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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その8(美岱召~フフホト)

美岱召を出てフフホトに向かう途中
農家が続いている。

やがてフフホト市トゥムド左旗に入る。

15:25、マンション等の建物が現れる。高層マンションの建築ラッシュだDsc00717aDsc00718a15:40、市街地に入る。Dsc00719aDsc00720aここでこの旅行の本来の目的に立ち返る。目的とは、マルコ・ポーロの足跡を辿る事なのだ。そこで東方見聞録の記述を見る事にする
テンドゥク(天徳軍)は東方に位置し、境内に都市・集落を多く含んだ大州であって、カーンに隷属する。首府も同じくテンドゥクと呼ぶ。」
テンドゥク(天徳軍)とは、どこにあるのだろうか?
文末の資料を見ると、概ねこのようである。
唐の時代の話である。「天徳軍は七五三(天宝十二)年に朔方節度使下の鎮軍として設置された」とも「七五五(天宝十四)年に建設された大同川の大安軍を改称して天徳軍とした。」ともある。
しかし、「安史の乱で城が焼かれたため、旧城から約三里の距離にあった永清柵に兵馬を移し天徳軍と名乗った。
ところが、八一三(元和八)年の春に西受降城の南面が黄河の氾濫によって削られたため、西受降城を修築するよりも旧天徳軍城を再利用した方が財政支出が少ないとして、大同川に天徳軍を復置し、西受降城は子城に兵一千人を残して放棄した。」
西受降城とは、中国北方の草原地帯を支配したテュルク系の突厥が中国に侵入するのを防ぐ為に築いた城である。
陰山山脈は山が険しく、防御にうってつけであった。唐は陰山山脈の間道に「中受降城を基点として、東西四百里の地点に東西受降城を建設した」。
旧天徳軍城は、フフホトの西約200キロにあったとされている。
その後、天徳軍は突厥滅亡後も北方遊牧民諸族との外交の場として機能した。
しかし、「唐滅亡後の九二〇(神冊五)年十月になると、契丹の遼が後唐支配下にあった天徳軍を陥落させてその住民を「陰山南」に移した」とあり、
続けて「「陰山南」こそが、現在も遼代の仏塔が残るフフホト東郊の白塔村「豊州遺跡」であるとされている」とある。
従って、マルコ・ポーロ来訪時の天徳軍は、フフホト東郊の
白塔村「豊州遺跡」であり、村の由来となった遼代の仏塔とは、「万部華厳経塔」であり、今回来訪する場所である。

続けて東方見聞録の記述を見る

「この地の王はプレスター・ジョンの後裔で、代々プレスター・ジョンを号し、カーンに服属している。
現在の王は名をジョルジといい、カーンの名代でこの地の統治に当たっているが、その領域はプレスター・ジョンの故国全体ではなく、わずかにその一部に過ぎない。」

遼滅亡後の12世紀以降の金・元の時代、「この地」陰山山脈周辺を支配していたのは、テュルク系の
オングト部族であり、ネストリウス派キリスト教徒であった。
金の時代には陰山近くの長城線を防備し、北方遊牧民から金朝を守っていた。
北のモンゴル高原で、モンゴル部族のテムジン(チンギス・ハーン)が勢力を広げ、アルタイ山脈南麓を拠点とするナイマン部族と最後の決戦が近づいた時、ナイマン部族長のタヤン・ハーンはオングト部族長アラクシ・テギン・コリに対して共にテムジンを撃滅すべしと要請した。
しかしアラクシは、ナイマン部族使節をテムジンに差し出し、タヤン・ハーンの攻撃が近いことを通告した。
テムジンはナイマン部族の機先を制し、1204年、オングト部族の来援を得てナイマン部族を撃滅した
1206年、テムジンはクリルタイによって大ハーンに推挙され、チンギス・ハーンと名乗ることになる
その後、チンギス・ハーンは破竹の勢いで金を破り、カラ・キタイ(西遼)、ホラズムシャー朝を滅亡させ、ロシア諸侯を破った。
チンギス・ハーンは自分の今日あるのも、オングト部族長アラクシの協力あればこそと感謝。
しかし、その後アラクシとその長子がナイマン部族派のオングト部族民に殺害される事件が発生。
チンギス・ハーンは、アラクシの遺児ボヤオ・ハイを保護し側近とし、17才になると自分の娘アラハイを降嫁し北平王に任じた。
「ジョルジ」すなわち
ゲオルギス王は、ボヤオ・ハイの孫にあたり、名前の通りキリスト教徒である。当初ネストリウス派であったが、ローマ教皇使節モンテ・コルヴィノによりローマカトリック派に改宗したことで知られる。
ただし、ゲオルギス王時代以降の首府は天徳軍ではなく、フフホトの北西約180キロにあった
オロン・スムである。
コルヴィノが1305年に発信した書簡には、「ゲオルギス王の寄進により、ローマ教会堂が王府に建立され」たとあるが、確かにオロン・スム遺跡に西欧風建築の教会堂が発見されている。
ここは少し疑問の残るところだ

