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イラン北東部旅行(ヤズド・アレクサンダーの牢獄とマドラサ)

金曜モスクを出て、アレクサンダーの牢獄に向かった。入り口はドームの脇にあった31°54'18.49"N 54°22'13.62"E
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アレクサンダー大王が紀元前4世紀に牢獄を作ったという伝承があり、13世紀?にマドラサ(イスラム神学校)が建てられたそうだ。

東方見聞録のヤズドの項には、「由緒深い立派な都市」、「学識が高く優秀な人々が住む美しい町」などと記述されている。マルコ・ポーロはここを訪れ、アレクサンダーの時代に遡るこの町の歴史や、マドラサで学ぶ人たちを目にしたのではないだろうか。

112343a 先程のドームの中。マドラサの礼拝所らしい。ミフラーブがある。中はすっかり古びていて、今は礼拝に使われていない。

112342a 天井部分。ドームの基礎部分にわずかに当時の装飾が見える。

112349a ドームの前は中庭になっている。まわりを同じような部屋が取り囲んでいるが、これらもマドラサの授業に使われたそうだ。当時は最先端の科学の講義も行われたとか。今は土産物屋になっている。中央、広場の片隅に見える手すりがアレクサンダーの牢獄への入り口。奥の建物の上にはバードギールが建っている。

112350a アレクサンダーの牢獄への入り口の手前から、ドームのある建物を見たところ。

階段を下って地下の牢獄へと向かいます。
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112346a アレクサンダー大王が造った牢獄との伝承がある場所。今は喫茶店になっていて牢獄らしさは感じられない。中央の池にはなぜかお金が放り込まれていた。特にお金を入れると願い事がかなう、等の言い伝えはないようだが。

112347a 天井はドームになっている。明かり採りの穴がある。中庭中央の穴はこれだった。

112345a 牢獄から上がって、先程見えたバードギールの建物に入った。これはバードギールを真下から見上げたところ。確かに風が吹き付けていて、ここにいると涼しい。

112352a アレクサンダーの牢獄の入り口にあった模型。金曜モスクとその周辺の旧市街部分で、アレクサンダーの牢獄の部分はない。

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イラン北東部旅行(ヤズド・金曜モスク周辺の旧市街)

112329a 金曜モスクの周辺には日干しレンガでできた旧市街の町並みが広がっている。Aさんの案内で立ち寄ることにした。

112334a 元々日干しレンガを積んだものを、上から漆喰を塗って修復したらしい。


家の入り口の扉。
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扉の左右それぞれにノックするための金具がついている。金具の形が左右で違う。棒状は男性用で輪っかは女性用だ。男性用のほうが低い音がした。家人はノックの音で客が男性か女性か判断し、男性客であれば男性が、女性客であれば女性が応対に出る。このような扉は今でも地方で使われているという。

112335a_2 塀のむこうにモスクのドームらしきものが見える。

112336a すぐそばにはバードギールもあった。

112338a アーチ型のトンネルがあり、旧市街の通路はどこまでも続いていた。


修復しているのだろうか?
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通路は途中枝分かれし、下手に入るとすぐ迷いそうだ。
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イラン北東部旅行(ヤズド・金曜モスクの観光)

112313a ホテルに荷物を置いて、早速ヤズド市内の観光に向かう。まずは金曜モスクの観光だ。前方方向に異常に高い2本のミナレットが見えてきた。

金曜モスクの入り口31°54'4.55"N 54°22'7.53"E
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天を突き刺すようなミナレットはイラン一高い。この金曜モスクはサーサーン朝のゾロアスター神殿の跡地に11世紀にモスクが建てられ、14世紀に今のモスクが建て直された。

ここで突然イラン人から「こんにちは」と声をかけられた。驚いていると、父親が日本人なのだという。今日は建築の勉強のため、ここに来ているそうだ。親切なことに、何か困ったことがあったらと電話番号を教えてもらった。日本にゆかりのある人が外国にいるというのは嬉しいかぎりである。

入り口のタイル。
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コーランの一節が書かれている。緻密なデザインといい色合いといい、実に美しい。

112316a 入り口天井の鍾乳石飾り。このような複雑で独特の造形はイスラム建築でしか見たことがない。

この木製の扉もかなりの年代物だ。
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112319a 入り口に入ると周りをアーチの回廊に囲まれた長方形の中庭がある31°54'5.36"N 54°22'7.09"E

112320a 入り口の左側には、大きなドームとエイヴァーンがある31°54'4.21"N 54°22'5.93"E


エイヴァーンの装飾を見ると、壁の全面がタイルで装飾されている部分、焼きレンガの一部だけタイルが貼ってある部分、焼きレンガだけの部分の3種類に分かれる。
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焼きレンガだけの部分はセルジューク朝時代、一部だけタイルが貼ってある部分はティムール朝時代、全面がタイルで装飾されている部分はサファヴィー朝時代のものだという。時代とともに装飾が進化していった様がわかる。

画像の右、焼きレンガの間に漆喰で造形された文様がある。この文様はそれぞれ形が違っていて文字のように意味がある。たとえばある文様はアラーを意味している。

エイヴァーンの内側。
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緻密な幾何学模様のタイルで覆われている。偶像や具体的な事物の装飾を禁じたイスラム教では、タイルによる幾何学模様が取り入れられた。

奥にあるミフラーブ。
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ミフラーブの下にある説教者の立ち位置が、他の床に比べて一段低くなっている。これは説教者のうぬぼれを戒めるものだという。

112326a ドームの天井。

112328a ドームとエイヴァーンの左右にある部屋。元々礼拝のために使われていたと思われるが、今はどうなっているのかわからない。

112332a ドームとエイヴァーンの左右にある部屋。絨毯が敷き詰められ、礼拝に使われている。


中庭にあるカナート(地下水路)へ降りる入り口。
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今回は封鎖されていて降りられなかった。オアシスでは水を地下水から供給しているが、水が蒸発しないようカナートに流している。

112323a_2 こちらはカナートの修理・通風用の穴と思われる。

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イラン北東部旅行(テヘラン・アーザーディー・タワー~ヤズド・ママーレック・ホテル

【3日目】

モーニングコールで4:00に起きる。洗濯物は乾いていた。寝ぼけ眼でシャワーを浴びて髭を剃る。スーツケースの荷物をまとめ、5:30前に待ち合わせのロビーへ。ホテルの外に出ると夜明け前でまだ暗い。112301a ホテルの外観を撮った(画像)。夜雨が降ったらしく、路面が濡れている。Aさんは恵みの雨だと言った。

112302a ホテルからメフラーバード国際空港に向かう途中、ライトアップされた夜のアーザーディー・タワーを見ることができた35°41'58.93"N 51°20'16.94"E。アーザーディー・タワーはペルシャ建国2500年を記念して建てられたもので、テヘランで最も印象深いランドマークになっている。前回訪れた時は中に入れなかったが、今は入ることができ、頂上からテヘランの町並みが一望できるという。

112304a メフラーバード国際空港の駐車場に着いた、前回と変わらない光景。懐かしい35°41'30.06"N 51°19'19.68"E

6:40、離陸。

112305a 8:00、ヤズドに着いた。画像はヤズドの空港31°54'12.28"N 54°16'59.77"Eの入り口。

ヤズドはイランの真ん中にある都市。人口は約50万。キャヴィールとルートの両砂漠の接点にあり、非常に乾燥している。東方見聞録に以下の記述がある。

「ヤスディもペルシアにある由緒深いりっぱな都市で、商業取引が盛んである。この地にはヤスディと呼ばれる絹布が多量に製造される。商人たちはこれを諸外国に販売して非常な利潤を収めるのである。住民はイスラーム教を信奉する。」

ヤズドの歴史は2800年前のメディア王国の時代にさかのぼると言われる。ヤズドの名前は、1800年前のサーサーン朝ペルシアの王、ヤズデギルド1世に由来するといわれる。14世紀にはイラン系のムザッファル朝の首都になっている。イラン中央に位置する事から、イラン各地の中継交易都市として現在に至るまで繁栄してきた。またイランのイスラム化に伴い退避したゾロアスター教徒が多く、ゾロアスター教の聖地でもある。今では大規模な旧市街や数々の歴史的建築物の観光都市としても有名。

112306a 市中を走ると早速バードギール(風採り塔)にお目にかかった。

東方見聞録のホルムズの記述に、「この地の暑気は非常なものだから、家屋にはみな風を受けるための通風孔が施されている。通風孔はこの地における主要な風向きの面に作られ、屋内に風を流入せしめる。これがなければ住民はとうてい酷暑に耐えられないから、普及して施された設備なのである。」とある。この設備は、今ではヤズドでよく見られる。

