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2009年7月

四畳半太陽系~その7(中心部~木星系)

日常のいやな事から現実逃避するため、究極?の手段として、数年前から自宅の部屋を太陽系にしてしまおうと考えてきました。
このたび、時間をかけず金かけずの方針の下、一応の完成を見ました。

まずは太陽系の中心部の画像から。
地球型惑星を横に並べてみました。惑星が折り重なってしまっているのは、天体の縮尺と天体間の距離の縮尺が大幅に違うためです。
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天体の縮尺は七億分の1で、1cm=7000kmになりますが、天体間の距離の縮尺は三兆七千四百億分の1で、1cm=37400000km=0.25天文単位(1天文単位は太陽~地球間の距離で1億4959万7870 km)になっていて、縮尺が大幅に違うからです。

天体間の距離の縮尺は部屋の広さを基準に決めました。部屋の中に太陽系が入ることを前提に考えたのです。一方天体の縮尺は、主要惑星模型がメーカー販売品で最初から縮尺が決まっていたため考慮の余地はありませんでした。

画像左端の黄色い球は太陽を表していますが、もちろん七億分の1ではありません。七億分の1で太陽を作成した場合、直径は1.99mになり、私は部屋に住めなくなります。今回の太陽はその位置を表す目的で作成しました。

太陽から右へ、水星、金星、地球、火星が並んでいます。地球の真下にあるのは月です。今回は、直径1000 km以上の天体は衛星も含めなるべく作成するようにしました。これ以下になると小さすぎて作成困難です。ちなみに惑星とその衛星間の距離の縮尺は七億分の1にしようとしましたが、中々無理がありこれも適当に短縮しています。

ちなみに地球の直径は約1.8 cmです。また太陽~地球間の距離は前記の通り4 cm=1天文単位になります。

こうして見ると地球から火星に行くよりも金星に行くほうがずっと近いことがわかります。

画像の右端にも小さな天体があります。火星~木星間にある小惑星帯最大の小惑星セレスです。

セレスです。
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以下、直径と軌道半径を記述していきます。完全な球や円ということはないので、平均値になります。軌道半径は、惑星の場合は天文単位、衛星の場合はkmで表示します。天文単位で表示する理由はそのほうが数値が単純化されて他惑星の軌道半径と相対化しやすいためです。括弧内は模型でのサイズです。
直径:952 km (1.5mm)
軌道半径:2.767天文単位(11 cm)
現在は準惑星に分類されています。昔は惑星といえば水金地火木土天海冥などと覚えさせられたものですが、最近は準惑星という概念が生まれてややこしくなっています。

小惑星帯を超えて太陽から遠ざかっていきます。

木星に来ました。
画像は木星とその衛星です。
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木星
直径:142,984 km (約20 cm)
軌道半径:5.2026天文単位(約21 cm)

木星の大赤班の上を通過する衛星イオです。
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直径:3632 km (5mm)
軌道半径:421700 km
火山の噴火により硫黄で覆われています。

衛星カリストです。
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直径:4820 km (8mm)
軌道半径:1882700 km
クレーターが多く見られます。

衛星ガニメデです。
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Dscn7025a
直径:5262 km (8mm)
軌道半径:1070400 km
太陽系最大の衛星。
明るい部分と暗い部分に分かれています。

衛星エウロパです。
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直径:3138 km (5mm)
軌道半径:670900 km
表面の氷の下に生命がいるのではないかと言われています。
太陽系模型 惑星模型 衛星模型

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イラン北東部旅行(マシュハド~テヘラン~ドバイ~羽田)

Dscn5405a 13:00、食事を終え、13:30、マシュハドの空港に着いた。




Dscn5406a 搭乗手続きが始る前、待合室の土産屋を物色する。石造りの建物のミニチュアを見つけて買った。
ここで思いがけない事態が。我々が乗るテヘラン行きの便の前の便の出発が4時間遅れになってしまったのだ。もし我々が乗る便が4時間も遅れたら、ドバイ行きの便に乗り継げなくなってしまう。予定通りの帰国は無理になる。
Aさんから、イランの国内便は遅れや中止が多いので、余裕を持ったスケジュールを組まないとだめだと言われた。スケジュールを組んだのは私ではないが、次回は注意することにしよう。
不安のうちに待っていると、予定通り15:30に搭乗できた。安心したが、ドバイ行きの便に乗るまで油断できない。

Dscn5407a 15:51、離陸。画像は機内食。





Dscn5409a 17:06、テヘランのメフラーバード国際空港着。




Dscn5412a タクシーでエマーム・ホメイニー国際空港へ。道路が渋滞していて多少あせる。




Dscn5416a 18:30、エマーム・ホメイニー国際空港着。念のためAさんから搭乗手続きについて教えてもらう。
ここでAさんと別れる。レストランで話した日本の事、イランの事、色々な事が懐かしく思い出される。握手して別れた。
その後、スーツケース、手荷物のX腺検査、エミレーツ空港のカウンターでチケット受け取り。カウンターの場所がややわかりにくい。
パスポートのチェックを受けて出発ロビーに入ると、店は7つ程しかなく閑散としている。トイレも汚い。店は化粧品、お菓子、ペルセポリスやゾロアスターの置物、ミーナカーリーなど。特に目新しいものはなかった。
予定時刻の20:30になってもセキュリティチェックエリアが開かず、ずっと待たされる。さすがにこれはおかしいぞと思ったら、腕時計の針がいつの間にか大幅に進んでいた。
20:30、セキュリティチェック。21:07、搭乗。

Dscn5417a 21:52、離陸。エミレーツ航空だから大丈夫だと思うが、ドバイに着くまで何となく安心できない。もう胃の心配はいらないので機内食は平らげた。小さなナンが付いていたが、もうイランのナンを食べられないと思うと寂しい思いだ。

Dscn5420a 23:40、ドバイに到着。日本から到着した時と違い、セキュリティチェックはとても厳しかった。チェックを通過して関空行きの便の搭乗ゲートを確認して、ようやく気持ちに余裕ができた。久しぶりに日本人を見た。

【8日目】

Dscn5418a 土産物屋を覗いてイスラム建築のミニチュアがないか探したが、まったくなかった。ラクダの置物が多い。土産物屋はとにかくたくさんある。


Dscn5422a おもちゃ屋でこんなコスチュームまで売っていた。着たあと空気を入れて脹らますらしい。


Dscn5421a 開放感あふれる庭園もあった。1:55、関空行きの便に搭乗。運よく窓際の席。




Dscn5431a 2:50、離陸。ドバイの夜景が美しい。下の方に雷雲があり、光って見えるのが面白かった。


Dscn5432a 機内食は鶏肉のピリ辛ロースト。もう帰るだけなので胃や喉の調子に気遣うことなく、ビールも飲んだ。暇なのでインディ・ジョーンズをずっと見ていた。


Dscn5433a 朝食はトマトの春巻き。まもなく旅も終わりに近づいた。寂しさが募る。




日本時間17:00、関西国際空港着。スーツケースが無事出て来るかどうか不安だったが見つけて一安心。羽田行きの搭乗手続きをする。ビールとつまみを食べて搭乗ゲートに向かう。

19:15、離陸。

20:25、羽田着。羽田は家まで近いので助かる。

イランの雄大な大地、おいしいナンの味が忘れられない。

今回はトゥノカイン地方の風景やネイシャーブールの廃墟を見られて良かった。

今回も現地ガイドのAさんはじめ、日本の旅行会社の方々、現地の運転手の方々、色々な人たちにお世話になった。ありがとうございました。

参考・引用文献:
書名 :地球の歩き方 E 06(2007~2008年版) イラン
著者名 :地球の歩き方編集室/著作編集
出版者 :ダイヤモンド・ビッグ社

書名 :西アジア史 2(イラン・トルコ)
シリーズ :新版世界各国史 9
著者名 :永田雄三/編
出版者 :山川出版社

外務省海外安全ホームページ

ウィキペディア

書名 :完訳東方見聞録 1
シリーズ :平凡社ライブラリー 326
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

書名 :シルクロード紀行
副書名 :イラン・トルコの遺跡を訪ねて
著者名 :折橋徹彦,北川原俊一郎/著
出版者 :花曜社

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イラン北東部旅行(マシュハド・再びハラメ・モハッタル広場~昼食)

まだ時間があるので、ハラメ・モハッタル広場に行った。ゴウハルシャード・モスクと霊廟の金色のドームがもっと見れる場所に行って撮影したかったからだ。

昨日行ったエマーム・レザー通り側の入り口から右に歩き、ハラメ・モハッタル広場の南東側を探すことにした。画像はラザヴィー広場の建設中のエイヴァーンとミナレット。
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112717a 南側のコウサルkausar広場の入り口付近。霊廟の金色のドームが隠れて良く見えない。


112718a 上記の入り口付近からやや東に移動したら、わりとよく見える場所があった。




Dscn5398a 拡大して撮影。撮影していたら通りががりのイランの子供たちに何故か笑われた。


ゴウハルシャード・モスクのドームも撮影。
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112719a 更に北に移動。Shahid navvad e safavi通り側の入り口前に来た。霊廟の金色のドームはアーザーディー広場を囲む建物に阻まれて見えず。ここでホテルに戻ることにした。

