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2007年6月

イラン旅行・バンダル・アッバス国際空港からミナブへ

テヘランから空路、ペルシャ湾岸のバンダル・アッバスにやってきた。

12:10、空港に着陸。

飛行機から地上に降りる。
暑い。
でも思ったより湿気はないようだ。

空港ビルの中は、冷房が効いていて天国だ 27 12' 36.64"N 56 22' 07.60"E 。

しかしすぐにビルを出て、Bさんと駐車場で専用車と運転手を探す 27 12' 37.47"N 56 22' 05.29"E 。
なかなか見つからない。
暑さで体力が消耗していく。
たちまち喉がカラカラになった。

バンダル・アッバスの5月の最高気温は36度以上にもなる。
東京の年間最高気温は31度くらい。
感覚的には、東京の真夏をさらにきつくした感じ。
軽めのサウナに入っている感じだ。
恐らく40度は越えているだろう。
真夏は50度後半にもなるそうだ。

東方見聞録には、
「ここはなにしろ太陽が灼熱しきっているのだから、たまらなく暑く、それに至って不健康地である。
外国商人が不幸にもここで客死するようなことがあれば、その貨財いっさいは没収されて(ホルムズ)王の所有に帰する習わしである。」
と書かれている。

この記述通りの暑さを体感できた。

夏の最高気温は38.4度、最低気温は30.3度に達する。
「夏期の間にはこの平原を取り巻く砂漠の方向から、とうてい普通の手段では耐え切れないような熱風が何回となく吹きつけてくるから、(中略)首まで水につかって死ぬほどの暑気から身を守るのである。」

「コルモス(ホルムズ)王が貢物を怠ったので、ケルマン王は騎兵千六百・歩兵五千を仕立て、レオバール地方を横断してコルモス王を急襲せしめようとした。
時まさにコルモス市民が城外田園地帯に暑を避ける時節に当っていた。
しかるに一日、この派遣部隊は道案内に誤られて予定の宿泊地に達する事ができず、やむなくコルモスに近い林中を選んで一夜を明かした。
翌朝になって、さて進発しようとしたその際、はからずもおりからくだんの熱風に襲われることとなり、全員すべてが窒息死し、ためにその報告をケルマン王のもとに致すべき者すら残存しなかった。
これを聞き知ったコルモスの住民は、そのまま放置しておけば空気が汚染する恐れがあるので、死体を埋めようと現場に急行した。
ところがこれら死体たるや、激しい高熱で焼けていたため、腕をとって坑に放り込もうとするとその腕が胴から抜け落ちるという始末なので、ついにいちいちの死体のかたわらに穴を掘って埋めなければならなかったのである。」
(以上「東方見聞録」)

「シリア暦の6月と7月の二ヶ月間にわたって、毒風が吹き荒れる。
たまたまその毒風に遭った人はすべて殺されてしまう。
実際に私が聞いた話によると、ある男がその風によって殺され、彼の仲間たちが彼の遺体を洗い清めようとしたが、その遺体の手足はばらばらになってしまったという。
従って、そこにはこの風によって死んだ人たちのための墓地が数多くある。」
(14世紀のモロッコの旅行家、イブン・バットゥータの「大旅行記」より)

以上のように、真夏の暑さは並大抵ではない。

Bさんから少し待っていてくれと言われ、空港ビルの建物の日陰に避難して一息ついた。

携帯電話にて運転手のDさんを見つけ、早速車に乗り込む。
どれくらい車を置いていたのか、車内は灼熱地獄である。だが、ほどなくクーラーが効いてなま暖かい平温に戻った。クーラーも頑張っているようだったが、決して涼しくはならなかった。

12:23、空港を出発。画像は空港ビル(撮影地 27 12' 41.38"N 56 22' 01.47"E )。
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バンダル・アッバスの空港から100キロ東にあるミナブに向う。
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道が良いので1時間程で着くとの事。

この暑さなのに、道路沿いに露店が建ち並んでいた。
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皆、イスラムの戒律を守って長ズボン、ワイシャツ着用である。
短パン、半ズボン、Tシャツ姿は厳禁。
外国人の私も例外ではない。

「エジプトのシルク」と呼ばれる植物。
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春には色とりどりの花が咲くという。
ちなみに5月はもう夏である。

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「・・・コルモス(ホルムズ)平野というみごとな平地が開け、東西南北に向って二日行程の範囲で広がっている。
ナツメヤシをはじめ各種の果実が豊かに実り河川がそこを流れ、シャコだとかオウムそのほかの禽鳥が繁殖しているが、どれもわれわれの国のものとは種類を異にしたものばかりである。」(東方見聞録)

