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2012年1月

シルクロード河西回廊・寧夏旅行~その5(酒泉・概要と西漢勝跡)

18:18、酒泉に入った。
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Cさんによると酒泉は人口25万、農業が盛んで小麦・とうもろこしを産出する。
人口の98%が漢族である(以上、酒泉市のどの部分をさしているのか不明)。

その歴史はおおよそ以下の通り。
紀元前3世紀まで西羌(チベット系)の支配下、
紀元前2世紀初まで烏孫(トルコ系)、月氏(イラン系?)、匈奴(民族系統不明)、
3世紀まで前漢、後漢、魏、西晋、
5世紀前半まで前涼、前秦(チベット系)、後涼(チベット系)、西涼、北涼(民族系統不明)、
7世紀初まで北魏(モンゴル系)、西魏(モンゴル系)、北周(モンゴル系)、隋、
8世紀まで唐、
10世紀まで吐蕃(チベット系)、ウイグル(トルコ系)、
13世紀前半まで西夏(チベット系)、
13世紀後半以降モンゴル、元(モンゴル系)、明、清(ツングース系)、中華民国、現代中国。※民族系統名がない国は漢族。

東方見聞録にはこう書かれている。
「(敦煌から)十日行程を終えるとスチュー(粛州)という地方に達する。
この地方には都市・集落が多く、首府を同じくスチューという。
住民は偶像教徒とキリスト教徒から成り、カーンに隷属している。
・・・境内の山々には至る所にダイオウが多量に繁生する。
商人はこの地に来たってこれを買い集め、全世界にそれを販売するのである。
ただしこれらの山々には、誤ってそれを食らおうものなら蹄が落ちるという猛毒の草が生えており、土地育ちの動物だけが良くこれを心得てその被害を避けることができるものだから、この地を通過する旅行者は、必ず現地産の駄獣を使用してでなければ、この山々を越すことはできない。
住民は農耕を生業とし、貿易に従事する者はまれである。
この国では、至る所が健康地である。
土人は黒味がかった肌をしている。」

酒泉はかつて粛州と言われ、甘粛省の粛は酒泉を表している。
Cさんによると最近はマンションがたくさん建てられているそうだ。
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ひときわ目立つこの建物は何だったのだろうか?
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ホテル宏興国際大酒店着。
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部屋の中。
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バスとトイレ。
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19:00、甘粛省名物の牛肉面を食べに行く。
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辛いラー油がたっぷり入っていてこれは食えるかなあと思ったが、だましだまし何とか完食。なぜかスープはそれほど辛くなくおいしかった。
他にも5皿料理が来たが、ほとんど辛くて食べられなかった。
唯一食べられたのが辛くない卵とトマトの炒め物でこればっかり食べていた。
Cさんは「甘粛省の料理はどれも辛いよ。大丈夫か」といいつつ体中から汗を噴出しながらおいしそうに食べていた。
私はビール1本半飲んでもう腹一杯。
運転手のDさんがビールを平然と飲むのには少し驚いた。
ホテルに戻って下着、靴下、シャツを洗濯すると何となく眠くなり、少し横になるといつの間にか眠ってしまった。


三日目:
夜中から早朝にかけて、2時、3時、4時と目が覚めた。
最終的に5:57にようやく起床。
朝食は部屋に運ばれてくる。8:16に来た。
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8:40、出発。
今日は酒泉の鐘鼓楼、西漢勝跡、酒泉夜行杯廠を観光した後、張掖に向かう途中で駱駝城址と黒水国城堡遺址を観光し、張掖で大仏寺、万寿寺木塔を観光して泊まる。

まず西漢勝跡(酒泉公園)に向かう。
その車中で、東方見聞録の
「境内の山々には至る所にダイオウが多量に繁生する。
商人はこの地に来たってこれを買い集め、全世界にそれを販売するのである。」
という記述について、現在でも酒泉ではダイオウ(大黄)が採れるのかCさんに聞いてみた。酒泉在住のCさんだったらわかるかもしれないと思ったのだ。
Cさんの答えは、大黄は今は酒泉では採れない。しかし明後日向かう武威の山奥に行けば採れるだろうとの事だった。
もし酒泉で手に入るならばみやげに買っていこうと考えていただけに、残念な答えだった。

