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2017年4月

銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その4(銀川~鳥海~バヤンノール~パオトウ)

これから黄河沿いを北上して内蒙古自治区のパオトウに向かう。

銀川を去る前に、ラクダの毛布を入手できないか、Bさんに聞いてみた。
それは、「東方見聞録」に以下の記述があるからである。
「カラチャン市(銀川)ではラクダの毛で駝毛布を織造しているが、その品質の良さは世界に類がない。
白い駝毛を使った白駝毛布は特に上等で見事な品である。
しかもこれら駝毛布の生産は莫大な量に上がっており、商人の手を経て世界の各地、特にカタイ国(中国北部)に多く搬出されている。」
やはり前回と同様、銀川では見かけないが、内蒙古自治区でなら心当たりがあると言う。
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15:05、黄河を渡る。
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16:00、鳥石高速道分岐を通過。
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16:10、黄河を渡る。
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16:15、鳥海(ウーハイ)市海南区老石担分岐通過。
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16:30、鳥海市海勃湾区通過。鉱山のようなものが見える。
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16:36、鳥海到着。トイレ休憩toilet。少し下痢気味。昼食または氷点下の寒さが原因か?16:54出発。

17:02、鳥海北通過。遠くに山並みが見える。
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17:30、巴位贡分岐通過、沿黄公路に入る。周囲は荒れ地が続く。
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17:35、バヤンノール市黄河大橋を渡る。川幅の広さに圧倒されるcoldsweats02
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17:38、バヤンノール市磴口区分岐通過。
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17:52、薄暗くなり走行中の撮影終了。

18:17、バヤンノール市臨河区通過。

18:38、夕食休憩restaurant
烩酢菜と呼ばれる、豚肉とじゃがいもと塩に漬けたキャベツの煮物、肉と木の実と野菜の炒め物、キュウリと豚肉ときくらげの炒め物。
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19:46、出発。荒地、畑、林が続く。

20:04、刈沼分岐通過。

20:36、鳥位山通過。

20:50、公届子通過。

21:10、白彦花通過。

21:25、哈徳口通過。
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21:32、包鋼、都市の光が見えるhappy02

21:50、
パオトウ中心地の鋼鉄通り(鋼鉄大街)に入る。
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パオトウ(包頭)市は中国の地方行政単位としては上から2番目の地級市になる。
中国の地方行政単位の最上位は省、自治区、直轄市、特別行政区、2番目は地級市、地区、自治州、盟、3番目は市轄区、県級市、県、旗、特区、林区、4番目は県轄区、街道、鎮、郷、ソム、5番目は村、社区になっており、同じ市、区と言っても権限が異なっている。

パオトウは清朝中期に村落ができた比較的新しい町で、20世紀後半に周恩来首相が街づくりを命令した。
市の名称はモンゴル語で「鹿のいる場所」を意味するところから、中国語では「鹿城」とも称されたが、他にも諸説がある。
市区は東河、青山、昆都侖、九原の4つの区に分かれ,建設路と鋼鉄大街で繋がっている。
バヤン鉱区
のバイヤンオボ(白雲鄂博)では鉄鋼、レア・アースを豊富に産する。その為、鉄鋼業が盛んな工業都市であり、その中心は包頭製鋼所である。
民族は、モンゴル族、漢族、回族、満州族が居住している。


パオトウ周辺の各時代の支配国は以下の通り。
紀元前4~3世紀(戦国時代):趙
紀元前3世紀:秦
紀元前2~1世紀:前漢
1~3世紀:後漢
4~6世紀(五胡十六国、南北朝):鮮卑(モンゴル系?)系王朝、匈奴系王朝
7世紀:突厥(テュルク系)
7~9世紀:唐(モンゴル系?)
10世紀:契丹・遼(モンゴル系?)
11~12世紀:西夏(チベット系)
13~14世紀:モンゴル、元
14~16世紀:明
17~19世紀:清(ツングース系)
20世紀:中華民国、中華人民共和国

22:00、天外天大酒店に到着。
明日は朝食は7:00~、出発は8:00の予定。
部屋に入るとTシャツと靴下だけ洗濯。あとは荷物の整理と明日着るものの準備。この時期の平均最高気温は-5度、平均最低気温は-18度で、風typhoonが吹けば体感温度は更に下がる。服装には要注意だsign01
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ようやく長い一日が終わったconfident
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引用資料:

