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2005年12月

イスラエル旅行・ロトの妻(ソドム)

死海観光の続きです。
ソドムの近辺に着きました。
ソドムは、旧約聖書によると、カナン人が造った五つの町の人つで、アブラハムの甥、ロトが住んだ町です。
神の3人の使いがアブラハムの元に訪れ、高齢の妻サラの妊娠を告げた後、ソドムとゴモラは罪悪が甚だしいので、滅ぼすと言いました。
アブラハムが、「あの町に正しい者が10人いるとしても、それでも悪い者と共に滅ぼし、その10人のために町をお赦しにならないのですか?」と言うと、神の使いは、「その者たちのために、町全部を赦そう」と言った。
神の使いはソドムに着き、ロトの家に泊まった。
夜半に町の男達が押しかけて、神の使い達を出せ、と言って騒ぎ立てました。
ロトが神の使い達を守ろうとすると、「これから町を滅ぼすから、まっすぐに山に逃げよ、ただし決して振り向いてはいけない」と言いました。
主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。
ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。
(旧約聖書 創世記19章24節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
画像の中央にあるのは、山に逃げる途中に振り返った為に、塩の柱になったとされる、ロトの妻だそうです。
(たぶん、このあたり 31 05' 05.40"N 35 23' 42.87"E )
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この像の視線の先には、死海の湖面があります。

正面から見た所。

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この付近にはアスファルト坑があり、ヨルダン地溝の地震によって土地が陥没し、ガスと油田の爆発によって町は火の海になって、死海に沈んだのではないかと言われています。
死海の水深1.8mの場所がその場所ではないかと言われています。
また、ロトの妻の像は、岩塩の山が風雨で風化したものだそうです。
日没直前の薄暗がりの中、死海沿岸の荒涼とした岩山が、茫洋と広がっていました。

ここはロトの妻の近くにある、岩塩の地層です。
(たぶん、このあたり 31 05' 12.37"N 35 23' 37.83"E )
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ロトの妻の少し北側にあります。
綺麗な塩の塊が転がっていて、みんな子供のように塩拾いに勤しんでいました。

岩塩の地層のアップ。
大理石のように綺麗です。
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更に拡大。
これが全部塩だなんて信じられません。
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さて、エン・ボケックに戻ってホテル 31 12' 09.01"N 35 21' 51.03"E に到着してロビーに入ると、シャバット明けの人たちが、みんなで歌を歌い始めました。
イスラエルならではの光景に、しばらく聞きほれていました。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・死海

Fi2375794_0e_2 ヨルダン川西岸をずっと南下して、死海の北端に着きました!
画像の奥に、うっすらと湖面が見えます。
実物を目の当たりにして、多少興奮気味です。
死海は、ヨルダン地溝にある塩水湖です。
世界最低の場所、地中海水面の392m下にあります。
南北は85キロ、東西は15.6キロで、面積は琵琶湖の1.5倍。
一番深い所は水深400m。
塩の海、アラバの海、東の海、ソドムの海、アスファルトの海、ロトの海、と、色々な名前で呼ばれてきた。
死海に流入する川は、ヨルダン川とアルノン川の二本あるが、流出する川がない
付近は熱帯に近い高気温のため、水が蒸発して溢れる事はない。
1日1センチ蒸発すると言う。
北端のこの場所でトイレ休憩。
店があって、飲み物や果物を売っていました 31 46' 25.79"N 35 30' 15.72"E 。
ここまで来ると結構暖かく、アイスを購入。
小さいカップアイスで、日本のものに比べて味も落ちますが、値段は3ドル位で高かった。
観光客目当ての駱駝引きが1人いました。
付近は駱駝の糞で一杯で、臭くて仕方が無かった。
死海西岸を更に南下して、宿泊地のエン・ボケックに向います。
Fi2375794_1e 東側には、荒涼としたユダの荒野が広がっていて、まもなく日没を迎えます。
ユダの荒野は、死海の西に広がる高台状の荒野です。
全く植物が生えない石灰岩の起伏からなっています。
これは、地中海から運ばれた雨が、中央山岳帯に遮られて、こちらは雨が降らずに乾燥している為です。
しかし、少量の雨水は石灰岩に染み込んで、所々に泉を作っています。
その為、泉のある場所にはオアシスができています。
Fi2375794_2e 西側には死海の風景
場所によって湖面の色が違います。
そして奇妙な事に、細長い砂洲が何本も、延々と湖岸から伸びています。
これは一体なんなんでしょうか?
実に嬉しい事に、これから予定外のソドムに行く事になりました。
今日12月31日は、土曜日です。
イスラエルでは、金曜日の夕方から土曜日の日没までは、シャバットという安息日になっています。
これは、旧約聖書の創世記で、天地創造の七日間の一日の区切りを、「夕べがあり、朝があった」と表現している事から、一日は夕方から始まる、という認識に基づいた物です。
シャバットの間は、観光地でさえホテルやレストランが休業になります。
実は、これから直接ホテルに行っても、まだ日没でない為、営業していないのです。
そこでホテルの少し南にある、ソドムに行く事になりました。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ヨルダン川西岸~その3

