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2010年1月

トルコ東部旅行(エルズルムからドウバヤズットへの途上・ハサン・カレとチョバンデデ橋)

13:29、出発。
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これでエルズルムともお別れです。
本当はウル・ジャーミィーもしっかり見たかったし、ララ・ムスタファ・パシャ・ジャーミィーやユチュ・キュンベットレル、城砦もひと目見たかったのですが、腹痛のおかげでパーになりました。
まあ仕方がないな。

相変わらず、道の両側の山脈が続いています。腹痛も相変わらずです。
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13:57、パシンラー通過。
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14:00、すぐそばのハサン・カレを仰ぎ見る 39°58'41.77"N 41°40'52.89"E。
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トルコは山城が多いですね。
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14:09、列車が道の下を南から北へ走っていった。

14:14、道路と並行しているアラス河にいかにも古そうな橋を発見。
チョバンデデ橋という名前だ 39°58'10.69"N 41°53'18.23"E。
車を降りた。
このレンガの色合い、何とも言えません。
イルハン朝のガザン・ハンの時代(1295~1304年)、知事のエミール・コバン・サルドゥズによって1297,8年に造られた。
長さ128m、幅8.5m、橋脚は7つある。
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橋の上。
通行止めになっていて渡ることはできません。
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東側から見たところ。
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再び出発。
14:20、牧畜風景が見られた。
14:30、ホラサン通過。
相変わらず南側に山脈が連なっている。
腹痛のため、景色を見る余裕があまりない。
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14:57、エレスキルト通過。岩が多い。
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このように岩が林立している。
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15:40、アール 39°43'5.66"N 43° 3'2.61"Eのガソリンスタンドでトイレ休憩。
少し楽になった。
15:53、出発。
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16:08、ムラト分岐通過。
広大な景色が続く。
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「なおこの国には夏向き家畜に好適な牧地があるものだから、夏になると近東タルタール人の軍隊がこぞってこの国に駐留する。
ただし夏にはこのように移動して来るタルタール軍隊も、冬期は降雪多量のため寒気が厳しくて家畜の飼料が皆無となるから、残らず引き揚げて駐留するものはいない。
彼らはこの国を去り、牧草の豊かな牧地を求めて、もっと暖かな土地に移動するのである。」
東方見聞録のこの記述を髣髴とさせる光景。
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悪いことは続くものである。
カメラがとうとうシャッターを切れなくなった。
2003年のトルファンでも故障してかなり落ち込んだ(あの時はこれが原因で高熱で倒れたのではないかと半分信じている)が、今回は教訓を生かし、デジカメに加えて使い捨てカメラ2台を持ってきている。
落ち込んだことは間違いないが、残る観光も実質明日のみの今の状況では被害は少なくて済みそうだ。
ここからデジカメ、使い捨てカメラでの撮影になります。
16:18、タスリカイ通過。
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16:30、ついにアララト山(アール山)がその姿を現した。
だがカメラ故障により喜びも今ひとつ。
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山懐の集落。
素晴らしい眺めです。
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アララト山の姿も次第に大きくなってきました。
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折り重なる山々の眺め。
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夕日を浴びています。
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赤茶けた大地。シルクロードの色です。
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トルコ東部旅行(エルズルム・ヤクティエ神学校と昼食)

やっと出てきて今度はヤクティエ神学校の観光です 39°54'22.76"N 41°16'19.59"E。
1310年にイルハン朝の将軍、ホジャ・ジェマレッティン・ヤクートによって建てられました。
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これも実に見事なレリーフです。
色々な文様が刻み込まれています。
タイルの微妙な色合いも美しい。
残念ながら中には入れませんでした。
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ここにも双頭の鷲、生命の樹、ライオンのレリーフがあります。
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こちらの方は双頭の鷲がよりはっきりしています。
片方の頭が取れていますが。
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入り口の鍾乳石飾りです。
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四隅にあるミナレット。
今は一本しか残っていません。
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レンガのオレンジとタイルの青の組み合わせ、大胆な網目模様がとても個性的です。
野生的とも感じました。
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観光を終えて昼食です。
場所はエルズルムでも有名なゲルギョル。
なのに腹が痛くて食事はあきらめました。
またトイレに直行です。
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トイレから戻って、このヘーゼルナッツがかかったエルズルム名物のお菓子だけ食べました。
後はお湯だけ。
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私は食事はあきらめたので、外の様子を見に出かけました。
ご婦人が熱心にエーラムを見ています。
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通りには山盛りの果物の屋台が出ていました。
道路の先に雪山が見えます。
ここにはトルコ最良の雪質を誇るパランドケン・スキー場があります。
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山の中なのに新鮮な魚を売っていました。
近くの湖で採れたものでしょうか?
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他にもちょっと古そうな(といっても19世紀くらい)モスクがありました。
エルズルムというとその軍事都市という過去とあいまって、このような赤鉄色をイメージしてしまいます。
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トルコ東部旅行(エルズルム・歴史とチフテ・ミナーレ)

エルズルムに着いた。
画像はエルズルム駅近くのスーパー、ミグロス前。
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エルズルムは東部アナトリア最大の都市で、海抜1950mの台地の上にある。
特産品は、エルズルム・オルトゥ・タシュと呼ばれる黒い石を加工したアクセサリー。

エルズルムの歴史を書き出してみます。

390年以降、ここはビザンツ帝国の領域であり、アルメニアをサーサーン朝ペルシアに取られたビザンツ帝国にとって東の境界線になった。

415年頃、テオドシウス帝は市街を三重の城壁で囲った。
ここはテオドシオポリスと呼ばれた。

502年、サーサーン朝に占領されたが506年に返還された。

632年に宗教会議が開かれ、アルメニアの教会をギリシア正教に入れることが決まった。

655年、アラブ・イスラム帝国に占領される。
アラブ人はここをアルズ・エル・ラム、ローマ人の地と呼んだ。

アラブ・イスラム帝国におけるアリー派とウマイヤ家の争いに乗じて、ビザンツ帝国が取り戻した。
しかしウマイヤ家がカリフ位を継ぐとまた奪われた。

751年、ビザンツ帝国のコンスタンチヌス5世が占領、破壊した。

町の名前がカリンになった。

1049年、セルジューク朝が攻撃した。

1071年、マラーズギルドの戦いでセルジューク朝がビザンツ帝国を敗ると、ここはセルジューク朝の支配下におかれた。

13世紀前半、ホラズムシャー、ジャラール・アッディーンとルーム・セルジューク朝のカイクバードがここをめぐって争った。

1242年、モンゴル軍が占領した。

1400年、ここを出発したティムールがアンカラの戦いでオスマン朝のバヤズィト1世を敗った。

1515年、オスマン朝が占領した。

1622年、イェニチェリ軍の改革を行おうとしたオスマン朝のオスマン2世がイェニチェリに殺されると、イェニチェリの横暴に抗議したエルズルム州知事アバザ・メフメト・パシャが反乱を起こした。
反乱はアナトリア全土に広がった。

1919年、連合軍に対する抵抗運動の指導者、ムスタファ・ケマルがここで会議を開き、アナトリア東方諸州が「オスマンの祖国」から分離できないことを宣言した。


まずチフテ・ミナーレを見に行った 39°54'20.05"N 41°16'42.29"E。
ルーム・セルジューク朝のカイクバード2世の娘、あるいはイルハン朝のゲイハトゥの妻によって建てられた神学校だという。
いずれにせよ、ポーロ一行が訪れた1272年には間に合っていないだろう。
しかし角のような二本のミナレットを構えた重厚な姿は一見に値する。
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入り口のレリーフ。
これも双頭の鷲と生命の樹だろうか。
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鍾乳石飾り。
何とも言えないこの色合い、素晴らしいです。
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中に入りました。
アーチが連なった荘重な側面部分。
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側面の壁がんです。
細やかな模様が施されています。
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奥の壁がんです。
霊廟の入り口部分です。
壁が削り取られています。
恐らく19世紀にロシア軍がはぎとっていったのでしょう。
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霊廟の中です。
光が反射して荘厳な雰囲気です。
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ゴシックの教会堂の中にいるようです。
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下の入り口の中です。
何なのか良く分かりませんでした。
Aさんに聞けばよかった・・。
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霊廟の入り口から神学校の入り口方向を見たところです。
曲線と直線がマッチして美しさを醸し出しています。
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霊廟を外から見たところです。
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中で見たあの光は人工かな?
残念ながらここで腹痛に耐えられなくなりました。
ウル・ジャーミィーから出てきた人にトイレの場所を聞いて、駆け込みました。
どうも便秘用の薬を飲みすぎて、腹は下っているのですが中々出せないという妙な状態に陥っているようです。
観光も忘れて長時間トイレに篭ってしまいました。

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トルコ東部旅行(テルジャンの霊廟とキャラバンサライ)

10:03、テルジャンに着いた。
ここでは12世紀末~13世紀初頃に造られたママ・ハトゥン霊廟と隊商宿を見る。
10:09に霊廟着 39°46'39.69"N 40°23'11.78"E。
霊廟は雪原の中にあった。
円形をした霊廟である。
道路から参道のような道が霊廟まで伸びている。
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細かく装飾された入り口。
所々磨り減っているのが残念だ。
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中には入れなかった。
中央には太い円柱を束ねたようなはじめて見る形の建物があった。
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周囲の壁には壁がんがあり、それぞれ棺のようなものが置かれている。
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中央部の建物の屋根は、円柱の束を一点に収束した形になっている。
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離れた場所から見ると、全体の丸い形が良く分かる。
背景には白銀の山すそが広がっている。
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気がつくと、ここは墓地であった。
墓石が所々に立っている。雪に隠れてよく見えなかった。
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墓地の隣には隊商宿がある 39°46'38.71"N 40°23'7.96"E。
角柱が屋根からにょきにょき伸びている。
煙突か換気口か?それにしても数が多い。
たぶん宿の各部屋に付けられているのだろう。
それと、さっきから体調がおかしいようだ。お腹が痛くなってきた。
雪原を急いで歩き回ったせいだろうか?
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痛いのを我慢して隊商宿の入り口に向かった。
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入り口を入ったすぐのところはアーチになっている。
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一番奥の壁がんか馬小屋だったと思われる場所には、ガラスが取り付けられていてレストランに改造されていた。
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中庭の奥の一角から入り口方向を見る。
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10:29、出発。

平地では牧畜、あるいは小麦畑が広がっている。
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この時期はほとんど雪で覆われている。
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エルズルム[トルコ]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/europe/turkey/erzurum/

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トルコ東部旅行(エルズィンジャンからテルジャンへの途上)

9:00、温泉を後にして本道をエルズルムに向かう。
この付近にはアルティン・テペという紀元前8,7世紀の都市遺跡があるはずである。
アルティン・テペ(黄金の丘)はウラルトゥ王国の王宮や神殿が発見された高さ3,40メートルの丘である。
青銅で出来た奉納物や装飾された謁見の間の壁が見つかっている。
目を凝らしたが場所はよくわからなかった。
9:08、UZUMLU分岐通過。
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エルズィンジャンから道路と並行して鉄道が通っている。
9:40、鉄道駅があってそこに列車が停車していた。
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機関車が輸送していたのは十両ばかりの戦車だった。
ある本にも戦車や軍のトラックを見たと書いてあった。
エルズィンジャン~エルズルム間は軍の移動が多い場所なのだろう。
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トルコ東部旅行(エルズィンジャン・エクシ スの温泉)

8:00~8:35、ホテルのレストランで朝食を摂る。
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ここでAさんに「エルズィンジャンの温泉」に行けないか相談する。
やっぱりここまで来たら行かないわけにはいかない。
Aさんは快諾してくれた。

8:40、ホテルを出発。
少し車で走ると、思わず嬉し泣きしそうになる。見えたのだ、「EKSI・SU(エクシ・ス)」と書かれた看板が。

その看板を見たとき、「バイクでシルクロード」に書かれている次のシーンが頭に浮かんだ。
「バイクでシルクロード」の著者セヴェリンと仲間は暗がりの中、硫黄臭い湿地帯の中を温泉を探していた。
たまたま水牛を連れた農夫に会い、彼に言った。「エクシ ス(苦い水)」。
農夫はうなずき、硫黄分を含んだ水は水牛に良くないとゼスチュアで示した。
セヴェリンは「セジャク ス(熱い水)?」と尋ねた。
農夫はけげんそうな顔つきをしていたが、やがてうす暗がりの方を指差した。
セヴェリンが念願の温泉を見つけた瞬間だった。

