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トルコ東部旅行(トルコの歴史について)

【アナトリア地方の歴史について】

1.新石器時代~古代オリエント時代

アナトリア地方の文明化はメソポタミアやシリア地方の影響を受ける形で行われた。コンヤ近郊のチャタル・フユックで、紀元前7000年に農耕・牧畜が行われた痕跡を示す約1000戸の遺跡が発見された。カイセリ近郊のキュルテペでは、紀元前2000年頃のアッシリア商人の交易所の遺跡が発見された。また、カマン・カレホユックでは紀元前20世紀頃に製鉄技術があったことを示す遺跡が発見されている。紀元前17世紀~13世紀には、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイトが、その製鉄技術と馬を利用した戦車でアナトリアを中心に勢力を拡大した。ヒッタイト滅亡後にアナトリアの主要交易ルートを掌握したフリュギア人は、紀元前8世紀に王国を作ったが紀元前7世紀には滅亡した。紀元前9世紀~紀元前6世紀にはウラルトゥが、アナトリア東部に王国を作っていた。メソポタミア地方のアッシリアは、紀元前10世紀にはオリエント世界の有力国になり、紀元前7世紀に滅亡するまでアナトリアに進出してヒッタイト、フリュギア、ウラルトゥと争った。フリュギア滅亡後のアナトリアの最大勢力はリュディアで、アッシリア滅亡後はイラン高原のメディアとたびたび争ったが、メディアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアに紀元前6世紀に滅ぼされた。オリエント世界を統一したアケメネス朝はアナトリア西岸のギリシア諸都市の反乱をきっかけにギリシアへ侵攻した。

2.ヘレニズム時代~ビザンツ帝国時代

紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンダーはアケメネス朝を滅ぼした。その死後、後継者戦争の結果、セレウコス朝がアナトリアを含むアレクサンダー帝国のアジア部分全域を支配した。しかし各地で独立運動が頻発し、紀元前3世紀後半にはアナトリアでペルガモンが独立した。親ローマのペルガモンは紀元前2世紀にローマ共和国に領土を遺贈して属州になった。セレウコス朝も紀元前1世紀にローマに滅ぼされた。紀元前1世紀に帝政に移行したローマは、4世紀にコンスタンティヌス1世がキリスト教都市建設を目指して首都をコンスタンティノープル(現イスタンブール)に移した。4世紀末に帝国は東西に分裂し、アナトリアは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領域になった。6世紀には大聖堂アヤソフィアが建設された。ビザンツ帝国は15世紀に滅亡したが、14世紀まで千年近くアナトリアに勢力を保ち続けた。

3.トルコ化とモンゴルの支配

11世紀にイランのトルコ系王朝セルジューク朝がビザンツ帝国を破ると、トルコ系民族が大量にアナトリアに流入した。セルジューク家の一員がアナトリアに派遣され、ルーム・セルジューク朝を創った。ビザンツ帝国は西欧諸国に救援を求め、11~12世紀に十字軍がアナトリアを侵攻・通過した。13世紀前半、モンゴル軍がイランに侵攻すると更に大量のトルコ系民族がアナトリアに流入した。この頃ルーム・セルジューク朝も最盛期を迎えたが、13世紀後半にはモンゴル帝国のイルハン朝の属国化し、14世紀初頭に滅亡した。ルーム・セルジューク朝の没落とともにアナトリア各地では13世紀後半以降、ベイリクと呼ばれる地方政権が多数現れた。最も大きなものがアナトリア中部のカラマン・ベイリクだった。カラマン・ベイリクはトルコ語の公用語化を初めて宣言した国となった。これらベイリクは14世紀前半までイルハン朝の圧力化に置かれた。

4.オスマン朝時代

13世紀末に創建されアナトリア北西部の1ベイリクに過ぎなかったオスマン朝は、優れた君主が続いた事や独自のエリート養成システムによって急成長し、14世紀末までにアナトリア西部とバルカン半島南部、すなわちアジアと欧州同時に領域を広げた。15世紀初にティムール帝国に破れ一時滅亡したが、まもなく復活して16世紀後半まで領土の拡張を続けた。最盛期は16世紀中盤のスレイマン1世の時代で、この時点で北はハンガリー、南はアラビア半島、東はイラク、西はモロッコを領有し、黒海と地中海の制海権を得た。当時欧州の覇者だったハプスブルク家のカール5世(カルロス1世)に脅威を与え、イランのサファヴィー朝と争った。領土拡張を可能にしたのは、スルタンに経済的軍事的に権力集中した国家体制と最新火器を装備した常備軍(イェニチェリなど)だった。またアラブ地域を支配するために、スルタンはイスラム教スンナ派世界の盟主である点が強調された。

