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2009年5月

内モンゴル上都遺跡旅行(池、小東門、宣圣庙、孔庙)

110394a さらに皇城の東辺の城壁の上を南に歩くと、皇城内に地面の色が変わっている箇所があった。城壁から降りて近づいてみる。

110395a 地面は外側は固く、中は柔らかくなっているようだ。よくわからないが沼地かもしれない。模型では、この辺に池があったようだ42°21'20.33"N116°11'31.10"E。

110397a さらに皇城の東辺の城壁の上を南に歩くと、また門の遺構に着いた。おそらく小東門だと思われる 42°21'12.16"N116°11'37.61"E。

110398a 城壁の上を南に歩く。模型によると、このあたりの皇城内には、孔 42°21'10.05"N116°11'23.38"Eがあったはずである。

Dscn5068a 模型での池、小東門、、孔庙(画像右下部分)

110399a 皇城の東辺の城壁の終点が近づいた。南辺の城壁が迫る。

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内モンゴル上都遺跡旅行(大龙光华严寺~東門)

さらに皇城の東辺の城壁の上を南に歩く。
一部城壁の石積みが復元されている箇所があった。
城壁の外側は傾斜が急で、内側は緩やかだ。
110386a

歩きながら皇城内を見下ろすと、植物が一直線に並んで生えているのが見えた。
遺構の跡にそって生えているのだろうか?
110387a

大龙光华严寺の跡地を発見42°21'40.31"N116°11'29.71"E。
110388a

このあたりの城壁は綺麗に修復されている。
110389a

東門に着いた。
倒れていた石碑には小東門と書かれているが、東門だと思う42°21'31.36"N116°11'37.77"E。
110390a

明徳門と同じように、門は外門と内門の二重構造になっているようだ。
門の中に広場がある。
110392a

南側から見たところ。
110393a

模型での大龙光华严寺と東門(手前)。
Dscn5072a

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内モンゴル上都遺跡旅行(外城北東角~皇城北東角)

外城の城壁東北角に達した42°22'10.30"N116°11'35.63"E。
南側に続く城壁の上を歩いていくことにする。
110376a
外城東辺の城壁から東側を見る。
はるか彼方まで草原が続いている。
東側の城壁はとげのある植物が生い茂っており、文字通りいばらの道だった。
110378a
城壁から外城内を見下ろすと、大きな岩があった。
何かと思い、近づいてみた。
建物の礎石なのか、単なる岩なのか?
110379a
外城を示す石碑を発見。
110380a
外城壁と皇城壁の東の接合点に達した42°21'44.06"N116°11'36.47"E。
ここから皇城を見下ろした。
皇城内は各所に土盛りが見られ、かつて建物が立ち並んでいたことがよくわかる。
ありし日の上都の様子を思い浮かべずにいられなかった。
画像左端は皇城の東辺の城壁、画像右端は皇城の北辺の城壁。
P200a
模型での北東方向から見た上都。
左端は外城壁と皇城壁の東の接合点。
Dscn5075a

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内モンゴル上都遺跡旅行(外城北側~北端の城壁)

复仁門付近の城壁から北側の外城を望む。
これまた草の大海原だった。
P100a

「この宮殿は城郭内(皇城)に建てられているが、その一辺は城壁に接しており、この面から外側に向かって延々十六マイルに近い別のしょう壁が延びだして広大な地域を囲い、内に多数の川や泉や牧場を収めている。
この苑は宮殿からでなければ入れない。
苑内には牡ジカ、黄ジカ、小ジカといった類の動物を放牧し、同じ苑内の鳥小屋に飼っているハヤブサ・タカの餌糧に供せしめている。
ハヤブサだけでもここには二百隻以上が飼育されているのである。
カーンは週に一度は親しく鳥小屋に赴いてこれを視る。
またカーンはヒョウを引きつれてその乗馬のあとに従わしめつつしょう壁をめぐらしたこの園ゆう内を満騎することもしばしばである。
興に乗じて彼はヒョウを放ち牡ジカ、黄ジカ、小ジカを狩り、これを鳥小屋のタカに与えるが、これがカーンの楽しみなのである。」(東方見聞録)