8:55、そしてやってきました。
本道からそれたこの場所へ。
もうもうと湯気が立っていて温泉だとすぐにわかった。
本当に温泉があったんだ。
ただし、「バイクでシルクロード」に出てくる「小さな廃寺のような建物」はない。
セヴェリンの見つけた場所とは違うかもしれない。
ただセヴェリンが訪れたのは40年以上も前である。
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すごい勢いで噴出しています。
温度は130度だとか。
ここは地元の人しか入りにこないそうだ。
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あふれ出たお湯で湿地帯のようになっている。
凍てついた山脈を背景に湯気が上る景色を見ていると、露天風呂に漬かりたくなってきた。
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朝日にきらきらと輝く温水(カプル・ジャ)。
Aさんがなめてみたら苦かったとか。なめれば良かった。
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源泉のプール。熱いだろうけど気持ち良さそうだ。
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ここの看板。
何が書いてあるのかはわからない。
カメラの故障で変な写り方になってしまった。
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温泉から見た山脈のパノラマ。まさに絶景だ。
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トルコ東部旅行(エルズィンジャン・朝の景色と「大アルメニア」について)

3月25日

5:20に目が覚めた。
昨晩もあまり眠れず、しかも変な夢を見た。
悪夢ではないがよくもない。
早速今日の天気はどうかな、と思い外を見ると、果たして晴れだった。
5:47、カメラを持って山脈を撮りに出かける。
外は寒く、道路には氷が張っていた。
南側の山脈は少しピンク色が射している。
ようやくにして訪れた好天気の朝。
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モスクのそばの空き地にはなぜか犬がいて、気になるので避けて通った。
住宅地が山脈をさえぎらない場所まで進んでパノラマを撮る。
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今度は北側の山脈のパノラマを撮った。
東側の空は、朝日がまばゆい。
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近くのモスクは新しすぎて風格に欠けるのが残念だけど、山脈をバックにした姿は様になると思って撮ってみました。
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今日のスケジュールですが、エルズィンジャン→テルジャン(ママ・ハトゥンの霊廟と隊商宿)→アスカレ→リリカ→エルズルム(チフテ・ミナーレ→ヤクティエ神学校)→パシンラー→ホラサン→エレスキルト→アール→ドウバヤズットになります。
今回の旅行中最長の距離です。
ただし観光場所が少ないのと道路が良いのとで、出発は8:30ということになりました。

今日の行程は東方見聞録では「大アルメニア」と呼ばれる地域になります。
ここエルズィンジャンはその入り口になります。
東方見聞録の大アルメニアの章の記述を書き出して見ます。

「大アルメニアは広大な国である。
その国の入り口に当たってアルジンガンという都市があり、そこで世界無比の硬麻布(バックラム)が製造されるほか、各種の工芸が栄えている。
この国にはよそでは見られない良質の温泉場がある。
住民はアルメニア人で、タルタール人に臣属している。
数ある都市の中で最も立派なのがアルジンガンで、大司教の所在地となっている。
これに次いではアルジロンといって、銀の産出に富む町があり、又アルジジの町がそれに次ぐ。
主要な銀鉱山の一は、トレビゾンドとトーリスを結ぶ公道に沿ったパイプルト村にある。
とにかく大アルメニアは広大な国である。
なおこの国には夏向き家畜に好適な牧地があるものだから、夏になると近東タルタール人の軍隊がこぞってこの国に駐留する。
ただし夏にはこのように移動して来るタルタール軍隊も、冬期は降雪多量のため寒気が厳しくて家畜の飼料が皆無となるから、残らず引き揚げて駐留するものはいない。
彼らはこの国を去り、牧草の豊かな牧地を求めて、もっと暖かな土地に移動するのである。
この国にはまたその中央部にコップ型の高山があって「ノアの箱舟山」と称せられているが、その理由はこの頂上に箱舟が安着したという伝説に基づく。
この山は山体がすばらしく広大で、周回するには二日以上もかかるし、深い万年雪に覆われているため、まだ山頂を窮めたものは誰もいない。
この雪解け水に潤わされて、山麓の緩い傾斜面では草の生育が旺盛で、夏になると近隣の各地からこの牧草を目当てに多数の人々が家畜を連れてやってくる・・・」

アルジンガンはエルズィンジャン、アルジロンはエルズルム、アルジジはヴァン湖北岸のアルジッシュ、パイプルトは世界遺産のバイプルト、「ノアの箱舟山」はアララト山(アール山)を指す。
前回、「エルズィンジャンの温泉」の話が出たが、この記述では必ずしも温泉はエルズィンジャンにあるとは限らないことになる。
しかし「バイクでシルクロード」に掲載されている東方見聞録の記述は次のようになっている。

「大アルメニアの地方は広い。
その入口にはエルジンジャンという町があり、世界でも最良のバックラムを産し、数々の手芸品をつくっている。
町のどこを掘ってもりっぱな温泉や天然の泉がでる。」

このように温泉はエルズィンジャンのものであることが明確になっている。
東方見聞録にはその写本の過程で様々なバージョンが生まれており、古写本・古版本だけでも140種に上るという。
さらにそれを別の言語で訳出したり独自の注釈をつけたりしたものが存在するので、その内容にも大きな差異があってもおかしくない。
今のところ、原本は発見されていないので、どれが本当の記述なのか良く分かっていない。
ただ言えるのは、私が引用している東方見聞録(完訳東方見聞録・平凡社ライブラリー)と、「バイクでシルクロード」の著者セヴェリンが引用した東方見聞録とは違うということだけである。

「大アルメニア」とはローマ帝国のアルメニア属州の領域をほぼ指すのではないかと思う。
現在のアルメニア共和国とトルコ共和国東部に当たるのではないか。

古代オリエント時代、アルメニアはアケメネス朝の知事が治める領域だったが、オロンテス朝として独立した。
ヘレニズム時代の紀元前2世紀、セレウコス朝がローマとの戦いに敗れて弱体化するとアルタクシアス朝が独立、紀元前1世紀前半にはシリア、カッパドキアにまで領域を拡大した。
しかし紀元前1世紀半ばにはローマとの戦いに敗れて獲得した領土の全てを失った。
以降、アルメニアはローマ帝国とイランのアルサケス朝パルティア王国の狭間にあって両国の属国化した。

エルズィンジャンの「世界無比の硬麻布」については、「バイクでシルクロード」の中で探索の試みがなされている。
興味がある方はご覧ください。
エルズルムは本日、アララト山麓へは明日訪問する。
エルズィンジャンの歴史については、残念ながらよく知りませんが、13世紀前半にはメンギュジク朝が支配し、1228年にルーム・セルジューク朝が占領したこと、1230年にエルズィンジャン西方のヤッス・チメンで、ルーム・セルジューク朝とアイユーブ朝の連合軍がホラズムシャー、ジャラール・アッディーンを敗ったこと、が本に書いてありました。
また、エルズィンジャンはぶどうと銅製品で有名です。

6:20、部屋に戻った。

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トルコ東部旅行(エルズィンジャン・ホテルと周辺の夕景と夕食)

16:40、「大アルメニア」の入り口、エルズィンジャンの家々が見えてきました。
そして市の中心部を通過。
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16:55、ホテルに着きました 39°44'27.40"N 39°31'6.60"E。
廊下が真っ暗。停電かと思いきや、人が近付いて来た時だけ明かりがつくようになっている。通り過ぎるとまた消える。エコですね。
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小奇麗な部屋に入って、ようやく落ち着いた。
激動のドライブであった。
窓からえらく高そうな山脈がそそり立っているのが見える。
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ここも小さな浴槽がついている。
カーテンじゃなくて窓ガラスで仕切られるのは中々良いです。
お湯がこぼれる心配もないし、保温性も良さそうです。
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窓から見えた山並みに魅せられて、外に写真を撮りに出かけました。
明日になるとまた悪天候で見えないかもしれません。
ホテルから道路を渡って周囲を見渡すと、南北の山脈に目を奪われます。
まるで壁のようです。
山脈の一部を撮影したものです。
ホテルは町外れなので、あたりにはほとんど何もありません。
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こちらは同じ山脈をデジカメで撮ったパノラマ。
もうだいぶ日が翳っています。
岩肌に張り付いた雪を見ていると、本当にアナトリアの奥地にきたんだなあと多少心細くなります。
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反対側の山脈のパノラマです。中央に見えるのがホテルです。
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このあたりは住宅街なのか、トルコ風の一戸建てが立ち並んでいます。
人影は近くのモスクくらいしか見当たりません。
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山の陰に日が沈もうとしています。
それにしても大きな山です。
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19:30~20:30、ホテルのレストランでバイキングの夕食を食べる。
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どこかの政党の大物が来るらしく、ホテルの従業員は少しピリピリしている。
我々はそんなレストランの片隅で、男三人でトルコの「風俗」について話していた。

食事の終わりごろ、私は前々から気になっていた事をAさんに聞いてもらうことにした。
それはエルズィンジャンの温泉についてだった。
今から40年以上も前に、「バイクでシルクロード」の著者ティモシー・セヴェリンと仲間は、東方見聞録に書かれている「エルズィンジャンの温泉」を苦労して見つけ出した。
それは町から13キロ離れた場所だと「バイクでシルクロード」に書いてある。
そこで実際にその温泉があるのかどうか、町の人に聞いて欲しかったのだ。

結果はあっけないものだった。
Aさんがホテルの従業員に聞くと、ここから7キロほどの場所にあるという答えが即座に返ってきた。
それを聞いて私はわくわくする心を抑えきれず、そしてその素晴らしい答えを聞いただけで満足した。

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トルコ東部旅行(エルズィンジャンへの途上)

13:53、スィワスを出発。
これで今日の観光は終わった。
後はひたすらエルズィンジャンに向かうだけだ。
まだ相当距離があるので気が抜けない。
また悪天候になるかと思うと・・。
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残雪はあるものの、本格的な春近し、といった風景です。
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カイセリからずっと、道の両側には山脈が続いています。
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14:38、ザラ通過。遠くの街並みが輝いている。
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だんだん山が迫ってきました。
そういえば1243年、ルーム・セルジューク朝はスィワス東方の山岳地帯キョセ・ダグでモンゴルに敗れた。
たぶんエルズィンジャンとの間だと思うが、どこだったんだろう。
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もう山の中にいる感じです。
15:10、クズキョイ通過。
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すごいことになってきました。
すぐ傍には3000mを超す山もあります。
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まるでスキー場に迷い込んだようです。
道は凍結しているし、まさかこんな場所を通るとは。
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15:43、アカルス通過。
さっきと同じ国を走っているとは思えません。
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15:55~16:02、レファイエでトイレ休憩。
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出発。
両側は2700~2800mの山脈に挟まれた隘路になっています。
絶壁が続いています。
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こんな山中にも集落があります。
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折り重なる山地。
遠くの山には3000m級の山もあります。
下の谷には多くの古代都市を生んだユーフラテス河上流フィラット・ネーリ河の小さい流れが続いている。
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やっと少し開けてきました。何事もなく本当によかった。
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周囲の風景はかなり開けてきました。
しかし実感として山の奥地に来た印象がぬぐえません。
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その他の都市[トルコ]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/europe/turkey/the_other_cities_of_turkey/

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トルコ東部旅行(スィワス・昼食とスィワス城砦)

12:31、食事に向かった。
公園のそばにはおいしそうなキャベツの露店があった。
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12:40、レストランで昼食。
私は鶏肉とピラフにしました。
飲み物はチェリーの缶ジュース。
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これはキョフテというトルコの代表料理です。
パンの下にあるのがそうです。牛のひき肉を練ってハンバーグみたいな形に焼き上げたものです。
食べやすくて美味しいです。
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これはエクメック・カダユフというシロップにひたしたケーキの上にクリームをのせたもの。
とても甘いですが美味しかった。
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それからトルコ・コーヒーも飲んでみました。底の沈殿物はあけてその形から占いにも使うそうだ。