Dscn5400a 昼間のベイトル・モガッダス広場を撮影。

11:20、ホテルに戻って帰国の準備をする。


Dscn5401a ホテル前でタクシーを待ち、12:15出発。途中ジャノメミシンの文字が書かれた店が数軒あった。


Dscn5402a 12:30、昨日昼食を食べたシャンディーゼという店で昼食を摂る。サラダと麦のスープ、にんにく。



Dscn5403a イラン最後の食事で、胃の調子を気にして今まで控えてきた牛肉のひき肉のキャバーブを食べた。やっぱり美味しい!バターを混ぜたご飯と一緒に食べるとたまらない。

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イラン北東部旅行(マシュハド・再びバザーレ・レザー)

【7日目】

7:00前に起床。とうとうイランに滞在する最終日になってしまった。思えばあっという間だった。
今日は午前中フリータイムで、午後に飛行機でテヘランへ、そして夜中にドバイに着く予定。
9:00前にホテルのレストランで朝食を食べ、まず昨日いったバザーレ・レザーを見て回ることにする。目的は観光のほか、イスラム建築のミニチュアを手に入れること。昨日来たときにエマーム・レザーの霊廟の建物を見つけて購入済みなので、他にもないか捜すことにした。画像はインテリアとおもちゃの店で、左に聖墓らしきミニチュアがある。
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112706a 800mもの商店街を見て、反対側の入り口に出た。織物を売っている人たちが何人もいてバザールの客に声をかけていた。でも中々売れないようだ。

112705a 学校の社会科見学だろうか、バザールからかわいい子供たちが大勢出てきた。




バザーレ・レザーの中には二本の通りがあり、それぞれ両側に店が立ち並んでいる。もう一本の
800mの商店街を見て回ることにした。このように宗教画や霊廟の写真を背景にして記念写真を撮る写真屋が何軒もある。
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112708a 撮影されたサンプル写真。




112711a 二階にも店がある。でも一階ほどのにぎやかさはなかった。


二階から一階の通りを見下ろしてみた。
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同じ種類の商品を扱う店の品物は、どの店も似たり寄ったり。でもこの店は珍しくチャングムのポスターが貼ってあった。
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招き猫が置いてある店もあった。
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112714a インテリア・ショップでは蝶の標本が結構多い。帆船模型はダウ船があったら絶対買ったのになかった。

バザーレ・レザーを全て見て回った。時々日本語で話しかけられるのは嬉しかった。中国人に間違われることもあったが(チーノと言われる)。結局他のイスラム建築のミニチュアは見つからず、残念でした。

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イラン北東部旅行(ネイシャーブール~マシュハドの夜)

112645a 干しアンズ売りのおばさんからアンズを買う。


112646a 途中の放牧風景。




112647a 中々タイミングが合わない。16:30に料金所を通過し、17:10にホテルに戻った。


Dscn5389a 18:20~19:30の間、夜のライトアップされたハラメ・モハッタル広場を見に行った。エマーム・レザー通りもハラメ・モハッタル広場も昼間と変わらない人出だった。土産店も開いている。ライトアップされたハラメ・モハッタル広場は昼より美しい。

Dscn5386a 霊廟の黄金のドームも輝いている。





Dscn5392a ホテルの近くのベイトル・モガッダス広場。中央に見えるのはバザーレ・レザーの入り口。


Dscn5394a 人も車も絶えることがありません。





112648a 20:00、ホテルのレストランで夕食。今日はちょっと変わった鶏肉料理。名前は忘れてしまった。
今日はネイシャーブールで目的の遺跡が見られて満足だった。
ところで昨日、本日と所謂トゥノカイン地方(タバス及びラザヴィー・ホラーサーン州と南ホラーサーン州)を辿ってきたが、東方見聞録の次の記述について感想を書いてみたい。
「(コビナン(現在のケルマーン州のクボナン)から)八日間の行程を終わるとトゥノカインという地方に着く。この地方はペルシアの北辺に位置し、都市城邑が多い。国内に一大平原があって、その中にアルブル・ソル、すなわちキリスト教徒が「乾燥した樹」と呼ぶ樹がある。(中略)この樹の周辺には、ただ一方向の約十マイル彼方で多少の木が生えている以外、方百マイル以上にわたって全く樹木がない。土人の言によれば、アレクサンダー大王とダリウス王の間に激戦が行われたのはこの地点だったという。この国は暑からず寒からずの良好な気候に恵まれているために、その都市や集落にはなにものにもよらず良質の品物が十分に出回っている。住民はすべてイスラーム教徒である。」(東方見聞録)
「アルブル・ソルの地とは、ホラーサーン地方の一部を意味する。聖地にあって奇跡を現す開闢以来の巨大な長寿木という中世キリスト教徒の伝説と、大王が東方遠征中、人語を語る太陽樹・太陰樹に出会ったとするアレクサンダー物語の説話とが絡み合い、更にそれが、この地方に茂生するスズカケの大樹に関連づけられて成った地名である。」(完訳東方見聞録Ⅰの注釈)

「都市城邑が多い」と書いている割には砂漠などの荒地が非常に多く、イランは砂漠の中にオアシス都市が点在する国だという印象を強くした。ただし地図を見ても一目瞭然だがタバス以南の荒地が続く風景に比べると都市・集落・畑地・放牧地・果樹園は格段に多く、上記の記述は間違っていないと思う(ただしポーロ一行が実際に辿ったルートが今回のルートと一致している証拠は何もない)。「(中世キリスト教徒が呼ぶところの乾燥した)樹の周辺には、ただ一方向の約十マイル彼方で多少の木が生えている以外、方百マイル以上にわたって全く樹木がない。」という記述だが、注釈通りこれがスズカケの樹だとすると、タバスよりももっと北の地域の砂漠の中かオアシス周辺に生えていたのだろう。タバス以南はほとんどがシュロの樹だった。

今日は23時前に寝た。

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イラン北東部旅行(マシュハドからネイシャーブールへ)

112625a 12:45、タクシーにてマシュハドを出発してネイシャーブールに向かう。しばらく町の中を走った後、料金所に着いた。


町を出ると砂漠地帯だ。
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マシュハドとネイシャーブールを隔てるビナルッド山脈を回り込むように道を進んでいく。
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13:24、お湯をもらってチャイ・タイム。
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112630a 出発。赤茶けた砂漠が続く。




112631a 13:50、サファヴィー朝のアッバース1世専用のキャラバンサライがあった。このキャラバンサライはイスファハーンからマシュハドまで、30km毎に存在する。アッバース1世がマシュハドへの巡礼のときに使ったものだ。撮影しなかったので画像には写っていません。

112633a 14:01、darrudへの分岐を通過。ビナルッド山脈の南西側をずっと走っていく。


112635a 丘の間に建物が密集した集落があった。集落があるところには水が出るのだろうか?



112636a ビルナッド山脈の主峰(3211m)に近づいた。真ん中に見える白い頂がそうだ。マシュハドは山脈をはさんで反対側にある。

14:15、kharvへの分岐通過。

112638a 14:18、Aさんがリンゴ、干しアンズ売りを呼んで商品を見る。この辺りはアンズの産地だそうだ。結局買わなかった。kharvへの分岐からネイシャーブールまで、畑のほか果樹園、放牧地が多い。養鶏場もあった。

112639a 14:30、ネイシャーブール 36°11'49.95"N 58°48'5.94"Eの中心部に着いた。
ネイシャーブールは3世紀、サーサーン朝のシャープール1世がホラーサーン防衛のために建設した
ネーウ・シャープフルが前身だそうだ。後ニーシャープールと呼ばれ、シャープール2世の時再建された。
9世紀にはターヒル朝の首都になった。内城・外城二重の城壁を持ち、中には40以上の街区があった。内城は4、外城は11の門を持ち、城から一日行程には
364の村、更にその周辺はニーシャープール地方と呼ばれ、ホラーサーンの中心都市として栄えた。
9世紀後半にはサッファール朝の支配下に置かれたが、両王朝の時代にイスラム化が急速に進んだ。
11世紀には中央アジアのトルコ系民族がホラーサーンに侵入して牧地を荒廃させ、ガズナ朝が追放しようとするとホラーサーン各都市の略奪を始めた。ニーシャープールの支配者層は、侵入したトルコ系遊牧民を管理できないガズナ朝に代わり、トルコ系のセルジューク家に治安維持を依頼し、ニーシャープールに入城させた。ここにセルジューク朝が誕生する。
11世紀後半、著名な学者・詩人オマル・ハイヤームを生んだ。セルジューク朝の大宰相、ニザーム・アルムルクはニザーミーヤ学院と呼ばれるマドラサをニーシャープールはじめ主要都市に建てた。またここを統治していた時のスルタンの弟が、反乱を起こした。
12世紀には大思想家ガザーリーがニザーミーヤ学院で教鞭をとった。
12世紀後半にはセルジューク朝が分裂し、政治的混乱からニーシャープールは荒廃し始める。この時期、
神秘主義詩人シェイフ・アッタール・ニーシャープーリーが活動した。
13世紀前半、モンゴルのチンギス・ハーンがホラーサーンに侵入し、ニーシャープールを壊滅させた。これ以降、以前のような繁栄が戻ることはなかった。
13世紀後半にはチャガタイ・ハーン朝軍がイル・ハーン朝のホラーサーンに侵入し、ニーシャープールで略奪を行った。

112640a 14:35、サファヴィー朝時代のキャラバンサライを見学しようとしたが、何かの取材中で中に入れなかった。この他ネイシャーブールにはオマル・ハイヤーム、シェイフ・アッタールのお墓がある。