この季節、河川にはほとんど水の流れはなかった。
バンダル・アッバスからミナブへの途中まで、大きな水のパイプラインが地下に埋設され、所々地上に現れていた。


参考・引用文献:

書名 :完訳東方見聞録 1
シリーズ :平凡社ライブラリー 326
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

書名 :大旅行記 3
シリーズ :東洋文庫 630
著者名 :イブン・バットゥータ/〔著〕 , イブン・ジュザイイ/編 , 家島彦一/訳注
出版者 :平凡社

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イラン旅行・バンダル・アッバスまでの空の旅

テヘランからバンダル・アッバスに行く途中。

水域が見えた。
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ペルシャ湾だろうか?
人工の島みたいなものも見えた。

たぶんペルシャ湾岸に沿って東に移動しているのだろう。
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細長い高地の合間に、川や町が見える。

複式火山だろうか?大きな山塊が見えた。
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ただただ赤茶けた大地が広がる。

バンダル・アッバスから、北のシルジャンsirjanに向う道路と思われる。
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もうすぐバンダル・アッバスだ。

バンダル・アッバス空港 27 12' 58.90"N 56 22' 45.30"E 。
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何度も夢見てきたホルモズガン州。
今ようやく間近に迫った。


【イランの歴史について・その3】

3. 近代・現代
19世紀になると、イランは西洋列強のグレートゲームに翻弄され、ついには半植民地化する。
これに反発して立憲国家樹立への闘争が始まる。
この過程でイラン・ナショナリズムを形成する4つの立場が現われ、近現代のイランの政治を形作った。
a.西欧流の民主主義確立により、自立と独立を目指す。
b.イスラム以前の古代イランの伝統を重視する。
c.マルクス主義の影響の元、列強の植民地支配からの独立を最優先にする。
d.イスラム教こそがイラン国民を団結させる。

① ザンド朝とアフシャール朝を滅ぼしたのがガージャール朝で、テヘランを都とした。
強力な軍隊と官僚機構を持たず、地方の有力者に対する統治は名目的なものだった。

② 19世紀に入ると、フランスとロシアの南下政策と、イランをインド防衛の最前線とみなすイギリスの間で、ガージャール朝は翻弄された。
列強からの政治的独立を保つ為の努力が続けられたが、次第に利権を奪われ半植民地化していった。

③ 20世紀になると、列強の干渉とガージャール朝の専制政治への反対運動が生まれ、立憲国家を目指す動きになった。
憲法制定と国民議会の設立に成功し、派閥政争の混乱の中でも改革への取り組みが行われたが、利権喪失を恐れたロシア軍の進駐により失敗した。

④ 列強の占領と政情不安により、イラン全土は無政府状態になった。
強力な中央政府を望む声が高まり、イギリスの支援によるクーデター成功の後、パフラヴィー朝が成立した。
国軍と官僚機構の強化により中央集権化を進め、古代イラン礼賛ナショナリズムに基づき、司法の反イスラム化、西洋化を行った。

⑤ パフラヴィー朝の中央偏重政策は地方の不満を呼び、国内の政局は不安定化した。
農地の分配・汚職の追放による改革は、見せ掛けで終った。
権力強化の為、拡大した軍と官僚機構による抑圧が進められた。
一方、欧米の干渉により石油の完全国有化に失敗したものの、莫大な石油収入は急激な経済発展を生んだ。
その裏で貧富の差の拡大が深刻になった。

⑥ 経済格差と抑圧に対する不満が高まる中、抑圧された宗教界の憤懣をきっかけに始まったデモが全土に拡大し、その圧倒的な人数の前にパフラヴィー朝は崩壊した。
イスラム臨時革命政府が樹立され、後にイスラム法学者が統治するイスラム共和国が樹立された。
国内政策においては急速なイスラム化を進め、外交においては米ソに属さない独自路線で孤立を招いた。
80年代後半以降、急進的な革命路線から言論の自由と国際協調を重視する路線に移り始めたものの、改革派を締め上げるイスラム法学者を中心とした保守派、という図式は現在も変わっていないように見える。


参考・引用文献:

書名 :西アジア史 2(イラン・トルコ)
シリーズ :新版世界各国史 9
著者名 :永田雄三/編
出版者 :山川出版社

バンダル・アッバース[イラン]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/iran/bandar_addas/

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イラン旅行・テヘラン(メフラーバード空港~カシャーン上空)