13:45、スィワス城砦を見に行く 39°44'41.87"N 37° 0'53.17"E。
小山がそうだとわかるのだが、車で頂上に行くのに手間取った。
頂上は公園(カレ公園)になっており、遊具が置いてある。
あとたぶん売店だと思われる建物があった。
かつては聖ブレイズの礼拝堂があったようだが、今は何も残っていない。
14世紀にティムールによって破壊されたのではないか、と言っていた。
車で小山に登る途中に見た石積みが、城砦の名残だったかもしれない。
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ここに来て唯一の価値は、町が一望できることだ。
ここも山に囲まれた都市だということがわかる。
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左隅にチフテ・ミナーレが見える。
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遠くに見えるのは新しいモスクだろう。
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本当はパノラマにするつもりだったのが、カメラのズーム機能の故障でできなかった。
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割と近くにあるのがギョク神学校だ。
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トルコ東部旅行(スィワス・ブルジエ神学校、カレ・ジャーミィー)

シファーイエ神学校の隣にある、ブルジエ神学校 39°44'56.37"N 37° 0'55.59"E。
スィワスの人々に科学を教えるため命令によって1271年に作られたものらしい。
ということはポーロ一行は見たはずだ。
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入り口の装飾も細かくて他の建物に引けをとらない雰囲気。
でもチフテ・ミナーレのほうが装飾が上なのでガイドブック(地球の歩き方2008年版)に載っていないのだろうと思われる。
今回はチフテ・ミナーレの装飾をまともに見れなかったので、こちらでその代わりにする。
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装飾のアップです。
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延々と続くイスラムの幾何学模様。
古めかしいこげ茶色がいい味を出しています。
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ここは中に入れました。
この空間は何に使われていたのだろうか?お茶を飲みながら議論を交わしていたのか?
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正面の奥側。
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中に入るとミフラーブがある。お決まりの様式です。
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その他にも古そうな建物があった。
これは1580年に作られたカレ・ジャーミィー 39°44'55.75"N 37° 0'52.41"E。
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反対側から見たところ。
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トルコ東部旅行(スィワス・チフテ・ミナーレ、シファーイエ神学校)

次にチフテ・ミナーレに行った 39°44'53.47"N 37° 0'51.63"E。
1281年のルーム・セルジューク朝時代、イルハン朝の官僚シャムス・アッディーン・ムハンマド・ジュワイニーによって建てられた。
ポーロ一行は見れなかった。
ここも修復中で足場でよく見えなかった。
画像は裏側から見たところ。
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神学校だったそうだが、20世紀に崩壊して建物は残っていない。
残っているのは正面の入り口だけ。
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何とかミナレットに近づいてみた。
青いタイル部分もありギョク神学校のミナレットと似ているが、こちらは素朴な感じ。
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建物は石造りになっていて、ミナレットはレンガ造りになっているようです。
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こちらが正面。
細やかな装飾が残っているのがわかる。
スィワス最大の見どころと書かれているのでまともな状態で見たかったなあ。
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チフテ・ミナーレのすぐ隣、工事用の柵に囲まれてほとんど見れませんが、これがシファーイエ神学校です 39°44'53.77"N 37° 0'54.03"E。
エイヴァーンの上半分です。傷みが激しそうです。
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13世紀にルーム・セルジューク朝のスルタン、カイカーウス1世によって建てられた医学部と病院です。
彼の墓もこの中にあります。
塔や建物が見えますが、今回見れたのはこれだけです。
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トルコ東部旅行(スィワス・ギョク神学校)

次にギョク神学校へ 39°44'39.22"N 37° 1'1.01"E。
2本の太いミナレットが立つ姿は非常に目立ちます。
1291年、ルーム・セルジューク朝の宰相、サーヒップ・アタが建てたもの。
現在修復中のため、足場が組まれている。
ポーロ一行は見れなかったな。
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この青いタイルはイズニック・タイルで、クルチ・アルスラーン2世がイズニックを征服して使えるようになったとか。
ギョクとは空の青を意味していて、このタイルの青さから名づけられた。
タイルの周りはクーフィー文字で装飾されている。
ミナレットの頂には鉛の三日月が付いている。
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修復されたせいか、純白のエイヴァーンが美しい。
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近づけないので良く見えず残念だが、エイヴァーンの周りの装飾は細かくてとても綺麗です。
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そして、ここにも生命の樹の飾りがありました。
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建物の四隅の円柱部分です。ここも飾りが細やかです。
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壁面も白と黒を交互に配した、しゃれたデザインになっています。
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トルコ東部旅行(スィワス・ウル・ジャーミィー)

11:45、ウル・ジャーミィーに行く 39°44'49.26"N 37° 1'3.97"E。
12世紀、ルーム・セルジューク朝のスルタン、クルチ・アルスラーン2世によって建てられた。
高さ35メートルのミナレットが有名。地震で少し傾いています。
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イランで見た同時代のと同じ、いかにもセルジューク朝らしい風格を備えたミナレットです。
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八角形の土台の部分には、ほんの一部今でもトルコ石のタイルが残っている。
この青は空の女神(テンギリ)を表しているのだそうだ。
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この長方形のモスク自体は新しく建てられたものだろう。
お祈りの時間なので信者が集まりだしている。
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中の大広間の入り口。
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脇には時間を表示するパネルがあった。
何に使うのかわからなかった。
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シャンデリアが下がった大広間では、礼拝が始ろうとしていた。
厳粛な雰囲気。
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一角には墓地があった。
棺のような石の中に木が植えられている。
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トルコ東部旅行(スィワスの歴史)

昼前にスィワスに着いた。うってかわって好天気だ。スィワスはカイセリ、サムスン、マラテヤ、エルズルムからの街道が交差するアナトリア中央部の要所。ここにもおなじみのペンシル型ミナレットと鏡餅のようなドームがある。
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スィワスの歴史について、わかる範囲でまとめてみた。


スィワスの起源はヒッタイトだと思われる。ローマ時代にはセヴァステと呼ばれ、キリスト教徒が2世紀にこの場所に住んだ。東方見聞録にも書かれているようだが聖ブレイズ殉教の地である。ブレイズは4世紀のセヴァステの司教で、岩穴に住み、食べ物は動物から貰っていたという。動物たちは彼の行う奇跡の恩恵を受けていたようだ。ローマ皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教徒を迫害していた時代である。やがてブレイズも見つけ出され、毛織物をすく鉄の櫛で殺された。

ビザンツ時代、ここは大司教の管区になった。

575年、サーサーン朝ペルシアの王ホスロー1世がここを占領した。

712年、アラブ・イスラム帝国がここを占領した。

アルメニア王セネケリム・ホブハンズとアルメニア人たちがここに移り住み、1059年まで支配した。

1071年、ビザンツ皇帝が率いる20万の大軍がアルプ・アルスラーン率いるセルジューク朝軍に破れ、ここはセルジューク朝に占領された。名前がスィワスに変わった。

セルジューク朝が衰えるとダニーシュマンド朝が支配した。

ラッセル・ド・バイユール率いるノルマン人が侵入したが、ダニーシュマンド朝に捕らえられた。

11世紀の終わり、ダニーシュマンド朝はここを首都にした。

12世紀、ルーム・セルジューク朝が進出し、ダニーシュマンド朝はビザンツ帝国とともに対抗したが、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン2世がここを占領した。

1173年、ルーム・セルジューク朝との関係が悪化したザンギー朝のヌール・アッディーンが攻め込んで1174年までスィワスを占領した。

13世紀前半、ルーム・セルジューク朝の黄金期を作ったスルタンの一人、カイカーウス1世はここにシファーイエ神学校を建設し、彼は神学校の廟に葬られた。カイクバードは、スィワスに城壁を作って防御拠点にした。

1243年、スィワス東方のキョセ・ダグでモンゴル軍がルーム・セルジューク朝を破り、スィワスは無血占領された。モンゴル軍の本格的な進出で首都コンヤは勢いを失い、変わってスィワスはコンヤを凌駕する町になった。モンゴルの支配下においても、黒海、地中海と東方を結ぶ交易の町として栄えたそうだ。ジェノヴァの領事館が置かれ、ジェノヴァの警官隊が街道を警備していたという。

13世紀後半、モンゴルの知事が支配した。

知事のひとりエレトナが独立し、1378年まで支配した。

1378年、カディ・バーハン・ティンが支配した。彼は1396年、イランのアクコユンル朝との戦いで死んだ。

1400年、オスマン朝のバヤズィト1世と西アジアの覇者ティムールとの戦いが迫ったとき、ここの住民はオスマン朝についた。しかしこの年バヤズィト1世はここを二十日間しか支配できなかった。ここはティムールに攻撃された。スィワスの住民は子供たちにコーランを持たせ、城壁の前に並ばせて講和を請うた。しかし彼は重騎兵に、子供たちを踏み潰すよう命じた。市民は虐殺され、あるいは連れ去られた。兵士三千人が生き埋めにされたといわれる。町は焼かれて城壁は全て破壊された。

1919年、第一次大戦後の連合軍の進入に対して、抵抗運動の指導者ムスタファ・ケマルはスィワスで会議を開き、自らを「アナトリア・ルーメリア権利擁護委員会」と名乗り、オスマン領内の全抵抗運動を代表することを宣言した。

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トルコ東部旅行(スィワスへの途上)

再び雪原。奥に見えるのは湖だろうか。
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春と冬の境界線にいるような風景。
隊商宿を見て、再びポーロ一行の旅路に思いをはせる。
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途上には集落も多い。
サルキスラ近くの隊商宿ゲディク・ハニに行こうと探したが、見つからずにあきらめた。
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私が見た感じ、トルコの典型的な一戸建てはこんな感じだ。
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道の両側には山脈が連なっている。
だんだん山脈が道に近づいてきた。
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スィワスに行くに従い標高は上っている。
辺りはまた冬景色に戻る。
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道の北側、山のきわまで来た。
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標高は大体1700~1800mだろうか。
道の南側の遠くに見える山脈は2000mくらいだ。
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スィワス[トルコ]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/europe/turkey/sivas/

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トルコ東部旅行(スルタン・ハニ)

カイセリを出発したが、雪景色で真冬に戻ったかのようだ。
そういえばカイセリの近くにはエルジエス山という有名な山があると聞いていたが、結局悪天候で視界が悪く、見ることはできなかった。
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途中にはキュルテペという紀元前2000年頃のアッシリア商人の交易所の遺跡があるはずだ。
目を凝らしたが見つからなかった。
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雪も少なくなってきた。
9:32、ブンヤン村への分岐を通過。
次の目的地、スルタン・ハニの隊商宿を探す。
地図では道の南側にあるはずで、「スルタン・ハニ」と書かれた看板もあったのだが、Aさんによると違うらしい。
やがて道の北側の集落にそれらしき建物が見えてきた。(帰国後とある本を読むとやはり道の南側にあるようである。以下の画像はスルタン・ハニとして紹介するが、違う可能性もある事を事前にお断りします。)
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9:47、スルタン・ハニの隊商宿に着いた 38°58'22.49"N 35°53'42.96"E。
「マルコ・ポーロクエスト」という本で読んで以来、まさか本当に見られるとは思わなかった。
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1230年にルーム・セルジューク朝のカイクバード1世が「他のどんな隊商宿も田舎じみて小さく見えるように」作ったものらしい。
Aさんに言わせると壁の高さが9メートルなので中規模の隊商宿だとか。
2008年から修復が行われており、外側の壁面は復元されて美しい。
ただし中は修復中で、「マルコ・ポーロクエスト」に書かれていた中庭の真ん中にある「アンズ色の石で造られた四つの優美なアーチによって支えられた感じは、まるで宙に浮遊しているかのようで、まるで象嵌細工の宝石箱のように、軽やかで巧緻な彫刻が全体に施されている」小モスクを見ることはできなかった。
中には共同宿舎、浴場、個室、作業場、倉庫、台所、馬小屋があるそうだ。
浴場は蒸し風呂で、中庭の西隅にある。
スルタン・ハニの後部は、高い中央広間からなっている。

入り口の鍾乳石飾り。
この壁面の美しい色合いを見るだけで満足だった。
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周りを歩いてみた。
円柱や角柱の張り出し部分がある。
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壁には動物の顔が取り付けられていて、雨水がよだれのようにポタポタと口元から落ちている。
ちょうど雨上がりだから見れた光景だった。
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動物の顔は色んなところについている。
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角錐の屋根の塔と城壁を結ぶ連絡通路か建物がありそうだ。
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何とか中を見たいと思って近くの小屋の上に上って見たが、これが限界だった。
「マルコ・ポーロクエスト」の著者が言うように、ポーロ一行も泊まったに違いない。
なので尚更見たかったのだが。
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別の面には小さな入り口と、ここだけなぜか動物の顔が多い。
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カイセリ~スィワス間にはこのような隊商宿が大変多い。
このように堅固なつくりであれば、旅人も安心して眠れただろう。