外城内に入って北側に向かって歩く。
模型によると、この辺に竹宮があったはずである42°22'2.20"N116°10'42.51"E。
110372a_2
「しょう壁に囲われた苑の中央部にみごとな森があって、ここにいっさいを竹材で仕上げた別の宮殿がある。
それは亭しゃの一種であるが、柱はすべて金箔と絵画をもって装飾され、柱頭に各各巨大な龍が彫られている。
この龍は龍身を柱に巻きつけ、左右に張った両肢と頭とで屋根を支えている。
殿内も一面に金箔を張り、すばらしいできばえの鳥獣細工を施している。
屋根も竹でできているが厚いウルシでしっかり塗り固めているので、どんな雨にあってもびくともしない。
・・・カーンは年間を通じ6・7・8月の三ヶ月をこの宮殿で暮らす。
それというのも、ここにいれば涼しくてとても楽しいからなのである。
この竹の宮殿はカーン滞在中の三ヶ月間は建てたなりにしておくが、不在中の九ヶ月間は解体される。
このような建て方がしてあるので、思いのままに組み立てることもできれば取りこぼつこともできるわけである。」(東方見聞録)
もしかしたら、ポーロ一行がハーンに謁見したのは、この竹宮だったかもしれない。
模型で見た竹宮(西側から見たところ)。
Dscn5073a

「今までに言い忘れていた一大奇事を紹介しよう。
ほかでもないそれは、カーンがこの竹の宮殿に滞在中、雨天・曇天そのほかの悪天候の日があると、カーンに仕える賢明な占星師・妖術師がその知力と呪法を尽くしてこれら一切の雲や悪天候を宮殿の上空から払いのける。
その結果、天気は宮殿の上空を限ってたちまちに好転し、悪天候はすっかりよそへ移ってしまうのである。」(東方見聞録)

外城の北端に達した。
城壁の上から北側を望むと小さな石柱があった。
どうやら史跡保護区かなにかの境界のようである。
110373a

城壁の西側。
外城の北側の城壁は門が2つあるが、そのうちの西側に立ち寄ってみた。
110374a

城壁の東側。
城壁は奥で右に折れ曲がり、南側に延びているのが見えた。
この城壁の上をなぞって進むことにした。
110375a

※引用・参考文献は旅行日記の最後に記述します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(穆清阁・统天阁・香殿・复仁門)

110359a 恐らく穆清阁だと思われる 42°21'37.40"N116°11'6.30"E。上には宮殿の瓦礫を積み上げたと思われるケルン状のものがある。Bさんはこれに向かってお祈りをしていた。

110360a 穆清阁から来た方向(南側)を見たところ。手前の土盛りは统天阁42°21'34.28"N116°11'6.29"E香殿42°21'30.53"N116°11'6.21"Eだと思われる。

城、皇城の入り口は遥か遠い。

Dscn5075b 模型の、穆清阁统天阁香殿部分。

110361a 石碑が見えた。仁門と書かれている。

110363a仁門の遺構。仁門は皇城と北側の外城をつなぐ門だった42°21'44.97"N116°11'6.14"E。

Dscn5071a 模型の仁門部分(手前。北側から見た所)。

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内モンゴル上都遺跡旅行(大安閣・宣文阁・鹿顶殿)

110355a ついに着いた。大安閣の上り口。

「ルイーザと私は、ずっと敬虔な気持ちになっていた。この場所に着くまでに、二万キロも旅を続けてきたのだ。玉座へと続く坂道の下に立つ。七百十一年前にマルコ・ポーロも、その旅の最後に、ここに立ったのだ。

“二人の兄弟とマルコは、その大都市に到着すると、宮廷へおもむき、多くの廷臣に囲まれた皇帝に会った。彼らは皇帝の面前で一礼し、それから地面にひれ伏して、できる限りうやうやしく敬意を表した。皇帝は彼らに立ち上がるよう命じ、丁重に礼を尽くし、彼らの来訪をたいへん喜んだ。そして、健康状態はどうか、旅はどうだったかとなどとあれこれ尋ねた。彼らはハンが機嫌よく、元気なのを知って、まったく何の心配もいりませんでしたと答えた。そして、法王から授かった信任状と手紙を差し出すと、皇帝はとても喜んだ。そのあと、聖墳墓教会の聖油を献上すると、皇帝はそれが貴重なものと知っていたので、やはりたいへん喜んだ・・・”

私はチョッキのポケットから聖油の小びんを取り出し、二歩うしろにルイーザを従えて、ゆっくりと坂道を登った。」(マルコポーロ・クエスト)

私もまったく同感だった。

110354a 「上に着いた私は、かつてハンの玉座が建っていた場所の前にひざまずいた。びんの蓋を取って傾け、油をゆっくりと地面にそそぐ。ほんの一瞬、油は地面にたまったが、すぐにゆっくりと地面にしみこんだ。地面には、きらきらと光る斑点だけが残された。こぬか雨の中、ケンブリッジから地球を半分まわったその場所で、ルイーザと私はこの地を不滅なものにした詩を声をそろえて暗唱した。・・・」(マルコポーロ・クエスト)

110353a 大安閣の上、礎石らしきもの。「マルコポーロ・クエスト」に記述があった、酒盃を手にしたあばた顔で顎髭を細長く伸ばし、悪意に満ちた表情をした高さ90センチほどの浅浮き彫りの彫像は見当たらなかった。もっと注意深く探せば見つけたかもしれない。

「各種の妖術に長けた連中をバクシ(ラマ僧)と称するが、彼らはまた次に述べるような不思議をも演ずるのである。それはカーンが正殿に出御して宴席に臨まれる時のことであるが、正殿の中央にはブドウ酒、乳そのほかの飲み物を満々と満たした杯が並べられ、そこから少なくとも十ペースの距離に高さ八キュービットもあるカーンのテーブルがすえつけられている。バクシと称する上記の魔術師がここでその妖術・呪文を行うと、飲み物を満たした杯はひとりでに床を離れて浮き上がり、誰も手を触れないままにカーンの御前に至らされる。次いでカーンがこれを飲み干すと杯は再びもとの場所にひとりでに戻るのである。このことは一万人からの人々の面前で行われるものであって、一点のうそもない確かな事実なのである。全くのところ、これら呪文を習得した妖術師たちは諸君らに対しても、彼らが本当にこの不思議をやってのけることができる者だと信じ込ますことができるであろう。」

(東方見聞録)

110352a 宣文阁を発見。

110351a 鹿顶殿を発見。

Dscn5071a 模型の大安閣・宣文阁鹿顶殿部分(北側から)。

「クブライ・カーンは城内に大理石をも使用した石造の一大宮殿を営造したが、数ある広間や部屋はすべて金箔を張り鳥獣細工をはめ込み各種の花卉草木を描いて装飾されている。全く華麗を窮め善美を尽くした輪かんである。」(東方見聞録)

110358a 更に遠くに大きな土盛りが見えた。

※引用・参考文献は旅行日記の最後に記述します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(御天門・仁寿殿・睿思殿・洪禧殿)

110347a 御天門と書かれた石碑にたどり着いた42°21'18.04"N116°11'6.07"E。ようやく宮城の南の入り口に着いた。

110346a 宮城に入る。まずは仁寿殿の跡地に着く42°21'19.94"N116°11'0.31"E。こうした跡地には、ごくわずかに遺跡の一部と思われる石や瓦らしきものが散乱している。また、建物の基礎と思われる盛土が残っているものもある。

110345a 次に睿思殿を見つけた42°21'21.72"N116°10'56.90"E。

110344a 次に洪禧殿を見つけた42°21'23.78"N116°11'0.00"E。順調である。

Dscn5067a これらの建物付近の模型画像(中央右寄り)。

110356a 遠くに、石積みに囲まれたより高い土盛りを見つけた。これこそフビライ・ハーンが住んでいた大安閣でなかろうか?胸が高鳴る。

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内モンゴル上都遺跡旅行(明徳門から宮城へ)

110340a 明徳門。2つめの門の上から、宮城の方向を見たところ。

一面の草野原だった。

上都は、元朝末期の紅巾の乱により焼き払われた。その後、明朝の防御拠点として使われていたようだが、しばらく後に放棄された。上都は草原化し、散在した遺跡は兆奈曼苏默(チャオ・ナイマン・スム=百八の廟)と呼ばれてきた。

明徳門の脇には、車が入れるような間隙ができている。その道が、かつての上都の区画を無視して斜めに横切って奥に続いていた。

私は車道に沿って進むのはいやで、あくまで明徳門からまっすぐ宮城に進むことにした。

かつてのポーロ一行がそうしたであろうように。

しかしこれが失敗した。

110341a 画像は、明徳門から宮城に向かう通りがあったはずの場所。

110342a 草原のただなかに入ると、方向感覚を失って自分がどこにいるのかわからなくなった。貴重な時間を費やした後、ようやく遠くに石碑を見つけて、現在位置を知るためにそれに向かっていった。

110349a 石碑には宮城と書かれていた。いつの間にか宮城に着いてしまっていた。しかし宮城のどの部分かわからない。

110348a 見回しているうち、どうも宮城の西側にいるらしいとわかった。

気を取り直して宮城の南辺に向かった。

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内モンゴル上都遺跡旅行(明徳門に入る)

110335a 明徳門周辺の城壁は一部復元されているようだった42°20'57.85"N116°11'6.51"E。

Dscn5061a 模型で見た明徳門。このように大規模な二重構造になっていた。

110337a 1つめの門を見下ろしたところ。

110338a 1つめの門の中から、2つめの門を見たところ。1つめの門の中は瓦礫で覆われていた。

110339a 2つめの門の上から、1つめの門を見たところ。明徳門の大きさがわかる。

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内モンゴル上都遺跡旅行(护城河を渡る)

110331a チケット売り場から車でここまでやってきた。

上都を囲む城河。繁体字に直すと護になる。すなわち、城を守るお堀といったところか。しかしこの河が見られるとは思っても見なかった。感激してしまった。

現在1時半、Aさん、Bさんと5時にチケット売り場で落ち合うことに決め、自由行動になった。

110332a城河を示す石碑。

Dscn5070a 今いる場所の模型の部分。


110334a城河を渡ると明徳門がある。1274年夏、マルコ・ポーロ一行は上都に到着すると、我々と同じように明徳門から入城したに違いない。感無量だった。

「(チャガンノール市から)三日間の行程を終わるとシャンドウ(上都)市に到着する。この都市は現に統治中のクブライ・カーンが創設した所である。」(東方見聞録)

明徳にはモンゴル語のミンノサノ(こんにちは)の意味があるとの事だった。

※引用・参考文献は旅行日記の最後に記述します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(上都遺跡チケット売り場周辺~その2)

モンゴル帝国の13世紀後半の版図。
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上都の平面図
110325a_2

上都のあるドロンノールは、遼、金朝時代からの皇帝の夏営地だった。
フビライは大ハーン位に即位する前から、ここを南宋攻略の本拠地にしていた。

「軍事力をほとんど唯一の存立基盤とする遊牧政権が、その政治支配力の根源を失わずに農耕地域に進出して国を維持する場合、官僚・行政機構や物流の中枢地域などの“政治装置”を収容する拠点都市と、軍事支配の裏づけとなる遊牧軍団を収容する大遊牧地とを、ある程度の近距離のうちに(ふつう250~350kmくらい)兼ね持つ必要がある。
その候補地として、燕京(北京周辺)~開平(上都周辺)地区と京兆(西安)~六盤山地区は、中華地域全体の中でずぬけた好条件をそなえている。」

1256年、フビライは劉秉忠に閃電河の水辺のあるこの地に開平府を設計・建設することを命ずる。
閃電河は灤河の上流にある川ですが、灤河は天津まで続いていて黄海に流れ込みます。

上都遺跡の航空写真。
110324a

南東辺に正方形の皇城があり、その中に宮城がある。

この部分は1259年に完成し、開平府は完成した。

恐らく完成当時は宮殿、行政府、寺院などいくつかの建物を除いて家屋がなく、ほとんどが空き地になっていたと思われる。
空き地は園地かゲルによる宿泊地になった。

開平府は1263年、上都と命名された。

皇城の西と北に外城があるが、これらはもともとの設計にはなく、フビライが劉秉忠に大都建設を命じた1267年以降に付加されたものらしい。

北の外城はクリルタイなどが開かれた御苑、西の外城は居民区だったらしい。

内城は一辺1400メートル、外城は一辺2200メートル。

「モンゴル帝国と大元ウルス」(杉山正明/著京都大学学術出版会 東洋史研究叢刊)には同時代のフビライ系列の集団が各地に建設した都城の形態からして、宮城は内城、皇城は外城、外城は外苑と称するのが適当と書かれている。

ちなみに、われわれの現在位置(上都遺跡チケット売り場)は、皇城の南辺の南側のある程度離れた場所である。

マルコ・ポーロの行程図。
110329a_2

そのそばに猫が寄り添ってきた。
110330a

※引用・参考文献は旅行日記の最後に記述します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(上都遺跡チケット売り場周辺~その1)

110320a 上都遺跡に着いた!42°20'11.19"N116°11'15.26"E

110319a 入り口の周囲は一面の草原。牧畜風景。

110318a 入り口の近くにモンゴルの馬印?のある台があった。

110317a 側にはモンゴル騎馬部隊のレリーフ。



大都(北京)から上都までの行程図。
110327a

朝の皇帝は陰暦2月末に大都を立ち、9月下旬まで上都に滞在した。

夏と冬で居留地を変えるのは遊牧民族の慣わしだった。

驚くべきことに、上都の中心線を南に伸ばすと、大都の中心線につながるという。これは実際に確認された。当時の測量技術の高さが伺える。

※引用・参考文献は旅行日記の最後に記述します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(正藍旗から上都遺跡へ向かう)

博物館の見学に時間がかかってしまった。

110310a2:07、昼食抜きで上都遺跡へ出発。

110311a 途中の村

110312a 牧畜風景

110313a 草原の中を進む。無事上都遺跡に着けるだろうか。

110315a 宿泊場所だろうか?42°18'56.58"N116° 9'28.52"E

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内モンゴル上都遺跡旅行(元上都博物館の見学)

3日目。

6:00に起きる。

気温マイナス9度。

下着は乾いていた。さすが乾燥地帯。厚手の靴下はさすがに半乾きだった。

110304a ホテルのレストランで食事を摂る。


110305a_2 レストランのバーカウンター。お酒がいっぱい並んでいる。

レストランには、恐らく代々の元朝の皇帝の肖像画が並んでいた。

110303a 今日の朝食。

大きな器に入っているのはおかゆ。

揚げパンと蒸しパンがおいしい。

お茶はやっぱりモンゴル式。

110307a 今日は元上都遺跡に行くのだが、その前にホテルの隣にある元上都博物館42°14'15.85"N115°58'56.20"Eを見学する。開館は8:00なので少し待つ。

その間に博物館をバックに記念撮影。

Dscn5069a 博物館に入る。

館員がガイドしてくれた。

博物館は民営。残念ながら中の撮影は禁止だった。

中に入るとまず、フビライ・ハーンの巨大な坐像がある。

その隣の部屋には、上都のジオラマ模型が置いてある。

ホテルのロビーに置いてある物よりも大きく、精巧だった。

これだけは撮影許可が下りた(画像)。

驚いたのは陳列物が上都遺跡で発掘されたものではなかったこと。博物館の名前からして上都遺跡の発掘物を陳列しているとばかり思っていたのだが、ちょっと期待はずれだった。

館員によると、発掘物は日本人が戦前・戦中に持ち去ったか、フフホトの博物館にあるとの事だった。そういえば日本人が上都を調査した話は記憶にある。しかしその発掘結果資料はどこにあるのだろうか?国立国会図書館か、どこかの大学の書庫か?

ここにあるのは、博物館が各地から買い集めたものだそうだ。

説明を聞いていて面白いものもあったので、主な陳列物を以下に列挙します。

カンブリア紀のサンゴの化石

菊石(アンモナイトの化石)

蝶がまるまる一羽入っている琥珀(綺麗だった)

中世紀の恐竜の骨。

大昔の犀の骨

10万年前の鹿の骨

旧石器時代の矢じり

新石器時代の石斧

7千年前の紅山文化玉器:竜と豚の形をしたもの、斧、亀など

折江省の良渚文化玉器

夏家店文化陶器:三脚の壷、2つの壷が取っ手でつながっている物(2つの部落が連合した象徴だそうだ)

西周時代の玉覆面:死者の顔にかぶせる玉石。腐敗を防ぐと信じられていた。

西周時代の玉勒、玉虎、青玉杯:天と地の神を祀るもの。

西周時代の帯につける玉飾り

春秋時代の青銅器(長剣、音が立つ矢じり、斧の形をした祭器)

戦国時代の銅鏡、印章、青銅の朱雀・玄武、帯に引っ掛ける玉器

漢時代のカイロ、埴輪(日本のものに比べて躍動感がある)、壷、杯、死者に握らせる玉器(腐敗を防ぐと信じられていた)、石の羊、印章、魔よけの銭、火をつけるための凹面鏡、銅鏡

新時代の大布黄干

南北朝時代の仏像

唐時代の屋根飾り、壷、陶磁器の仏頭、銅鏡

宋時代の陶磁器の花瓶、碗、枕(死者用)、子供の上に蓮が乗る形の、皇帝の脈診を行う台(連続して子供ができるように縁起の良い形)

清時代の、チャハル部の部隊(皇帝を守る部隊)の盾、弓、鎧

元時代の短銃(こんな小さな銃があったとは)

清時代の、鍋、兜、蛮刀、盾、腰帯、大砲、ストーブ、鳥葬台の死者を解体する道具、ミルクと豆腐の加工品を作るための桶、モンゴル人の相撲取りの服、パオ(屋根の模様は太陽を表す)、楽器、火薬を入れる筒、ものさし、キセル、メノウと玉石の首飾り、刀と箸のセット、チャハル部の花嫁衣裳

明時代の七宝焼の花瓶

元時代の鉄の碗、帯飾り、銅鏡、人形

清時代の薩満教の仏像、金剛銅版、ストーブ、チベット仏教の刺繍、法鈴、ラマ号

遼時代の唐三彩、壷(緑、白、黄)、武士像、瓶、タン入れ、宮廷用の壷(取っ手は龍、注し口は鳳凰)、酒注し、仏像、印章

金時代の瓶、壷、碗、銅鏡、印章、玉飾り(ふくろう、蓮を抱えた子供=子供をたくさん生む縁起物)、猿を背負った子供の像(出世する縁起物)

元時代の碗、香炉、杯、枕、絹衣、石杖、石硯、線香を挿す香炉、風鈴、銅鏡、印章、紙幣の版木、パスパ文字の銭、銘文のある火縄銃(1の腕くらいの長さ)、農具、緑色の鳳凰の形をした首飾り、様々な牌符

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内モンゴル上都遺跡旅行(正藍旗のレストランで夕食)

正藍旗のホテルにて。

110252a 部屋から外を見ると、日没直後だった。

夕焼けが美しい。

夕食前にちょっと外に出てみた。

防寒対策はばっちりとはいえ、さすがに寒い。

ホテルの前には巨大な広場があり、巨大なフビライ・ハーンの騎馬像がある。

また、広場の中や周りの建物は美しいネオンで彩られている。

これらについては、3日目の日記で紹介。

Dscn5077a 19:30、広場の向こうのレストランで食事。

110406a このレストランは人気があり、内モンゴル自治区の主席も訪れたらしい。写真が飾ってあった。

110261a 食事の内容は画像の通り。

トマトと煮込んだ羊肉は、筋が硬くて中々噛み切れなかった。

どうも少し生煮えらしい。気温も低いし新鮮なので半生でも問題はないのだそうだ。

日本では柔らかい肉しか食べていないので柔らかいのが当たり前と思っていたが、モンゴルの人たちにとってはこれが「肉」なのだ。

塩茹でピーナッツは酒のつまみに最高。食べ始めると止まらない。

ココア色の飲み物はモンゴルのお茶。ミルクティーですが、味がしょっぱいので最初まずくて驚きました。モンゴルでは砂糖ではなく、塩を入れます。

110266a これはおなじみ水餃子。

ホテルに戻って21:30頃、またいつの間にか眠ってしまった。

2:40に起きて下着と靴下を洗濯して室内に干した。

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内モンゴル上都遺跡旅行(正藍旗・夏宮大酒店~その2)

正藍旗のホテル、夏宮大酒店にて。

110259a 2階に上がってみた。


110249a かつてのモンゴル帝国の版図が描かれている。

こんなところに賽銭箱のようなものとお供えのようなものが。

なぜだろう。


フビライ・ハーンの肖像画です。
110257a

マルコ・ポーロの肖像画と行程図も。すばらしい。
110256a

110250a 客室の中。



110251a バスルームはシャワーのみ。




※引用・参考資料は旅行記の最後に掲載します。

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内モンゴル上都遺跡旅行(正藍旗・夏宮大酒店~その1)

Dscn5099a 16:30、正藍旗のホテル、夏宮大酒店に到着42°14'9.46"N 115°59'2.15"E。

ホテルの1階ロビー。

110301a 真ん中にはかつての上都の模型が置かれていた。

いやあ、全くすばらしい。明日への期待が高まる。

Dscn5062a 模型の説明書き。1/1200だった。

110258a ロビーの天井もモンゴル調。

Dscn5102a 昔のものだろうか、陳列棚に飾られていた。

※引用・参考資料は旅行記の最後に掲載します。



内蒙古自治区[中国]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/asia/china/neimenggu_autonomous_region/

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内モンゴル上都遺跡旅行(張北から草原地帯を行く)

110235a画像左端、こんなところに何のモニュメントだろうか?




110246a遠くの丘の上は風車だらけだった。





110245aとにかく草原。

110244a久しぶりにどこかの町を通過。

110243a再び牧畜風景。



そして草原が広がる。空が高い。
110242a_3
草原。
110254a
※引用・参考資料は旅行記の最後に掲載します。

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