バンダル・アッバスに行く途中。

Fi2602215_1e 奥に見えるのが搭乗ロビーの入口。
初めて落ち着いてイランの人たちを見た。
女性が黒いチャードルを被っている事を除けば、特に日本と変わった所はない。
しかし、少しずつイランに来たんだという興奮を感じ始めた。

Fi2602215_2e 店の看板に踊るにょろにょろしたペルシャ文字も、独特の雰囲気を醸し出している。





9:00、荷物チェックを終えて搭乗ロビーに入った。
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ロビーの両端には店が建ち並び、車が展示されている。

店の中に本屋があった。
地図はないかと探したら、5種類ほどあった。
4種類はペルシャ語で、図が不正確のような気がしたが、町の名前が細かく書き込まれていた。
英語の地図が1つあったが、私が持っている地図より詳細なのかどうかわからなかった。
結局買わなかったが、記念に買っておいてもよかった。

画像は、飛行機まで移動するバスの発着場 35 41' 14.89"N 51 19' 58.84"E 。

Fi2602215_4e バンダル・アッバス行きの飛行機。搭乗直前。
10:10に離陸。




上空から。
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左端に見えるのはカシャーンの町 33 59' 02.36"N 51 26' 11.29"E 。
この町はポーロ一行が通った可能性がある。

彼方に塩湖が見えた。
後は延々と茶色い土漠が続く。

「この地の商人たちにとっては、ある地方からほかの地方に旅行する場合、必ず広い砂漠を一つや二つは横断せねばならない。
この砂漠たるや、乾燥しきった砂礫地帯で、草はもちろんそのほかウマに秣すべきものは何も見つからない上に、清水を湧出する井戸も泉もはるかな距離を隔ててしか点在しない。」
という東方見聞録の記述を彷彿とさせる光景だ。


【イランの歴史について・その2】

2. イスラム化とトルコ、モンゴルの支配
イランは7世紀にアラブ・イスラム帝国に征服された後、次第にイスラム教化した。
11世紀、イスラム化した中央アジアのトルコ系遊牧集団が、高度な文明を持つイスラム世界に移動し始め、その後モンゴル人が侵入した。
圧倒的な武力を持つトルコ系、モンゴル系民族はイランの政治、軍事を掌握したが、行政はアケメネス朝以来のイラン系の官僚、役人が担っていた。

① 7世紀、アラブ・イスラム帝国がサーサーン朝を滅ぼし、ウマイヤ朝、アッバース朝のカリフ(イスラム教における神の使いの代理人、政治的最高権力者)がイランを支配下に置いた。
しかしイスラム教化は進まなかった。
公用語としてアラビア語が使われた。

② 9世紀以降、アッバース朝の権威が衰えると、イランで独立王朝が次々と生まれた。
ターヒル朝(イラン系)、サーマーン朝(イラン系)、サッファール朝(イラン系)、ブワイフ朝(ダイラム人)、ガズナ朝(トルコ系)。
経済の発展とともに、イスラムへの改宗が進んだ。

③ 11世紀、イランに移動して来たトルコ人遊牧集団を取締る事を期待され、トルコ系のセルジューク家が支配者として迎えられる。
最盛期には地中海岸から中央アジアを支配したが、後継争いから分裂する。
ペルシャ語が再び公用語になる。

④ 12世紀、イラン北東部のホラズムシャー(トルコ系)がセルジューク朝を滅ぼし、イランと中央アジアを支配する。

⑤ 13世紀、チンギス・ハンのモンゴル軍がホラズムシャー朝を滅ぼし、イランを支配下に置く。
後にモンゴル人はイランにイルハン国を建国、14世紀にはイスラムに改宗した。
しかし内紛によりチンギス・ハンの血統は絶えた。

⑥ イルハン家が絶えると各地に政権が誕生した。
イルハン朝の後継国家ジャライル朝(モンゴル系)、ムザッファル朝(イラン系)、地域勢力サルバダール。

⑦ ティムール(モンゴル系)が上記諸政権を滅ぼし、西アジア全域を支配する。
死後後継争いが起こり、西側をカラコユンル朝(トルコ系)次いでアクコユンル朝(トルコ系)に奪われた。
16世紀、シャイバーニー朝(ウズベク人)に滅ぼされたが、その子孫はインドでムガール朝を建国した。

