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2006年1月

イスラエル旅行・帰国と感想

イスラエル旅行の続きです。

帰りも行きとほぼ同じルートで帰る。ウズベキスタンのタシケントまでは夜なので景色は見えず。

乗り継ぎのため、旅行初日に来たタシケント空港のロビーに入った。初日の記憶が随分と昔の事のように感じられて、ぐっと懐かしさがこみ上げてきた。

Fi2586156_0e タシケントからは中国の北辺を東に向った。画像はその眺め。

Fi2586156_1e 画像中央にひときわ高い山が見える。結局名前はわからなかった。

Fi2586156_2e 再び夜になった。画像は三浦半島付近。

19:55、成田に到着。皆さんにあいさつした後、成田エクスプレスで自宅までの長丁場を過ごす。


今回の旅の感想です。

マルコポーロゆかりの地を訪ねる一連の旅行計画(北京~ヴェネツィア)のうち、イスラエルは最も実現困難と思われていた場所でした。
今思えばあっけなく旅は終ってしまいましたが、とにかく計画の山場を越えてだいぶ肩の荷が降りた感じです。何故か達成感よりも脱力感を感じています。

全体的には、地味な場所だという印象です。
これは、世界史的に政治・文化の中心地になった事がない場所だからかもしれませんし、国防・治安に予算を割かねばならない事情もあるかもしれません。

また、観光場所に教会など宗教関係の場所が多かったので、無宗教の私にとって結構堅苦しかったです。やはり気を使う場所なので。
普段慣れていない宗教的なものに接する事に、抵抗感もありました。

それから、治安が良くなったとは言っても、頭の片隅には自爆テロや外国人誘拐への警戒心があり、慎重に行動せねば、という事で開放感はあまり感じられなかったです。

旧約聖書、新約聖書に関心がある人にとっては、これ以上の場所はないと思います。
全土に数多く散らばる遺跡は、聖書に記述されているものばかりです。
私自身は、映画、演劇、小説、絵画など様々な作品の題材が、いかに聖書から数多く用いられているか、ということを思い知らされました。

また、治安上の理由で中々行けない希少性のある場所に行けた、キリスト教、ユダヤ教最高の聖地を見ることができた、という満足感は大いにありました。
ゲッセマネやゴルゴタでは、今まさにあの現場にいるんだ!という感動に満たされました。



以下は雑感です。

死海沿岸は明るい雰囲気で良かったです。
死海の浮遊体験は開放的な気分に浸れたし、マサダ砦は荒涼としたユダの荒れ野の眺望が実に素晴らしく、世界遺産の名前にふさわしい場所だった。

ホテルや道路網はよく整備されていて、実に快適だった。何度も戦争を行った場所とは思えなかった。

日本のニュースでは、イスラエルというとパレスチナ人のテロとイスラエル軍の報復、ユダヤ人入植者の立ち退きへの抵抗ばかり見ていたが、現地ではそのような不穏な空気は感じられなかった(そのような場所に行かなかっただけですが)。
周りを反目するアラブ諸国に囲まれ、国内ではテロ活動が頻発している国なので、重苦しい雰囲気ではないかと思っていたら、市民は普通に生活していて暗さは感じられなかった。接した人々は皆愛想が良いように感じられた。

しかし入出国時はチェックが厳しく、さすがに勝手が違うと思った。

行く先々で兵士が多いのに驚いた。
軍務ではなく観光地の見学をしているようだった。でも彼らの銃が暴発したらどうしようなどと、私は勝手にひやひやしていた。
このような兵士たちは愛想が良くて屈託がなく一緒に記念撮影したが、検問所で銃を構えて警戒する彼らはやはり怖かった。

ユダヤ人の街とアラブ人の街の雰囲気が全く違うのに驚いた。
ユダヤ人の街は日本と変わらず清潔で静か、アラブ人の街は埃っぽくてどこかさわがしく、中国の街を思い出した。たぶん、貧富の差なのだと思う。


世界史的には中国やイタリアとは別の意味で興味深い場所だった。
パレスチナは今まで政治・文化の中心であった事はないが、たびたび大勢力の衝突の場所になった。その意味では世界史上重要な場所だった。

古代オリエント時代には、エジプト文明とメソポタミア文明の中間地点で両者が争い、古代イスラエル人は翻弄されて離散の憂き目に遭った。たぶん日本は世界の果てにあるお陰で、このような目に遭わずに済んだ。

中世には、キリスト教とイスラム教の聖地だったが故に西欧諸国(十字軍)とイスラム諸国の衝突の場所になった。戦争や離散からの救いを求める気持が、ユダヤ教という強固な宗教を生んだのに、ユダヤ教から派生したキリスト教とイスラム教が新たに戦争と離散を生み出すというどうしようもなさ。

また現代では、ユダヤ人とアラブ人の争いの場になり、冷戦時代には米ソの代理戦争の場になった。


ガリラヤ湖畔のキブツ・ゲノサレのレストランで朝食を摂った時の事。
なぜか宿泊客のほとんどが穏やかな満ち足りた顔をしていて、親切だったという印象を持った。
理由はわからないが、ここがイエスの布教活動の場だったことと関係があるように思えた。
パレスチナを訪れた人の中には、宗教心を呼び覚まされて(あるいはそのパワーに圧倒されて)、何らかの宗教に入信する人もいるのではないか。
少なくとも宗教について考えさせられる場所だ。


聖地であると同時にテロが続くこの場所から帰って来て、共感した言葉のひとつ。

「現代のテロリズムの教訓は、神が存在すれば、神の代理として直接行動を主張する者には、何千もの罪なき部外者を爆破することも含めすべてが許される、ということだ。なぜなら神と直接結合することで、人間ごときの抑制や考察を踏みにじることが正当化されるのだ。」(朝日新聞の記事よりスラヴォイ・ジジェクという哲学者の言葉)。

神(宗教)は世俗の権力や科学などあらゆるものを超越しているが故に、人間に大きな救いをもたらすが、見境のない破壊ももたらす。
宗教が、不満の捌け口としてのテロを正当化する手段として使われているのだろう。
ではその不満とは何だろう?

最近の朝日新聞に以下のようなコラム記事があった。
イスラム教の開祖ムハンマドの風刺画や「悪魔の詩」作者に激怒する中東の人々と、それを違和感をもって眺める欧米の人々。
映画「ダ・ヴィンチ・コード」をボイコットするアジアのキリスト教徒と、一方で冷静な反応を示す欧米のキリスト教徒。
この違いは、貧富の差だという。

社会の不条理に悩み貧しさから脱出できず将来に希望を持てない人々は、宗教への依存度が大きい。
宗教を冒涜する一連の出来事に怒る気持はわかる。
「豊かな欧米(=キリスト教)と貧しい中東(=イスラム教)」が、様々な問題を引き起こしている?
記事を読んでいるうち、ユダヤ人の街とアラブ人の街の歴然とした違いを思い出した。

最期に、旅行中お世話になった添乗員さん、ガイドさん、ツアー客の方々、現地の方々、このブログを見て下さった方々に、深く感謝いたします。


参考資料(文中に明記した物は除く):

書名 :世界の聖域 4 エルサレム
著者名 :講談社出版研究所/編
出版者 :講談社
書名 :聖書の時代
副書名 :ドラマティックな聖書世界へのヴィジュアル・ガイド
著者名 :ブルース・メッツガー/〔ほか〕編 , 斎藤和明/訳
出版者 :河出書房新社
書名 :聖書物語
副書名 :ビジュアル版
著者名 :木崎さと子/著
出版者 :講談社
書名 :聖書考古学大事典
著者名 :M.アヴィ・ヨナ/〔ほか〕編 , 小川英雄/〔ほか〕訳
出版者 :講談社
書名 :新聖書大辞典
出版者 :キリスト新聞社
書名 :キリスト教大事典
著者名 :日本基督教協議会文書事業部キリスト教大事典編集委員会/編
出版者 :教文館
書名 :世界伝記大事典 世界編 4 クルーシエ
出版者 :ほるぷ出版
書名 :世界伝記大事典 世界編 8 ハルーフユ
出版者 :ほるぷ出版
書名 :世界伝記大事典 世界編 7 トムーハリ
出版者 :ほるぷ出版
書名 :図解中東戦争
副書名 :イスラエル建国からレバノン進攻まで
著者名 :ハイム・ヘルツォーグ/著 , 滝川義人/訳
出版者 :原書房
書名 :イスラエル地上軍
副書名 :機甲部隊戦闘史
著者名 :ダビッド・エシェル/著 , ブライアン・ワトキンス/編 , 林憲三/訳
出版者 :原書房
書名 :ヨセフス全集 2 ユダヤ戦記
著者名 :土岐健治/訳
出版者 :日本基督教団出版局
書名 :図説 地図とあらすじで読む聖地エルサレム
著者名 :月本昭男/監修
出版者 :青春出版社
書名 :これならわかる パレスチナとイスラエルの歴史Q&A
著者名 :野口宏/著
出版者 :大月書店
書名 :新約聖書物語
著者名 :谷口江里也/訳・構成 , ギュスターヴ・ドレ/挿画
出版者 :アルケミア
書名 :死海文書
副書名 :その真実と悲惨
著者名 :オットー・ベッツ/[共]著 , ライナー・リースナー/[共]著 , 清水宏訳
出版者 :リトン
書名 :死海文書のすべて
著者名 :ジェームス・C.ヴァンダーカム/著 , 秦剛平/訳
出版者 :青土社
書名 :図説 聖書の大地
著者名 :ロバータ・L.ハリス/著 , 大坪孝子/訳
出版者 :東京書籍
書名 :聖書大事典
副書名 :カラー版
著者名 :荒井章三/編者代表
出版者 :新教出版社
書名 :世界キリスト教百科事典
著者名 :David B. Barrett/編
出版者 :教文館
書名 :聖書歴史地図
副書名 :マクミラン
著者名 :Y.アハロニ,M.アヴィ=ヨナ/著 , 池田裕/訳
出版者 :原書房
書名 :世界の大遺跡 3 地中海アジアの古都
出版者 :講談社
書名 :イスラエル・パレスチナ聖地紀行
副書名 :車で巡る歴史の宝庫
著者名 :小川秀樹/著
出版者 :連合出版
書名 :よくわかるイスラエル史
副書名 :アブラハムからバル・コクバまで
著者名 :S・ヘルマン/著,W・クライバー/著,樋口 進/訳
出版者 :教文館
書名 :ヴェネツィアの冒険家
副書名 :マルコ・ポーロ伝
著者名 :ヘンリー・H.ハート/著 , 幸田礼雅/訳
出版者 :新評論
書名 :聖地の道しるべ
副書名 :歴史と聖書から見たイスラエル・ガイド
著者名 :テマサ出版部/編
出版者 :テマサ出版部
書名 :イスラエル・ガイド
副書名 :4000年の歴史と聖書の国
著者名 :ミルトス編集部/著
出版者 :ミルトス
書名 :地球の歩き方 83(2002~2003年版) イスラエル
著者名 :地球の歩き方編集室/編
出版者 :ダイヤモンド・ビッグ社
書名 :西アジア史 1(アラブ)
シリーズ :新版世界各国史 8
著者名 :佐藤次高/編
出版者 :山川出版社
書名 :物語中東の歴史
副書名 :オリエント五〇〇〇年の光芒
シリーズ :中公新書 1594
著者名 :牟田口義郎/著
出版者 :中央公論新社
書名 :図説 聖地イェルサレム
シリーズ :ふくろうの本
著者名 :高橋正男/文 , 石黒健治/写真
出版者 :河出書房新社
書名 :図説イェルサレムの歴史
著者名 :ダン・バハト/著 , 高橋正男/訳
出版者 :東京書籍
書名 :偽史冒険世界
副書名 :カルト本の百年
著者名 :長山靖生/著
出版者 :筑摩書房
書名 :ユダヤブック
副書名 :「ユダヤが世界を支配している」は本当か
著者名 :ぐるーぷ・21世紀原初の会/編著
出版者 :徳間書店
書名 :完訳東方見聞録 1
シリーズ :平凡社ライブラリー 326
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社
書名 :エルサレムの旧市街とその城壁
シリーズ :週間世界遺産№23
著者名 :講談社総合編纂局/編
出版者 :講談社
書名 :マルコ・ポーロ
シリーズ :週間100人№30
出版者 :デアゴスティーニ・ジャパン

http://www.ourfatherlutheran.net/biblehomelands/galilee/sepphoris/sepptext.htm
http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Archaeology/zippori.html
http://archaeology.huji.ac.il/zippori/mosaic.htm
http://www.parks.org.il/ParksENG/company_card.php3?CNumber=337736
http://www.padfield.com/1996/caesphil.html
http://www.mfa.gov.il/mfa/history/early+history+-+archaeology/archaeological+sites+in+israel+-+zippori.htm
http://www.gemsinisrael.com/e_article000005116.htm
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http://www.bibleplaces.com/banias.htm
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http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/topics/n20060407_1.shtml
http://mosaic.lk.net/g-banyas.html
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http://wrmea.com/archives/Sept_Oct_2005/0509024.html
http://puparium.jugem.cc/?cid=1
http://www.akko.org.il/English/Map/default.akko

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イスラエル旅行・テルアビブ~ベングリオン空港から出国

Fi2579976_0e 20:00。エルサレムを出発して、再びテルアビブのベングリオン空港にやってきました。

イスラエルの出国チェックは厳しい事で知られています。
早速、荷物のX線検査の列に並びます。ここで空港係員から一人一人口頭で質問を受けます。

ガイドブックなどによると、複数の係員が同じ質問を繰り返し行って、矛盾がないかどうかチェックし、怪しい人物を洗い出すとか。

ドキドキして並んでいたら、係員が添乗員さんに色々質問をしはじめた。その結果我々は、パスポートのチェックと名前の確認だけで済むことになりました。よかった~♪

画像の、白いシャツに黒い上着の人たちが係員です。沢山いるので驚きます。
スーツケースのX線検査を受けて、何か問題があると、スーツケース調査所に行かされます。

Fi2579976_1e スーツケース調査所です。
台の上にスーツケースを置いて中味を係員が調べます。私はひっかかりませんでしたが、他のツアー客は何故かひっかかる人続出。

「ソドムの岩塩と死海の石鹸が原因じゃないか」と言う人がいましたが、そんなはずはありません。両方とも私も持っていましたから。

私が思うに、電気製品などの金属部品があるものが標的にされるんじゃないだろうか?
私の持ち物で、今まで一番念入りに調べられたのはカメラだったので。

Fi2579976_2e 出国審査、搭乗手続きが無事終わり、楽しいお土産タイムだ。

円形のフロアに、店が建ち並ぶ。まずは食料品売り場へ。
チョコレートが沢山あるが、ベルギーやスイスなど外国製ばかり。これじゃ土産にならない。

イスラエルのチョコレートはELITEというメーカーのものがあった。24枚入り7.9ドルのものを買った。あとはSweet taste of israelという商品名の、各観光地の写真付きの箱に小分けされたものがあった。24枚入り12.9ドル。

地中海沿岸だけに、ドライフルーツやオリーブ油などがあった。箱に家族のモノクロ写真と「忘れるな」と書かれたクッキー、ホロコーストに関する商品なのかな。

メノラーなどの宗教グッズが置かれている店に入った。動物を象った土器にそそられたが、安くても四千円以上で、そこまでの価値はないな、と思って買わなかった。
また、死海文書のコピーが入った素焼きの壷を売っていたが、コピーがあまりにもチャチで、買う気が失せた。壷自体はまあまあだったのだが。

Fi2579976_3e そうこうしているうちに搭乗時間となった。22:35、塔乗。そして離陸。さらばパレスチナ。

ここで、日本人とユダヤ人の類似点をまとめてみます。

真贋はわかりませんが、日本人とユダヤ人には下記のような類似点があると言われます。


・ 浴槽に入る前に体を洗う。
・ 家に入る前に足を洗う(昔の日本人もそうだった)。靴を脱いで家に上がる。
・ 十戒が納められた箱は日本のお神輿に似ている。
・ 山伏が頭に付ける兜巾と、ユダヤ教徒が頭に付けるヒクラティーが似ている。
・ ミカド(天皇)という言葉は、ヘブライ語のミ・ガド(ガドはイスラエル12支族の1つで、紀元前8世紀に離散した10支族の1つ。ミはFROMの意。)に似ている。

・ 伊勢神宮の石灯籠にあるカゴメ紋は、ダビデの星に似ている。
・ 神社の構造は、ユダヤ神殿の構造と似ている。鳥居はヘブライ語で門を意味する。ユダヤ神殿の入口には菊の紋がある。双方の祭礼行列が似ている。
・ 日本人もユダヤ人も、生後30日目に初詣に行く。
・ 日本の正月の餅、七草粥、締縄は、ユダヤ教の過越祭の種入れぬパン、苦菜、ときわ木に似ている。両方とも七日間祝う。
・ 平安京をヘブライ語で言うとエルサレムになる。また、平安京造営に尽力した渡来人、秦氏はユダヤ人だったという説がある。

・ 日本人と東洋系ユダヤ人のY染色体の大きさが同じ。
・ 京都にある秦氏の氏神、大酒神社はもと大辟神社と言ったが、ダビデの事を中国語で大闢と書く事から、ダビデを祀っているという説がある。またこの神社には伊佐良井の井戸という物があるが、読みがイスラエルに似ている。
・ 穢れを入浴や塩で清める。
・ 新婦が頭に絹を巻く風習(日本では角隠し)。
・ 古代に相撲が行われていた。

・ 十和田地方の習俗とユダヤの習俗に似ているものがある。
・ 岩手県の意味不明の民謡が、ヘブライ語で解釈できるという説がある。
・ 日本語の中には、ヘブライ語を語根とするものが千個以上ある、という説がある。例えば井戸=イドー=水を射出す、泉=イツ・モイ=水を湧出する、腰=コシリなど。
・ 三種の神器の一つ、八尺鏡の裏には、旧約聖書の語句がヘブライ語で刻まれているという説がある。
・ 京都の祇園祭は、ノアの洪水が終った7月17日に始まる。祇園はシオンに似ている。
・ イスラエルを表す“シオン”は日の照る場所という意味だが、“日本”という言葉の意味と似ている。

他にも色々ありますが、これらの説には勘違いや単なる噂も含まれているようで、もちろん反対意見も数多くあります。しかしこれだけあると、もしかしたら・・・と思うのも事実。古代ミステリーの1つとしては楽しいと思います。

これらの類似点を挙げた人々の中には、日本人の祖先はユダヤ人(古代イスラエル人)であるという日ユ同祖論を唱えている人もいます。
もともと明治8年に、ユダヤ系スコットランド人のN・マクレオドという人が著した本が発端のようです。以降日本人の学者や軍人が展開し、広まったようです。

これらの背景には、日本人が中国人と団結して西欧と対決するという黄禍論の影響、ユダヤ人の資本や資金を日本にもたらす為の方便、神国日本という自負の一方で西欧に憧れ同化したいという屈折した感情(キリストを生んだユダヤ教は西欧文明の根源の1つ)、等々があるようです。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エルサレム新市街~その8(グレート・シナゴーグとエルサレムの夕景)

エルサレム新市街観光の続きです。

キング・ジョージ通りを南東に歩きます。
自由時間ももう残り少なくなってきました。
かなり歩いた頃、右手に大きな建物が見えてきました。
ルサレムにあるシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の総本山、グレート・シナゴーグです。
(このあたり 31 46' 34.00"N 35 12' 59.64"E )
Fi2574776_0e

そのすぐ隣にも大きな建物がある。
Fi2574776_1e_2
こちらはウルフソン博物館で、ユダヤ教に関する資料を展示しているそうだ。

時間があったら見学したかったが・・・。

ついにここで時間切れ。急いで集合場所の、ベン・イェフダ通りとヤッフォ通りの交差点に戻った。
1時間の間、ずっと歩き詰め。ほんとに疲れました。でも色々好きな場所を見れてよかったです。
バスに乗り込むと一抹の寂しさが襲う。もうこれで全ての観光が終ってしまった!

ホテルに戻った。18:00から夕食、その後空港に向う。
それまで時間があるのでシャワーを浴びて、一休みする。

夕食の30分前、エルサレムが名残惜しくて、ホテルのテラスからエルサレム市街の眺めをずっと見ていた。
西側の新市街に日が沈む。
Fi2574776_2e
こうして見ると日本の都市の眺めと変わらない。

日が沈むと冷え込んできた。辺りの街灯に灯が点る。
Fi2574776_3e
旧市街の方を眺めた。回りを囲む城壁もよく解らず、旧市街だとわかるのは黄金に輝く岩のドームによってのみ。
17:50、拡声器からコーランが流れ始めた。この眺めともついにお別れ。食堂に向った。

食堂で添乗員さんが、「これが最後の晩餐ですね」とあいさつ。
そういえば、これからテルアビブ空港で尋問(出国チェック)、その後十字架形の飛行機に12時間も縛り付けられる事を思うと、冗談ではないような気がする。

18:45、バスでホテルを出発。入れ替わりに、シナイ山観光を含む10日間のツアー客がホテルに到着した。彼らの旅はまだまだ続く。うらやましい!!

真っ暗闇の中、バスはテルアビブに向う。沿道にはアブ・ゴーシュ、谷の門、エマオ、ラトゥルン、アヤロンの谷、テル・ゲゼルがあるが、当然見えない。
(次はここ

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エルサレム新市街~その7(マハネー・イェフダ市場~キングジョージ通り)

エルサレム新市街観光の続きです。

メア・シェアリーム地区から南に戻り、ヤッフォ通りを北西に歩きます。
Fi2569622_0e ・ネヴィーム通りとの三叉路を過ぎて更に歩くと、左手にマハネー・イェフダ・スーク(市場)があります。
( 31 47' 08.01"N 35 12' 44.37"E )

時間がないので入りませんでしたが、画像のように店が建ち並んで賑やかな場所です。入口では手荷物検査を行っていました。
画像手前のおじさんは物乞いのようでしたが。

Fi2569622_1e マハネー・イェフダ・スークから東に少し戻ったところに、ちょっと古めかしい大きな建物がありました。
門が固く閉ざされていて、中はわかりませんでしたが、エツ・ハイム教学院というユダヤ教の神学校のようです。 31 47' 07.10"N 35 12' 46.84"E 

Fi2569622_2e ヤッフォ通りを更に東に戻ると、キング・ジョージ通り 31 46' 58.02"N 35 13' 02.43"E が交差している。
この通りに入って南に進みます。

キング・ジョージ通りは、バルフォア宣言(1917年、イギリスの外相がユダヤ人のロスチャイルドに、パレスチナでのユダヤ人国家樹立を認めた書簡)を記念し、当時の英国王ジョージ5世の名前をつけた通りです。両側に街路樹が続く綺麗な通りでした。
時間があれば、店の中も覗いてみたかった。

Fi2569622_3e ベン・イェフダ通りとの交差点を過ぎると、左手に公園が見えてくる。
これは1948年のイスラエル独立を記念して造られた独立公園。
( 31 46' 42.51"N 35 12' 58.96"E )

東端が前述のマミラの池と接している。オブジェがいくつかありました。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エルサレム新市街~その6(メア・シェアリームとヤッフォ通り)

エルサレム新市街観光の続きです。

昼食後、西エルサレムの東側に移動。
嬉しい事に、ヤッフォ通りとベン・イェフダ通りの交差点で解散、1時間の自由散策になりました。
この機会を最大限に生かして、周辺を歩き回ってみようと思います。

Fi2561176_0e 画像は出発地点のベン・イェフダ通り。
(撮影地点 31 46' 54.69"N 35 13' 08.99"E )
様々な飲食店、喫茶店、土産物店が軒を並べて、かなりにぎやかな通りです。石畳のせいか雰囲気が良いです。
この辺りが新市街で最もにぎやかな場所です。

まずは北に向います。

Fi2561176_1e すぐのところにヤッフォ通りがあります。 31 46' 56.15"N 35 13' 08.81"E 

ヤッフォ通りはテルアビブの南のヤッフォとエルサレム旧市街のヤッフォ門を東西に結んでいます。
ここも人通りが多くて、そのせいか安心して歩けます。

Fi2561176_2e ヤッフォ通りを渡って少し北に行き、小さな路地に入ると、ティホ・ハウスがあります。
(このあたり 31 46' 58.70"N 35 13' 09.19"E )
少しわかりずらいですが、付近に観光用の標識があるので、これを頼りにすればよいと思います。

ここはユダヤ人が旧市街の外で暮らし始めた最初の場所のひとつで、眼科医のアブラハム・ティホ博士と、その妻アンナが住んだ家です。
ティホ博士は貧富の区別なく診察し、アンナはそれを助けていました。また、アンナはエルサレムの風景や人々を描き続け、現在この家はギャラリーになっています。