しかし16世紀末には拡大は限界に達する。原因は戦費の増大による財政悪化と、欧州やイランの軍事力が刷新された事による。そのため限られた領土から効率よく徴税する必要に迫られ、財務局を中心とする徴税システムに変革された。財務官が各地の徴税を行うが、地方の徴税は地元の人間が下請けで行うこともあった。17世紀前半には財政悪化によってイェニチェリや民衆の暴動が起こったが、税制改革の一定の成功により帝国が崩壊する事はなく17世紀後半は安定した。だが暴動を起こすイェニチェリに最新の兵器を渡す事はなくなり軍事力は弱体化した。

18世紀も、帝国内の経済活動は活発だった。しかし様々な問題が出てくる。ひとつは軍事力の弱化で、特に18世紀後半にはロシアに連敗を喫する。ひとつは肥大した官僚機構の維持により国庫収入が減り、必要な改革を行う余力がなくなった事、ひとつは地方の徴税請負人が富を蓄え、アーヤーン(地方名士)と呼ばれる彼らの中には軍事力を持った危険な存在が現れた事である。

19世紀になると、問題が深刻な状況になった。欧州列強に敗北を重ね、領土と利権を次々に失った。またバルカン諸民族の独立運動が活発になった。アナトリアやバルカンはアーヤーンによって分割支配される様相を呈した。これに対し、オスマン朝はようやく軍事力や国家機構の西洋化に着手するが、既得権を守ろうとする守旧派の妨害により、改革は一進一退を続けた。それでも軍隊の西洋化を皮切りに、スルタン専制を嫌う世論に押されて憲法発布(すぐに失敗)、大衆文化の西洋化が行われた。しかし増大する軍事費・宮廷費・喪失した領土からのトルコ人保護のため、財政は破綻した。

20世紀になると、反専制を目指す青年将校グループ(統一派)の要求により第二次立憲制が始ったが、第一次バルカン戦争によりバルカン領土のほとんどをバルカン諸民族に奪われると、トルコ系イスラム教徒とそうでない者の平等により帝国の統一を図るオスマン主義から、トルコ系イスラム教徒主導により統一を図るトルコ主義が強まった。第一次世界大戦において、オスマン朝はユーラシアのトルコ系民族の政治的統合を目指した汎トルコ主義によりドイツと同盟し、敗北して連合国によるアナトリア地域を含む分割統治案を受け入れた。しかしこれに反発した統一派は、オスマン朝政府とは別にムスタファ・ケマルを中心として革命政権を樹立し、分割統治案に従い進出してきたアルメニア軍とギリシア軍を奇跡的に撃退、連合国に分割統治案破棄を認めさせた。1922年、革命政権はオスマン朝の廃止を議会で決議した。

5.共和国時代

1923年、革命政権は議会の決議によりトルコ共和国の成立を宣言した。ケマルは反対派を弾圧する一方で国内のトルコ化、西洋化、非イスラム化を進めた。また民衆の情感に訴えるため救国者、国父(アタテュルク)としてのケマルを強調した。第二次世界大戦後は、民主化が進められ複数政党制が導入された。しかし1政党による行き過ぎた独裁、政党間の対立の激化による社会不安を生み、その度に軍部の介入が行われた。反アタテュルク主義政党が選挙で選ばれた際の軍部の介入は、欧米の世論の反発を招いた。国内問題としてはトルコ化により抑圧されるクルド人人権問題と過激化するクルド人組織との対立がある。経済的には、不完全な税制による国庫収入不足による財政赤字、インフレ、貧富の差の問題があり、経済力も欧州諸国に追いついていない。またアナトリア東西の経済格差の問題もある。外交的には、トルコは一貫して西洋への仲間入りを目指してきた。OEEC、NATOへの加盟を果たしたが、EUの正式加盟については上記民主主義の抑圧、経済的な混乱、クルド人人権問題により見送られた状態であり、改善に向けて歩んでいる状態である。

【トルコ民族(テュルク系民族)の歴史について】

トルコ民族は元を辿ると北アジアに住んでいた遊牧民族だった。6世紀には突厥が出て、中国北方からアラル海にまたがる大帝国を築いた。やがて東西に分裂し、8世紀の中頃に滅びた。入れ替わりにウイグルが出て、中国北方からアルタイ山脈までを支配した。ウイグルは9世紀半ばに滅びたが、その後西遷して現在の中国・新疆ウイグル自治区辺りを支配した。トルコ民族の活動の場は中央アジアに移り、10世紀半ばにカラハン朝が出て現在のウズベキスタン共和国東部から中国・新疆ウイグル自治区西部までを支配し、12世紀前半に滅びた。また10世紀後半にガズニ朝が出て、現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン東部、アフガニスタン、パキスタンを支配し、12世紀前半に滅んだ。中央アジアから西進し11世紀前半に成立したセルジューク朝は、現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン、イラク、シリア、イスラエル、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジアを支配し、12世紀後半に滅んだ。11世紀末に興ったホラズムシャー朝は、ウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン、アフガニスタン、パキスタンを支配し、13世紀前半に滅んだ。その他イランではカラコユンル、アクコユンル、サルグル、アフシャールの各王朝が出ている。オスマン朝については上記の通り。現在、トルコ民族はバルカン半島からシベリアまで広範囲に居住している。

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