⑧ シーア派サファヴィー教団の教主イスマーイール1世が、信徒であるトルコ系遊牧民の軍事力によって、内紛で弱体化したアクコユンル朝を滅ぼし、更に領土を拡大した。
死後、混乱が続いたが、アッバース1世は軍事・統治体制の改革によって領土を拡大し、最盛期を築いた。
また、この時代にシーア派十二イマーム派がイランに定着した。
経済的にも繁栄したが、無能な王が続くと徐々に衰退し、18世紀には各地で反乱が起きた。

⑨ サファヴィー朝は領土の東をアフガン人、西をオスマン朝に奪われた。
結局サファヴィー朝の宰相が滅ぼしてアフシャール朝(トルコ系)を建て、領域を拡大した。
その死後は地方勢力が抗争を繰り返した。

⑩ ザンド朝(イラン、クルド系)が統一に成功するが、十数年後には後継者争いが始まった。


参考・引用文献:

書名 :西アジア史 2(イラン・トルコ)
シリーズ :新版世界各国史 9
著者名 :永田雄三/編
出版者 :山川出版社

書名 :完訳東方見聞録 1
シリーズ :平凡社ライブラリー 326
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

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イラン旅行・テヘラン(エンゲラブホテル~アーザーディー・タワー~メフラーバード空港)

Fi2602214_1e 通勤時間が始まったテヘランの朝の風景を眺めた。
聞いていた通り、空気は排ガスで汚い。
朝が慌しいのは日本と変わらないようだ。

8:00、現地ガイドのBさんとホテルのロビーで落ち合う。
早速専用車にて空港に向う。
今日はペルシャ湾岸のバンダル・アッバスに行き、そこからミナブ、旧ホルムズ、ファーヤーブ、ゴラシュケード、ゲノ温泉を巡る予定である。

ホテルでドルからリアルに換金できなかったので、Bさんの手持ちのリアルと交換してもらった。
途中、近くの食料品店でミネラルウォーターを買う。2500リアル。

Fi2602214_2e エンゲラブ通りに出て、更にアーザーディー通りを西に向かう。
アーザーディー・タワーの側を通った 35 41' 58.93"N 51 20' 15.62"E 。
ペルシャ建国2500年を記念して建てられた塔。
高さ45メートル。
下部はペルシャの建築様式を真似ているとの事。
中には歴史博物館があるが、現在閉鎖中で、下に降りる階段の入口は入れないようになっていた。

Fi2602214_3e すぐにメフラーバード空港に着いた 35 41' 16.14"N 51 19' 58.15"E 。

空港の建物に入ると、Bさんはチェックインの手続きに入った。

Fi2602214_4e 8:50頃搭乗ロビーに入る事にして、それまで暇なので空港の待合室を見て回る事にした。
ここはチェックインカウンター。



おもちゃが一杯の屋台。
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待合室の中は全体的に少し雑然とした雰囲気があり、親しみやすい感じだ。


【イランの歴史について・その1】

イランの歴史を調べてみました。
民族や言語の多様性からわかるように、イランでは様々な民族が移動・定住してきました。

1. 有史以前・古代オリエント時代
イランでは紀元前七千年には農耕社会が存在していた。
古代オリエント時代には、イランは長い間メソポタミア文明の辺境だった。
しかし、イラン南西部のアケメネス朝ペルシアが古代オリエント世界全域を初めて統一する事に成功した。
その後継者であるサーサーン朝ペルシアと共に高度なイラン文明を作り上げた。

① 紀元前七千年にはガンジュ・ダッレで排水溝を備えた集落が存在していた。

② 紀元前四千年以降、エラム人は徐々にイラン高原南西部を代表する政治勢力に発展したが、アッシリアに滅ぼされた。

③ 紀元前二千年以降、中央アジアの遊牧民でインド・ヨーロッパ語系のアーリア人と呼ばれる集団が、オリエント世界に移動して来て、馬と鉄器をもたらした。
非アーリア人は次第にアーリア人に同化していった。
アーリア人は現在のイラン人、インド人の大部分を占めている。

④ アッシリア滅亡後、イラン高原西部を支配したのがメディア人(アーリア系=イラン系)で、次第に南西部と東部に勢力が拡大した。

⑤ メディアを倒したのがイラン南西部のアケメネス家率いるペルシア人(イラン系)で、騎馬弓兵と寛容な政策をもって紀元前6世紀には古代オリエント世界を統一した。
ギリシア、エジプトからイラン、中央アジアにまたがる大帝国が成立した。