更に北に向って、メア・シェアリームという、ユダヤ教正統派の人々が住む地区に近づいていきます。
ハ・ネヴィーム通りというやや大きな通りを渡ります。この辺りに来ると、黒ずくめの服装をした正統派の人々が数多く見られます。

Fi2561176_3e 小さな通りを北に歩くと、右手にエチオピア(アビシニア)正教会の教会堂があります 31 47' 05.84"N 35 13' 15.24"E 。1896~1904年に建てられた、ドーム型の教会です。中庭を重厚な赤っぽい服を着た修道士が歩いていました。

エチオピアにキリスト教が伝わったのは4世紀と言われ、5,6世紀に強化された。しかしイスラム教が入ってきて以降、衰退した。
教理的にはキリスト単性論をとっている。
1980年のデータによると、イスラエル国内にはここ西エルサレムに教会がひとつあり、教会員は50名程だという。

道を挟んだ場所には、ヘブライ語を現代に復活させた言語学者、エリエゼル・ベン・イェフダーの家があるらしいが、この時は気が付かなかった。

Fi2561176_4e ア・シェアリーム地区です。
(このあたり 31 47' 08.02"N 35 13' 13.83"E )
1874年、ユダヤ人が旧市街の外に定住した2番目の場所として造られた。“メア・シェアリーム”とは、旧約聖書に出てくる“百倍の収穫”という意味。


アブラハムの子、イサクが飢饉から逃れてゲラルという土地に滞在した時、神のお告げに従ってここに住んだ。
「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。」
(旧約聖書 創世記・26章12節 新共同訳から引用)


ここには、厳格な規律を守るユダヤ教正統派の人達が多く住んでいます。
その為、この界隈を歩くときは素肌を大きく見せるような服装は避けた方が良いようです。また、カメラを向けるのはいやがられるようです。

現在のユダヤ教は、大きく正統派、保守派、改革派の3つに分けられるそうです。
正統派は、3千年の間その教義に修正・変更を加えず、厳格に守り通してきた。例えば安息日には一切の労働、旅行、商用を禁じ、食事は律法に定められた方法で調理したものしか摂らない。
保守派は、律法の精神を失わない限りは、時代に即してある程度の修正を認めている。例えばアメリカでは英語の祈祷文を用いている。
改革派は、理性と科学に耐えうる合理性を信仰に要求し、祈祷において男女の席を分けず、ラビは律法を現代的に解釈し自由に修正する権限を持つ。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エルサレム新市街~その5(ヤド・ヴァシェム:ホロコースト記念館)

エルサレム新市街観光の続きです。

Fi2555575_0e タイム・エレベーターから、再びエルサレム市の西端に向って、ヤド・ヴァシェムに着きました。
(画像の建物 31 46' 27.14"N 35 10' 34.81"E その他 31 47' 24.95"N 35 10' 28.18"E 周辺)

ここはナチス・ドイツのホロコーストによって虐殺された、600万のユダヤ人を慰霊する博物館です。ヤド・ヴァシェムとは、(消し去る事の出来ない)記念と記憶、という意味です。

画像にも見えますが、大勢のイスラエル軍兵士が見学?に来ていました。
館内はかなり混んでいました。
尚、日本語ガイドはないようです。

まず歴史博物館に入る。
入口付近には、パレスチナ?に帰還して喜び踊る人々の映像。
以下順路に従い・・・、

ユダヤ人の焚書について。
ナチスの台頭。
昔のユダヤ人に対する迫害。
以降、第二次大戦時の迫害状況の展示になり、
「ユダヤ人はいてはいけない」という看板。
ユダヤ人迫害を決定したミュンヘン会議の映像。
引きちぎられた旧約聖書。
当時のユダヤの著名人。
黄色い星(ダビデの星)の着用義務。
没収品(メノラー等)。
北アフリカでの迫害状況。
ワルシャワ・ゲットーでの迫害状況。
ソ連での迫害状況。
「最終的解決」の状況。
トレブリンカ収容所の模型と、ユダヤ人の靴の山。
アウシュビッツ収容所の生存者の体験談映像。
ユダヤ人を救った人々。
アウシュビッツ収容所の「労働は自由をもたらす」の看板、衣服、食器。
ユダヤ人の解放。
パレスチナに向うユダヤ人。

画像は名前のホール。ドームの壁面に納められたホロコーストで亡くなった人々の記録がある。
Fi2555575_1e
館内は撮影禁止のため、パンフレットの写真です。
壁面一杯に、亡くなった人々の名前が書き込まれたバインダーが納められている。これから判明する人もいるため、空のバインダーも。また一部の人々の顔写真が展示されている。

その他、記憶のホールに入った。暗闇の中、中央で火が燃えている。死者を悼む祈りの場所です。

ホロコーストは過去のものではないという事実に戦慄させられます。
ルワンダでのツチ族によるフツ族の大量虐殺、旧ユーゴスラビア内戦での民族浄化・・・。
差し迫った憎しみと恐怖を目の前にすると、過去の教訓も消し飛んでしまうのだろうか?
日本人だって他人事ではないかも。

Fi2555575_2e ヤド・ヴァシェムから見えた、エンカレム方面の景色。
(このあたり 31 46' 04.89"N 35 09' 44.05"E )

目が覚めるような美しい谷でした。
バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)の生まれ故郷と言われます。

Fi2555575_3e アレンビー記念公園の南にある、21階建てのクラウンプラザ・ホテル 31 47' 05.64"N 35 12' 09.53"E 、1階のインド料理店コヒナルで昼食。
バイキングなので色んなカレーが選べて良かった。味も良かった。
デザートにかけるクリームみたいなものをカレーと間違えてライスにかけてしまった。不思議な味がした。

画像はホテル周辺の景色。

ちょっと殺伐としているが、この辺にはコンベンション・センターなどがあるようだ。


ここで、かつてのユダヤ人に対する迫害理由をまとめます。

・ イエスを殺したのはユダヤ教徒だった。
・ キリスト教中心のヨーロッパ世界において、イエスをメシアだと認めないユダヤ教は異端だった。
・ キリスト教が卑しい職業としていた高利貸しをユダヤ教は認めていたため、多くのユダヤ教徒が高利貸しになって儲ける事ができた。キリスト教徒から“金の亡者”と非難を浴びた。
マイケル・ラドフォード監督の「ヴェニスの商人」の冒頭で、この迫害の様子が描かれています。
・ 自国民の不満をそらすために、国家や権力者が少数派であるユダヤ人への憎悪を煽る例もあった(帝政ロシアで起こったポグロムと呼ばれるユダヤ人虐殺など、枚挙にいとまがないと思われます)。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エルサレム新市街~その4(十字架の谷とタイム・エレベーター)

エルサレム新市街観光の続きです。

西エルサレムの東にある、タイム・エレベーターというアトラクションに行きます。
ハラブ・ヘアツォク通り~ガザ通りを辿って西から東へ。

Fi2549744_0e 画像は、途中側を通った十字架の谷。
処刑の十字架用のオリーブの木を切り出した谷と言われる。

丘の上に建っている建物はクネセット。
( 31 46' 35.39"N 35 12' 18.91"E )
1966年に建てられたイスラエルの国会議事堂。
近くには大統領府を始め、省庁の建物があり、イスラエルの政治の中心になっている。

Fi2549744_1e の画像では手前の木に隠れてしまっていますが、十字架の谷には十字架の修道院がある。 31 46' 19.48"N 35 12' 29.01"E 

撮影が下手糞で、この画像ではまるで存在感がない建物になってますが、実物は分厚い城壁に囲まれた、要塞のような建物です。
祭壇には、アダムが生命の木を咥えたまま埋葬された場所があり、その木が成長して、イエスの処刑用に使われたと言う。

Fi2549744_2e 旧市街のすぐ西側にある、タイム・エレベーターに着きました。
( 31 46' 47.44"N 35 13' 14.85"E )

ここは、エルサレムの歴史を30分の映像で見せるアトラクションです。
建物の入口は、意外とあっさりしていました。

ロビーで待つ間、このアトラクションの紹介映像が流れていました。
日本語ではないので全くわかりませんでしたが、タイム・エレベーターという乗り物で地下に潜ると、過去にタイムスリップできるという趣向のようです。神殿の丘西壁のトンネルウォークを髣髴とさせる乗り物です。

ロビーには、地元の子供が描いたのだろうか?エルサレムの絵がたくさん貼られていました。岩のドームや、エルサレム・ストーンを思わせる白い建物の絵が多かったです。

平日だし、そんなに客もいないだろー、と思っていたら、観光客がやって来て、そこそこ座席も埋まっていました。

Fi2549744_3e アトラクションの中です。座席が映像に連動して動きます。
こういうのが苦手な人用に、動かない座席もありました。

音声が英語なので一言一句までわかりませんでしたが、勝手に想像して楽しみました。地下のトンネルをあっち行ったりこっち行ったりで、かなり揺れます。

タイムスリップする時代で確認できたのは、ソロモン王の裁判、ネブカトネツァルによるエルサレム陥落、ローマ軍によるエルサレム陥落、ヘレナのエルサレム訪問、第三次中東戦争。十字軍とイスラム時代はほとんど端折られていました。その他は何だったか良くわかりませんでした。
歴史が好きな私は、結構楽しめました。

Fi2549744_4e タイム・エレベーターの建物の前には公園があります。
地図を見ると、マミラの池があるようです。

( 31 46' 40.82"N 35 13' 13.89"E )

この辺りは、十字軍の時代に墓地ができ、マムルーク朝時代にはエルサレムの主要共同墓地のひとつになった。画像に見えるのも、お墓だろうか?

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エルサレム新市街~その3(第二神殿時代のエルサレム模型)

エルサレム新市街観光の続きです。

エルサレム市の南西にある、ホーリーランド・ホテルの第二神殿時代のエルサレム模型に着きました。
(このあたり 31 45' 21.19"N 35 11' 21.75"E )

ホーリーランド・ホテルが客寄せに造った物で、ヘレニズム時代のパレスチナ史が専門のアヴィ・ヨナ教授が、ヨセフスのユダヤ戦記をもとに第一次ユダヤ反乱勃発時の紀元66年当時のエルサレムを復元した。
50分の1の縮尺で、実際の建物と同じエルサレム・ストーンで作られている。実際、その精巧さは驚くばかりだ。

現在ホーリーランド・ホテルは経営難で、この模型もヘブライ大学に移設されるそうである。現在その作業中のため、“上の町”と“第3城壁内”部分をはじめ大部分が剥がされている。

画像は、当時のエルサレムを西側から見た所。
Fi2546511_0e
左上はローマ軍が神殿監視のため駐留したアントニア要塞、上半分は神殿の丘で、中央には第二神殿が建つ。
画像左端中央には、ウィルソン・アーチとハスモン家の宮殿。

こちらは北西からみたところ。
Fi2546511_1e
手前の門は、ダマスカス門。奥に4つの塔を持つアントニア要塞
立っている人と比べると、模型の大きさがわかると思います。

こちらは南側から見たところ。
Fi2546511_2e
ほとんど壊されていますが、城壁に囲まれたダビデの町です。
町の中央、奥へ建ち並んでいるのは、メソポタミアの隊商都市アディアベネのヘレナ女王の宮殿。
奥には神殿の丘の南壁が見える。

エルサレムを攻撃したローマ軍の投石器。奥に見えるのはホーリーランド・ホテル。
Fi2546511_3e

これが移設作業前の模型の全体像です(パンフレットから)。

Fi2546511_4e
上が西、右が北です。
これを使って、第一次ユダヤ反乱時のエルサレム陥落の様子と、イエスのエルサレム滞在の足取りを辿ってみます。


第一次ユダヤ反乱時のエルサレム陥落の様子:

皇帝の座に着いたヴェスパシアヌスは、皇帝の名にかけてエルサレムを陥落せねばなりませんでした。
70年、長男ティトゥスは、丁度行われていた過越し祭の巡礼者が城内に入るのを待って包囲した。城内の人口を増やして、食料難に陥らせる為だった。

戦闘を開始したが、反乱軍は決死の覚悟で反撃し、ローマ軍を打ち破った。ティトゥス自身も偵察中に命を落としかけたと言う。
しかし、やがてローマ軍は包囲網を完成した。東には第10軍団(フレテンシャス)、北には第15軍団(アポリナリス)と第12軍団(フルミナタ)、西には第5軍団(マケドニカ)が布陣しました。

包囲を開始して15日目、ローマ軍は攻城車と破城槌を使って、北側の第3城壁(番号33の壁)の北東を破った。

5日後、第2城壁(番号30の壁)を打ち破り、町の残りの部分を壁で囲んだ。逃走する反乱軍は捕らえられて、町から見える場所で十字架刑に処された。毎日500人もいたという。包囲網の中は飢餓状態になり、人肉を食べて飢えをしのいだという。
ここでフラウィウス・ヨセフスがローマ軍の軍使として、反乱軍に降伏を促した。涙を流しながら、イスラエルの美しい国土と神殿を破壊する愚を訴えたが、反乱軍は応じなかった。

6月末、ローマ軍は総攻撃を開始し、アントニア要塞(番号39)を攻撃した。
4本の攻城用斜路を17日間で完成させたが、反乱軍の攻撃で破壊された。
次に包囲用の塁壁と2本の攻城用斜路を造ったが、これも破壊された。
こうした激戦の後、ローマ軍は要塞をようやく占領した。

反乱軍は第2神殿(番号36)に退却し、西側の回廊に火をつけた。
ティトゥスは、反乱軍が神殿を破壊しようとしていると勘違いし、神殿への総攻撃を命じた。

8月、ローマ軍は神殿の防御を破って構内になだれ込んだ。
1人の兵士が禁じられていた火を使用して、神殿の窓から火のついた材木を投げ入れ、燃え広がった。両軍は大混乱に陥り、命令に反して神殿は破壊され、略奪された。
神殿の陥落で反乱軍の戦意は衰えた。その後、ローマ軍は”上の町”(黄色い番号)に攻め上がり、殺戮と暴行を繰り返した。
捕虜になったユダヤ人は9万7千、犠牲者は110万に上ったという。


イエスのエルサレム滞在の様子:

エルサレムの東のベタニヤ村を出発したイエスとその支持者は、シロアの池(番号5)近くの門からエルサレムに入った
神殿の丘南壁のフルダ門(番号41)から神殿の丘に上がり、「神殿の清め」を行った。

過越し祭の夜、密かに城内の”上の町”に行き、番号26で最後の晩餐を行った。

ベタニヤ村に戻る途中のゲッセマネで大祭司の手勢に捕まり、大祭司カイアファの屋敷(番号25)に連行された。

ローマの総督、ポントゥス・ピラトゥスのいるアントニア要塞(番号39)に連行され、ヘロデ・アンティパスのいるハスモン家の宮殿(番号21)に移された後、再びアントニア要塞に戻り、ここで死刑判決を受けた。

アントニア要塞から十字架を背負ってゴルゴタの丘(番号27)に行き、ここで処刑された。

ポントゥス・ピラトゥスがいた場所は、ハスモン家の宮殿(番号21)ともヘロデ王の宮殿(番号18)とも言われ、そうなると現在のヴィア・ドロローサの道のりが変わってくる。

ゲッセマネでの捕縛からゴルゴタでの処刑までの経緯は、メル・ギブソン監督の映画「パッション」が詳しいが、残酷なシーンが目立ち過ぎてとてもお勧めできません。
イエスの生涯については、ニコラス・レイ監督の「キング・オブ・キングス」があります。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エルサレム新市街~その2(ホテルからの眺め~ヘルツェルの丘)

1月3日の朝。
とうとうイスラエル観光の最終日、日本に帰る日になってしまいました。
最後の一日を、思う存分楽しもう!

私の泊まっているホテルはハイヤット・リージェンシーといい、エルサレム旧市街の北1.5キロ程の場所にあります。

画像はこのホテルのテラスから、南東を眺めた所です。
(通常のサイズに伸ばして見て下さい。撮影地点 31 47' 52.06"N 35 14' 08.15"E )
Fi2541686_0e_2 
画像の下半分の建物はこのホテルのテラスで、階段状になっており、遠くから見るとメソポタミアのジグラッド神殿、あるいはメキシコのピラミッドのようです(ちょっと違うかな?)。

画像左側に広がる丘は、スコーパス山。
第一次ユダヤ反乱の時、ローマの将軍ティトゥスはここに陣を張り、エルサレム攻略計画を練りました。
エルサレム旧市街は、東をキドロン峡谷、南と西をヒンノム峡谷に囲まれていますが、北は地形障害がありません。そこでエルサレムへの攻撃の多くは、北側から行われたそうです。
現在ここには、ヘブライ大学スコーパス校が建っている。

スコーパス山の右にあるのはオリーブ山で、頂上には昇天教会の大きな尖塔が聳えています。

画像の右端には、神殿の丘の岩のドームが見えます。

こちらは南西側。
(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
Fi2541686_1e
建物は皆白いですが、エルサレム・ストーンという石灰岩を壁面に貼り付けています。

画像左の建物が密集している辺りが旧市街。
画像右には、所々高層ビルが建つ新市街が広がります。
今日はこの新市街を観光します。

ところで、ホテルには何故か通学している児童が大勢いました。
ガイドさんの話によると、ガザから撤退してきた入植者のようです。
住む場所がないので、政府の補助で一次的にホテル住まいをしているようです。

Fi2541686_2e 西側の眺めです。

緑に覆われた丘は、弾薬の丘。第三次中東戦争時の激戦地で記念館がある。( 31 47' 56.18"N 35 13' 44.37"E )

第三次中東戦争(1967年)の直前、イスラエル領の西エルサレムは、東側に突出した形をしており、三方からヨルダン領が囲んでいた。
特にヘブライ大学とハダッサ大学病院があるスコーパス山は、飛び地になっていて悩みの種だった。

スコーパス山と西エルサレムの間でエルサレム旧市街の北の地域、ベイトジヤラは、アラブ軍団が強固な防御陣地を築城していた。ビルを鉄筋コンクリートで補強した防御拠点にし、それらを交通壕で網の目のように結んで、周りを鉄条網と地雷原で囲んでいた。

6月5日午前11時、ヨルダン軍はエルサレムへの攻撃を開始した。
シナイ半島に降下予定だったイスラエル第55空挺旅団は、急遽ベイトジヤラへの攻撃に任務を変更された。

午後11時、イスラエル軍は西エルサレムとスコーパス山からのサーチライトで照らし出されたヨルダン軍陣地を砲撃し、粉砕した。

6日午前2時、第55空挺旅団はベイトジヤラに侵入し、警察学校と弾薬の丘で激戦が開始された。ヨルダン軍は一歩も引かず、塹壕の中で白兵戦が展開した。
塹壕の背後の要塞化したビルの中でも、一部屋一部屋を巡って4時間に渡る死闘が続いた。

夜明け近く、勝利した第55空挺旅団はスコーパス山と旧市街を目指して進撃し、スコーパス山と西エルサレムの間の地域を制圧した。

今日の観光開始。
まずエルサレム市の南西にある、ホーリーランド・ホテルの第二神殿時代のエルサレム模型を見に行きます。

レヴィ・エシコル通り~ヘルツェル通りを経て、一挙に西エルサレムの西端へ。

Fi2541686_3e これはヘルツェルの丘の入り口です 31 46' 20.65"N 35 10' 53.08"E 。
ここはイスラエル建国の父であるテオドール・ヘルツェルが埋葬された場所で、彼の記念館があります。


テオドール・ヘルツェルは1860年生まれ、ユダヤ人差別の象徴的事件であるドレフュス事件に衝撃を受け、迫害を終らせる為にユダヤ人による独自国家建設を提唱した(シオニズム運動)。
最初アフリカのウガンダへの移住を考えたが、他のシオニストの批判によりパレスチナに変更した。

1897年にスイスのバーゼルで第一回シオニスト会議を開き、世界シオニスト機構を設立して、シオニズム運動の第一歩を踏み出した。
パレスチナ問題を抱えながら1948年にイスラエルは独立宣言し、ヘルツェルは建国の父、現代の預言者と呼ばれている。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エルサレム新市街~その1(自由の鐘公園~市役所)

ベツレヘムからエルサレムに戻ってきました。
これから旧市街の西側を北上してホテルに帰ります。

ここからエルサレム新市街の紹介になります。
(撮影時間は必ずしも時系列ではありません)

エルサレム新市街は西エルサレムとも呼ばれ、旧市街の西側に広がる欧米風の街並みで、設備も整っています。
Fi2535430_0e ここはレパイムの谷にある、自由の鐘公園だと思います。

(このあたり 31 46' 05.60"N 35 13' 19.46"E )
エルサレム最初の公園だそうで、フィラデルフィアにある自由の鐘の模型があるそうです。
ここから南側は住宅街になっています。
レパイムの谷は、ダビデ王がペリシテ軍を二度に渡って破った場所でもあります。

Fi2535430_1e 画像の右上に風車が建っています。これはモンテフィオールの風車です。
(このあたり 31 46' 17.44"N 35 13' 26.77"E )

19世紀のイギリスのユダヤ人、モーセ・モンテフィオールがここに粉挽き用の風車を作った。
旧市街に住むユダヤ人をここに移住させて、仕事を与えるためだった。
しかし風当たりが悪くて風車は動かなかったそうだ。
現在この辺りは芸術家の街になっているそうだ。

Fi2535430_2e_2 画像中央、丘の上に建っている四角い建物は、キング・デービッド・ホテル。
( 31 46' 27.89"N 35 13' 20.49"E )

1930年に建てられた、エルサレムで最も有名な最高級ホテル。
宿泊料もかなり高い。
今まで、各国の要人が多数泊まっている。

1946年には、国連委任統治していたイギリスの軍司令部が置かれていた。
当時、第二次世界大戦の終わりと共に、シオニストはユダヤ人の独立をイギリスに要求した。しかしイギリスはこれを拒絶し、シオニストは武装闘争を開始した。
武装組織イルグンは、キング・デービッド・ホテルを爆破し、テロ活動によってパレスチナは内戦状態になった。翌年、音を上げたイギリスは国連に介入を要請した。

Fi2535430_3e キング・デービッド・ホテルの隣にある建物群は、ヘブライ・ユニオン大学エルサレム校だと思います。

ウィキペディアによると、「アメリカ合衆国のラビ、カントル、またコミュニティーにおける職業者を養成するユダヤ教改革派のセミナリー。」だそうです。
詳細はこちら

Fi2535430_4e ここはエルサレム市役所です。
(たぶん 31 46' 51.23"N 35 13' 21.97"E )

この後宿泊先のホテル、リージェンシーへ。

休憩した後、ホテルの土産物屋に立ち寄る。
店は狭いがとにかく色々な物が所狭しと並べてある。
歴史好きな私は、土器と刀剣にそそられるが、品物の割に値段が高くてやめた。
閉店時間は店主次第だそうだ。

その後、市中のマンダリンという中華料理店で夕食。
陽気で面白い店員さんがいる。
ボリュームたっぷりの食事に満足。
今日は念願の旧市街に行けてよかった。
でも、もっとじっくり見て回りたかったなあ。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ベツレヘム~その4(ヒエロニムス像と羊飼いの野)

ベツレヘムの聖誕教会観光の続きです。

聖カテリーナ教会の中庭にある、ヒエロニムス像です。
(中庭 31 42' 16.35"N 35 12' 25.83"E )
Fi2529639_0e
エウセビウス・ヒエロニムスは、4世紀の聖書学者で、カトリック教会の標準ラテン語訳聖書となった“ヴルガタ訳聖書”を作った人です。

現在のクロアチアに生まれ、最初法律で身を立てようとしたが、後に聖書研究とキリスト教の禁欲生活を追及するようになった。
教皇ダマスス1世の秘書になり、まちまちで不正確だった新約聖書のラテン語訳を、最良のギリシャ語訳写本に基づき、全面改訂する作業を行った。
ダマスス1世の死後、ベツレヘムに渡り、ローマ貴族の未亡人パウラが寄贈した修道院の院長になった。ここで死ぬまで、旧約聖書をヘブライ語の原典からラテン語訳する作業を行ない続けた。
しかしこの行為は、ギリシャ語訳聖書をラテン語訳聖書の基礎にすべきだと主張した人々の、猛烈な批判を浴びた。彼はこの事で、旧友や恩師をも批判せねばならなくなった。
この時、彼を励まし続けたのがパウラだった。彼はパウラが死んだ後も、その頭蓋骨を眺めながら翻訳作業を続けたと言う。

像の足元にある頭蓋骨が、パウラです。画像には写っていませんが、像の後方にパウラの立像があります。

Fi2529639_1e これは聖カテリーナ教会の礼拝堂にある階段を降った、ギリシャ正教会の地下です。
恐らくヒエロニムスの書斎の洞穴、または埋葬の洞穴と思われます。

Fi2529639_2e 聖誕教会を出て、再びメンジャー通り。
街並みの屋根の上に、教会の尖塔が見えます。左が聖マリア教会。右の円錐形の屋根がルター派クリスマス教会。

ベツレヘムにはその他、イエスの家族がエジプト脱出前に住んでいた聖ヨセフの家、聖母マリアの母乳で地面が白くなったというミルク・グロットなどがあります。

バスに少し乗って、パレスチナの観光大臣がオーナーだという土産物屋へ。
ベツレヘム観光にからんだ裏事情がありそうだ。
ここは広くて品数も豊富だったが、値段が結構高め。小さなアクセサリーでも数百円した。
特に目立ったのが大小様々の木工品。最後の晩餐やイエス生誕のシーンを木彫りの人形や調度品で再現していて迫力あります。イエスと思われる赤ちゃんの人形もありましたが、木目が黒々としていてちょっとグロテスクでした。

Fi2529639_3e 画像の右上の緑が広がる場所は、羊飼いの野と呼ばれている場所です 31 42' 19.92"N 35 13' 22.48"E 。

イエス生誕の夜、羊飼いたちが神の使いから、イエス生誕を告げられた場所です。


その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
(ルカによる福音書 2章8~20節 新共同訳より引用)


この後バスに乗り、国境のチェックポイントへ。
イスラエルに入国する時はチェックが厳しい。X線による手荷物検査、一人ずつ兵士にパスポートを見せて通る。
頭上には自動小銃を構えた兵士が周囲を見張っていた。

Fi2529639_4e ベツレヘムからエルサレムへの途上にある、マール・エリヤス修道院です。
 31 44' 05.03"N 35 12' 39.22"E ?

