« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

シルクロード西域南道旅行(コルラ・鉄門関)

13:07、ユリ県の中心部を通過。
Dscn6008a
13:40、コルラに到着。
「古代西域36国の一である渠犁国で、漢代には西域都護府に属した。
北魏時代には柳驢城と呼ばれ、 その後突厥の支配下に入ったが、648年唐に占領され、焉耆都督府の属地となった。
その後しばしば吐蕃王朝に占領され、840年ウイグルが西遷してこの地に定住した。
さらに西遼、チャガタイ・ハン国、ジュンガル王国などに属し、1758年に清朝の新疆となった。」
以上はウィキペディアからの抜粋である。
現在はバヤンゴル・モンゴル自治区に属する県級市になっており、天然ガス・石油開発の基地になっている。
尚、「コルラ」とは「展望が良い」という意味だそうだ。
Dscn6009a
大きな建物が多い。
通りが広い。
住んでいるのはほとんどが漢族との事。
Dscn6011a
14:00、昼食をとる。
253a
麺と羊肉が入った薄味のスープ。
Dscn6010a
14:27出発。

14:40、鉄門関の入り口に到着。
鉄門関は3世紀にもともと鉄門谷と呼ばれたウルムチとタリム盆地を結ぶ要衝に作られた関所。
鉄のように堅固な関所であることから鉄門関と名づけられた。
Dscn6017a
少し歩くと鉄門関が見えてくる。
Dscn6015a
4世紀、中国の前涼と焉耆国の間でここで戦いがあった。
焉耆軍は鉄門関で待ち伏せしたが、
254a
それに気づいた前涼軍は焉耆軍を挟み撃ちにして勝った。
Dscn6012a
ここから先はシルクロードが続いている。
孔雀河(コンチェ河)沿いに梢峡谷沿いの道が14キロ続いている。
中国の唐の詩人が、「鉄門関楼に題す」の詩を残していて、その中に「橋は千尋を跨いで危うく 道には両岸をめぐりて狭し」とあって、その険しさがうかがわれる。
255a
案内板。
Dscn6013a
鉄門関のそばには孔雀河が流れている。
水の流れ落ちる音に癒される。
Dscn6014a

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シルクロード西域南道旅行(ロプノール人の村)

六日目

あまり寝た気がしなかったが、ふと時計を見ると3:51、モーニングコールの時間を過ぎている。モーニングコールは来なかった。
今日はウルムチに帰る日だ。
コルラという町まで車で行って、そこから飛行機でウルムチに行く。
髭剃り、歯磨き、シャワーを手早く終え、お茶を飲んでいると4:45に遅すぎるモーニングコールあり。
5:00出発。

暗闇の中のヘッドライトで路面の砂嵐が照らし出される。
かなり強い風だ。
デジカメで砂嵐を撮ろうとするが、夜ということもあってうまく撮れなかった。
前述のロプ村も通過しているはずだが、真っ暗で何も見ることができなかった。
6:33、辺りが白み始める。
日の出前、ゴビは青白い色をしている。
7:15、道路の脇をレンガ道が並行している。
かつて使っていた道だそうだ。

通学中なのか自転車に乗っている人を多く見かける。
Dscn5996a

Dscn6001a

Dscn6002a
7:53、ポプラ並木と廃棄された綿花畑がある。34団の村。

8:10、車を止め、外で朝食。
P700a
ナンとおかゆの缶詰(味は甘い)。
234a
8:33、立ち枯れた胡楊の林。
8:50、33団の村。
9:05、31団の村。

9:30、拾拉水湖着。
タリム河の水をせき止めて作ったダム湖で、現在のロプ・ノールだ。
P800a
これからロプノール人の末裔が住んでいる村に出かける。
Dscn6003a

Dscn6005a
チケット売り場。
242a
村の入り口の門。
ロプノール人の主食は魚であり、魚に由来するものが多い。
門の上にはおじさんがかぶる帽子の形をしており、それは舟形である。
帽子に逆三角形の穴が開いているが、この位置に太陽がくると昼になる。
魚は水中深くに潜ってしまう。
門の左右には魚の形をした飾りがある。
243a
門の中央にはラクダの頭蓋骨があるが、ラクダは砂漠の舟を表す。
244a
天空への礼拝所。
太陽が高い時に礼拝する。
真ん中の木の上は天空、下は地上を表し、赤いリボンは命を表している。
後ろにあるラクダの毛皮は権力の象徴。
245a
左側は首領の家。
黄色い色は権力を表す。
今は宿泊所になっている。
右に見えるのは劇場の舞台。
246a
広場。
礼拝後に広場で火を燃やし、周りで踊る。
247a
二番目の門。
左側が男性のシンボル、右側は女性のシンボル。
それぞれ男女は各々の門から入る。
首領のみ真ん中から入る。
248a
中の家。
1家族が住んでいる。
タマリスクで壁を作り、中に泥を塗ってできている。
胡楊の水をとった聖水が、胃薬として一本50元で売られていた。
かまどはヨーロッパ式になっており、ヨーロッパ系の楼蘭人と結婚した影響だそうだ。
その他畑を耕す道具など。
249a
住んでいる人。
Dscn6006a_2 
これは何のためにあるのか忘れてしまったが・・・。
太陽を中心とし、回りを病気、風、結婚、羊、3匹の魚、先祖、生育、洪水を表すモニュメントが並んでいる場所。
250a
ここから砂丘が見えた。
251a
馬車の形をした建物。
中にロプノール人についての説明が展示されている。
252a
村の奥に行くと河があり、更に奥に行くと砂丘の近くに出る。
駱駝やサンドバギーに乗ることができる。
Dscn6007a
12:30出発。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シルクロード西域南道旅行(チャルクリク・街の散策)