ウィキペディア

書名   :完訳東方見聞録 1                                                    
シリーズ :平凡社ライブラリー 326                                             
著者名  :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注                                  
出版者  :平凡社

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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その3(銀川・排寺口双塔)

13:39、排寺口双塔に着きました。

ここは13世紀の
西夏王国の王室寺院遺跡群がある場所だ。
中に入ると、乾燥した厳しい寒気と少ない観光客のせいだろうか、時間が凍り付いて止まってしまったように感じられる。

1227年7月12日、西夏の狡猾さを憎んでいたannoy
チンギス・ハーンは、臨終の床で「西夏を地上から消し去れ」という遺言を残して死んだ。同年7月28日、遺言は実行され、西夏の軍民は殺され、建築物、文物も破壊された。その為、西夏王国は長年謎の王国とされ、西夏文字の解明が始まったのも近代になってからだ。ここ拝寺口で破壊を免れたのは東塔と西塔の二つの塔、双塔だけだった。
西夏はチンギス・ハーンに苦しめられ続けてきた。その為モンゴルへの従属をやめ、隣国金や南宋との連合を模索した。またモンゴルに決戦を挑んだこともあった。チンギス・ハーンから見れば狡猾に見えたのだろう。結局は西夏は哀れな最後を迎える事になってしまったweep
時間の止まった、静かなこの場所で、風も吹いていないのに塔の風鐸のチリーンという美しい音がかすかに響き渡る。今は亡き西夏の人々が何かを伝えようとしているようにも思えた。

双塔の一つ、
西塔

Dsc00544aDsc00545a入り口に向かう。Dsc00546a双塔の一つ、東塔Dsc00547a西塔。Dsc00548a
以下、カッコ内は、現地の説明板の記載内容である。
西夏石器
「ここでは展示された古代ローラー、石臼、石ミル、柱礎などは全部双塔の遺跡から発掘されたものである。現地の石材で製造されたものであり、当時寺院の僧侶が生活、生産した証拠である。」
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拝寺口方塔柱
「これは拝寺口西夏方塔から出土された塔心柱である。方塔は拝寺口に位置する。西夏大安二年(1075年)に創建された。方形13層の密櫓式碑塔である。1990年11月犯罪者に破壊された。1991年8月方塔の廃墟を片付けた際、多くの小泥塔、成形土仏及び数十種類の西夏文、漢文の仏経、文書など貴重な文物が出土された。寧夏の考古学者の牛建生氏の研究により、その中に、西夏文仏経の「吉祥辺至口和本続」は世界で最初の木活字印刷品であり、「本世紀印刷史で最重大な発現の一つである」と認められたので、拝寺口方塔は有名になってきた。この塔心柱も貴重な歴史文物として保存され、観光客が見学できる。」
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寺院建築遺跡と柱礎
「地面の建築遺跡の面積は300㎡あり、当時寺院の大型建築の遺跡である。地面に残った不完全石器は柱礎と称されている。古代の大型建築の柱を安定させる部材である。同じような石器は拝寺口のほかの場所でも多く発見された。当時寺院が立ち並び、建築雄大だと考えられる。」
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東塔
「八角形十三層の密櫓式の碑塔である。塔内は空の筒円錐型になり、塔底層の高さは5.7メートル、辺長は2.9メートル、直径は7.6メートル、総高さは39メートルである。塔体は直線錐体になって、まっすぐで力が強い。毎層の腰ひさしはコーベル式である。塔頂は「十三天」であり、第三層より上の各層の各面には二体ずつ獣面を飾っている。獣面は怒って目を剥く、猛威を振るって怖い。獣面の間には彩色上絵の雲托日月があり、塔壁の曲がり角のところには宝珠炎の柄が飾っている。構図が奇特で、独特な古塔飾り風格である。」