周りの村の風景。
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イランに比べると建物が鮮やかだ。
アナトリア高原は乾燥しているといっても気温が低いため、天水が蒸発することもなく利用できる。
水の恵が豊かなのだろう。
イランの村はその点どうしても砂ぼこりにまみれている感がある。
9:55出発。

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トルコ東部旅行(カイセリ・フナトゥ・ハトゥン・キュルリイェスィ)

次に見に行ったのはフナトゥ・ハトゥン・キュルリイェスィ 38°43'14.90"N 35°29'28.47"E。
1237~1246年にルーム・セルジューク朝のカイクバード1世の妻フナトゥ・ハトゥンによって造られた、ジャーミィー、廟、神学校が集まった複合施設だそうだ。
ハマム(風呂)もあり、暖房はここから採っていたそうだ。
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ジャーミィーのものと思われる高い鉛筆型のミナレット、ドームが見えた。
よく見かける角錐の屋根もある。
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ミナレットの台座は白大理石でできているようだ。
こんな所にも鍾乳石飾りが施されている。
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ドームの素材は石だろうか?重厚感があってイランのドームとは違った雰囲気だ。
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神学校の入り口。雪が邪魔してよく見えない。
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入り口の鍾乳石飾り。
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中に入れた。
雪がしんしんと降っている様も趣があっていい。
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昔学生が学んでいた部屋は土産物屋になっている。
探すと昔の名残の彫刻が見られた。
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回廊には水タバコその他の土産物がずらりと並ぶ。
こちらも店は開いてなかった。
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一番奥には洞穴のようになっている。
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その奥にメッカの方角を示すミフラーブがある。
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脇の壁龕には燭台?が置いてあった。
火を灯したらいい感じになりそうだ。
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さて、一通り観光を終えたので地下通路を通って喫茶店で食事することにした。
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ちなみにポーロ一行が来た時点でカイセリに存在していたものとして、他にウル・ジャーミィーがある。
これは13世紀前半のダニーシュマンド朝時代に建てられた。
3つの側廊のある祈祷室、レンガで出来た1本のミナレットがあるそうだ。

ここは喫茶店というかファストフード店です。
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8:45~9:00に食事。
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ホテルで作ってもらった朝食のサンドウィッチを食べる。
さすがにお腹がすいたので大きなパン全部平らげた。
トルコのパンはおいしい。
温かいお茶で体を温める。
観光は終わったものの、天候が悪くてさすがに気が滅入ってしまった。
観光時間があまりとれない事もあるのだが、これは日程が少ないので仕方がない。
食事の時間もあまり取れないが仕方がない。
この先も天気が悪くないといいが。
悪天候でこの先予定通りにエルズィンジャンに着けるのか心配だ。

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トルコ東部旅行(カイセリ・カイセリ城)

次にカイセリ城に向かった 38°43'15.59"N 35°29'20.67"E。
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ここに最初に城が建造されたのはローマ帝国・軍人皇帝時代の3世紀、ゴルディアヌス3世の時代といわれる。
ビザンツ時代の5世紀、ユスチニアヌス1世の時代に改変が行われた。
現在の城砦はその遺構の上に建てられたらしい。
ルーム・セルジューク朝時代の13世紀、カイクバードの時代だった。
城は15世紀前半のズルカドル・ベイリクの時代と15世紀後半のカラマン・ベイリクの時代、オスマン朝のメフメト2世の時代に復元・強化された。
つまり、ルーム・セルジューク朝時代の城らしく、ポーロ一行も見たのではないかと思われる(モンゴル軍に破壊されていた可能性もあるが)。
道行く人の格好は日本とそう変わらない。
画像は城の北側。
櫓は正方形または長方形で、全部で19ある。

城の北東の入り口。
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火山岩からなる城壁には重厚感が漂っている。
中世の城は渋くて素晴らしい。
入り口は南西にもあるが、こちらは防御用の外塁が備わっており二重門になっているらしい。
残念ながら見ることはできなかった。

入り口はそれほど大きくない。
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左脇に説明板がある。
画像の最下部に彫刻のようなものが見えるが、獅子だったろうか?
落ち着いて見れなかったので見落としてしまった。

城内にはバザールの店が立ち並んでいる。
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時間が早いせいか店は開いていない。
中にはファティフ・ジャミと呼ばれる小さなモスクがあるそうだが確認できなかった。

雪が降って閑散としているせいか荒廃しているように感じる。
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城内はそれほど広くはなく、バザールにはちょうど良い広さだ。
けれども城の雰囲気を感じるにはバザールの店舗は邪魔ではないか。
テーマパークにして昔の兵隊でも歩かせたらたまらないのだが。
昔はこの中に町があったそうなので、もしかしたらこの風景は当時の姿に近いのかもしれない。

門を埋めたような跡も見られる。
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城壁の上に上がる階段があったが、店舗の裏なので行くことができない。
上がって城内を俯瞰して見れたら面白いと思ったのだが。
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城外に出た。
雪はますます勢いを増して降り止む気配がない。
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いつの時代のものかわからない。
ユスチニアヌス1世の時代だろうか?町の所々に城壁がある。
これは先ほどの城壁と違ってアーチが連なっていて美しい。
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トルコ東部旅行(カイセリ・サハビエ神学校)

次にサハビエ神学校に向かった 38°43'24.09"N 35°29'12.95"E。
サハビエ神学校はルーム・セルジューク朝時代の1267年に建てられた。
この時代既にモンゴルに服属していたが、優れた建築物の建設は行われていたらしい。
ここには60人の学生がいてイスラム教の他数学、科学を学んでいた。
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付属する水のみ場。
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入り口。
左右の細やかな彫刻が見事だ。
中には残念ながら入れなかった。
中には鍾乳石模様のアーチ型の壁がん、三方を回廊で囲まれた長方形の中庭があるそうだ。
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鍾乳石飾り。
カメラのズーム機能の故障で周りの彫刻が写らなかったのが残念。
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トルコ東部旅行(カイセリ・医学史博物館、ミマール・スィナン公園、アタテュルク公園)

次に医学史博物館に行った 38°43'26.03"N 35°29'3.10"E。
ルーム・セルジューク朝のカイホスロウ一世が1205年に医学部兼マドラサとして建てた。
次のような逸話があるという。
王の娘ケブヘルネシベ・スルタンが高級将校と恋に落ちた。
将校は王に結婚を願い出たが、王は断り、戦争に勝ったら認めると言った。
将校は勝ったが、王はまた断った。
将校は戦争で負った傷により死んだ。
娘は悲しみのあまり癌になって死んだ。
王は病気を治すため、この建物を建てたという。
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入り口は2つある。
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現在エルジエス大学がここを修復中で、入ることができない。
雪が降ってきた。
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中をのぞいてみた。
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古そうな水のみ場がある。
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窓から中をのぞいた。
隊商宿のように中庭を囲んだ造りになっているそうだ。
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重厚な色合いが何とも言えない塔。
イランのモスクにあるドームではなく、キリスト教会にあるような角錐の塔。
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ミマール・スィナン公園に立つ彼の像。
ミマール・スィナンは16世紀のオスマン帝国最高の建築家。
イスタンブールにある世界遺産のスレイマニエ・ジャーミィーを建設した。
彼はカイセリで生まれた。
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アタテュルク公園。
立っている像はトルコ共和国を建国したムスタファ・ケマル。
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トルコ東部旅行(カイセリ・ドネルキュンベット)

まず最初に向かったのがドネル・キュンベットという小さな霊廟 38°42'50.47"N 35°29'44.91"E。
ルーム・セルジューク朝のカイクバード一世が1218年に娘のために造ったものだ。
地下に埋葬所がある。
入り口は閉ざされていて中には入れなかった。
中に入ると入り口の上に人頭の猫のモチーフを見ることができるという。
またなかの壁がんは少しずつ回転するという伝説があるそうである。
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入り口の上の鍾乳石飾り。古色蒼然たる風情が何とも言えない。
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生命の樹のモチーフ。
樹の上には双頭の鷲が立っている。
生命の樹はイスラムのものではなくアナトリア古来から伝わる多神教の影響によるものだとか。
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別の面にある生命の樹と双頭の鷲。ライオンのモチーフもある。
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イスラムらしい細やかな幾何学模様の壁面。
この壁面は全部で12枚ある。
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霊廟は通りの真ん中に鎮座している。
台座は独特の形をしている。
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イスラム建築といえばイランのレンガ造りの黄土色の建物、というイメージがこびりついていたが、このような石造りの重厚感はキリスト教の建築を見ているようで新鮮だった。

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トルコ東部旅行(カイセリの夕食と歴史について)

19:20、大都市カイセリに入った。
19:25、ホテル到着。お疲れ様。
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部屋の状態。
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浴室の様子。小さいが浴槽もある。
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ホテルのレストランで食事。これはメニュー。
Bさんが出てこない。心配だ。
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マッシュルームスープ。
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サラダと、トマトソースとヨーグルトの中にひき肉・玉ねぎを包んだラビオリが入ったマントゥー。
カイセリの名物料理だ。味はすっぱい。
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牛肉、ピーマン、唐辛子の入ったケバブ。
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Bさんやっと来た。さすがに疲れた様子。腹の調子が悪かったようだ。今日は本当にお疲れさまでした。
部屋に戻って洗濯をして早々に寝た。
明日はカイセリ、シウァスの観光、楽しみだ。


3月24日

5時過ぎ、今日もモーニングコール前に起きてしまった。
時差ぼけのため良く眠れず。
外を見ると地面が濡れている。いやな感じだ。
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洗濯物はかなり乾いている。
シャワーを浴びて出発の準備をする。

今日の予定は、
カイセリ(ドネル・キュンベット→医学史博物館→ミマール・スィナン公園→サハビエ神学校→カイセリ城→城壁→フナトゥ・ハトゥン・キュルリイェスィ)→スルタン・ハニ(隊商宿)→サルキスラ→スィワス(ウル・ジャーミィー→ギョク神学校→チフテ・ミナーレ→シファーイエ神学校→スィワス城砦)→ザラ→レファーイエ→エルズィンジャン、
である。

昨日の後半および今日の行程は、東方見聞録の「トゥルコマニア地方」の章の部分に当たる。
その記述を以下に示す。

「トゥルコマニアの住民は三種類からなる。
第一は、マホメットを信じその教法に従うトゥルコマン人で、耳慣れない言語を使う単純な民である。
彼らの生業は牧畜であるから、山間であれ平地であれ、いやしくも好適な牧地のある所ならどこでも居住する。
トゥルコマン種といわれる良馬や高価で立派なラバを産する。
トゥルコマン人以外の二種類は、アルメニア人及びこれと雑居して都市・集落に住むギリシア人で、ともに商業や手工業に従事する。
世界でも無比に美しい絨毯や、深紅色そのほか色とりどりの高級絹布、そのほか種々な産物がある。
コニア、カエサリア、セヴァスタがこの国で最も主要な都市をなす。
このほかにも都市・集落の数は多いが、いちいちそれらに言及していては際限がないから省略する。
以上の三種族はいずれも近東タルタール人に臣属し、その選任した領主の統治を受けている。
トゥルコマニアについてはこれくらいにとどめ、次は大アルメニアの話に移ろう。」

トゥルコマニアとは、アナトリア半島内陸部にあったセルジューク家の分家、ルーム・セルジューク朝の領域をほぼ指すものと思われる。
13世紀前半、モンゴル軍がイランに侵入すると多くの文化人が安定したルーム・セルジューク朝の宮廷に避難し、ここは当時の西アジアの文化の中心地になった。
多くの建築物、城郭、宮殿、モスク、マドラサ(神学校)、隊商宿、病院が造られた。
その中心は首都コニア(コンヤ)、カエサリア(カイセリ)、セヴァスタ(スィワス)であった。