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イラン北東部旅行(マシュハド・ゴンバデ・サブズ)

112618a 次の観光地、ゴンバデ・サブズ(緑のドーム)という霊廟に着いた。Aさんによると600年前、イスラム神秘主義(スーフィズム)者のピーレー・パーラン・ドゥーゾという人が元の建物を建てたらしい。サファヴィー朝のアッバス1世が今の建物を建てたとの事。全体の高さは16m、エメラルド色のドームはトルコ石でできており、高さ8 m、直径8.5 m、八角形の土台は高さ8 m

ゴンバデ・サブズの入り口。
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土台部分表面のタイル模様も素晴らしい。

中は男女の部屋に分かれており、絨毯が敷き詰められていて数名が熱心に祈りを捧げていた。
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中に古代の医学についての本の著者、シェイフ・モハンマド・ハキーム・モオメン(
Sheikh Mohammad Hakim Mo'men)の墓があるらしいが、よく分からなかった。

112615a ドーム天井部分。装飾が良好に残っている。

初代エマーム、アリーの肖像が掲げられていた。
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市内のレストランで昼食を食べる。
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112622a レストランの中の様子。




112621a レストランのメニュー。何が書いてあるのかさっぱりわからない。

112623a 今回も魚料理を頼んだ。

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イラン北東部旅行(マシュハド・バザーレ・レザー)

112611a ハラメ・モハッタル広場を後にして、バザーレ・レザーに行った。Aさんによるとアルサケス朝パルティア時代以来のものだという。画像は入り口部分 36°16'58.07"N 59°36'46.58"E。

長さ800mの2階建ての建物に約350軒の店があるそうだ。
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とにかく人でごった返している。

112613a サフランの販売店。昨日も観光したがマシュハドのあるラザヴィー・ホラーサーン州はサフランの産地として有名である。一口にサフランといっても様々な種類があるらしい。
全体を回るのは今日は時間的に無理なので、明日のフリータイムに改めて来ることにして、バザーレ・レザーを出た。

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イラン北東部旅行(マシュハド・ハラメ・モハッタル広場)

【6日目】

Dscn5368a 日の出前のマシュハドの町。

Dscn5369a 6:00前、雲の中から太陽が姿を現した。





Dscn5371a 完全に姿を現した太陽。

112601a 朝食はホテルのレストランで。バイキング形式。人参のジャムが美味しかった。




9:00、ホテルを歩いて出発する。画像はホテルの入り口。
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今日は午前はマシュハド市内の観光、午後は近郊のネイシャーブールの遺跡を観光する。

112602a 9:10、エマーム・レザー通りを歩いてハラメ・モハッタル広場の入り口に着いた 36°17'6.71"N 59°36'47.64"E。
ハラメ・モハッタル広場はシーア派十二エマーム派の第
8代エマームであるレザーの聖墓と、これにまつわるモスク、神学校、博物館、図書館などが集まっている宗教施設群である。レザーはイランで殉教した唯一のエマームであるため、イラン中から昼夜を分かたず大勢の信徒が巡礼に訪れる場所になっている。
今日はゴウハルシャード・モスクとエマーム・レザーの聖墓のみ観光する。

まず目に付くのが巨大なミナレット。
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112606a 入り口の建物。この中でボディチェックを受ける。カメラを持っていたので制止されてしまった。やはりハラメ・モハッタル広場内は撮影禁止だった。

ここは別の入り口だが、一人ひとりボディチェックを受けている。
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112607a 仕方がないので手荷物預かり所にカメラを預けに行った。




画像は観光後に入り口前から撮影したもの。
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入り口を入ると、まずラザヴィー広場というものすごく広い広場に出る 36°17'11.24"N 59°36'47.85"E。周囲にはミナレット6本、エイヴァーン3つ、入場口が2箇所ある。ミナレットやエイヴァーンなど現在も建設中だった。
そのまままっすぐ建物に入るとゴドゥス広場という小さな広場に出る。ここの中央にはエルサレムの岩のドームの縮小版の建物があり、手を水で清める場になっている 36°17'13.74"N 59°36'51.20"E。

Dscn5372a 更にまっすぐ進むとゴウハルシャード・モスクの中に入る 36°17'14.80"N 59°36'52.61"E。画像はモスクのドームを撮影したもの。
ゴウハルシャードは建てた人の名前だがどのような人物なのかよく分からない。Aさんはティムール朝の創始者ティムールの孫、シャハロ・ミルザの妻だといい、「地球の歩き方/イラン」ではティムールの長男(
ジャハーンギール?)の妻だと書いており、またティムールの孫で第3代君主のシャー・ルフの妻と記述されているものもある。いずれにせよ、15世紀前半にゴウハルシャードが自費で造ったもの。
モスクの中には赤い絨毯が敷き詰められた礼拝のための大広間が通路の両側にある。

ゴウハルシャード・モスクを出ると更に小さい広場がある。広場の中央には噴水があり、赤い絨毯が敷き詰められていた 36°17'15.71"N 59°36'53.89"E。
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その向こうにエマーム・レザーの霊廟の建物がある。霊廟はサファヴィー朝時代に建てられたもので、金でできたドームが建っている。この建物の入り口?のエイヴァーンはティムール朝時代のものだそうで、表面を豪華に彩る青いタイルは厚さ5
cmもあって容易に剥げ落ちないようになっているそうだ。
残念ながら異教徒である私は霊廟はおろか手前の小広場にすら入ることができない。ゴウハルシャード・モスクの出口で眺めるのみだった。上の画像はハラメ・モハッタル広場の入り口から霊廟のドームの方向を撮影したもの。

Dscn5373a この後ゴウハルシャード・モスクの北側のシェイフ・バハーイーの聖域に出て、小広場の北西側からモスクの建物と霊廟を眺めた。
その後、北西側のジョムフーリイエ・エスラーミー広場というメッカの方角を示す大理石の方位盤がある広場に入り、霊廟の北西側に着いた。
ここには格子窓があり、霊廟の中を見ることができる 36°17'19.17"N 59°36'53.03"E。
100m位先に人だかりがあり、何かを触ろうとしていた。その肝心の何かはエマーム・レザーの聖墓だろうが、残念ながら遠すぎて良く見えなかった。この格子窓には大勢の信徒が聖墓を見ようと顔をつけて目を凝らしていた。中には男女を問わず、嗚咽して泣き出す人もたくさんいた。
その様子に少し胸打たれながら、今度は外国人信徒向けの指導室という所に入った。ここはビデオで霊廟等の説明をしてくれる場所らしい。残念ながら時間がなく、ビデオは見れなかった。またこの部屋には「エマームが指導者たるべき事」について書かれた本が日本語を含め多数の言語版で置かれている。上の画像は霊廟の金色のドーム。

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イラン北東部旅行(マシュハドのホテル)

112579a 16:10、マシュハドに着いた。

112580a マシュハドはイランの北東に位置し、その人口、大きさはテヘランに次いでイラン第二位である。人口は250万、ラザヴィー・ホラーサーン州の州都になっている。
シーア派十二エマーム派第
8代エマーム・レザー(アリー・リダー)の殉教地として有名で、年間2000万以上の巡礼者、旅行者が訪れ、世界最大の聖都だそうだ。特産品はトルコ石、絨毯など。

112582a 9世紀、アッバース朝の後継カリフを誰にするかを巡って第6代カリフのアミーンと兄のマームーンの間で内戦となり、マームーンが勝利して第7代カリフになった。
マームーンはシーア派信徒の支持を得るため、シーア派十二エマーム派の第
8代エマームであるレザーを自分の後継カリフにすることを宣言したが、アッバース朝はスンニ派であるためスンニ派信徒の離反を招いた。
しかしレザーはマームーンとともにホラーサーンに赴いたときに急死する。シーア派十二エマーム派ではレザーはマームーンに毒殺されたと見ており、埋葬された場所にはモスクや町ができ、マシュハド(殉教地)と呼ばれるようになった。

9世紀、スンニ派のガズニ朝の王、スブクティギーンに破壊された。

1009年、その息子のマフムードはドームのついた建物を建てた。

1118年、その娘が廟のまわりの塀を作った。

その後、モンゴル人の攻撃を受けたが、ティムール朝時代には王朝がスンニ派であるにもかかわらずモスクが建てられ多額の寄進が行われた。ティムールの後継者シャー・ルフとその妻ゴウハル・シャードが廟を保護した。

十二エマーム派を国教としたサファヴィー朝時代にはよりシーア派信仰が奨励され、マシュハドはイラン最大の聖地となった。特にアッバース1世がシャイバーニー朝からマシュハドを奪還し、イスファハーンからマシュハドまで徒歩で巡礼して自らの信仰心を表すと、聖地としての名声をより高めることになった。

アフシャール朝時代、ナーディル・シャーはここを首都にして、インドからの戦利品など多額の寄付をした。

ガージャール朝時代にも多額の寄進が行われた。この時代にはイギリスの干渉で隣国アフガニスタンとの国境が確定し、ホラーサーン地方の主要都市ヘラートがアフガニスタン領になると、マシュハドはイラン領ホラーサーンの中心都市となった。末期には中央政府の力が地方に及ばなくなり、各地で反乱が起きたが、マシュハドでもモハンマド・タキー・ハーンが蜂起した。

1912年、ロシアがマシュハドを攻撃した。

パフラヴィー朝時代には町の近代化が行われた。

イスラム共和国になった現在も霊廟の拡張工事が進められている。

112584a バザーレ・レザーの近くのホテルに着いた。テレビ番組は土地柄のせいか、宗教物が多いように感じた。


浴室はバスタブはなく、シャワーのみ。
112583a_2

112585a ホテルのレストランで夕食を食べる。魚料理を頼んだ。

Dscn5366a 夜、ホテルから見たマシュハドの町。夜遅くまで明るく、人通りが絶えない。時折アザーン?と思われる声が響き渡る。
明日の観光は9:00からだが、日の出が見たいのでモーニングコールは5:30にしてもらった。Aさんは何で?という顔をしていたが。23時には寝た。

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イラン北東部旅行(マシュハドの南の山地を抜ける~日没)

112558a 町を出るとまた砂漠だ。

112559a 14:25、山間部に入った。茫洋とした山並みが広がる。

112560a 墨色と肌色のコントラストが美しい。

112561a 様々な色が折り重なるイランの大地。






112563a
112564a

112565a 山地を抜けた。

112566a 砂漠と畑が広がっていた。遠くに黒い部分があるが何だろうか?