ヨルダン川西岸、死海に向けてのドライブの続きです。
荒涼とした砂漠の中、エリコの町が見えました!(画像の右側、通常のサイズに伸ばして見て下さい)。
(たぶん、このあたり 31 51' 29.04"N 35 27' 50.34"E )
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現在、パレスチナ自治政府の領土なので、迂回して行きます。
しかし、ここは実に魅力的な場所なんですが・・・。
エリコはヨルダン渓谷の南端にある、パレスチナ最古の町です。
古代オリエント時代、ローマ時代、ビザンツ時代に、多少場所を変えて繁栄しました。
古代オリエント時代にはテル・エス・スルタンという場所で発展しました。
紀元前7800年には聖所が造られ、円形の家と灌漑設備がある集落ができた。
紀元前7000年には石造りの城壁と高さ9mの塔があった。
その後は次々と侵入者(アモリ人、カナン人、エジプト人)が来て、破壊と再建を繰り返した。
エリコに関する、考古学者の最大の関心は、旧約聖書で語られるモーゼの後継者、ヨシュアのエリコ征服の証拠を探し出す事でした。
角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。
民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。
(旧約聖書 ヨシュア記・6章20節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
しかし、この事件が起きたとされる紀元前13世紀の遺跡は、自然の風化と不完全な発掘によって荒らされ、証明は難しいそうだ。
預言者エリシャが塩で清めたというは、今も飲料用水、灌漑用水として使われている。
ローマ時代には、南のトゥルール・アブーエル・アラーイクで発展した。
ヘロデ王はここにローマ式の都市を造った。
その中には冬の宮殿と要塞があった。
しかし第一次ユダヤ反乱以後衰えた。
ビザンツ時代には、東にエリカが造られた。
現在の町は、エリカの上に造られ、農業の中心地として発展している。
画像では荒野が広がっています。
この、エリコの北側に広がる荒野は、ヨハネからバプテスマを受けたイエスが、40日間さまよった荒れ野だと思います。
飢えに苦しむイエスに、悪魔が様々な誘惑を仕掛けてきます。
この時に、「人はパンのみで生きるものにあらず」という言葉が出てきます。
最後に、悪魔はイエスをエルサレム神殿の屋根に立たせ、「神の子なら、ここから飛び降りろ。旧約聖書には、神が天使に命じてあなたを守る、と書いてあるではないか」と言います。
しかしイエスは、「あなたの神を試してはならない」と答えました。
神を疑った瞬間に、信仰の力は失せてしまう、という事でしょうか?
この後、悪魔は退散し、イエスはガリラヤに帰って宣教活動を始めました。
Fi2372798_1e この画像の奥は、ヨルダン渓谷に架かるアレンビー橋です。
エリコの東10キロの地点にあります。
ここでイエスは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。
ヨハネは、祭司の家に生まれ、後に預言者として現れたとき、駱駝の毛皮、皮の帯をまとい、いなごや野蜜を食べていたという。
彼は、神の審判によるこの世の終末が迫っており、救いの道は、神への悔い改めに基づいた生き方(私には具体的にどういうものかわかりません)を行うしかない、と唱えた。
そして、悔い改めの生き方への準備?として、バプテスマを行った。
当時のユダヤ人にとっては、神殿重視のサドカイ派と律法重視のファリサイ派がユダヤ教の主流だったので、ヨハネの教えは革新的だった。
多くの人がバプテスマを受けに訪れ、イエスもまたガリラヤからここにやってきた。
イエスがバプテスマを受けたとき、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえたと言う。
後にヨハネは、ガリラヤの領主、ヘロデ・アンティパスが律法にそむいて、兄弟の妻ヘロディアと結婚した事を非難した。
そのため、捕らえられて獄に入ったが、民衆の信望ある預言者であった為、アンティパスは処刑できなかった。
しかし、アンティパスに素晴らしい踊りを見せたヘロディアの娘サロメが、その報酬としてヨハネの首を求めた為に、獄中で殺された。
この話は、官能的な退廃美の象徴として、多くの芸術家の題材になった。
Fi2372798_2e これは、デイル・ハジラの修道院です。
(たぶん、このあたり 31 49' 13.42"N 35 30' 05.23"E )
ビザンツ時代の5世紀、ゲラシモスという人が、ここにヨルダン渓谷初の修道院を建て、修道院長として修道士の規則を確立しました。
ゲラシモスは小アジアの生まれで、砂漠の隠棲者の生活を求めて聖地にやってきました。
弟子が集まった後、455年に修道院を建て、厳しい戒律の下生活した。
週5日はパンと水とナツメヤシの実だけで孤独の中に祈りと労働の日々を送り、2日は共同生活に戻った。
ある時、一頭のライオンの足から刺を抜いてやり、そのライオンはなついて一緒に生活したそうです。
そして、ゲラシモスが死ぬと、その墓の側で息絶えたという。
今の修道院は、その西側に1885年に建てられたものです。四角い建物の上に、銀のドームがあります。
現在見れるのかどうかわかりませんが、4つの庵と壁の壁龕(聖像を祀る壁のくぼみ)、岩を穿った礼拝堂があるそうです。
またビザンツ時代の陶器の破片が発見されたようです。
ゲラシモスの時代は、キリスト教の国教化に伴いエルサレムに多くの一般巡礼者が訪れたのと同時に、この荒野には多くの隠者がやってきました。
イエスと同様、様々な誘惑に打ち勝つ為でした。
彼らは涸れ谷の断崖にある洞穴に住み、孤独の修行を積んでいました。
その数は千人を越えたそうです。
彼らの組織化や指導に功績があったのが、アルメニアの司教ユーティミウスと弟子のマルサバでした。
彼らの規律は旅人へのもてなしを重視していた為、多くの一般巡礼者が悩みの相談を受けに、彼らの洞穴を訪れたそうです。
さて、死海まで目と鼻の距離になりました。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ヨルダン川西岸~その2

ヨルダン川西岸、死海に向けてのドライブの続きです。
相変わらず、亀裂の河川敷が続きます。
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道沿いに点々と、このような廃屋が建っていました。
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何なのか、気になります。
国境近くのせいか、鉄柵も見られます。

ここは、アベル・メホラの周辺だと思われます。
(たぶん、このあたり 32 21' 58.51"N 35 31' 02.28"E )
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旧約聖書では、ソロモンの王国の第5行政区の町として現れます。
また預言者エリシャの故郷でした。

エリシャは、紀元前9世紀のイスラエルを代表する預言者の1人です。
預言者エリヤによって預言者として召され、その従者になった。
彼は町に住んで、奇跡を起こして人々を助けた。
その中で、パンの奇跡の話は、イエスによる5つのパンと2匹の魚で五千人を満腹にした話とよく似ています。
一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人(エリシャ)のもとに持って来た。
神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、
召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。
エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」
召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。
(旧約聖書 列王記下・4章42~44節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
当時、北イスラエル王国のオムリ王朝は、フェニキアのバアル神を導入していました。
これに反発した預言者エリヤは、オムリ王朝の滅亡を預言していました。
エリシャはエリヤの預言を実現する為、神の名のもとに王の将軍イエフを新しい王にした。
イエフはオムリ王朝の王族を根絶やしにした(イスラエルの古代オリエント時代)。
彼は大きな政治的影響力を持っていたが、性格的には優しく温和だったそうだ。
Fi2369718_3e ふと気が付くと、辺りは砂漠になっていました。
この辺は耕作には適していないのでしょう。植林されたヤシの林が広がっています。
イスラエルは狭い国土ですが、初日の海岸地方、二日目の高原地帯、この砂漠地帯と、実にバラエティに富んだ自然環境です。

Fi2369718_4e ヘレニズム時代の町、アレキサンドリウムがあったのは、この辺りでしょうか?
第3次中東戦争の時、ナザレの南のジェニンの激戦を制したイスラエル軍は、この付近のヨルダン川の橋、ダミヤ橋を確保して、ヨルダン川西岸地区を占領しました。
対するヨルダンは、頼みの綱だったシリア軍とイラク軍が動かなかった為、国土の半分を失いました。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ヨルダン川西岸~その1