⑥ 紀元前4世紀、マケドニアのアレキサンダー大王がアケメネス朝を滅ぼし、死後は後継国家セレウコス朝が支配。
彼らはアケメネス朝の統治政策を踏襲した。

⑦ 紀元前3世紀、イラン高原北東部のパルティア人(イラン系)がセレウコス朝から独立した。
彼らはアケメネス朝の統治政策を踏襲した。
イラン高原に進出したローマ帝国とたびたび争った。

⑧ 3世紀、イラン南西部のペルシア人(イラン系)がパルティアを倒してサーサーン朝が成立した。
ローマ帝国をたびたび破り、7世紀にはアナトリア、エジプトから中央アジアにまたがる領土を獲得した。


参考・引用文献:
書名 :地球の歩き方 E 06(2007~2008年版) イラン
著者名 :地球の歩き方編集室/著作編集
出版者 :ダイヤモンド・ビッグ社

書名 :西アジア史 2(イラン・トルコ)
シリーズ :新版世界各国史 9
著者名 :永田雄三/編
出版者 :山川出版社

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イラン旅行・テヘラン(エンゲラブホテル)

旅行三日目。

夜明けと共に、鳥のさえずりと鶏の鳴き声が聞こえてきた。
日本で聞く朝の音とまったく変わらない。
目をつぶると、日本にいるような錯覚さえ覚えた。
それで少し安心した。

5:40、起床。
部屋にはベランダがあって、そこから外を眺めてみた。
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ごく普通の都会の風景だ。
他の都市と違うのは、冠雪したアルボルズ山脈が連なっているのが見えることだ。
北アルプスが間近に見える松本市を思い出した。

シャワーを浴びる。
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カーテンが何故か竹の絵になっている。

7:00、今日はホルモズガン州に行くので、必要な荷物だけまとめてザックに入れる。
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残りはスーツケースの中へ。
荷物整理完了。

7:30、部屋にいても仕方が無いので、1階のロビーに下りる。
ホテルの外に出て、初めてホテルの外観を見た。
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結構大きなホテルだった 35 42' 25.66"N 51 24' 30.20"E 。

隣のビルの壁面いっぱいに壁画。
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テヘラン市内にはこのような大きな壁画がたくさんある。
ホメイニ師やハメネイ師の顔の絵も。


ここでイランの概要について簡単に書いておきます。

正式国名:「イラン・イスラム共和国」
面積:日本の4.5倍
人口:6600万(2006年)
首都:テヘラン
元首:マフムード・アフマディーネジャード大統領

地形:
イラン北部に東西に伸びるアルボルズ山脈、イラン北西部から南東部にかけて斜めにザクロス山脈が伸びる。
二つの山脈の間、イラン東部にキャビール、ルートの大砂漠がある。
ザクロス山脈の東側はイラン高原と呼ばれる高地になっている。

気候:
山脈に遮断されたイラン内陸部は、ペルシャ湾やカスピ海から来る湿った空気が遮断され、降雨が少ない。夏は高温になる。
ザクロス山脈の南のペルシャ湾岸は高温多湿。
アルボルズ山脈の北のカスピ海岸は降雨量が多く豊かな農業地帯になっている。

民族:
ペルシア人(50%)、アゼルバイジャン人(17~25%)、クルド人、ロル人、アラブ人、バルーチ人、ガシュガーイー人、シャーサヴァン人、トルクメン人など。

宗教:
大部分はイスラム教シーア派、他にイスラム教スンナ派、キリスト教(アルメニア教会、アッシリア教会、カトリック、プロテスタント)、ユダヤ教、ゾロアスター教など。

言語:
公用語はペルシア語だが、他にクルド語、ギーラーン語、アーザリー語、トルクメン語、ガシュガーイー語、アラビア語、アッシリア語、アルメニア語がある。

休日:金曜日
通貨:イラン・リアル。
2007年5/18現在では1ドル=9255リアル=121円。1円=76.4リアル。

治安状況:
2007年5/19現在、以下の地域を除いて危険情報は出ていない。
イラク及びアフガニスタンとの国境付近:「渡航の延期をお勧めします。」、
シスターン・バルチスタン州及びケルマン州:「渡航の是非を検討してください。」、
フーゼスタン州:「十分注意してください。」

参考・引用文献:
書名 :地球の歩き方 E 06(2007~2008年版) イラン
著者名 :地球の歩き方編集室/著作編集
出版者 :ダイヤモンド・ビッグ社

書名 :西アジア史 2(イラン・トルコ)
シリーズ :新版世界各国史 9
著者名 :永田雄三/編
出版者 :山川出版社

外務省海外安全ホームページ

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イラン旅行・二日目(北京~テヘラン)

