« 2017年4月 | トップページ | 2017年6月 »

2017年5月

バトルスター・ギャラクティカの宇宙船・フィギュア模型

SFTVシリーズ、バトルスター・ギャラクティカBattlestar Galacticaの宇宙船・フィギュア模型です。
TVシリーズは昨年初めて見ましたが、2003年の作なので相変わらず時流に乗り遅れていますが…coldsweats01

1979年映画公開、1981年日本テレビでTVシリーズが放映された「宇宙空母ギャラクティカ」のイメージが強く、見る気が起きないまま時が過ぎてしまいました。昨年たまたま見る機会があったのですが、
エミー賞を獲っただけあって結構面白かったのですlovely

内容は宇宙空母ギャラクティカのリ・イマジネーション版で、人類が、自ら開発した機械、サイロンによって絶滅の危機に追い込まれ、生き残った人類が退役空母ギャラクティカを中心に船団を組んで逃亡の旅を続けるという、どちらかというと暗い話ですshock
サイロンからの息が詰まるような逃走もさることながら、残り少ない人類が共通の敵サイロンを相手に結束すると思いきや、自分たちの行く末を真剣に考えるがゆえに内部分裂を引き起こしてしまうという、とにかく予断を許さないサバイバル劇が続きます。
全体は、序章と第1~4シーズンからなり、第1シーズンはまあまあwinkですが、第2シーズンから突然面白くなりますhappy02第3~4シーズンあたりは無常感が漂いはじめ…confident

多彩な登場人物も魅力です。
(画像のフィギュアは、ダイアモンドセレクト社製です。)
ギャラクティカ艦長
ウィリアム・アダマ(エドワード・ジェームズ・オルモス:ブレード・ランナー)
教育庁長官
ローラ・ロズリン(メアリー・マクドネル:インデペンデンス・デイ)
飛行隊隊長
リー・アダマ「コールサイン:アポロ」(ジェイミー・バンバー:バンド・オブ・ブラザーズ)Apollo戦闘機パイロット、カーラ・スレイス「コールサイン:スターバック」(ケイティー・サッコフ:リディック: ギャラクシー・バトルKarathrace5_2        こちらは、顔があまりに似ていなかったんでbearing、再作成しました。Karathrace2戦闘機パイロット、シャロン・バレリー「コールサイン:ブーマー」(グレース・パク:ロミオ・マスト・ダイ)Sharon天才科学者ガイアス・バルター(ジェームズ・キャリス:ブリジット・ジョーンズの日記)
シックス(トリシア・エルファー:チャーリーズエンジェルストーリー)
副艦長
ソウル・タイ(マイケル・ホーガン:赤ずきん)Soultai戦闘機パイロット、カール・アガソン「コールサイン:ヒロ」(ターモ・ペニケット:ドールハウス)Karl技術兵チーフ、ガレン・チロル(アーロン・ダグラス:デッドコースター)Tirol戦術士官フェリックス・ゲータ(アレッサンドロ・ジュリアーニ:マン・オブ・スティール)
        こちらも、顔があまりに似ていなかったんでbearing、再作成しました。
Geta情報通信兵アナスタシア・デュアラ(キャンディス・マクルア:マザーズデイ)Dualla3サイロンの戦闘兵、センチュリオンCenturionカプリカにてCaprica_4フィギュアに付いてくる大量の小物類。Goods1かなり小さいんですが、精巧にできています。ピラミッドのボール、徽章とか感慨深いものがありますweep投票箱と投票用紙!これも大事ですねhappy01

武器とヘルメット。ヘルメットは一応被ることができますが、カッコ悪い。
Goods2   肝心の宇宙船画像は後日追加

| | コメント (0) | トラックバック (0)

銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その5(パオトウ市内のキリスト教会)