エズレル平原をギルボア山沿いに東進し、ヨルダン川近くまで来ました。
Fi2365367_0e 画像は、ベト・シェアン近郊の交差点です 32 28' 31.54"N 35 29' 50.07"E 。
画像の奥(北側)は、ベト・シェアンの町だと思われます。
(たぶん、このあたり 32 30' 10.21"N 35 30' 55.67"E )
ベト・シェアンは、エジプトからダマスカスに通じる街道の上にあったため、古くから重要な町でした。
紀元前五千年には町があり、古代オリエント時代の記念碑、坐像、印章など貴重な品々が発掘されています。
また、前述のサウル王と息子達の死体は、ここの城壁に晒されました。
ローマ時代には、駐屯都市として栄えました。
この時代の劇場、神殿、街道が発掘されています。
その他、ビザンツ時代のモザイクや、十字軍時代の要塞など、様々な時代のものが沢山あるそうです。
見たかったなあ。でも、この交差点で素通りして、南に方向転換します。
Fi2365367_1e ヨルダン川の渓谷が見えてきました。
奥に見える山々は、ヨルダン領です。
ヨルダン川は、パレスチナ最大の川で、前述のバニアスを含む4つの水源から、ガリラヤ湖を経由して、死海まで、南北を流れています。
その直線距離は217kmですが、蛇行しているので川の長さは400kmになります。
ガリラヤ湖の南側での川幅は27~30m。
水深は1~3mと浅い。
その為舟は航行できず、渡渉可能な浅瀬が多数あり、古代には橋はなかった。
ちなみに「ヨルダン」とは、「速やかに下る流れ」という意味だそうです。
Fi2365367_2e ガリラヤ湖から死海までは、ヨルダン渓谷が伸びている。
その長さは104km、幅は5~24kmあります。
ヨルダン渓谷は、紅海を形作った地殻の亀裂が北に伸びて出来たものです。

ヨルダン渓谷の活発な火山活動により、ガリラヤ湖の南北には玄武岩の山が作られたそうです。
前述のカペルナウムで見られた黒い玄武岩の遺跡は、これによる物だったんですね。
ガリラヤ湖の南40kmまでの渓谷内の土地は肥沃だそうで、畑や牧草地として使われているそうです。
画像のこの辺もそうだと思います。
Fi2365367_3e 対岸のヨルダンの山々がだいぶ近くなってきました。
ヨルダン川に近づいてきた証拠です。
他のツアー客は寝てしまったようです。

