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2011年3月

シルクロード西域南道旅行(チャルチャンに到着)

15:05、チャルチャンのオアシスが見える。
チャルチャンはバヤンゴル・モンゴル自治州に属しているが、モンゴル族は遊牧を生業としており、町に住むのは漢族とウイグル族が多い。広大な綿花畑がある。
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東方見聞録にはこうある。
「住民はイスラーム教徒である。
多くの都市・集落が存在するが、首府はチャルチャンという。
数条の大河がこの国を貫流しておって、その河源から碧玉・玉髄が押し流されてくる。
これらの玉は質が良くて量も多いから、商人がこれをカタイ国(中国北部)に販売して上げる利益は莫大である。
この地方は一帯の砂原をなしている。コータンからペムに至る間も一面の砂漠なら、ペムからチャルチャンまでも同じく砂漠の連続である。
水質はいったいに悪くて苦味を帯びるが、所々に味のいい清水が見出される・・・」

紀元前1世紀、ここには且末国があった。人口1600の小国だった。
1世紀から4世紀までは鄯善国(楼蘭国)の支配下にあった。
6世紀、インドに向かう途中の宋雲がこの国の左末城を通り、「住民は100戸ばかりで、雨が少ないため水を引いて麦を作る。」と記している。
6世紀、吐谷渾(鮮卑系、青海地方が根拠地)に支配された。
7世紀初、中国の隋が支配しここに且末郡を置いた。且末郡は隋の西端であった。犯罪者を送り込んで治めたという。
7世紀前半、唐がここに播仙鎮を置き支配した。
インドからの帰路ここを通過した玄奘は、ここを折摩駄那(チャルマダーナ)と呼んだ。
8世紀、吐蕃が支配した。
11世紀、天山ウイグル国が支配した。
13世紀、モンゴル帝国の支配下になった。
以降は前述した他の西域諸国と同じ歴史を辿っているだろう。

15:21、チャルチャン市街の中心に入った。
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15:25、昼食。
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トマトと卵の炒め物が入った麺。無難な選択。
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近くには商店街もある。
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16:10、ホテルムズダグ賓館着。
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ホテルのロビーには、チャルチャンで取れた大きな玉石が置いてあった。
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東方見聞録に「河源から碧玉・玉髄が押し流されてくる。これらの玉は質が良くて量も多いから、商人がこれをカタイ国(中国北部)に販売して上げる利益は莫大である。」と書かれている通り。
玉はホータンが有名だが、他の地域でも産出する。
チャルチャン南方の他、ヤルカンド河からタシュクルガンにかけて、ケリヤの南方などで産する。

部屋
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シャワー室
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これは初めて見た。部屋においてあったお湯と水を両方出す湯沸かし器。
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16:30、付近の観光に出かける。
16:45、チャルチャンの博物館に到着、ここで現地ガイドを同乗させる。
付近の観光には必ず現地ガイドを同行させる決まりになっている。
画像は博物館から見たチャルチャンの役所。
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シルクロード西域南道旅行(ケリヤ~ニヤ~チャルチャンへ)

四日目
6:00に目が覚めたが二度寝してモーニングコールで7:00起き。シャワー、荷物整理。
8:35、ホテルの食堂へ。まだ料理できておらず。
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9:11、出発。
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9:40、ゴビに入った。道は悪い。
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10:12、タカを見る。
10:25、相変わらずゴビ。
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10:34、ニヤ河を通過。ニヤ河の下流(北方)120キロに有名なニヤ遺跡がある。
10:39、オアシスに入る。
10:46、ニヤの中心部に入る。
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ニヤのある民豊(ミンフォン)県は新疆ウイグル自治区で一番小さい県で、人口は三万人である。現在はホータン地区に属している。

かつてニヤの街は現在のニヤの北方120キロの場所にあった。
現在のニヤ遺跡である。

中国の前漢の時代には精絶国が存在し紀元前60年には漢の西域都護府の管轄下におかれていた。人口は3360人だったと記録されている。
1世紀、中国の後漢が成立した頃のニヤは、莎車国(ヤルカンド)の属国だったが、于窴国(ホータン)が莎車国を滅ぼすと、東の鄯善国(楼蘭国)の勢力が強くなりその支配下になった。

1901年にニヤ遺跡を発見したスタインによると、ニヤは東西7キロ、南北22キロの相当な大きさだったという。
数度の発掘調査によって発見された大量の文書から、3世紀頃の鄯善国の官僚制度や納税制度、サムガと呼ばれる仏教団、生活習慣が明らかになった。
それによるとニヤはチャドータと呼ばれるラーヤ(王国)であり、駅伝制により首都クロライナ→チャルマダーナ(チャルチャン)→サチャ(エンデレ)→チャドータ→ダンダン・ウィリク→ホータンと結ばれていたそうだ。
このチャドータは、おそらくニヤ河の水量の減少により3世紀に放棄されたと思われる。