パオトウの朝。起床6:00、その後シャワー。
朝食cafeは7:30から摂った。

Dsc00631a
Dsc00632a

「奇石宴」と呼ばれる、食材に似た石を器に盛って料理に見せかけた物らしい。
Dsc00633a
Dsc00634a

ホテルの外観。
Dsc00635a

Bさんにロビーで会い、ホテル7:55発。

今日も盛りだくさんだ。
まず
市内のキリスト教会へ、それから五当召美岱召を見学する。その後黄河沿いを東に向かい、フフホトにて大召席力図召を観光する。

キリスト教会を見学するのには訳がある。
前述の銀川の項で、マルコ・ポーロはこう語っている。
「エグリガイア(寧夏)地方についてはこれだけで済ませ、続いてテンドゥクと称する東方の土地を語りたいが、これでいよいよわれわれは
プレスター・ジョンの領域内にはいることになるであろう。」
プレスター・ジョンの領域に入る事に、期待を膨らませているのである。

プレスター・ジョン(司祭ジョン)は、聖地パレスチナをイスラム教徒から奪還しようとしていた12世紀頃の西欧のキリスト教徒が待望していた、はるか東方に存在すると想像されていたキリスト教国の王の名前である。(プレスター・ジョンについては後述)
ここから、彼が東方から軍勢を引き連れて、西欧の十字軍と共にイスラム国家を打ち負かすという神話が生まれた。この神話は以後2世紀に渡り存在し、13世紀初頭には広く知られるようになっていた。

キリスト教国から来たポーロ一行が、プレスター・ジョンの領地に到達したと知って、興奮しないわけがなかった。そこで今回は内モンゴルのキリスト教会を訪問することにしたのだが、ただし、残念ながら色々と妥協しなければならない事が多かった。

まず「プレスター・ジョン」の領地はパオトウではなく明日訪問するフフホト(東方見聞録のテンドゥク)である。(フフホトが「プレスター・ジョン」の根拠地であったという説については後述)これは日程の都合上仕方がなかった。
次に、「プレスター・ジョン」は
ネストリウス派教徒であったが、今回訪問する教会はローマ・カトリック派である。「プレスター・ジョン」、正確にはオングート王ゲオルギスは、ポーロ一行が中国を去った1290年とほぼ入れ違いに中国に入った教皇使節モンテ・カルビノにより臣下共々ローマ・カトリックに改宗したが、ゲオルギスの死後、その臣下はネストリウス派の僧侶達によって再びネストリウス派に改宗してしまった。中国のローマ・カトリック派はモンゴル帝国の衰退と共に消滅した。今回訪問する教会は25年前に建てられたものである。(ネストリウス派については後述)

朝の街中。

Dsc00636a
Dsc00637a

教会に着きました。
Dsc00643a

掲示板を見ると普通の教会と変わらないようです。
時季が時季だけに、生誕の話です。
Dsc00641a

建物が大きいです。
Dsc00642a

市内には1万人の信徒がいるらしいです。ただ十字架が赤いというのは、中国政府公認教会のあかしなのか、中国では赤い色がおめでたい色だからなのか。
赤い十字架というと赤十字hospitalを連想してしまいます。(中国では政府の監督下にない教会は非合法とされ取り締まりの対象になる。海外の影響を受けている宗教活動は非合法で、例えばローマ・カトリックでもローマ教皇(法王)の指導・影響を受けている団体は非公認。中国はバチカン市国と国交していない)

1階です。予想に反してかなり広いです。高齢者と青年以外のフロアとの事です。1階にはキリスト教関係の書籍や信徒の為のバッジがたくさん置いてあります。

Dsc00638a

2階は高齢者用のフロアです。ちなみに3階は青年用です。このように世代別にフロアが違うというのは、予想外でした。やはり同じ世代でまとめたほうが信徒にとっても安心感が得られるという事なのか。
Dsc00639a

「神の家」という事だと思います。
Dsc00640a

8:36出発。
これから有名な
五当召というチベット寺院に向かいます。
再び街中の風景です。

Dsc00644a
Dsc00645a
Dsc00646a
Dsc00647a
Dsc00648a


1.プレスター・ジョン伝説と、中世ローマ・カトリック派とモンゴル帝国の関係
1)イスラム勢力の台頭と十字軍
7世紀に生まれた
イスラム教は、元々アラブ人の為の宗教だった。アラブ人は、交易と隊商からの略奪を生業としていたが、教祖ムハンマドにより事実上アラブ人同士の略奪はできなくなってしまった。そこで彼らは外の世界に活路を求めた。
最初の標的になったのはササン朝ペルシア帝国とビザンチン帝国という大国だったが、意外にも勝利してしまった。

