4学部ある。
顕教学部(チュエ・ラサン)は法学、相学(人相・家相・地相などを見て、その人の性格や運勢などを判断する学問)、哲学、論理学、文法学、戒律を学ぶ。、
密教学部(ジュットパ・ラサン)は仏像類の属性・性格を知り、それぞれの経典を暗記する学問らしい。
時輪学部(ドィンコル・ラサン)は天文学で、天文現象や暦について学ぶ。
薬学部(マンパ・ラサン)は薬学、医学を学ぶ。
学僧は、入学から卒業までに約20~30年を要するという。その過程で学位を授かるが、低いものから
サラパ、ゲプシ、アリンジンパ、ドランパ、ハランパである。ハランパの学位を授かるのは大変栄誉な事であり、学僧は、チベット僧のどの官職に就くかよりも、どの学位を得るかが最大の関心事である。
 

引用・参考文献 

ウィキペディア 

書名   :完訳東方見聞録 1                                                    
シリーズ :平凡社ライブラリー 326                                             
著者名  :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注                                  
出版者  :平凡社
 

書名   :蒙古学問寺                                                    
著者名  :長尾雅人 著                                  
出版者  :中公文庫
 

書名   :蒙古ラマ廟記                                                    
著者名  :長尾雅人 著                                  
出版者  :中公文庫

書名   : モンゴル仏教紀行                                                   
著者名  :菅沼晃 著                                  
出版者  :春秋社
  

書名   :地球の歩き方・中国 2013~2014年版
著者名  :地球の歩き方編集室 著
出版者  :ダイヤモンド・ビッグ社

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073パオトウ(内蒙古自治区)」カテゴリの記事

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