続けて東方見聞録の記述を見る

「しかしテンドゥク王としてこれを統治するプレスター・ジョンのこれら子孫に対しては、歴代カーンが自らの皇女もしくは宗室の王女を降嫁せしめて妃とならしめるのが例となっているし、更にプレスター・ジョンはキリスト教徒である関係から、住民の大部分もまたキリスト教を信奉するようになった事実を特に御記憶願いたい。」
ボヤオ・ハイを北平王に任じた際、チンギス・ハーンは、「オングト王と子々孫々通婚して姻戚となる事を約し、義親子となって血盟した」。
実際に、ボヤオ・ハイの子、クン・ブカはグユク・ハーンの娘と、同じくアイ・ブカはフビライ・ハーンの娘と、アイ・ブカの子であるゲオルギス王はテムル・ハーンの娘を降嫁されている。
これに対し、代々のオングト王も忠勤に励んだ。
「アイ・ブカはフビライ・ハンのためにアリク・ブカの乱を討ち、あるいは李璮を済南に囲むに助力し、さらに西北に叛王の党を破り、ゲオルギスは成宗(テムル・ハーン)の為に北西辺境を守備して、しばしば大功があったが、晩年に及んでドアとの戦いに敵軍の手中に陥り、敵の誘惑に屈せず、ついに殺害の悲運に遇うなど、一族をあげて元朝の皇室のため尽力するところ甚だ大きなものがあった。」

続けて東方見聞録の記述を見る

「この地方には瑠璃色の顔料、すなわち群青の原料となる石を産するが、質と言い量と言いすばらしいものである。」
青い石といえば真っ先に思い浮かべるのがラピスラズリだが、当時は大変貴重な鉱物で、アフガニスタンの山中でしか採掘できなかった。フフホト周辺で大量に採れたという話は聞いたことがない。
現在のフフホトが建設されたのは1565年で、北元朝の
アルタン・ハーンによってであった。
フフホトとは「
青い城」を意味する言葉だそうで、東方見聞録の記述と偶然にも一致する。
文末資料には、
「ここの城壁は青いレンガ製で、遠くから見ると、城郭都市自体が青く見えたことから、「青城」の異名を持つようになる。」
とあった。

アルタン・ハーンは、ここを拠点として明朝やオイラート部族と戦い勢力を拡大したが、最終的には明と講和し、明から順義王に封じられる。
アルタン・ハーンは、漢族をここに移住させ、農耕に従事させた。その為、フフホトの人口の9割は漢族である。漢族の居住区域は、明から「
帰化城」とよばれた。
明から国境貿易を許されると、中国からモンゴルへと向かう大量の物資の集積地として栄えた
また、多くのチベット仏教寺院を建立した為、「寺院の町」とも呼ばれた。往時は「七大寺、八小寺、七十二の名の知れない小寺」があったと言われる。
そしてオルドス地方あるいは内モンゴルの精神的な中心都市として発展していくことになる。
清朝に占領されると、「清は、帰化城の北東隣に綏遠城を築き、オルドス地方の防衛を担当する八旗の駐留地とした。
帰化城と綏遠城はあわせて「
帰綏」と呼ばれ、清代以降、中央政府の直轄地として内モンゴルの政治、経済、文化の中心地となった。」
内モンゴルは、外モンゴルがソ連の強力な後押しによってモンゴル人民共和国として独立したのに対し、中国に組み込まれたままであった。
そこで日本の支援の下、独立運動が続けられ、「蒙古連合自治政府」が発足する。
しかし日本の敗戦とともにその運動は中国共産党が担うようになった。
1947年、内モンゴル人民政府が発足。1949年に成立した中華人民共和国に組み込まれた。
1950年、帰綏県が
地級市 に昇格してフフホト市となり、内モンゴル自治区の省都となる。
1966年から始まった文化大革命では、モンゴルの民族的なものが否定され、多くの寺院が破壊され、チベット仏教僧は還俗させられた
文革終了後、復興が始まったが、現在どれだけの寺院が復興され宗教活動を行っているのか定かではない。
現在の人口は200万人以上、4つの県、1つの旗、4つの市轄区からなる。一番賑やかなのが新城区で、回民区はイスラム教徒が多い。

フフホト周辺の各時代の支配国は以下の通り。
紀元前4~3世紀(戦国時代):趙
紀元前3世紀:秦
紀元前2~1世紀:前漢
1~3世紀:後漢
4~6世紀(五胡十六国、南北朝):鮮卑(モンゴル系?)系王朝、匈奴系王朝
7世紀:突厥(テュルク系)
7~9世紀:唐(モンゴル系?)
10世紀:契丹・遼(モンゴル系?)
11~12世紀:金(ツングース系)
13~14世紀:モンゴル、元
14~16世紀:明
17~19世紀:清(ツングース系)
20世紀:中華民国、中華人民共和国

15:50、中心街に入る。Dsc00721aDsc00722aDsc00723aDsc00724aDsc00725aイスラム街
東方見聞録にこうある
「この地の王はキリスト教徒だが、住民の中には偶像教徒・イスラーム教徒も相当にいる。」Dsc00726aDsc00727aDsc00728aDsc00729aDsc00730aDsc00731aDsc00732aDsc00733aDsc00734aDsc00746a
これから席力図召の観光に向かう。


引用・参考文献

ウィキペディア

書名   :モンゴル仏教紀行                                                   
著者名  :菅沼晃 著                                  
出版者  :春秋社 

書名   :完訳東方見聞録 1                                                    
シリーズ :平凡社ライブラリー 326                                             
著者名  :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注                                  
出版者  :平凡社

書名   :オロンスム モンゴル帝国のキリスト教遺跡                                                   
著者名  :横浜ユーラシア文化館/編                                  
出版者  :横浜ユーラシア文化館

書名   :唐後半期における陰山と天徳軍                                                   
著者名  :齊藤茂雄 

http://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/47/kiyo4705.pdf 

標題   :綏遠城(フフホト城、帰化城)                                                   
著者名  :BTG 城郭都市研究会・『大陸西遊記』編集部

http://www.iobtg.com/C.Huhehaote.htm

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