7世紀にニヤを通過した玄奘は、ここに周辺1.2~1.7キロの城があって大きな沢地の中にある、と書いている。
7世紀のニヤと3世紀のチャドータ(ニヤ遺跡)が同じ場所なのかどうかわからない。

現在のニヤは、約700年前にできた町だという。ちょうどポーロ一行が訪れた時期に近い。もしかしたら通過した可能性もあるのではないか。

10:50、ニヤ博物館を見学。入り口の鍵を持つ管理人をしばらく待つ。
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中に入って目に付くのは精絶国のニヤ遺跡の展示。
他には当時のお茶の入った袋、桃の種、髪を洗う容器、瑠璃のネックレス、装身具入れ。
装身具入れは現在でも売っていそうなデザインだ。
赤白の格子模様がきれいなベルト、花柄の白・緑・赤・黒の絨毯、瑠璃のネックレスをした身長180センチの女性のミイラ、男性のミイラ、縫い目がはっきり残っている革靴、綿繰り機、紡ぎ車など。
11:36、出発。

11:50、草原状、放牧が多い。道は良い。
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12:01、タクラマカン砂漠を縦断するタリム砂漠公路への分岐。
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この道は天山南路の輪台(ルンタイ)まで続いている。
砂丘が近い。砂漠公路を通れば砂丘を思う存分見れるだろうか?

草原がしばらく続くがやがてゴビになる。
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12:29、ゴビ。遠くに砂丘が見える。
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12:45、胡楊の林。
12:49、相変わらずゴビ。
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13:10、相変わらずゴビ。
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13:12、河を渡る。アンディル河だろうか?だとすればこの下流(北方)35キロ地点にエンデレ遺跡がある。
13:14、胡楊の林。
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13:32、胡楊の林で写真ストップ。
過酷な砂漠でよくこんな大きな木が育つものだ。
胡楊はポプラの一種で、生命力が強く、日照りやアルカリ土壌、風砂に耐える植物である。酷暑、厳寒、少雨の過酷な環境でも育つ。そのせいか「砂漠の勇者」と呼ばれている。「育って千年死なず、死んで千年倒れず、倒れて千年腐らず」と言われるほど生命力がある。
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砂地には胡楊の枯れ枝が混ざっている。
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13:36、出発。
13:42、ドライブイン通過。(スータン道班?)
14:02、草原状になる。
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14:05、遊牧民の家がある。泥壁の小さな家。
14:25、ゴビ。
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14:56、ゴビが広がっている。
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シルクロード西域南道旅行(ケリヤ・旧市街とモスク)

20:25、ケリヤ市街に入った。おなじみ、コルバンさんと毛沢東の像が見える。
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東方見聞録にはこうある。
「住民はイスラーム教徒で、カーンに服属する。
多くの都市・集落が存するが、その中でももっとも立派な都市がペムといってこの王国の首府である。
国内には碧玉・玉髄を多量に産出する河川が数条流れている。
物資は何品によらず豊富で、木綿の産出がことに多い。
住民の生業は商業・手工業である。
ところでここに一言どうしても付加したいのは、次のような奇妙な習慣がこの地にあることである。
すなわち既婚の男子が妻を残して単身旅行に出かける際、もし不在期間が二十日以上にも及ぶ長期の場合なら、その妻は夫が出発すると同時に、別の男を夫にするのであって、これが土地の習慣なのだから別に咎めを受けないですむし、他方その夫の方でも行く先々で別の妻を持つことが許されているのである。
ところで以上述べ来たったカスカール以降の諸地方、並びにこれから通過しようとする諸国はすべて大トゥルキーの一部をなしていることをご承知願いたい。」

玉石についてはホータン河が有名だが、ケリヤ河の上流の崑崙山脈でも玉石は採取されている。
大トゥルキーはテュルク系民族であるウイグル国家の旧領を指すようである。

ケリヤ市の旧市街を歩く。
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この雑然としたにぎやかさは心踊るものがある。
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20:35、ケリヤのモスクに着いた。
東方見聞録の「住民はイスラーム教徒」とある通り。
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正面から見た所。
手前のバイクには血のりがついた羊らしき動物の毛皮がのせてあった。
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モスクの中庭。
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モスクの建物に上がってみた。
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柱は緑・水色・ピンク・黄で彩られていてトロピカルな印象。
建物の中は静かで落ち着いており厳粛な印象。
白いミフラーブがあり白いじゅうたんが敷いてある。
ミフラーブの上にはカーバ神殿の絵。
天井のさんにも模様が描かれている。
モスクは800年前からあったそうで、もともとの建物の黒いレンガが、入り口の周囲と建物の土台部分にあらわになっている。