Fi2365367_4e 車窓には、地面に亀裂が入ったかのような涸れ谷?が、延々と続いています。

※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・エズレル平野

ツィッポリの観光を終え、後はひたすら死海に向います。
エズレル平原と呼ばれる平野を通って行きます。
エズレル平原は、南はギルボア山、東はベト・シェアン、西はハイファ、北は下ガリラヤ山地の範囲に広がる平野です。
古代の旧約時代から近代まで、多くの戦いが行われた地です。
Fi2362063_0e 画像は、タボル山 32 41' 11.41"N 35 23' 26.66"E 。
エズレル平原の北西端にある独立峰で、ナザレの南東10キロにある。
高さは588m、広さは800×400m。
ヘルモン山カルメル山と並んで有名な山です。
アケメネス朝がここに要塞を造り、作家ヨセフスもここに城砦を築いた。
イエスが変貌した山と見なされ(前述の通り、ヘルモン山を変貌の山とする説がある)、そのため熱心なキリスト教徒であったコンスタンティヌス大帝の母ヘレナが教会を建てた。
その後も教会が建てられたが、十字軍の時代、サラーフ・アッディーンが破壊し、後に要塞が建てられた。
13世紀末に要塞が破壊されると、6世紀の間そのままであったが、
19世紀にギリシャ正教が教会を建て、更にフランシスコ会が教会を建てて現在に至っている。
古代オリエント時代の、士師(カリスマ指導者)の時代に、ここで大きな戦いがありました。
この時代は、イスラエル人とカナン人がたびたび争った時代です。
当時、イスラエル人は各部族毎にバラバラに住んでいた。
しかし通商などの交流はあった。
戦車900台を擁するカナン人の王ヤビンは、それを妨害し、連絡を切断した。
この非常事態に際して、女士師デボラは、ナフタリ族のバラクに神のお告げを伝えた。
6部族から1万の兵を招集し、タボル山に行けと。
また、麓のキション川に布陣するであろうヤビン王の将軍シセラの軍勢を、お前の手に委ねると。
事はお告げ通りに進み、デボラとバラクがタボル山に布陣すると、シセラはキション川に布陣した。
山腹に布陣するイスラエル軍に対して戦車攻撃は無理であった。
バラクは命令一下、全軍でカナン軍を奇襲した。
同時に豪雨がカナン軍を襲い、キション川は氾濫して、馬や戦車はぬかるみにはまって使用不能になった。
戦いは、装備の貧弱なイスラエル部族連合の圧倒的勝利に終った(旧約聖書)。
Fi2362063_1e 昼食です。
たぶん、アフーラ近郊のキブツ経営のレストランだと思います 32 38' 57.35"N 35 17' 25.80"E 。
ここはセルフサービスのバイキングですが、サラダが30種位あったと思います。
肉料理もいくつかあって、チキンカツを頼みました。
隣にスーパーがありました 32 38' 58.44"N 35 17' 25.47"E 。カメラ用の電池もあり、品揃えは豊富でしたが、少し雑然としていて、田舎のスーパーという感じ。
Fi2362063_2e 奥に見えるのは、モレの丘だろうか?
また、ここはアイン・ジャールートの戦場だろうか?
モレの丘
32 36' 50.27"N 35 21' 58.87"E
標高518mの玄武岩の山。
頂上には、ネビー・ダヒーという祠がある。
古代オリエント時代の、士師の時代。
駱駝の遊牧民、ミディアン人がエズレル平原に進入してきて、モレの丘に陣取った。
士師ギデオンは、神のお告げにより、三百人の勇士のみでミディアン人を打ち破り、東ヨルダンの奥に追い払った(旧約聖書)。
アイン・ジャールート(巨人の泉)
13世紀、マムルーク朝のイスラム軍が、不敗のモンゴル軍を破った場所。
13世紀前半、モンゴル人はイランの強国、ホラズム帝国を滅ぼし、続いてヨーロッパではロシアを征服し、ドイツ、ポーランド、ハンガリーを打ち破った。
この後、彼らが中近東に押し寄せるのは明らかだった。
エジプト、シリアのアイユーブ朝のスルタン、サーリフは、モンゴル人の来襲に備えて、軍の強化に着手した。
彼は、生まれながらの騎馬民族で、弓矢の扱いがうまく、モンゴル人に恨みを抱いていた(たびたび襲撃されていた)キプチャク人のクマン族を買って、バフリ・マムルーク(奴隷による私兵)軍団を編成した。
彼らをモンゴル流の騎射部隊に育て上げ、モンゴルの戦術を教えた。
その有能な指揮官に、ルクヌッディーン・バイバルスがいた。
しかし、サーリフが死ぬと、死後の混乱で政権を握ったマムルークの長、アイバクは、サーリフの私兵であるバイバルスとバフリ・マムルーク軍団を追放した。
アイバクはマムルーク朝を建てた。
そのアイバクが暗殺されて、クトゥーズがスルタンになった頃、フラグ麾下のモンゴル軍はすでに中東遠征を開始していた。
バグダッドを落として住民160万とカリフを虐殺した。
そしてエジプトに向けて進撃した。
未曾有の危機に直面して、クトゥーズはバイバルスのバフリ・マムルーク軍団と和解し、共にモンゴルと戦う事にした。
モンゴル軍がパレスチナのガザに達した後、思いがけない幸運がもたらされた。
中国で、モンゴルの皇帝モンケが死に、後継者争いが起こったのだった。
兄フビライを支援する為、フラグは本隊と共に、帰還せねばならなくなった。
家臣のキトブカは3万~6万の兵と共にパレスチナに残った。
バイバルスはこの機を逃さず、12万の兵を率いて出陣した。
密かに十字軍と中立条約を結び、アッコーで十分休養を取った後、モンゴル軍の拠点、ダマスカスに向けて進撃した。
ナザレを南下してアイン・ジャールートに着いた時、キトブカのモンゴル軍と遭遇した。
バイバルスは軍を二手に分け、一軍を付近の渓谷に隠した。
もう一軍に対して、モンゴル軍は猛攻を加え、たまらず退却したイスラム軍を追撃した。
その時、背後から隠れていた一軍が襲いかかり、たちまち形成は逆転、モンゴル軍は惨敗し、キトブカは捕らえられた。
モンゴル流の装備、戦術で、本家を打ち負かしたのであった。
この戦いで、モンゴル軍の不敗神話は打ち砕かれた。逆にイスラム軍の士気は大いに上がった。
この後、フラグは報復の軍を起こそうとしたが、モンゴル帝国内では、皇帝フビライ派とカイドゥ派の間でカイドゥ戦争が起こり、フビライ派のフラグに対してカイドゥ派のベルケがバイバルスと組んで妨害した為、遂に目的が達せられずに死んだ。
その後のモンゴル軍に、昔日の勢いはもはやなかった。
Fi2362063_3e これはギルボア山の北側です。
32 29' 36.84"N 35 24' 39.74"E
ギルボア山は、高さ497mの石灰岩の東西に連なる峰です。
古代オリエント時代、イスラエルのサウル王はここでペリシテ人と決戦しました。
当時、イスラエル人とペリシテ人はたびたび争っていました。
有能な軍人であったサウル王は、ペリシテ人を何度も破っていました。
しかし、遂にペリシテ人は、その総力を結集してサウル王を潰しにかかった。
サウル王はペリシテの戦車軍団に備え、ギルボア山に布陣しました。
しかし、眼下に広がるペリシテの大群を見て、恐れおののいたサウル王は、密かに霊媒師の所に行った。
そこで、かつて彼を王にした士師サムエルの霊の助言を得ようとしたが、サムエルは彼の破滅を預言した。
重い気持で戦いに臨んだサウル王は、ギルボア山のゆるやかな南麓から攻撃したペリシテの戦車軍団に追い詰められ、息子達は戦死、イスラエルの軍は全滅した。
サウル王は生け捕りになるのを恐れ、自害した。
当時、サウル王に追放され、ペリシテ人に雇われてアマレク人と戦っていたダビデは、
サウル王の死を惜しんで、ギルボア山を呪った。
「ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ、お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな」(旧約聖書)
Fi2362063_4e ここは、ベト・アルファ近郊と思われます。
(たぶん、このあたり 32 30' 56.74"N 35 25' 47.25"E )
ギルボア山の北麓に位置しています。
ここのキブツ・ヘフチバのメンバーが、5世紀のシナゴーグを発見した。
ここには保存状態の良いモザイクの床があった。
トーラー(律法)聖櫃、十二黄道宮、アブラハムが息子イサクを捧げる図の、3つの場面が描かれているそうです。
製作者の親子は、モザイクに名を残しているそうです。
この後、ヨルダン川沿いに死海へ

バイバルスの生涯です。
バイバルスの功績は、中東に侵攻したモンゴルの脅威を取り除いた事パレスチナの十字軍の一掃をほぼ達成した事の2点だと思います。
彼は、1週間のうちにエジプトのカイロとシリアのダマスカスの両方で、ポロ競技を楽しんだと言われるほどの体力の持ち主で(もちろんカイロとダマスカスの間を自分で移動して)、17年の治世の間に38回も戦争し、その半分は自ら指揮した。
また熱心なイスラム教徒で、神学校や救済施設を多数寄進し、売春を禁じた。
中継貿易を振興するために、アレキサンドリア港を整備し、経済を発展させた。
モンゴルのイル・ハン国や十字軍国家に対抗する為、キプチャク・ハン国やビザンツ帝国と同盟・友好関係を結び、外交の才能を示した。
1223年?、モンゴルに荒らされた中央アジアで、キプチャク人として生まれる。
奴隷に売られたが、片目だった為買い手が付かなかった。
エジプトの武将、ブンドクダーリーが、その馬術の才を認めて買取った。
1246年、エジプトのアイユーブ朝のスルタン、サーリフのバフリ・マムルーク軍団に登用され、指揮官として頭角を現す。
1249年フランス王ルイ9世が率いる十字軍が、エジプトのカイロ近くのマンスーラに迫った時、バイバルスはバフリ・マムルーク軍団を率いて反撃し、危機を救った。
1250年、サーリフの死後スルタンになったトゥーランシャーが、サーリフの私兵であるバフリ・マムルーク軍団を廃して自分の私兵軍団を作ろうとしたため、サーリフの後妻シャジャルッ・ドルとバイバルスらによって暗殺された(アイユーブ朝が滅亡)。
シャジャルッ・ドルがスルタンに推戴されるが、女性がスルタンになった例はなく、アッバース朝カリフから批判され、彼女はバフリ・マムルーク軍団の長老アイバクと結婚して彼をスルタンにした(マムルーク朝)。
しかしバイバルスとバフリ・マムルーク軍団はサーリフの私兵で、アイバクに忠誠を誓わなかった為、アイバクにより襲撃され追放される。
1257年、シャジャルッ・ドルがアイバクを暗殺するが、その妻によって殺される。
1259年、摂政クトゥーズがアイバクの子を廃して、スルタンになる。
中東に侵攻したモンゴル軍がバグダッドを攻撃してアッバース朝カリフを殺した為、バイバルス及びバフリ・マムルーク軍団と手を結んでモンゴルに備えた。
1260年、クトゥーズ、バイバルスのマムルーク朝軍とキトブカのモンゴル軍がアイン・ジャールートで戦い、モンゴル軍が大敗する。
バイバルスはクトゥーズを暗殺してスルタンになる。
モンゴルに滅ぼされたカリフの一族をバグダッドから迎え、カイロでカリフ制を存続させた。
モンゴル国家であるキプチャク・ハン国と同盟して、敵対するイル・ハン国を牽制する一方、パレスチナから十字軍国家を一掃させる戦いを始めた。
1277年、イル・ハン国との戦いの後、ダマスカスの祝賀の席で馬乳酒を飲みすぎて死去。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ツィッポリ~その2