112567a 14:45、再び山間部に入った。


112568a_3 荒涼とした灰色の大地に明るいアイボリーの砂漠が混じる。

112571a_2 赤茶が混じったサンドイエローの砂漠の上に、ダークグレイの岩山が立つ。

112572a 山間部、丘の上に密集する大きな集落と畑地。

112573a 山の様相が変わった。柔和な山肌だ。山間部は15:15位まで続いた。

112574a 15:25、砂漠地帯に入った。

15:30、放牧場が見える。

15:33、料金所に着いた。

15:39、スピード違反で警察に捕まってしまった。15:50~16:00、絨毯を敷いて運転手の懺悔?のお祈り。ここはイスラム共和国なのだという事をあらためて感じた。112575a
再び出発。夕日に照らされて赤い大地がさらに赤くなっている。素晴らしい光景。

112577a 16:03、マシュハドの空港から飛び立つ飛行機が見えた。


112578a 16:05、日没になった。





マシュハド[イラン]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/iran/mashhad/

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イラン北東部旅行(シャッド・メハール~トバト・エ・ヘデレイ)

112546a 再び出発。ゴナバッドを出てからは高速道路に入った。
12:25、山肌に白い文字が書かれていた。Aさんに聞くとマカロニメーカーの宣伝文句だという。このような宣伝の山は途中何箇所も見られた。ISUZUの文字もあった。白い部分は何を塗っているのかわからないが、雨が少ない乾燥地帯ならではの光景だろう。

112548a 12:35、再び警察の検問に遭う。パスポートをチェックされた。


112549a 12:55、ゴナバッドを出てからずっと砂漠だ。


112550a 13:00、マハネーmahnehを通過。町の近くまで来ると畑地が現れる。町にはサービスエリアあり。
町を過ぎると両側から山地が見え始める。再び砂漠地帯になった。
しばらく砂漠だったが畑地が現れた。

112551a 13:15、シャッド・メハールshad mehr通過。ここからは集落と畑地が続いている。綿花を栽培していた。


112553a 13:28、トバト・エ・ヘデレイtorbat-e-heydariyehの町に近づいた 35°15'12.60"N 59°12'58.72"E。トバト・エ・ヘデレイも大きな町。角砂糖工場があった。

このレストランで昼食を摂った。
112556a

112557a 焼き鳥を食べた。ご飯に乗っている黄色い物がサフラン、赤い物がクコの実だ。どちらも長粒米のご飯によく合う。
14:15、出発。

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イラン北東部旅行(バーゲスタントリア~ゴナバッドのカナート)

112531a 朝食を終え出発する。10:36、警察の検問に遭う。スーツケースの中を見せろと言われた時は、ここまでするのかと思ったが、少し中身を見ただけで開放された。再び出発。両側から山地が近づいてくる。10:41、バーゲスタントリアbaghestanを通過。ザクロの産地だそうだ。ここではスズカケの木が見られた。

112532a 10:50から11:07の間、本格的な山地を通過する。見渡す限りのはげ山。

112533a 山中の谷底には小さな畑がある。また途中にレストランらしきものが一軒あった。



112534a 山道を抜け、再び砂漠になった。





112536a 11:20、ゴナバッドgonabad着。ここも大きな町だ 34°21'4.16"N 58°41'2.99"E。

112545a_2 町の中の噴水。砂漠を見慣れた目にはとても贅沢に映る。



112538a 11:38、近郊のカナート(地下水路)の溜め池を見学する。ここはカナートの中継地点のようだ。



11:45、カナートの水源に着いた。アケメネス朝時代のものらしい。画像はその入り口。
112539a
辺りは荒涼とした土漠と日干しレンガの建物の残骸が広がっている。テヘランの学生が見学に来ていた。

地下まで階段が続いている。
112540a_2

112541a 地下の水源。どこから入り込んだのか魚が泳いでいた。砂漠地帯では水を確保するためにこのような金と労力のかかる設備が必要だ。



112544a 入り口を裏側から見る。手前の井戸のようなものは水源の真上。




112543a 覗き込むと水源の水面が見える。ここからゴミでも入れられたら水が汚染してしまわないだろうか?などと心配する。もっともイランでは貴重な水にそんなことをする人はいないだろうが。

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イラン北東部旅行(フェルドゥス・サフラン畑と朝食)

112517a 町を過ぎるとすぐに砂漠。





112519a 王専用のキャラバン・サライがあった。





112520a 別方向から。バードギールを備えているようだ。




112522a 9:03、氷室のドームのそばを通る。


112523a ちょっとした山地が近づいてきた。


112524a 9:30、フェルドゥスferdowsを通過する。大きな町だ。ここは19~20世紀のスウェーデンの探険家スウェン・ヘディンの地図によれば、トゥノカイン地方の中心都市のひとつトゥーンのようである 34° 1'2.74"N 58° 9'46.07"E。

112525a 9:45、フェルドゥス近郊のサフラン畑を見学する。畑には鮮やかなピンク色の花が咲いていた。遠くから見ると芝桜のようだ。農家の人が収穫作業をしていた。


近くまで行って撮影。
112526a

112527a 花はこんな具合だ。赤いのがめしべで黄色いのがおしべ。




112529a 9:56、遅い朝食を食べる。チャイの香り付けのため、運転手さんがもらってきたサフランの花を使う。使うのは画像のめしべだけだ。通常はめしべを乾燥させて香辛料として使う。イランではチャイに入れるほか、ご飯の上によく乗せている。

112530a 敷物を敷いてナンとゆで卵の朝食。ジャムとバターをたっぷりつけたナンは実においしい。イランのジャムは果物の出来が良いせいかうまい。バターは日本では値段が高いので、イランでたくさん食べる。


その他の都市[イラン]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/iran/the_other_cities_of_iran/

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イラン北東部旅行(タバスを出発~南東のデイフッキ通過)

【5日目】

112502a 今日は車でイラン北東部の聖地マシュハドに行く。昨日よりもさらに移動距離が長い。6:00頃の気温は3.5度だった。ホテルで朝食が摂れないとの事なので、朝食はランチボックスにしてもらった。タクシーが来たが、積んでいるエンジンの馬力が弱いとの事で、代車を待つことになった。

ホテルの近くの芝生に木が何本か生えていて、おばさんが朝早くから実か何かを採取していた。

112503a 6:50、ホテルを出発した。タバス市街地の並木道を通過して南に向かう。東方見聞録では、トゥノカイン地方から先の行程について非常にあいまいである。トゥノカイン地方の章の後、有名な暗殺教団主「山の老人」の話が3章にわたって記述される。その次の章はアフガニスタンのサプルガン(ジューズジャーン州の州都シバルガン)の記述だが、「山の老人」の城砦から六日行程と書かれている。六日行程=180kmとすると、城砦はアフガニスタンかトルクメニスタン国内にあることになる。トゥノカイン地方から「山の老人」の城砦までの所要日数は書かれていないので、タバスから城砦に至る少なくとも1000 kmもの行程がどのルートなのかわからない。イギリスの東洋学者ヘンリー・ユールはタバス→サブザヴァール→ネイシャーブール→マシュハド→シバルガンのルートを想定しているようだが、モンゴル時代のシルクロードのメインルート(サブザヴァール→ネイシャーブール→メルブ→ブハラ)への合流を想定したのだろうか?イギリスのペルシャ領事パーシー・サイクスはタバス→ヘラート→シバルガンのルートを想定しているようだ。こちらの方がシバルガンへの最短ルートになる。どちらのルートにせよ、今日辿るルート、タバス→デイフッキ→フェルドゥス→ゴナバッド→トバト・エ・ヘデレイ→マシュハドのどこかをマルコ・ポーロ一行が通過したことは確かだろう。

ちなみに上記ルートの特定には、当時の「山の老人」の一派(シーア派イスマーイール派の分派ニザール派)の各地の城砦の場所と、城砦~シバルガン間の記述(すばらしい牧地が続き物資・糧秣が豊富、都市・集落が多数あり、時々5060マイルの砂漠がある等)が参考になるだろうが、私にはさっぱりわからない。