20:XX、北京を離陸。
二度目の食事。チキンの照り焼き。
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魚ほどではなかったが、これもおいしかった。

3:40(イラン時間22:10。日本との時差は-5時間30分。サマータイムは-4時間30分になるが適用されてない?)、ようやくテヘランに着いた。
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本当に長かった。そして疲れた。35 41' 23.01"N 51 18' 52.00"E
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連絡バスに乗り込んで、空港ビルへ。
頭が朦朧としている。
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入国審査を終え、現地ガイドのBさんに会う。
挨拶もそこそこに早速表で待っている専用車に乗り込む。
ここで共に愚痴を言い合ったAさんとお別れ。
二日後にここで無事に落ち合う事を誓い合う。
35 41' 30.06"N 51 19' 19.68"E

車はホテルに向う。
Bさんは途中で下車して自宅に帰った。
後は運転手のCさんがホテルまで案内した。

テヘラン市内の道は思ったよりも悪いようで、衝撃が疲れた体に響いてつらい。
頭痛もしてきた。
とにかく早くホテルの部屋で寝たかった。
しかし、空港からは結構距離があるようで中々着かない。

23:20(これ以降時刻表記はイラン時間)、テヘラン・エンゲラブ・ホテルに着いた。
高級ホテルだ。
35 42' 25.66"N 51 24' 30.20"E

ここでチェックインの手続き。
英語がわからないので手間取ってしまった。

やっと部屋に入った。
案内係に1ドル渡して出て行ってもらうと、とにかく着替えてすぐにベッドに入った。
24:00前。

初めてのイランでの夜、疲れと時差で全く眠れない。
日本はもうすぐ夜明けだ。

実際にイランに来て初めて、ペルシャ語はおろか英語もできない自分がここにいて良いのかと、不安が次から次へと押し寄せてきた。
深呼吸してやりすごす。

空気が乾燥しているので、のどあめを舐め続けた。
一瞬寝た記憶はあるが、全くと言っていいほど眠れなかった。

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イラン旅行・二日目(成田~北京)

旅行二日目。

8:00頃ホテルのフロントに行くが、まだ航空会社からの連絡はないとの返事。

9:00前に旅行会社に電話で質問する。
以下の事がわかった。
成田出発前にキャンセルした場合、旅費は全額戻るとの事(ビザ代除く)。
もし今日のテヘラン夜発バンダル・アッバス行きの便に間に合った場合、三日目の観光スケジュールは予定通り行ってくれるとの事。
三日目の午前に、テヘラン発バンダル・アッバス行きの便があるという事。
帰国日を一日遅らせるような調整は不可能との事。

9:00になったが航空会社からの連絡はない。
これで11:00出発の可能性はなくなった。最悪のケースだ。

しばらく後に旅行会社から電話があった。
現地ガイドが、三日目の昼にバンダル・アッバスに到着したとしても、当初予定の観光地を全て大急ぎで回る、と言っていたとの事。
久しぶりに明るい話だ。

ただし問題は、三日目の午前のバンダル・アッバス行きの予約が取れるかどうかという事。
日本からは空席照会ができないので、取れそうかどうかすら確認できない。
旅行会社は、予約が取れるかどうかの確約はできないとの事。
現地の結果を待つしかないという。
また現地での手続きは、成田の出発時間が決まらないと行えないとの事。

10:30、やっと航空会社から連絡があり、出発は14:00台になりそうだという。
まる一日遅れだ。

11:30、12:15にホテルを出て空港に向う事が決まった。

ここで旅行をキャンセルするかどうかの最後の決断を迫られる。
現地ガイドに三日目の午前のバンダル・アッバス行きの予約を取ってもらうが、結果がわかるのはテヘラン到着時になる。
つまり、テヘランに到着した時に、「残念ながら(今回の主目的である)ホルモズガンの観光はできません」と言われる可能性があるという事。
これだけの労力と時間と金をかけて、テヘラン周辺の観光しかできないという事だ。

正直言うとホルモズガンに行けないのなら旅行をキャンセルしたい。
旅行会社の言う所によると、確約はできないが経験上大丈夫でしょうとの事。
この言葉を信じて、遂にイランに向う事を決意した。

12:15、ホテル出発。
空港着後、昨日と同様チェックイン~荷物チェック~入国審査。
デジャヴュを見ているようで妙な気分だ。

14:00、飛行機に搭乗開始。
長かった~!!!
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乗り込んだのはわずか26名程。
離陸前には、修理したての飛行機で大丈夫か?と不安がよぎる。
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離陸後、最初の食事。
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魚料理はまあまあおいしかった。
イラン国内はもとよりイラン航空機内でも、イスラムの規定によりアルコールは飲めない。
コーラかスプライトになる。

18:15、北京着。
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黄砂で地上が霞んで見える。
5年前に訪れた時よりもひどくなっているように思える。

この時、三日目の午前のバンダル・アッバス行きの予約が取れたとの連絡が入った。
とりあえず良かった~!