ツィッポリ(セッフォリス)観光の続きです。
Fi2358794_0e これは遺跡の中心にある、丘の上です。
画像の中央左寄り、丘の頂上にあるのが、十字軍の要塞です 32 45' 11.08"N 35 16' 46.17"E 。
その一部は、ローマ時代の石棺や切石を使ったそうです。
この要塞の姿が、丘の上に止まる鳥(ツィボル)のようだったので、ツィッポリになったという説がある。
現在は、発掘物の展示、コンピュータによる遺跡案内を行っている資料館になっているようです。
右側にあるのは、ローマ風の別荘(復元) 32 45' 11.99"N 35 16' 44.68"E 。
どう見ても現代の建物ですが、発掘現場を保護しているのでしょうか?
遺跡の中でも、かなり有名な発掘物です。
前述のナイルの祝祭の家より古く、3世紀前半に造られたそうです。
建物は2階建てで、広さは23×45mです。
遺跡は、真ん中に中庭があり、部屋が取り囲んでいました。
有名なモザイクのある横臥食堂は、中庭の北側に位置します。
ここには、陸橋を通って2階から入りました。

別荘に入ると、暗い中、眼下にスポットライトが当った大広間があります。
これは横臥食堂で、横臥しながら食事をしたり、娯楽に興じたりする部屋だったと思われます(ローマ時代は、一般的に床に肩肘を付きながら、片手で食べ物を取って食事していました。テーブルとイスは使いませんでした)。
ここの床には、ディオニュソスのモザイクと言われる、非常に美しいモザイクがあります(画像)。
Fi2358794_1e
これはT字型をしており、大きさは9×7mです。
ギリシャの酒の神ディオニュソスとヘラクレスが飲み比べをする場面が描かれています。
15個のパネルに、神話に題材をとった飲み比べと、当時行われていたディオニュソス信仰の様子が描かれています。
前述のナイルのモザイク(ビザンツ時代の作品)は、一部屋に1つの大きなモザイクが描かれていましたが、ローマ時代には、このように別々の場面のパネルの集合体でした。
中心のパネル(画像の中央やや上)には、ディオニュソス神とヘラクレスの飲み比べが描かれています。
その左側には、ディオニュソスの水浴びの絵があります。
画像下から2段目には、葡萄を足で踏んで絞っている様子が描かれています。
おそらくディオニュソス信仰の儀式の準備ではないでしょうか?
他にも信仰儀式の行列の場面などがあるそうです。
ディオニュソスに対する信仰は、ローマ帝国の至るところで行われていたようです。
このモザイクの周辺を、22個のメダリオンが取り囲んでいます。
画像の一番下には、メダリオンの中に描かれた女性像があります。
これは「ガリラヤのモナリザ」として有名な絵です。
最初見たとき、この女性の顔だけが大きく、美しいので、思わず溜息を漏らしました。
これが発掘された瞬間も、周りから歓声が上がったそうです。
後にこのモザイクのパネルのいくつかは、ビザンツ時代特有のナイル川流域の絵(裸の若者達が鳥とワニを狩っている絵)に差し替えられたとの事です。
このモザイクの価値は、大きく細やかで美しい事もさることながら、ギリシャ神話という虚構の出来事と、ディオニュソス信仰の儀式という現実の出来事を、組み合わせている事だそうです。
Fi2358794_2e これは、この辺に生えていたいなご豆です。
いなご豆は、パレスティナでよく見られる常緑樹で、その豆のさやはかじると甘い味がします。
家畜の飼料として使われているが、干して人間の食料にする事もあるそうです。
新約聖書では、イエスが神の愛を語る例え話に出てきます。
(財産を使い果たした放蕩息子が、空腹の余り豚が食べているいなご豆を食べたいと言った話)
また、
「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」
(新約聖書・新共同訳 マタイによる福音書 3章4節から引用)
ことから、ヨハネのパン(ST.JOHN’S BREAD)とも言われます。
Fi2358794_3e 画像は丘の上から見えた風景。
特に遺跡とは関係ありません。
ここで、今回観光できなかったものを挙げておきます(私が知っている物のみ)。
ローマの劇場:直径37mの半円形で、四千人を収容できた 32 45' 12.30"N 35 16' 46.42"E 。
ユダヤ人地区:都市の最初の居住地区で、ユダヤ人の儀式用浴室があります。
シナゴーグ:下の都市にあり、周りを十二宮で囲まれた太陽の神ヘリオスが描かれたモザイクがあります。
オルフェウスのモザイク:下の都市にあり、建物の中に、竪琴を演奏するオルフェウスのモザイクがあります。
アンナとヨアキムの家:新約聖書の外典「ヤコブ原福音書」によると、ここセッフォリスに聖母マリアの両親、アンナとヨアキムが住んでいたそうです。
1世紀、ここはヘロデ・アンティパスの領地の中心でした。
アンティパスはセッフォリスを再建する為、周辺から多くの建築職人を集めたそうです。
ここからわずか5キロのナザレに当時住んでいた、大工のヨセフとイエスも、ここで仕事をした可能性がある?と、参考資料に書かれていました。
この遺跡のどこかに、イエスの仕事の跡が残っているのかもしれません。
この後、エズレル平原を通過して、死海に向います。
最後にツィッポリの歴史をまとめます。
1.鉄器時代に集落があった。
2.紀元前8世紀、ティベリアからアッコーに至る街道と、エルサレムに至る街道を見下ろす重要な場所だった。
3.紀元前6世紀、アケメネス朝の要塞があったかもしれない。
4.紀元前3世紀、セレウコス朝の砦があった。
5.ハスモン朝時代、ガリラヤ地方の政治の中心地だった。
6.1世紀、ローマのポンペイウスが占領した後、ガビニウスが彼の政庁を建てた。
7.ヴァルスの戦役の時、ローマ軍が占領し、住民を奴隷として売った。
8.ヘロデ王が占領した。
9.ヘロデ王の死後、ヘロデ・アンティパスが支配した。ガリラヤ湖畔にティベリアスを造るまで、ここは統治の中心だった。
10.ネロ帝が、ヘロデ・アグリッパ二世にこの町を贈った。「ネロの平和の町」という名に変わった。
11.第一次ユダヤ反乱の時、ここの住民はローマに味方した。その為破壊されず、エイレノポリス(平和な町)と改称された。反乱後のユダヤ難民が移り住んできた。
12.ユダヤの最高法院、サンヘドリンがあった。
13.3世紀、ユダヤ教の聖典、ミシュナー(律法に対する解釈の口伝。律法は時代に応じて様々な解釈が行われてきた。)が、ここで書物にまとめられた。離散下でユダヤ教信仰を守るのに大きな役割を果たしたとの事。
14.ローマ皇帝コンスタンティウス2世の時、帝国の東側を統治したガルス副帝に対する、ユダヤ人の反乱が起きた。ユダヤ人の指導者が統治したが、ローマに鎮圧された。
15.大地震が起きた。この痕跡は遺跡に残っている。
16.5世紀以降も、ユダヤ人の町だった。またキリスト教の司祭がここに住んだ。
17.7世紀にアラブ人が征服すると、ガリラヤの中心はティベリヤに移り、ここは停滞した。
18.十字軍の時代、ガリラヤ公国の要塞都市だった。町の名がル・サフォリになった。十字軍は、マリアの両親の家の跡に、教会を建てた。
19.16世紀、オスマン帝国の支配下で、サッフォリエという名前になる。
20.18世紀、オスマン朝の総督が再び要塞化した。
21.二次大戦後、イスラエル軍が占領した。ここにモシャヴ(農業共同村)が造られた。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ツィッポリ~その1