ホテルに着いた。
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入り口が小さくこじんまりとした印象。

112312a しかしロビーを通って中庭に出ると、手入れされた庭園やしゃれた建物の様子から、普通のホテルとは明らかに雰囲気が違うと思った。聞けば、この地方の支配者、あるいは富豪のお邸だったのだという。庭園にはペルシャ式の噴水と水路がある。

112375a 宿泊部屋の入り口はこんな感じ。

112308a ベッドに施された模様、陶器製の照明、壁のタイル、椅子も洗練されている。


112309a 窓には色ガラスがはめ込んである。

112311a 天井は砂漠都市の雰囲気たっぷりのトロピカルな感じ。



バスルームも綺麗だ。
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恐らく今までイランで泊まった宿でダントツに気持ちのよいホテルだ。

112376a バードギールを備えた宿泊棟もある。庭園のバラの花が綺麗だ。

112374a 奥には緑に囲まれた池があって魚が泳いでいる。

※引用・参考文献は旅行日記の最後に掲載します。


ヤズド[イラン]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/iran/yazd/

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イラン北東部旅行(テヘラン・宝石博物館~ホテル)

この後、前々から行きたかった宝石博物館に行った 35°41'31.70"N 51°25'11.07"E

イラン中央銀行内にあり、手荷物の持込は一切禁止、入場前にセキュリティチェックを受ける。残念ながら中は撮影禁止である。

入ってまず目にするのは「孔雀の玉座」。ガージャール朝のファテ・アリー・シャーが作らせた玉座で、実に26,733個の宝石が埋め込まれている。まったく玉座全体がまんべんなく宝石で覆われている。こりゃーすごいなーと思って見ていたが、これは序の口だった。銀行の金庫のような分厚い扉を通って部屋に入ると、そこには陳列ケースが40個ほどあり、中には数々の財宝が展示されていた。ケースの前にバーがあり、これに触れると警告音とともに出入り口が自動的に閉まるとのこと。かなり厳重である。

陳列されている財宝は、冥土のみやげに一度は見ておくべき?これほどの物は見たことがない。
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画像はここで売っていた日本語ガイドブックの表紙だが、この地球儀は純金34キロと51,366個の宝石でできている。海はエメラルド、陸地はルビーとサファイア、イランと赤道、境界線はダイヤモンドでできている。

世界最大の100カラットのルビー、世界最大の500カラットのサマリヤ尖晶石、1869個のダイヤモンドがちりばめられた世界征服の剣、非常に美しい92個のエメラルドでできたかぎ煙草入れ、214個のエメラルド、64個の尖晶石、4個のサファイア、275個のルビー、12,384個のダイヤモンドがちりばめられた剣、3,380個(1,114カラット)のダイヤ、5個(199カラット)のエメラルド、2個(19カラット)のサファイヤ、368個の真珠からなるパフラヴィー王家の王冠、36個のエメラルド、2個の尖晶石、105個の真珠、34個のルビー、1,469個のダイヤモンドからなるファラー王妃の王冠。

目玉は「光の海」と呼ばれる世界最大のピンクダイヤモンド。182カラットあり、ピンクがかった色合いも希少なものである。見る目のない私には、単なる平べったいガラスの塊にしか見えなかったが。このダイヤのフレームにも457個のダイヤと4個のルビーが使われている。

以上はほんの一例で、ネックレス、ブローチ、帽子飾り、時計の鎖、ベルト飾り、礼服、杖、冠などの装飾品、剣、短剣、盾、拳銃ホルダーなどの武器、燭台、花瓶、水パイプ、小箱などの調度品、これら数百点の品々すべて数十~数千個の宝石がちりばめられている。また、装飾に使われていないそれぞれ少なくとも百個以上の大粒のトルコ石、ルビー、エメラルド、サファイア、ダイヤモンド、真珠がそれぞれのトレイの上に積み上げられている。100カラット以上のものも多数ある。部屋の照明が暗いせいか、これ見よがしに大量の宝石を見せ付ける細工物が多いせいか、実はさほど美しくは思えなかったのだが、圧倒的な宝石の数々、普段滅多にお目にかかれないものでもある所にはあるものである。ガイドブックには、この一室の宝石全ての値段は計算不可能だと書かれていたが、確かに想像だにできない。

これらの宝石をどのようにして手に入れたかというと、戦利品、寄贈品、旅行者からの買い入れ、王室鉱山から出たものという。

112238a 驚異の宝石博物館を出て、早めにホテルに着いた。夕食はホテルのレストランで摂るように言われた。バイキングなので、こちらとしても好きなものが食べられるのでありがたい。19:00から開くそうなので、睡眠不足で早く休みたかったこともあり、時間まで寝ることにした。

今日はバスタブはなく、シャワーである。
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112239a 夕食。バイキングの品数はまあまあか。野菜を和えた料理が多く、私の好みには合った。これらをナンにはさんで食べる。やっぱり本場のナンはおいしいです。

明日のヤズド行きの便は早朝出発なので、早起きしなければいけない。洗濯後、22:00には寝てしまった。

【イランの歴史について】

1. 有史以前・古代オリエント時代
イランでは紀元前七千年には農耕社会が存在していた。
古代オリエント時代には、イランは長い間メソポタミア文明の辺境だった。
しかし、イラン南西部のアケメネス朝ペルシアが古代オリエント世界全域を初めて統一する事に成功した。

その後継者であるサーサーン朝ペルシアと共に高度なイラン文明を作り上げた。
① 紀元前七千年にはガンジュ・ダッレで排水溝を備えた集落が存在していた。
② 紀元前四千年以降、エラム人は徐々にイラン高原南西部を代表する政治勢力に発展したが、アッシリアに滅ぼされた。
③ 紀元前二千年以降、中央アジアの遊牧民でインド・ヨーロッパ語系のアーリア人と呼ばれる集団が、オリエント世界に移動して来て、馬と鉄器をもたらした。
非アーリア人は次第にアーリア人に同化していった。
アーリア人は現在のイラン人、インド人の大部分を占めている。
④ アッシリア滅亡後、イラン高原西部を支配したのがメディア人(アーリア系=イラン系)で、次第に南西部と東部に勢力が拡大した。
⑤ メディアを倒したのがイラン南西部のアケメネス家率いるペルシア人(イラン系)で、騎馬弓兵と寛容な政策をもって紀元前6世紀には古代オリエント世界を統一した。

ギリシア、エジプトからイラン、中央アジアにまたがる大帝国が成立した。
⑥ 紀元前4世紀、マケドニアのアレキサンダー大王がアケメネス朝を滅ぼし、死後は後継国家セレウコス朝が支配。

彼らはアケメネス朝の統治政策を踏襲した。

⑦ 紀元前3世紀、イラン高原北東部のパルティア人(イラン系)がセレウコス朝から独立した。
彼らはアケメネス朝の統治政策を踏襲した。
イラン高原に進出したローマ帝国とたびたび争った。

⑧ 3世紀、イラン南西部のペルシア人(イラン系)がパルティアを倒してサーサーン朝が成立した。
ローマ帝国をたびたび破り、7世紀にはアナトリア、エジプトから中央アジアにまたがる領土を獲得した。

2. イスラム化とトルコ、モンゴルの支配
イランは7世紀にアラブ・イスラム帝国に征服された後、次第にイスラム教化した。
11世紀、イスラム化した中央アジアのトルコ系遊牧集団が、高度な文明を持つイスラム世界に移動し始め、その後モンゴル人が侵入した。
圧倒的な武力を持つトルコ系、モンゴル系民族はイランの政治、軍事を掌握したが、行政はアケメネス朝以来のイラン系の官僚、役人が担っていた。

① 7世紀、アラブ・イスラム帝国がサーサーン朝を滅ぼし、ウマイヤ朝、アッバース朝のカリフ(イスラム教における神の使いの代理人、政治的最高権力者)がイランを支配下に置いた。
しかしイスラム教化は進まなかった。
公用語としてアラビア語が使われた。

② 9世紀以降、アッバース朝の権威が衰えると、イランで独立王朝が次々と生まれた。
ターヒル朝(イラン系)、サーマーン朝(イラン系)、サッファール朝(イラン系)、ブワイフ朝(ダイラム人)、ガズナ朝(トルコ系)。
経済の発展とともに、イスラムへの改宗が進んだ。

③ 11世紀、イランに移動して来たトルコ人遊牧集団を取締る事を期待され、トルコ系のセルジューク家が支配者として迎えられる。
最盛期には地中海岸から中央アジアを支配したが、後継争いから分裂する。
ペルシャ語が再び公用語になる。

④ 12世紀、イラン北東部のホラズムシャー(トルコ系)がセルジューク朝を滅ぼし、イランと中央アジアを支配する。

⑤ 13世紀、チンギス・ハンのモンゴル軍がホラズムシャー朝を滅ぼし、イランを支配下に置く。
後にモンゴル人はイランにイルハン国を建国、14世紀にはイスラムに改宗した。
しかし内紛により同国でのチンギス・ハンの血統は絶えた。