16:30チャルクリクに向け戻る。

17:17、砂嵐の中を走る。
Dscn5958a
ミーランへの往路よりも砂嵐が激しくなっている。
Dscn5960a
外側が霞んでよく見えない。
Dscn5961a
17:55、ホテル楼蘭賓館着。
203a
部屋。水道の水をなめたら今までのどこよりもしょっぱかった。
Dscn5962a
シャワー室。
Dscn5963a
19:00、夕食に出かける。
レストランの料理人は時間がまだ早くて暇なのか賭けトランプをしていた。
204a
今日の夕食。ウスビールを飲んだ。
Dscn5965a
食後、付近を散策。
文化センター前は夜店あり。
206a
通りをはさんで商店街がある。
205a
店の経営者はほとんどが漢族のようだった。
商店街の突き当たりの通りをはさんで野菜の露店が並ぶ。
小さなモスクがあり、その入り口はケリヤ、チャルチャンと似た造りであった。
とにかく小さな町だ。
20:40、薄暗くなってきたのでホテルに戻る。

東方見聞録にチャルクリクの記述はない。
ただチャルチャンの章の最後に次の記述がある。
「チャルチャンを出発すると、砂漠横断の旅が約五日間にわたって続くが、この間を通じて良質の水が得られるのはごく数箇所にすぎず、ほかは至る所苦味を帯びた悪質の水ばかりである。
・・・右に述べた五日間の旅を終わると、ロプ市に到着する。」

ロプ市の章にはこうある。
「ロプ市はロプ砂漠と称する大砂漠の縁辺にある大都市で、その位置は東方と東北方との間に当たっている。
カーンの属領で住民はイスラーム教徒である。
ところでこの大砂漠を横断しようとする人々は、この町で一週間の逗留をなし、家畜並びに自身の英気を養う。
この休養期間が終わると、彼らは人畜の食糧一か月分を携帯して初めて砂漠の中に進発するのである・・・」

タングート大州の章のはじめに次の記述がある。
「騎行30日を費やして上記の砂漠(ロプ市東方の砂漠)を横断しきると、カーン領内に属するサチュー(沙州=敦煌)市に到着する。」

平凡社の「完訳・東方見聞録1」の注釈によるとロプ市はクロライナ(楼蘭国の首都)を指すと書かれているが、チャルチャンから五日行程(約150キロか)、敦煌から30日行程(約900キロか)との記述に照らし合わせると、相当無理があるように思える。
チャルチャン~チャルクリクのどこかが妥当なように思える。
チャルクリクの少し北にロプという町(村?)がある。
そこかとも考えたが、Aさんによると割と新しい場所だそうだから違うのだろう。

「シルクロード探遊」の著者、松本征夫氏は本書の中で「ロプ市」はチャルクリクであると書いている。
近代になっても著名な探検家がここで準備万端を整えたという記録が数多く残っているそうである。
チャルクリクではないにしても、この近辺のどこかにあったのだろう。

また街中に出ようと考えたが、首筋の腫れが引かないのと、明日出発時間が早いこともあり、止めた。
下着、ハンカチ、靴下を洗濯後、21:07に寝たがずっと寝付けなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シルクロード西域南道旅行(ミーラン遺跡)

15:37、ミーラン遺跡前到着。

畑のそばに小さな建物がある。入り口の鍵の管理人が来るのを待つ。
中年女性が管理人。門を開けて車で奥に進む。
砂漠のでこぼこ道をひどく揺れながら進む。
Dscn5947a
ミーラン遺跡は、鄯善国(楼蘭国)の国都、伊循城でないかと言われている。
もともと鄯善国の国都は有名なクロライナ(楼蘭)であったが、4~5世紀にロプ・ノールの乾燥化が進み放棄され、国都を伊循城に移したとされる。