アラブ・イスラム帝国は、2つの帝国に比べて住民からの搾取が少なかったため、むしろ住民から歓迎された。
こうして中東地域はイスラム帝国の手に落ち、西は北アフリカからイベリア半島まで、東は中央アジアまで支配地域を拡大した。この過程でイスラム教はアラブ人以外の民族も改宗が認められた。
11世紀、テュルク人のイスラム教国
セルジューク朝がビザンチン帝国を攻撃した時、ビザンチン帝国はローマ教皇に助けを求めた。
ローマ教皇の呼びかけの元、西欧のキリスト教国による
十字軍が編成され、中東に派遣された。
当初、十字軍はイスラム教国を退けて聖地エルサレムと地中海岸地域の占領に成功したが、シリア、エジプトを統一したイスラム教国
アイユーブ朝の反撃により、ほとんどの占領地を奪回された。その後も十字軍の派遣は続けられたが、事態は好転しなかった。

 

2)発端
12世紀前半、中央アジアでイスラム教国カラ=ハン朝がモンゴル系の
西遼(カラ=キタイ)に攻撃され、中央アジア東部から追い払われると、十字軍にも噂が達した。西遼の王耶律大石(グル=ハン)がネストリウス派キリスト教徒らしいという噂から、十字軍には、東方のキリスト教国の王プレスター・ジョンがイスラム教国を撃破して聖地奪回に協力するという神話が生まれ、西欧諸国に広まっていった。
13世紀に入るとイスラム教国最強のホラズム=シャー国が
モンゴル帝国チンギス・ハーンに滅ぼされ、チンギスの一族にはネストリウス派キリスト教徒がいるという情報が伝わると、プレスター・ジョンへの期待は高まっていった。
しかし、13世紀半ばにモンゴル帝国がロシア、ポーランド、ハンガリーのキリスト教国に侵攻すると、モンゴル帝国がプレスター・ジョンの王国ではない事を認めざるを得なくなった。ただ、幸運にも侵攻の途中でモンゴルの皇帝
オゴタイ・ハーンが死去した為、後継者を決める為に侵攻軍はただちに帰国した。これに勇気づけられ、ローマ教皇やフランス王は、モンゴル皇帝のローマ・カトリックへの改宗と、ヨーロッパ侵攻計画の情報収集の為、いくつかの使節をモンゴル宮廷に派遣する事になった。この派遣は、モンゴル帝国がシルクロードを支配した事で交通路の安全が高まった事により活発になったものである。また、彼らのプレスター・ジョンの王国への探求心がなくなった訳でもなかった。プレスター・ジョンの王国はモンゴル帝国の支配下に入り存続しているとみなされた。

 

3)プラノ・カルビニ
まず1245年に教皇使節プラノ・カルビニがモンゴル帝国の首都カラコルムに派遣された。
そこでプラノ・カルビニは、
グユク・ハーンの皇帝即位式に招かれた。グユク・ハーンはキリスト教に好意を持っており、実際2名の側近はネストリウス派キリスト教徒であった。また、イスラム教徒を排除した「内閣」を作ったが、これは宗教的な理由というより政治的な理由によるものらしい。
グユク・ハーンの側近チンハイは、ローマ教皇への返書のラテン語訳を任されたが、プラノ・カルビニに同行した司祭が、ローマ・カトリックがキリスト教の唯一正当な形態であると言ったことに対し、「高慢」であると書き加えたらしい。
また、グユク・ハーンの命令によりバグダード攻撃を計画していたモンゴル人の将軍は、イスラム勢力の目を欺くためフランス王ルイ9世指揮下の十字軍をエジプトに侵攻させようと画策し手紙を送った。そこには「十字架に敵対する敵に対してキリスト教徒の軍が勝利するよう神に祈る」「(カトリック派に限らず)全ての十字架の信仰者は、神の目とモンゴル皇帝の目から見て1つである」と書かれていた。
この手紙を運んだネストリウス派キリスト教徒は、ルイ9世に、「グユク・ハーンはプレスター・ジョンの孫であり、キリスト教徒である。十字軍がエルサレムを奪還するのを手助けしたいと望んでいる」と報告した。

 

4)ウィリアム・ルブルク
ルイ9世の返書はドミニコ会修道士アンドレがモンゴルに届けたが、既にグユク・ハーンは死去していた。代わりに王妃が返書を書いたが、その内容にはキリスト教徒と十字軍への支援について一切触れられておらず、モンゴル帝国への貢物の要求だけだった。
しかしアンドレの報告にあった、中央アジアのゲルマン人奴隷の話は、ルイ9世の宮廷にいたフランシスコ会修道士ウィリアム・ルブルクに刺激を与えた。ルブルクは中央アジアのモンゴル人に、ローマ・カトリックを布教する事を決心した。
1253年、皇帝
モンケ・ハーンのカラコルムの宮廷で、アルメニア派修道士の元に身を寄せていたルブルクは、早速宮廷内の各宗派の権力争いに巻き込まれた。
イスラム教徒を敵視していたアルメニア派修道士はイスラム教徒と度々口論になったばかりか、ルブルクが持参したルイ9世の紹介状を勝手に書き換えて翻訳し、イスラム教徒に対する戦争に参加するよう促す内容に変えていた。
モンケ・ハーンは典型的なモンゴルのやり方に従い、各宗派がどのような力を示すのかという視点から、各宗派を平等に扱っていた。(モンゴル帝国の宗教政策については後述)
ルブルクはモンケ・ハーンがどの宗派も信仰していない事を悟った。ルブルクは外交目的でなく、権力争いでもなく、ただハーンが望まれるならば神の言葉を述べ伝えるために拝謁したのだと説明したが、モンゴル人達は神の言葉を単なる「予言」と受け止めているようだった。
モンケ・ハーンは、グユク・ハーンと同様、各宗派を討論会で対決させる事を楽しんでいた。ある時、ルブルクは、ネストリウス派、イスラム教徒、仏教徒を論破しその面目を失わせたが、ローマ・カトリックに改宗する者は一人もいなかったと述べている。
モンケ・ハーンは、ルブルクとの最後の会見において、このように述べた。「我々モンゴル人は神はただ一人であり、神を通して我々は生き、死に、そして神に向って我々の心を向けるのだと信じている。しかし、ちょうど神が人間の手に多くの指を備えられたように、神は人間にいくつもの道を与えられた。神は汝らに聖書を与えたが、汝らキリスト教徒はそのことに気が付いていない。」そして、ルブルクは当てはまらないと前置きしたうえで、キリスト教徒は不和をもたらし、強欲であると非難した。
後にモンケ・ハーンは仏教への傾倒を示すようになった。

 

5)モンゴルとの同盟とイスラム勢力の反撃
その頃、中東では、モンケ・ハーンの弟、
フラグがバグダード(アッバース朝)とエジプト、シリア(マムルーク朝)への侵攻を開始しようとしていた。フラグの妻と副官キトブカがキリスト教徒であることから、キリスト教国とモンゴル帝国の同盟によるイスラム教国攻撃の機運が高まった。
キリキアのアルメニア王は、キリスト教徒の保護とエルサレムのキリスト教徒への帰属を条件に、兵士をモンゴル軍に提供した。
バグダード占領時には、カリフを始めとするイスラム教徒は虐殺され、キリスト教徒は難を逃れた。フラグはネストリウス派総主教の為に宮殿を提供し、聖堂を建てた。
1260年、フラグの軍はシリアに侵入し、アレッポを落した。ところがそこにモンケ・ハーン死去の知らせが届き、フラグは兄フビライを後継者として支援するため、キトブカに後事を託して本隊は帰国の途についた。
これはモンゴル軍に備えてその戦術を研究していたマムルーク朝にとって絶好の機会となり、モンゴル軍に降るのを良しとしないアッコーの十字軍の協力もあり、マムルーク朝軍はアッコーで休息を取った上で、ダマスカスを落したキトブカの軍とアイン=ジャールートで衝突し、大勝利を収めた。
以降マムルーク朝の
バイバルスは、イスラム教に改宗したモンゴル帝国の構成国であるキプチャク・ハン国(ロシア西部、ウクライナ、カザフスタン)と同盟を結び、フラグをけん制した。
一方フラグはイラン、イラクを領有して
イル・ハン国を建国し、ビザンチン帝国やローマ教皇に軍事援助を求め、シリア及びエジプト侵攻を試みたが事態は膠着した。

 

6)プレスター・ジョンの王国へ
モンゴルの新しい皇帝、
フビライ・ハーンもまた、利用しうる限りにおいて各宗派を平等に扱っていた。
ただし中国(南宋)の占領に成功したものの中国人には不信感を抱いており、道教や儒教を抑圧した。その為、中国に支援基盤のない外国人の宗教、イスラム教、仏教、キリスト教、ユダヤ教、特にイスラム教に傾いていた。
ところが20年もの間、財務大臣として権勢をふるったイスラム教徒のアフマド・ファナーカティーの巨額の不正蓄財が暴露されると、イスラム教徒も制限を受けるようになった。
1274年にローマ教皇の親書を持ってモンゴル宮廷に到着したヴェネツィアの商人マルコ・ポーロがフビライ・ハーンの寵愛を受けたとの説もあるが、歴史的な証拠はない。
マルコ・ポーロは「東方見聞録」の中で、プレスター・ジョンは、モンゴル高原中北部のケレイト部族のワン・ハーン(トオリル)だとし、チンギス・ハーンとの戦いの様子を記している。ワン・ハーンはテムジン(チンギス・ハーン)の父と親しく、後にテムジンの盟友として他部族を次々と平らげたが、テムジンの宿敵ジャムカを匿った事から戦いとなり敗れた。
また、「東方見聞録」では内モンゴル陰山山脈北側の
オングート部族がプレスター・ジョンであり、モンゴル宮廷への旅の途中でその領域を通過したと書いている(オングート部族については後述)。
両部族ともネストリウス派キリスト教徒であることから、プレスター・ジョンと見なしていると思われる。ここでのプレスター・ジョンはもはやイスラム教徒を共に討つ同盟国ではなく、単なるモンゴル帝国内の一王国に過ぎない。

 

7)モンテ・コルビノとその後
フランシスコ会修道士、モンテ・コルビノはモンゴル帝国の東部(元王朝)で、めざましい成功を遂げた。
モンテ・コルビノが大都(北京)のモンゴル宮廷に達したのは、フビライ・ハーン死後の1294年で
テムル・ハーンの治世だった。
コルビノはほとんど単独で、1万人をローマ・カトリックに改宗させた。ただしそれはほとんどが他教徒からの改宗ではなく、キリスト教内の多宗派(ネストリウス派、アルメニア派、ギリシャ正教など)からの改宗者だった。
また、コルビノは、モンゴル帝国の帝室に近いオングート王ゲオルギスとその家臣を改宗させる事に成功した。コルビノは、彼に協力する僧侶があと2,3人もいれば、モンゴル皇帝を改宗させることもできたであろうと述べている。
しかし彼の布教活動は、ネストリウス派の妨害にさらされ、何度も窮地に立たされた。命を失いかねない事もあった。
彼の中国での活動を知ったローマ教皇は、彼をカンバリク(大都=北京)の大司教、東洋の総主教に任命した。彼は40年間布教を続け、中国で死去した。
コルビノの死後、彼の宗徒である大都のアラン族は、彼に代わる後継者を派遣してくれるよう、ローマ教皇に求めた。それはモンゴル帝国内でネストリウス派僧侶に対抗して勢力を維持するために必要な事だった。
後継者ではなかったが、教皇使節マリニョーリのヨアネスが大都を訪れた。彼は旅の途中で、モンゴル帝国の西側がイスラム教化され、キリスト教徒が迫害される光景を見た。また大都において、他教徒との栄誉ある討論を行い、ローマ・カトリックが偶像崇拝に近い行いをしていると非難されたと述べている。
ヨアネスは帰国後、モンゴル皇帝からローマ教皇に宛てた、フランシスコ会修道士をもっと派遣するようにとの親書を伝えた。しかしヨーロッパでは黒死病(ペスト)が大流行し始め、結局派遣されることはなく、中国のローマ・カトリックは14世紀には消滅した。
中国での布教は、16世紀の大航海時代、フランシスコ・ザビエルが果たせなかった中国布教の遺志を継いだアレッサンドロ・ヴァリニャーノの派遣を待たねばならなかった。