北京からは大勢のイラン人が乗り込み、満席になってしまった。

20:XX、北京を離陸。

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イラン旅行・一日目

旅行開始初日。

9:30前に自宅を出発、成田に向った。

今回の旅行は訪問地がマイナーなのと、一部自分でさえ場所が良くわからない地点があり、パッケージツアーのように全てお任せで楽チンという訳にはいかない。
かなり疲れる旅になる事は覚悟の上である。
それでも5日間という短い期間なので、耐えられるだろうと思った。

念の為、体調不良に備えておかゆや各種薬品、マラリヤ対策に虫除け、蚊取り線香まで持っていった。

12時前に成田空港に着いた。
カウンターでチェックインを済ませてそのまま出国審査、搭乗ロビーへと向う。
昼食後はのんびり14:15頃の搭乗時間を待った。

Fi2602210_1e 乗る飛行機はイラン航空。イランの航空機といえば、マシュハド~バンダル・アッバスの国内線の墜落事故が思い出される。アメリカの経済制裁の影響による老朽化が原因と言う事だったが・・・。

14:30になったが、搭乗の案内がない。
更に30分、一時間と時間が過ぎて行く。
この飛行機は北京経由なのだが、北京行きの客は別便に振り替えられて別の搭乗口に行ってしまった。
ここにきて、どうやら事態は尋常ならざるものだということを感じ始めた。

Fi2602210_2e 16:30、飛行機のパーツが足りず、飛行不能である事がわかった。
もしかしたら今日は飛べないかもしれないとの事。
2000円の食事券を渡されてこの場は解散。
18:30に状況説明があるとの事だった。

このままでは、僅か5日間のツアーが滅茶苦茶になってしまう。
とりあえず旅行会社に状況を伝えた。

この先どうなる事かとレストランで食事しようとした所、同じ旅行会社でイランに行くというAさんに声を掛けられた。
お陰で多少は不安が和らいだ。

食事の後、ケース毎に対策を考えた。
まず、今日中に成田を出発できるケース。
テヘランへは二日目の朝までに到着するので、観光への影響はない。最善のケース。

二日目の朝7:00頃までに出発できるケース。
成田~テヘランの飛行時間は、時差込みで7時間半なので、二日目の夕方のバンダル・アッバス行きの便には間に合う。
サヴェとテヘランの観光は四日目にまわせば良いから、これも観光への影響はない。

二日目の朝11:00までに出発できるケース。
二日目の夕方のバンダル・アッバス行きの便は間に合わないが、夜のバンダル・アッバス行きの便には間に合う。
サヴェとテヘランの観光は四日目にまわせば良いから、これも観光への影響はない。
ただし、夜のバンダル・アッバス行きの便の予約が取れない可能性がある。

二日目の夜のバンダル・アッバス行きの便の予約が取れない、あるいは二日目の11:00までに出発できなければ、ホルモズガンの観光は大幅短縮になる。
観光内容によっては、今回の旅行をキャンセルしなければならない。

旅行会社には、三日目のホルモズガンの観光に影響がなければこのまま催行し、影響が出ればキャンセルするという考えを伝えた。

18:30、再度集合。
しかし航空会社もトラブル解消の具体的な見通しが立たず、20:30に再度アナウンスするとの事。

見通しが立たないと現地との調整もできない。
日本は休みなので、イラン国内線の座席予約変更は現地でしか行えない。
早く現地に指示を出さなければいけないのだが、それができない。
とりあえず旅行会社に状況を伝える。

20:30、再度集合。
やはりまだ見通しが立たない。
今晩は近くのホテルを用意するので、明日改めてアナウンスするとの事。
今日中の出発の可能性はなくなった。
旅行会社に連絡する。なるべく当初の観光予定をこなせるよう努力するとの返事。

Fi2602210_3e Aさんとホテルの最上階で食事。
成田空港を発着する飛行機が良く見える。
今ごろはとっくに出発しているはず、と思うと残念でならない。
成田の一泊旅行で終らない事を祈るばかりだ。