14世紀のエルサレム司教、エリヤスが葬られた場所に、17世紀に建てられたギリシャ正教会。
もともと6世紀に教会があり、11世紀には十字軍も改築したそうだ。
また、古代オリエント時代、カルメル山でフェニキアのバアル神の祭司に勝った預言者エリヤが、北イスラエル王国のアハブ王の妃で、フェニキア王の娘イゼベルに追われて逃げる途中に休息した場所と言われる。


※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ベツレヘム~その3(イエス聖誕の場所と聖カテリーナ教会)

ベツレヘムの聖誕教会観光の続きです。

いよいよ祭壇の地下にある、イエス生誕の洞穴に入ります。
Fi2523107_0e
この洞穴は、イエスの時代に馬小屋として使われる前にも、紀元前10世紀には人が住んでいた事が証明されているそうです。
現在ここに降りる階段は、南北2箇所ありますが、ユスティニアヌス帝時代のものです。
入口は綺麗な色大理石、上には聖母子像。

洞穴の中です 31 42' 15.40"N 35 12' 26.52"E 。

これはイエスを寝かせた場所だろうか?
Fi2523107_1e
これを見て、嬉しそうに顔を見合わせた白人夫婦の姿が印象的でした。

ここがイエスが生まれた場所、飼い葉桶の岩の跡です。

Fi2523107_2e
銀の星の中央から、岩に触れる事ができます。
星は、東方の三博士(学者)が星に導かれた伝承に由来しています。

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。

ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
(ルカによる福音書 2章1~7節 新共同訳から引用)

イエスは恐らく紀元前5年の12月に生まれた。
ちなみにキリニウスの住民登録は紀元後6年に実施された。
文献によると、ヨセフとマリアは多くの宿泊客がいる母屋より、誰もいない馬小屋の洞穴を出産の場所として選んだのでは?との事です。
しかし、馬小屋が洞穴だとは知りませんでした。

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
(マタイによる福音書 2章1~12節 新共同訳より引用)

この後、ヘロデ王は未来の「ユダヤ人の王」を殺す為、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男子を皆殺しにしました。
ヨセフとマリア、イエスは、お告げによって事前にエジプトに逃亡、紀元前4年春にヘロデ王が死ぬと、ナザレに戻りました。
イエスはナザレで育ちました。

これは、ギリシャ正教の教会の北隣にある、カトリック、フランシスコ会の聖カテリーナ教会です 31 42' 16.28"N 35 12' 26.91"E 。
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祭壇には、洞穴の中にもあった赤ちゃんの人形。土産店で売られていました。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ベツレヘム~その2(聖誕教会の礼拝堂)

ベツレヘム観光の続きです。

聖誕教会の小さな入口です 31 42' 15.62"N 35 12' 25.06"E 。
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壁にアーチの跡があります。ユスティニアヌス帝の時代には大きな入口だったが、だんだん狭められたそうです。

ギリシャ正教の礼拝堂です 31 42' 15.46"N 35 12' 25.75"E 。
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これはコンスタンティヌス帝の教会の上に、ユスティニアヌス帝が造った建物です。

26.5m×33mの長方形で、11本からなる柱列が4列あります。
コンスタンティヌス帝の教会より拡張され、柱は新たに10本追加されましたが、コンスタンティヌス帝時代の柱を模倣した為、考古学者はこれらの柱が全てコンスタンティヌス帝時代のものだと勘違いしたそうです。
よく見ませんでしたが、柱には聖者やマリアの全身像が描かれているようです。

また修復中らしい壁面(画像列柱の上)には、所々モザイク画があり、イエスのエルサレム入城などが描かれているようです。

画像の奥、東端には祭壇があります。

礼拝堂の右側隅にあった洗礼盤です。
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いつ頃の時代のものだろうか?

これは、礼拝堂の中央にある、コンスタンティヌス帝の教会の床に施されたモザイクです。

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製作は、コンスタンティヌス帝とユスティニアヌス帝の時代の間、5世紀とされています。


コンスタンティヌス帝の教会は、一辺26.5mの方形のバシリカと、東側に八角堂がありました。バシリカの中央には、2枚のモザイクのカーペットがありました。
画像上半分(東側)が長さ9.2mのもの、下半分(西側)が5.8mの正方形のものです。
このカーペットは、現在の教会の床下60cmにあります。
デザイン的には、ガリラヤ湖畔のパンと魚の増加の教会のものより劣るそうです。

教会の奥にある祭壇付近です。

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コンスタンティヌス帝の時代には、一辺7.9mの八角堂がありました。
ユスティニアヌス帝は再建にあたり、建築家を派遣しました。恐らく、建築家は直径33.6mのドーム付き円形建物を提案しましたが、ドームを載せるのは難しかったせいか、皇帝に拒否され、首をはねられたそうです。

結局今のような、東南北の3方に半円形のアプスがある建物になりました。画像上方に、東側のアプスが見えます。

沢山の燭台がぶら下がっていて、クリスマスの飾り付けのようです。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ベツレヘム~その1(ヘロディウムと分離壁)

ここでエルサレムを出て、パレスチナ自治政府の領域であるベツレヘムに向います。

Fi2512521_0e 画像は向う途中の光景。画像中央に小さく、富士山に似た端正な丘が見えますが、これはヘロディウム 31 39' 57.25"N 35 14' 29.52"E 。

ヘレニズム時代ヘロデ王が造った宮殿・城砦。ベツレヘムの南東5キロにあり、周囲の平地からの高さは60m。
頂上部を外径64m、内径45mの城壁で囲み、東西南北に円形、半円形の塔を建てた。城壁の中に、大浴場、居間、食堂、中庭、シナゴーグがある。

緊急事態をいち早く知らせる火の信号を出す場所でもあったらしい。
丘の周囲には、宮殿、大プール付き遊園地、馬場の遺構がある。またこれらに水を供給する長さ6キロの水道も作られた。
また、ここにヘロデ王の遺体が埋葬されたそうだが、発見されていない。
第二次ユダヤ反乱の時、ここは反乱軍の拠点になった。

Fi2512521_1e パレスチナ自治政府との境界に着きました。画像は分離壁です。

分離壁は2002年以降にイスラエルが建設を始めたもので、パレスチナ自治政府の領域を囲むように作られている高さ9m、コンクリート製の壁。
完成すれば総延長は700キロ以上に及ぶ。

実際はパレスチナ領域内のユダヤ人大規模入植地をイスラエル側に取り込んでいるため、パレスチナ領域内を侵食している。イスラエルが勝手に自国に都合の良い国境線を引こうとしているわけで、国際司法裁判所は違法との判決を下している。

もともとイスラエルが作った理由は、パレスチナ側からのテロを防ぐ為で、実際効果はあるらしい。しかし真意は別の所にあるらしい。

パレスチナ人は出生率が高く、もしこのままパレスチナ人の領域を占領したままだと、50年後にはイスラエルにおけるパレスチナ人の人口がユダヤ人の倍になってしまい、ユダヤ人国家ではなくなってしまう。その為、イスラエルの強硬派やパレスチナ人の反対を押し切って建設を急いでいる。

イスラエルの国民も概ね支持しているようで、今までの平和への取り組みの度重なる失敗、相次ぐテロにより、一方的にパレスチナを切り離して、ユダヤ人の領域で自分達の生活を守る、という意識が強いという。

一方、パレスチナ人は経済的にイスラエルに依存しており、分離壁によって、イスラエルに職を持っていたパレスチナ人の多くは失職する。その為行き場を失ったパレスチナ人がテロに参加したり、国境付近で仲良くやってきたイスラエル人とパレスチナ人居住者の関係悪化が懸念されている。
パレスチナ問題の経緯はこちら

画像の壁には絵が描かれている。この絵は違うと思うが、2005年末からバンクシーというイギリスの美術家が、ゲリラ的に落書きしているそうだ。
その内容は、平和への願いを込めたものだそうだ。(以上、朝日新聞の記事から)

ここにはイスラエルの厳重なチェックポイントがある 31 43' 06.40"N 35 12' 08.22"E 。パレスチナの領域に入る時は、比較的軽いチェックだった。

ここで今までのバスから降りて、パレスチナのバスに乗り換える。

尚この辺には、旧約聖書にあるイスラエル人の祖ヤコブの妻ラケルの墓があるはずだが、場所が良くわかりませんでした。

Fi2512521_2e ベツレヘムの市街、メンジャー通りです 31 42' 21.56"N 35 12' 16.02"E 。
やはりイスラエルの町とは雰囲気が違います。
バス終着駅 31 42' 22.39"N 35 12' 17.56"E を降りて、聖誕教会に向う所。

ベツレヘムはエルサレムの南7キロ、ヘブロン街道上にあり、町中には泉が無い為、貯水池が使われ始めた青銅器時代に集落ができたそうです。

イスラエルの祭司部族、レビ族の出身地、ダビデの出身地でした。
ヘロデ王マサダ砦やヘロディウムを造った時、これらの場所に行く途上にあった事から重要な場所でした。
また、イエスが生まれた地とされています。

第二次ユダヤ反乱の後、ここはアエリア・カピトリーナの領域だった為、ユダヤ人が追放されました。
また反キリストのローマ皇帝ハドリアヌスにより、イエスが生まれたとされる洞穴の上に、ウェヌスとアドニスを祀る神殿が建てられました。

2世紀の終わりにはユダヤ人は存在していませんでしたが、4世紀の終わりに再び住み始めたようです。

4世紀には、コンスタンティヌス1世の母ヘレナが、イエス生誕の洞穴に大規模な教会を建てました。
7世紀にはアラブ人に占領され、11~12世紀は十字軍が支配していました。

Fi2512521_3e 聖誕教会の前にあるメンジャー広場です 31 42' 15.97"N 35 12' 23.20"E 。

拡声器からコーランが聞こえてきました。そして辺りを包む喧騒。
ヨーロッパ的なイスラエルから離れ、アラブ情緒に浸れて、新鮮な気分を味わう事が出来ました。

Fi2512521_4e 聖誕教会の外景。

聖誕教会は、4世紀にコンスタンティヌス1世の母ヘレナが建てた教会で、コンスタンティヌス帝がパレスチナに建てた3つの教会の1つです。

6世紀、サマリア人の反乱で破壊されましたが、ビザンツ皇帝ユスティニアヌスにより再建されました。現在残っているのは、この建物です。
サマリア人の時のような攻撃に備える為、壁は厚くなりました。

7世紀にはペルシャ人が占領しましたが、壁にイエス生誕に立ち会ったとされる東方の三博士のモザイクがあり、それがペルシャの服を着ていた為に破壊を免れたという伝承があります。

イスラムの征服後、エルサレムの岩のドーム建設の為に、ここの大理石の大半が持ち去られました。

十字軍の歴代王は、ここで戴冠式を行ないました。

16世紀以降、略奪により荒廃したとの事です。

現在、ここにはカトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教の教会があります。

画像左奥に、小さな入口があります。
教会の前には、土産物売りが大勢いて、「ワンダラー、ワンダラー」としつこく声をかけてきます。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・シオン山・ダビデの墓

エルサレム旧市街の南側外にある、シオン山観光の続きです。

最後の晩餐の部屋の下にある、ダビデ王の墓です。
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ユダヤ教徒の人達が、入れ替わり立ち替り訪れ、熱心に祈りを捧げている場所です。
嘆きの壁と同様、男女で入る場所が分かれています。また帽子を被らなくてはいけません。

旧約聖書には、ダビデはダビデの町に葬られたと書かれています。
新約聖書にも、墓の存在が記されています。
ホーリーランド・ホテルにある、第一次ユダヤ反乱勃発時のエルサレムの模型では、ピラミッドを頂く巨大な塔の墳墓として復元されています。
しかし考古学者ピンカーフェルドは、ここはローマ時代には墓地ではなく、シナゴーグだったと言っています。

ダビデの墓は、第二次ユダヤ反乱の時ローマ軍により破壊されたそうです。
14世紀、ヴェネツィアの貴族マリノ・サヌードは、ここにソロモン、ダビデなどユダヤ諸王の墓があったと書いています。
マムルーク朝時代には、シオン山はキリスト教徒、ユダヤ教徒双方の聖地だったため、両者の確執がありました。キリスト教徒は、ダビデの墓があるという理由でシオン山から追い出されたと言って、ユダヤ教徒を非難しました。
第一次~第三次中東戦争の間、嘆きの壁に入ることを禁じられたユダヤ教徒は、ここを最大の巡礼地にしていました。
また、オスカー・シンドラーの墓が近くにあるようです 31 46' 14.13"N 35 13' 48.31"E 。

この後、シオン門近くの旧市街でおみやげタイム 31 46' 23.12"N 35 13' 48.59"E 。門の外には観光用のラクダがいました。

Fi2507855_1e 旧市街の西と南を取り巻く、ヒンノムの谷です。
(このあたり 31 46' 05.80"N 35 13' 45.32"E )

水のない涸れ谷で、特に南側は露岩のある険しい断崖になっています。
古代イスラエル王国の一時期、犠牲を捧げる異教的祭儀が行われた。モレク神に子供を捧げて火渡りさせたり、焼き殺したという。
この忌まわしい習慣から、ユダヤ教においては最終的な処罰の場所を示すようになり、地獄(ゲヒノム)の語源になった。
また、町のゴミを焼却する場所でもあったそうだ。

イエスに有罪判決が下された時、後悔したユダは受け取った銀貨30枚を神殿に投げ込み、ここで首を吊って自殺した。祭司らは銀貨を神殿に納める訳にはいかず、シオン山?に畑を買って、外国人の墓地にしたという(マタイによる福音書)。

アカデミー賞11部門を獲った映画「ベン・ハー」では、ベン・ハーの母と妹が送られる死病の谷として描かれた。
ゴルゴタの丘から流れ込んだイエスの血に、二人が癒されるラストシーンは、実に感動的な場面でした。

Fi2507855_2e たまにはバイキング以外を、と言う事で、旧市街の新門の近くにあるインド料理店で昼食
この後、明日行く予定だったベツレヘムにこれから向かいます。


ここでダビデの生涯をまとめます。

ダビデは紀元前10世紀の人で、古代イスラエル王国の二代目の王です。
旧約聖書に数多く現れ、ユダヤ人の輝かしい時代の王であり、イエスの先祖とされ、容姿が美しかった事から、ミケランジェロを始め多くの芸術作品の題材にされています。


1.ユダ族の富裕なエッサイの子として生まれた。兄弟姉妹は7,8人いて、皆容貌に恵まれていたと言う。

2.子供の時、預言者サムエルにより未来の王として頭に香油を注がれた。サムエルはエッサイが見せた美しい7人の子を選ばず、「神は容貌よりも心を見る」と言って羊飼いの仕事で不在だったダビデを選んだ。

3.イスラエル王サウルは、サムエルから神への不従順を責められ、欝になっていた。
音楽の才能に秀でていたダビデは、宮廷に召し出されてサウルを癒したと言う。その為サウルから愛され、武器持ちになった。

4.イスラエル人とペリシテ人が戦った時、ペリシテの巨人ゴリアテが挑戦者を求めた所、皆恐れて応えなかった。ダビデだけが応じ、投石器を使って倒した為、その名声は大いに高まった。ダビデは兵の隊長に出世した。そして更に戦功をたてたらしい。

5.ダビデに対する賞賛が高まった為、サウルはダビデに嫉妬し、たびたび殺そうとした。激戦地に送って戦死させようとしたり、槍で刺し殺そうとした。
娘ミカルがダビデを愛するようになると、その結納として敵であるペリシテ人男性の包皮百枚を要求するという無理難題を課した。しかしダビデの軍はペリシテ人を殺して二百枚を持ち帰り、ミカルと結婚した。

6.しかしダビデは遂に宮廷から逃亡した。一族や手勢と共に放浪したが、各地の傭兵になって衣食をまかなったらしい。またユダ族との友好関係を保とうとして、たびたび敵の攻撃から救った。
しかしサウルの追跡は厳しく、ダビデは死海沿岸のエン・ゲディまで逃げた。

7.逃げ切れないと考え、ペリシテ人の王アキシの部下になった。そしてイスラエル人を攻めていると見せかけて他地を攻め、略奪品を自軍の充実とユダ族への贈り物に使った。
ペリシテ人がサウルへの総攻撃を計画すると、最初ダビデも従軍を要求されたが、ペリシテの諸侯は裏切りを恐れて従軍を望まず、ダビデはイスラエル人と戦う事態を免れた。

8.サウル王がギルボア山の戦いでペリシテ軍に敗れて死ぬと、ダビデは彼に感謝していたユダ族から王として迎えられた(30歳の時)。
イスラエル王国は、サウルの子イシボセテの北王国と、ダビデの南王国に分裂した。
イシボセテと摂政のアブネルが不和になると、ダビデはアブネルにミカルを連れて来るように言った。これはサウルの娘婿として、イスラエル王国の王位継承権がある事を明確にする為だった。

9.アブネルが暗殺され、希望を失った軍の隊長にイシボセテが殺されると、イスラエルの全部族はダビデを王として推戴した
ダビデは北王国と南王国の国民感情を考慮し、両国に属さないエブス人の町、エルサレムを攻めて占領し、ここを首都にした。またイスラエル全部族を宗教的、政治的に統合する為、エルサレムに神の契約の箱を置いた。

10.治世の当初は、周辺諸国との戦いの連続だった。即位直後に攻め寄せたペリシテ軍を二回に渡って破り、大打撃を与えた。
エジプトとアッシリアの2大強国の衰退という幸運に恵まれ、周辺の中小国を次々に占領し、版図を大幅に拡大した。

11.バテシバを妃にした後、息子アブサロムの反乱が起きて、ダビデは一時期エルサレムから逃亡した。しかし反乱は鎮圧された。

12.反乱を機にして、ダビデは王国内の行政組織強化に乗り出した。軍の長、徴募人の長、史官、書記官、国家祭司などを置いた。これは年齢と共に衰える彼の力を補う物だった。

13.ダビデが死の床につくと、息子の1人アドニヤが王位につくと宣言した。
しかしダビデはバテシバの息子ソロモンを指名した。これによりソロモンはアドニヤ派を粛清した。
ダビデは70歳の頃死んだ。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・シオン山・最後の晩餐の部屋

エルサレム旧市街観光の続きです。

南のシオン門からエルサレム旧市街を出て、シオン山に着きました。
シオン山は、エルサレムの南西にある丘で、ビザンツ時代にシオン山バシリカ教会聖堂が建てられた場所です。

シオン山バシリカ教会聖堂は、最後の晩餐が行われ、聖母マリアが死去し、聖霊が弟子達に降臨した場所に建てられました。当時は、イエスが処刑の直前に被った茨の冠が展示されていたそうです。
この教会はエルサレム最古の聖所で、全教会の母なる教会とされた。

旧約聖書、新約聖書では、シオンという名称は、全エルサレム及びその住民を表わしている。その為シオニズム、シオニストの語源になった。

画像は、マリア永眠教会。20世紀初頭にドイツ人が建てた教会。
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実に重厚で堂々たる建物でした。( 31 46' 19.94"N 35 13' 43.92"E )

画像は、マリア永眠教会の塔です。
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この教会の地下には、永眠するマリア像があるそうです。

マリア永眠教会の前を通って狭い路地に入っていくと、建物の二階に最後の晩餐の部屋があります。非常にわかりづらい場所です。
(このあたり 31 46' 18.19"N 35 13' 44.39"E )
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イエスと12人の弟子達は、当時の習慣に従って、エルサレムの城内で過越し祭の食事をする計画を立てました。
これは夜中に行うもので、彼らを取り巻く支持者が居ない為、もし大祭司らに知れたら捕まる事は明らかでした。そこで彼らは二人ずつ、密かにこの場所に集まりました。
ここは”上の町”にあり、イエスを支持する上流階級の人が準備した場所でした。

これが過越し祭の食事かどうかは、異論があるそうです。
イエスは、これが最後の食事になる事を知っていたようです。
Fi2504747_3e ここでは以下のような印象的な出来事がありました。

1.ユダの裏切りの予告
一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。
「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。
弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

2.イエスが多くの人の救済の為、生贄になる事を予告
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

3.弟子達がイエスを見捨てる事を予告
イエスは弟子たちに言われた。
あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。
ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
(以上、新約聖書 マルコによる福音書・14章18~31節 新共同訳から引用)

3の補足:この食事の後ゲッセマネでイエスが捕まると、弟子達は四散した。
ペテロ(ペトロ)はイエスの様子を見に、大祭司カイアファの屋敷に忍び込んだ時、召使の女に見つかり、居合わせた人々から「お前はイエスの弟子だろう?」と厳しく追及された。
ペテロは怖くなって、「あんな人の事は知らない」と3回叫んだ。この間、鶏が二度鳴いた。
その時、屋敷からアントニア要塞へ連行されるイエスが通りかかり、ペテロの顔を見つめた。ペテロは最後の晩餐での、イエスの言葉を思い出して泣いた。

3ヶ月前、イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会で、レオナルド・ダ・ヴィンチ作の「最後の晩餐」の壁画を見ました。こんなに早く、本物を見られるとは思っていませんでした。

「最後の晩餐」の壁画では、イエスと弟子達はテーブルを前にして、椅子に腰掛けています。しかし実際は、肩肘を付いて横臥しながら食事を摂っていたようです。
それがローマ時代の食事方法で、6世紀の「最後の晩餐」モザイク画では、横臥する姿が描かれています。
しかし、この部屋で横臥したイエスが上記のような衝撃的な話をする様は、多少緊迫感に欠けるような気がします。

そもそもダビデ王の墓の上にあるこの部屋からして、本当に最後の晩餐が行われた場所なのかどうかわかりません。あくまでキリスト教の伝承です。
少なくともこの建物はイエス時代のものではなく、十字軍時代に建てられた、シオン山聖マリア教会堂の建物の一部だそうです。

14世紀のヴェネツィア貴族、マリノ・サヌードは、「聖地回復に参加する、真の十字軍兵士の秘本」という本の中で、この部屋を訪れた様を解説しているそうだ。
そしてこの部屋の側にユダヤの王の墓がある事、シオン山の南側に、ユダがイエスを売って得た金で買った畑を見た事を、解説している。


ユダは何故イエスを裏切ったのだろうか?
この疑問は作家達にも気になるらしく、いくつかの参考文献ではその理由が書かれていました。そのいくつかを書き出してみます。

1.ユダは、ユダヤ民族主義を掲げる熱心党員で、イエスがユダヤ人の独立を勝ち得るメシアと信じて付いて来た。しかしイエスの方向性が自分とは異なる事に幻滅し、何とかイエスを民衆蜂起に立ち上がらせる為に、大祭司に襲わせるよう仕向けた。
恐らくユダの目論見は、大祭司の手下に襲われたイエスが逃走し、ベタニヤにいる支持者やエルサレムにいる反ローマの住民達と共に立ち上がり、熱心党もこれに合流する、という物だったのだろう。
しかし、ゲッセマネでイエスは逃げるどころか、弟子達に抵抗するなと言って連行された。

2.過越し祭の少し前、イエス達が宿泊していたベタニヤ村で、ラザロの姉妹のマリアが高価な香油の瓶を壊し、イエスの頭に注いだ。香油を頭に注ぐ行為は、尊敬を表わす行為だった。
この香油は、高価な雪花石膏の瓶に詰まった高価なナルドの香油で、イエスは注ぐにまかせたという。これを見たユダは、貧者に全てを与えるという公約をイエスが破っているように思われ、怒りを感じたと言う。