⑥ イルハン家が絶えると各地に政権が誕生した。
イルハン朝の後継国家ジャライル朝(モンゴル系)、ムザッファル朝(イラン系)、地域勢力サルバダール。

⑦ ティムール(モンゴル系)が上記諸政権を滅ぼし、西アジア全域を支配する。
死後後継争いが起こり、西側をカラコユンル朝(トルコ系)次いでアクコユンル朝(トルコ系)に奪われた。
16世紀、シャイバーニー朝(ウズベク人)に滅ぼされたが、その子孫はインドでムガール朝を建国した。

⑧ シーア派サファヴィー教団の教主イスマーイール1世が、信徒であるトルコ系遊牧民の軍事力によって、内紛で弱体化したアクコユンル朝を滅ぼし、更に領土を拡大した。
死後、混乱が続いたが、アッバース1世は軍事・統治体制の改革によって領土を拡大し、最盛期を築いた。
また、この時代にシーア派十二イマーム派がイランに定着した。
経済的にも繁栄したが、無能な王が続くと徐々に衰退し、18世紀には各地で反乱が起きた。

⑨ サファヴィー朝は領土の東をアフガン人、西をオスマン朝に奪われた。
結局サファヴィー朝の宰相が滅ぼしてアフシャール朝(トルコ系)を建て、領域を拡大した。
その死後は地方勢力が抗争を繰り返した。

⑩ ザンド朝(イラン、クルド系)が統一に成功するが、十数年後には後継者争いが始まった。

3. 近代・現代
19世紀になると、イランは西洋列強のグレートゲームに翻弄され、ついには半植民地化する。
これに反発して立憲国家樹立への闘争が始まる。
この過程でイラン・ナショナリズムを形成する4つの立場が現われ、近現代のイランの政治を形作った。
a.
西欧流の民主主義確立により、自立と独立を目指す。
b.
イスラム以前の古代イランの伝統を重視する。
c.
マルクス主義の影響の元、列強の植民地支配からの独立を最優先にする。
d.
イスラム教こそがイラン国民を団結させる。

① ザンド朝とアフシャール朝を滅ぼしたのがガージャール朝で、テヘランを都とした。
強力な軍隊と官僚機構を持たず、地方の有力者に対する統治は名目的なものだった。

② 19世紀に入ると、フランスとロシアの南下政策と、イランをインド防衛の最前線とみなすイギリスの間で、ガージャール朝は翻弄された。
列強からの政治的独立を保つ為の努力が続けられたが、次第に利権を奪われ半植民地化していった。

③ 20世紀になると、列強の干渉とガージャール朝の専制政治への反対運動が生まれ、立憲国家を目指す動きになった。
憲法制定と国民議会の設立に成功し、派閥政争の混乱の中でも改革への取り組みが行われたが、利権喪失を恐れたロシア軍の進駐により失敗した。

④ 列強の占領と政情不安により、イラン全土は無政府状態になった。
強力な中央政府を望む声が高まり、イギリスの支援によるクーデター成功の後、パフラヴィー朝が成立した。
国軍と官僚機構の強化により中央集権化を進め、古代イラン礼賛ナショナリズムに基づき、司法の反イスラム化、西洋化を行った。

⑤ パフラヴィー朝の中央偏重政策は地方の不満を呼び、国内の政局は不安定化した。
農地の分配・汚職の追放による改革は、見せ掛けで終った。
権力強化の為、拡大した軍と官僚機構による抑圧が進められた。
一方、欧米の干渉により石油の完全国有化に失敗したものの、莫大な石油収入は急激な経済発展を生んだ。
その裏で貧富の差の拡大が深刻になった。

⑥ 経済格差と抑圧に対する不満が高まる中、抑圧された宗教界の憤懣をきっかけに始まったデモが全土に拡大し、その圧倒的な人数の前にパフラヴィー朝は崩壊した。
イスラム臨時革命政府が樹立され、後にイスラム法学者が統治するイスラム共和国が樹立された。
国内政策においては急速なイスラム化を進め、外交においては米ソに属さない独自路線で孤立を招いた。
80年代後半以降、急進的な革命路線から言論の自由と国際協調を重視する路線に移り始めたものの、改革派を締め上げるイスラム法学者を中心とした保守派、という図式は現在も変わっていないように見える。

※引用・参考文献は旅行日記の最後に掲載します。

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イラン北東部旅行(テヘラン・大バザールの隊商宿とモスク)

繁華街のレストランで昼食を摂った。胃が悪いので脂っこいものは避け、脂身の少ない焼き鳥と生野菜にした。長粒米のサフランライスは懐かしい。
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イラン料理は嫌いではないが、睡眠不足でさすがに食欲なし。それでも何とか8割がた平らげた。結構混んでいるレストランで、騒がしいのがうっとうしかった。

次の観光場所、テヘランのバザールに着いた35°40'22.02"N 51°25'22.96"E
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2平方キロもある巨大なバザールで、店が3000軒以上あるといわれる。ここに来ると生活必需品は何でも揃う。すごい数の人でごった返していた。中は大体同じ商品を扱う店が一箇所に固まっている。ある商品を目当てに来た人は、その地区に行けば間違いなく目当てのものが手に入るわけだ。バザールの内部には大きな通りがあるが、そこから狭い通りが枝分かれしている。更にその通りから狭い通りが枝分かれしており、何も考えずに進んでいくと間違いなく道に迷うことになる。ただし、通りは袋小路になることはなく、必ず別の通りに繋がっているから、いずれはバザールの出口に出られるはずである。

バザール内の通りにはひっきりなしに荷車や手押し車を押す人夫が行きかっていて、気を付けないと轢かれそうになる。

天井のドームには明り採りの穴が開いている。
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Aさんはバザールの中にあるキャラバンサライ(隊商宿)に案内してくれると言う。

キャラバンサライはバザールの重要な施設。遠方から来た商人は、キャラバンサライで沐浴し休息を取り、他の商人と商談を行った。画像は中でも最もきれいなキャラバンサライの跡地だそうだ。
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今は商店になっている。

112226a これもキャラバンサライの跡。キャラバンサライの沐浴場がある中庭を捜したが、どこも沐浴場が壊され、建物が建っていた。

キャラバンサライの二階への入り口。
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112228a バザールの一角にあるモスクに行った。残念ながらモスクの名前は聞かなかった。

112233a 入り口で靴を脱ぎ中に入ると、バザールの喧騒がウソのような静けさ。まさに心のオアシス的存在だ。多くの人が一生懸命に祈っており、厳粛な雰囲気である。静かなせいか、寝ている人もいた。

112231a_2 隣の部屋には聖人の棺がある。額をつけて祈る人が多い。棺の中はお布施のお札がいっぱい投げ込まれていた。

112229a この部屋の天井や壁はまばゆいばかりの鏡のモザイクでできている。イスラムの装飾は実に緻密だ。

112230a ここでも祈る人が後をたたない。しかも一般の日本人が神社やお寺で一礼するだけなのとは違い、何度も頭を垂れたりひざまずいたり、その熱心さには心打たれるものがある。

112236a バザールを出た。画像はバザールの入り口。

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イラン北東部旅行(テヘラン・ゴレスターン(バラの花園)宮殿)

最初の観光場所、ゴレスターン(バラの花園)宮殿に着いた35°40'45.72"N 51°25'9.14"E
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ガジャール朝の王宮で、250年前から約100年かけて造営され、140年前に完成した。
イラン建築の見どころのひとつであるタイルの装飾が実に綺麗だ。
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112218a ここは王の玉座があった場所 35°40'48.86"N 51°25'11.29"E

112211a 奥にはガージャール朝第4代、ナーセロッディーン・シャーの墓石がある。ナーセロッディーン・シャーの在位はイランの君主では最も長く、50年に及んだ。しかし、シャーが在位した19世紀後半は、イランが経済的・金融的にヨーロッパ列強に従属していった時代だった。治世前半は列強の影響力を抑えるために近代化や列強への利権供与の停止がすすめられたが、後半は財源確保と列強をけん制するための様々な利権の切り売りが行われた。治世の終わり頃、イラン国民がタバコの利権供与に反対し、ついに供与破棄を認めさせたタバコ・ボイコット運動は、ガージャール朝専制支配への住民の勝利であるとともに、列強の植民地支配への反抗の先駆けだった。

112210a ナーセロッディーン・シャーは1896年、汎イスラム主義の活動家、ジャマールッディーン・アフガーニーの支持者により暗殺された。アフガーニーは、イスラム世界を守るためにはガージャール朝のような専制国家は列強に対して無力であると批判していた。

墓石はゴレスターン宮殿に置かれたが、遺体はテヘラン郊外に埋葬された。尚、この大理石の墓石はシャーの体を模っており、彫刻の傑作とされる。

112212a 宮殿の前にはペルシャ式庭園が広がっている。ペルシャ式庭園は宮殿の前に噴水のある池があり、そこから細長い水路が伸びている。王は宮殿から水のせせらぎを楽しんでいた。乾燥地帯のイランではこれが贅沢だった。今回は季節が悪かったのか、水は入っていなかった。

画像中央の宮殿の中には入ることができる。中に入ると内部の壁、天井全てが鏡のモザイク張りになっており、そのまばゆいばかりの輝きに圧倒された。こんな派手な部屋は初めて見た。撮影禁止なのが残念である 35°40'49.25"N 51°25'13.81"E

112215a 庭園を取り囲む建物の壁も、全面にあざやかなタイルが張り巡らされている。

112209a 庭園のスズカケの大樹の並木が印象的だった。

112213a 庭園の一角にて。

112217a 庭園の一角にて。

ここにも小さな水路があり、バラの花が咲いていた。
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ゴレスターン(バラの花園)宮殿でバラの花を見れてよかった。
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※引用・参考文献は旅行日記の最後に掲載します。

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イラン北東部旅行(日本を出発~ドバイ~テヘラン到着)

2007年11月、イラン・イスラム共和国の北東部に行ってきました。

1日目:羽田→関空→ドバイ

2日目:ドバイ→テヘラン(ゴレスターン宮殿→バザール→宝石博物館)

3日目:テヘラン→ヤズド(金曜モスク→アレキサンダーの牢獄→12エマームの霊廟→ドウラトアーバード庭園→沈黙の塔→ゾロアスター拝火神殿)

4日目:ヤズド→ハラネ(盗賊の砦)→セガンド→ロバット・プシュティバーダ→コリート→タバス(ホセインの霊廟)

5日目:タバス→デイフッキ→フェルドゥス(サフラン畑)→ゴナバッド(カナート見学)→トバト・エ・ヘデレイ→マシュハド

6日目:マシュハド(ハラメ・モハッタル広場→ゴウハルシャードモスク→エマームレザー聖墓→バザーレレザー→ゴンバデ・サブス)→ネイシャーブール(シャーデ・ヤッハ遺跡)

7日目:マシュハド(バザーレレザー)→テヘラン→ドバイ

8日目:ドバイ→関空→羽田

今回もマルコ・ポーロの追っかけの旅です。

1270年末にヴェネツィアを発ったポーロ一行は、パレスチナでエルサレム聖墳墓教会の聖油とローマ教皇からモンゴル皇帝フビライ・ハーンへの親書を得て1271年末に出発しました。その後トルコ東部を経てイランに入り、タブリーズ~サヴェ~ヤズド~ケルマーン~ホルムズ~ケルマーン~クボナンを通過した後イラン北東部を北上してアフガニスタンに入ったようです。ブログトップページの「マルコ・ポーロの行程図」をご覧になるとおおよそのルートがわかると思います。

今回訪問したヤズドやイラン北東部はマルコ・ポーロの東方見聞録に記述があります。ただしイラン北東部からアフガニスタンに至るルートは通過地点に関する明確な記述が見られず、過去の研究者、旅行者が様々な推測を行ってきました。この地域に一体何があるのか、興味がありました。

マシュハドはイラン国内におけるイスラム教シーア派最大の聖地です。

ネイシャーブールにはマルコ・ポーロが通過する前に廃墟と化した旧市街の遺跡があります。

【1日目】

出発直前に体調を崩してしまった。部屋の大掃除が悪かったのか、アレルギー症状になり喉が痛いし胃も痛い。数日前には気分が悪くて3時間ほど寝込んでしまった。不安はあったが医者から薬ももらったし、行くことに決定。

夕方に自宅を出て、18:30に羽田空港着。トラベレックス・ジャパンでドルに両替。

20:40、離陸。

22:00、関西国際空港着。

112101a 23:15、離陸。今回はエミレーツ航空なので前回のイラン航空のように遅れはない。機内設備も快適。映画も観放題。ただしイラン航空は成田~テヘランの直行便だったが、こちらは関空、ドバイと二回も乗り継がなくてはならない。でも仕方がない。

2日目】

112102a せっかくの2回の機内食も、胃を刺激して気分が悪くなるのがいやなので、一口づつでやめた。メニューはカワハギとスズキの蒸し物。イランに着けば一日中観光。早々に寝ることにした。

112201a 5:55(イラン時間、以下同じ。日本との時差は5時間半。)、ドバイ着。10時間以上のフライトだが意外と短く感じた。睡眠はあまり取れなかった。空港でのセキュリティチェックは拍子抜けするほど厳しくなかった。英語が話せないので外国での乗り継ぎは不安だ。何とかテヘラン行きの便の搭乗口に着いた。少しほっとする。でもさすがに日本人はいないようだ。韓国人らしい人は見かけるのだが。とても心細い。

112202a 7:55離陸。機内食はイラン風。これも少しだけ食べた。

9:35、テヘランのエマーム・ホメイニー国際空港着。前回のイラン旅行の時はメフラーバード国際空港だったが、それに比べれば新しくて綺麗だ。セキュリティチェックは厳しく、ベルトを外すよう言われ、手荷物の中も調べられた。入国審査時、手に持っているパスポートの表紙から、ビジネスマンらしい日本人も6人ばかりいることに気づいた。彼らと私は別途パスポートのチェックを再度受け、私は解放されたが彼らは別室で更にチェックを受けるようだった。

何とか入国手続きを終え、到着ロビーに入って現地ガイドのAさんを見つけた。優しそうな人なので少し安心した。

112203a 早速テヘラン市内の観光に向かう。画像は車窓から見たエマーム・ホメイニーの霊廟。イラン革命の指導者だった彼の霊廟は実に壮大で、ドームとミナレットが林立している。未だに建築中である。

112204a 画像中央にうっすらと見えるのはダマーヴァンド山だったかな?富士山によく似た端正な山だ。

112205a 排気ガス臭い懐かしのテヘラン市内に来た。喉が腫れているので刺激しないようマスクを付ける。テヘランは人口一千万以上、イラン国内で際立って大きな都市だ。

15世紀、スペインの使節クラビホによると、テヘランは単なるひとつの町であった。

1653年タハマスプ1世によって城砦とバザールと城壁が作られた。

18世紀、ガジャール朝のムハンマド王がこの町を首都にした。

18691871年、町は再構成され現代的な大通りができた。

20世紀のパフラヴィー朝の時代、町のレイアウトは一新された。

【イランの概要について】

以前イラン旅行日記の際に記載したものですが、再度記載します。

正式国名:「イラン・イスラム共和国」

面積:日本の4.5倍

人口:6600万(2006年)

首都:テヘラン

元首:マフムード・アフマディーネジャード大統領

地形:

イラン北部に東西に伸びるアルボルズ山脈、イラン北西部から南東部にかけて斜めにザクロス山脈が伸びる。

二つの山脈の間、イラン東部にキャビール、ルートの大砂漠がある。

ザクロス山脈の東側はイラン高原と呼ばれる高地になっている。

気候:

山脈に遮断されたイラン内陸部は、ペルシャ湾やカスピ海から来る湿った空気が遮断され、降雨が少ない。夏は高温になる。

ザクロス山脈の南のペルシャ湾岸は高温多湿。

アルボルズ山脈の北のカスピ海岸は降雨量が多く豊かな農業地帯になっている。

民族:

ペルシア人(50%)、アゼルバイジャン人(17~25%)、クルド人、ロル人、アラブ人、バルーチ人、ガシュガーイー人、シャーサヴァン人、トルクメン人など。

宗教:

大部分はイスラム教シーア派、他にイスラム教スンナ派、キリスト教(アルメニア教会、アッシリア教会、カトリック、プロテスタント)、ユダヤ教、ゾロアスター教など。

言語:

公用語はペルシア語だが、他にクルド語、ギーラーン語、アーザリー語、トルクメン語、ガシュガーイー語、アラビア語、アッシリア語、アルメニア語がある。

休日:金曜日

通貨:イラン・リアル。

20092/20現在では1リアル=0.0096

治安状況:

20092/20現在、以下の地域を除いて危険情報は出ていない。

シスターン・バルチスタン州及びケルマン州:「退避を勧告します。渡航は延期してください。」

イラク及びアフガニスタンとの国境付近:「渡航の延期をお勧めします。」、

フーゼスタン州、西アゼルバイジャン州、東アゼルバイジャン州、クルディスタン州(イラクとの国境付近を除く):「十分注意してください。」

※引用・参考文献は旅行日記の最後に記載します。

テヘラン[イラン]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/iran/tehran/

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内モンゴル上都遺跡旅行(北京→成田)

Dscn5133a 13:30、北京新首都国際空港に向かう。画像はチベット仏教寺院だったかな?