ツィッポリ(セッフォリス)に着きました。
ツィッポリは、ナザレの北西約5キロにあるヘレニズム時代の遺跡です。
ヘレニズム時代に、ここはガリラヤ地方の政治の中心地として栄えました。

ヘロデ・アンティパスは、ここを再建して自分の領土の中心地にしました。
町には、劇場、10のシナゴーグ、教会、2つの市場、貨幣鋳造所、貯水池、水道網がありました。
当時の人口は4万だったそうです。
第一次ユダヤ反乱の時、この町のユダヤ人はローマとの協調を選んだ。
反乱後、多くのユダヤ人は離散したが、ここにはユダヤ人社会が栄えていました。
離散したのは、ローマに反感を持つユダヤ人だけだったのでしょうか?
十字軍の時代には、要塞都市になりました。
エルサレム王ギーは、サラーフ・アッディーンとの決戦のため、ここからヒッティンの丘に向いました。
1992年、ここは国立公園として、市民に解放されました。
Fi2355509_0e 画像は、ここの案内地図です。
なぜか上が北ではなく、右下が北になります。
中心は丘になっていて、そこに十字軍の要塞と、復元されたローマ時代の別荘があります。
丘の東側には、列柱の街路がある下の都市が広がっています。
また、ここにはナイルの祝祭の家と、シナゴーグなどがあります。
丘の北側には、半円劇場があります。
丘の西側には、ユダヤ人地区があります。
今回は時間がないため、下の都市と別荘のみの観光です。
しかしこれらには、重要な2つのモザイク画の観光が含まれています。
Fi2355509_1e これが下の都市です。
2世紀頃に最初の居住が行われ、格子状の街路が作られました。
街路の間にある街区には、様々な建物が立ち並びました。
画像中央から左側にかけて、交差する2つの列柱付きの街路が見えます。
カルド 32 45' 06.54"N 35 16' 51.80"E とデクマヌス 32 45' 07.03"N 35 16' 53.60"E という屋根付きの舗装道でした。
これらの両側には店が建ち並んでいました。
また舗装道には、荷馬車や四輪馬車の車輪のわだちが残っています。
ビザンツ時代の終わりには、これらは幾何学模様のモザイクで舗装されたそうです。
画像の右側には、屋根で覆われた建物が見えますが、ここにはナイルの祝祭の家と呼ばれている所です。
ここは5世紀の初めに、ローマ時代の残骸の上に建てられ、ビザンツ時代の終わりまで使われていたようです。
広さは50×35mで、左右非対称の長方形のかなり大きな建物です。
部屋が20もあり、内部は美しいモザイクで飾られています。
そのため、公営のバシリカではなかったかといわれています。

ナイルの祝祭の家の中です 32 45' 04.92"N 35 16' 51.59"E 。
ナイルの祝祭のモザイク画です。
Fi2355509_2e
これはこの建物の中で最大のモザイクで、しかもほとんど無傷です。
画像の上のほうに、エジプトのナイル川が横切っています。
川に建っている塔は、ナイロメーターと呼ばれる、ナイル川の水位を測る塔です。
ナイル川の上のほうでは、祝祭が行われています。
ナイル川のすぐ下では、おそらく狩りが行われているのだと思います。
その下は、猛獣が相争う弱肉強食の世界が広がっています。
ビザンツ時代には、狩りの場面や、ナイル川流域の場面は、よくモザイクの題材として取り上げられているそうです。
しかしこの絵は、狩りとナイル川という二つのテーマを一つの絵の中に収めているのが独特だそうです。
また、この頃のモザイクは、このように部屋の床面一杯に1つの絵が描かれるようになったそうです。
後で見る、ローマの別荘のモザイクと大きく異なる点です。
こちらは、同じ建物の中にある、別の部屋のモザイクです。
Fi2355509_3e
絵の題材が何か、残念ながらわかりません。狩人のように見えますが
この建物の部屋は、ほとんどモザイクで飾られていたようです。
部屋のいくつかは幾何学模様で飾られ、ケンタウロスや狩人やアマゾン族の絵が、重要な場所の入口を示したりする為に、部分的に組み込まれていました。
残りの部屋は、完全に幾何学模様以外の絵で飾られていました。