112504a 町外れの店でお湯を調達する。食事のときに飲むチャイのためだ。


112505a 町を出るとすぐ砂漠。


112506a 昨日行ったコリートを通過する。


112507a 通過後、道は東に方向を変える。


112509a 一瞬、はるか遠方に塩砂漠が見えた。ポーロ一行が通った塩湖かもしれないが、撮影できなかった。

112512a 7:40、地震で破壊された村を通過。


112514a 7:55、岩山の間の道を縫って行く。この辺りで道は東北に方向を変えた。


112515a 8:15、タバス東方デイフッキdeyhukのサービスエリアに着いた。ここで少し休憩。人懐こそうな運転手さんがこの辺の建物について教えてくれた。交番、レストラン、休憩所・・・。画像の道を進むと南側のケルマン州に着く。いつの日か行きたいものだ。

112516a 8:20、デイフッキの中心部を通過。一路北へ向かう 33°17'21.63"N 57°30'43.02"E。

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イラン北東部旅行(タバス・ホテルと結婚式)

112501a ホテルに着いた。出迎えた従業員?は今までのホテルのようにホテルマンといった感じではなく、実直そうな地元のおじさんといった風貌だ。東方見聞録にある「彼らは端麗な容貌をしており、ことに婦人たちはまれに見る美人ぞろいである。」という記述に期待していたが、特にテヘランなどと変ることはなかった。ただ、ホテルの部屋のドアが中々開けられずに困っているときに助けてくれた女性のはにかんだ表情と、後でホテル内の結婚式で見た5歳くらいの女の子の輝くような笑顔が素晴らしかったので、この点は記述どおりと言うことにしておいた。

112496a 部屋の中。3人部屋だった。暖房設備あり。

浴室。バスタブはなくシャワーのみ。
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なぜかトイレは和式洋式両方あった。

19:00にホテルの近くのレストランに行った。
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19:00から開く予定が店員が来ておらず中々開かない。19:30にようやく入れた。

112497a 魚がないので焼き鳥を頼んだ。ナンはこれまでと違って薄いもの。毎日ほとんど同じものを食べているのに飽きることがない。味付けが薄いせいだろうか?


20:00、食事を終えてホテルに戻るとライトアップされ人が大勢集まって騒いでいる。
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ホテルで結婚式が行われていたのだ。そういえばホテルを出る直前、大量の料理が用意されていた。雰囲気は日本の披露宴みたいな堅苦しいものではなく、もっとくだけた感じだった。丁度式が終わって人々が帰る所だったが、東洋人の私は子供たちから珍しそうにじろじろ見られた。式が終わってもホテルの外で友人同士、親戚同士のおしゃべりが尽きることがなく、ざわめきはいつまでも続いた。21:30頃にようやく十台ぐらいの車列がクラクションを鳴らしながらホテルを出て行った。

21:00、気温を測ったら17度だった。明日の出発は今日と同じ6:30、モーニングコールは5:00にしてもらった。いつものように洗濯して23:00には寝た。

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イラン北東部旅行(タバス・フサインの霊廟)

112481a タバスtabasの建物や緑が見えてきた。もうすぐ到着。
私はタバスの歴史を知らない。半ば想像で説明すると、サーサーン朝時代には集落が存在し、その後イスラム化された。中央アジアの北方遊牧民族がイランに侵入する際の通り道になったかもしれない。
11世紀にはシーア派の分派イスマーイール派が勢力を伸ばし、同じ頃イランを支配したスンニ派のセルジューク朝の攻撃を受けた。
13世紀にはモンゴルから攻撃を受け、この地方のイスマーイール派は衰えたと思われる。
サファヴィー朝時代には、ウズベク人(シャイバーニー朝?)の攻撃を受け破壊された。
近年では
1978年の大地震のほか、イラン革命後に1年にわたり占拠されたアメリカ大使館の人質を救助するため1980年に行われたアメリカ救助作戦機がタバス周辺に墜落して失敗した事件がある。
2003年にホラーサーン州からヤズド州に編入された。

112493a 14:50、タバス市内のフサインの霊廟に到着 33°36'9.66"N 56°54'23.97"E。
こんなに大規模な霊廟だとは思わなかった。大きな門が6箇所、ミナレットが4本、噴水が数箇所ある。
フサインとはシーア派十二エマーム派の第8代エマーム、アリー・リダー(いわゆるエマーム・レザー)の息子のシャーザード・フサインの事だそうだ。私は第3代エマームのフサインの事だと思っていたが勘違いだった。
比較的新しい建物だが、元の建物は
1978年のタバス大地震で倒壊し、イラン革命後に信徒の寄進等でより大規模な建物として再建されたそうだ。

入り口の門。
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112483a 中庭の小ドーム。


112485a 中庭の中央にあるまだ建築中の霊廟。こちらも6つの門、4つの塔がある壮大な建物。

霊廟の入り口。
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中は撮影禁止だった。金箔、銀箔、鏡面の幾何学模様のタイルで覆われた部屋があり、緑の光に照らされた棺が置いてある。棺の中は寄進のお札で埋まっている。他には絨毯が敷き詰められた礼拝の大広間がある。

112488a 霊廟の近くにある、ハージェ・タモル・ディンという550年前の詩人の墓石で、タバス大地震で瓦礫に埋もれたものを掘り起こして保存されている。

大きなミナレット。
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中庭はシュロの木が多い。

112491a 中庭の一角にイラン国旗が林立する場所があった。お墓だろうか?


112492a 「(トゥノカインの)国内に一大平原があって、その中にアルブル・ソル、すなわちキリスト教徒が「乾燥した樹」と呼ぶ樹がある。(中略)この樹の周辺には、ただ一方向の約十マイル彼方で多少の木が生えている以外、方百マイル以上にわたって全く樹木がない。」(東方見聞録)
「アルブル・ソルの地とは、ホラーサーン地方の一部を意味する。聖地にあって奇跡を現す開闢以来の巨大な長寿木という中世キリスト教徒の伝説と、大王が東方遠征中、人語を語る太陽樹・太陰樹に出会ったとするアレクサンダー物語の説話とが絡み合い、更にそれが、この地方に茂生するスズカケの大樹に関連づけられて成った地名である。」(完訳東方見聞録Ⅰの注釈)

周辺を探したがスズカケの木は見つからなかった。葉が針葉樹のように針状のもの、笹のように細長い葉のものはあったのだが。

タバス中心部の街路樹の中にもしかしたらあったかもしれないが、シュロの木がほとんどだった。スズカケの木が目立つようになるのは、タバスを離れもっと北に行ってからだった。

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イラン北東部旅行(タバスの南・コリートの崩壊した村と砂漠)

112457a 13:30頃、タバスの直前で南に方向転換し、近郊のコリートkoreyt 33°27'0.84"N 56°56'35.55"Eに向かった。オアシス都市タバスの近くはさすがにシュロの木などの緑が多い。

112459a 13:50、コリート付近の集落に入った。かなり年代物らしきモスクがあったが、車はシュロの林の中へ。

112461a 着いたところは1978年のタバス大地震で壊滅した村。この地震では25千人が死んだそうだ。サーサーン朝時代以来の村との事。

112462a 見るも無残な姿が視界一杯に広がる。この世の終わりの光景を彷彿とさせる。


112463a コリートの南側の砂漠に向かった。放牧の牛と羊が通過中。放牧風景は至る所で見るが、中々間近で見ることができないので嬉しい。

コリートの南側の砂漠に出た。
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ゴミ混じりのあまり綺麗な砂漠ではない。しかしマルコ・ポーロ一行が通った可能性のある砂漠だ。

ここを真っ直ぐ歩くとケルマーン州のクボナンに着く。
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ケルマーン州は治安が悪く、日本の外務省は退避勧告を出している。いつかは行きたいが今はここから彼方を眺めるだけだ。

「(コビナン(現在のクボナン)から)八日間の行程を終わるとトゥノカインという地方に着く。この地方はペルシアの北辺に位置し、都市城邑が多い・・・土人の言によれば、アレクサンダー大王とダリウス王の間に激戦が行われたのはこの地点だったという。この国は暑からず寒からずの良好な気候に恵まれているために、その都市や集落にはなにものにもよらず良質の品物が十分に出回っている。住民はすべてイスラーム教徒である。」(東方見聞録)トゥノカインとはトゥーンとカインという2つの町を中心にした地方だそうだ。

1906年にこの地方を調査したスウェーデンの探険家スウェン・ヘディンは、トゥノカインはタバスの事だと考えた。クボナンからタバスまでは240km、ラクダの移動距離は1日30 kmであるからちょうど八日間の距離になる。また、この区間の荒涼とした風景は「乾燥しきった土地には樹木も果実も見受けられず」と書いた東方見聞録の記述に一致するという。

