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トルコ東部旅行(エルズルム・歴史とチフテ・ミナーレ)

エルズルムに着いた。
画像はエルズルム駅近くのスーパー、ミグロス前。
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エルズルムは東部アナトリア最大の都市で、海抜1950mの台地の上にある。
特産品は、エルズルム・オルトゥ・タシュと呼ばれる黒い石を加工したアクセサリー。

エルズルムの歴史を書き出してみます。

390年以降、ここはビザンツ帝国の領域であり、アルメニアをサーサーン朝ペルシアに取られたビザンツ帝国にとって東の境界線になった。

415年頃、テオドシウス帝は市街を三重の城壁で囲った。
ここはテオドシオポリスと呼ばれた。

502年、サーサーン朝に占領されたが506年に返還された。

632年に宗教会議が開かれ、アルメニアの教会をギリシア正教に入れることが決まった。

655年、アラブ・イスラム帝国に占領される。
アラブ人はここをアルズ・エル・ラム、ローマ人の地と呼んだ。

アラブ・イスラム帝国におけるアリー派とウマイヤ家の争いに乗じて、ビザンツ帝国が取り戻した。
しかしウマイヤ家がカリフ位を継ぐとまた奪われた。

751年、ビザンツ帝国のコンスタンチヌス5世が占領、破壊した。

町の名前がカリンになった。

1049年、セルジューク朝が攻撃した。

1071年、マラーズギルドの戦いでセルジューク朝がビザンツ帝国を敗ると、ここはセルジューク朝の支配下におかれた。

13世紀前半、ホラズムシャー、ジャラール・アッディーンとルーム・セルジューク朝のカイクバードがここをめぐって争った。

1242年、モンゴル軍が占領した。

1400年、ここを出発したティムールがアンカラの戦いでオスマン朝のバヤズィト1世を敗った。

1515年、オスマン朝が占領した。

1622年、イェニチェリ軍の改革を行おうとしたオスマン朝のオスマン2世がイェニチェリに殺されると、イェニチェリの横暴に抗議したエルズルム州知事アバザ・メフメト・パシャが反乱を起こした。
反乱はアナトリア全土に広がった。

1919年、連合軍に対する抵抗運動の指導者、ムスタファ・ケマルがここで会議を開き、アナトリア東方諸州が「オスマンの祖国」から分離できないことを宣言した。


まずチフテ・ミナーレを見に行った 39°54'20.05"N 41°16'42.29"E。
ルーム・セルジューク朝のカイクバード2世の娘、あるいはイルハン朝のゲイハトゥの妻によって建てられた神学校だという。
いずれにせよ、ポーロ一行が訪れた1272年には間に合っていないだろう。
しかし角のような二本のミナレットを構えた重厚な姿は一見に値する。
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入り口のレリーフ。
これも双頭の鷲と生命の樹だろうか。
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鍾乳石飾り。
何とも言えないこの色合い、素晴らしいです。
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中に入りました。
アーチが連なった荘重な側面部分。
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側面の壁がんです。
細やかな模様が施されています。
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奥の壁がんです。
霊廟の入り口部分です。
壁が削り取られています。
恐らく19世紀にロシア軍がはぎとっていったのでしょう。
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霊廟の中です。
光が反射して荘厳な雰囲気です。
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ゴシックの教会堂の中にいるようです。
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下の入り口の中です。
何なのか良く分かりませんでした。
Aさんに聞けばよかった・・。
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霊廟の入り口から神学校の入り口方向を見たところです。
曲線と直線がマッチして美しさを醸し出しています。
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霊廟を外から見たところです。
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中で見たあの光は人工かな?
残念ながらここで腹痛に耐えられなくなりました。
ウル・ジャーミィーから出てきた人にトイレの場所を聞いて、駆け込みました。
どうも便秘用の薬を飲みすぎて、腹は下っているのですが中々出せないという妙な状態に陥っているようです。
観光も忘れて長時間トイレに篭ってしまいました。

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