観光が終わって残念な気持ちだ。

Dscn5135a 北京新首都国際空港にてAさんと別れ、空港の出発ロビーへ。

Dscn5136a ロビーにはこのような中国式の建物や


Dscn5138a このような庭園があった。


Dscn5141a 17:15、離陸。機内での夕食。


Dscn5140a 今回は念願の上都遺跡をじっくりと見ることができて、大満足の旅行でした。

現地ガイドのAさんとBさん、手配して下さった旅行会社の担当者さん、みなさん本当にありがとうございました。

この旅行日記を見て下さった方にも感謝します。

【引用・参考文献】

書名   :完訳東方見聞録 1 

シリーズ :平凡社ライブラリー 326 

著者名  :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注 

出版者  :平凡社

書名   :マルコ・ポーロクエスト

書名  :フビライの古都へ

シリーズ :世界紀行冒険選書 20

著者名  :ウィリアム・ダーリンプル/著 , 大出健/訳

版者  :心交社

書名   :モンゴル帝国と大元ウルス

シリーズ :東洋史研究叢刊 65

著者名  :杉山正明/著 ,  

出版者  :京都大学学術出版会

書名   :元の大都

副書名  :マルコ・ポーロ時代の北京

シリーズ :中公新書

著者名  :陳高華/著 , 佐竹靖彦/訳

出版者  :中央公論社

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内モンゴル上都遺跡旅行(北京・鼓楼、5日目昼食)

110533a 鼓楼の観光は当初の予定になかったが、元朝ゆかりの場所でもあり、急遽追加した。

もっとも前回の北京観光(2002年)のとき、鼓楼か鐘楼のどちらかには入った記憶があった。鐘楼 39°56'27.90"N116°23'22.22"Eの建物を見て、鼓楼にはまだ入っていないとわかった。

鼓楼に着いた 39°56'21.83"N116°23'22.33"E。かなり大きな建物である。入場料20元。

110532a 高さもかなりある。高さ31m。「宮殿以外には高層建築の見られない大都の街の中心部に向かい合って聳えたつ二つの高楼(鼓楼と鐘楼)は、元朝の大都管理の象徴でもあった・・・鐘の音を合図として夜間の通行を禁止した(夜8時~朝6時)。」この記述は東方見聞録にも記載されている。現在の鼓楼は明の時代に建てられたものだが、元代の鼓楼もほぼ同じ形状だそうである。

鼓楼の左側に上り口がある。急な階段を登っていく。
Dscn5125a

Dscn5126a 上に着くと大きな太鼓がたくさん置いてある。



天井が高く、かなり広々とした印象だ。
Dscn5127a

水時計も置いてあった。
110534a
元の時代、水時計は壷漏と言われ、甕にためた水が細管を通って漏れる量を計って時を知る物だった。画像のものが壷漏かどうかはわからない。

鼓楼から市街を眺めた。
P600a
鼓楼と鐘楼は、元の大都においてはじめて国都の中心部におかれた。当時、このあたりは商業・金融・情報の中心地だった。大都の皇城はここからかなり南にあり、皇城が国都の中心部の北寄りにある唐の長安や日本の平安京と異なっている。

帰りに鼓楼の土産物屋に立ち寄った。ここに私が欲しかったものがあった。中国の建築模型だ。ここには鼓楼、鐘楼、胡同(フートン)=中庭を囲んだ形の庶民の平屋住宅の模型があった。しかもプラスチック製で精巧な出来ばえ、塗装の感じも良い。中に電球が仕込んでありライトアップできる。2002年に訪れたときはこんな精巧な模型はなかった。ずいぶん変わったものである。

日本円での支払いはダメとの事だったので、Aさんから中国元を借りて鼓楼の模型を買った。何とか250元に負けてもらった。たぶん粘ればもっと負けてくれたかもしれない。

Dscn5132a 12:10で鼓楼の観光を終わらせ、近くのレストランで昼食を摂った。

シイタケの揚げ物、チャーハン、インゲン豆の炒め物など。どれもおいしかった。

中華料理は種類が実に豊富で、中国に来るたびに毎回違ったものを食べているといっても過言ではない。今回のシイタケの揚げ物も中々良い食感で、おいしかった。

ここでAさんから借りていた金を清算した。

※引用・参考文献は旅行日記の最後に記載します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(北京・妙応寺(白塔寺)・三世仏殿、白塔)

七仏宝殿を過ぎ、更に奥に行くと小さな門がある。だんだん白塔に近づいていく。
Dscn5116a

三世仏殿の入り口。中に仏様が見える 39°55'26.60"N116°21'25.00"E。
Dscn5117a

内部左右に仏教画がある。
Dscn5120a

これも同様。
Dscn5118a

奥に行くと白塔にたどり着く 39°55'27.70"N116°21'25.08"E。
Dscn5119a

中国で最大・最古のチベット式仏塔である。

白塔の周りを信者と思しき人がお経を唱えながら一周し、最後に一礼していた。

妙応寺の観光は10:50までに終わらせ、鼓楼に向かった。

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内モンゴル上都遺跡旅行(北京・妙応寺(白塔寺)・天王殿、意珠心鏡殿、七仏宝殿)

次の観光地、妙応寺(白塔寺)に着いた。

遼の時代に仏舎利塔が建てられたのが始まりで、1271年、元朝のフビライ・ハーンが仏舎利塔の跡地にチベット式仏塔の白塔を建てた。第一帝師であった八思巴(パスパ)の助言により、ネパールからアニグという職人を呼んで建てさせたという。フビライはこの寺を大聖寿万安寺と名づけ、八思巴の異母弟で第二帝師の怜真を住職とし、皇室のチベット仏教の活動の中心地とした。

「・・・(大都は)60の仏寺、30の道観を数える宗教都市でもあった。このほか、キリスト教の教会堂、ムスリムのモスクも営まれた。ことに、歴代皇帝ごとにその御容を納めるため建立された勅建の大仏教寺院は、大元ウルス王族の宗教となったティベット仏教様式の大建築であり、大都をティベット密教独特の雰囲気に包んだと想像される。北京に唯一存在し、いまも異様なかたちで人目を引く妙応寺の白塔のようなストゥーバが、往時は大都城内外に見られたはずである。モンゴルは、文化・宗教を支配の一手段と考える傾向が強い。文化モニュメントを数多く造営して文化センターとし、視覚面でも世界都市にふさわしく装飾したのである。」

フビライ・ハーンが亡くなった翌年の法会では、七万人の僧侶がここに参列したといわれる。大聖寿万安寺は明の時代に改修されたさい、妙応寺と改名された。

110527a 画像は天王殿 39°55'23.04"N116°21'25.24"Eで、広場の右手に鼓楼がある。

妙応寺では建物内部での撮影は禁止とのことだった。
110531a

Dscn5111a 天王殿の中の布袋様。


Dscn5112a チケットを見せて中に入っていくと、意珠心鏡殿がある。画像の香炉の手前には鐘があり、1回1元で突くことができる。突けば突くほど御利益があるそうだ。

Dscn5113a 意珠心鏡殿の中の仏様 39°55'24.56"N116°21'25.12"E。

中の壁面にはびっしりと小さな仏様が並んでいる。

Dscn5114a 更に奥に行くと七仏宝殿がある 39°55'25.70"N116°21'25.09"E。

Dscn5115a 中の仏様。





これは確か七仏宝殿の内部左右に並んでいた像。
Dscn5122a

これも同様。
Dscn5123a

※引用・参考文献は旅行日記の最後に記載します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(北京北海公園・白塔、天王殿、九龍壁)

瓊華島の中央に白塔山という山があり、その上に白塔というチベット式仏塔がある。高さ35.9m。登りの階段が急だ。
どこからともなくチベット仏教のお経が聞こえてきた。日本のお経と違いメロディがある。何とも言えない陶酔感を誘うようなメロディだ。
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白塔山の上に着いた。白塔 39°55'28.12"N116°22'58.23"Eの前に善因殿がある。壁に445体の菩薩像が並んでいる。
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「築山の頂上には、これまた緑一色のりっぱな宮殿がそびえている。築山も樹木も宮殿もすべてがすばらしく綺麗なものだから、これを眺める人々はだれでもこの光景に覚えず恍惚となる。それというのも、カーンはこの美しい風景を作り、飽かずこれを眺めてその目を楽しまそうという趣向だったわけである。」(東方見聞録)