実際のところトゥノカイン地方とはクヒスターン地方の事だそうで、それは所謂ホラーサーンと呼ばれる地域の南東部、現在のイランのラザヴィー・ホラーサーン州と南ホラーサーン州にタバスを合わせた地域を指すようである。スウェン・ヘディンの地図を見ると、トゥーンは現在のフェルドゥス付近、カインはフェルドゥス南東のQa’en周辺をさしているように見える(フェルドゥスは明日通過する)。ホラーサーンを旅した「バイクでシルクロード」の著者T・セヴェリンによると、「この国は暑からず寒からずの良好な気候に恵まれているために、その都市や集落にはなにものにもよらず良質の品物が十分に出回っている。」という記述がラザヴィー・ホラーサーン州の州都マシュハドの南方の低丘陵地帯に相当するという。タバスやマシュハドが暑からず寒からずの気候と言えるのかは何とも言えないが、各都市の年間月別平均最低気温と年間月別平均最高気温の差を見てみると、タバスが26.8、マシュハドが25.35、ケルマーンが22.35、ヴェネツィアが20.2になっており、タバスとマシュハドの夏と冬の寒暖の差が大きい事がわかる。各都市の月別平均最低気温と月別平均最高気温の差は、マシュハドが1218、ケルマーンが1521、ヴェネツィアが710で、若干マシュハドの月内の気温差がケルマーンの差より小さいものの大した違いはない。ヴェネツィアとの寒暖の差は歴然で、「暑からず寒からずの良好な気候」との記述は附に落ちないが、ポーロ一行がたまたま通過した季節がよくて感覚的にそう感じたのだろうか。面白半分で今回は気温を測ってみることにした。また、マシュハドの南方周辺は明日、明後日に通過するからどんな場所か見る事ができるだろう。

112480a 14:25、タバスに向かった。

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イラン北東部旅行(タバス南西のモスク~タバスへ)

112444a 途中、氷室のドームがあった。アーブ・アンバール(地下水槽)かもしれない。

更に進むと塩湖を横断する箇所がある。全面真っ白な塩砂漠を期待したが、所々が白くなっているだけだった。写真を撮ろうとしたが、ここぞという時にピントが合わず、結局撮れなかった。

112443a 砂漠の中にポツンとモスクだけが建っている場所に着いた。ここでトイレ休憩。アザーンだろうか?突然モスクの拡声器から流れ出した。こんな所でモスクの管理をやらされたら寂しくて仕方がないだろう。

112442a モスクを出発して砂漠のハイウェイを一直線に走る。遠くに山が見えてきた。


112441a トルファンの火焔山のような立ち上る炎の模様がついた山だ。


112449a 砂漠の色合いも場所によって違うようだ。


112448a タバスまでは途中集落もなく、砂漠と岩山だけが続いている。


112447a いよいよタバスの南西側に近づいてきた。


112451a_2 ここから見える砂漠は、マルコ・ポーロ一行がケルマン北西のクボナンから塩砂漠を越えてタバスに向った時、通った場所かもしれない。



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イラン北東部旅行(ヤズドから北東へ・ロバット・ブシュティバーダの隊商宿と早い昼食)

112431a_3 10:15、ロバット・ブシュティバーダrobat-e-poshtbadam到着。ここでサーサーン朝時代のキャラバン・サライを見学する33° 0'5.31"N 55°32'50.08"E。画像はキャラバン・サライの正面全体像。

キャラバン・サライの中に入った。中庭を部屋が取り囲む構造。部屋は二階建てだ。一階の一室に入る。炊事場だという。
112432a
たくさんのかまどと煤けた天井、昔の旅行者が炊事をする姿が目に浮かぶようだ。

112439a_2 こちらは馬小屋。Aさんから蛇やサソリがいるかもしれないので奥に入るなと注意される。

112437a 階段を上がって二階部分に立った。二階にも部屋が多数ありその前を回廊が通っている。


112436a キャラバン・サライの正面入り口部分。


112435a 中庭の中央に窪みがある。ここは昔池があった。また、右端には礼拝所らしきものがある。

二階の客間と思われる部屋。
112438a_3
昔の旅行者の生活を垣間見た思いだ。

112434a キャラバン・サライを出て運転手さんを交えて昼食を食べる。ランチボックスの中身はナン、ゆで卵、各種ジャムとバター、棗、チーズ。熱いチャイを飲みながらハチミツとバターをたっぷりつけたナンを頬張る。青空の下で食べる食事は実に楽しい。昼近くなって気温は高くなっている。日射しが少しきつい。11月下旬なのに初夏のようだ。砂漠の朝と昼はこうも違うのかと実感した。11:00に出発。

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イラン北東部旅行(ヤズドから北東へ・セガンド通過)

112422a 途中に塔の遺跡があった。何かは不明。

た右手遠方に真っ白い塩湖が見られた。Dar anjir desertと思われる。

112423a 山地を通過する。赤茶、緑、ベージュ、まさにシルクロードの大地の色合いだ。


112424a:17、セガンドsaghand通過。タバスまで225km 32°31'45.10"N 55°14'33.76"E


112425a ここにもサーサーン朝時代の城砦の遺跡があった。

112427a 町を通過すると再び見渡す限りの砂漠が続く。ラクダの交通標識(ラクダ横切り注意)多数あり。

112428a サファヴィー朝時代?のキャラバン・サライの遺跡が見えた。


112429a 近づいてみた。見張り塔があるのは王専用のキャラバン・サライだという。


112430a 10:05、山地通過。砂漠は延々と続く。

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イラン北東部旅行(ヤズドから北東へ・ハラネの盗賊の砦)

【4日目】

起きて朝風呂に入る。朝食はホテルのレストランでバイキング。今日は東のタバスに行く。途中まともな昼食を食べる場所が無いとの事なので、昼食はホテルに頼んでランチ・ボックスにしてもらった。タクシーを待って6:30に出発。いいホテルだった。出発後まもなく軽い砂嵐あり。視界が少しぼやけた。

112402a 途中、右側の台地上にゾロアスター教の鳥葬の塔が見えた(画像)。



112403a 朝焼けの空の下、遠い山並みが墨絵のように折り重なって見えた。美しい景色だった。



112404a 街を出るとすぐに砂漠が続く。砂漠は朝焼けと夕焼けの時間が一番美しい。砂漠と言ってもイランでよく見たのは砂礫や乾燥した土の荒地だ。砂丘は見たことがない。

002405a Kuh-e khorunaqという高い山がある山地の傍を通過する。

7:25、ハラネkharanaqのサービスエリアに到着。礼拝所があるからだろうか、サービスエリアの入り口はモスクの門にそっくりだ。
112407a
中にはトイレや小さな公園がある
32°20'49.70"N 54°39'37.53"E

更に少し車で移動し、ハラネの集落に着いた。ここには400年前のサファヴィー朝時代のキャラバン・サライ(隊商宿)の遺跡があるという。

112408a キャラバン・サライの前まで来たが、まだ入り口が開いていない。係員がまだ来ていないようだ32°20'42.26"N 54°40'5.32"E

112409a 仕方がないので入り口から中を撮影した。キャラバン・サライは池のある中庭を部屋が取り囲む構造になっている。

112410a 集落の中をカナート(地下水路)から流れ出た水路が通っている32°20'42.65"N 54°40'5.85"E

112412a 集落のそばにサーサーン朝時代の盗賊のとりでがあった。昔、盗賊がキャラバンから盗んだものを一時的に隠しておいた場所だそうだ。追いかけられても容易に捕まらないように中は迷路になっている32°20'44.22"N 54°40'8.44"E

112420a 中はかなり広そうで、このように見通しのきかない狭い路地が途中いくつも枝分かれしながら通っている。私もこの先何があるのかわくわくしながらも、迷わないよう慎重に奥に入っていった。

途中には部屋がいくつもある。薄暗い部屋の中はゴミが散乱している。
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30年ほど前まで村の人が住んでいたそうだ。今では隣の新しい集落に移り住んでいる。

坂道を登ったり階段を上ったりしているうちに、思いがけずミナレットの建つ屋上に着いた。
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Aさんの説明ではセルジューク朝時代のもので(そういえばサヴェで見たミナレットと似ている)、シェイキング・ミナレットだという。シェイキング・ミナレットとは塔全体がぐらぐら揺れるミナレットのことだ。ミナレットの先端近くから飛び出ている鉄棒を持って揺するのかな?

112413a ここからは砦を見渡すことができる。思っていたよりはるかに大きいので驚いた。これは全部は回れそうにない。

112415a ミナレットの建つ屋上から下っていくと、モスクの跡があった。ミナレットの真下がモスクらしい。比較的新しい容器などが置いてあるので、最近も使っているのだろうか?

112421a 別の通路を通って部屋の二階に登ると、窓からキャラバン・サライが見えた。残念ながらまだ開いてなさそうだ。この部屋に入った時は床が落ちたりしないかと少しひやひやした。

112417a 通路を辿っていくと、砦の外に出た。出た所に新しい集落があった。集落はひっそりとしているが、時折村人がのんびりと歩いていた。画像は砦の側面だが、結構高い建物で見張り塔のようなものもある。村にはゲストハウス(宿泊所)があり、ヨーロッパからの客が来るのだという。砦の観光はちょっとした探検気分を味わえてとても楽しかった。8:30に出発。

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イラン北東部旅行(ヤズド・ゾロアスター教神殿)

1123a4a_3 次に向かったのはゾロアスター教神殿31°52'52.43"N 54°22'24.43"E。結構新しい建物だった。本当は大昔の神殿も見たかったのだが。神殿の上部にあるのはフラワシと呼ばれるゾロアスター教のシンボルだ。以下の説明は私の勘違いがあるかもしれませんが、確かゾロアスター教の精霊で、人間の霊魂を表していると思いました。翼は天国に上がるためのもので、手に持った輪は神との契約を表しています。もし契約に背けば二本の尾をつかまれて引きずり降ろされてしまいます。

1123a6a_2 中は人が結構いましたが、信徒なのか単なる見学者なのかよく分かりません。ゾロアスター教の信徒は、神殿でお祈りしたりするのか興味があったのですが、そのような人はいませんでした。係員らしき人が女学生から質問攻めにあっていました。神殿というより資料館といった感じでした。