3.ユダは裏切るつもりはなかったという説もありました。
過越し祭の前日、ユダが過越し祭用の生贄の子羊を屠りにエルサレム神殿に行った時、大祭司らに見つかってしまい、イエスが過越し祭を城内で祝う事を悟られてしまった。
最後の晩餐の時、心配になったユダは大祭司の館に様子を見に行ったが、恐らくここで捕まり、厳しく脅されたのだろうか?結局イエスの居場所を道案内させられる事になったと思われる。
ゲッセマネでイエスに対して行った接吻は、合図ではなく謝罪の意味だったという。

4.最近解読された4世紀作の「ユダの福音書」では、イエスは自分の教えを最も理解していたユダに、裏切りを指示したそうだ。
正統、異端を問わず、新約聖書の各福音書は、イエスの死後数十年以上経ってから伝承を元に書かれたものだそうだ。歴史的正確さを追及するというよりは、神学的成果を追及したものだそうで、要するに真実は誰にもわからない。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・旧市街のユダヤ教徒地区(カルドー周辺)

エルサレム旧市街観光の続きです

聖墳墓教会の観光を終え、旧市街の南の城外にある、シオン山に行きます。

途中、旧市街のユダヤ人街を通りました。
エルサレム旧市街は4つの居住区、ユダヤ教徒地区、アルメニア正教徒地区、キリスト教徒地区、イスラム教徒地区に分かれています。

画像はユダヤ教徒地区のアーケード商店街です。たぶんここはローマ時代にエルサレムを南北に貫いていた主要道、カルドーの現在の姿だと思います。( 31 46' 33.65"N 35 13' 51.07"E )
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屋根は修復されているようですが、十字軍時代のものらしいです。

旧市街の中では、割と清潔感のある通りだったので、じっくり店を見てみたかったのですが、時間に追われてそれもかなわず。

こちらはローマ時代のカルドーの遺跡です。
( 31 46' 32.05"N 35 13' 50.87"E )
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ローマ帝国の皇帝アエリウス・ハドリアヌスは、第二次ユダヤ反乱の結果、エルサレムからユダヤ人を追放し、廃墟の上にアエリア・カピトリーナという殖民都市を造りました。
それは一般的なローマの都市に見られる、碁盤目状の街路を持つ都市でした。

ここには3つの主要道がありました。
ダマスカス門からシオン門を南北に繋ぐ西カルドー、ダマスカス門から糞門を南北に繋ぐ東カルドー、これらと交差して、ダビデの塔近くのヤッフォ門から神殿の丘の鎖門までを東西に繋ぐデクマヌスでした。

ここは、かつての西カルドーで、現在はハーンエザイト通りの延長線上にあります。
当時は幅22.5mの舗装道で、屋根付きの列柱が両側に並んでいました。
またカルドーの周囲には店が建ち並んでいました。
買物客は、天気を心配せずに買い物する事ができました。

Fi2500732_2e これはマダバ地図の複製です。

マダバはヨルダンの都市で、そこの教会の床にある6世紀のエルサレムのモザイク地図です。当時のエルサレムを知る重要な史料になっています。

この地図は、左側が北になっており、楕円形がエルサレム旧市街を表わします。
左端にある門が現在のダマスカス門。その広場の上方に、ビザンツ皇妃エウドキアの館があります。
ダマスカス門から斜め上に伸びている列柱付きの街路が東カルドー、真横に伸びている列柱付きの街路が西カルドーです。カルドーが2つあるのはエルサレム特有の構造で、通常のカルドーに加え、神殿の丘への道が必要だった為です。
西カルドーの中央の下側には、半円形のドームを持つ建物群があります。これは聖墳墓教会です。
西カルドーの右端には、大きな屋根を持つ聖母マリアの新(ネア)教会があります。ユスティニアヌス大帝が建てた物です。

これはカルドーの脇にある商店跡。十字軍時代のもの?
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これはラムバン・シナゴーグの塔。
( 31 46' 31.02"N 35 13' 51.76"E )
Fi2500732_4e
第一回十字軍による虐殺で大打撃を受けたユダヤ人共同体は、マムルーク朝時代になってようやく回復した。
ユダヤ教徒地区には多くのユダヤ人が訪れるようになったが、13世紀にスペインから訪れた聖書注解者ラビ、モシェ・ベン・ナフマンもその1人だった。
頭文字を略して、ラムバンと呼ばれた。彼はこの場所にシナゴーグを建てた。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・聖墳墓教会~その6

エルサレムの聖墳墓教会観光の続きです。

Fi2498320_0e 聖ヘレナ礼拝堂に降りていくと、途中にこんなものが。
ただの岩壁のように見えますが、柵で囲ってあります。
もしかして、ゴルゴタの丘の一部?

Fi2498320_1e 聖ヘレナ礼拝堂です。( 31 46' 42.58"N 35 13' 48.47"E )

ヘレナはローマ皇帝コンスタンティウス1世の母で、イエスの死から300年後、ゴルゴタでイエスの墓と十字架を発見、聖堂を建てた人です。

一説によればビテニアの小さな宿屋の娘として生まれたが、コンスタンティウス・クロルスという貴族に見初められて結婚した。その後、夫は大出世してマクシミアヌス帝の副帝になった。
ところが喜びも束の間、夫はマクシミアヌス帝の養女と政略結婚し、ヘレナは離縁させられた。
しかし夫の死後、息子のコンスタンティウス1世がローマ皇帝になり、栄位が回復された。

コンスタンティウス1世とヘレナと、どちらが先に帰依したかわからないが、両者とも熱心なキリスト教徒になった。
コンスタンティウス1世はキリスト教を帝国内で初めて公認し、キリスト教内の対立を調停すべく各地の指導者をニケーアに招集した。その際、アエリア・カピトリーナ(エルサレム)の司教が、キリストゆかりの場所が荒れ果てているので浄化するよう訴えた。
コンスタンティウス1世は様子を調べる為に、信頼できる人物を派遣しようと考えた。その時、母ヘレナが名乗りを挙げたらしい。


ヘレナは既に80歳近く、パレスチナへの旅は死を覚悟したものだったと思われるが、聖地を一目見たいという情熱が駆り立てたのだろう。コンスタンティウス1世は彼女の派遣を認めた。

アエリア・カピトリーナに着いて間もなく、彼女はヴィーナス神殿の真下にイエスの墓と処刑された場所を発見した。夢の中で頻繁に啓示を受けていたとの事です。

聖ヘレナ礼拝堂の右脇の階段を下りた所にある、聖十字架発見の聖堂です。
Fi2498320_2e
ソクラテス・スコラスティクスという歴史家が、こう述べているそうだ。

「その都(エルサレム)はきゅうり園の番小屋のように荒れ果てていた。・・・・・彼女(ヘレナ)は(ヴィーナス神殿の)像を投げ捨て、土盛りを取り除いて、その場所を綺麗にした。すると、その墓の中から3本の十字架が見つかった。・・・・・それらと共に、磔刑に処せられたキリストはユダヤの王であると、ピラトゥスが色々な言語で書いた貼り札も見つかった。」
(紀伊国屋書店、イアン・ウィルソン著、小田卓爾訳、「真実のイエス」より引用)

この十字架の木片は、ヴァチカンのサン・ピエトロ寺院を始めとして各地の教会にわけられているらしい。
普通に考えると、多くの受刑者が処刑されたゴルゴタで、偶然イエスの十字架が見つかる可能性はほとんどないと思われます。しかし熱心な信者にとっては、十分満足できる代用品なのだと思います。
かく言う私も、マルコ・ポーロが得たはずの、聖墳墓の上で灯されているランプの本物の聖油は得られなくても、エルサレム旧市街で買ったありふれた5ドルの聖油で、十分に嬉しかったのでした。

これはイエスが息を引き取った時に、雷で砕かれた岩だと言われています。
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聖墳墓教会の歴史についてまとめます。


第二次ユダヤ反乱が終った時、五賢帝ハドリアヌスはエルサレムからユダヤ人を追放し、ローマの殖民市、アエリア・カピトリーナを建設しました。
神殿の丘にユピテル神殿を築いて、ユダヤ教をエルサレムから根絶しようとしました。

ハドリアヌスがユダヤ教以上に危険視していたのがキリスト教でした。彼は、キリスト教の聖地だったゴルゴタの丘にヴィーナス神殿を建て、キリスト教の聖地をも抹殺しようとしました。

しかし、その二百年後、ハドリアヌスの試みは失敗に終りました。キリスト教を公認したコンスタンティウス1世が派遣した母ヘレナは、ヴィーナス神殿の真下にイエスの墓と十字架を発見しました。コンスタンティウス1世は神殿を破壊し、一群の大聖堂を建てました。

この聖域は高い壁で囲まれ、東側にある入口はカルドと呼ばれるエルサレムの主要街路に面していた。
入口を入ると屋根のない中庭があり、その西側にマルテュリオン(殉教聖堂)というバシリカ聖堂があった。これは50m×41mという大きなもので、天井には金メッキ、壁には大理石と色石が嵌め込まれ、金の十字架が立つ高さ5.4mの岩の塚があったという。

マルテュリオンの西には、聖なる園という屋根のない中庭があった。
更にその西には、アナスタシス(復活聖堂)があった。ここにはイエスの墓と言われるものがあるが、ゴルゴタにあった墓のひとつを周囲から切り離して、アエディクラという円形あるいは半円形の聖堂に覆われていた。
ただし、この墓がイエスを納めた墓(アリマタヤのヨセフが所有していた墓)だという確証はないという。

この教会は、7世紀にササン朝ペルシャの侵攻で破壊され、その後復旧したが、11世紀のファーティマ朝による破壊で全壊した。
その後ビザンツ皇帝が再建し、12世紀に十字軍が聖なる園を屋根で覆い、ロマネスク様式の建物に改修した。
入り口は南側に変更され、いくつかの建物が付加されて現在に至っている。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・聖墳墓教会~その5

エルサレムの聖墳墓教会観光の続きです。

アナスタシス(復活聖堂)を出ました。
これから、地下にある聖ヘレナ礼拝堂に行きます。
見上げると、十字軍時代のアーチがそそり立っています。
Fi2492711_0e

これは聖ヘレナ礼拝堂に降りる直前にあった、小さな聖堂。
Fi2492711_1e
あざけりの教会でしょうか?( 31 46' 42.50"N 35 13' 47.63"E )

聖ヘレナ礼拝堂に降りる階段の壁にある、中世の巡礼者が刻んだ十字架。
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壁一面に無数にあります。
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遠路はるばる、命の危険を冒しながらパレスチナまでやって来て、遂にここで巡礼できた喜びが伝わってくるようです。

ここで、中世の巡礼者が見た聖墳墓の様子を、参考文献から挙げてみます。

13世紀、マルコ・ポーロの聖地訪問の10年後に訪れた、ドイツ人修道士ブルックハルトは、こうのべています。

「主の棺がある洞穴は、縦横それぞれ8フィートある。
外側は大理石で完全に囲まれているが、内部は主が埋葬された時そのままに岩が露出している。
この洞穴への入口は、東から入るようになっており、非常に低く、小さい。
入る方に向って右手には、聖なる棺の安置所が北の壁を背にしている。それは、灰色の大理石で造られていて、地表より高さ約60センチ、長さ8フィート、つまり納骨堂というか、洞穴と全く同じ大きさである。
外からの光は一切差し込まないで、主の棺の上に吊るされた9つのランプだけが内部を照らしている。」

現在の聖墳墓と、基本的に変わっていない事がわかります。
ブルックハルトは、十字架が立てられた穴や、まだ生々しい血の色に染まった、イエスが鞭打たれた石柱を見たという。

14世紀に訪れたドイツの聖職者、ルドルフ・フォン・ズーヒェムは、こう述べています。

「墓所の全面を覆っている石は、3つの穴が空けられていて、この穴から棺の本体に接吻できるようになっています。
棺が納められているこの石の箱は、実に巧妙に本体と接続されており、まるで全体が1つの石で造られているかのように思われます。
・・・・・こうして棺は、長い間厳重に守られてきた訳です。」
(括弧内は新評論、ヘンリー・H・ハート著、幸田礼雅訳、「ヴェネツィアの冒険家」から引用)

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)~その7(聖墳墓教会④)

エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです。

聖墳墓教会にある、第14留(イエスの墓)の中に入ります。
建物に入ると、天使の礼拝堂という部屋があります。
Fi2490468_0e

この奥にある墓室には2,3人しか入れないため、ここで一旦待たされます。

待っている間、場所が場所だけに、結構緊張していました。
この神父?さん、ずっと立っていて大変だろうな。墓室の中で長居をする人がいると、声をかけていました。
この部屋には、イエスの墓室の車輪型の扉の、破片があるそうです。

墓室に入りました。
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祭壇の上に、大きなイエスの像と復活したイエスの銀のレリーフ、復活したイエスの油絵が飾られていました。

信徒の人は、一生懸命に祈っていました。
ここに入る前、信徒の人たちにとって神聖なこの場所を、一観光客に過ぎない私が入って写真を撮る事に少しうしろめたさを感じました。
しかし、この旅の思い出を、どうしても残したくて撮りました。

イエスの遺体が置かれた場所。畳一畳ほどの赤みを帯びた大理石です。

Fi2490468_2e
遺体は、アリマタヤ出身のヨセフというイエスの支持者が麻布に包んで、自分の為に買っておいた岩を掘った穴に安置された。
サンヘドリン(ユダヤ最高法院)の一員であるニコデモも手伝った。

墓は、重い車輪型の石で密封された。
しかも、マタイによる福音書によると、いかなる謀りごとも防ぐように番兵までつけられた。

イエスが処刑され、墓に納められたのは安息日の前日、金曜日の出来事だった。

既に夕方になった。

その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。
この人も神の国を待ち望んでいたのである。

ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。
そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。

ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。
マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
(マルコによる福音書・15章42~47節 新共同訳)

Fi2490468_3e これは、私が一番見たかった物のひとつ、聖墳墓の上にあるランプです。

1271年、マルコ・ポーロ一行は聖墳墓教会を訪れた。
モンゴルの皇帝、フビライ・ハーンへの贈り物、聖墳墓のランプの聖油をもらう為だった。

ついに見ることが出来ました。東方見聞録に出てくる聖油。

14世紀に訪れたドイツの聖職者、ルドルフ・フォン・ズーヒェムは、こう述べています。

「聖墳墓教会には、古くからグルジア人が住んでいて、聖なる礼拝堂へ入る鍵を持っています。教会の南に面したドアの小窓を通して、巡礼者は食べ物、お布施、蝋燭、そして聖棺を照らすランプの油を彼らに施します。」

このランプは聖金曜日の9時には必ず消え、復活祭の日のキリストが復活した時刻に、再び自然に灯ると言われていた。
ルカによる福音書・10章38節に出てくるマルタという女性と、その弟ラザルスによって置かれたという。

墓に安置されて二日後の日曜日、イエスの遺体は忽然と消えうせた。
以下はその時の様子です。

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。
そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
(ヨハネによる福音書・20章1~2節 新共同訳)

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

天使は婦人たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」

婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
(マタイによる福音書・28章1~10節 新共同訳)

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。

墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。
しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
(マルコによる福音書・16章1~11節 新共同訳)

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
(ルカによる福音書・24章1~9節 新共同訳)

福音書によって微妙に内容が違うが、イエスの復活の最初の確認者としてほぼ共通しているのは、マグダラのマリアのようです。
マグダラのマリアはイエスから「7つの悪魔」を癒してもらうなど、心の病気になっていたようで、彼女の証言は当てにならない、とある本に書かれていました。しかしこれを皮切りに、色々な場所で実に数百人以上の人々が復活したイエスを目撃する事になりました。

良くわからないのは、目撃者の中にはイエスに接してもすぐには気付かない人がいる事です。しぐさを見て初めてイエスだと気付いた例もあります。

何よりも不思議なのは、イエスが捕まった時には逃げていた弟子達が、復活したイエスに会ってから積極的に伝道活動を始めた事です。
ペテロはエルサレムの神殿で、大祭司達を糾弾しました。捕まっても堂々と渡り合いました。
復活は、現在のキリスト教の隆盛を築いた重要な出来事だと言えます。

死者が本当に蘇って弟子達の前に元気な姿を現した、というのは考えられない事です。それでは「復活」とは何だったのか?

イエスの処刑という逆境に直面して、弟子達は自己を見つめ直し、再びイエスの教えに意欲的に取り組む決意を固めたのかも知れません。
イエスを見捨てたという慙愧や、イエスの酷い死に様は、弟子達に大きな感情エネルギーを与えたと思います。
例えマグダラのマリアが幻を見たにせよ、弟子達は大いに共感したのでは?
イエスが死んだのであれば、人々の関心は次のメシアに向うかもしれませんが、復活したのであれば、未だ信徒たちの傍らに存在している事になります。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)~その6(聖墳墓教会③)

エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです。

聖墳墓教会の中です。
Fi2484394_0e これは塗油の石と呼ばれ、十字架から引き降ろされたイエスの遺体をここに置き、香油を塗ったところです。

背後には、イエスを十字架から降ろし、マリアがイエスに頬をすり寄せ、墓に収める様子がモザイクで描かれています。


その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。
ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。

そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。

彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
(新約聖書 ヨハネによる福音書・19章38~40節 新共同訳)

これは、塗油の石から聖墳墓に向う途中の聖堂の片隅にあったもの。
Fi2484394_1e
何でしょうか?マグダラのマリアの聖堂かな?

聖墳墓教会内には、いわくありげな物が色々と置いてあります。
できれば時間を取ってじっくりと見たい場所です。

ヴィア・ドロローサの終点、聖墳墓教会内にある第14留です。( 31 46' 42.63"N 35 13' 45.85"E )
Fi2484394_2e
イエスの遺体を納めた聖墳墓で、アナスタシス(復活)と呼ばれています。

この場所は丘の中腹でしたが、4世紀、墓室内が見えるようにこの辺一帯が取り除かれました。それ以来、丘の原型は残っていません。

墓を覆って建つ今の建物は、19世紀に建てられたもの。

キリスト教で最も神聖な場所のため、ここだけは5つのキリスト教会派の共同管理になっています。
センスの良い建物とは思えませんが、このごてごてさは、信徒の人達の熱意の表れなのかもしれません。

聖墳墓の中は狭くて人数が限られる為、ここだけは入場する人の列ができていました。

Fi2484394_3e 建物の上にある十字軍時代のドーム天井。
上空を覆うドームが、教会内の荘厳な雰囲気を醸し出しています。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)~その5(聖墳墓教会②)

エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです。

Fi2484163_0e 聖墳墓教会の中の、第12留です。

十字架が立てられ、イエスが息を引き取った場所。( 31 46' 42.41"N 35 13' 47.10"E )
ギリシャ正教の祭壇になっています。
祭壇の両脇は、二人の盗賊がイエスと同時に十字架に架けられた場所。


「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。
犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。

民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
(新約聖書 ルカによる福音書・23章33~43節 新共同訳)


兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。
下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。

それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」
そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
(新約聖書 ヨハネによる福音書・19章23~27節 新共同訳)


昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
(新約聖書 マルコによる福音書・15章33~36節 新共同訳)


この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
(新約聖書 ヨハネによる福音書・19章28~30節 新共同訳)


イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
こう言って息を引き取られた。
(新約聖書 ルカによる福音書・23章46節 新共同訳)


第13留ですが、恐らくこの祭壇の右側にある、画像でちょっとだけ見える小さな祭壇がそうだと思います。
第13留は、聖母マリアがイエスの遺体を引き取ったところです。
ガラス箱に入った、小さな聖母マリアの木像がありました。

著名な某ガイドブックには、これとは違った写真が載っており、どれがそうなんだ~!と探してしまいました。

Fi2484163_1e 第12留の祭壇の下には、イエスの十字架が立てられたゴルゴタの丘の岩があります。

Fi2484163_2e 第12留の祭壇の下にある、十字架が立てられた穴と言われています。

十字架刑は、ローマ帝国における極刑です。
帝国への反逆者に対する刑罰だが、ローマ市民に行われることはまれで、通常奴隷に対して行われたそうだ。


有名なのが、紀元前1世紀のスパルタカスの反乱奴隷に対する処刑で、六千人を十字架に架け、アッピア街道沿いにまるで街路樹のように並べたと言う。S・キューブリック監督の映画「スパルタカス」のラストにその情景が出てきます。

あまりに忌み嫌われた刑罰であったため、十字架刑を示す史料はほとんど残っていないそうだ。
十字架刑に架けられたと思われる遺骨も断定できないそうで、その理由として、手足に打ちつけた釘が熱病や癲癇に効果があると考えられ、医術品市場に流出したからだそうだ。

受刑者は十字架に架けられたまま、日射病や飢えで死ぬまで放置された。
体重の重みでずり下がり、窒息間際の状態を繰り返す、とも言われています。

死を早める為、刑場に向う前に鞭打たれ、十字架を背負わされ市中を引き回されて体力を消耗させられる。また、十字架に架けられてから槍で突かれる事もあった。


イエスは、価値観を逆転させるような思考を度々行っていたそうです。
例えば、山上の垂訓での「心の貧しい人々は、幸いである・・・」という言葉。
最後の晩餐(後述)の前に、弟子の足を洗う行為。
そして現在、忌み嫌われていた十字架刑の道具が、キリスト教徒にとって栄光のシンボルになっています。
結果的に、イエスは栄光と対極の位置にある刑死によって、栄光を掴んだのかもしれません。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)~その4(聖墳墓教会①)

エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです。

Fi2477242_0e 遂に、残りの第10留~14留がある、聖墳墓教会に着きました。

ここがかつて、ゴルゴタ(されこうべ)の丘と呼ばれた場所です。

聖墳墓教会は、キリスト教を公認したローマ皇帝、コンスタンティヌス1世により建てられました。
現在の教会は、ほとんどが十字軍時代のロマネスク様式の建物です。
教会の歴史については後述します。

エルサレムの教会の中で、最大かつ最重要な教会で、5つの教派(ローマカトリック、ギリシャ正教、アルメニア使徒教会、エチオピアコプト教会、シリア教会)が聖堂内の各所を教会として使っています。

構造としては、イエスの墓室があるアナスタシス(復活聖堂) 31 46' 42.63"N 35 13' 45.85"E 、イエスが処刑されたゴルゴタの丘の頭頂部であるマルテュリオン(殉教聖堂) 31 46' 42.69"N 35 13' 46.93"E が主で、その他小さな聖堂が散在している。また地下には、墓の発見者、ヘレナを祀る礼拝堂がある。

画像は教会の入口。当初は入口が3つあったらしいが、2つは閉鎖されて現在1つしか開いていません。(撮影地点 31 46' 40.94"N 35 13' 47.19"E )

左端は、1927年の大地震により損害を受け、鉄骨で補強されています。

画像右端にある赤い格子窓の中が、第10留。処刑前にイエスが衣を脱がされた所。カトリック典礼派の小聖堂になっています。

Fi2477242_1e ここで、2000年前のヴィア・ドロローサの道のりを見てみます。

画像は、ホーリーランド・ホテルにある、第一次ユダヤ反乱勃発時のエルサレムの復元模型。

一番奥にある4つの塔を持つ建物が、アントニア要塞。ここでイエスは死刑判決を受け、鞭打たれ、十字架を担いで出発しました。

手前の城壁の門が、たぶん第7留でないかと思われます。

ゴルゴタの丘はどこにあるかというと、実は城壁の手前の、粉々になった破片の辺りがそうだと思います。
この模型は現在移設作業中のため、所々が外されたり壊されたりしています。
ローマ時代、ゴルゴタの丘は裕福な市民の墓場で、周辺には建築資材用の採石場がありました。

画像の、アントニア要塞から城壁の門を経て、ゴルゴタの丘に至るまでが、当時イエスが歩いた道のりだと考えられています。
しかし学者の中には、当時、ユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスはアントニア要塞にいなかった、という説を唱える人もいる。
彼はハスモン家の宮殿にいたとか、ダビデの塔近くのヘロデの宮殿にいたと言う人もいて、その場合は、現在のヴィア・ドロローサの道のりとは全く違ったものになる。

第11留です。イエスが十字架に釘付けにされた場所。( 31 46' 42.41"N 35 13' 47.10"E )
Fi2477242_2e
カトリック典礼派の聖堂になっています。
祭壇の上には、釘付けにされる様子を描いたモザイク画がある。

没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
(※軽い麻酔薬の代用)
それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
(新約聖書 マルコによる福音書・15章23~26節 新共同訳)

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)~その3

エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです。

第7留です。
ここには、イエスの時代にエルサレムの城門があった場所で、イエスはここの鴨居に躓いて倒れたと言われている。( 31 46' 45.40"N 35 13' 50.41"E )
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現在は、フランシスコ会の小聖堂がある。
イエスはここから城外に出て、ゴルゴタの丘に向った。