8:50、西漢勝跡に着いた。
ここは酒泉の名の由来になった泉のある公園。
西漢勝跡という名前からして、西漢(前漢)が勝利した事を記念する公園なのだろう。
公園内に入ると、地面に点々と前漢の武帝(紀元前156年~紀元前87年)の功績が書かれた石がはめ込まれている。
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Cさんがそれを見て一つ一つ説明してくれた。
武帝は前漢の第7代皇帝で、当時苦杯をなめさせられ続けた北方の異民族匈奴を討伐し、河西回廊を漢族のものとした人。
この街の98%を占める漢族にとって武帝はヒーローなのだろう。
河西回廊を勝ち取った後、武帝はここ酒泉に郡(直轄地)を置いた。
続いて河西回廊の四郡(敦煌、酒泉、張掖、武威)をそれぞれ図案化したような石がはめ込まれた場所がある。

公園内の大木。
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唐の詩人、李白の有名な詩、月下独酌の一部が書かれていた。
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天若不愛酒(天がもし酒を好きでないならば)
酒星不在天(天に酒星はないであろう)
地若不愛酒(地がもし酒を好きでないならば)
地応無酒泉(地に酒泉はないであろう)
この石碑の前でよく記念撮影が行われていた。

酒泉の名の由来になった泉(手前の四角い枠で囲った部分)。
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前漢の将軍、霍去病が匈奴を破った時、武帝は喜び酒を一瓶贈った。
しかしそれだけでは全将兵に行き渡らないのでこの泉に酒を注いだところ、湧き出る水が酒に変わり、全将兵が酒を飲むことができたという。
奥に見える群像は杯を持った霍去病とその将兵たちである。
しかし霍去病はすばらしい将軍だと思いきや、司馬遷の史記によると、武帝から車数十台の食糧をもらったが、飢えた兵士がいるにもかかわらず、凱旋時にはその食糧を捨てたという話が書かれているらしい。
時期によって変わるのだろうか、今日は泉の周りが水浸しで池のようになっている。
ポーロ一行もこの泉の澄んだ水を飲んだだろうか。

公園内には池がある。
緑が多く一見美しい場所だが、残念ながらゴミがたくさん落ちていた。
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池の中の亭榭からだろうか、中国の楽器を奏でる音が聞こえてくる。どうも練習しているようだ。
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9:35、出発。

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シルクロード河西回廊・寧夏旅行~その4(嘉峪関・万里長城第一敦)

南の万里長城第一敦に向かう途中、嘉峪関の3つの楼閣がきれいに建ち並ぶ様を見渡せる場所を通った。思わず写真を撮った。
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万里長城第一敦に着いた。
ここは東から延びてきた明代の長城が
嘉峪関を通り、その南で北大河という渓谷にぶつかる場所だ。
ここが
明代の万里の長城の本当の終点だが、「第一敦」と書かれた石碑と物見台しか見当たらず、終点という感慨はそれほどわいてこない。
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そこで北大河にかかるつり橋を通って対岸に渡ることにする。
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このつり橋は狭くて高度感がありひやひやものだ。
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対岸から今渡ってきたつり橋を眺めたところ。
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対岸には映画かテレビのセットのような場所がある。
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誰かが住んでいる様子はない。
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万里長城第一敦を対岸から見たところ。
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物見台と長城がスパッと切れ落ちていてその先は奈落の底である。
万里の長城が強制終了させられた感がある。
終点であると同時に出発点でもあるため、
第一敦(一番目の物見台)と呼ばれている。

北大河の壮大な眺め。さすがに対岸からここを攻めるのは無理だろう。
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万里長城第一敦のある岸辺に戻ってきた。
ここで驚いたことに地下に案内された。別のビューポイントがあるらしい。
地下に降りていくと何やら得体の知れない鉱物だか植物だかが置いてあり怪しい光に照らされている。
先に進むと岸壁に穿った穴の出口に出る。
ここからの眺めはすばらしいの一言。
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北大河の眺めもさることながら、その背後にある荒涼とした大地・山々もすばらしい。
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先程の映画のセットのようなものも見える。
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そして万里長城第一敦を斜め下から見ることができる。
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このビューポイントの床はガラス張りになっており、多少曇っていて下がよく見えないのが救いだが、恐ろしくて居心地が悪い。
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17:49、酒泉に向け出発。

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シルクロード河西回廊・寧夏旅行~その3(嘉峪関・懸壁長城)