Dscn5356a_2 ガラス越しに1500年間燃え続ける炎を見ることができます。火は光明の善神アフラ・マズダの象徴として尊ばれ、ゾロアスター教は拝火教とも言われます。火が消えないよう係員が常にいて燃料を補充しているそうです。

ゾロアスターの像です。
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1123a8a これは、ロシアにあるゾロアスター教神殿との事でした。火の燃え方が半端じゃないです。

1123b0a 東方見聞録のヤズドの項に、以下の記述があります。「この地にはヤスディと呼ばれる絹布が多量に製造される。商人たちはこれを諸外国に販売して非常な利潤を収めるのである。」ゾロアスター教神殿からの帰り道、現在のヤズドでも絹布を作っているのか確かめたくなりました。質問した所、テルメ織という刺繍があるとの事でした。早速その店に行ってみました。

1123a9a 店主に聞いた所、素材は絹との事でした。東方見聞録に記述されているものと関係があるのかどうかわかりませんが、絹製品を製造している事はわかりました。

1123b1a ホテルに戻りました。19時にレストランで夕食を摂る事になりました。ホテルの談話室には色鮮やかなオウムがいます。眠たいのか目を閉じていましたが、時折テレビの音に反応してきょろきょろします。

1123b3a 夕食も魚料理にしました。何の魚かまるで分かりませんが、少しマグロっぽい味がしておいしかった。味付けもさっぱりしてよかったです。

Dscn5358a ホテルの果樹園は夜になると園内各所のランプに灯がともされます。

明日は車でタバスに行きます。結構距離があるので今日と同様4時起きを覚悟していましたが、道路の状態が思っていたより良いそうで、5時起きで大丈夫という事になりました。しかし体調を崩すと怖いので、洗濯して22時には寝ました。

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シルクロード天山南路旅行(西安~ウルムチ・環球大酒店)

076a 【2003年9月】16:25、空港内レストラン「シルクロード」にて夕食。


078a メニューはお決まりのチンゲン菜の油いため、炒り卵とトマトの炒め物、生の胡瓜の千切り、煮た大根+あんかけ?、肉と千切り胡瓜の炒め物、酢豚など今後の食事全般にほぼ共通して出てくるものである。前回の北京に比べると内容は明らかに落ちる。

079a 17:30、ウルムチ行き中国南方航空(西安やウルムチは中国西部だが南方航空?)9236便に搭乗。ここでTさんと別れる。空港は夕焼けに染まっている。これから奥地に行ってしまうんだという心細い感じを覚える。
18:08、離陸。運良く窓際の席だったので上空から景色を見る。たぶんシルクロードにほぼ沿って飛んでくれるのではと思ったがランドマークがないのでやっぱりどこを飛んでいるのかわからない。曲がりくねった河や細長い田畑や土造りの家が並んでいたがやがて砂漠が広がり出した。
080a 夕食を食べたばかりだが機内食が来る。シルクロード名物ラグメン(牛肉入りあんかけソバ)とパン。何となく平らげてしまった。スチュワーデスは赤いチャイナを来ている。スタイルは日本人スチュワーデスに比べ断然よい。立ち居振舞いは日本のほうが品がよい。

081a 遠くに山脈が見えた。天山山脈だろうか。外は暗くなり景色も見えなくなった。今朝はまだ横浜にいたのに今は世界で最も海から遠い都市、ウルムチに着こうとしている。夢のようだった。

075a 21:10、ウルムチ空港に着く。ウルムチに着くと外は真っ暗。空港は新しく広い。新車の国産JEEPが展示されていた。

荷物を受け取るとすぐにバスでホテル「環球大酒店」へ。
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22:25到着。日本時間の23:25であるから今日は本当に一日中移動ずくめの日だった。徐々に思い知らされるのだがこのツアー、寝る間を惜しむかのように行動時間が長い。

083a Iさんから明日の起床時間などがかかれたメモをもらう。ホテルの部屋は22階。


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キーはカードキーなので案の定なかなかドアが開かずやっと部屋に入ると豪華さにびっくり。
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寝室のほかにリビングルームがあり洗面所・トイレが2箇所、大型テレビ、電話も2つある。一人じゃもったいないと思いつつ着ていた服を急いで洗濯し湯船に身を浸して疲れをとる。ちょっと寒いなと思いつつ、明日もハードなスケジュールなのですぐに寝た。
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イラン北東部旅行(ヤズド・沈黙の塔・麓の集落)

112391a 鳥葬塔の外に出て見下ろすと、現在のゾロアスター教徒のお墓が立ち並んでいる。鳥葬が禁止されてしまったため、やむを得ず土葬しているのだ。

112389a 葬式に使った建物などがある集落の全景。


112396a 葬式に使われた集会場の建物のひとつ。最も綺麗に修復されているものだ。


112397a 中に入ると、神官や参列者が集会した広間がある。彼らは葬式の際、ここに宿泊した。


112399a 炊事場。炭の跡が生々しい。




寝室だと思われる。
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1123a1a トイレは離れになっている。


1123a2a アーブ・アンバールと呼ばれる地下水槽。奥にあるドームの下に水槽がある。両側のバードギールは水を冷すための物。手前は地下水槽への入り口。残念ながら途中で行き止まりになっていた。

1123a3a 沈黙の塔の係員のおじいさん。かつての鳥葬を目撃した数少ない生き証人である。

沈黙の塔の荒涼とした光景はすばらしかったが、この敷地を囲んでいる塀が一部壊れていて、バイク野郎数名が勝手に侵入して乗り回すのでうるさくて仕方がなかった。せっかくの雰囲気も台無しになった。

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シルクロード天山南路旅行(咸陽・咸陽博物館、渭河)

【2003年9月】バスに乗り空港から30分ほどの咸陽博物館 34 20' 11.08"N 108 43' 43.22"E へ。咸陽は中国最初の統一王朝、秦帝国の都だ。

074a バスから外を眺めるといたるところ古墳が散在している。

060a 博物館は近代的な設備ではなく昔の建物を利用したものだ。



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入るとまず秦の時代の瓦や甕などが並んでいる。撮影はOK。でもガラスケースにほんの数点ならんでいるだけのお粗末な陳列方式であまりありがたいものには見えなかった。この時代の文物に興味がある人にとっては目を見張るものなのか?
しかしこちらは撮影ダメですと言われて入った建物では唐三彩という焼き物で作った人物像や騎馬像がライトアップされていて素人目にもそのすばらしさがわかった。日本でいうと奈良時代に作られたものだがいまだに色鮮やかで美しい。最大の見せ場は漢帝国の兵馬桶で、有名な秦始皇帝の兵馬桶に比べて5分の1程度の小ささだ。しかし数百体も並んだ姿を見ると迫力がある。昔の軍隊を彷彿とさせる。
その他明の時代(700年前)の仏像などがあったがここ咸陽や隣の西安は歴史が古すぎて明の時代のものなど新しすぎてあまり大切にされないとの事。そうなると日本の歴史的遺物はほとんどガラクタかも。
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博物館を出て黄河の支流、渭河を見に行った。

073a 途中の町並みは1地方都市とはいえ田舎臭い感じはせず化粧品のポスターが貼られていたりと日本の感覚とあまり変わらないように見えた。レストランには消毒済みの張り紙がしてあった。

091401a 渭河のほとりは黄土が剥き出しで河川敷も整備されていない(よく言えば自然のまま?)。子供が泥だらけで遊んでいた。今は水量が少ない時期だという。この後空港に戻った。

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イラン北東部旅行(ヤズド・沈黙の塔・女性用の鳥葬塔)

112377a ホテルに戻って昼食を摂った。胃にやさしそうな淡白な魚料理を頼んだ。中々おいしかったです。カスピ海やペルシャ湾沿岸に住む人を除けば、ほとんどのイラン人は魚料理は苦手だそうだ。魚臭いのがどうもダメなようで。

食事後、いよいよ沈黙の塔に向かった。沈黙の塔はゾロアスター教の信徒が葬式を終えた後、遺体を鳥葬した場所だ。

ゾロアスター教は紀元前13世紀~紀元前12世紀頃、中央アジア西部においてゾロアスターという人物が始めたといわれる。この世は光明の善神アフラ・マズダと闇の悪神アンラ・マンユの戦いの場であり、人間はどちらの側につくことも可能だが、最終的には悪神の勢力は救世主による最後の審判において滅ぼされる、というものだ。預言者・救世主、最後の審判、天国と地獄等の世界観がユダヤ教、しいてはキリスト教やイスラム教、仏教に影響を与えたという説がある。火、水、大地を神聖なものとしているため、これらを遺体で汚すことはできない。そのため鳥葬の場が設けられている。

現在イランにはヤズド、ケルマンを中心に数万人程度の信徒がいるそうだ。

画像は沈黙の塔の全体像。左の丘の頂上が男性用の鳥葬塔31°49'18.62"N 54°21'25.57"E、中央右寄りが女性用の鳥葬塔31°49'22.53"N 54°21'17.73"E、手前にあるのは葬式に使われた集会場の建物などである31°49'28.05"N 54°21'24.23"E
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112382a 男性用の鳥葬塔の方が高いが、塔の内部に入るのが困難との事だった。体調も良いとは言えないので、女性用の鳥葬塔に行くことにした。画像は登る途中。最近運動をしていないので、思ったよりしんどかった。