小聖堂の中の祭壇。躓いた時の様子のレリーフがある。
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隣にある礼拝の部屋。
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ここから少し西側に第8留があるのですが、今回は行きませんでした。
第8留は、イエスとエルサレムの娘達が語った場所だと言われています。( 31 46' 45 01"N 35 13' 49.43"E )

民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。

「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。
『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
(新約聖書 ルカによる福音書・23章27~31節 新共同訳から引用)

ここは、恐らく第9留に行く途中にある教会だと思います。
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第9留にも行きませんでした。
第9留は、イエスが3度目に倒れた場所で、現在は聖墳墓コプト教会修道院の入口になっています 31 46' 43.33"N 35 13' 48.47"E 。

ここは聖墳墓教会に行く途中にある、ムリスタン地区です。
(撮影地点 31 46' 40.89"N 35 13' 48.47"E )
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狭い路地が多い旧市街で、ここだけ少し広々としていて、印象に残る場所です。
靴やカバンなどの皮革製品の店が多い、1辺130mの正方形の地区です。( 31 46' 38.82"N 35 13' 47.04"E )

紀元前1世紀には、ヘロデ王が新たに築いた、いわゆる第二城壁が通っていました。

第二次ユダヤ反乱の後、エルサレムはローマ風の都市に作り変えられました。すなわち、カルドとデクマヌスという二つの大きな街路が、交差する形態の都市になった。
この場所はその交差点に近く、中央広場という大きな広場があった場所でした。つまり、当時のエルサレムの中心でした。

現在、カルドはハーンエザイト通り、デクマヌスはダビデ通りと名前を変えています。
中央広場の遺構は、貯水池と歩道の一部、北の門の跡しか残っていません。

アラブ系イスラム帝国が支配した頃、キリスト教巡礼者の為の宿泊施設や、市場、聖母マリア教会が建てられました。また、フランク王国のシャルルマーニュの援助で、ホスピスと修道院が建てられました。

十字軍時代、これらの施設は聖ヨハネ騎士団の管轄に置かれ、巡礼者の為の病院になった。ベッド数は1000を超えたと言う。

クルド人のサラーフ・アッディーンが占領した後も、引き続き病院として使われた。“ムリスタン”というのは、クルド語で病院を意味します。

300年前から皮なめし業の中心になり、19世紀以降はドイツ人やギリシャ人に一部の街区が与えられた。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)~その2

エルサレムのヴィア・ドロローサ観光の続きです

第5留です。
十字架を背負えなくなったイエスに代わり、通り掛かりのシモンという人が背負った場所。
( 31 46' 46.12"N 35 13' 56.13"E )
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そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
(新約聖書 マルコによる福音書・15章21節 新共同約より引用)

第5留の小聖堂の壁には、イエスが手を付いた跡がある。
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第5留の小聖堂の中です。
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第6留に向かう途中。
ここの辺りからエルサレム北西尾根への登り道になる。
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建物はすべてエルサレム・ストーンと呼ばれる白色石灰岩で造られている。
周囲には店が建ち並ぶが、巡礼路のせいか客引きから声をかけられる事はなかった。

第6留です
。( 31 46' 45.54"N 35 13' 52.98"E )
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ここはベロニカという女性の家の跡で、現在はギリシャ正教会の小聖堂があります。

ベロニカが絹の布でイエスの顔を拭うと、布にイエスの顔が浮かび上がったと言う。
この布はバチカンのサン・ピエトロ寺院にある。


※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)~その1

エルサレム旧市街観光の続きです。

ここからしばらくヴィア・ドロローサ(悲しみの道)の観光になります。

ヴィア・ドロローサは、イエスがアントニア要塞で死刑判決を受けてから、十字架を背負ってゴルゴタの丘に行き、処刑されるまでの約1キロの道のりで、現在エルサレムの主要な巡礼路、観光路になっています。
その道のりの途中で起きた、様々な出来事があった場所を留(ステーション)と言い、14箇所あります。

ゲッセマネの園で捕縛されたイエスは、この逮捕の首謀者である前大祭司アンナスの館に連れてこられ、次いで現大祭司カイアファの館に連れてこられた。
カイアファはイエスが反ローマ暴動の首謀者であるという罪を確定した。
これは自らが死刑に処すると、イエスの支持者が自分を恨んで騒乱を起こしかねない為、ローマの総督に死刑判決を下させようとした為だそうだ。

ローマの守備隊がいるアントニア要塞に連れて行かれ、ローマのユダヤ総督、ポンティウス・ピラトゥスの前に引き出されたイエスは、彼の尋問を受けたが、ローマ法に照らして罪に問われるような事はなかった。
そこでピラトゥスは、イエスがガリラヤのナザレの出身である事を理由に、エルサレムに滞在していたガリラヤの領主、ヘロデ・アンティパスに委ねる事にした。
イエスを魔術師だと思っていたアンティパスは、魔法を起こす様促したが、イエスは無言のまま何もしなかったので、再びピラトゥスの元に送り返されてきた。

大祭司カイアファと、「神殿清め」の件でイエスに反感を持っていたエルサレムの住民は、イエスを死刑にする様、ピラトゥスに圧力を加えた。
ピラトゥスはローマ法を無視する訳にはいかず、何とかイエスを救おうとしたが、大祭司ら反イエス派の声も無視できず、イエスの罪を確定した上で、過越し祭の特赦の慣例を利用して、イエスを赦免しようとした。
しかし反イエス派は、熱心党の首領と思われる盗賊バラバを赦免して、イエスを死刑にする様、尚も主張した。
結局、大祭司らの「もしこの人を許したなら、あなたはカイザル(皇帝)の味方ではない」という言葉に動揺して、ついに死刑判決を下したのだった。

今回のヴィア・ドロローサ観光は、第3留以降のみで、第1留と第2留は観光しませんでした。

第1留は、アントニア要塞の跡地で、ピラトゥスがイエスに死刑判決を下した所と言われる。現在はアラブ人の小学校になっている。
( 31 46' 48.92"N 35 14' 03.26"E )

第2留もアントニア要塞の跡地で、ローマ兵が「ユダヤの王」と嘲ってイエスに茨の冠を被せた所。また十字架刑に先立って鞭打ちを行った所。( 31 46' 49.86"N 35 14' 01.98"E )
鞭打ちは処刑者の抵抗を弱め、早く死なせる為に行われた。フラゲッルムと呼ばれる体を引き裂く鉤の付いた鞭が用いられた。
それからイエスは、かなりの重さだったと思われる十字架を、ここから背負って出発した。

Fi2465259_0e 画像は、第2留の近くにあるエッケ・ホモ(この人を見よ)教会 31 46' 49.22"N 35 13' 58.97"E 。
ピラトゥスがイエスを指差して、この人には何の罪も見出せない、と言った所。
エルサレムで買ったポストカードの1枚です。

第3留。イエスが十字架の重みに耐えかねて、倒れた所。

( 31 46' 47.16"N 35 13' 55.58"E )
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アルメニア・カトリックの聖堂がある。
聖堂が開いていました。内部の祭壇です。
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第4留。母マリアがイエスを見た所。
( 31 46' 46.81"N 35 13' 55.86"E )
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アルメニア教会の入口の上のレリーフに、その時の様子が彫り込まれている。


イエスが死刑に至る経緯を、色々まとめて見ることにしました。

1.イエスの殺害理由は?

・ 大祭司アンナスとカイアファが、イエスを野放しにしたら自分の利益を失うと考えた(ある本によると、イエスに対する刑の確定は、サンヘドリン(ユダヤ最高法院)の決定ではなく、大祭司アンナスとカイアファの独断だったそうである。逮捕した夜中にサンヘドリンを召集する事など不可能だったらしい)。

・ イエスは、安息日の規定や律法の解釈を巡って、様々な宗教的権威と対立していた。

・ イエスが「神の子」を名乗った事よりも、神の名のもとに行った振る舞いに行き過ぎがあった。

・ 大祭司や貴族階級は、ローマ人と相対して生計を立てる必要があり、ローマ人と諍いを引き起こす可能性のある人物を生かしておけなかった。

2.ユダヤ総督、ポンティウス・ピラトゥスの対応について

・ ピラトゥスが死刑判決を下すまでの経緯を見ると、少し弱腰の印象を受ける。
しかし、歴史家フラウィウス・ヨセフスによると、ピラトゥスはたびたびユダヤ人と対立し、治安を維持する為に断固とした態度もとっている。
いくつかの本にも、ユダヤ人の暴動に慣れ、安易に妥協しない厳格な統治者で、ローマ法に忠実な人物、と書かれている。
また、10年間も総督の地位にあった事は、彼が無能な人物ではなかった事を示している。

・ それでは、何故大祭司の要求に屈して、イエスに死刑判決を下したのか?という疑問が生じる。
ピラトゥスは、ティベリウス帝の下で勢威を振るった大臣セイヤヌスの配下で、総督になれたのもセイヤヌスの力だった。しかし31年にセイヤヌスは反逆罪で失脚・処刑され、その配下にも嫌疑がかけられていた。
またセイヤヌスはユダヤ人弾圧の政策をとっていたが、失脚後、ティベリウス帝は懐柔政策に変えたそうだ。

このようなピラトゥスを巡る権力構造の変化が、ユダヤ人の扱いに対して慎重にさせた可能性がある。彼は、大祭司らサドカイ派もイエスの支持者も、敵に回したくなかったのではないか。

大祭司は、4万人近い神殿の使用人と建設労働者を雇っていた。これらを動員して圧力をかける事は可能で、しかも「もしこの人を許したなら、あなたはカイザル(皇帝)の味方ではない」という殺し文句を言うに及んで、ピラトゥスは遂に折れた。

3.イエスの代わりに赦免された盗賊バラバ

・ 不思議な事に、過越しの祭りの時期に、囚人を赦免する習慣はなかったそうである。

・ 明らかに反ローマの熱心党の首領を、釈放するとは考えられない。

・ バラバはイエス・バラバという名前だった。
イエスはヘブライ語でヨシュアと言い、特別な名前でも無いと思われるので、名前が一致したのは不思議ではないと思うが、バラバとは父の子という意味だそうで、これはイエスが自分を指して言う言葉だそうだ。偶然にしては出来すぎている。

・ 以上から、バラバが釈放された物語は、何らかの誤解から生じたのでは?とある本に書いてありました。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・岩のドーム(行っていませんが)

エルサレム旧市街観光の続きです。

嘆きの壁から北に向います。
Fi2461124_0e ここは西壁プラザの入口です 31 46' 37.04"N 35 14' 00.76"E 。

2000年前にウィルソン・アーチがあった場所と思われます。
ここは西壁トンネルウォークという観光路の入口になっています。
西壁トンネルウォークはヘロデ時代に完成した水路トンネルを辿る物で、地下に埋もれているヘロデ時代の西壁を、間近に見ることができます(地下に埋もれている壁は深さ21mもあります)。

480m辿った後、北にあるヴィア・ドロローサ(悲しみの道)の第3留近くに出ます。

更に北に行きます。
西壁プラザの入口を潜ると、イスラム教徒地区に出ました。
喧騒と雑然とした街並。別世界です。

画像は、エル・カタニン(綿織物市場)通りの入口だと思われます 31 46' 40.09"N 35 13' 59.01"E 。
Fi2461124_1e
14世紀のマムルーク朝の時に開設された市場の1つ
現在に至るまで数百年間、バザールが開かれてきました。
タイル張りのアーチ型の屋根や、売店の修理が行われているようです。

実は、この通りを真直ぐ東に歩くと、神殿の丘のほぼ中央部、岩のドームのある辺りに出ます。
しかし、神殿の丘に入るのに時間がかかるとの事で、観光はできませんでした。
昔も今も、異邦人は入れないのか・・・。

Fi2461124_2e これは見れなかった岩のドームです 31 46' 40.98"N 35 14' 06.63"E 。
エルサレムで買ったポストカードの写真です。

金色のドームを持ち、エルサレム旧市街のシンボル的な建物。
7世紀にウマイヤ朝カリフによって建てられた、現存する最古のイスラム建築です

中に大きな岩があるが、旧約聖書にあるアブラハムが息子イサクを神に捧げようとした場所だと言われる。
また、ムハンマドが大天使ガブリエルに導かれ、天馬に跨って着地した場所。
更にここから光の梯子を昇って天国に入り、アッラーから啓示を受けて降り立った場所。
内部には精緻かつ華麗なアラベスクが施されているそうだ。見れなくて残念!

この後、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)へ。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・神殿の丘西壁(嘆きの壁)

エルサレムの旧市街観光の続きです

ロビンソン・アーチと同じ神殿の丘の西壁にある、嘆きの壁に向います。

画像はユダヤ教徒の家族かな?
Fi2457966_0e
今日は月曜日。毎週月曜日と木曜日には、嘆きの壁で、親類縁者立会いの下で男子の成人式(バル・ミツバ)が行われる
13歳になった少年は、公衆の前で律法を朗読する。
これにより、成人としてシナゴーグで律法を朗誦する資格を得ることができる。

嘆きの壁に向う途中にはチェックポイントがあり、手荷物検査を受けます。

Fi2457966_1e ユダヤ教の聖地、嘆きの壁に着きました。
(このあたり 31 46' 36.31"N 35 14' 03.29"E )

嘆きの壁は、第一次、第二次ユダヤ反乱の時、ローマ軍によって破壊されずに残った神殿の丘を支える壁の一部です。
反乱失敗後に離散したユダヤ人が、4世紀以降、神殿陥落日(7,8月の9日)にここを訪れて、かつて自分達の神殿(ヘロデ王が増築した第二神殿)が建っていた時代を偲んで嘆き、祖国回復を祈った事から「嘆きの壁」と言われています

高さ18m、長さ60mです。
第三次中東戦争で、エルサレム旧市街を占領したイスラエル軍が、この辺りのアラブ人民家を取り壊して祈りの為の広場にしたものです。

左側は男性の祈りの場、右側は女性の祈りの場になっています。

画像は男性の祈りの場。
壁の積石は石灰岩で、一番下の7段がヘロデ時代のもので、それより上は後世に積み重ねられたもの。

Fi2457966_2e これは、2000年前の嘆きの壁周辺の様子です(ホーリーランド・ホテルにある復元模型。移築工事中のため破損している)。

手前にある街並みは、貴族などの上流階級が住んでいた上の町。

谷を挟んだ向こう側にある城壁で囲まれた部分が神殿の丘で、広さ300m×485m、高さ45mありました。
ヘロデ王が造成した物で、当時の工学技術を駆使した物です。

神殿の丘の中、左側に建っているのが第二神殿で、城壁の右端にある階段は、前回出て来たロビンソン・アーチの当時の姿。

左側にある橋はウィルソン・アーチと呼ばれ、神殿の丘と上の町を結んでいました
この橋のおかげで、上流階級の人々は谷に下る事無く、直接神殿に入ることができました。

ウィルソン・アーチのすぐ右側が、現在の嘆きの壁に当ります

Fi2457966_3e 嘆きの壁の近くでは、大勢のユダヤ教徒の人達で混雑しています

ある人は壁に触れながら、ある人は額を押し付けながら、一心不乱に祈り続けています。
広場では聖書などが置かれたテーブルがあちらこちらにあり、共同学習や成人式を行っているようです。
人が真剣に祈る姿からは、大きな情念のエネルギーを感じます。
ここはそのエネルギーが充満している場所で、観光目的で来た私は、そのエネルギーに気おされて、長居はやめて引き下がりました。

嘆きの壁を見上げた所です
Fi2457966_4e
所々にヒソプ(モーセがエジプトを脱出する前日、神の災いを防ぐ為に子羊の血を戸口に塗った草)?が生えています。

このヘロデ時代の積石は、綺麗に切り揃えられていて縁取りがあり、その内側が平に盛り上がっています。
この正確な直方体は、以下のように作られました。

1.石灰岩の大きな塊の石目に沿って、溝を削る。
2.木材を溝一杯に挟む。
3.木材に水をかけて膨張させる。石灰岩は石目に沿って綺麗に割れる。

これらの積石の中には、長さ7m、重さ100tという巨大なものもあるそうです。

積石の間には、画像のように紙の小片が詰め込まれています
これは人々が願い事を書いて詰め込んだ物です。


ここでユダヤ教の習慣について、主な物を簡単にまとめようと思います
これらは、神への忠誠を表わす行いです。

1.安息日は金曜の日没から土曜の日没まで
店も交通機関も営業しない。
今では世界中で当り前の、7日に1日休むと言う習慣は、ユダヤ教が始めたもの。

2.ヨム・キップル(贖罪の日)は1年間のあやまちを悔い改める日で、家事・料理を含め全ての労働が禁止される。9,10月頃。

3.過越しの祭りは、モーセとイスラエル人がエジプトを脱出した時、神が迫害者エジプト人の初子をことごとく殺した故事にちなんだ祭りで、発酵させない「種入れぬパン(クラッカーのようなもの)」を1週間食べて、当時の苦難を偲びます。
春に行われ、春の収穫祭でもある。
これは三大季節祭のひとつで、他に七週の祭り、仮庵の祭りがある。

4.暦は太陽太陰暦を使用
3,4年に一回閏月があり、旧約聖書の天地創造の日が元年になる(西暦2006年は5767年)。

5.カシュルートという食事戒律がある
食べてよい物をコシェルといい、有蹄類で反芻する動物はOK、猛禽類以外の飛べる鳥、ニワトリ、七面鳥はOK、鱗とひれがある魚はOK。
つまり、牛、羊、ウナギはOK。豚、兎、ワシ、エビ、タコ、イカ、カニ、貝はNG。
肉と乳製品は同時に食べられない。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エルサレム旧市街の城壁~その2

エルサレム観光の続きです。

オリーブ山からバスに乗って、旧市街の南側の城壁の側を通ります。
Fi2452234_0e 画像は、オフェル考古学ガーデン。
( 31 46' 31.94"N 35 14' 11.28"E )

旧市街の南東側をオフェルの丘といい、水源に近い事からエルサレム最初の集落が出来ました。
その為、発掘作業が行われ、今では公園になっています。
画像の場所には、紀元前1世紀~7世紀の遺跡があるそうです。

手前に広がっているのはウマイヤ朝(7世紀)の遺跡です。
正面の壁の向こうには、神殿の丘があります。

画像右奥の壁際に、階段があるのがわかると思います。
これはヘロデ王が造った、神殿の丘に上がる為の大階段
だと思われます。
そして、画像中央やや斜め右上の、ヤシの木が2本立っている場所の少し上に、庇がついた門のような物が見えます 31 46' 33.20"N 35 14' 08.60"E 。
これは、ヘロデ時代の神殿の丘に繋がる二重門(フルダ門)
があった場所で、ビザンツ時代の門が付加されています。

壁の向こうに、ドームを持つ建物がありますが、これはアル・アクサー・モスク 31 46' 34.31"N 35 14' 08.01"E 。
イスラム教の始祖ムハンマドが、メッカから「もっとも遠隔の地」まで一夜にして旅をし、その後昇天して天啓を受けた、という伝承があります。
その「もっとも遠隔の地」を意味する、アル・アクサーという名のモスクです。
8世紀初頭に建てられました。

Fi2452234_1e これはホーリーランドホテルにある、ヘロデ時代の南壁の復元模型です(正確に言うと紀元66年の第一次ユダヤ反乱勃発時)。
現在、移設作業中のため、一部破損しています。

前の画像の2000年前の様子がこれです。
通常、ユダヤ神殿への大半の巡礼者達は、この南側の門から神殿の丘に上がりました。

手前の街には、地方からきた巡礼者の宿があったと思われます。
その上の広場では、神殿の丘に上がろうとする巡礼者達でごった返していました。
広場に建つ四角い建物は、会議所や沐浴場で、ここで神殿に入る前に身を清めました。

広場から城壁に上がる大階段は、30cmと89cmの高さが異なる石段が交互に並べられていました。
これは、巡礼者が聖なる神殿の前で慎重にゆっくり歩くよう、わざとそう設計されました。
イエスもこの階段を昇ったのだろうと思われます。

左側の門がフルダ門で、巡礼者はここを通って神殿に入りました。
右側の門は、祭司達が儀式に必要な物を置いている倉庫に入る為の門で、一説によると三重門ではなかったかと言われます(模型は二重門になっています)。

この門を潜った巡礼者達は、ヘロデが造った大理石と黄金に輝く神殿を、感嘆の気持で見たのだと思います。

Fi2452234_2e これもオフェル考古学ガーデン。

南壁の手前にあるウマイヤ朝の遺跡は、一部はカリフの宮殿跡と言われ、その他は宗教施設で働く人々の生活区域だったと言われます。
いくつかある建造物はどれも同じ構造をしており、中央の大広間を多くの部屋が囲んでいました。

さて、いよいよ待望の旧市街に入ります。

画像は、オフェル考古学ガーデンの少し西にある糞門。
旧市街の南にある門です。

( 31 46' 29.39"N 35 14' 02.57"E )
Fi2452234_3e
古代オリエント時代には、もっと南にあった門で、城内の汚物がこの門を通って、キドロン峡谷に捨てられていました。
糞門という名前はこの事に由来しています。
オスマン朝により、現在の場所に建てられました。

Fi2452234_4e 糞門に入ってすぐの場所に、神殿の丘の囲壁の南西角があります。

壁の周囲にあるのは、オフェル考古学ガーデンから続いているウマイヤ朝の遺跡です。

注目すべきは、画像中央、壁にくっ付いているでっぱりで、ロビンソン・アーチと呼ばれる物です 31 46' 32.76"N 35 14' 04.02"E 。
ヘロデ時代には、ここから下に向けて、大きな階段が付いていました。
エルサレムの“上の町”に住む貴族達が、神殿の丘に通う主要ルートの1つだったそうです。


壁の向こう側には、様々なコーランのコレクションで有名な、イスラム博物館があります 31 46' 33.97"N 35 14' 04.09"E 。


ここで、エルサレムを聖地とする3つの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教についてまとめます。

① どのような宗教か?
② エルサレムを聖地とする理由は?
③ 神様の名前は?
④ 聖典は何か?
⑤ 預言者は誰か?
⑥ 聖職者は誰か?
⑦ 偶像崇拝を認めるか?
⑧ 安息日はいつ?
⑨ 信徒数は?