東塔の入り口。
上方には二体ずつの獣面、雲托日月、宝珠炎が見られる。
Dsc00557a中には仏像がある。塔の上に上がることはできない。Dsc00556a遠くからはわからなかった色とりどりの彩色が見られる。無数の風鐸が飾られている。Dsc00558a風鐸がえもいわれぬ音を奏でている。Dsc00559a
西夏煉瓦
「拝寺口双塔の周りの台地には寺院建築遺跡が多くあり、地表に西夏煉瓦及び様々な建築部材がどこにも見える。双塔塔院から出土された最大の西夏方碑は辺長が45センチ、最長のスレートは長さが40センチである。昔寺院建築の雄大さはわかるようになった。西夏煉瓦は品質が優れ、叩くと石のような音が出る。印鑑と硯の制作者はこれを奇妙な材料だと称される。瑠璃瓦は西夏王室寺院の独特な物である。千年でも鮮やかで、焼制工芝は優れた証拠である。」
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西塔
「壁が厚く、中空の八角形十三層の密櫓式の碑塔である。塔底面の高さは5.7メートル、辺長は3.2メートル、直径は8.4メートル、総高さは41メートルである。毎層の腰ひさしはコーベル式である。塔頂刹座の曲がり角に煉瓦式の角神像が飾られている。角神像は裸で、蓮花座を背負って、上には「十三天」の刹頂である。第ニ層より上の各層の各面には仏龕が飾られている。第三層から第六層までの仏龕には羅漢像が飾っているが、羅漢像は座っていたり、立っていたり、瀟酒飄飄で、いい顔をしている。第七層から第十一層までの仏龕には護法神像を飾っている。護法神像は項挂瓔珞、法器を持っている。毎層の仏像の両側には一体ずつ獣面を飾っている。獣面は威厳獰である。曲がり角のところには宝珠炎あるいは雲托日月の柄を飾っている。」

仏龕の中には羅漢像があり、その両面に獣面が飾られている。曲がり角に宝珠炎あるいは雲托日月がある。
Dsc00564a一層目の仏龕の中には剥がされたのか、何もない。両面に獣面が飾られている。曲がり角に宝珠炎がある。Dsc00565a西塔の入り口。Dsc00567a
塔の前の祠
「創建された由来はわからないが、祠と双塔は同じ時代で、一体の仏像を祭った事があるが、「文化大革命」の時に壊されたと山村の老人が話したが、この形および瓦当柄により、清代に建てられたものらしいである。祠の門は双塔に向って、距離は三歩ほどしかない、本当に珍しい。何のルールか、まだ分からない。」
Dsc00569a祠の中の仏像。Dsc00566aDsc00570a
タリン遺跡
「1999年に、ここで10列62座ラマ式ソリッド碑塔ベースを発掘し、多くの小泥塔及び成形の小泥仏、舎利子などの貴重な文物が出土された。研究により、ここは拝寺口タリン遺跡であり、多くの寺院僧侶葬骨の所である。タリンの形は大体同じであり、高さには差がある。表面には石灰でコーティングし、シェンナ柄を描いている。修築された跡がある。当時拝寺口では寺院、塔刹が立ち並んだ繁栄光景が分かるようになる。」
Dsc00572a上方の拝殿に向かう。Dsc00578aDsc00573a中には仏像三体が祀られている。Dsc00574a
上方より東塔と西塔を眺める。全くの静寂。この光景は永遠に変わらないのではないかとも思えてくるconfidentDsc00576a西塔Dsc00579a東塔Dsc00580a周辺の景色。
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考古探方
「考古発掘用ものである。探方の下は煉瓦敷き床であり、寺院排水溝遺跡がある。地面には多くの煉瓦が堆積して、黒い灰土層にカバーされている。寺院は火事で破壊されたと認められる。1227年チンギス・ハーンが西夏を滅亡したときに破壊されたと推測している。黒土の上には洪水により形成された砂利層がある。寺院は破壊されて八百七十年間を経た。廃墟は一メートルほどの砂利に埋められた。」
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西夏寺院の石ローラー
「石ローラーは長さが0.55メートル、直径が0.45メートル、ひき櫓の幅が0.7メートルである。砂岩である。双塔の塔院から出土された。西夏寺院の僧侶が米を作る用である。拝寺口は百寺口とも言える。寺院も僧侶も多く、斎飯用食料などは宮廷大法会及び民間から貰うほかに、寺院の水田も植えられる。当時寺院が盛んで、信者が多くとも考えられる。」
Dsc00587a西塔。観光客が若干現れた。Dsc00589a付近は荒れているが、遺構だと思われる。Dsc00590a
14:30出発。パオトウへ。


参考文献:
書名   :沙漠に消えた西夏王国                                                 
副書名  :シルクロードの風音
著者名  :齊藤進/著                                                            
出版者  :文芸社

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