112383a 荒涼とした光景。


112393a_2 登りの途中で男性用の鳥葬塔を眺めたところ。

112392a 別の方向にも遺跡が散在している。


112394a 鳥葬塔が間近に迫ってきた。入り口は塞がれているようだ。


112384a_2 裏手に回りこむと入り口があった。


112387a 中は結構広かった。声が反響して聞こえる。場所が場所だけに寒々とした寂しい雰囲気だ。

112388a_2 真ん中の穴がかつて鳥葬した場所。鳥葬は1930年代のパフラヴィー朝時代に禁止されてしまった。今では土砂が積もるのみ。

112386a 本来の入り口はこのように封鎖されている。

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イラン北東部旅行(ヤズド・ドウラト・アーバード庭園)

112362a 次に向かったのはドウラト・アーバード庭園。確か18世紀のヤズドの支配者の住居だったと思いました。このように城壁と見張り塔に囲まれています。

ここの見どころは何といってもヤズドで一番高い33mのバードギール31°54'6.75"N 54°21'13.82"E
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建物は支配者の家族の住居だ。

建物の1階に入ると、外からは気づかなかったが美しいステンドグラスがある。
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部屋には小さな池があり、水面に映るステンドグラスも美しい。

112367a バードギールの真下の部屋に来た。天井は空洞になっている。


112366a 天井を見上げたところ。風が音を立てて流れ込んできて大変涼しい。バードギールは高ければ高いほど大量の風を取り込んでくれるものらしい。バードギールの威力がよくわかった。

112368a かつて支配者の部屋だったところ。今は礼拝の場になっているのかな。


2階への階段。
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あまりに急なので驚いた。

2階から庭園を眺めたところ。
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噴水と水路がある典型的なペルシャ風庭園。支配者は噴水の音を聞きながらここで涼んでいたのだろう。砂漠の真ん中の都市でこれほどの贅沢はないだろう。ちなみに画像の上半分の敷地は支配者の子孫の私有地で立ち入り禁止だ。子孫の方々もよほどの金持ちのようだ。

2階には支配者の奥さん達が住んでいた部屋があるが、中は見れなかった。

果樹園の一角からバードギールを見たところ。
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112373a 召使が住んでいたと思われる建物。

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シルクロード天山南路旅行(成田~西安)

2003年9月

朝4時、起きて支度する。寝坊するのが怖くてよく眠れなかった。前回の北京と同様スーツケースを抱えて暗い街に出る。海外旅行2回目なので前回ほどのワクワク感はない。金沢文庫5:17発特急に乗り目をつぶる。
横浜で5:40発のJRエアポート成田に乗り換える。ここからは成田まで乗り換えなしだが2時間も乗りつづけてうんざりする。しかも車内が寒く風邪をひきそうだ。周りにはスーツケースを持った若者がちらほらいて「地球の歩き方・イタリア編」などをむさぼり読んでいる。仲間が寝坊して携帯で「大丈夫ですかあ」なんて言っている連中もいる。とにかく成田は遠い。車中でおにぎりを食べる。
東京、船橋、八千代と駅がすぎて7:33やっと空港第2ビルに着く。070a 第2ビル3階の出発ロビーにてツアー会社の添乗員、Iさんに会う。早速スーツケースを預けるよう指示され日本エアシステムのブースへ。座席を決めてもらったが通路よりの席だったので別の日本エアシステムのブースで窓際の席に変更してもらう。よかった。8:15、添乗員の元に再集合し今日の予定の説明と、観光時にガイドの説明を聞くためのイヤホン、パスポートケースをもらう。参加者は全員で21名。仕事をリタイアした年配者が多い。その後すぐに出国審査場に行き搭乗ゲートまで進む。施設は前回と特に変わりなし。

ブランド品と偽物を陳列展示している場所では人だかりができていた。
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搭乗口ロビーに行って外を眺めたり売店を見たりしていた。

069a 9:45やっと搭乗改札口が開く。



061a バスに乗り日本エアシステム867便へ。前回は中国東方航空だったが今回は日本の航空会社なのでちょっと安心?サービス内容の違いも興味ある所だ。さすがに機内はガラガラ。皆窓際の席にへばりついている。
10:15、西安に向って飛び立った。上空からの景色は良く見えるがどこを飛んでいるのかわからない。福井県で日本海上に出たらしいが。韓国のどこかを飛んで大連近くの海上を飛んでたぶん天津で中国大陸に入ったと思われる。

062a 機内食は鳥の照り焼き丼がメインでタクアン巻も付いている。まずまずのおいしさだ。日本の食事ともこれでおさらば。サービス面はコレといって目新しい事をするでもなく良くも悪くもない。

063a 13:22、西安咸陽国際空港に到着した(ここから時刻標記は全て北京時間=日本の1時間遅れ)。信じられないほどお粗末な空港で、コンクリート剥き出しの汚い外壁の建物で一箇所しかない手荷物検査ゲートで検査し10歩歩くともう入国審査場だ。SARSの事もあるので緊張するが恙無く手続きを終え今回の現地ガイド、全行程スルーガイドのMさん(ウイグル族男性35歳)、咸陽ガイドのTさん(漢族男性)に会う。

064a 西安咸陽国際空港は今ドーム型の新空港を建設中で16日にオープンとの事。帰りには新設備の新空港を使える予定だ。

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イラン北東部旅行(ヤズド・12エマームの霊廟と旧市街)

112353a 次に近くにある12エマームの霊廟に向かった31°54'17.65"N 54°22'12.73"E。ヤズドにある最も古い建物で11世紀に建てられた。13世紀に訪れたマルコ・ポーロ一行も目にしたのではないか。

エマームとはイスラム教シーア派で言うところの神の預言者(ムハンマド)の後継者、イスラム社会の最高指導者の事。イスラム教スンニ派で言うところのカリフ(神の使徒の代理人)とほぼ同じ意味になる。

7世紀、イスラム教の創始者ムハンマド死去後、ムハンマドと同族で最古参の信徒の中から4代にわたってカリフが選出された。3代目はウマイヤ家のウスマーンだったが、その専横に反発する信徒により殺され、彼らを含む最古参の信徒の選出によりムハンマドの娘婿で従兄弟のアリーが4代目に選出された。
アリーの支持者は、アリーとその子孫のみが預言者の後継者(エマーム)として信徒を指導する資格を持つと主張し、アリー派=シーア・アリー、略してシーアと呼ばれた。
しかし当時シリア総督だったウマイヤ家のムアーウィアは、アリーの選出は不法であるとして自らカリフを名乗った。まもなくアリーが暗殺されたため、ムアーウィアは唯一のカリフとなった。ムアーウィアは後継カリフを選出ではなく世襲によって決める事を各地の有力者に強制した(ウマイヤ朝の始まり)。
ムアーウィアが死去した時、シーア派はアリーの子フサインを担いで政権奪取を図った。しかし百名にも満たないフサインの一族は、シーア派軍と合流する前にイラクのカルバラーで
4000ものウマイヤ朝軍に囲まれ殺害された。国家権力がムハンマドの血族を殺害したこの事件に憤激した信徒はシーア派に結集した。ウマイヤ朝はスンニ派である事から、スンニ派への被害者意識が生まれ、フサインが大軍を相手に雄雄しく戦って殉教した事は、殉教へのあこがれを生んだ。
ウマイヤ朝やウマイヤ朝を倒してイスラム世界を支配したアッバース朝(ムハンマドの叔父の子孫であるアッバース家の王朝)はスンニ派で、アリーの子孫しか指導者として認めないシーア派は邪魔な存在でしかなく、迫害を続けた。そのためフサインの子孫である代々のエマームも殉教を余儀なくされた。
エマームが何代続いたかはシーア派の中でも諸説があり、イラン人の多くが信徒であるシーア派12エマーム派によれば、現在12代まで続いている事になる。9世紀、12代エマームであるムハンマドは、父の葬式の場で姿を消し「隠れエマーム」になったとされ、いつの日か再び姿を現すと信じられている。
12エマームの霊廟の12エマームとは、アリーからムハンマドまでの12人のエマームを指している。

霊廟に入ったが棺が安置されているわけではなく中はがらんどうである。
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それもそのはずで、12代目エマームは死んではおらず、11代目までのエマームの棺もここにあるわけではない。11代目までのエマームは殉教した場所にそれぞれ霊廟が建てられている。
なぜここに12人のエマームの霊廟があるかというと、昔ある人がこの建物の中に12人のエマームが現れた夢を見た事から、霊廟になったそうだ。画像はミフラーブの部分だが封鎖されている。

112354a_2 天井部分もかなり剥げ落ちている。台座部分に何とか装飾が残っている。



112357a 壁の一部だけ、いつの時代のものかわからないが装飾が残っていた。

112358a この付近にも旧市街の町並みがある。面白そうなので行ってみることにした。旧市街の中の家の扉には表札らしきものがあり、人が住んでいるように思えるのだが、なぜか人通りがない。時々バイクに乗った若者が走り回る程度だった。まったく不思議な場所だ。

道は途中、いくつも枝分かれしている。
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112359a 広場に出た。人影は全く見えない。幼稚園らしき建物があり、壁に女性と子供達が描かれていた。女性の顔に髭がいたずら書きされていて滑稽だったが、辺りが余りにひっそりとしているのでかえって不気味だった。遠くに金曜モスクのミナレットが見えた。

※引用・参考文献は旅行日記の最後に掲載します。

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