南側の門。800年前のものとの話だった。
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近くに住むウイグル族の子供たち
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21:21、ホテル浙江大酒店着。
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部屋の中
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シャワー室
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22:00、近くの中華料理店で食事。
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トマトと卵の炒め物は無難な選択。
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ところで東方見聞録の次の記述が気になった。
「既婚の男子が妻を残して単身旅行に出かける際、もし不在期間が二十日以上にも及ぶ長期の場合なら、その妻は夫が出発すると同時に、別の男を夫にするのであって、これが土地の習慣なのだから別に咎めを受けないですむし、他方その夫の方でも行く先々で別の妻を持つことが許されているのである。」

これについては、「マルコポーロ・クエスト」という本には、東洋学者ヘンリー・ユールによると「トルキスタンの売春婦」によるものだ、と書かれている。
また同書にはこんな話も書かれていた。
「(ケリヤの)長官は・・・(ドイツ人の)教授のところへ行き、彼(つまり長官)の魅力的な新しい妻と一緒に寝てくれないかと頼んだのだという。」その理由は「私(長官)は文明化された高貴な血を、自分の家族に入れたいんです。」

私はガイドのAさんに、本当にこのようなことがあるのか聞いてみたが、彼の答えは「否」だった。
ただタクラマカン砂漠の中で遊牧しているケリヤ人がいて、彼らの習俗かもしれないような事を言っていた。

23:05、店を出た。その夜は中々寝付けなかった。

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シルクロード西域南道旅行(ホータン・マリカワト古城~ケリヤへ)

16:45、ホータン市街の南25キロにあるマリカワト古城に向かう。
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途中にあるホータン川(白玉河)の河原。削掘された跡だろうか、水溜りが無数にある。
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小さな集落を過ぎてしばらく走るとマリカワト古城に着く。
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マリカワト古城は、紀元前3世紀~11世紀にホータンに存在した于闐国の夏の都だそうだ。冬の都はホータン市街の西南14キロにあるヨートカン。
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一番近い遺跡は壁の形もはっきりしており、建物だとわかる。
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このような壁がんもある。
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遠くに崑崙山脈が見えた。今回初めて見た。
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とにかく広大な敷地、全部見て回れるものではない。
遠くに仏塔らしきものやその他大きな遺跡が見えたが、残念ながら時間的に行くのは無理。
全面砂地で東西800メートル、南北1500メートルもあるそうだ。
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中国の東晋の僧、法顕、慧景らがインドへの求法の旅の途中、401年にここを訪れ、行像(仏像を美しく七宝でかざった宝車に乗せ城内をまわる儀式)を見るために三ヶ月間も滞在した。
彼らが泊まったクマテイ寺の遺跡もここのどこかにあるはずである。
法顕は「クマテイ寺に3000人の僧がおり、大きな僧伽藍だけで14寺もある」と書き残している。

少し離れた多少大きな遺跡に行ってみた。
砂交じりの強い風が容赦なく吹き付けてくる。
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ほとんど崩れていて建物なのか岩の塊なのかよくわからなくなっている。
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17:40出発。

18:28、ホータン河(白玉河)の橋を渡る。
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18:34、黄色い花畑が見えた。
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18:53、ゴビに入る。
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19:17、相変わらずゴビである。
かなたにうっすらと砂丘が見える。
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その幻想的な光景に、旅人を惑わせるという砂漠の精霊の話を思い出した。
東方見聞録の「ロプ市」の章である。
「夜間この砂漠を横断している際、たまたま眠り込んでしまったとか、あるいは他の理由によって仲間から遅れたり取り残されたりして、なんとか一行に追い付こうとしているような時、多数の精霊が彼に向かって仲間のような声で話しかけて来たり、時には彼の名前を呼んだりする。
すると旅人は往々これに惑わされてあらぬ方向に誘い込まれ、二度と姿を見せなくなってしまう。
このようにして命を落としたり行方不明になった旅行者は決して少なくない。
しかもこれら精霊たちの声は、なにも夜間にのみとは限らないで、昼間でも聞こえてくるし、時によると種々な楽器の音、とりわけ太鼓の音を耳にするような場合もある。
このために砂漠横断の旅行者たちは精霊に惑わされないようにとの用心から、夜になるとどのウマの頸にも鈴を釣り下げる。」

19:30、策勒(チラ)を通過。
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以降、放牧風景が多い。
策勒の北方25キロにウーツム・タティ(古い町)という遺跡がある。
1901年、オーレル・スタインはここを探索した。
その目的は、マルコ・ポーロが記述した「ペム」の場所を同定することであった。
更に北方にはダンダン・ウィリク(象牙の家)の遺跡がある。

19:52、タマリスクの平原。遠くに胡楊の林が見える。
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