嘉峪関の観光を終え、北7.5キロにある山地に行って懸壁長城を観光する。
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懸壁長城とはまるで城壁を空に引っ掛けたように見える長城のこと。
復元された狭い長城に入ると、山をはうように取り付けられた急角度の長城が目に入った。
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この辺には昔のキャラバンの模型が立ち並んでいる。
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中々リアルにできているので懸壁長城よりこちらに気が向いた。
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懸壁長城。
過去に北京郊外の八達嶺長城に登ったし最初は上まで行くつもりはなかったが、急峻な長城を見ると昔やっていた登山魂がうずき出し、ガイドのCさんも登ろう登ろうと言うので登ってみることにした。

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最大斜度は45度あるそうでさすがに息が切れてきた。
目の前の城楼が終点かと思ったがそこから更に長城は上に続いていた。

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これが本当の終点の城楼。
登ってみると意外と短時間で登れた気になる。

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ここから見る周囲の眺め。
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北は荒地がどこまでも続いている。
他には何もない。

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そして南には嘉峪関につながる長城がどこまでも伸びていた。
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登った甲斐があった。

帰りは来た道を通らずに城楼から山道を降りる。
降りきった場所に先ほどのキャラバンの群像模型があった。
旅の途中でキャラバンに出会ったような気分にさせる。

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これはマルコ・ポーロ一行の像。こんなところでひょっこり出会えるとは。
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こちらは玄奘三蔵。
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一人であの延々と続く荒野を旅したのだから驚きだ。
求法のためには孤独な旅も恐れない決意を感じさせる顔。
16:38、観光を終え出発。

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シルクロード河西回廊・寧夏旅行~その2(北京~蘭州~嘉峪関・嘉峪関城)

二日目:

3:57に目が覚めた。
4時間しか寝ていないが仕方がない。おかげで湯船に浸かることができた。
5:50、レストランに行く。
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久しぶりにおいしいベーコンを食べた。もっと食べたかったが我慢してレストランを出る。

6:05、Bさんに会った。
6:12、出発。今日は飛行機で嘉峪関に行き、
関、万里長城第一敦、懸壁長城を観光して酒泉に泊まる。

空港第二ターミナルビルに着いた。
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チェックインに時間がかかりちょっと焦りだす。
何とか済ませるとBさんと別れて、6:55、セキュリティチェックを受ける。
5分ほどで済んだ。
7:05、嘉峪関行きの便に搭乗。席は今度は後ろから2番目だった。
7:33、離陸。
8:15、機内食。
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ホテルの朝食で腹は満たされていたが目の前にあると何となく食べてしまった。

9:24、蘭州着。
自分は嘉峪関まで行くのでこのまま乗っていれば良いと思っていると降りろといわれる。
搭乗口に着くと11:10離陸と表示されていた。
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一時間以上もの間どうしようかとロビーをうろうろする。
トイレに行ったりみやげ物を見たり。
みやげ物はラクダのぬいぐるみや敦煌の壁画の置物などで、今まで見たことのあるものばかりだった。しかも結構高い。
10:40、再搭乗。乗客の数はかなり減っていた。
11:26、軽食が出た。これも何となく食べてしまった。
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12:18、嘉峪関に到着。
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ガイドのCさんに会う。運転手はDさん。
Cさんによると嘉峪関市は1958年に開発が始まり、人口は13万、祁連山脈の鉄を使った鉄鋼業と観光で成り立っている。
住民は漢族がほとんどで他にはウイグル族がいる。
敦煌から酒泉に向かう途中に位置するが東方見聞録には
「(敦煌から酒泉への)途中は終始して人煙が絶えているから、報告に値するようなことは何もない。」
と書かれているのでポーロ一行の時代には何もなかったのだろう。

飛行場から市街地に向かう道のポプラ並木は製鉄所の下水を使って育てているそうだ。
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12:51、街の食堂で昼食を食べる。
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煮た豚肉とネギをラー油と辛子で炒めた回鍋肉という料理の他、やわらかいタケノコの炒め物と海草と卵のスープが出た。
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13:52出発。

14:10、嘉峪関城を観光する。
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嘉峪関は明代の万里の長城の最西端の関所(城)で「天下第一雄関」と呼ばれる。
明の時代の1372年、常勝将軍といわれた
勝将軍がここに関所を設けたのが始まり。
明は西北方のモンゴル系部族の強勢により西域(タリム盆地)の領有をなしえなかったために西域の東にあるこの地に西方の敵への備えとして設けたのだろう。
何しろここは北は山地、南は岸の切り立った河に挟まれた天然の要害である(これら山地と河は後で見に行く)。
その為か実際は敵に攻められることは少なく、旅人から税金を徴収する場所として機能したそうだ。
ちなみに嘉峪とは美しい谷、別の本によれば美しい峠と書いてある。
だがこの周辺は荒地が広がるばかりだ。