 

2.ネストリウス派について
1)発端
宗教においては度々、自分たちが何を信じているのか?それをどう表現すべきか?それは何を意味しているのか?という問題に直面し、それを明確化する必要が生じてくる。
初期キリスト教においても同様で、一番の問題は、キリストの本質は神か人か、という事であった。
特徴的なのは、それが異なった地域を基盤とした高位の聖職者(権力者)が異なった解釈を持ち、覇権をかけて争う、という状況だった。
アンティオキア学派は、キリストの人格の中には、2つの異なったペルソナ、人としてのものと神としてのものが共存するという「キリスト両性説」を唱えた。
アレキサンドリア学派は、キリストは人の姿を取って生きた神であるという「キリスト単性説」を唱えた。
5世紀のコンスタンティノープルの総主教
ネストリウスは「キリスト両性説」を支持し、アレキサンドリアの総主教キュリロスはこれに反発した。
時のビザンチン帝国皇帝テオドシウス2世は個人的にネストリウスを好感していたが、皇帝に大きな影響力を持っていた姉のプルケリアはネストリウスに反感を持っていた。キュリロスはこれを利用し、反ネストリウスを宣伝させた。
431年、
エフェソス宗教会議が開かれたが、その議長がキュリロスに決まった時点で争いの決着は着いていた。「両性説」は異端とされ、皇帝はキュリロスを支援しネストリウスは追放された。
しかし「両性説」は帝国東部では大きな影響力を持っており、これらの地域はローマ教会から離れ
東方教会を設立、ササン朝ペルシア帝国の首都クテシフォンに首座を置き、ビザンチン帝国の権威を否定した。
その後「両性説」と「単性説」の和解を図り、数回の宗教会議が開かれたが、結局和解はならなかった。
『ネストリウス派における大きな問題は、神が人間の姿を取って生きるということは何を意味するのかという点であろう。なぜなら、彼らは次のようにも述べているからである。「もし何者かが、苦しみや変化が神の本質に含まれると考え、そう教えたとすれば、また、もしもわれらの主の位格(ペルソナ)の結合について語るときに、主は完全な神でありかつ完全な人であると告白しないならば、彼は破門されねばならない」。』
その後の宗教会議を経て、ペルシアでの「単性説」論者は控えめになり、アジアでは「両性説」が公式の教義になった。

 

2)ペルシアでの状況
5世紀のササン朝ペルシア帝国において、ネストリウス派は決して安泰というわけではなかった。
ササン朝の国教は
ゾロアスター教であり、ネストリウス派に限らずキリスト教、ユダヤ教、マニ教は「人々にただ一つの神を崇めるように教え、太陽や火に敬意を払う事を教えない」として度々弾圧の対象になった。
それでも7世紀や11世紀当時の人の記述の中には、ネストリウス派が中東においてかなりの勢力を持っていることを示しているものがある。

 

3)中央アジアへの伝播
ソグディアナ(サマルカンドを中心都市とする現在のウズベキスタンとタジキスタンの一部)出身の
ソグド人は、中央アジアにネストリウス派を広めるのに貢献した。
ソグディアナはシルクロードの中継地点であり、東洋と西洋のあらゆるものが通過した。その為ソグド人商人はシルクロードを活発に往来する事になった。
また、ソグディアナは政治的文化的中心地から遠く離れているため、その権力が及びにくく、特定の宗教に支配される事もなかった。
結果的に中東でネストリウス派に感化され改宗したソグド人商人は、それを中央アジアや中国に広める役割を果たした。

 