Fi2355509_4e これは、アマゾン族の女戦士でしょうか?
この建物には、ProcopiuisとPatriciusという二人の職人の銘が残っているそうです。
恐らくこの建物のモザイクを作った職人でないかと思われます。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ナザレ~その3

ナザレ観光の続きです。
Fi2352563_0e 受胎告知教会のやや北にある、聖ヨセフの教会です 32 42' 11.53"N 35 17' 53.90"E 。
ヨセフはイエスの父親です。
1914年に新築された建物だそうです。

Fi2352563_1e 礼拝堂の中です。
祭壇の上に、聖家族の絵があります。
この部屋から地下に降りる事ができ、そこには岩を切って作った貯水槽、穀物庫の洞穴、ビザンツ時代のモザイク、様々な時代の土器片が見つかった。
ここにもヘレニズム時代、十字軍時代の遺構があった。

Fi2352563_2e 教会の壁にある、大工仕事をする少年イエスの絵です。
イエスの母マリアの夫ヨセフは、ダビデ王の末裔と言われ、大工を家業にしていました。
ベツレヘムの出身でしたが、イエスの生まれる前からナザレで暮らしていました。
ヨセフがマリアと結婚したとき、すでに80歳だったそうで、6人の子供がいたそうです。
その後、ベツレヘムへの旅行とイエスの生誕、エジプトへの逃避行、エルサレムへの旅、と続く。
ヨセフは早くに世を去り、その後はイエスが大工としてマリアを支えたとの事です。

これは、受胎告知教会から道を挟んだ向かいにあるスークです 32 42' 09.93"N 35 17' 49.65"E 。
Fi2352563_3e
狭い路地に店が建ち並んでいます。
ナザレには、この他にも、
イエスが説教した場所とされる、シナゴーグ教会
青年イエスの大理石像がある、青年イエスの教会
復活後のイエスが弟子達と食事したとされる石灰岩、メンザ・クリスティ(あれ、ガリラヤ湖畔にもありましたが・・・)
マリアとイエスが定期的に水を汲みに行ったとされる、マリアの井戸(ティベリア方面から市街に入った時、街道の右手の道端に見えます 32 42' 22.43"N 35 18' 05.11"E )。
その井戸に水を供給する湧き水があり、また受胎告知を受けたとされる地下室があるギリシャ正教の聖ガブリエル教会
イエスが初めてこの町で説教したとき、町の人が怒って彼を突き落とそうとした崖、主の跳躍の山(ここではなく、町の西にある近くの岩がそうだという説がある)。
があります。
この後、ツィッポリに向います。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ナザレ~その2

ナザレにある、受胎告知教会の続きです。
Fi2349768_0e 2階にある礼拝堂です。
祭壇の後の絵では、一番上に三位一体のシンボル、中央にイエス、周りを聖者と殉教者が囲んでいます。
この部屋も含め、教会中至る所に、世界中の教会からもたらされた聖母マリアの絵が、掲げられています(左の壁に少し見えます)。

沢山ある聖母マリアの絵のうち、長谷川路可という人が描いた、日本の聖母子像です。
Fi2349768_1e
マリアの内掛けの袖は、無数のパールを埋め込んでいます。
多くの絵の中でも、日本代表のこの作品は、出来が良いと思いました。

礼拝堂のドーム天井です。
Fi2349768_2e
聖母マリアを象徴する花、ユリをイメージしています。

Fi2349768_3e 教会の中庭に建っている小部屋です。ちょうど赤ちゃんに対してバプテスマを行うようです。
キリスト教においては、バプテスマとは、キリスト教徒になる時に行う儀式です。
身体を水に浸して、洗う事により、清めます。
バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)のバプテスマが、キリスト教のバプテスマの起源だそうです。

Fi2349768_4e これは中庭の地下にある遺構です 32 42' 08.95"N 35 17' 51.81"E 。
画像中央にあるのは、井戸ではないかと思います。
地下の土地は窪みが多数あり、梨型の穀物倉、ぶどう酒や油の壷を入れるアーチ型の部屋などがあるそうです。
いくつかの穀物倉では古代イスラエルの土器が、ほとんどの部屋にはヘレニズム時代の土器片があったそうです。
この遺構は、ヘレニズム時代のものではないかと思います。
その後、十字軍の時代になって、十字軍騎士タンクレードが大聖堂の建設を命じた為、これらの遺構は教会と、同時期にできた司教の館の下敷きになりました。
それは、当時十字軍が造った教会の中でも、最大の教会だったそうです。
バイバルスによって破壊された後、オスマン朝支配下の18世紀に、フランシスコ会が再び教会を建てました。
この教会は、現在の教会を建てる為に破壊されました。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ナザレ~その1

ナザレ周辺の観光の続きです。
Fi2347451_0e カナの南西6キロにある、ナザレに着きました(撮影場所 32 41' 58.46"N 35 17' 47.48"E )。
丘陵地の盆地にあり、オリーブとイトスギの多い、わりと大きな街です。
人口は6万で、大半はアラブ人です。
イスラエル最大のアラブ人都市です。
イスラム教徒が6割、キリスト教徒が4割だそうです。
ここは旧約聖書やヨセフスの著述では触れられていない、比較的新しい町です。
ただ、カイザリヤで、ナザレに言及する銘文が見つかっているそうです。
Fi2347451_1e 画像は、受胎告知教会です 32 42' 07.79"N 35 17' 51.34"E 。
中近東最大のキリスト教会で、14年かけて造られ、1964年に完成、1969年に聖別されました。
町の中でも、かなり目立つ教会です。
ここで、聖母マリアが天使ガブリエルから、受胎告知を受けました。
またイエスは、この小さな村で教育を受け、育ちました。
当時の人口は、数百名程度だったようです。
そのため、4世紀以降ナザレは、エルサレムやベツレヘムと並ぶ、重要な巡礼地になりました。
その後、イスラム帝国の時代、十字軍の支配(この時、司教座になった)が続き、マムルーク朝のバイバルスが奪還したとき、この町は破壊されました。
オスマン時代の17世紀に、フランシスコ会が廃墟の町に移り住んで教会を建て、20世紀にはイギリス軍の司令部が置かれました。第二次大戦後にイスラエルが占領しました。
画像は、受胎告知教会の前面です。
Fi2347451_2e
アヴェ・マリアのAの形をしています。
壁面の最上部にあるエッチングは、天使ガブリエルと聖母マリアです。
下のほうにある扉には、イエスの生涯が浮き彫りされています。
受胎告知から始まって十字架での最後までの、6つの場面が描かれています。