1.ユダヤ教
① 西南アジアに興った啓示宗教の一。モーセの律法を基礎として唯一の神ヤハウェを信奉し、イスラエルの民の為に神の国を地上にもたらすメシアの来臨を信じる。バビロンの捕囚以後に教団として発達した。
② ダビデ王が、イスラエル民族の宗教的統合の象徴として契約の箱を置いた場所。またソロモン王が、イスラエル民族唯一の神殿を造った場所。
③ ヤハウェ
④ 旧約聖書
⑤ 旧約聖書に登場する預言者
⑥ ラビ
⑦ 絶対禁止
⑧ 土曜日
⑨ 1500万

2.キリスト教
① イエス=キリストの人格と教訓とを中心とする宗教。正義と慈愛とに満ちた父なる神、人類の罪、キリストによる贖罪を説く。
パレスチナに起り、ローマ帝国の国教となり、更にペルシア、インド、中国に伝えられ、欧米各国に行われ、現在は殆ど世界至る所に信徒を有する。
② イエスが磔刑に処され、復活した場所。
③ 父なる神、キリスト、聖霊
④ 旧約聖書、新約聖書
⑤ 旧約聖書、新約聖書に登場する預言者
⑥ 神父、牧師
⑦ 原則禁止
⑧ 日曜日
⑨ 20億

3.イスラム教
① 610年~630年頃ムハンマド(マホメット)が創め、アラビア民族によって発展。その地域も聖地メッカを中心に中近東、北アフリカ、中央アジア、中国、東南アジア一帯に民族を越えて広がる。
独自の文化・政治組織を持ち、一部の国では国家の基礎をなす。
教義はアラビアの民族信仰にキリスト・ユダヤ両教を摂取し、唯一神アッラーへの絶対信仰を基とし、啓示録たるコーラン及び天使、預言者、復活、審判などの信仰と告白、祈祷、喜捨、断食、聖地巡礼の勤行とを大綱とし、更に種々の戒律が付随。
教主権は聖俗両面に及び、教祖の後裔が伝承したが、後、スンニ派とシーア派の2大宗派及び78の分派を発生。
その文化は中世に古代ギリシャ文化を継承、戒律に伴う法学と地理学・医学を初め、いわゆるアラビア文化として発達、近代ヨーロッパ文化の誕生にも寄与した。
② ムハンマドが、大天使ガブリエルに導かれて天馬に乗って天に上がり、天を巡ってアッラーの啓示を受け、帰ってきた場所。メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地。
③ アッラー
④ コーラン、旧約聖書のモーセ五書と詩篇、新約聖書の福音書
⑤ 旧約聖書、新約聖書に登場する預言者とムハンマド
⑥ なし
⑦ 絶対禁止
⑧ 金曜日
⑨ 10億

以上、広辞苑第二版補訂版(岩波書店)及び、図説聖地エルサレム(月本昭男監修、青春出版社)から引用(一部改変)。

もともとユダヤ教の一派だったキリスト教は、旧約聖書を最も重要な前提とし、旧約聖書の思想や、ユダヤ教の終末論やメシア待望の思想に大きく影響されています。
しかし、イエスを救い主として受け入れるか否かでユダヤ教と対立し、やがて伝道の対象はユダヤ人以外へ移って行きました。
その為ヘレニズム文化やギリシャ哲学の影響を受けて、ユダヤ教との違いが著しくなりました。
ローマ帝国の国教になり、政治的社会的権威がキリスト教会に与えられ、ユダヤ教を蔑んでいた時代もありました。

イスラム教の始祖ムハンマドは、ユダヤ教とイスラム教には多くの類似点があると考え、ユダヤ教徒を優遇していました。
しかしユダヤ教徒は、新興宗教であったイスラム教を見下していたようで、イスラム教の発展と共に立場が逆転したようです。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エルサレム旧市街の城壁~その1

エルサレム観光の続きです。

これから旧市街の西の城壁にある糞門を通って、神殿の丘の西壁にある嘆きの壁に向ったのですが、その前に旧市街を囲む城壁部分をまとめて掲載します
とは言うものの、有名なダマスカス門やライオン門は見ることができませんでした。

現在の旧市街の形を作っている城壁の位置は、恐らくローマ時代の3~4世紀に確定したそうです。
ユダヤ人の反乱後、エルサレムにはローマ第10軍団が置かれ、市民の安全を保障していました。
しかし3世紀末に軍団が辺境のエイラートに移動すると、エルサレムをより守りやすくする為に、現在の方形の城壁が築かれました。

16世紀になって、オスマン帝国のスルタン、スレイマン1世は、エルサレムの市壁の再建に着手しました。
考古学の調査結果に従い、ヘロデの神殿の切石などを利用して、昔の築造方法で造られました。
この修復事業は偉業と称えられたが、防御施設としては周辺の遊牧民の襲撃に効果がある程度で、お粗末なものだったという。

城壁に付けられた門は8つあり、北から時計回りにヘロデ門、ライオン門、黄金門、糞門、シオン門、ヤッフォ門、新門、ダマスカス門です。

Fi2449456_0e 画像は黄金門。旧市街の東側にある。
( 31 46' 44.19"N 35 14' 13.16"E )
これはオリーブ山の万国民の教会から見た所。

ユダヤ人の伝承によると、この世の終末にメシアとその軍勢がオリーブ山に現れ、黄金門を通ってエルサレムに入城するという。
またイエスがエルサレムに入城した門とも言われる(前述の主の泣かれた教会にある説明と違うが、文献により入城した門が異なっている)。

オスマン朝の修復の時、ユダヤ人のメシア待望の信仰心を恐れて、現在のように入口を埋めてしまったという。
別の文献では、ビザンツ皇帝ヘラクリオスが、ペルシャに勝って凱旋した記念に建て、アラブ系イスラム帝国の時代に閉鎖されたと言う。

画像は旧市街の南西にあるシオン門の出口
( 31 46' 22.41"N 35 13' 46.27"E )
Fi2449456_1e
他の門はローマ時代とほぼ同じ位置にあるそうだが、このシオン門は、シオン山とダビデの墓に行きやすいように西にずらして造られた。
門から城外に出るには、画像の出口に入って、左に直角に曲がらなくてはならない。
これは敵の急襲の勢いを封じる為だそうだ。

Fi2449456_2e これは城外から見たシオン門の上部。

無数の弾痕がついている。第一次中東戦争の時のものです。

1948年、パレスチナに侵攻したアラブ軍は、エルサレムの占領を重点目標にしていました。
アラブ軍は旧市街の中にある、ユダヤ人地区を包囲しました。
イスラエル軍は旧市街突入を図り、ヤッフォ門の攻撃を計画しました。
その支援攻撃として、ハレル旅団の1個歩兵中隊によるシオン門襲撃が計画されました。
ヤッフォ門への主攻撃は失敗に終りました。
しかし、アラブ軍が気を取られている隙に、シオン門襲撃部隊は密かにシオンの丘に近づき、アラブ軍を奇襲して占領しました。
シオン門に爆薬で穴をあけ、旧市街への突入に成功して守備隊と合流しました。
その後交代した部隊は未熟だったため、シオン門は再び奪回されました。
結局ユダヤ人地区の守備隊は降伏し、市街はアラブ軍により略奪、破壊されました。

イスラエルは19年後の第三次中東戦争でエルサレム旧市街を占領し、エルサレムは再統一されました。
シオン門襲撃部隊を指揮したダビッド・エラザール少佐は、後に参謀総長になりました。

Fi2449456_3e 画像は旧市街の西にある、ダビデの塔です。
( 31 46' 34.96"N 35 13' 41.60"E )

ダビデ王とは全く関係がなく、現在エルサレムの歴史を紹介する博物館になっています。

この場所は、地形的にエルサレム防衛上の弱点であったため、ヘレニズム時代ヘロデ王が要塞を造りました。
この要塞はヒッピクス、マリアムネ、ファサエルという三つの塔が建つ、壮麗なものでした。
現在の塔は、ヒッピクスの塔の基礎部分の上に、後世の建造物が建てられたものです。

十字軍時代には、城壁の各隅に塔を持つ形態になり、現在の形が固まりました。

イスラム勢力に奪回された後、マムルーク朝が破壊し、この塔を誇りにしていた市民は大いに憤慨した。後に再修復されました。

オスマン朝になって、スレイマン1世が修復し、モスク、小さな塔、主門を付け足した。
画像の上部に聳えている円柱形の小塔は、この時に付け加えられた物です。

この塔が“ダビデの塔”と呼ばれたのはビザンツ時代の時で、それは、ダビデ王が沐浴するバテシバを盗み見たという伝承の塔が、ここだという誤解からです。

その伝承とは旧約聖書にあるもので・・・、

イスラエル王国の王になったダビデは、戦争の陣頭指揮に立つこともなくなって、エルサレムで過ごしていた。
ある日、部下の軍人ウリヤの妻バテシバが沐浴する姿を見て、欲望を抑えきれず妊娠させてしまった。
しかも彼女を妻にするために、夫ウリヤを戦地に送って戦死させてしまう。
預言者ナタンがこれを責めた為、ダビデは回心した。
しかし、天罰が下ってバテシバとの最初の子供は雷に打たれて死に、長男アムノンは三男アブサロムに殺され、アブサロムも反乱を起こした末に殺された。
バテシバはダビデから最も愛された妃になり、その子ソロモンが王位を継ぐことになった。

ダビデは古代オリエント時代の人なので、ヘレニズム時代に建てられたこの塔とは全く関係ありません。

Fi2449456_4e 画像は旧市街の北西にある、新門です。
( 31 46' 45.55"N 35 13' 33.59"E )

この門だけは、スレイマン1世が造った物ではなく、19世紀に造られました。
旧市街の北西にあるキリスト教徒地区の住民が、城外のノートルダム修道院とロシア人地区へ直接出入り出来るように、オスマン朝に嘆願して造った物です。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・キドロンの谷(アブサロムの墓)

エルサレム観光の続きです。

オリーブ山から旧市街に向う途中、キドロン(ケデロン)の谷 31 46' 24.85"N 35 14' 16.03"E の側を通ります。
キドロンの谷は、エルサレムとオリーブ山の間を南北に走る谷です

全長約5キロで、南でヒンノムの谷と合流しています。
ここから別の谷になって、最終的に死海まで伸びています。
雨季の時だけ雨水が濁流になって流れます。

古代には、ここは王の谷と呼ばれ、ギホンの泉から溢れる水が流れ、果樹園の灌漑用水として使われていた。

また多くの墓がありました

古代オリエント時代のものとして、ファラオの娘の墓、王宮執事の墓などがある。

ヘレニズム時代にも多くの墓が作られました。

当時、庶民は穴を掘っただけの簡単な墓でした。
現在残っているのは、岩を掘って作った家族墓だけです。
そこでは、死者の遺体は安置棚に置かれ、肉が落ちてから骨を収拾して蔵骨器に入れました。
蔵骨器は墓室内に置かれました。
このような埋葬方式は、ヘレニズム時代以降、数世紀にわたって行われた様です。

以上の様な墓と違い、完成度と壮麗さの点で際立つ墓がある。
それは、アブサロムの墓、ゼカリヤの墓と呼ばれているものです。


Fi2445733_0e 画像中央は、アブサロムの墓です 31 46' 37.81"N 35 14' 19.31"E 。
万国民の教会の前から撮りました。

アブサロムの墓は、イスラエルで出土された墓標のうち最も高いもので、20mあります。
様々な様式の装飾で飾られた墓室がある方形部分の上に、円形の台座と円錐型の屋根が載っている。
円錐部分はモニュメントだそうだ。

アブサロムはダビデ王の息子で、王に反逆した事から親不孝者の象徴になっており、今ではユダヤ人は、この墓に石を投げつける事を習慣にしているそうである。

アブサロムはダビデ王の3男で、容貌が美しかったと言う。
タマルという実妹がいたが、彼女を恋するあまりに陵辱した異母兄のアムノンを殺し、逃亡した。
ダビデ王は許したが、アブサロムの心はダビデから離れ、エルサレム遷都以降、都でなくなったヘブロンの住民の不満を利用して、ダビデ王に反旗を翻した。
ダビデは東に逃げたが、双方の軍は決戦し、アブサロムは敗れた。
ダビデは丁重に扱うよう命じたが、将軍ヨアブはダビデの為を思って殺した。

アブサロムは紀元前10世紀の人ですが、この墓は1世紀に造られました

Fi2445733_1e 画像は、キドロンの谷を横から見た所です。

ゼカリヤの墓を撮ろうとしましたが、手前の建物が邪魔して、墓の上部しか撮れませんでした。
ピラミッド型の屋根がそうです 31 46' 35.70"N 35 14' 19.73"E 。
この屋根の下には立方体の岩があります。

ゼカリヤは、ユダヤの神を捨て異教の偶像に仕えたヨアシュ王に、主の教えに立ち返るよう忠告したが、石で打ち殺された古代オリエント時代の預言者。

墓が作られたのはヘレニズム時代のようで、この頃はユダヤ人が参詣していたらしい。

キドロンの谷は、4世紀にはこの世の終わりに最後の審判が行われる谷とされ、その時に死者が蘇るという伝承から、多くの人々がここに墓地を作った
画像の上部には無数の墓があります。

この後旧市街へ。


ここでエルサレムの歴史を簡単にまとめます。

「エルサレム」は、平和の基礎という意味らしいが、名前に反して様々な争乱の場になりました。

1. 紀元前24世紀、エブラ文書というものに「サリム」という名として現れる。カナン人の都市?

2. 紀元前11世紀、ダビデがイスラエルの王になり、エルサレムに遷都した。

3. 紀元前10世紀、ソロモン王第1神殿を造る。

4. 紀元前8世紀、アッシリア王センナケリブに包囲された。

5. 紀元前6世紀、新バビロニア王ネブカドネツァル2世によりエルサレムが落城する。バビロン捕囚。その70年後に捕囚から帰った人々が第二神殿を造る。

6. 紀元前2世紀、セレウコス朝が第二神殿を略奪、マカバイ家が反乱を起こし、その後エルサレムを奪回する。

7. 紀元前1世紀、ローマ軍が占領した。その後ヘロデ王が第二神殿の大改築に着手する。

8. 1世紀、大改築終了直後のエルサレムで第一次ユダヤ反乱が起こる。ウェスパシアヌスとティトゥスのローマ軍に包囲されエルサレムは破壊される。

9. 2世紀、第二次ユダヤ反乱が起こり、ハドリアヌス帝により鎮圧された後破壊され、廃墟の上にアエリナ・カピトリーナというローマの殖民市が造られる。

10. 4世紀、コンスタンティヌス1世の母ヘレナが訪れ、キリスト教の聖地として整備する。

11. 5世紀、ビザンツ皇帝の后エウドキアが訪問し、再建に尽力した。

12. 7世紀、イスラム帝国が占領し、神殿の丘にモスクを建造する。

13. 11世紀、十字軍が占領した。

14. 12世紀、サラーフ・アッディーンが奪回した。

15. 16世紀、オスマン朝が占領した。スレイマン1世がエルサレム城壁を再建。

16. 1917年、イギリスのアレンビー将軍が入城し、オスマン朝の支配が終る

17. 1920年、国連の委任統治政府が設立された。

18. 1948年、イスラエルの独立宣言後、アラブ諸国が侵攻、エルサレム旧市街を占領。イスラエルはエルサレム新市街を首都にした。

19. 1967年、第三次中東戦争でイスラエルがエルサレム全域を占領する。

エルサレムの細かい歴史の説明は、様々な本に載っています。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・オリーブ山の教会~その2

エルサレム市街の東にある、オリーブ山観光の続きです

入場はしていませんが、この辺りにある教会をいくつか撮ってみました。
走行中のバスから撮った物で、見苦しい点はご容赦下さい。

Fi2443279_0e これはギリシャ正教の聖スティファノス教会です 31 46' 48.15"N 35 14' 18.12"E 。

恐らく、聖スティファノス(ステパノ)が処刑された場所に建っていると思われます。
葬られた場所だと書いてある本もありました。

スティファノスはキリスト教の最初の殉教者です

イエスの死後、十二使徒を中心に伝道活動が活発になり、信者の数もどんどん増えていきました。

やがて、ギリシャ語を話すユダヤ人信者(パレスチナ以外で育ったユダヤ人=ヘレニスト)と、ヘブライ語を話すユダヤ人信者(パレスチナで育ったユダヤ人)との間に揉め事が起こりました。
ヘレニスト信者が、日々の配給が不公平だと、苦言を呈しました。

そこで十二使徒は、伝道活動を補佐する7人の責任者を、ヘレニスト信者に選ばせて解決を図りました。
その7人の1人がヘレニストのスティファノスでした。

スティファノスは伝道活動に大きな働きを見せましたが、ある時、別のヘレニスト信者グループと激しい論争になり、その信者グループはサンヘドリン(ユダヤ教最高法院)に、神殿と律法に反した罪でスティファノスを訴えました。

スティファノスは、法廷で祭司や律法学者を前に、アブラハム以来の旧約聖書の歴史を語り、イエスを拒む事が律法に反する事を述べ、イエスを殺した事を糾弾した

その為、怒った人々はスティファノスを城外に引きずり出し、投石して打ち殺した(ユダヤ人の侮辱に対する処刑方法は、石打ちだった)。
スティファノスは、石を打たれながら、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と叫んだと言う。

なぜかエルサレム旧市街の城外北にも、聖スティファノス教会があります。
こちらはビザンツ時代に、聖スティファノスの遺骸を祀った教会で、もともと最後の晩餐の家の近くにありました。
それを、当時エルサレムの発展に寄与した、ビザンツ皇帝の后エウドキアが北側に移した物です。

Fi2443279_1e これはマリアの墓の教会です 31 46' 48.42"N 35 14' 21.37"E 。

木の陰になってほとんど見えていませんが・・・。
ベネディクト派修道士が、十字軍時代に建てた修道院の一部で、キリスト教の伝承によると、聖母マリアが埋葬された場所だそうだ。

かつては集会室と図書資料室があったそうである。
その後、サラーフ・アッディーンにより破壊された。

画像中央の林立する金色の塔は、マグダラのマリア教会です 31 46' 43.93"N 35 14' 26.41"E 。
Fi2443279_2e
1890年に、ロシア皇帝アレクサンドル3世が建てました。
Fi2443279_3e_2
当時、ヨーロッパ列強は、オスマン帝国からエルサレムにおける様々な権利を与えられていました。


ロシア人は、その権利によりエルサレム城外に土地を取得し、巡礼者の為の宿泊所、病院を建てました。
この教会もこの時に建てられました。
他のヨーロッパ列強も追随して建物を建てていきました。

これらの教会が建つオリーブ山は、南北に走る長さ4キロの山脈の一部で、石灰岩からできています。
かつては全体をオリーブの木が覆っていたそうです。


古代オリエント時代、イスラエル王国のダビデ王は、息子アブサロムの反乱の時にここを超えて東に逃げました。

また前述の通り、預言者ゼカリヤとイエスが、エルサレムの滅亡を預言しました。

この後、キドロンの谷沿いにエルサレム旧市街に向います。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・オリーブ山・万国民の教会(ゲッセマネの園)

エルサレム市街の東にある、オリーブ山観光の続きです。

Fi2435078_0e ここは、オリーブ山の中腹にある、万国民の教会です 31 46' 45.28"N 35 14' 22.56"E 。

ここには有名なゲッセマネの園があります。その為、ビザンツ時代から多くの巡礼者が訪れていました。
屋根に大きなモザイクのあるこの教会は、1919年に建てられたそうです。

もともとこの辺りには、キリスト教を国教にしたローマ皇帝テオドシウス1世が、4世紀に教会を建立したそうです。
ここでは波と花環、幾何学模様のモザイクが発掘されているそうです。
12世紀には、天使のフレスコ画がある教会があったそうです。


木曜日の夜、イエスと弟子達は、慣例に従ってエルサレム城内のある一室で、過越しの祭りの食事(いわゆる最後の晩餐)を済ませ、ベタニヤ村に帰ろうとしていました。
この行動は極秘でした。
もし食事の場所と、ベタニヤ村からのルートがサドカイ派に知れたら、捕まる事は確実でした。
夜中だった為、彼らを取り巻く支持者の群れもありませんでした。

しかしこの頃、弟子の1人であるイスカリオテのユダは、食事の場所近くにあるサドカイ派の大祭司、カイアファの屋敷で、裏切りの決意を固めていました。

イエス一行がオリーブ山麓に差し掛かった時、イエスは危険な場所だと予測していた、ゲッセマネの園に入りました
イエスは、この後に続く鞭打ちの拷問と十字架刑の運命を知っていました
それが神の意志に適う事、救世主として耐えなければならないとわかってはいましたが、夜の闇の中、死の恐怖を待ちつづけるこの時間を、冷静に過ごす事は出来なかったようです。

少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 こう言われた。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
(新約聖書 マルコによる福音書・14章35~36節 新共同訳)

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
(新約聖書 ルカによる福音書・22章42~44節 新共同訳)

やがて闇の中から、ユダと大祭司の武装した配下の集団が現れました。
ユダは、イエスにすがって接吻しました。これはイエスを捕らえる合図だったそうです。
大祭司の配下が襲いかかった時、ペテロはその1人の右耳を切り落としました。
イエスはその耳に触れて癒しながら、弟子達に抵抗するな、と言いました。

その後、弟子達はイエスを見捨てて逃げました。
ここがイエスと弟子達の、別れの場所になりました。


結局イエスは、自らが選んだこの場所で捕まり、エルサレム城内の大祭司の館に引き立てられて行きました。

Fi2435078_1e イエスが血の汗を流しながら、祈ったと言われる岩。

ある人の説によると、イエスは血汗症では無いかと言う。
この症状は、ストレスによって皮下の毛細血管が破裂し、血の汗を流す。

13世紀、ブルックハルトというドイツ人修道士がここを訪れ、鋭いノミで塵1つさえ動かせない程固い岩の上に、キリストの顔、髪、両膝の跡がくっきりと刻まれているのを見たそうだ。この岩の事だろうか?

Fi2435078_2e 岩の上で祈るイエスのモザイク画。
ビザンツ様式で描かれている。

Fi2435078_3e 教会の側にあるゲッセマネの園 31 46' 46.16"N 35 14' 22.14"E 。

ここには8本のオリーブの木がある。
中でも画像の木は、イエスの時代から受け継がれて来た物だそうだ。

ゲッセマネとは、オリーブ圧搾機の事だそうだ。
その為、ここは庭園と言うよりは、オリーブを絞る作業場だったと言われています。

実際、ここから約65m北に、オリーブを貯蔵したと思われる洞穴があるそうです。
一説によると、イエスは、夜をしのぐのに格好のこの洞穴で捕まったのではないかと言うことです。
現在この洞穴は、教会堂として使われているそうです。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・オリーブ山の教会~その1

エルサレム市街の東にある、オリーブ山観光の続きです。

Fi2432233_0e これは一体何を撮ったのかさっぱりわかりませんが、中央奥にある尖塔を撮ったのです。
これは、オリーブ山の頂上にある昇天教会で、2つある昇天教会のうち、ロシア教会の塔です 31 46' 45.10"N 35 14' 50.99"E 。

この教会は結構大きいのですが、ご覧の通り建物(たぶんホテル)が邪魔して少ししか見えませんでした。
1870年代に建てられたものです。

ガリラヤ湖でもあったように、弟子達の前に度々復活した姿を見せたイエスが、最後に昇天した場所と言われています。


さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
(新約聖書 使徒言行録・1章6節~11節 新共同訳から引用)


もう1つの昇天教会もこの近くにあり、4世紀に建てられたドームの中に、昇天する時に付けられたイエスの足跡が岩に残っているそうだ。

この教会もちょっとしか見えていませんが、主の祈りの教会です 31 46' 41.43"N 35 14' 40.52"E 。
Fi2432233_1e
イエスが弟子に、祈り方を教えた場所
だそうだ。

イエスはある所で祈っておられた。
祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

そこで、イエスは言われた。
「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
(新約聖書 ルカによる福音書・11章1~4節 新共同訳より引用)


元々コンスタンティウス大帝の母ヘレナが、4世紀に建てた教会。
当時の教会には、恐らく古代の洞穴墓だったと思われる洞穴聖堂があったようだ。

教会の地下には、ビザンツ時代の小礼拝堂があり、十字架飾りのモザイクがあるそうだ。

1874年に再建された。
教会の壁には、様々な言語で書かれた主の祈りがあるとの事。

Fi2432233_2e これは、主の泣かれた教会です 31 46' 40.86"N 35 14' 30.21"E 。

紀元30年前後のある日、イエスはエルサレム東郊のベタニヤ村に入りました。
ペテロが連れてきたガリラヤの支持者の大群も呼応して同時に入りました。
イエスは、エルサレムでの宗教の在り方を正す為に、エルサレム神殿に入ろうとしていました。
最終的に、彼は殺される事になりました。

イエスはベタニヤからエルサレムに向う途中、このオリーブ山を通りました。
前の画像の通り、ここからは神殿の丘とエルサレムの町が一望の下に見渡せます。
イエスはここでエルサレムの滅亡を預言して、泣いたと言われています。


エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
言われた。

「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
(新約聖書 ルカによる福音書・19章41~44節 新共同訳より引用)


結局、紀元70年の第一次ユダヤ反乱の時、ローマ軍はエルサレムの周囲に壁を築いて包囲し、破壊しました。

この教会はフランシスコ会によって1954年に建てられました。
ドームは涙の形をしています。

もともとは7世紀に建てられた小さな教会だったそうだ。
また、この付近にはローマ時代の大規模な共同墓地があるそうです。


この後、イエスの一行はキドロンの谷に降りて南下し、シロアの池近くから入城したそうである。

この時、イエスはわざわざロバを見つけて、乗って入城した
この行動の真意はよくわからないが、旧約聖書で預言者ゼカリヤがこう述べているそうだ。


娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。
(旧約聖書 ゼカリヤ書・9章9~10節 新共同訳から引用)


イエスは、自分がメシアである事を認め、ゼカリヤの預言どおりに振舞っているように見える。
一方で、当時も貧相な動物だと見られていたロバに乗ることで、平和的な態度を示そうとしているようにも見える。

いずれにせよ、彼の支持者は、棕櫚(しゅろ=ヤシの一種)の枝を振り、自分達の上着を道の上に敷き、「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と歌いながら彼を迎えた。
これは、紀元前2世紀に、セレウコス朝のデメトリオスⅡ世の承認により、ユダヤ人の自主独立を勝ち取ったマカバイ家のシモンが、エルサレムの要塞に入った時と良く似た光景だったようだ。


第百七十一年の第二の月の二十三日にシモンとその民は、歓喜に満ちてしゅろの枝をかざし、竪琴、シンバル、十二絃を鳴らし、賛美の歌をうたいつつ要塞に入った。
イスラエルから大敵が根絶されたからである。
(旧約聖書 マカバイ記一・13章51節 新共同訳から引用)


支持者の多くは、イエスをローマに立ち向かうメシアとして見ていたと、多くの参考資料に書かれていた。

城内に入ったイエス一行は北上して、神殿の丘の南側の広場、ユダヤ教の過越しの祭りの巡礼たちで賑わっている場所を通り、南壁の二重門を潜って神殿の丘に上がったようです。

エルサレムの支配者であるサドカイ派の祭司や貴族達は、自分達の権益を否定し、奇跡を起こして民衆の人気を集めるイエスを快く思わず、何とか捕らえようとしていました。
しかし、このように支持者に取り囲まれたイエスに対しては、成す術がなかった。