トゥルコマン人とは20あるトルコ民族の集団のうち、オグズと呼ばれる集団に属するクヌク氏族から出たセルジューク家に従い、イスラム化した遊牧民を指すようだ。

11世紀に西アジアを席巻したセルジューク朝は、1071年にアナトリア東部のマラーズギルドでビザンツ軍を破った。
これ以降、セルジューク朝の統制に不満を持つ多数の「トゥルコマン人」がアナトリアに流入した。
その後セルジューク朝によりアナトリアに派遣されたセルジューク家の一員であるスライマーンが建てた王朝がルーム・セルジューク朝である。
ルーム・セルジューク朝は東方への進出をもくろんでイラン・イラクの本家セルジューク朝とたびたび争ったがその度に負け、アナトリアの支配に専念するようになった。
ライバルであるダーニシュマンド朝、ビザンツ帝国、サルトゥク朝、メンギュジク朝、アイユーブ朝に勝利してアナトリア中央部を根拠地とする政権を確立して西アジアの強国になった。
その最盛期は13世紀前半で、カイホスロウ一世、カイカーウス一世、カイクバードの治世のときである。
それまで内陸国家だったルーム・セルジューク朝はこの時期黒海沿岸と地中海沿岸に拠点を得て、海洋への進出を果たした。
政治的に安定したこの時期に、経済的・文化的に大いに繁栄し、12世紀に滅亡していた本家セルジューク朝の後継国家と目されるようになった。
しかしポーロ一行が訪れた13世紀後半には、その勢いは失われていた。
1243年、ルーム・セルジューク朝軍はスィワス東方のキョセ・ダグで、バイジュ・ノヤン率いるモンゴルのタマー軍に壊滅させられたのである。
この時はまだモンゴルに貢納義務を負うだけで済んでいたが(むしろルーム・セルジューク朝軍はモンゴルと同盟した小アルメニア王国を攻撃したりした)、フラグ指揮によるモンゴル帝国の中東遠征が始ると、タマー軍はアナトリアへの移動を命じられた。
1256年、ルーム・セルジューク朝軍は再びタマー軍に敗北し、ルーム・セルジューク朝のスルターン位はモンゴル帝国の決定に基づくものとなり、属国化した。
フラグが西アジアにイルハン朝を創建すると、ルーム・セルジューク朝はその過酷な貢納要求を受けるようになった。
ポーロ一行がトゥルコマニアを訪れたのはこのような時期である。
今日はポーロ一行も目にしたはずのルーム・セルジューク朝期の数々の建築物を観光する。
そして「大アルメニア」の入り口であるエルズィンジャンに宿泊する。

東方見聞録で気になるのはトゥルコマン人を単純な民と書いている点である。
となるとポーロ一行は、イスラーム文化の担い手であるトゥルコマン人には会うことがなく、牧畜を営むトゥルコマン人にしか会わなかったという事になるのだろうか?
モンゴル帝国の使節である彼らがルーム・セルジューク朝の宮殿で文化的なトゥルコマン人に会わなかった、というのは考えがたいとも思われるのだが。
商取引上、商業や手工業の担い手であるアルメニア人やギリシア人と会ったことは確実だろう。
結局ポーロ一行は使節というより商人に過ぎなかったのではないか、とも思えてくる。

「トゥルコマン種といわれる良馬や高価で立派なラバ」、「世界でも無比に美しい絨毯や、深紅色そのほか色とりどりの高級絹布」については、以下の2著作において探索の試みがなされている。
興味がある方は読んでみてください。

書名:バイクでシルクロード  副書名:マルコ・ポーロの道を行く  シリーズ:現代教養文庫 1077
著者名:T.セヴェリン/著 , 中川弘/訳  出版者:社会思想社

書名:マルコ・ポーロクエスト  副書名:フビライの古都へ  シリーズ:世界紀行冒険選書 20
著者名:ウィリアム・ダーリンプル/著 , 大出健/訳  出版者:心交社

7:00、AさんBさんとホテルのロビーで待ち合わせてカイセリの観光に出発する。
カイセリの建物はポーロ一行が通過した1272年頃に存在していたものが多いので楽しみだ。

画像はホテルの入り口。
109a
トルコ語で「おはよう」を教えてもらう。「ギュナイドゥーン」というそうだ。


ここで私がわかる範囲でカイセリの歴史について書いておきます。

ヘレニズム時代には、カッパドキア王国の首都マザカだった。

1世紀のローマ時代に、第二代皇帝ティベリウスによって町の名前がカエサリアに改名された。

4世紀に、聖バジルがこの町の北に教会と修道院を作った。

7~9世紀、とりわけ725年にはアラブ人の侵入に苦しめられた。

11世紀後半、セルジューク朝によってアルメニアを追われた多くのアルメニア人がこの町の付近に定住した。

1067年ごろにセルジューク朝の軍勢が姿を現したが、1082年まで占領されることはなかった。

1097年、第一次十字軍は一時ここを占領したが、保持することはできなかった。

カッパドキアを領有したダニーシュマンド朝のトゥルサン・ベイがここを首都にした。

12世紀に、ルーム・セルジューク朝の支配下に置かれた。

ルーム・セルジューク朝のカイクバードが、城壁を作って防御拠点にした。
遠征の準備を進めていたカイクバードはこの町で死んだ。

13世紀に、バイジュ・ノヤン率いるモンゴル軍に激しく抵抗し、占領後は虐殺と略奪を受けた。

マムルーク朝のバイバルスがモンゴル軍を破り、この町に入ってセルジューク朝の玉座に就いたが、現地の支持が得られず撤退した。

14世紀に、ルーム・セルジューク朝最後のスルタン、マスウード2世がこの町で死去し、王朝は滅亡した。

1335年頃、モンゴル人エレトナが独立を宣言し、ここを首都にした。
その支配は1380年まで続いた。

1397年、オスマン朝のバヤズィト1世がここを占領した。

1402年、オスマン朝がティムールに敗れたのに乗じて、カラマン・ベイリクがここを併合した。

1419年、マムルーク朝が占領した。

1515年、オスマン朝のセリム1世がここを再占領した。

16世紀のオスマン朝時代には、羊毛や穀物で有名だった。

1960年、時の首相メンデレスは、政府批判の遊説を行うためこの町に向かっていた共和人民党党首イノニュの列車を軍隊を使って止め、引き返させた。
これはカイセリ事件と呼ばれ、軍部がクーデターを起こす要因になった。

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トルコ東部旅行(フェケからカイセリへ)

16:01、フェケ市街に入った。
ここも赤白の小旗が目立つ。
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この辺りまでが小アルメニアの北限だろうか。
ここからはマルコ・ポーロが東方見聞録で言うところの「トゥルコマニア地方」に入る。
この地方の記述については3月24日の日記で紹介したい。
ここから右側が切り立った崖の山道。
私からは見えないが右側の座席にいるAさんは「これは危ないよ。」などと言っている。
その割りに運転手のBさんはスピードを上げているので少々不安。
でも夜になる前に山道を抜けないともっと危険なので仕方がない。

16:39、サルムベイリを過ぎた辺りから雪が出てきた。
緑の大地の背景に粉砂糖を降りかけたような山。
094a_2
もうすっかり冬景色だ。
さっきまで春だったのに、目まぐるしく景色が変わるのでちょっと驚いている。
冬と春の境目を旅しているようだ。
089a
路面も凍結している。
Dscn5741a
Bさん、大してスピードも下げずにひたすら走っていく。
とにかくBさんだけが頼りだ。
Dscn5742a
こんなに雪深い所だとは思わなかった。
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かと思えば雪がなくなったりする。
17:17、ボズギュネイ通過。
17:34、モラフュセイン通過。
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途中吹雪になる。
茫洋とした白い嶺が続く。
冬場にアナトリア半島を旅したポーロ一行の様子を想像してしまう。
彼らもこんな景色を見ながら進んだのだろうか。
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日暮れが近づいて辺りは薄暗くなってきた。
もうこれで写真撮影は無理。
そのうちにピナルバシ到着。
ここから良い道に出る。もう安心だ。
18:10、カイセリから75キロ地点のサービスエリアで休憩。
098a
カイセリ[トルコ]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/europe/turkey/kayseri/

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トルコ東部旅行(コザン・シスの城砦遠景~昼食~コザンダム湖)

アナヴァルザを後にして更に北のコザンに向かう。
キリキアの平野は続いているが、景色がだんだん山がちになっていく。
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コザンの市街地に入る前、丘の上にコザンの城砦 37°26'37.24"N 35°48'35.81"Eを見つけた。写真ストップ。
078a
城砦のアップ。
P400a
馬蹄型の見張り塔の他、いくつか廃墟が確認できた。
ここに登るのは時間的に無理。これで我慢する。

コザンは小アルメニア王国の首都でかつてはシスと言った。
キリスト教の総大司教座所在地であった。
アルメニアは紀元前1世紀頃カフカス地方を中心にシリアまで拡大した帝国だった。
その後ビザンツ帝国やセルジューク朝の侵略を受け追われたアルメニア人の一部がキリキアに住み着いた。
彼らはこの地域に王国を築くまでになり十字軍国家と同盟してビザンツ帝国やセルジューク朝と争った。
この王国を本家のアルメニアと区別して小アルメニアあるいはキリキアのアルメニア王国という。
13世紀後半のヘトゥム朝はモンゴルと同盟して勢力拡大を図ったが、逆にモンゴルを破ったマムルーク朝のバイバルスの攻撃の矢面に立たされることになった。
ここも1266年、バイバルスによってライアス同様破壊された。

東方見聞録に記述はないが、1271年、モンゴル帝国の使節たるポーロ一行がその同盟国の首都であるシスを通ったのは自然なことと思われる。
恐らく歓待を受けただろう。

現在コザンはアダナ県の北部に位置する町になっている。
ちなみに日本版ウィキペディアで「シス」を検索したら、スターウォーズの話しか出てこなかった。

コザン市街地 37°26'54.07"N 35°48'53.23"Eに入ってレストランの場所を聞きまわる。

13:57、コザンのレストラン着。
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色々出てきた。
大根と玉葱のサラダ、玉葱とパセリのサラダ、トマトとシシトウ2種を焼いたもの、トマトとパセリのペースト、人参、レタス、パセリ、キャベツのサラダ。
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ピレ(トルコ風ピザ)。
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ニンニク付きシシケバブと、薄いパンで羊のひき肉を包んだペーユーティーという料理。
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キューネ・フェというお菓子。
何で昼食にこんなに食べるのか、トルコ人は大食なのかと思ったが、食習慣の違いだと分かったのは、この夜やけに少ない料理を見た時だった。
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15:07、出発。
谷あいの見事な町の景観に見とれて写真ストップ。
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これこそアレクサンダー大王が小アジアからシリアに抜ける際に通ったというキリキアの門だろうか?
通過した大王はイッソスの戦いでアケメネス朝軍を破った。
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15:19コザンダム湖通過。
湖面は地中海と同じ緑色をしていた。
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山間の険路の様相が濃くなっていく。
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もう完全に山道。
所々雨水の滝ができている。
でも道の上には選挙用の政党の赤白の小旗が掲げられていて山中とは思えない雰囲気だ。
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途中の集落。
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山間の村。
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トルコ東部旅行(都市遺跡アナヴァルザ)

感動も覚めやらぬまま、時間もないのでユムルタルクを後にする。
これから北に戻ってアナヴァルザに向かう。
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緑の田園風景が続く。
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と、思っていたら道を間違えて東に向かっていた。
食料品店で道順を確認しなおす。
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正しい道に入った。
念願のユムルタルクを後にすると再び雨が降り出した。
でもユムルタルクにいる間だけでも晴れていてよかった。
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東方見聞録の
「この国には都市や町が多く、なにものにもよらず物資はきわめて豊富である。
鳥獣ともによく繁殖しているので、どんな種類の狩猟でも楽しむことができる。」
という記述を髣髴とさせる豊かな田園風景。
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綿花や小麦などの畑が続いている。
ポーロ一行もこの道を進んだのか?