「緑一色のりっぱな宮殿」は広寒宮といい、金の時代には皇帝の離宮だった。フビライはこれを改修し、大都建設までの間、酒宴を催したり接見・儀式の会場として使用していたと思われる。白塔や善因殿は広寒宮の跡地に建てられた。

頂上から北海の北側を望んだところ。北岸にさまざまな建築物が建っている。
P500a
・・・(皇城の)両壁間の敷地で北西部に位して、布置の妙を得た深い一大人造湖がある(=北海)。上記の築山は、実はこの大池を掘って得られた土で盛り積みされたものである。この大池から一条の小川が流出し、これが放し飼いの獣たちの水飼い場をなしている。カーンはここに各種の魚を放流せしめている。人工池から流出する上記の小川は築山のかたわらを水道に由って流れ
・・・いまひとつの深い大池(=中海)に流れ込む
・・・この両池には多種多様な魚類がいて、カーンが欲しい時にはいつでも多量にそれを得ることができる。」(東方見聞録)

白塔山の北側は岩山になっていた。

110519a山橋 39°55'28.09"N116°23'3.28"Eを渡って瓊華島から北海の東岸に向かう。山橋から見ると水路一面に蓮が浮いている。夏場は蓮の葉が水面が見えないくらい水路を埋め尽くしているのだろう。

110520a 北海の東岸。地面に字を書き連ねている人がいた。達筆だ。

110521a ここでもリボンを使った踊りが行われていた。

110522a_3 北海の東北、先蚕壇の前でも踊り。至る所で踊っている 39°55'48.94"N116°23'7.56"E。

蚕壇は現在は高級官僚の子弟の幼稚園になっているそうである。

110526a 北岸を西に向かう。北海に浮かぶ瓊華島が神秘的な姿を見せていた。

110529a 天王殿だったかな?奥では展示が行われていたが、特に印象に残るものはなかった 39°55'51.18"N116°22'54.94"E。

110523a 九龍壁に着いた。瑠璃で作られた9匹の龍のレリーフがある。清の時代に作られ、長さ27m、高さ5m。裏側にも同じように龍のレリーフがある 39°55'49.70"N116°22'52.28"E。

九龍壁は故宮にもあるが、北海のものが最も美しいといわれる。

天王殿に立ち寄っていたらもう待ち合わせ時間間近になってしまった。急いで北海の北側の后門に向かった 39°55'54.76"N116°23'7.62"E。

帰国後わかったことだが、北海公園には鉄影壁や山大玉海といった元朝ゆかりの場所があった。残念ながら今回は見ることができなかった。

※引用・参考文献は旅行日記の最後に記載します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(北京の朝~北海公園・団城周辺、瓊華島、永安寺)

5日目

110501a 6:20起床。画像はホテルから見た北京の朝焼け。

朝食はホテルのバイキング。

今日は北京市内の北海公園、妙応寺(白塔寺)を観光する。両方とも元朝ゆかりの地だ。ということはマルコ・ポーロも立ち寄った可能性がある。

110504a 8:00に出発。北京のあわただしい朝。


8:50、北海公園の南側入り口に着いた 39°55'17.49"N116°22'59.79"E。ここで自由行動になった。Aさんと10:00に北海公園の北側の出入り口で待ち合わせることになった。
Aさんから見所として
瓊華島の白塔と北海北岸の九龍壁を紹介される。時間があまりないので急ぐことにした。入場料15元。

北海公園は故宮の西北にあり、広さ68ヘクタール。北海の湖畔、北海に浮かぶ瓊華島、北海の南の団城の3つの部分からなる。
唐の時代には庭園があったらしく、遼・金の時代には皇室の庭園となった。

元の時代、フビライ・ハーンは、北海と南の中海をあわせた太液池と、北の積水潭(現在の前海、後海、西海)を中心に大都(北京)の建設を行った。
都市用水や水運の問題解決のためといわれる。
あるいは、水辺のある草原のため遊牧民の冬季キャンプに最適であり、狩猟地でもあった
太液池周辺を皇城(皇帝の私的空間)とし、その周囲に都を築いたという説もある。
大都の皇城は、唐の長安の皇城や日本の平安京の内裏などのように建物が立ち並んだ空間ではなく、ほとんど立ち木、草地、湖だけが広がる空間だった。
「その城内が、おおむね空き地なのは当然のことであった。
厳冬期や集会・宴会などで入城したさい、各首長はそこに天幕をしつらえたのであろう。」

「各一辺の長さ1マイル、つまり周回4マイルの方形城壁がある(=皇城)
・・・この第1壁を入ると第2壁があるが、これは幅よりは奥行きの長い矩形である。第2壁に囲まれた境内中央にカーンの宮殿がそびえている
・・・とにかく他に比類のない壮大なものである
・・・(皇城内の)二壁の間にはみごとな立ち木のある草場が広がっていて、白い牡鹿、麝香鹿、白斑鹿、黄鹿、リスそのほかさまざまな美しい動物が群棲している。
この両壁間の広場では、人の往来する通路を除いて、こうした美しい動物が至る所に遊んでいるのである。
草場にはみごとな草が一面に茂っている。
それというのも、通路はすべて舗装され地面より2キュービットばかり隆起しているから、泥がその上に流れ込んだり雨水がたまったりするようなことはなく、ことごとく低い草場に流れ去って土質を肥やし草を繁茂せしめるからである。」(東方見聞録)

その後、明、清の時代にも整備・拡張が行われ、現在に至っている。

110505a 北海公園に入ると、市民がグループで踊っている姿に出くわした。

110506a 正面に瓊華島が見える場所に着いた。
瓊華島はもともと金の時代に北宋の首都開封の太湖石を運んで沈めて作ったという。周囲
880m、高さ45m。
「・・・(皇城の)二壁の間にあって宮殿から一射程の所に、カーンは高さ百ペース、周回1マイル以上の小丘ともいうべき築山を作らせ、年中いつも緑色を呈しているようにと常緑樹を一面に植え敷かせた。
そして某所にりっぱな樹木があると聞くと、いずくであれさっそくそれを取りにやらせ、根ぐるみ大量の土をつけたままゾウに運搬させてこの築山に将来せしまる。
どんな巨木であろうとも、カーンは必ずこうして運び至らしめるに相違ない。
こうしてこの築山には世界中で最もみごとな樹木が集められている。
更にカーンはこの築山に濃緑色をした瑠璃を敷き詰めさせたために、樹木はことごとく緑色、小山の地肌もすべて緑色、したがって眺める眼に映ずるところも緑一色ということになって、この築山を<緑の小山>と命名することになった。」(
東方見聞録)

島の上に建っている白塔は清の時代に建てられたチベット式仏塔である。

110507a 団城周辺でも多くの市民が社交ダンスを踊っていた。まるでミュージカルの世界に迷い込んだようで・・・。

110508a 永安橋 39°55'20.69"N116°22'58.11"Eを渡って瓊華島へ。

110509a ここでも多くの市民が踊りやレクリエーションを行っている。

110511a 永安寺というチベット寺院に入った。画像は法輪殿。


普安殿の仏様。旅の無事を祈った 39°55'26.34"N116°22'58.25"E。
110512a

※引用・参考文献は旅行日記の最後に記載します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(朝陽劇場で雑技見物~龍祥醤麺で夕食~成遠飯店)

北京朝陽劇場で雑技見物のつづき。
頭の上に載って皿回し。
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頭の上で逆立ちしながら皿回し。
1104a1a_2 
台の上に人が何段も載って皿回し。
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相当筋力が必要そうな技。
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自転車に次々乗って
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最後は孔雀のように。見事。
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最後は出演者全員が挨拶。拍手喝采でした。
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終わった後みやげものコーナーを見るがめぼしいものなし。

22:00、龍祥醤麺で食事。
最近ジャージャー麺が食べたかったので、Aさんに食べられる所を頼んだのだ。
ここのジャージャー麺は本当においしかった。北京観光される方にはお勧めの場所だ。寒天ときゅうりの和え物もよかった。相変わらずゆで落花生は病みつきになる。
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今日泊まるホテルは初日と同じ成遠飯店。ただし部屋は普通の部屋。
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バスタブなし、シャワーのみだった。0:40就寝。
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内モンゴル上都遺跡旅行(北京朝陽劇場で雑技見物)

Dscn5103a 北京の中心部に近づいた。Aさんから、京劇でよい演目があるのでどうかと誘われた。私は京劇に関心はなかったが、雑技には興味があった。横浜の野毛大道芸などで中国雑技を見てすっかり感服していたのだ。せっかくの中国最後の夜、本場の雑技を見に行くことにした。

北京朝陽劇場でやっている雑技世界という催し物だ。

ケットに書いてある番号の座席に行くと、なぜかそこはロシア人団体客に占領されていた。ここは私の席です、とチケットを見せたが、おばさんが訳のわからんことをわめいて空ける気配なし。仕方なく係員を連れてきたらちゃんと空いていた。よかった・・・。