イエスはエルサレム滞在中、昼は支持者達と共に神殿に上がって説教し、サドカイ派と論争し、夜になるとベタニヤ村に帰ったそうです。
サドカイ派は、イエスに数々の質問をして、捕らえるきっかけを掴もうと躍起でした。

この時、「神殿清め」と言われる、イエスとサドカイ派の対立を深める出来事が起こりました。
当時、神殿の中庭では、生贄の動物を売ったり、神殿税用の貨幣に両替する商人が商売をしていました(ローマ皇帝の肖像がある通常の貨幣は、偶像崇拝を許さないユダヤ教の神殿税として納める事はできなかった)。
彼らは神殿での巡礼に欠かす事ができず、また律法にも特に反してはいなかった。

しかしイエスは、「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家にしてはならない」と叫びながら、両替商のテーブルを引っくり返し、生け贄用の動物を解き放ち、商人を鞭打ったそうです。
イエスの行動としては異例な程暴力的な行為であったようです。

イエスは、サドカイ派の祭司達が、神殿を金儲けの場にして、形式だけの祭儀を行っていると思っていたようです。

かつて預言者イザヤが語った、「私の家は祈りの家と呼ばれるべき」という言葉を成就して、神殿の堕落を正そうとしていました。
そして神の国の到来に備えて、神殿の清めを行ったと思われます。

これに対し、サドカイ派の祭司達は、ますますイエスに大きな脅威を感じるようになりました。
一方で、イエスの集団がやがてローマと衝突し、ユダヤ人を滅ぼしてしまうのではないかという危惧の声もありました。


祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。
「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。
「あなたがたは何も分かっていない。
一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書・11章47~50節 新共同訳から引用)


サドカイ派の祭司達は、もはや一刻の猶予もならず、イエスを殺そうと考えていました。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・オリーブ山(エルサレム市街の眺め)

1月2日。今回の旅行もあと2日になってしまいました。

アッコーにいた頃は、まだまだこれから、と思っていたのですが、遂に最後の観光地、エルサレムに来てしまいました。

エルサレムは、ユダヤ教徒とキリスト教徒にとっての「偉大なる王の都」、イスラム教徒にとっての「第三の聖なる都」として発展してきました。
現在はイスラエルの首都になっています(ただし国際的に認められていません)。

画像は、エルサレム市街の東端にあるオリーブ山から、エルサレム旧市街とその南側を眺めた所です。
(撮影地点 31 46' 32.56"N 35 14' 33.54"E )
(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
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この景色、ほんの数ヶ月前にはまさか見られるとは思っていませんでした。
旅の疲れも吹っ飛びました。

画像の左奥にある丘は、ギヴァト・ハナニア地区、その右にある谷は、ヒンノム峡谷 31 46' 04.91"N 35 13' 53.89"E 、その右の丘がシオンの丘 31 46' 14.92"N 35 13' 48.03"E 、丘の上には、鶏鳴の聖ペテロ教会や、マリア永眠教会が見えます。

その右にある城壁は旧市街の城壁で、ここから右が世界遺産の旧市街です。
旧市街の中に広がっているのがユダヤ教徒地区、手前の方に灰色のドームを持つアル・アクサー・モスクが見えます。

モスクの手前の城壁の外にある遺構は、オフェル考古学ガーデン、その手前、右から左にずーっと降って行って、ヒンノム峡谷にぶつかる谷が、キドロン峡谷 31 46' 24.85"N 35 14' 16.03"E 。
峡谷の左側の斜面には、ギホンの泉やダビデの町 31 46' 21.41"N 35 14' 08.73"E 、シロアの池 31 46' 12.63"N 35 14' 05.56"E があります。

前の画像の右側(北側)です。
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ひときわ目立つ金色のドームが、岩のドーム 31 46' 41.00"N 35 14' 07.21"E で、ドームが建つ長方形の広場が神殿の丘
岩のドームのやや斜め左奥に見える灰色のドームが、聖墳墓教会

前の画像の更に右側(北側)です
(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
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旧市街の右側には、イスラム教徒地区が広がっています。

中央の林の中には、聖スティファノス教会、万国民の教会、更に右にいって金色の聖マリア教会、主の泣かれた教会

画像奥の方には、八角形の建物ロックフェラー博物館

画像右端奥には、宿泊しているリージェンシーホテルの神殿のような姿、その右に林立するのはヘブライ大学学生寮

ここはエルサレムを一望にできるだけあって、様々な人が来ています。

黒ずくめのユダヤ教徒やキリスト教徒の一団が、祈りの言葉らしきものを唱えていました。
エルサレムでは、至る所に聖所があり、祈りを捧げる人々がいます

また当然、土産物売りもいて、この眺めを写した横長のポスターや、パレスチナの色々な観光地のポストカード(30枚でたったの1ドル)を売りにきました。
ポストカードは買ったのですが、ポスターは買いませんでした。
自分のカメラで撮ればいいやと思っていたのですが、でも買っておけばよかった。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・クムラン~その3(磨崖洞穴と陶工の作業場)

死海沿岸の、クムラン観光の続きです。

Fi2424846_0e ここは遺跡の東側にある、クムラン涸河の磨崖洞穴です。
(たぶん 31 44' 25.28"N 35 27' 28.29"E )

この周辺の崖には、多数の自然の洞穴があります。
こうした洞穴は、この宗教共同体に属する人たちの住居になったり倉庫になったりし、ある時は天幕に住んでいる人の隠れ家になった

イスラエル独立直前、パレスチナ分割案を巡って揺れた1947年の夏、ベドウィン族の少年が、行方不明になった羊を探していた。
この辺りの洞穴に石を投げ入れて確認していたところ、壷にでも当るような音がした為、中に入って調べて見ると、ヘブライ語の巻物多数が入った壷を見つけた。

これが考古学上の大発見と言われる“死海文書”でした。

死海文書の意義は、まずこの時代の数少ない文字史料である事、次にヘブライ語聖書の本格的写本として最古の物である事(この発見により、既存の物から一挙に千年も遡った)。

当時のユダヤ教を知る上で貴重であり、原始キリスト教誕生の背景を明らかにできる可能性があった。

この時発見された巻物は、当時の不安定なパレスチナ情勢のために管理ができず、人手に渡ってしまいました。
数年かけて、ヘブライ大学が買い集め、今は大学の死海写本館に収められています

その後、ユダの荒野の洞穴では、ベドウィン族が更に多数の巻物を見つけ、各考古学団体による調査も行われてきました。

ここで発見された巻物は、
・ 旧約聖書の正典の写本
・ 外典、偽典
・ 正典の注解書(正典の各節を引用して、「この意味は次のようである・・・」という言葉と共に注解を加えたもの)
・ クムラン共同体の規則書、祈祷文、感謝の詩編、戦いの書(世界の終末における、光の子(クムラン共同体)と闇の子(ローマとヘレニズム世界の支持者)の戦いについて書かれた)、黙示文学(終末論)、暦法、占星術、銅の巻物(周辺に隠された宝物のリスト)
がありました。

羊皮紙に書かれ、乾燥した気候の為、保存状態は良好でした

ここは南側にある、巨大な貯水槽です 31 44' 27.07"N 35 27' 32.43"E 。
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ここは陶工の作業場 31 44' 27.81"N 35 27' 32.50"E で、陶土を洗うための水鉢、貯蔵用ピット、ろくろを回す場所、2つの窯があった。
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これは、陶工の作業場のです 31 44' 27.36"N 35 27' 32.78"E 。
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これは遺跡の北東隅にある炊事場です 31 44' 28.74"N 35 27' 32.63"E 。
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崩れているのは、紀元前31年の地震によるものでしょうか?

第一次ユダヤ反乱の68年、ウェスパシアヌスはローマ軍と共に死海に侵攻し、反ローマだったであろうクムランを破壊しました

クムランで発見された「安息日礼拝の歌」の巻物と同じ物が、マサダ砦でも発見されています。
この事は、陥落後のクムラン共同体のメンバーが、マサダの反乱軍と合流した事を示しています。

マサダの陥落と共にローマ駐留軍も去りましたが、第二次ユダヤ反乱の時、ここは反乱軍の拠点になりました
再びローマ軍により鎮圧された時、ここは以降二度と歴史の表舞台に姿を現しませんでした。

観光を終えて、土産物売り場へ 31 44' 30.14"N 35 27' 32.82"E 。

クムランの土産物屋は品物が豊富でした
死海の化粧品(1個¥600位のAHAVAの石鹸(肌質により3種類あり)、死海の泥パック、死海の塩)、宗教グッズ、遺跡名所の木製組み立て模型、各種DVD、土器の複製品、その他多数。

この後、日没後の道をエルサレムへ。
死海からエルサレムの途中には、ナビームーサ、ワジ・ケルト、マアレー・アドミーム(良きサマリア人の宿)、ベタニヤといった観光地がありますが、暗闇の中、道沿いの標識が見えただけで、「こんな所なのかな~?」と想像するしかありませんでした。

18:00、今回の旅最後にして最大の観光地、エルサレム着。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・クムラン~その2(中庭と集会場)

死海沿岸の、クムラン観光の続きです。

ここは中庭です 31 44' 28.48"N 35 27' 32.11"E 。
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ここの奥には、動物の骨が発掘されたらしい。

遺跡の周囲には、多くの骨が発見されています。
それらは、ほとんどが羊や山羊、場合によっては牛の骨もあり、大型土器片の下や料理用の壷の中に入っていた。
恐らく、儀式的食事で用いられたと思われる

ここは前の画像の左隣の中庭
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奥の壁の向こう側は共同洗濯場だそうです。

この画像の右側は貯水槽、左側は染物作業場(文献によっては洗濯場)。
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ここは、儀式的食事が行われた集会場です 31 44' 27.78"N 35 27' 31.39"E 。
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この食事について、ヨセフスはユダヤ戦記の中でこう述べています。

「彼らは再び一箇所に集まり、麻布で腰を覆った後、冷水の中に身をつからせる
この潔めの後、彼らは入会の儀式を終えていないものが入室を許されない私室に集まる。
今や彼ら自身が潔められているので、彼らは聖なる宮に向うかのように食堂に向う。
沈黙のうちに席に着くと、パンを焼く者が彼らに順次(パンの)塊を配り、料理人は各自の前に一品だけ盛った皿を置く。
食事の前に祭司が感謝の祈りを口にするが、その祈りが終わるまで誰も食べたりはしない。
朝食が終わると、祭司は再び感謝の祈りを唱える
こうして彼らは、(食事の)始めと終わりに、生命を惜しみなく与えられる方として神に敬意を払うのである。」

彼方に死海が見えます。
死海沿岸は土が塩性で、居住するには不向きだったと思われます。
それで遺跡も、沿岸から離れたこの場所に造られたようです。

ここは集会場の隣の食器室です 31 44' 27.62"N 35 27' 31.12"E 。
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ここからは、小型広口瓶、水差し、大皿、小皿、鉢形土器など千個以上の容器が発掘された

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・クムラン~その1(塔と写経室)

死海観光の続きです。

死海の西北、周囲を峡谷に囲まれた泥灰土の台地にある遺跡、クムランに着きました。

南北100m、東西80mにわたる、このヘレニズム時代の建築群は、近くの洞穴で偶然“死海文書”が発見された事により、発掘された。

この遺跡が何なのか、要塞化された農業共同体、貴族の別荘、といった様々な意見が出ていますが、現在では大方の所、当時のユダヤ教の一派、エッセネ派の宗教共同体の施設とみなされています。

1世紀の地理学者、プリニウスは、著作「自然誌」の中でこう書いているそうだ


「死海の西側で、岸(から)の有害な蒸気の達しない所に、エッセネ派の孤立した部族が(住んでいる)。
それは、世界中の他の部族が及びもしない驚嘆すべき部族である。
女性を入れず、性欲を断ち切り、金を持たず、棕櫚(しゅろ=ヤシの一種)だけを伴侶としているからである。
来る日も来る日も、(人生の試練から)逃れたものたちの群れが受け入れられ、それと同じ数の、人生に疲れ、彼らの生き方に倣う為に運命の大波によってそこに追いやられた者たちが受け入れられている・・・」


当時、ユダヤ教の主流は、神殿祭儀を重視したサドカイ派と、律法に忠実である事を重視したファリサイ派の二つでした。

エッセネ派は、主流派と違って、禁欲的な隠遁生活を送っていたようです。
その目的は、やがて現れるであろうメシアの到来とこの世の終末に備える事でした


参考文献によると、彼らの考え方はこのようなものでした。


「基本的に彼らの思考を支配していたのは“二元論”である。
すなわち、光の力と闇の力、善の天使と悪の天使、また善人と悪人との間で繰り広げられている今や最高潮に達した宇宙規模の、闘争を目撃している証人が彼らであると信じていた。
彼らは自分達が神の選民であると考えていた
また、二人のメシアが現れると信じていた
祭司アロンのような祭司的メシアと王ダビデのような帝王的メシアである。
更に第三の、預言者としてのメシアも現れるはずであった。」


また、エッセネ派を率いていた「義の教師」と呼ばれる人は、もともとエルサレム神殿の大祭司、ツァドク家の人間だったそうだ
しかし、セレウコス朝の内紛に乗じて大祭司になった下級祭司マカバイ家のヨナタン(あるいはその兄弟で、ユダヤ人王朝ハスモン朝の初代君主シモン)に反発して、エルサレム神殿と袂を分かち、マカバイ家を悪の祭司と呼んだ
エッセネ派の目的は、エルサレム神殿を奪回してその祭儀の改革を行う事でもあったようで、このクムランで行われていたであろう礼拝は、本来エルサレム神殿で行うべき犠牲祭儀の代用だったそうです。
これだと単なる権力争いですね。

参考文献によると、クムランの共同体の生活はこのような物でした。


夜明け前に起床し、祈りを捧げた後、午前11時まで工芸品製作や、農作業に励む。
その後、入浴して、白い聖衣に着替えて集合し、食事を行う。
これは祭儀の一部だった。
その他、聖典を読み、律法を勉強し、祈りを唱え、夜警に立った
エッセネ派が使用した古いユダヤの暦は、安息日と祝祭日が重ならないようになっており(ユダヤ教主流派の使う暦は重なる事があり、問題になっていた)、安息日には、火を灯したり調理したり排便する事さえ禁じられていた


画像は、監視塔 31 44' 28.85"N 35 27' 31.58"E 。
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夜警はここに立っていたのだろうか?

画像は、紀元前8~6世紀の貯水槽 31 44' 28.73"N 35 27' 30.51"E 。
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ここに最初に居住が行われたのは、古代イスラエル王国の時代だった。
旧約聖書には、「塩の町」として記載されている。

当時は、長方形の建物の前に中庭があり、そこには円形の貯水槽があった。
これはその貯水槽だと思われる。

この町は、南ユダ王国の滅亡と共に破壊された。
その後、ヘレニズム時代に再び人が住むようになった。

ここは作業場の近く
画像にあるのは粉引き器とパン焼釜?
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これも貯水槽
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クムラン遺跡の特徴は二つある。

1つは貯水槽がやたらと多いこと。これは、乾燥地帯の飲み水を確保する為に、少ない雨水を溜めておく必要があった事、それに、儀式的沐浴を行う必要があった事による。
周囲の山地から雨水が水路によってここに運ばれ、北西の沈殿用貯水池に入った後、遺跡内の水路によって、各貯水槽に導かれた。

特徴の2つ目は、居住区域が無い事だった。
この遺跡の西には、当時の墓が1100ヶも見つかっており、この付近に大勢の人がいた事は確かでした。
恐らくこれらの人々は、この付近に天幕を張ったり、洞穴で暮らしていた
そしてなつめやしを栽培したり、羊の放牧、場合によっては死海で取れる塩やアスファルトで生計を立てていた。
そしてクムラン遺跡に集まって宗教祭儀を営んでいた

これは写経室 31 44' 28.29"N 35 27' 31.61"E 。
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漆喰を塗った泥土のレンガでできた、3つのテーブルが発見された。
また、壁に沿ったベンチや、インクの壷が発見された。
ここでは書記たちが旧約聖書などの写本を作っていたと思われる

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エン・ゲディ

死海観光の続きです。
Fi2412695_0e ここは、エン・ゲディにある温泉らしいです 31 25' 02.21"N 35 22' 43.87"E 。
さすがに冬でも多くの人が訪れているようです。
エン・ゲディは、死海西岸のオアシスの町です。
町は古代オリエント時代から存在し、ヘレニズム時代にも存続していました。
第一次ユダヤ反乱の際には、シカリ(短剣)党に襲撃されるなど、戦いにより破壊されました。
その後、ローマ軍が駐屯するユダヤ人の村になりましたが、第二次ユダヤ反乱の際には、反乱軍に占拠されて、重要な軍需補給港になりました
南岸及び東岸から小麦を仕入れていたようです。
エン・ゲディとマサダの間のユダの荒野にある、ツェエリム渓谷には、恐らくエン・ゲディ付近の裕福な住人の避難場所と思われる洞穴が見つかっています。
第二次ユダヤ反乱が収まるまで、避難していたと思われ、貯水槽や、日用品の他、多数の貯蔵用の壷と食べ残した食料(様々な実や豆、動物の骨)が残されていたそうです。
人骨や貴重品が残されていない事から、恐らく無事帰還できたのでしょうか?
Fi2412695_1e ここは、エン・ゲディのアルゴット川渓谷の入口だと思います 31 27' 35.49"N 35 23' 43.43"E 。
流域には、テル・ゴレンと呼ばれる紀元前7世紀からビザンツ時代にかけての、住居群や砦があります。
ヘレニズム時代の高度な灌漑施設が残っていて、当時、バルサム樹の栽培による香料生産や、ぶどう、ナツメヤシの栽培が行われていたそうです。
また、より河口に近い場所には、シナゴーグ遺跡が発掘され、鳥や孔雀のモザイクや、罪を犯した者への呪いの銘文などがあるそうです。
Fi2412695_2e ここは、エン・ゲディのダビデ川渓谷の入口です 31 28' 10.07"N 35 23' 34.18"E 。
川の名前からわかるように、古代オリエント時代に、ダビデはこの付近の洞穴、「山羊の岩」に身を隠しました
ダビデはその有能さから、サウル王の嫉妬を買い、ユダの荒野を放浪する身になった
その時、この付近に隠れ、神に対して、「憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。」と心情を述べた。
(旧約聖書・詩編・57編2節 新共同訳より引用)
そして、サウルが彼を追ってこの地に来たとき、たまたま用を足そうとして入った洞穴に、ダビデとその部下がいた。
ダビデは、サウルが「神に選ばれた主君」である事を理由に、部下達に襲うことを禁じた。
それを知ったサウルは、声を上げて泣き、「お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。主によってわたしに誓ってくれ。わたしの後に来るわたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることはない、と。」と言って去った。
(旧約聖書・サムエル記上・24章 新共同訳の一部を引用)
この渓谷の奥には、高さ185mのダビデの滝があります( 31 28' 20.35"N 35 22' 42.90"E 周辺)。
また、その近くには、紀元前3500年頃の宗教的建造物が発掘され、その中庭の中心には円形の祭壇があるそうです。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その6(蛇の道)

死海周辺のマサダ観光の続きです。
Fi2410527_0e これは、熱心党の居住区だと思います 31 19' 00.51"N 35 21' 17.99"E 。
熱心党は、ヘロデ時代の建築物を解体して自分達の住居を作りました。
特に木材が必要とされました。
砦の周りの城壁と塔は、熱心党の家族の住居になりました。
これらからは、皮革製品、籠、ガラスや青銅、石の容器が見つかっています。
またそれらの部屋の隅からは、家族が所有物に火をつけて燃やした跡が見つかっています。
ローマ軍に何物も渡さないと言う、抵抗の表れでしょうか?

マサダの観光が終ったので、山を降ります。
画像は、崖につけられた蛇の道
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時間があれば歩いてみたかったです。
当時、ここに水や物資を運んだ人たちが、どれだけ大変だったかを実感できたかもしれない。

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蛇の道について、作家ヨセフスはこのように述べています
「それに沿って歩く事は、綱渡りで平衡を取るようなものだ。
少しでも滑れば命がない。
常に片側には深淵が口を開け、その恐ろしさは勇猛の士でも震える程である。」
今回は、見所が多い北側だけの観光でしたが、西の宮殿やビザンツ時代の教会のモザイクも見たかったなあ。
あと、頂上の城壁沿いを一周して、マサダの広さを体感したかった。
南側には、大プール地下墓室もあるそうです。
これも一目見たかった。
そんな訳で、降りるのが残念でしたが、次の観光地、クムランに向います。

ここで、今までに何度も登場している歴史家のフラウィウス・ヨセフスについてまとめます。
その著作、「ユダヤ古代史」と「ユダヤ戦記」は、ユダヤ人の歴史を知る上で重要な史料になっています。
ヨセフスは37年頃に名門祭司の家柄に生まれ、若い頃から預言者として意識していたそうだ。
26歳の頃、ローマに行って見聞を広め、ローマの上流階級に知己を得る。
第一次ユダヤ反乱が起きると、不本意ながら反乱軍側のガリラヤ指揮官となり、軍隊と防御施設の強化に努めた。
しかしウェスパシアヌスのローマ軍の力は圧倒的で、ヨタパタの決戦で敗れて捕虜になった。
この時、最期に残った全員で自決する約束をしながら、自らはローマ軍に投降した。
更に、ウェスパシアヌスの好意を得ようとして、ウェスパシアヌスが将来ローマ皇帝になる事を預言した。
まもなくこの預言は的中し、ウェスパシアヌスはヨセフスを解放した
しかも、ウェスパシアヌスの家名であるフラウィウス姓を名乗る事を許されるなど、様々な特権を与えられた。
エルサレム包囲の際は、ローマ側の使者として反乱軍に降伏を促した。
陥落後はローマに住んだが、ユダヤ人から裏切り者の烙印を押され、たびたび非難された。
その中で、様々な著作を完成させた
ユダヤ古代史」は、天地創造から第一次ユダヤ反乱勃発直前までのユダヤ人の歴史。ユダヤ人の歴史を広く世に知らしめる為に著されたという
ユダヤ戦記」は、第一次ユダヤ反乱を中心にした紀元前2世紀以降のユダヤ人の歴史。
フラウィウス朝ローマ帝国を賞賛し、これへの反乱を戒める目的で著されたという
内容的には、ローマ、ユダヤ双方の戦争責任を解除しようとしているそうだ。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その5(北西側パノラマと西の宮殿)

死海周辺のマサダ観光の続きです。
これは、ヘロデの北の宮殿の上段テラスから見た、北西側の景色です。(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
Fi2406965_0e
画像の右端(北)から左側に目を転じると、ユダの荒野の絶壁の台地が迫っています。
ユダの荒野の渓谷には洞窟があって、人が居住した形跡が見られます(後述)。
この台地上には水路がいくつかあって、マサダ砦まで伸びています。
たまたまユダの荒野に雨が降ると、この水路を伝って砦の貯水槽に流れ込むようになっていました。
これを再現する模型が置かれていました。
さて、画像中央から左の台地上に、四角い囲いがいくつか見えると思います。
これはローマ軍の陣地跡です。
そして、左端手前に向って坂道が伸びているのが、ちょっとわかると思います。
( 31 19' 01.11"N 35 21' 07.69"E )
マサダを攻めあぐねたローマのユダヤ総督シルウァは、陣地のある台地上から、マサダ砦の頂上まで、高さ80mの巨大な坂道を造りました
造っている間、敵を近寄らせない為に、頂上に向けて矢や石を発射する攻城塔を建てました。
そして、坂道が完成すると、その上に投石器と破城槌を引き上げて、砦を攻撃させました。
守る方の砦もすごいですが、攻める方のやり方もスケールが大きいです。
反乱軍は必死に抵抗しましたが、ローマ軍は遂に頂上を囲む城壁を破りました
その翌朝、ローマ軍が頂上に入ると、辺りは実に静かで、ただあちこちで炎が燃えているだけでした。
反乱軍は、建物に火をかけて、ことごとく自決していました
ただ7人の女性と子供のみが生き残りました。
ヨセフスのユダヤ戦記に、この最後の様子が描かれています。

ああ、なんと痛ましい運命の犠牲者達よ。
彼らは己の手で最愛の妻子たちを殺したが、それがその場合に最も軽微な罪に思われたのだ。
とは言え彼らは、己の手でなした事に激しく苦悶し、殺された者より一刻でも長く生き長らえれば、それだけ彼らに不正を働いているように思われた。
彼らは、時をおかず自分達の所持品を積み上げると、それに火を放った。
そして自分達全員の処刑者として10人の者をくじで選出すると、それぞれ妻子の傍らに横たわり、彼女達を腕にしかと抱くと、この痛ましい勤めを果たさねばならぬ男達の一撃の前に首を差し出した。
男達は逡巡する事無く全員を殺害した。
その後、彼らは同じように自分達の運命をくじに託した。
すなわち、くじを引き当てた者が他の9名を殺害してから最後に自決することになった。

貯蔵庫の入口付近で、この時のくじと思われる11個のオストラカ(陶器の破片に記された文書)が発見されました(現在、北側の一角に展示されていました)。
ここにはそれぞれ同じ筆跡で、ベナナタム、ハエメキ、ベナフティ、ズィダ、マルタ、グリダ、ヨヤブという名前の他、反乱軍の司令官であるベン・ヤイルの名前が書かれてありました。
ベン・ヤイルは、陥落したエルサレムからの脱出に成功した、熱心党の幹部でした。
マサダの陥落は、73年でした。
現在、イスラエル軍はここで入隊宣誓式を行い、「マサダを二度と陥落させない」と誓うそうです。

これは大浴場近くの床のモザイクだったと思います。
Fi2406965_1e
蜂の巣形の六角模様があります。
手前のモザイクも何か描かれていたのでしょうか?