4)テュルク人、モンゴル人への布教
テュルク系遊牧民に最初にネストリウス派キリスト教を布教したのは、6世紀のササン朝のペルシャ人聖職者であった。彼はテュルク語を覚え、アルファベットをもとにテュルク語を文字で表記する方法を考えてテュルク人に教えた。またソグド人聖職者が布教に貢献した事は十分考えられる。
テュルク人やモンゴル人固有の宗教はシャーマニズム的であり、狩猟、収穫、治療など実際的な成果をシャーマンを通じて求めるものであった。恐らくネストリウス派の布教も、シャーマンの手法を用いたものと思われる。
7世紀には、十字架の力によって雷雨を止めた事に感動したテュルク人の王が家臣と共に改宗した事が伝えられている。
また、8世紀にもテュルク人の王が家臣と共に改宗した事が伝えられており、この時はネストリウス派の主教座が中央アジアに設けられた。
11世紀にも20万人ものテュルク人やモンゴル人が改宗したことが伝えられている。
12世紀にはモンゴル系の西遼(カラ=キタイ)がネストリウス派を保護していた。中央アジアの遊牧民の間では、ネストリウス派は主要な宗教になりつつあった。
彼らが改宗した理由ははっきりしないが、シャーマニズム的な力と、ネストリウス派のシルクロード商人から得る様々な利益を重視した可能性がある。

 

5)中国への伝播
中華文明は東洋においては唯一最古の文明であり、周辺地域から得るものは何もなかった。従って外国から流入するものに対して比較的無関心であった。
しかし7世紀以降の
唐朝初中期においては、外国の文物に関心を引かれる皇帝が現れ、人や物が流入するようになった。
ネストリウス派もこの頃ソグド人、ペルシャ人商人や聖職者によって中国にもたらされた。皇帝から布教を認められたが、中国人改宗者がどれほどいたのかはわからない。一般的には、ネストリウス派教徒は中国内の外国人共同体の範疇に収まっていたと思われる。
ネストリウス派に限らず、外来宗教はその実用面、ネストリウス派であれば天文学と医学の知識から価値を見出されていたようである。
8世紀の皇帝、玄宗は外来物に対し熱心であったが、9世紀の武宗は外国に対する警戒から、道教を保護し外来宗教を非合法化した。
10世紀には、中国にネストリウス派信徒を見つける事ができなかったとの記録がある。

 

6)イスラム教の台頭とモンゴルの支配
7世紀に発生したイスラム教は、8世紀半ばにはシルクロードの西半分を支配するまでになった。
イスラム商人が交易の主導権を握るにつれ、中央アジアでもイスラム教に改宗する国家が増え、11世紀にはシルクロード交易をほぼ掌握していた。
しかしその周辺地域、草原の遊牧民の間ではネストリウス派はまだ大きな勢力を持っていた。
12世紀前半、中央アジアに建国したモンゴル系の西遼(カラ=キタイ)はネストリウス派を保護した為、イスラム教の勢いは後退した。
その後、13世紀にはネストリウス派信徒を多く持つモンゴル帝国がユーラシア大陸の大部分を占領し、イスラム勢力は大幅に後退した。
モンゴル帝国の支配のもと、様々な宗教が布教を認められ勢力の拡大を競い合う時代が到来した。
ネストリウス派もその争いに巻き込まれていた。ローマ・カトリック派が西欧からモンゴルへ改宗と布教の使節を送ったのと同様、ネストリウス派の
パール・サウマとマルコスもモンゴルから西欧に向けて旅をしたのである。

 

7)衰退
14世紀になると、モンゴル帝国の西半分では、交易による利益に関心がある王族は、交易と税務と財務に長けているイスラム商人を援助するようになり、やがて彼ら自身もイスラム教に改宗していった。
また一部の王族は、イスラム教徒による他教徒の虐殺を支援した。一説ではネストリウス派は14世紀後半に
ティムールにより絶滅させられた。
中央アジアでは、イスラム教徒の上流階級の地位が固定化し、経済的にも指導的立場になった。
このような状況の中で、ネストリウス派信徒は激減していったと思われる。
また、モンゴル帝国の東半分(
元朝)では、次第にチベット仏教が有力になり、諸部族も改宗するようになった。
14世紀後半に元朝が
明朝に追放され、元朝の支援を受けていた中国のネストリウス派は、新しい明朝のもとではむしろ敵対視されたようである。
一方北に逃れた諸部族もチベット仏教が支配的で、ネストリウス派の部族は減少していったと思われる。