12:45、アナヴァルザに着いた 37°15'9.60"N 35°53'47.13"E。
とある一軒の家の庭先に入った。
何もかも雨に打たれて濡れている。
遺跡から出土した様々なものがそこらに置かれている。
070a
アナヴァルザはローマ~ビザンツ時代の遺跡。
この村全体が遺跡になっているらしく、他の家にも出土したものが置かれているようだった。
この家のやたら愛想のいい主人は遺跡の管理人をやっている。
ここで入場料(3トルコリラ)を払った。

ピントがずれてしまったが庭に置いてあったもの。
建築物の一部だろうか。
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ビザンツ時代の邸宅の部屋だったところ。
いまだに色鮮やかなモザイクが残っている。
しかし野ざらしなので雨水が溜まるにまかせている。
模様が良く見えない。
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別のモザイクを見に行く。
ここも一応屋根は付いているが基本的に野ざらしだ。
ビザンツ時代の高級邸宅跡地。
065a
床のモザイクには魚介類が描かれている。
地中海に近いせいだろう。
黒鯛とイルカが見える。
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えびもあった。
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こちらは何だかよくわからない。
ビザンツ時代のモザイクは日本で言えば鳥獣戯画のようなものに思えてくる。
パレスチナのパンと魚の増加の教会で見た鳥類のモザイクと同様、ユーモラスで表情豊かだ。
063a
これは蛸。
言われるまでわからなかった。
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ここは浴室だったのだろうか。
水を通す導管が見える。
064a
これらの遺跡は1950年代に発掘されたそうだがいまだに色鮮やかだ。
保存状態は悪いが。

更に奥に移動すると大きな戦車競技場跡がある。
これを見る限りかなり大きな町だったのだろう。
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競技場の観客席に上がる階段も残っている。
とにかく規模が大きい。
072a
さっきの小さな村からは想像もできなかった。
秘密基地に来たようだ。

一見岩塊に見えるがこれも彫刻が施してある。
073a
左端の空き地は公会堂があった場所だ。
中央右寄りには水道橋の橋脚が見える。
壮大な眺めだ。
P300a5
岩壁の上には城砦の跡がある。
ここもユラン・カレと同様、ビザンツ帝国の東の境界だったので城があったのだ。
Dscn5735a
水道橋の橋脚のアップ。
水はセイハン川から引かれていてこの都市の住民の需要をまかなっていた。
Dscn5737a

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トルコ東部旅行(地中海岸ユムルタルク・アヤスまたはライアス)

ユラン・カレを出て南に向かう。
地中海沿岸のユムルタルクに行く。
こここそマルコ・ポーロ一行が上陸した地点である。
今回最も来たかった場所のひとつで期待に胸がどきどきする。もう間近である。
040a
ついにユムルタルク(アヤス)の港町に着いた 36°46'0.13"N 35°47'31.03"E。
長い波止場の先端近くから海岸を眺めたところ。
崩れた城砦が見える。
043a
ユムルタルクはアダナ県の町で人口4000人くらい。
アヤスはその遺跡の名前だそうだ。
Aさんによるとユムルタルクとは睾丸という意味だそうである。
なぜこのような名前になったのか不明である。

城砦で最も原型を留めている箇所。
Dscn5733a
今は漁師の倉庫として使われているようである。
この建物の奥には現在の港があり、多くの漁船や漁師でにぎわっていた。
残念ながら肝心なときに撮影に失敗したため画像は残っていない。
また、この城砦を間近で撮った写真も同様に失敗して残っていない。
このような事は恐らく初めてで、今回の旅行はついていない。
ここに港の中の画像があるので参考にされたい。
http://v8.lscache1.c.bigcache.googleapis.com/static.panoramio.com/photos/original/1587086.jpg

アヤス城砦の説明板。
045a
アヤスは紀元前7世紀にギリシャの植民地になった。
続いてペルシャ帝国、海賊集団、ビザンツ帝国、十字軍、小アルメニア王国、マムルーク朝、ラマダーン・ベイリク(君侯国)、オスマン朝の支配を受け今に至っている。
船の積荷に初めて消費税がかけられた場所だそうだ。
ちなみにマルコ・ポーロ一行が上陸したのは小アルメニア王国の時代である。
当時はライアスと呼ばれた。

沖合いの小島にも城砦跡があるが、渡るのは難しそうだ。
夏なら泳いで渡れるかも。
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城砦のアップ。
Dscn5734a
このように陸と海の両方から港を守っていたのだろう。
緑がかった海の色が地中海らしくて実に気分が良い。
ありがたいことに晴れ間がのぞきだした。

これはマルコ・ポーロ一行が上陸したとされる波止場の残骸である。
これから近くに行く。
Dscn5732a
ユムルタルクの港に戻って、海岸沿いの城砦とホテルを回りこんで、ポーロ一行が上陸したとされる波止場に向かう。
途中、モスクがある。
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ポーロ一行が上陸したとされる波止場の残骸。
ここが東方見聞録の記述の開始地点である。
感激に言葉も出ない。
047a
先端部は崩れて海中に没している。
ポーロ一行は当時の輸送用のコグ船で来たのか戦闘用のガレー船で来たのか?
048a
波止場の周りの沿岸部にも城砦や城壁の残骸が残っている。
ポーロ一行が上陸した当時を思い浮かべてしまう。
049a
先ほどまでいた新しい波止場には大きな船が停泊していた。
050a
波止場から陸へと道が続いている。
ポーロ一行もここから歩き始めた。
051a2 
ライアス港のある小アルメニア王国はモンゴル帝国の勢力範囲であり、フビライ・ハーンの使節たるポーロ一行は安全に旅ができるはずだった。
しかし当時、エジプト・シリアのマムルーク朝のスルタンで1260年にパレスチナのアイン・ジャールートでモンゴル軍を大敗させたルクヌッディーン・バイバルスが、ちょうど小アルメニア王国に侵攻しようとしていた。
ライアスは過去にもバイバルスの侵略を受けており、ローマ教皇の命でポーロ一行に同行していた二人のカトリック僧、ヴィケンザのニコロとトリポリのググリィエモは恐怖のあまり十字軍テンプル騎士団の一行とともに帰ってしまったのである。
やむなくポーロ一行は彼らだけで使命を果たさねばならなくなった。

「ライアスに着いてみると、折悪しくもバビロンのスルタンたるボンドクデールが大軍を率いてアルメニアに侵入し、その国内のいたるところを荒らしまわっている際だったので、彼ら使節一行もいつ殺害されるか分からないという危険にさらされていた。
この情勢を見たかの二名の説教僧は大いに恐れて前進するを肯んぜず、結局同行するのを取りやめたいと申し出た。
かくして彼らは所持する信任状・信書のいっさいをニコロ兄弟に託してこれと別れ、テンプル武士団の隊長と同行して引き返してしまった。」(東方見聞録)

マルコ・ポーロの波止場に関する説明板。
052a
1271年マルコ・ポーロが上陸し三日間滞在した。
ここには中国やインドから商品が運び込まれた。
アラビアの香辛料、インドの真珠とダイヤモンド、中国の絹布と金糸織。
ヴェネチアとジェノアの商館もあった。
東方見聞録の記述と一致している。
「海に臨んで都市ライアスがあり、貿易の一大中心地をなしている。
それというのも、あらゆる種類の香料や絹布・金糸織、そのほか奥地に産する種々な貴重物資がすべてここに運び出され、一方ヴェニスやジェノアをはじめとする各地各国の商人がここにい集し来たって、それら貨物を仕入れてはこれを世界中に商販するというありさまだからである。」
ライアスの繁栄は、小アルメニア王国がモンゴル帝国と同盟関係を結んだことによる結果だった。
だがマムルーク朝の勢力が優勢になると、ライアスはバイバルスの侵攻によって焼き払われてしまう。

波止場から港に戻る。
海岸沿いの家も城砦と同じ石積みを使っている。
城砦を利用したのか石材を積みなおしたのか。
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ヤムルタルクは海水浴場があるので、この辺りにはホテルも一軒あったが、そこはつぶれていた。

城砦の中。
運よくこの一枚だけ失敗せずに撮影できていた。
中はがらんどうである。
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トルコ東部旅行(アダナ近郊ユラン・カレ(蛇の城))

街を離れ初春の緑が目に麗しいキリキア平野を走る。
023a
前方の丘の上にユラン・カレが見えてきた 37° 0'52.12"N 35°44'50.98"E。
ビザンツ時代の7世紀~8世紀に築かれた要塞である。
ビザンツ帝国の東方の最前線だったため、城砦が築かれたようだ。
もし13世紀にも使用されていたら、ポーロ一行も泊まったのかもしれない。
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門を入ると山道が続く。雨が降っているのでつらい。
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距離は短いがこのような岩場も登らなければならない。
雨で滑りそうで怖い。軽登山靴を履いてきて正解だった。
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城壁の門に到着。一息つく。
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この城は遠くシリアからの侵入を見張るために造られたそうだ。
晴れていればキリキアの平野が見渡せるはずだが、雨にけぶって見えないのが残念。
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頂上部にはうっすらと城壁が見えた。
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見張り塔らしきものも。
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これも見張り塔だろう。
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馬蹄形をした遺構もあった。何の跡だろうか?
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見張り塔の中。
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見張り塔の天井。
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ところでユラン・カレとは蛇の城という意味だが、Aさんによると次のような伝説があるという。
「昔ここには上半身が人間で下半身が蛇という蛇の女神が住んでいた。
ある若者がここに迷い込み蛇の女神の魅力のとりこになってここで暮らした。
そして3年後、絶対にこの場所を口外しないという約束を交わして里に下りた。
ある時、王が病気になった。
蛇の女神の体のゆで汁を飲むと治るという。
ある者が、蛇の女神の所在を知る者の体には蛇の刻印がある、と王に進言したため、王は国中の人間の体を調べたところ、果たしてかの若者の体には蛇の刻印があった。
若者はついに蛇の女神の所在を明かしてしまう。
蛇の女神は若者を恨んだが、次のような秘密を若者に明かして死ぬ。
自分の下半身のゆで汁は飲んだ者を死に至らしめるが、頭のゆで汁を飲めばあらゆる知識が得られるという。
若者は王に下半身のゆで汁を飲ませて殺し、自分は頭のゆで汁を飲んだという。」

蛇の女神は古来神として住民の尊崇を受けていたが、イヴをそそのかした蛇を悪とするキリスト教の伝播により悪神となりこのような伝説が生まれたのではないかとの事だった。
雨もやまないので下に下りることにした。
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途中の城門。
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円筒形の見張り塔。
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城壁と見張り塔の遺構と思われる。
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木の枝に多数布やらビニールやらが結び付けられていた。
日本のおみくじを結ぶのと同じ理由とのこと。
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麓では農家のビニールハウスが立ち並んでいた。
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雨で背負っていたザックの中身(本など)がずぶぬれになってしまった。
上半身は防水加工の冬山用ヤッケを着ていたので問題ないが、下はチノパンだけなのでかなり濡れている。
Aさんは傘を忘れたためもっとひどい。
麓に降りる途中に休憩所があるのでそこで温かいお茶をご馳走になった。

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トルコ東部旅行(アダナ・ウルジャーミー→タシュ橋→メルケズ・ジャーミィー遠景)

3月23日

5:18起床。
モーニングコールの前に起きてしまった。
ボーイが何故か朝食を運んできた。
昨日のAさんとの話でてっきり朝食はランチボックスかと思っていたので、慌てて断る。
その後でランチボックスとは部屋に持って来るという意味かと考え直し、運び直してもらった。
洗濯物は昨夜からの短時間ではハンカチ以外乾いておらず、残りは暖房機の上で無理やり乾かした。
洗濯ばさみと登山用の細引(細いロープ)は重宝している。
シャワーの後、朝食を食べる。
006a
今日の行程は、アダナ(ウルジャーミー→タシュ橋(メルケズ・ジャーミィー遠景)→ユラン・カレ→ユムルタルク(アヤス)港→アナヴァルザ)→コザン(コザン城砦遠景)→フェケ→ピナルバシ→カイセリである。

今日の行程は、大体東方見聞録の「小アルメニア」の章の部分に当たる。その記述を以下に示す。
「アルメニアといっても、大アルメニアと小アルメニアの二つがある。
小アルメニア王はタルタール人(モンゴル人)に服属してはいるが、賢明な政治を国内に行っている。
この国には都市や町が多く、なにものにもよらず物資はきわめて豊富である。
鳥獣ともによく繁殖しているので、どんな種類の狩猟でも楽しむことができる。
ただし健康にはあまり適した土地ではない。
否むしろとても不健康だといったほうがよいかもしれない。
かつてこの国の貴族たちは勇敢で武勇を誇ったが、現在では惰弱で下劣な上に大酒のみでしかなくなった。
海に臨んで都市ライアスがあり、貿易の一大中心地をなしている。
それというのも、あらゆる種類の香料や絹布・金糸織、そのほか奥地に産する種々な貴重物資がすべてここに運び出され、一方ヴェニスやジェノアをはじめとする各地各国の商人がここにい集し来たって、それら貨物を仕入れてはこれを世界中に商販するというありさまだからである。
それに商人たると否とを問わず、およそ内陸に出かけようととする者は全てこの町を起点として出発するのである。
この小アルメニア王国を取り巻いて、南方には契約の土地(パレスチナ)が、今ではイスラーム教徒の手中に陥ったまま連なっており、北方ではトゥルコマニアの一部をなすカラマニア(アナトリア半島の南東沿岸部)の地に接し、東方および東北方ではカエサリア、セヴァスタそのほか数多い都市を持ったトゥルコマニア(アナトリア半島内陸部)が続いている。
これらはいずれもタルタール人に隷属している。
ただ西の一方のみは海となっており、この海を隔てて彼方がキリスト教国なのである。」

今日行くユムルタルクがライアスに当たり、コザンは小アルメニア王国の首都シスに当たる。
また、今日の宿泊地カイセリはカエサリアに当たる。
ユムルタルクを起点として大体ポーロ一行が辿ったのではないかと思われる道を通過していく。

6:50、ホテルのロビーへ。
コンヤに向かう年配の日本人ツアー客が数名いた。
ホテルの外観を撮影。
005a2
7時にAさんBさんがやってきた。

7:10、出発。
アダナ市内の中心部へ。
004a
天気は雨。旅行中はたいてい晴れなのに、出発前の胸騒ぎはこれだったかと考える(実はこれだけですまなかった)。

アダナはトルコで5番目に大きい都市。
紀元前14世紀にヒッタイトが占領した町である。
この周辺は山がちなアナトリア半島の中でも大きな平野が広がる場所なので、古くから栄えてきたのだろう。
ヘレニズム時代にはローマの基地が造られた。
19世紀後半、オスマン朝政府はこの地域の遊牧民を強制的に定住させて綿花栽培を行わせた。
当時綿花の生産国だったアメリカが南北戦争で供給できなくなったための代替地となったのだ。
東部に住むクルド人が季節労働者としてやってきた。
土地を買占めて綿花農場を経営したアルメニア人商人が、たびたびトルコ人やクルド人の小作人と衝突した。
1909年に起きた兵士の反乱「3月31日事件」に呼応してアルメニア革命組織とトルコ人の間で衝突が起きた。
1915年のアルメニア人強制移住令に伴いアルメニア人が大虐殺を受けるという事件が発生した。
現在でも綿花栽培が行われており、綿工業が盛んである。
アダナはマルコ・ポーロ一行の通り道ではないが、せっかくなので市内を見て回ることにした。

時計塔の前を通る。高すぎて全部は撮れず。
003a 
セイハン川にかかる由緒あるタシュ橋そばを通る。
009a
通過。
010a
市内のウル・ジャーミィー着 36°59'5.60"N 35°19'52.04"E。
1507年、ラマダーン・ベイリク(ベイリクは君侯=地方政権)のハリール・ベイが着工したモスク。
13世紀後半~14世紀、アナトリアではセルジューク朝が衰えると各地で地方政権が生まれたが、ラマダーン・ベイリクもそのひとつ。
ラマダーン・ベイリクは当時伸張著しいオスマン朝によって16世紀前半に滅ぼされたのでその直前に創建されたものだろうか?
画像は霊廟。
011a
霊廟の中。棺のようなものが置いてある。
018a
霊廟から隣の建物を見たところ。
019a
ジャーミィーのミナレット。
012a
ジャーミィーのエイヴァーン(入り口)。
イランの繊細なタイル模様と違って単純明快で素朴だ。エジプトの神殿みたいだ。
中にはハリール・ベイの墓があると思われるが、入れなかった。
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エイヴァーンの鍾乳石飾り。
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ジャーミィーの向かいの建物。確かマドラサ(神学校)だったと思う。
016a
中に入ると泉亭のある中庭の周りを部屋が囲んでいる。
015a
現在でも伝統美術の講義が行われているそうである。

ジャーミィーか、マドラサか、どちらかの部屋にあった棺。窓の外から覗いて見た。
実際の遺体は地下にあるそうだ。
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ウル・ジャーミィーの観光を終え市外のユラン・カレに向かう。
途中再びタシュ橋の傍を通る 36°59'10.70"N 35°20'6.97"。ここで写真ストップ。
020a
タシュ橋は紀元前2世紀、セレウコス朝?時代に作られた橋。
その後幾度も改修が行われた(ローマのハドリアヌス帝によって作られたという資料もある。どっちが本当なんだ?)。

トルコの財閥が建てたというメルケズ・ジャーミィーが見えた。
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イスタンブールの世界遺産、ブルー・モスクのコピーのようだ。でも美しい。
トルコの大規模なモスクというとこのような鏡餅型のドームが印象に残る。
イランのモスクのドームは小ぶりで下部がやや長い円筒形になっているという印象がある。
オスマン朝以来トルコの大規模なドーム建築はイスタンブールのキリスト大聖堂アヤ・ソフィアのビザンツ建築技法を受け継いでいる。
それがイラン建築との違いになって出ているのだろう。

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トルコ東部旅行(トルコの歴史について)

【アナトリア地方の歴史について】

1.新石器時代~古代オリエント時代

アナトリア地方の文明化はメソポタミアやシリア地方の影響を受ける形で行われた。コンヤ近郊のチャタル・フユックで、紀元前7000年に農耕・牧畜が行われた痕跡を示す約1000戸の遺跡が発見された。カイセリ近郊のキュルテペでは、紀元前2000年頃のアッシリア商人の交易所の遺跡が発見された。また、カマン・カレホユックでは紀元前20世紀頃に製鉄技術があったことを示す遺跡が発見されている。紀元前17世紀~13世紀には、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイトが、その製鉄技術と馬を利用した戦車でアナトリアを中心に勢力を拡大した。ヒッタイト滅亡後にアナトリアの主要交易ルートを掌握したフリュギア人は、紀元前8世紀に王国を作ったが紀元前7世紀には滅亡した。紀元前9世紀~紀元前6世紀にはウラルトゥが、アナトリア東部に王国を作っていた。メソポタミア地方のアッシリアは、紀元前10世紀にはオリエント世界の有力国になり、紀元前7世紀に滅亡するまでアナトリアに進出してヒッタイト、フリュギア、ウラルトゥと争った。フリュギア滅亡後のアナトリアの最大勢力はリュディアで、アッシリア滅亡後はイラン高原のメディアとたびたび争ったが、メディアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアに紀元前6世紀に滅ぼされた。オリエント世界を統一したアケメネス朝はアナトリア西岸のギリシア諸都市の反乱をきっかけにギリシアへ侵攻した。

2.ヘレニズム時代~ビザンツ帝国時代

紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンダーはアケメネス朝を滅ぼした。その死後、後継者戦争の結果、セレウコス朝がアナトリアを含むアレクサンダー帝国のアジア部分全域を支配した。しかし各地で独立運動が頻発し、紀元前3世紀後半にはアナトリアでペルガモンが独立した。親ローマのペルガモンは紀元前2世紀にローマ共和国に領土を遺贈して属州になった。セレウコス朝も紀元前1世紀にローマに滅ぼされた。紀元前1世紀に帝政に移行したローマは、4世紀にコンスタンティヌス1世がキリスト教都市建設を目指して首都をコンスタンティノープル(現イスタンブール)に移した。4世紀末に帝国は東西に分裂し、アナトリアは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領域になった。6世紀には大聖堂アヤソフィアが建設された。ビザンツ帝国は15世紀に滅亡したが、14世紀まで千年近くアナトリアに勢力を保ち続けた。

3.トルコ化とモンゴルの支配

11世紀にイランのトルコ系王朝セルジューク朝がビザンツ帝国を破ると、トルコ系民族が大量にアナトリアに流入した。セルジューク家の一員がアナトリアに派遣され、ルーム・セルジューク朝を創った。ビザンツ帝国は西欧諸国に救援を求め、11~12世紀に十字軍がアナトリアを侵攻・通過した。13世紀前半、モンゴル軍がイランに侵攻すると更に大量のトルコ系民族がアナトリアに流入した。この頃ルーム・セルジューク朝も最盛期を迎えたが、13世紀後半にはモンゴル帝国のイルハン朝の属国化し、14世紀初頭に滅亡した。ルーム・セルジューク朝の没落とともにアナトリア各地では13世紀後半以降、ベイリクと呼ばれる地方政権が多数現れた。最も大きなものがアナトリア中部のカラマン・ベイリクだった。カラマン・ベイリクはトルコ語の公用語化を初めて宣言した国となった。これらベイリクは14世紀前半までイルハン朝の圧力化に置かれた。

4.オスマン朝時代

13世紀末に創建されアナトリア北西部の1ベイリクに過ぎなかったオスマン朝は、優れた君主が続いた事や独自のエリート養成システムによって急成長し、14世紀末までにアナトリア西部とバルカン半島南部、すなわちアジアと欧州同時に領域を広げた。15世紀初にティムール帝国に破れ一時滅亡したが、まもなく復活して16世紀後半まで領土の拡張を続けた。最盛期は16世紀中盤のスレイマン1世の時代で、この時点で北はハンガリー、南はアラビア半島、東はイラク、西はモロッコを領有し、黒海と地中海の制海権を得た。当時欧州の覇者だったハプスブルク家のカール5世(カルロス1世)に脅威を与え、イランのサファヴィー朝と争った。領土拡張を可能にしたのは、スルタンに経済的軍事的に権力集中した国家体制と最新火器を装備した常備軍(イェニチェリなど)だった。またアラブ地域を支配するために、スルタンはイスラム教スンナ派世界の盟主である点が強調された。

しかし16世紀末には拡大は限界に達する。原因は戦費の増大による財政悪化と、欧州やイランの軍事力が刷新された事による。そのため限られた領土から効率よく徴税する必要に迫られ、財務局を中心とする徴税システムに変革された。財務官が各地の徴税を行うが、地方の徴税は地元の人間が下請けで行うこともあった。17世紀前半には財政悪化によってイェニチェリや民衆の暴動が起こったが、税制改革の一定の成功により帝国が崩壊する事はなく17世紀後半は安定した。だが暴動を起こすイェニチェリに最新の兵器を渡す事はなくなり軍事力は弱体化した。

18世紀も、帝国内の経済活動は活発だった。しかし様々な問題が出てくる。ひとつは軍事力の弱化で、特に18世紀後半にはロシアに連敗を喫する。ひとつは肥大した官僚機構の維持により国庫収入が減り、必要な改革を行う余力がなくなった事、ひとつは地方の徴税請負人が富を蓄え、アーヤーン(地方名士)と呼ばれる彼らの中には軍事力を持った危険な存在が現れた事である。

19世紀になると、問題が深刻な状況になった。欧州列強に敗北を重ね、領土と利権を次々に失った。またバルカン諸民族の独立運動が活発になった。アナトリアやバルカンはアーヤーンによって分割支配される様相を呈した。これに対し、オスマン朝はようやく軍事力や国家機構の西洋化に着手するが、既得権を守ろうとする守旧派の妨害により、改革は一進一退を続けた。それでも軍隊の西洋化を皮切りに、スルタン専制を嫌う世論に押されて憲法発布(すぐに失敗)、大衆文化の西洋化が行われた。しかし増大する軍事費・宮廷費・喪失した領土からのトルコ人保護のため、財政は破綻した。

20世紀になると、反専制を目指す青年将校グループ(統一派)の要求により第二次立憲制が始ったが、第一次バルカン戦争によりバルカン領土のほとんどをバルカン諸民族に奪われると、トルコ系イスラム教徒とそうでない者の平等により帝国の統一を図るオスマン主義から、トルコ系イスラム教徒主導により統一を図るトルコ主義が強まった。第一次世界大戦において、オスマン朝はユーラシアのトルコ系民族の政治的統合を目指した汎トルコ主義によりドイツと同盟し、敗北して連合国によるアナトリア地域を含む分割統治案を受け入れた。しかしこれに反発した統一派は、オスマン朝政府とは別にムスタファ・ケマルを中心として革命政権を樹立し、分割統治案に従い進出してきたアルメニア軍とギリシア軍を奇跡的に撃退、連合国に分割統治案破棄を認めさせた。1922年、革命政権はオスマン朝の廃止を議会で決議した。

