イラン北東部旅行(ヤズド・12エマームの霊廟と旧市街)
次に近くにある12エマームの霊廟に向かった31°54'17.65"N 54°22'12.73"E。ヤズドにある最も古い建物で11世紀に建てられた。13世紀に訪れたマルコ・ポーロ一行も目にしたのではないか。
エマームとはイスラム教シーア派で言うところの神の預言者(ムハンマド)の後継者、イスラム社会の最高指導者の事。イスラム教スンニ派で言うところのカリフ(神の使徒の代理人)とほぼ同じ意味になる。
7世紀、イスラム教の創始者ムハンマド死去後、ムハンマドと同族で最古参の信徒の中から4代にわたってカリフが選出された。3代目はウマイヤ家のウスマーンだったが、その専横に反発する信徒により殺され、彼らを含む最古参の信徒の選出によりムハンマドの娘婿で従兄弟のアリーが4代目に選出された。
アリーの支持者は、アリーとその子孫のみが預言者の後継者(エマーム)として信徒を指導する資格を持つと主張し、アリー派=シーア・アリー、略してシーアと呼ばれた。
しかし当時シリア総督だったウマイヤ家のムアーウィアは、アリーの選出は不法であるとして自らカリフを名乗った。まもなくアリーが暗殺されたため、ムアーウィアは唯一のカリフとなった。ムアーウィアは後継カリフを選出ではなく世襲によって決める事を各地の有力者に強制した(ウマイヤ朝の始まり)。
ムアーウィアが死去した時、シーア派はアリーの子フサインを担いで政権奪取を図った。しかし百名にも満たないフサインの一族は、シーア派軍と合流する前にイラクのカルバラーで4000ものウマイヤ朝軍に囲まれ殺害された。国家権力がムハンマドの血族を殺害したこの事件に憤激した信徒はシーア派に結集した。ウマイヤ朝はスンニ派である事から、スンニ派への被害者意識が生まれ、フサインが大軍を相手に雄雄しく戦って殉教した事は、殉教へのあこがれを生んだ。
ウマイヤ朝やウマイヤ朝を倒してイスラム世界を支配したアッバース朝(ムハンマドの叔父の子孫であるアッバース家の王朝)はスンニ派で、アリーの子孫しか指導者として認めないシーア派は邪魔な存在でしかなく、迫害を続けた。そのためフサインの子孫である代々のエマームも殉教を余儀なくされた。
エマームが何代続いたかはシーア派の中でも諸説があり、イラン人の多くが信徒であるシーア派12エマーム派によれば、現在12代まで続いている事になる。9世紀、12代エマームであるムハンマドは、父の葬式の場で姿を消し「隠れエマーム」になったとされ、いつの日か再び姿を現すと信じられている。
12エマームの霊廟の12エマームとは、アリーからムハンマドまでの12人のエマームを指している。
霊廟に入ったが棺が安置されているわけではなく中はがらんどうである。
それもそのはずで、12代目エマームは死んではおらず、11代目までのエマームの棺もここにあるわけではない。11代目までのエマームは殉教した場所にそれぞれ霊廟が建てられている。
なぜここに12人のエマームの霊廟があるかというと、昔ある人がこの建物の中に12人のエマームが現れた夢を見た事から、霊廟になったそうだ。画像はミフラーブの部分だが封鎖されている。
天井部分もかなり剥げ落ちている。台座部分に何とか装飾が残っている。
壁の一部だけ、いつの時代のものかわからないが装飾が残っていた。
この付近にも旧市街の町並みがある。面白そうなので行ってみることにした。旧市街の中の家の扉には表札らしきものがあり、人が住んでいるように思えるのだが、なぜか人通りがない。時々バイクに乗った若者が走り回る程度だった。まったく不思議な場所だ。
広場に出た。人影は全く見えない。幼稚園らしき建物があり、壁に女性と子供達が描かれていた。女性の顔に髭がいたずら書きされていて滑稽だったが、辺りが余りにひっそりとしているのでかえって不気味だった。遠くに金曜モスクのミナレットが見えた。
※引用・参考文献は旅行日記の最後に掲載します。
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