 

8)現代
20世紀初頭、中国のオルドス地方(内モンゴル自治区南部の一部)のエラクト族などにキリスト教の行為の痕跡の可能性が報告された。
ネストリウス派は、
アッシリア東方教会として、中東、米国で活動している。1980年の統計では約17万6700人。

 

3.モンゴル帝国の宗教政策について
モンゴル人は実際的な民族であった。その関心は食料の獲得、戦闘での勝利、健康の維持など日常的な要求であり、それを霊的にかなえる実用性が宗教に求められていた。
モンゴル人固有の神は唯一至高の神、天空神テングリであり、シャーマンが神と霊的に交信して要求をかなえようとするものである。
宗教に求めるものは実用性である為、当座の要求がかなうのであればどのような宗教でもかまわなかった。その宗教が役に立たないと証明されるまでは、その宗教は有用なものとして、他の宗教と平等に扱われた。
マルコ・ポーロの東方見聞録に、皇帝フビライ・ハーンの言葉が引用されている。
「礼拝され、全世界で崇拝されている予言者は4人いる。キリスト教徒は神とはイエス・キリストだという。イスラム教徒はムハンマドだと、ユダヤ人はモーセだと、仏教徒はそれは初めて神を偶像の姿で現したシャカムニだという。私はこの四者をともに崇敬し、崇拝する。それによって私は天においてもっとも偉大でもっとも真実な者に間違いなく敬意と崇拝を送り、それに助けを祈ることができる。」

 

またモンゴル人は、宗教を特定の共同体に固有のものとして認識していた。共同体が違えば宗教も違って当然という考え方である。
モンゴルの支配地域が広がるにつれ、自分たちの支配は正当であると住民から見なされなければならないと考えるようになった。
その為には、その土地の宗教指導者と良好な関係を築くことが有効であると考えた。住民にとっての救いとは、自分たちの信じたい宗教を信じる事だと考えた。
だから改宗を強いたり宗教を弾圧するどころか、宗教指導者に対しては税を免除する事にした。
皇帝モンケ・ハーンは、フランシスコ会修道士ルブルクとの最後の会見において、このように述べた。
「我々モンゴル人は神はただ一人であり、神を通して我々は生き、死に、そして神に向って我々の心を向けるのだと信じている。しかし、ちょうど神が人間の手に多くの指を備えられたように、神は人間にいくつもの道を与えられた。神は汝らに聖書を与えたが、汝らキリスト教徒はそのことに気が付いていない。」
そして、ルブルクは当てはまらないと前置きしたうえで、キリスト教徒は不和をもたらし、強欲であると非難した。

 

モンゴルの皇帝は、宗教間の対立を防ぐ為に努力した。様々な宗教間のバランスをとり、可能な範囲で各々が自分の信仰を保つことができるようにするものだった。
しかし各々の宗教指導者は、自分たちは他の宗教の指導者よりも優れており、それに対抗しても責任を問われないと考えたため、この政策はうまくいかず、結果的に多くの争い、流血さえももたらした。
また、実際にはモンゴル人は各々の宗教を平等に取り扱う事はできなかった。
『「クルアーン」が述べている事と類似している。「あなた達は(あなた達の)妻たちを公平に扱う事はできないだろう。たとえ(そうしようと)望んでも」(4.129)』。
モンゴル人の特定の宗教への偏愛は、その宗教を増長させ、他の宗教の怒りを呼び起こしてしまった。
最終的に、モンゴル帝国の西側はイスラム教に、東側はチベット仏教に帰依する事になった。

引用・参考文献
書名   :完訳東方見聞録 1                                                    
シリーズ :平凡社ライブラリー 326                                             
著者名  :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注                                  
出版者  :平凡社

書名   :シルクロードの宗教                                                    
副題   :古代から15世紀までの通商と文化交流
著者名  :R.C.フォルツ/著 , 常塚聴/訳                                  
出版者  :教文館

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年4月 | トップページ | 2017年6月 »