5.共和国時代

1923年、革命政権は議会の決議によりトルコ共和国の成立を宣言した。ケマルは反対派を弾圧する一方で国内のトルコ化、西洋化、非イスラム化を進めた。また民衆の情感に訴えるため救国者、国父(アタテュルク)としてのケマルを強調した。第二次世界大戦後は、民主化が進められ複数政党制が導入された。しかし1政党による行き過ぎた独裁、政党間の対立の激化による社会不安を生み、その度に軍部の介入が行われた。反アタテュルク主義政党が選挙で選ばれた際の軍部の介入は、欧米の世論の反発を招いた。国内問題としてはトルコ化により抑圧されるクルド人人権問題と過激化するクルド人組織との対立がある。経済的には、不完全な税制による国庫収入不足による財政赤字、インフレ、貧富の差の問題があり、経済力も欧州諸国に追いついていない。またアナトリア東西の経済格差の問題もある。外交的には、トルコは一貫して西洋への仲間入りを目指してきた。OEEC、NATOへの加盟を果たしたが、EUの正式加盟については上記民主主義の抑圧、経済的な混乱、クルド人人権問題により見送られた状態であり、改善に向けて歩んでいる状態である。

【トルコ民族(テュルク系民族)の歴史について】

トルコ民族は元を辿ると北アジアに住んでいた遊牧民族だった。6世紀には突厥が出て、中国北方からアラル海にまたがる大帝国を築いた。やがて東西に分裂し、8世紀の中頃に滅びた。入れ替わりにウイグルが出て、中国北方からアルタイ山脈までを支配した。ウイグルは9世紀半ばに滅びたが、その後西遷して現在の中国・新疆ウイグル自治区辺りを支配した。トルコ民族の活動の場は中央アジアに移り、10世紀半ばにカラハン朝が出て現在のウズベキスタン共和国東部から中国・新疆ウイグル自治区西部までを支配し、12世紀前半に滅びた。また10世紀後半にガズニ朝が出て、現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン東部、アフガニスタン、パキスタンを支配し、12世紀前半に滅んだ。中央アジアから西進し11世紀前半に成立したセルジューク朝は、現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン、イラク、シリア、イスラエル、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジアを支配し、12世紀後半に滅んだ。11世紀末に興ったホラズムシャー朝は、ウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン、アフガニスタン、パキスタンを支配し、13世紀前半に滅んだ。その他イランではカラコユンル、アクコユンル、サルグル、アフシャールの各王朝が出ている。オスマン朝については上記の通り。現在、トルコ民族はバルカン半島からシベリアまで広範囲に居住している。

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トルコ東部旅行(成田→イスタンブール→アダナ)

2008年3月、トルコ共和国の中部・東部に行ってきました。

一日目:成田→イスタンブール→アダナ

二日目:アダナ(ウルジャーミー→タシュ橋(メルケズ・ジャーミィー遠景)→ユラン・カレ→ユムルタルク(アヤス)港→アナヴァルザ)→コザン(コザン城砦遠景)→フェケ→ピナルバシ→カイセリ

三日目:カイセリ(ドネル・キュンベット→医学史博物館→ミマール・スィナン公園→サハビエ神学校→カイセリ城→城壁→フナトゥ・ハトゥン・キュルリイェスィ)→スルタン・ハニ(隊商宿)→サルキスラ→スィワス(ウル・ジャーミィー→ギョク神学校→チフテ・ミナーレ→シファーイエ神学校→スィワス城砦)→ザラ→レファーイエ→エルズィンジャン

四日目:エルズィンジャン(エクシ・スの温泉)→テルジャン(ママ・ハトゥンの霊廟と隊商宿)→アスカレ→リリカ→エルズルム(チフテ・ミナーレ→ヤクティエ神学校)→パシンラー(ハサン城砦遠景)→チョバンデデ橋→ホラサン→エレスキルト→アール→ドウバヤズット

五日目:ドウバヤズット(イラン国境→メテオ・ホール→ノアの方舟→アララト山麓の草原→イサク・パシャ宮殿→絨毯製作見学→バザール)

六日目:ドウバヤズット→アール空港→イスタンブール→

七日目:→関空→羽田

今回もマルコ・ポーロの追っかけの旅です。
1270年末にヴェネツィアを発ったポーロ一行は、パレスチナでエルサレム聖墳墓教会の聖油とローマ教皇からモンゴル皇帝フビライ・ハーンへの親書を得て1271年末にアークル(アッコー)を出航しました。フビライ・ハーンの要望である、他教徒を論破できる二人のカトリック僧も同行していました。
アナトリア半島南岸の小アルメニア王国の港、ライアス(アヤス)に上陸した一行は、敵対するエジプトのマムルーク朝のスルタン、バイバルスが小アルメニアに侵攻を開始した事を知ります。二人の僧侶は恐怖のあまり逃げ帰ってしまいます。
しかしポーロ一行はカエサリア(カイセリ)、セヴァスタ(スィワス)、アルジンガン(エルズィンジャン)、アルジロン(エルズルム)、アララト山麓と旅を続け、ペルシャ(イラン)に達しました。ブログトップページの「マルコ・ポーロの行程図」をご覧になるとおおよそのルートがわかると思います。
今回の行程は、マルコ・ポーロが東方見聞録に書きしたためた記念すべき最初の場所です。
また、ポーロ一行が冬に辿った行程をたぶんほぼ忠実に辿っています。
途中の遺跡もセルジューク朝時代のものが非常に多く、ポーロ一行が見た、あるいは泊まったであろう場所が数多くあります。ポーロ一行の旅路の再現度の高さも今までの旅以上の感があります。
それに初春の緑豊かなキリキアの平原から雪深いアナトリア高原へ、そしてフィナーレはアララト山麓の遊牧の大草原と、非常にドラマチックな景観の旅でもありました。今思い出しても心震える思いがします。
※移動中の車内からの撮影、またカメラのズーム機能が故障したため、見苦しい画像になってしまった事をご了承ください。


一日目

午前9時すぎに家を出て成田に向かった。

今回の旅は、どうも胸騒ぎがする。良からぬ予感というか・・。
トルコの個人旅行ということで金額が膨らんだこともあるが、これ以外にも何かありそうだ。
たぶん、元々あまり行く気がない場所だったせいもあるだろう。
何しろトルコについて東方見聞録では、たったの3章しか記述がない。248章あるうちの3章である。
しかもその内容も簡単でありふれたもので、特産品とか住人についてだった。
ただひとつ目を引くのはアララト山についての記述で、少しばかり緑の草原と白銀の頂をイメージさせてくれる。
そういうわけで、数年前のイスラエル旅行の際、飛行機から偶然アララト山を眺めた時に、これさえ見ればトルコには行かなくてもいいと納得していたのだ。
それが今回、大枚はたいてトルコに行くことにした理由は、中国やイランに少し飽きた、という一点に尽きる。行ったことのない国に行きたくなったのである。
それにしても今回の旅行計画を立てたとき、世界遺産が全く含まれていないのには少しがっかりした。
マルコ・ポーロのルートには世界遺産の街が含まれていない。少し寄り道すれば何箇所か世界遺産に立ち寄れるが(特にカッパドキアは目と鼻の先だ)、そんな時間の余裕は全くない。
あくまで本来の目的はマルコ・ポーロの行程を辿ることにあるので、色気は出さず、残念ながら世界遺産はあきらめることにした。

成田空港駅で下車、金の節約のため空港ではパン2個の昼食を済ます。最近一日の食費を切り詰めることに注力している。
13:45、イスタンブール行きトルコ航空機に搭乗。
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14:43、離陸。
緊急時の安全説明の音楽、有名な曲だが何だろう(アイバンクのCMで流れている曲)。耳に残る曲だ。
画像は最初の食事。
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かなり発ってからバルハシ湖の北側を通る。バルハシ湖に流れ込む河は見えたが湖は見えず。
それから実に長い時間を過ごす。
007の新作映画やトルコ音楽を聴いて時間をやり過ごす。
音楽チャンネルのジャンルには好んで聴く客層が多いのか80年代洋楽ポップスがある。
トルコの音楽も充実しているが色々ジャンルがあって面白い。
ポップスのほかアラベスク(アラブ風)、スピリチュアル。
クラシックとトラディショナルは何が違うんだろうか?トラディショナルは馬が疾走するようなテンポの速い曲が多い。元々騎馬民族だったトルコ人のルーツを感じる。

24:00、ようやくヴォルガ河に近づいた。
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運がよければボルゴグラード(旧スターリングラード)上空を通るかもしれない。
実は今ウォーゲーム「ストリーツ・オブ・スターリングラード」をプレイしている途中なのだ。
飛行機はサラトフ付近でヴォルガ河沿いに南下、ボルゴグラードの北側で進路をそれ西側に向かってしまった。
その後カラチ~ロストフ上空を通過。

25:20、ニコポリの南に達した頃二度目の食事。
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25:30、日没。
26:44、イスタンブールのアタテュルク空港に着陸。長い長い半日が終わった。
現地時間19:44(以降時間表記はトルコ時間)。時計の時刻を修正する。
不吉なことに外は雨。
セキュリティチェック、入国審査を終え、国内便の空港に続く連絡通路を延々と歩く。
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国内便の発着ロビーに着いてモニター画面を見るが、これから乗るアダナ行きの搭乗ゲートわからず。
うろうろ探していたら上の方に大きな電光掲示板があった。
ゲート№確認するもどこにあるのかわからず、案内所の無愛想なねえちゃんに聞いてやっとわかった。
Ⅹ線検査を受けた時係員のにいちゃんから「よい旅を」と日本語で言われたのが嬉しかった。
アダナ行きの搭乗ロビーに着いてやっと余裕。

21:00、定刻どおり搭乗開始。
21:30離陸。
軽食はトルコパンのサンドウィッチ。

23:15、アダナ空港着陸。
待てど暮らせどスーツケースが出てこない。
他の何名かと一緒に空港係員に荷物預かりのタグを見せて抗議すると、バスで別の手荷物受取場に連れて行かれ、そこに置き去りにされたスーツケースがあった。
そこを出てようやく現地ガイドのAさん、運転手のBさんとご対面。
両名の名前を聞いたが疲れて覚えられない。

23:57、アダナ市内のホテル着。
明日の待ち合わせ時刻等を確認してAさんと別れる。
部屋は4階。
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洗濯してから寝た。
横になったが当然の事ながら時差のため中々寝付けない。

【トルコの概要について】

正式国名:「トルコ共和国」
面積:日本の2倍
人口:7041万(2006年)
首都:アンカラ
元首:アフメット・セゼル大統領

地形:三方を黒海、エーゲ海、地中海に囲まれたアナトリア半島と、バルカン半島の一部からなる。黒海沿いに黒海山脈、地中海沿いにトロス山脈、半島の中央部にアナトリア高原がある。

気候:黒海山脈とトロス山脈に遮断されたアナトリア高原は乾燥しており、東部山岳地帯では牧畜が盛ん。黒海、エーゲ海、地中海沿岸は雨量が多く、綿花、柑橘類、ヘーゼルナッツなどの商品作物栽培が盛ん。一般的に夏は乾燥し冬は雨が多い。
民族:トルコ人が8割以上、次いで多いのがクルド人。その他トルコ人と同じテュルク系民族であるクルグズ人、カザフ人、ウズベク人、アゼルバイジャン人がおり、非テュルク系民族ではチェルケス人、アラブ人、ユダヤ人、スラブ系民族がいる。

宗教:大部分はイスラム教スンナ派。

言語:公用語はトルコ語だが、一部地域ではクルド語、アラビア語も話される。

休日:土・日曜日
通貨:トルコリラ。2009年4/1現在では1トルコリラ=59円。

治安状況:
2009年4/1現在、以下の地域を除いて危険情報は出ていない。
イラクと国境を接するハッカーリ及びシュルナクの2県:「渡航の是非を検討してください。」
イスタンブール県及び南東部10県(トゥンジェリ、エラズー、ビンギョル、ディヤルバクル、マルディン、バトマン、ムシュ、ビトリス、シールト、ヴァン):「十分注意してください。」

アダナ[トルコ]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/europe/turkey/adana/

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初日の出

今年は良い年でありますように。
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