楼蘭国は紀元前2~1世紀、中国の前漢と匈奴の狭間にあって国運が翻弄された。
紀元前77年、前漢は楼蘭王を殺し代わりの王を立て国名も鄯善国に変えた。
紀元前60年頃の人口は14100であり、西域諸国の中では大国だった。
1世紀初、莎車国(ヤルカンド)の支配下だったが1世紀前半には匈奴の支配を受ける。
莎車国が于窴国(ホータン)に併合されると、これに乗じて鄯善国は西の精絶国(ニヤ)までを支配下に置く。
73年、後漢の班超が鄯善国を従わせた。この時に有名な「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の言葉を班超が発している。
2世紀、西域諸国は後漢の支配から脱していく。鄯善国は5大国の一つに数えられる。
国都が伊循城に変わった後の5世紀後半、青海地方の吐谷渾がタリム盆地に進出して鄯善国は滅ぼされる。
7世紀前半にこの地は唐の支配化に置かれる。
7世紀後半にはチベットの吐蕃が支配し、9世紀頃ミーランに築城した。この城砦跡を見に行く。

途中の仏塔にてストップ。
Dscn5948a
丸いドームがきれいに残っていて遠くからでも目立つ。
Dscn5949a
Aさんはここが有名な壁画「有翼天使像」があった場所と言っていたが、本当だろうか?
「有翼天使像」等があったM3、M5遺跡はここから1~2キロ離れているのではないか?
「有翼天使像」は3~4世紀頃に描かれた西洋のキューピッドを思わせるような壁画で、ヘレニズム文化の影響を強く受けており、ここがヘレニズム文化の東端とされる。
Dscn5950a
次に唐の時代の吐蕃の城砦跡(M1遺跡。Mxは発見者のオーレル・スタインが付けた番号で、Mはミーランを表す)に行った。
城砦は周囲310メートルの菱形をしている。
ここからは吐蕃語の木簡、武具、布や陶片、筵などの生活用品、食料が発見されている。
タマリスクと土を交互に積み上げ版築という工法で堅固に作られた城壁が残っている。
画像上方の壁が層になっているのがそうだ。
Dscn5951a
城砦の中のパノラマ。大量の砂で覆われている。
P400a2_2 
城砦の右奥に一段と高くなっている物見台のような場所があった。
そこから見たパノラマ。
P1100a

P1200a
とにかく茫洋と広がる砂漠に仏塔や寺院の遺跡が点在するさまは圧巻。
ミーラン遺跡の価値はここに立って初めてわかるだろう。
かつて吐蕃の将兵もこの眺めを見たであろう。
このどこかにM3、M5遺跡はあるだろうか?
わりと近く左に見えるのはM10遺跡の仏塔だろうか?

反対側のパノラマ。
遠くにいくつもの砂嵐が渦を巻いて移動しているのが見えた。
小さな城砦も見える。
P600a2
城砦の正面。
Dscn5957a
城砦の内部。掘り返された跡がある。
226a
城砦の内部。四角く区切られた区画が連なっている。
225a
城砦の内部。四角く掘削された台がある。
231a
城砦の内部。
何の部屋だったのだろうか?穿たれた穴は何なのか?
232a
城砦の内部奥から正面を見る。
233a
とにかく大きな城壁。厚さ7~8メートルはある。
Dscn5955a

Dscn5956a

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シルクロード西域南道旅行(チャルクリクからミーランへ)

13:34、前方にチャルクリクのオアシスが見えた。
Dscn5936a
その前に砂嵐が見える。
Dscn5938a
路面を砂が流れていく。
Dscn5937a
チャルクリクの中心部に入った。
紀元前、ここにはジャク羌国があった。中国の前漢の属国だった。
後漢の時代になると異民族に支配された。
その後の歴史ははっきりしない。
Dscn5939a
きれいな花壇。
Dscn5940a
13:59、チャルクリクのレストランに入った。
野菜たっぷりの麺。スープの味は薄味。
Dscn5941a
あまり美味しいとは思わなかったが、日本に帰国してしばらくすると何となく懐かしくなった。
14:29出発。

14:40、チャルクリク河を渡った。
14:45、崑崙山脈の山陰がうっすらと見える。
北側ゴビに竜巻が多数見える。
14:58、風強く道の上に流砂あり。
Dscn5942a
15:00、前方砂煙でよく見えず。
道の上に砂が描く様々な形をじっと見る。霧のように形を変えていく。
Dscn5943a
15:26、前方左に蜃気楼らしきものが見える。
Dscn5944a
拡大。実は本物だった。
Dscn5945a
15:30、ミーラン(米蘭)路に入った。
15:34、ミーラン鎮(鎮は村より大きい行政単位)36団に入る。
Dscn5946a

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »