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2007年7月

イラン旅行・ゴラーズ~その3

【旧ホルムズを探す旅】

崩れた建物の跡がある。大きそうだ。
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近づいてみた。
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裏側にまわってみる。
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森の中にも崩れた壁が伸びていた。
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泥レンガの崩れた跡。
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そろそろ暑さに耐え切れなくなったので、車に戻った。
ミナブの町に引き返す。

ここで引き返すのは、やっぱり残念であった。
(帰国してからこの場所の位置を調べたが、よくわからなかった。
たぶん、K103地点から5キロ、カレサラワンから2キロほど離れていると思われる。)

ただ、旧ホルムズの周辺地域には達したと思うし、ポーロ一行がケルマン~ホルムズ間を往復した道は、今日通ったティアブ~クロカシの道だったかもしれない。
そう思うと、残念さもかなり薄らいだ。


【新ホルムズのその後について】

旧ホルムズから新ホルムズ(ホルムズ島 27 05' 36.31"N 56 27' 08.71"E )への移住後、ホルムズはどのような歴史を辿ったのか?

1320年、ホルムズ王クトブ・ウッディーン・タハムタンは、商売敵であるキーシュ島を奪い、カルハート、シーラーフ、バフライン、カティーフ、マージュールを支配下に置いてホルムズ海峡の制海権を手にした。

前述の通り馬の交易で利潤を上げたほか、真珠を採取していたカイスと呼ばれる海士集団と採集場を支配下に置き、真珠の取引に大きな影響を及ぼした。

イラン内陸部を支配するイル・ハン朝やティムール朝と友好関係を保ちながら、独立港市国家として繁栄した。
当時の新ホルムズの様子は、モロッコの旅行家、イブン・バットゥータの「大旅行記」に詳しく描かれている。

1515年、東ポルトガル帝国の創立者、アルフォンソ・デ・アルブケルケ率いるポルトガル艦隊はその地理的な重要性に目をつけ、ホルムズ島を攻撃・占領して要塞を築いた。

当時、ペルシャはサファヴィー朝のイスマーイールの時代だったが、チャルディラーンにおいてその強力なトルコ系騎馬軍団がオスマン朝の鉄砲隊により壊滅的打撃を受け、その勢威は衰えていた。
従ってイスマーイールも、ポルトガルによる占領を黙認せざるを得なかった。

ホルムズは、ポルトガルの占領下でも繁栄を続けた。

1622年、銃砲を装備した新編成の軍を率いて対外拡張策に出ていたサファヴィー朝のアッバース一世は、イギリス艦隊の力を借りてホルムズ島からポルトガル軍を駆逐して奪還した。
ホルムズ島の町は略奪・破壊された。

現在、ホルムズ島は日帰り観光者が訪れる漁村の島になっている。


参考・引用文献:

書名 :大旅行記 3
シリーズ :東洋文庫 630
著者名 :イブン・バットゥータ/〔著〕 , イブン・ジュザイイ/編 , 家島彦一/訳注
出版者 :平凡社

書名 :西アジア史 2(イラン・トルコ)
シリーズ :新版世界各国史 9
著者名 :永田雄三/編
出版者 :山川出版社

書名 :ヴェネツィアの冒険家
副書名 :マルコ・ポーロ伝
著者名 :ヘンリー・H.ハート/著 , 幸田礼雅/訳
出版者 :新評論

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イラン旅行・ゴラーズ~その2

【旧ホルムズを探す旅】

車のある場所に戻った。
私はぜひ、海の見える場所まで行きたいと思い始めていたが、Bさんは気乗りしない様子だった。

向こうから、ロバに乗った老人がゆったりと現われた。
何かすごく懐かしい物を見た気分だ。
この暑さでは自力で歩くのは困難なのだろう。

Bさんは老人に何やら聞いていたが、やはりここがホルムズだろうと言って譲らなかった。
彼の頭の中には観光のタイムテーブルが浮かんでいて、ここらで切り上げないと残りの観光ができなくなる、と考えているらしかった。

しかしここが、私が最初に指し示した場所、K103地点からだいぶ離れているのは明らかだった。

もともと旧ホルムズに行くのが困難だとわかっている以上、せめて近くの海を見たかった。
なぜなら、ポーロ一行はホルムズの海を眺めながら、中国まで航海できない事を大いに悔しがったであろうから。
その思いに共感してみたかったのだ。
しかし、もう残り時間も少ないし、ここらで諦めねばならない。

Fi2602225_1e_2 立ち去る前に、付近の遺跡?の写真を撮っておくことにした。
この辺りは、ゴラーズ?????と呼ばれているらしい。

Fi2602225_2e_2 建物の跡だが、旧ホルムズの遺跡にこれだけはっきりしたものが残っているというのは、聞いた事がない。
恐らく、かなり新しいものではないかと思った。

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よく見ると、周囲には崩れた壁のあとがたくさんあった。

Fi2602225_4e_2 ここにも壁が連なっている。

小道が森の中に伸びていた。
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ロバに乗った老人は、ゆっくりと森の中に消えていった。

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イラン旅行・ゴラーズ~その1

【旧ホルムズを探す旅】

Fi2602224_1e 未舗装の道をのろのろと進んで行く。
なにか壁のようなものが見える。





今まで通った場所とは明らかに違う。
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何かありそうな雰囲気だ。

Fi2602224_3e 海側は、地面がところどころ砂地になっている。
何だろうと思って見ていると、車が止まった。
どうやら長老が教えた場所に着いたらしい(たぶん)。

Fi2602224_4e 陸側には、明らかに人工物と思われる壁が見えた。
地面が真っ平になっているのは、整地したからだろうか。

思わず海側に向って歩く。
海からどのくらいの距離なのか、確かめたかったからだ。

外は灼熱地獄。
ほんの50メートル歩いただけで、体が干上がった。
寝不足の体でこれ以上歩くのはマズいと思ったので、歩くのをやめた。

5月初旬ならば、気温も幾分穏やかだろうと思って来たが、この時期ではもはや手遅れだった。
1~3月は雨季なので、11,12,4月上旬あたりが良いのだろうが、サラリーマンがまとまった休暇を取れる時期ではない。

遠くを眺めたが、延々と森が広がっているばかりで、水平線や海岸は全く見えなかった。
海からはだいぶ離れているらしい。がっかりした。

地面は一面の砂地だった。
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これはミナブ川の流れの跡なのだろうか?

Bさんが、土器がある!と言って見せてくれた。
砂地を良く見ると、そこここに土器のかけらが散らばっていた。
線状の模様が入ったもの、青緑やえんじ色に塗られたもの。
思わず胸が高鳴った。

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イラン旅行・ミナブ河を渡って南へ

【旧ホルムズを探す旅】

Fi2602223_1e ティアブから南へ。
水溜りのような川を渡った。
この暑さと乾燥した景色の中で見る川は、とにかく新鮮だった。

Fi2602223_2e 再び川にさしかかった。
(後で、この川はミナブ川だとわかった)

川の向こうに集落が見えた。結構大きい。
まさかこんな所に集落があるとは思わなかった。
この辺は荒地しかないと思っていたが、意外と人も住んでいたのだ。
中近東文化センターの踏査記録に、雨で通行不能だったとあるのは、この辺なのだろうか。

Fi2602223_3e ついにミナブ川を渡る。
ボートが打ち捨てられたように置いてある。冬の雨季に使うのだろうか。
この流れの先に、ペルシャ湾がある。

Fi2602223_4e 集落の名前はクロカシ?????(短い井戸)というらしい。
道沿いに建物が連なっている。

灼熱の外に出ているのは若者だけ。皆動きが緩慢。

露店で何かを売っている少女が身にまとっていたのは、インドのサリーのようだった。
テヘランの女性の黒いチャドルと違って色模様が鮮やか。

集落の奥まで行って、車が止まった。
車のクーラーが止まるととたんに暑くなる。

ガイドのBさんと運転手のDさんはとある家に入った。
集落の長老?に、遺跡のある場所を聞いてくれるらしい。

何だか、私よりも遺跡探しに熱中しているようで、唖然としてしまった。
単純に、私が指し示した場所に近づくだけだと思っていたが、思わぬ展開になりそうな気配だ。

何やら話を聞いてくると、もと来た道を戻り始めた。
そして、集落の途中の脇道を東に進み始めた。

再び南側に向って走る。
途中、何回もトラックの運転手やバイクの若者らから情報収集していた。

Fi2602223_5e 一体、自分がどこにいるのか全くわからなくなった。
結局、未舗装の道に入って行った。
この先に何があるのか?

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イラン旅行・ティアブから南へ

【旧ホルムズを探す旅】

Fi2602222_1e 小さな水路 27 07' 14.36"N 56 53' 43.32"E を渡り、町に辿り着いた。ここがティアブだという。
某ホームページの写真で見たことはあったが、今実際に自分がその場所にいることが夢のようだ。

Fi2602222_2e 想像していた通り、埃っぽくてゴーストタウンのようだ。
この暑さでは人もまばらで、元気なのは子供達だけ。

Fi2602222_3e 車はすぐにティアブの町から出た。
水路のある場所に戻ると、今度は南に向って進む。
この辺にも盛土がある。整地した跡なのか。
奥のほうは高台になっていて、水平線は全く見えなかった。

Fi2602222_4e 陸側は、はるか彼方まで乾燥した平原が広がっていた。
ここがどの辺なのか、全くわからなくなった。

Fi2602222_5e また緑が密集してきた。
地面には何かがかき集められたような跡。

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イラン旅行・ミナブから西へ

【旧ホルムズを探す旅】

Fi2602221_1e ミナブから西に向かっている。
最初は小さな建物と緑が点在する場所だったが、
そうかと思うといきなり視界が開けて、広々とした平原状の場所があったりする。
暑さのせいなのか、立ち木の葉っぱが涸れ果てているようだ。
広い範囲に、林が広がっているのがわかる。

再び緑が多くなった。
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かなり遠くにまで広がっている。

人工なのか自然にできたものなのか、地面に起伏が見られるようになった。
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建物を解体した跡なのだろうか?所々に石か何かを積み上げている。
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また、視界が大きく開けた。
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海が近づいているような気がする。
だんだん気分も高揚してきた。
残念ながら、水平線は全く見えない。

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イラン旅行・旧ホルムズについて~その2

【旧ホルムズを探す旅】

旧ホルムズに行くには、その場所がわからなくてはいけません(当り前ですが)。
しかし、旧ホルムズの正確な場所はよくわかっていないようです。

書籍で述べられていた場所を上げると、
ミナブ川北岸のティアブ、テペ・スルフ。ブルチク。
ミナブ南方16キロのクンビル。
ミナブ南西のカレサラワンなどがありますが、私が知る限り、ミナブ南西の海岸近くのK103地点のようです。
もっとも最新の情報ではないので、もっと違う場所があるのかもしれませんが。

ちなみに今回の旅行にあたって、いろいろな旅行会社に旧ホルムズに行きたい旨を打診しましたが、その存在すら知りませんでした。
要するに一部の歴史研究者の研究対象にとどまっている場所のようです。

今回は、現地の詳細な地図もなく道路事情も不明なまま、僅か2時間程度の時間で、そのようなマニアックな場所を目指すわけです。
当然、旧ホルムズに関連する遺跡のある場所に辿り着けるとは考えていませんでした。
でも、ある程度近くに行って、どのような場所に存在していたのか、その雰囲気だけでも確かめられたら、と思いました。

とりあえずガイドのBさんには、K103と思われる地点を地図で指し示して、ここの近くまで行ってくれるよう、言いました。



Fi2602220_2e 真直ぐな細い道を西に向って延々と進む。
車窓の風景がめまぐるしく変わる。
想像していたのは草木がない平原だったが、実際には案外ナツメヤシなどの緑が多く、レンガ?造りの建物が点在していた。

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イラン旅行・旧ホルムズについて~その1

Fi2602219_1e ミナブ市内。
町中には人影がちらほらあったが、この暑さでは皆動きが緩慢である。
特に黒いチャードルを被った女性たちは大変なのではないかと思った。

車が動き出した。
バンダル・アッバス方面に向って走っていく。
Bさんに、どこに行くのかと尋ねると、いよいよ旧ホルムズに向うのだと言う。
ミナブの町外れまで来ると、車は左折してやや細い道に入って行った 27 10' 20.81"N 57 03' 55.60"E 。

【旧ホルムズを探す旅】

ここで旧ホルムズについて説明します。
旧ホルムズは800年前に栄えた港町。
現在のホルムズ海峡の名前のもとになった町だ。

記録によると、紀元前4世紀のアレキサンダー大王のインド遠征の帰途、その分遣隊であるネアルコスの艦隊が停泊したハルモゼイア地方のアナミス川河口がその場所と言われている。

2世紀の地理学者、プトレマイオスの地理書にはハルムザと書かれている。

別の書籍によると、町自体は3世紀のサーサーン朝初期に生まれ、ゾロアスター教の神アフラ・マズダに由来して命名され、後世にオルムズ、ホルムズになった、と書かれている。