9:10開演。

幕開けはレーザー光線とドライアイスの白煙を使って結構派手。

Dscn5106a 画像は最初の出し物。シーソーの片側に人が乗り、台の上にいる人が反対の側に勢いよく飛び乗ると、片側の人が思い切り飛び上がり、用意した棒の上の椅子に座って着地、という技。

Dscn5107a これは棒の上に着地。全くすごい・・・。


Dscn5109a これはグラスを両手両足、口にくわえた棒の上に載せる技。

Dscn5110a こちらは更に、グラスを載せた人を下の人がグラスを載せながら支えるというややこしい技。こんなにすごい事、よくできるなあ。

110491a これはシーソーの片側に載せた皿を頭の上に載せる技。

110493a こんなにたくさんの皿をいっぺんに。

110495a シーソーの上に3人、その上にシーソーがあってその上で皿を載せる・・・。


110498a 大きな輪の中や上に人がいて、風車の羽のようにぐるぐる回す技。バランスを失うと地上落下の危険な技。

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内モンゴル上都遺跡旅行(宛平城・順治門外の夜市~城内の建物)

宛平城・順治門外の夜市を散策。

110481a ビリヤードを楽しむ人たち。

110482a ここでも荷馬車が活躍していた。

110484a 集合時刻の18:00が近づいてきた。西の威平門に向かう。

これは城内の観光ポイントらしい。湘人館。

110485a 宛平芸術。

110486a 盧溝駅。宿屋だろうか。


通りから外れた路地裏にも色々ありそうだが、薄暗くて見るのはもう無理。
110487a

110488a 万家灯館。

110489a 現在は小学校になっている、光隆寺。

ここでAさんの車に拾ってもらい、北京市街へ。

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内モンゴル上都遺跡旅行(宛平城・威平門~抗日戦争記念館~順治門外の夜市)

盧溝橋の東隣には宛平城がある。明代に築城され、日中戦争で日本軍が最初に占領した城。
この城門は威平門。復元されたもの 39°50'57.68"N116°12'57.96"E。
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威平門の最初のアーチをくぐったところ。
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城内は昔の建物がそのまま残されている。
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城内にある中国人民抗日戦争記念館。日中戦争の歴史が展示されている。写真に収まりきれないほど大きい建物に驚いた 39°51'2.58"N116°13'11.49"E。
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記念館から通りをはさんで大きな広場がある。その広場の中に、獅子だと思われる石像があった。まるで月に向かって吼えているような姿だった。日中戦争の犠牲者を追悼しているようにも見えた 39°50'57.99"N116°13'12.50"E。この広場の奥に城壁に上がる階段があった。しかし階段が封鎖されていて登ることができなかった 39°50'55.64"N116°13'13.14"E。
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広場には色鮮やかな店があった。何を売っているのだろう。
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もうかなり暗くなってしまった。城の東端の順治門へ急ぐ 39°51'2.45"N116°13'26.05"E。
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城外に出ると、さまざまな露店が出ていて買い物客で大賑わいだった。好奇心から雑踏の中に引き込まれる。
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肉屋。テーブルの上に肉をそのまま置いて切り売りしている。何か大胆な売り方だ。
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魚屋。日本でも漁港に行けばこういう光景は見たことある。
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内モンゴル上都遺跡旅行(盧溝橋・欄干の飾り獅子)

欄干の飾り獅子は501個あり、あまりの多さから、多いもののたとえを「盧溝橋の獅子のようだ」と言うそうだ。
獅子の姿形は全て異なっている。
これはまるで漫画にでてくるようなコミカルな顔だ。
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子獅子を二匹連れている。
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これも両側に二匹。
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わが子を慈しむような表情。
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しあわせいっぱいの顔。
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皆豊かな表情をしている。
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見物人が後を絶たない。釣りをしている人も多い。
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南側の橋脚部分。
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北側の橋脚部分。
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まもなく日暮れである。真っ暗になる前に宛平城に行こう。
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内モンゴル上都遺跡旅行(東方見聞録で見る盧溝橋)

盧溝橋は、マルコ・ポーロが東方見聞録で紹介したため、俗にマルコ・ポーロ・ブリッジとも言われる。
「カンバルック(大都=北京)をたって十マイル進むとプリサンギン(盧溝河、ペルシャ語で石の橋)という大河に達する。
この河は大海に通じており、莫大な商品を携えた多数の商人が船で往来している。
この河にはとても立派な石橋が架かっている。
全く世界中どこを捜しても匹敵するものはないほどのみごとさで、その模様はざっとこんなふうである。」
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「石橋は長さ三百ペース、幅八ペース余もあって、騎馬の十人が横に一列に並んで渡ることができる。
二十三の橋脚が二十四のアーチを支えており、橋梁全体が灰色の大理石でできているが、その細工はきわめて精巧で組立はすこぶる堅牢である。」
盧溝橋は長さ260.5メートル、幅7.5メートル。
実際のアーチの数は11である。
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「橋には大理石の板石と石柱を交互に連ねてずっと欄干をなしている。」
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「橋の両端部は勾配をもった上り坂をなしており、渡り口の方が上がりきった部分よりも幾分か幅広にできているが、」
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上がりきってしまうと、それから先は線を引いたようにずっと同じ幅で続いている。」
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「欄干の構造は、まず橋のかかりに丈の高い大理石の大石柱一基が大理石のカメの背に立っており、この石柱の上下に、これまた大理石を精巧に彫刻した飾り獅子が取り付けられている。」
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「この大理石柱から一ペース半を隔てて、これと全く作りの等しい今一つの石柱がこれまた上下に大理石の飾り獅子を付けて立てられ、この両石柱の間に種々な彫刻を施した灰色大理石の板石をはめ込み、通行人が誤って河中に落ちないよう、かきをなしている。」
東方見聞録の記述と違った箇所もあるが、改修工事で変わったのだろうか。
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橋の中央には昔のままの石畳が残っている。
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西側の欄干の端。象が支えている。
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西側の橋のたもとの石碑。
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※引用・参考文献は旅行日記の最後に記述します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(盧溝橋手前の広場や石碑など)

盧溝橋と宛平城を自由散策することにした。
Aさんとの待ち合わせ時間は18:00。
盧溝橋の入場料は20元。
盧溝橋の手前は広場になっている 39°50'57.14"N116°12'54.61"E。
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広場の左右にはレリーフがある。
建設当時の様子を表すものだろうか?
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盧溝橋は金国の章宗の時代、1189~1192年にかけて建設された。
それまでは渡し舟であった(木造の橋と書いている本もある)。
金の首都である中都は現在の北京にあり、周辺との交通網強化のため建設されたらしい。
正式な名前は広利橋。
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元朝の時代でも盧溝橋は大都(北京)と南部を結ぶ主要交通路の通り道だった。
1937年、ここでの銃撃戦をきっかけに8年にわたる日中戦争が始った事でも有名。

広場の横に入ると小さな楼閣と首のない像が建っていた。
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盧溝暁月の小さな石碑も。
最初これが乾隆帝の石碑かと思った。
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こちらが本物の清朝乾隆帝の筆になる盧溝暁月の石碑。
乾隆帝がここで月を眺めたときに書いたらしい。
水面に映る月の眺めの美しさは有名だった。
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他にもさまざまな石碑が建っている。
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内モンゴル上都遺跡旅行(再び官庁水庫~盧溝橋)

上都遺跡から赤城を通り、北京に戻ってきた。110424a

官庁ダム(官庁水庫)のダム湖で休憩 40°23'52.58"N115°47'28.85"E。

110425a ここは北京市民の水がめのひとつだ。


110426a 静かな湖面に舟が一艘。

110429a とうもろこしの収穫後なのか、枯れ草を集めている光景が続く。

110430a また寝てしまった。気がつくと既に北京市街地の西側、盧溝橋に着いていた。

14:30、近くのレストランで昼食を摂る。

110431a 食事内容。久しぶりにチャーハンを食べた。本場の味はうまい!