これは、反乱軍時代のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)です 31 19' 04.34"N 35 21' 11.51"E 。
Fi2406965_2e
12.5×10.5mの長方形です。
画像の一番奥は北西、エルサレムの方角です。
画像を見ると、壁際に4段の泥漆喰を塗ったベンチがあるのがわかります。
このベンチの一部は、北の宮殿の柱が使われています。
また、中には5本の柱が立っていました。
画像右奥には聖書の保管室がありました。
ここで熱心党の家族が集まって、聖書の朗読を行ったのでしょうか?
部屋の隅の床下に、旧約聖書(申命記とエゼキエル書)が隠されているのが見つかったそうです。
ローマ軍に占領される前に、急いで隠したのかもしれません。
建物の下には、ヘロデ時代のシナゴーグ跡が見つかっています。
このシナゴーグの北には、漆喰塗りのプールが見つかっているそうです。

Fi2406965_3e これは、ビザンツ時代の教会です 31 19' 00.41"N 35 21' 11.70"E 。
砦が陥落した後、しばらくはローマ軍が駐屯していました。
その後、5~6世紀には、修道僧が住んでいました
細長い礼拝堂に、聖器保管室と住居が付属していました。
聖器保管室には、縁を、花、ざくろ、いちじく、オレンジ、ぶどう、十字架と卵の籠、幾何学模様で飾られた、赤黒白黄色のモザイク床がほぼ完全に残っているそうです。

Fi2406965_4e これは、西の宮殿です。
( 31 18' 58.26"N 35 21' 10.66"E )
ヘロデ王が建てた西の宮殿は、マサダで最大の建築物(4000平方m)です。
ここはマサダの管理と、儀式の為に用いられたそうです。
王の住居、仕事場、長さ70mの貯蔵室、管理室、高官の住居から成っています。
王の住居には、玉座が置いてあった部屋、寝室、食堂、広間、執務室、浴場があるそうです。
広間、浴場では色鮮やかなモザイクが見られるそうです。
反乱軍の時代には、管理事務所として使われたそうで、数百の焼けた矢が見つかっているそうです。
また貯蔵室の破壊された壷には、「圧搾したいちじく」等々の名前が書かれていて、いちじく菓子が貯蔵されていたようです。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その4(北の宮殿からのパノラマ)

死海周辺のマサダ観光の続きです。
これは大浴場の熱浴室の外側にある、です。
Fi2403245_0e
ここで火を焚いていました。
浴場は、反乱軍の時代にも使われ続けたそうです。

画像は、北の宮殿の入口付近から、南側を見た所です。
(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
Fi2403245_1e_2
画像右には、今入って来た大浴場があります。
画像の左から中央にかけて広がっているのは、公共の貯蔵庫です。
手前(北)にあるのは、20×3.8mの細長い貯蔵庫の列です。
その床と天井には粘土が塗られています。
また、奥(南)にあるのは、27×4mの細長い貯蔵庫の列です。
一部の部屋には、全面に水硬モルタルが塗られていて、床には壷を立たせる為の二列の窪みがつけられています。
ここには、油、ぶどう酒、小麦粉が壷に入れられて貯蔵されていたようです。
ヘロデ時代の数百の壷の破片が見つかっています。
反乱軍の時代にも、ここは貯蔵庫として使われていました。
壷には、この時代にインクと炭で書かれた名前が記されているそうです。
また、大量の青銅貨幣や、食料の配給に使われたと思われる、数百のオストラカ(陶器の破片に記された文書)が見つかっています。

これは、北の宮殿の上段テラスから、真下を見た所です。
( 31 19' 07.51"N 35 21' 15.19"E )
Fi2403245_2e_2
北の宮殿は、北端の崖の3段のテラスの上に築かれたヘロデ王の宮殿です。
上段のテラスは居住用に作られ、中、下段のテラスは歓待と休養の為に作られたそうです。
画像の中央に見える円形の構造物は、ここから20m下にある、中段テラスです 31 19' 08.14"N 35 21' 15.39"E 。
この円形構造物は直径15.3mで、この上に2列の柱が丸く立ち並んだ、屋根を持つ建物が建っていたと考えられています。
また、この建物の南側(手前)には、壁画で飾られた大広間があったようです。
中段テラスの上に少し見えているのは、下段テラスです 31 19' 08.55"N 35 21' 15.39"E 。
中段テラスの15m下にあります。
17.6×17.6mの正方形の土台の上に、柱廊で囲まれた正方形の部屋があったと考えられています。
部屋の壁には窓が作られ、外の眺めを見ることが出来たようです。
今私が立っている位置は、上段テラスです。
半円形のバルコニーと、南側の居住棟から成っていましたが、中、下段テラスと同様、建物はもうありません。
居住棟は中庭を挟んで東西に部屋があったようです。
このように、北の宮殿は円形や正方形の建物が建ち並んだ、凝った造りの贅沢な建造物だったようです。
反乱軍の時代には、ここはその特殊な位置から、防御用の拠点として使われたようです。
居住用には使われず、むしろ宮殿の柱、床、天井は、頂上にある居住地を造る為に運び去られたようです。
下段テラスの東の浴場には、指揮官の家族と思われる男女と子供の遺体が発見されました。
地面には血痕らしきものがあり、側には手紙と鎧の一部、サンダルが置かれていました。

これは、上段テラスから眺めた東側の景色です。
(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
Fi2403245_3e
奥のほうに死海が横たわっています。
右側は陸地が覆っていますが、これは死海の中間地点で、北湖と南湖をつなぐ水路が通っています。
砂漠が広がるだけの死の世界。雄大な光景に圧倒されました。
こちらは上の画像の左側、北東側の景色です。
(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
Fi2403245_4e
左側にユダの荒野の絶壁が迫っています。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その3(大浴場)

死海周辺のマサダ観光の続きです。
北側にある大浴場の中に入りました。
( 31 19' 05.56"N 35 21' 14.63"E )
これは更衣室です。
Fi2399318_0e_2
壁はパネル画で装飾されており、天井は幾何学模様と植物図案で装飾されていました。
画像でかすかにわかりますが、床は交互に変わる黒と白の三角タイルが舗装されています。

更衣室の南側に温浴室があります。
Fi2399318_1e
これはぬるめのお湯に浸かる物です。
壁はパネル画で装飾され、床は黒か白で色分けされた三角と四角のタイルで舗装されたそうです。
画像ではよくわかりません。

温浴室の西端に冷浴室があります。
Fi2399318_2e
水硬モルタルを塗った段のついたプールです。

温浴室の東には、熱浴室があります。
Fi2399318_3e
ここは熱めのお湯に浸かる所です。
これは浴場の中で最大の部屋で、北側の壁が半円形のドームになっており、この下に円形で平らな石英でできた水盤があって、その中に浸かりました。
この部屋の壁は特に厚く出来ています。

熱浴室の床
です。
Fi2399318_4e
床板がなくなっていて、その下の構造を見ることが出来ます。
床下は中空になっていて、レンガや石でできた高さ65cmの200本の柱が床板を支えていました。
この床下や、壁に付けられた長方形の粘土管には、水蒸気が充満するようになっていて、熱気が部屋内に溢れるようになっていました。
要するにサウナです
大浴場の外に出ます。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その2(城内パノラマ)

死海周辺のマサダ観光の続きです。
画像は、頂上の北にある石切場の西から、南側を見た所です。
(通常のサイズに伸ばして見て下さい)
Fi2396770_0e
まず、頂上の周囲を城壁が囲んでいるのが解ると思います。
その全長は1.4キロあります。
この崖の白雲石を切り出したものです。
城壁はただの壁ではなく、中が中空の部屋になっています
外壁は1.4m、内壁は1mの厚さで、中空部分は4m、城壁全体の幅は6.5mになります。
また、高さは4,5mです。
城壁には、70の部屋、30の塔、4つの門が備え付けられています。
城壁の内側に散らばる建物を見てみます。
まず、画像の右(西)から。
城壁の所々にひときわ高くなっているのは、です。
その城壁をずっと左に辿っていって、中央やや右に見える四角い穴がある建物は、西の門だと思います。
ここからは見えませんが、その西側には傾斜路が続いています。
画像中央付近の奥に見える屋根付きの建物は、西の宮殿(後述)、そのやや手前にある石造りの建物は、ビザンツ時代の教会(後述)。
画像左側から中央にかけての奥に、二つ四角い建物が見えますが、これは小宮殿です。
小宮殿はヘロデ時代の宮廷官僚によって使われたと考えられ、中央の庭と、南側に2本の柱がある広間があるそうです。
右側の建物 31 18' 56.07"N 35 21' 12.43"E の西側には、衣服を置く壁龕(壁のくぼみ)があるプールがあるそうです。
これらは反乱軍時代には多くの家族の住居になりました。
右側の建物には裕福な家族がいたと考えられ、雪花石膏と金でできた贅沢品の容器が見つかっているそうです。
また、左側の建物 31 18' 55.27"N 35 21' 14.62"E は、かまどが設けられて壁画をその煤が覆っていたとの事です。
また、部屋の1つには家具や財産が集められて燃やされた跡があるそうで、反乱軍が最後に燃やしたのかもしれません。
画像の左側、手前に大きく広がっているのは、恐らくヘロデ、ローマ時代の衛兵の兵舎です 31 19' 01.67"N 35 21' 13.50"E 。
中央の庭を中心に9個の居住区画が囲んでいます。
それぞれの居住区画には、庭と二つの部屋が付いています。ここは、マサダの陥落後にローマ兵が駐屯していたようです。
これは石切り場です 31 19' 03.34"N 35 21' 14.94"E 。
Fi2396770_1e
建設材料を切り出す為に使われたのでしょうか?
また、その上にが見えます。
塔は、城壁の一部で、35~90mの間隔で設置されていました。
そのいくつかには、最上階に至る階段が付いていました。
反乱軍時代には、塔は公共の部屋か皮なめし場やパン工場として使われたそうです。

これは石切り場の近くにある部屋の壁画です。
Fi2396770_2e

これは更に北にある、貯蔵庫群(後述)です。
( 31 19' 04.86"N 35 21' 15.20"E 周辺)
Fi2396770_3e
その背後にある建物 31 19' 04.63"N 35 21' 13.54"E は、用途はよくわかりませんが、中庭を部屋で囲まれているそうです。
この建物に付設された貯蔵室には、上等なぶどう酒や武器など、特別な品物が保管されていたようです。
この建物もヘロデ時代の宮廷官僚によって使われたものなのでしょうか?
反乱軍の時代には、祭儀用の浴場と水泳プールが追加され、多くの家族が住んだようです。
食べ物であるなつめやしの堆積が見つかっているそうです。
この画像も貯蔵庫群です(手前)。
Fi2396770_4e
画像右手奥にあるのは、北の宮殿(後述)で、北側の一角を占めるテラスになっています。
宮殿の入口は、画像の人が立ち並んでいる辺りにあったと思われます 31 19' 06.57"N 35 21' 15.63"E 。
画像左手奥にあるのが大浴場 31 19' 05.56"N 35 21' 14.63"E 。
ヘロデ王は、こんな場所にも大量の水を必要とする豪華な浴場を造りました。
ここは庭と4つの部屋から成っています。
大浴場の部屋に入ります。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・マサダ~その1(東側のローマ軍陣地)

死海観光の続きです。
Fi2393421_0e 世界遺産のマサダに着きました(画像中央の台地)。
マサダは、死海西岸の南部にある要塞と宮殿の遺跡です。
孤立した岩壁の頂上にあり、東側(画像で見えている方)は地面から400mの高さ、西側(裏)は周囲から100mの高さです。
といっても、死海は海抜-400mの高さなので、マサダの頂上が海抜0mになります
頂上は細長い菱形で、南北600m、東西300mです。
画像の台地の右端(北)が階段状になっていますが、ここは宮殿が置かれた場所です。後で真上から見ます。
マサダの登り道は東西南北にありますが、東側の「蛇の道」が有名です。
現在は画像の通り、ロープウェイが架かっていて、楽に登れます 31 18' 45.02"N 35 21' 39.04"E 。
Fi2393421_1e
右側の斜面に見えるジグザグの道、これが「蛇の道」です。
マサダは、ヘレニズム時代マカバイ家の反乱指導者で、後に大祭司になったヨナタンが造った要塞です。
その後紀元前73年以降、ヘロデ王は、要塞を増強し、城壁、塔、北と西の宮殿、浴場、倉庫を造りました。
当時ヘロデ王は二つの危険を抱えていました。
1つは、ユダヤ人が独立王朝を作るために自分を倒す事、もう1つはより重大なのですが、エジプトの女王クレオパトラからの攻撃でした。
これらの危険に備えて、避難所として造りました。
実際、紀元前40年に起こったアンティゴノスの反乱のとき、ヘロデは支援を求めてローマに向ったが、その間、家族を800人の男達と共にマサダに非難させました。
アンティゴノスはマサダを包囲しましたが、ヘロデが帰還して救助しました。
Fi2393421_2e ロープウェイに乗って下を眺めると、画像のような四角い遺跡がいくつか見えます。
これはローマ軍の陣地です 31 18' 46.45"N 35 21' 40.29"E 。
ヘロデの死後、ローマの支配下に置かれた66年、第一次ユダヤ反乱が起きました。
この時、熱心党(ゼロータイ)と呼ばれる過激派が、ここのローマ軍を追い出して一大拠点にしました。
しかし、70年にローマ軍によりエルサレムが陥落すると、他の要塞も次々と陥落していきました。
しかしマサダの要塞だけは落ちませんでした。
新しくユダヤ総督に就任したフラウィウス・シルウァは、ローマ第10軍団“フレテンシャス”を率いてマサダを包囲しました。
ユダヤ人奴隷を使ってマサダの周りに壁を作り、逃走出来ないようにした上で攻撃に着手しました。
しかし要塞攻撃は困難を極めました
Fi2393421_3e 画像は更に高度を上げて下を見た所。
左右にローマ軍の陣地が見えます 31 18' 47.81"N 35 21' 48.73"E 他。
マサダを囲む壁らしき物も見えます。
右側では、蛇の道を一生懸命登ってくる人たちが見えました。

ロープウェイが頂上に到着しました。
画像は蛇の道の最上部です( 31 19' 03.89"N 35 21'
16.90"E )。
Fi2393421_4e
ここまでよくぞ歩いて登ってきた!と声を掛けたくなります。
岩壁に据えられた橋の行く手に、蛇の道の門 31 19' 01.48"N 35 21' 17.29"E が見えます。
マサダに4つある門のうちの1つで、北東にあります。
内部は漆喰が塗られ、床は正方形の石で舗装されています。
その左右には城壁が連なっています。
これらの城壁は独立した部屋状になっています。
橋のすぐ下に見える溝は、たぶん水路だったと思います。
マサダには水源がないので、水を確保する事が優先事項でした。
当時はこの蛇の道を水を背負って登ってきました。
運ばれた水は水路を辿って貯水槽に流れ込みました。

ここで、第一次ユダヤ反乱についてまとめます。
大雑把なまとめは、ヘレニズム時代のユダヤ人の歴史の項番5へ。
ローマの支配になってから、独自の神を信仰するユダヤ人に対し、ローマの総督はたびたび皇帝崇拝を強要するなどの挑発行為を行ってきた。
その為、反乱に至らないまでも、ユダヤ人の暴動が度々起きていた。
66年、ユダヤ総督のゲシウス・フロルスは、私腹を肥やす為にユダヤ神殿の財宝を略奪し、兵士が暴力行為を行った。
これが反乱の直接原因になった(同じ頃カイザリヤで起きたユダヤ人とギリシャ人の土地を巡るいざこざも火種になったと言われる)。
ユダヤ民族主義を掲げる熱心党のメナヒムは、マサダを占領
それに対してユダヤ人貴族階級はローマ総督に武力介入を要請、ヘロデ王のひ孫アグリッパ二世はユダヤ人騎兵2千を送ったが、鎮圧に失敗する。
反乱軍はエルサレムの記録保管所の借用書を焼き捨て、エルサレムの城内に入った
穏健派のユダヤの大祭司は、シモン・バル・ギオラ率いる反ローマのシカリ(短剣)党により刺殺された。
シリア総督ケスティウス・ガルスが鎮圧に乗り出したが、冬が到来して食料調達が困難になり、撤退した所を反乱軍に待ち伏せされて敗退した。
エルサレムでは依然として穏健派が優勢だったが、この思いがけない勝利によって、反ローマに傾いたと思われる。
67年、ローマ皇帝ネロは、フラウィウス・ウェスパシアヌスを鎮圧に当らせた。
ウェスパシアヌスは長男ティトゥスにもエジプトから派兵させ、総勢6万になった。
彼は手始めにガリラヤ地方を掃討した。
この時、ガリラヤの反乱軍指揮官で後の歴史家・作家フラウィウス・ヨセフスが投降した。
ガリラヤの過激分子、ギスカラのヨハネはエルサレムに逃げ込み、熱心党の幹部になって町を支配した。
ウェスパシアヌスはユダヤ地方の大半を平定してエルサレムを孤立させた
しかし、ローマでネロ帝が自殺し、内戦が始まった。
東方のローマ軍団から皇帝に推戴されたウェスパシアヌスは、後事を長男ティトゥスに託してローマに帰還した。
70年、ティトゥスは2個軍団でエルサレムの包囲を開始した。
一方、エルサレム城内では、ギスカラのヨハネの恐怖政治に反対した市民が、シカリ党のシモン・バル・ギオラを呼んだ為、両者の間で内戦が始まった
その際、町の食料貯蔵庫も焼け落ちてしまった。
ティトゥスは巨大な破城槌でエルサレム要塞を攻め落とし、激しい白兵戦の末、神殿の丘を占領した。
その日は奇しくも、紀元前6世紀にバビロニアのネブカドネツァル王がエルサレムを陥落させた日と同じだった。
その後はローマ軍による殺戮と略奪が続いた。
71年、ティトゥスはローマに凱旋し、ギスカラのヨハネとシモン・バル・ギオラはローマで処刑されて晒された。
他の者は殺されるか奴隷になった。
事実上、反乱は鎮圧されたが、この時点でマサダはまだ陥落していなかった
そして、エルサレムから脱出したユダヤ人の一団があった。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エン・ボケック~その3(街の風景)

死海観光の続きです。
Fi2386849_0e 出発前に、エン・ボケックの街中に出てみました。
沿岸にはリゾートホテルが立ち並んでいます。
背後にはユダの荒野の絶壁が続く。
沿岸の各オアシスは、この絶壁と死海の間の狭い平野にあります。
ホテルの近くには小さなショッピングセンター 31 12' 04.50"N 35 21' 49.31"E 。
土産物、死海の化粧品、飲食物、薬草?香草?など。
エン・ボケックの飲料水と灌漑用水は、近くの二つの泉から供給されています。
Fi2386849_1e 南の方に歩いていくと、海水浴場があった。
(撮影場所 31 11' 48.59"N 35 21' 48.06"E )
砂浜には、所々4本の柱が立つ、リング状のものが立ち並んでいます(画像左)。
これは真水のシャワー台です。
塩水をつけたまま帰ると、後が大変ですから。
湖の中にも円形の柵があります(画像中央やや右)。
これは、浮かんでいる時に流されないように、足を掛けておく柵だと思います。
ここでは泳ぐよりも、美容と健康の為に塩水に浸かっている、という目的で訪れているのだと思います。
このように、普通の海水浴場とはちょっと違います。
近くには、小さなショッピングセンター 31 11' 55.44"N 35 21' 49.23"E がありましたが、これと言って目ぼしい物はありませんでした。
実はエン・ボケックにも、遺跡が発掘されています。
エン・ボケックはヘロデ王の時代に人が住み始めたと考えられ、薬草が栽培されていました。
当時の砦、水道、薬草の加工工場?などが発掘されました。
その後、マサダ砦の反乱軍の襲撃で破壊され、ビザンツ時代には屯田兵の村でした。
時間があったら、工場の遺跡とか、見てみたかったのですが。
(追記:帰国後わかったのですが、これらの遺跡は宿泊したホテルの近くにありました!知っていたら、見に行ったんですが・・・。泉の跡 31 12' 07.68"N 35 21' 24.71"E 水道跡 31 12' 08.07"N 35 21' 27.51"E 建物跡 31 12' 08.31"N 35 21' 30.29"E 砦跡 31 12' 05.36"N 35 21' 32.01"E 工場、建物跡など 31 12' 00.58"N 35 21' 40.75"E 興味ある方は、見にいかれては。)
Fi2386849_2e ホテルを出発。
昨日走った道を北上します。
画像は、死海の真ん中あたり。
死海は北と南に分離していて、真ん中は陸になっています。
その中を、南北の湖を繋ぐ水路が走っています。
(たぶん、このあたり 31 16' 26.90"N 35 23' 15.97"E )

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エン・ボケック~その2(死海浮遊体験)

死海観光の続きです。
元旦の午前は、死海の浮遊体験です。
前述の通り、死海は流出する川がなく、暑さで水分が蒸発する為、塩分が濃くなっています。
塩分含有量は36%、普通の海水の10倍です。
比重は1.166で、ここではどんな人も、沈むのが難しい、と言われる。
と言っても、真水でもある程度浮かんでいられるわけで、浮遊体験がそれほど面白そうだとは考えていなかった。
Fi2384191_0e 熱帯に近いとはいえ、冬の冷たい水の中、恐る恐る足を湖面に持ち上げると、簡単に膝とつま先が浮き上がった。
(撮影場所 31 12' 12.27"N 35 21' 54.90"E )

Fi2384191_1e とにかく面白いように浮く、としか言いようがない。
顔が水面に付く事も絶対無いし、このように本も読める
早々に上がる予定でしたが、病み付きになって90分位浮いていました。
湖水は塩味と苦味が非常に強く、間違って飲むと大変です。
真水を大量に飲まなければいけないそうです。
目の中に入ったときも同様だそうで、ちょっと怖かった。
それから傷跡はしみるので、直前の髭剃りは禁止でした。
ちょっと舐めたが、それほど塩辛くはなかった。
ミネラルを沢山含んでいる為、美容に効果があり、傷の治りも早く、わざわざヨーロッパからアトピーの治療に来る人もいるそうだ。
また、この湖水には鉱物資源が大量に含まれている
沿岸には鉱物の精製工場があります。
Fi2384191_2e 水も思ったより冷たくないな、と思っていたら、湖底の所々から温水が噴き出していました
噴出口を探してプカプカ移動。

Fi2384191_3e 湖底に立つと、足の裏が痛い。
実はこんぺいとうのような塩の粒が堆積しています。

Fi2384191_4e ホテルの中には温塩水プールがあります。
ここなら寒い思いをしないで浮いていられます。
上がる前に、真水のジャグジーで塩分をすっかり洗い落とします。
気のせいか、肌が若返ったような気がしました。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エン・ボケック~その1(死海の初日の出)

死海観光の続きです。
2006年1月1日。
Fi2381872_0e エン・ボケックのホテル近くの湖畔での、初日の出です。
(撮影場所 31 12' 08.62"N 35 21' 58.67"E )
薄曇で、日が昇ったのかどうか中々わかりませんでした。
向こうの山々はヨルダン領です。

Fi2381872_1e 完全に昇り切りました。
今年も良い年でありますように。
寒いのでホテルの中に戻りました。
今日は世界遺産のマサダ砦に行き、クムラン遺跡を経てエルサレムに向います。

これは昨日(12月31日)の夕食です。
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バイキングでしたが、品数が多くて感動でした。
肉と魚も豊富で、サラダは40種位あったような気がします。
それに何と言ってもデザートのケーキが10種近くありました。
貧乏性の私は、欲張って全部を少しずつ頂きました。

前の皿を平らげて再び山盛りに。

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もう理性が利きません。
胃腸薬を飲んででも食べる。
今度のデザートはアイスクリーム。
夜は、ホテルのロビーで年明けカウントダウンを行っていましたが、初日の出を見たい私は無理せず参加はやめました。

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