貸し衣装屋。
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昔の鎧を着用できる。残念ながら着た人を見ることはできなかった。
連休とあってか、観光客が多い。
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嘉峪関は内城と外城の二重構造になっているが、外城の近くに九眼泉という泉がある。
昔は九つの泉があったが今は一つしかなく、それが湖のようになっている。
そこを過ぎると外城の東門がある。
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門の額には「天下雄関」と書かれている。
外城に入る。
外城の北辺を城の内側から見たところ。
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外城は北方からの万里の長城がそのまま延びたような形状になっている。
外城の周囲は1100メートルの長さである。
これは孔子を祀った文昌閣だっただろうか。
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これは将軍たちが演芸を楽しんだ舞台。
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いよいよ内城に入る。
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内城の東門は光化門といい、甕城(おうじょう)の形態をなしている。
甕城とは中国の城でよく見られる
正規の城門から外側に方形または円形に出っ張った城壁で、防御用の城門を備えている。
ここに敵を招きいれ、出口を塞いで袋のねずみにする戦法も用いられたそうだ。
内城に入った。
後ろを振り返ると、
光化門の上の楼閣に上がる位置に坂道がついている。
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現在は観光用に階段がついているが、もともとは騎馬が上がれるように階段になっていなかった。
斥候に出た兵士がいち早く楼閣にいる将軍に報告できるように騎乗したまま上がれるようになっていたのだ。
この坂道は内城の西門である柔遠門のそばにも付けられている。
坂道を登って内城の城壁の上に出た。
ここからは内城の内側が良く見える。思っていたよりも広く感じられた。
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内城の城壁の高さは10.7メートル、厚さ8メートル、周囲の長さは740メートルである。
かつてここに兵士200~400名が駐屯していた。
画像奥に見える楼閣は柔遠門と
嘉峪関門。
南辺の城壁を西に向かって歩く。
南に目をやると外城の西南角から万里の長城がはるか南に延びているのが見えた。
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壮大な眺めだ。
これが北大河という大渓谷にぶつかる場所に
万里長城第一敦がある。
ここは後で見に行く。
柔遠門と嘉峪関門が近くに見えてきた。
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内城の南西角付近から南方に延びる万里の長城を見る。
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柔遠門の楼閣を見上げる。
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廊内には絵模様の彫り物があるらしいが中には入れないようだった。
嘉峪関の楼のひとつ。
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画像中央に一個のレンガが置かれているのがわかるだろうか(○印)。
これにまつわる話がある。
嘉峪関の造営を引き受けた易開占という人がレンガ(磚)の使用量は99999枚だと明の役人に報告した。
役人は1枚でも間違えれば易の首を刎ね、人夫には3年の労役を課すと言った。
果たして嘉峪関は完成したがレンガが1枚余ってしまった。
それを城楼の上に置いていたら役人に見つかってしまい、問いただされた。
易は「そのレンガは神様が昨夜城固めの「定城磚」として置くのを夢で見ました。
取り除くと城は壊されてしまいます」と言って難を逃れたという。
この話は当時の設計技術の高さを語るものとしても伝えられる。
嘉峪関の中心、遊撃将軍府の建物群。
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柔遠門の坂道を降りて内城の外に出た。
更に外城の西門、
嘉峪関門を出て振り返ったところ。
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門額に「嘉峪関」と書かれている。
昔、兵士たちが戦いのため城門を出る時に、石を足の下に打ち付けた。
その時雀の鳴き声の様な木霊が返ってくると無事に嘉峪関に戻ってこられると縁起をかついだという。
嘉峪関の外には観光用のラクダが観光客を待っている。
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昔、西から来た旅人は嘉峪関でラクダから馬に乗り換え、東から来た旅人は馬からラクダに乗り換えたという。
そんな事を想像させる光景だ。
嘉峪関の西は荒地が広がっているばかり。
嘉峪関門、柔遠門をくぐって内城に戻る。
画像は
遊撃将軍府の入り口。
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シルクロード河西回廊・寧夏旅行~その1(羽田~上海~北京)