夜、寝る前に、明日旅行会社にする質問内容をまとめておく。
明日が正念場だ。

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イラン旅行・目的について

Fi2602209_1e 2007年5月某日、1人参加ツアーにてイランに行って来ました。
当初予定のコースは以下の通りですが、行けなかった場所もあります。

1日目:14:55成田発、夜テヘラン着。
2日目:午前中にテヘランからホルモズガーン州のバンダル・アッバースへ。
バンダル・アッバース~ミーナーブ~旧ホルムズ~バンダル・アッバース。
3日目:バンダル・アッバース~ファーヤーブ~ゴラシュケード~ゲノ~バンダル・アッバース。
夜、バンダル・アッバースからテヘランへ。
4日目:テヘランから近郊のサヴェを往復、その後テヘラン市内観光。
夕方に成田に向け出発。
5日目;昼、成田着。

※前回と同様、車窓からの撮影が多いです。見苦しい点はご容赦ください。

今までと同様、マルコ・ポーロゆかりの場所を訪ねるのが目的です。
1271年冬にパレスチナのアークル(現アッコー)を出航したポーロ一行は、ライナス港(現ヤヌス)に上陸してアナトリア半島東部を東進しました。

その後の道筋は研究者により諸説あります。

① イギリスのサー・ヘンリー・ユールは、一行はイラクに入り、バスラ港からペルシャ湾に出てホルムズ港に上陸し、ジーロフト~ケルマン~クボナン~タバス~サブズヴァール~ネイシャーブール~マシュハドを通ってタジキスタン、アフガニスタンに向ったとしています。

② イギリスのペルシア領事、パーシー・サイクスは、一行はアララト山の麓を抜けて、タブリズ~サヴェ~ヤズド~ケルマン~ジーロフト~ホルムズ~ゲノ~ケルマンを辿り、以降は①と同じルートを進んだ、としているようです。
ちなみにこのサイクスは、パレスチナ問題を複雑化させたイギリスの三枚舌外交のひとつ、サイクス・ピコ条約を結んだ人です。

③ 日本の長澤和俊氏は、タブリズ~テヘラン~コム~イスファハン~ヤズド(以降②と同じ)を通ったと著作の中で述べています。

マルコ・ポーロが実際に旅したかどうかも定かではないので、どの説が正しい、とは決められないのですが、私は「東方見聞録」の話の流れから見て②を支持します。
ブログトップページの「マルコ・ポーロの行程図」をご覧になるとおおよそのルートがわかると思います。

「東方見聞録」にはイランに関わるエピソードがいくつかあるのですが、中でも二つのエピソードに注目しました。

ひとつは、ケルマンからホルムズに向う途中にカラウナスという山賊集団に襲われ、命からがら逃げ延びた、というものです。
恐らく中国への行程中もっとも危険な事件なのではなかったかと思われます。

もうひとつは、ホルムズ港に到着した一行が停泊する船があまりに貧弱なのを見て、海路で中国に行くのをあきらめ、中央アジアを経て中国に向うよう方向転換したことです。
その結果、「東方見聞録」には中国シルクロードの記述が豊富に盛り込まれる事になりました。

今回の訪問先は、カラウナスに襲われた場所になるべく近づく事、旧ホルムズに行く事を考慮して決めました。
また、生誕直後のキリストを礼拝した東方の三博士のエピソードが「東方見聞録」に残る、サヴェという町も訪問しました。



今回の訪問先は通常の旅行ツアーには含まれていない為、行きたい場所を旅行会社に伝えてプランを作成してもらう「受注型企画旅行契約」という形式になりました。
一人参加のツアーみたいなものです。

前述の通り、中々催行してくれそうな旅行会社が見つからず、また訪問地の治安状況や詳細な場所がわからないため、調査だけでかなりの時間がかかってしまいました。
加えて訪問地のホルモズガン州は暑さが厳しく、休暇を取りやすい7月~9月に訪問できないという問題もありました。

結局、計画開始からずるずると1年がたってしまい、何度も中止を考えましたが、あきらめずに情報収集、旅行会社への問い合わせを繰り返した結果、催行できる事になりました。

しかし喜んだのも束の間、この苦労は旅行開始直前~直後も続く事になりました・・・。



旅行開始二日前、2日目の午前中のテヘラン~バンダル・アッバスのイラン国内線が運行中止になったので、午後の便に変更したとの連絡を受ける。
ホルモズガン州の観光が二日間から一日に短縮されてしまった。がっかりである。

テヘラン[イラン]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/iran/tehran/

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