また、ホルムズは別名ムーギスターンとも呼ばれた。
その意味は、拝火教徒の地、霧の地、モンゴル支配の地のいずれかが考えられている。

ポーロ一行は中国に向う途中の1272年に訪れ、東方見聞録ではこのように述べられている。

「コルモス平野を二日間の行程で突き切ると初めて外洋に達するが、この海岸地区に海港都市コルモス(ホルムズ)がある。
この港には、各種の香料・宝石・真珠・絹布・金襴織・象牙そのほかの商品を船舶に満載した商人がインドからやってきて、コルモス市中でこれを売却するのだが、彼ら海商から直接に買い入れた商人は更にこれを第三の商人に転売し、かくしてこれら商品が世界各地に出回るわけである。
実際コルモス市は貿易の殷盛な都市である。」

「これら(ペルシャの)諸王国の住民は、上記した馬匹を連れてインド海に臨むキシやコルモスの町まで出かける。
するとこの地には馬匹を取り扱う業者が来合わせていて、これを買い込みインドに連行し、そしてそこで上記のような高値で売却することになっている。
ところでインドという国は暑気がとても強くて、せっかく馬匹を買い入れても、これを長く飼育することもできなければ繁殖せしめることもできない。
たまたま何かの機会に子ウマが生まれたとしても、四肢が不具であったり奇形をなしていたりして、全く役に立たないものばかりなのである。」

11,12世紀以降、インド洋貿易で馬の取引が活発になった。
ズファール、アデン、シフルのアラブ馬と、イラン内陸部のカズウィーン、クルディスターン、ルーリスターン、シューリスターン、イスファハーン、シーラーズ、シャバンカーラ、クーヒスターンのペルシャ馬が、ホルムズに集められ、インドのマァバールに運ばれて売却されたという。

インドでは10世紀後半以降、南インドでの諸王国の対立と、北インドに侵入したトルコ系、アフガン系国家の対立の激化により、トルコ系民族がもたらした騎馬弓兵による戦闘方法がインド全域に波及し、馬の需要をもたらしたそうである。

また、ポーロ一行は中国からの帰途、1297年に再訪していて、東方見聞録ではこのように述べられている。

「コルモス(ホルムズ)は海に臨んで建てられたりっぱな大都市で、ケルマンのスルタンに隷属している。
しかし都市コルモスの統治は1人のメリックの手中に独占されている。
またコルモス市は管下に多数の都市城邑を有している。
住民はサラセンでマホメットを尊崇する。
(中略)
コルモス市については、既に本書の前章においてキシ、ケルマンとあわせて述べておいたから、それ以上に申し述べる事項はない。
ただどんな経路をとって帰来するにもせよ、このコルモス市にはどうしても立ち寄らねばならないのだから、最後の項目に挙げたにすぎない。」

ホルムズはイラン東部における唯一の海への玄関口であり、海のシルクロードと陸のシルクロードの接点でもあったのだろう。
その繁栄振りが偲ばれる。

ところが、ポーロ一行が立ち去った後数年で、旧ホルムズは存亡の危機に瀕する事になった。

イスラム史家によると、1299年にケルマン王の侵略を受けて、ホルムズ王とその住民はキシュ島に避難し、次いでジャラウン島(現ホルムズ島。バンダル・アッバスの沖合い6キロにある。)に移ったと言う。

ムスタウフィーによると、1300-1301年、山賊の被害がひどくなったためホルムズ王クトブ・ウッディーン・タハムタンが住民ともどもジャラウン島に移ったと言う。

アブー・アルフィダーゥによると、1300-1301年、モンゴル軍の侵略により町が荒廃した為、ジャラウン島に移ったと言う。

ジャラウン島のホルムズは新ホルムズと呼ばれ、ペルシャ湾貿易最大の拠点となった。
旧ホルムズはその後も存続したが、主に新ホルムズへの物資補給港としての役割を担っただけだったようだ。



ところで私が旧ホルムズに行く理由なのですが、それはマルコ・ポーロ一行の中国への行程決定に大きな影響を与えた町だったからです。

当初、ポーロ一行はホルムズから中国に向けて出航する予定でした。
その方が陸路よりも早く、楽に中国に到達できると思われたからです。

しかし、事はそううまくは運びませんでした。

港に行った彼らは、とても長期の航海には耐えられそうもない、貧弱な船を目の当たりにしました。

「彼らの船はとても造りが粗末で、難破するものが少なくない。
その理由は、造船に際して鉄釘で組み合わせもせず、もっぱらインドクルミの皮で製した糸で縫い合わすだけだからである。