某年5月、中国シルクロードの河西回廊(甘粛省)と寧夏回族自治区の銀川に行ってきました。

一日目:羽田→上海→北京
二日目:北京→蘭州→嘉峪関関、万里長城第一敦、懸壁長城)→酒泉
三日目:酒泉(鐘鼓楼、西漢勝跡、酒泉夜行杯廠)→駱駝址→黒水国城址→張掖(大仏寺、万寿寺木塔)
四日目:張掖→山丹の漢代長城→武威(羅什寺塔、西夏博物館、文廟、雷台)→銀川
五日目:銀川(海宝塔(北塔)、承天寺塔(西塔)、賀蘭山岩画、西夏王陵)→鄭州→上海
六日目:上海→羽田
※国際線で割引航空券を使いたいために行きと帰りを羽田~上海間で運行している同じ航空会社(上海航空)にしたため、このような日程になりました。

今回もマルコ・ポーロ追っかけの旅です。
1270年末にヴェネツィアを発ったポーロ一行は、数年の歳月をかけ中国甘粛省の敦煌に達します。
そこからは北は砂漠、南は祁連山脈に挟まれた河西回廊(敦煌~嘉峪関~
酒泉~張掖~武威~蘭州)と呼ばれる細長いオアシス地帯を東に向かい、黄河に辿り着いて現在の寧夏回族自治区に入りました。
そこからは黄河沿いに北上し、銀川を経て更に黄河沿いに進んで元帝国の都、上都を目指して旅して行きました。

今回の旅行は上記のうちなるべくポーロ一行の行程に合わせる形で
酒泉~張掖~武威~銀川を旅しました。ブログトップページの「マルコ・ポーロの行程図」をご覧になるとおおよそのルートがわかると思います。
嘉峪関はポーロ一行の時代にはありませんでしたが、一度見ておくべきと考えて加えました。

※高速で移動する車から撮ったため、あるいは空港のX線の影響により、画像が見苦しい状態になっています。ご了承下さい。

一日目:
10:40に家を出て羽田に到着。
第二ターミナル口から連絡バスにて国際線旅客ターミナルに移動するのはいささか面倒。

14:00
上海航空の上海行きに搭乗、14:30離陸。
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モザイクのような横浜の街を眺めながらこれから大阪、長崎上空を飛ぶとの事なので眺めを期待していたが、雲多くほとんど見えなかった。箱根だけは良く見えた。
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16:43、上海
虹橋空港着。
羽田で窓口の人が気を利かせて前方の席を取ってくれたのに、出口は後方と言われ結局最後に降りる羽目になった。
入国審査、セキュリティチェックを受ける。健康状況票は提出を求められなかった。
意外と早く到着ロビーにたどり着きガイドのAさんと会った。
第一ターミナルの建物を出て第二ターミナル行きの連絡バスに乗る。スーツケースをバスの荷物室に入れるのに一苦労だ。
バスはほとんど一杯だったが、なんとか座れた。
第二ターミナルは予想外に遠くバスで20分以上かかったと思う。
第二ターミナルは第一ターミナルとは比べ物にならないほど立派で広く大きかった。
建物に入るとまず爆発物のチェックを受ける。
次に北京行きの東方航空のカウンターを探してスーツケースを預けた。Aさんとはここで別れた。
先に進んでセキュリティチェック。ここは厳しくてベルト、靴を外すよう言われた。

この後は搭乗ロビーへ。
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広い搭乗ロビーには所々上海万博のマスコット人形が立っている。盗作疑惑のあったやつだ。
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18:30、北京行きの東方航空に搭乗、しかし19:00になっても飛行機は動かない。
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理由はわからないが一時間ほど遅れるようだ。
19:20には機内食が出た。地上の飛行機で食べるのは初めてだ。
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20:00にようやく離陸した。

21:57、北京に着陸。
軽い頭痛と眠気をこらえながらスーツケースが出てくるのをじっと待った。
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回収後到着ロビーに出てガイドのBさんを探すが、私の名前を書いたボードを持った人が見当たらない。
到着ロビーの出入り口周辺を行ったり来たりするが全く見当たらない。
飛行機が遅れたので帰ってしまったかと焦りだした時ようやくBさんに会えた。22:44になっていた。

23:01、ホテル
国都大飯店着。デポジットとして200元取られる。
明日はホテルを6:15に出るとの事でモーニングコールを5:00にしてもらう。朝食は弁当にしてもらった。
Bさんと別れ部屋にいるとフロントから電話がかかってきて明日の朝食はどうするのか聞いてきた。
弁当にしたはずではと言葉にしようとするが英語が出てこない。
やがてホテルマンが直接部屋にやってきたので、朝食はランチボックスのはずではと言うとそれはできないと言われてしまった。

バスとトイレ。
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時間がないので下着だけ洗濯して、23:55に寝た。
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しばらく寝付けなかった。

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