ここでBさんとお別れ。名残惜しい。

北京[中国]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/asia/china/peking/

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内モンゴル上都遺跡旅行(沽源~赤城~)

110412a 河北省に入ると雑木林が多くなる。畑作と牧畜の混合地帯になる。沽源 41°40'0.72"N115°40'57.52"Eは知らぬ間に通り過ぎた。沽源のすぐ北には東方見聞録にあるチャガンノール市があったと思われる。

110414a 山間のひなびた村。

110415a 丘の斜面いっぱいに羊がたかっている。

110416a 復路は山がちなルート。迫力ある岩山が見られる。

110417a 村を通過。

110418a 畑で煙が立っているのをよく見かける。何を焼いているのか。

110419a 赤城の町に着いた。久々に大きな町だ 40°54'37.91"N115°49'27.70"E。

110421a 荷台に枯れ草を一杯積んで、一生懸命自転車をこいでいるおじさんを撮ろうとしたら、横から大きなぬいぐるみを抱えたバイクが飛び込んできた。

110422a 本格的な山岳地帯に入った。山道を登っていく。

110423aなり標高が高い場所に来た。あたりの景観も険しさを増している。





その他の都市[中国]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/asia/china/the_other_cities_of_china/

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内モンゴル上都遺跡旅行(正藍旗を出発)

4日目

6:20起床。気温は0度。昨日よりも暖かかった。

洗濯物は申し分なく乾いていた。

今日は北京に戻り、盧溝橋を観光する。

110404a 7:30出発。画像はホテルから見た広場。朝食は昨夜のレストランで摂ることにした。

110407a 町を出ると延々と草原が続く。

110408a 今日は往路と違うルートで北京に戻るとの事。正藍旗→沽源→赤城→北京

そのほうがこちらとしてもありがたい。

110409a 放牧の牛が道路を横断していた。

110411a こちらは羊の群れ。

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内モンゴル上都遺跡旅行(三日目夕食、正藍旗の広場夜景)

正藍旗に戻った。18時すぎ、夕食は昨日と同じレストランで摂った。Bさんは昨日よりも酒が入って上機嫌のようだった。私も目的を達成できて、大いに満足していた。Bさんが今日撮影した画像を見せてくれた。すばらしいできばえだった。城河の水面に青空を映しこんで青く見せるなど、そのテクニックは参考になった。話が弾んだ。

今日の肉料理はもっと柔らかいものにしてもらった。

帰りは町の広場の夜景を撮るため、一人でホテルに帰った。

Dscn5078a 画像は食事したレストランが立ち並ぶ通り 42°14'28.75"N115°59'31.38"E。

Dscn5080a 広場の夜景。遠くにフビライ・ハーンの騎馬像が建っている。周囲は照明やネオンが華やかだったが、ほとんど人がいないので寒々しい風景だった。(実際かなり寒いのだが)


Dscn5084a フビライ・ハーンの巨大な騎馬像 42°14'17.62"N115°59'13.53"E。

Dscn5086a 広場の床のタイルに周囲の店のネオンが照らされて、実にきれいだった。

Dscn5094a 色が変わっていく円柱が立っている。


Dscn5095a ホテルの外観 42°14'9.46"N115°59'2.15"E。




Dscn5097a ホテルから見た広場の夜景。

洗濯したあと、テレビを見ながら23時前に寝た。

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内モンゴル上都遺跡旅行(皇城西北角、乾元寺、西华门)

皇城の西北角から見た外城の北側部分。
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残念ながら残り時間が少ないので、ここで帰路につくことにした。
城壁から降りて皇城の西側部分を歩いて南に向かう。
乾元寺の跡地を発見 42°21'37.93"N116°10'42.47"E。
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さらに南に歩くと、宮城の西にある西华门跡地を発見 42°21'27.84"N116°10'54.67"E。
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模型で見る乾元寺と西华门周辺。
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かたわらを小動物が駆け抜けていった。
フビライ・ハーンが狩りを楽しんだというこの場所には、いまだにさまざまな動物が生息しているようだ。
ふと見ると太陽が今にも沈もうとしていた。
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しばらく歩いて、集合時間まで残り少ないというのにまた現在位置がわからなくなってしまった。
車道が通っているので、どちらかの方向に歩けば集合場所のチケット売り場にたどり着ける。
問題はどちらに行くかだ。
そのとき、一台の車が通り抜けていった。
その車は車道の先で左折して見えなくなった。
私はその車道が東西を横断しているものと思い込んでいたので、車が行った先は北側だろうと決め付けた。
チケット売り場は南側なので、車道を車が行った先とは逆方向に歩いていった。
しばらく歩いて、確か太陽が沈んだ方向は自分が進んでいる方向の左側だったことに気がついた。
自分は北に向かって歩いているのではないか・・・。
あたりは薄暗くなりはじめていたので、半ばイチかバチかでもと来た方向に引き返した。
そして車が走っていった方向に早足で歩き始めた。
しばらく歩いて、見慣れた明徳門の遺構が見え始めたときはホッとした。
チケット売り場に向かう途中で、心配したAさんの車がこちらにやってくるのが見えた。

車に乗りながら、これで酷寒の中で野宿せずにすんだことを感謝した。
そして、外城の城壁の大部分を歩けなかったものの、念願の上都遺跡を思う存分歩けたことに十分満足感と達成感を感じました。
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内モンゴル上都遺跡旅行(八思巴帝師寺、小西門、回回寺、回回司天台、西門、皇城西北角)

城壁の上を北に歩く。
皇城内に八思巴帝師寺の跡地石碑を発見 42°21'8.31"N116°10'43.55"E。
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八思巴(パスパ)はフビライ・ハーンから招聘されたチベット仏教の座主で、文化・宗教政策に関する帝国の顧問だった。
帝師の尊称を与えられた。

「バクシ(ラマ僧)はまた多数の寺院・僧院を有しており、その中には教派を同じくする二千人以上の僧侶をも収容し、その規模はさながら小都会のごとき広大なものもある。
これらの僧侶は庶民に比べるとずっとこざっぱりした服装をしており、頭髪と髭を全部そり落としている。
彼らは灯明を煌々と点じ梵歌を声高々と誦して、その奉ずるもろもろの偶像のために以上のような勤行儀式を執行する。
これらバクシたちの中には、教義上その妻帯が認められている者があって、彼らだけは現にそのとおり妻を娶り多数の子供を持っている。」(東方見聞録)

さらに城壁の上を北に歩く。
小西門に着いた。
他の門と同様、二重構造になっている 42°21'11.70"N116°10'34.87"E。
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尚、小西門の近くの皇城内には、回回寺 42°21'14.25"N116°10'43.96"E、回回司天台 42°21'18.00"N116°10'38.33"Eがあった。
たぶん回は回教(イスラム教)を意味するのだろう。
そうであれば回回寺はイスラムのモスク、回回司天台はイスラム学者が運営する天文台だと思われる。
このように、城内にはさまざまな宗教の寺院があったと思われる。

外城西側の風景。
夕日を浴びて草原が輝きだし、黄金色に変わっていった。
まさに桃源郷(ザナドゥ)にいる思いだった。
あまりに心地よい眺めだったので、「すばらしい!」と大声で叫んでしまった。
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そもそも上都の名を不滅のものにしたザナドゥという名前は、19世紀のイギリスの詩人、コールリッジが「フビライ・ハーン」という詩の中で使ったものだ。
コールリッジが東方見聞録の上都の話を読んだあと、うたた寝した夢の中で現れた上都のすばらしい光景の印象を詩に書きとめたものだ。

上都に壮麗なる高楼を建設すべくフビライ・ハンは命を下す。
聖なる川アルフは洞穴をくぐり、人には測ること能わぬ地底(ちぞこ)の
陽の光届かぬ海に注ぎ入るなり。
かくて十マイルの肥沃の土地は城壁と見張の塔にて囲まれ
曲折する数々の細流に輝く庭に香り高き木々の花開く
ここにまた山岳とともに生まれたる太古の森の茂みの下
木もれ陽の点々と地にたわむれてあり

模型での外城西側。
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城壁の上を北に歩く。
西門に着いた 42°21'30.94"N116°10'34.62"E。
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さらに城壁の上を北に歩く。
ようやく皇城の西北角に着いた 42°21'43.67"N116°10'35.98"E。
画像は東に伸びる皇城の北辺の城壁。
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模型での八思巴帝師寺、小西門、回回寺、回回司天台、西門、皇城北辺の城壁(画像左側)。
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※引用・参考文献は旅行日記の最後に記述します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(皇城東南角~明徳門~皇城西南角)

皇城の東南角から、南辺の城壁を見る。
城壁の北側はうっすらと雪に覆われていた 42°20'58.93"N116°11'36.62"E。
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城壁の上を西に歩く。
外側には护城河が見えた。
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上都観光の出発点である明徳門を通過 42°20'57.85"N116°11'6.51"E。
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明徳門の西側は城壁が修復されている。
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夕日に輝く护城河。
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皇城の西南角に着いた 42°20'58.76"N116°10'35.82"E。
ここからまっすぐ外城の南辺の城壁が続いている(画像左端)。
一方、北側には皇城の西辺の城壁が伸びている(画像右端)。
その間には外城西側の広大な草原が広がっている。
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外城の城壁を歩きたかったが、残り時間も少なくなってきたので、皇城の西辺の城壁を歩くことにした。
模型での外城西側南端部(画像上半部)。
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