彼らはインドクルミの皮を水に浸し、それがウマのたてがみ状になると、これをより合わせて糸を作り、この糸を用いて船を縫い合わす。
この糸は海の塩分にあっても腐らないから、十分に堅牢で長持ちするわけである。
彼らの船は舵1つの一本マスト、一枚帆で、甲板はない。
これらの船は積荷を終わると、荷の上に皮革を覆い、その上にインド向け売り込みの馬匹を載せる。

この地方には釘の材料となる鉄がないから、やむなく木釘を使用したり糸で縫い合わせたりする方法をとるのだが、しかしこのために、かかる船で航海する場合、少なからぬ危険が伴うわけなのである。

インド海ではしばしば暴風に見舞われるものだから、この種の船がそれに遭って難破した例は実際のところすこぶる数多いものがあったのである。」(東方見聞録)

一行は仕方なく、陸路で中国に向わざるを得なくなりました。
そしてもと来たケルマンに戻って行きました。
彼らにとって、この事は非常に大きな出来事、残念な出来事だったはずです。
もちろん、東方見聞録の内容にも大きな影響を与えました。


参考・引用文献:

書名 :完訳東方見聞録 1
シリーズ :平凡社ライブラリー 326
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

書名 :完訳東方見聞録 2
シリーズ :平凡社ライブラリー 327
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

書名 :大旅行記 3
シリーズ :東洋文庫 630
著者名 :イブン・バットゥータ/〔著〕 , イブン・ジュザイイ/編 , 家島彦一/訳注
出版者 :平凡社

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イラン旅行・ミナブのホテルで昼食

バンダル・アッバスからミナブに向かう途中。

Fi2602218_1e 「この地方ではオオムギ、コムギそのほかの穀物でも、十一月に蒔いて早くも三月にはどこでも刈入れをする。
ほかのいっさいの農作物も同様であって、三月になれば皆完全に熟するのである。
だからこの時節を過ぎれば、五月まで緑のままのナツメヤシは別として、地上に何一つとして青葉は見られない。
これは全く、いっさいのものを干上がらせてしまう猛暑のせいなのである。」
(東方見聞録)

一応、植林されたナツメヤシ以外にも緑はあるようである。
もちろん農作物は見当たらなかった。

ここでガイドのBさんから残念なお知らせがあった。
運転手のDさんによると、今回の観光予定に入っているファーヤーブとゴラシュケードは麻薬シンジケートの通り道になっており、あまり立ち入りたくない場所だそうである。
確かに警察の検問が設けられている。
とりあえずこの件は、後で相談という事にした。

ミナブに着いた。
昼食のため、ホテルの前で車を降りる。
Fi2602218_2e
酷暑が容赦なく襲い掛かる。
すぐにホテルの中に入った。
(このあたり? 27 09' 52.06"N 57 04' 15.48"E )

ホテルの中は薄暗く、ひっそりとしていた。
魚を鉄板焼で頼んで、席に着く。

ファンタオレンジを飲んでいると、ナンと、サラダ、香草が運ばれて来た。
Fi2602218_3e
ナンは薄く焼いたラヴァーシュという種類のもの。
サラダは普通にトマトとキャベツが入ったものだった。

香草はナンに挟んで食べるようだが、クレソンのようにかなりクセのある味で、少し食べたがお腹の調子が悪くなりそうだったので、食べるのをやめた。
ただカブのような根っこが付いていて、これはあっさりしていて美味しかった。

Fi2602218_4e タマネギが来た。
Bさんはこれが大好物とみえて、さっそくかじりついていた。

「住民はわれわれのような食物を常食としない。
それというのも、コムギのパンや肉類を常食しようものなら、すぐ病気にかかるものだから、健康を保つ為にそれらを避けて、ナツメヤシの実とマグロの塩漬けとそしてタマネギとをもっぱら摂っており、かかる食事が彼らの健康に適合しているありさまである。」
(東方見聞録)

タマネギはイラン全土で一般的に丸かじりされているようだ。
パンはもちろん、肉類もメニューに含まれていた。

Fi2602218_5e 注文した魚料理が来た。
魚はマグロだろうか、ペルシャ湾で取れたもののようだ。
マスタードを塗って鉄板で焼いた物。

失礼な事を承知で言うと、辺境の小都市の料理の味に、ほとんど期待していなかった。
しかし、この魚料理は美味しかった。
フライドポテトも普通の味。
サフランがかかった長粒米もあっさりしていて美味しい。
ライムがついてきたが、これはこの地方の特産だそうである。

食事の後、Bさんが食料品店から棒アイスを買ってきた。
灼熱の車内で食べた。


参考・引用文献:

書名 :完訳東方見聞録 1
シリーズ :平凡社ライブラリー 326
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

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