教会の一階
です。
Fi2347451_3e
画像の左側、地下に下った所に、受胎告知を受けたという洞穴があります。
ここが聖蹟として知られるようになるにつれ、多数の建物が周囲に群がるように建てられました。

これが受胎告知の洞穴です。中は煙のすすで煤けています。
(画像の下端は教会の手摺です)
Fi2347451_4e
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。
そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。
神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。
不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
そこで、天使は去って行った。
(ルカによる福音書・1章26~38節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
383年、スペインの巡礼者、エゲリア夫人がここを訪れ、マリアが生活していた大きく見事な洞穴と、そこに置かれた祭壇を見ました。
570年、教会がここに建てられました。
1899年の発掘により、この洞穴近くからビザンツ時代のモザイクが出土されました。
モザイクの銘文は「CONON、エルサレムの助祭の為に」と書かれていました。
教会が建てられた事により、この洞穴は教会に組み込まれて行きました。
洞穴に下りる階段が付けられ、小さな聖卓が設けられました。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・カナ

ガリラヤ湖から西に約20キロ、ナザレ近郊のカナに着きました。
(たぶん、このあたり 32 44' 51.66"N 35 20' 34.83"E )
カナは、かつて作家フラヴィウス・ヨセフスが言及した町で、現在はイスラム教徒とキリスト教徒が住んでいます。
アラブ的な風情が漂う街です。
ここはイエスによる最初の奇跡が行われた場所で、そのためフランシスコ会とギリシャ正教の二つの教会が建っています。
今日は、フランシスコ会の教会を見学します。
画像はその教会の正面です。
Fi2344187_0e

教会の中
です。
Fi2344187_1e
丁度ミサが行われていました。
ここには、6世紀に教会があった事が伝えられています。
しかし17世紀にはモスクが建っていました。
フランシスコ会は、1641年にモスクの隣の家を購入しましたが、200年に渡る交渉の末、1879年にモスクの敷地を手に入れました。
1881年に、ザルツブルグの大聖堂にならい、ここで見つかった古代の遺構を利用して、新しい教会が建てられました。

教会の床下には、大きな石で出来た入れ物がありました。
これは、イエスの奇跡にまつわる水瓶でしょうか?
Fi2344187_2e
ガリラヤ湖畔で、イエスに4人の弟子がついた後の話。
イエスの故郷、ナザレの近くのカナで、イエスの母マリアとイエス、4人の弟子達は結婚式の手伝いに来ていました。
ところが祝宴がまだ続いている最中に、ぶどう酒が底をつく、という事態になった。
これは大変な非礼である。
マリアがイエスにこの事を言うと、イエスは「婦人よ、それが私とあなたに何の関係があるのですか?私の時はまだ来ていません。」と言った。
その後、イエスは清めの為の石の瓶を見つけると、手伝いの女たちに、それを水で満たして、汲んで持っていきなさい、と言った。
女たちがその通りにすると、その水を一口飲んだ世話役が、「酔いが回って後、なお良いぶどう酒を振舞うとは!」と言って花婿を褒め称えた。
水をぶどう酒に変えた、イエスの最初の奇跡です。

これは床下にある物ですが、何の遺跡かよくわかりません。
Fi2344187_3e
1997年に、フランシスコ会の発掘者は、14世紀?の物と思われる中世の教会跡を見つけました。
それは17世紀の巡礼者が、イスラム教徒に接収された古代の教会と言っていた物です。
また、5,6世紀の教会跡も発見されました。
更に現在の祭壇近くのモザイク床では、3,4世紀のアラム語の碑文が見つかっています。
「この床板をつくりしブタの子タンフームの子ユセおよび彼の息子達はその善行の故に祝福されん事を、アーメン」
この他、地下には、様々な遺物が置かれていました。

これは隣にあるギリシャ正教の教会です。
Fi2344187_4e
1885年に建てられました。
この付近の土産物屋では、カナの婚礼ワインを売っています。
小さい物は、1本1ドルです。安いので買いましたが、味見はまだしていません。
実は奇跡が起きたカナは、ケフェル・カナとキルベト・カナの二箇所のうちのどちらかなのですが、ここはケフェル・カナです。
ケフェル・カナは、ティベリアに通じる街道沿いにあり、巡礼には最適の場所です。
そのせいか、ローマ教会とギリシャ教会は、ここを支持しているそうです。
キルベト・カナは、古代の村の遺跡があり、イエスの時代の土器や貨幣が出土しています。
学者はここを支持しているそうです。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ガリラヤ地方西部

明けて12月31日。
Fi2341453_0e 宿泊地キブツ・ゲネサレ近くの、ガリラヤ湖畔の日の出です。

(撮影場所 32 50' 33.75"N 35 31' 34.93"E )
日の出直後。
渡り鳥の群れが、湖面を通り過ぎて行きます。

Fi2341453_1e 太陽が完全に出ると、湖面に光の道が出来ました。
2005年も色々あったなあ~。
静寂の中で、日の出を拝みたかったのですが、実は西岸のティベリア方面から、ロック音楽が延々と聞こえていたのでした。
年末だからだろうか、町のクラブ・ディスコから聞こえているようです。

Fi2341453_2e 泊まったキブツ・ゲネサレの宿泊棟 32 50' 38.55"N 35 31' 18.90"E の廊下で、小鳥が遊んでいました。
廊下中を始終飛び回っています。
キブツとは、農業集団村の事で、ヘブライ語で「労働」の意味。
ここでは、土地、生産、消費、教育、文化の全てが、構成員の共同の所有になっており、それぞれの能力に応じて労働が分担され、衣食住(収入)と福祉は公平に分配されます。
そして構成員は、生産から消費までの一切の生活を、ここで行っています。
農業が主体ですが、ここのようにホテルを経営している所もあります。
通常のホテルと、特に変わった事はありません。
キブツだからと言って、宿泊客が働かされるわけではありません。
1つのキブツの構成員は、普通5百~7百人位で、キブツに従事する人は、イスラエルの総人口の2.2%だそうです。
キブツができたのは20世紀初頭?で、それまでパレスチナに殖民したユダヤ人は、現地のアラブ人を労働させる経営者だったのですが、自らが労働者になって労働する事で、土地取得を正当化しようとする労働シオニズムという考え方が生まれ、その実践モデルがキブツだったそうです。
キブツ以外に、モシャヴという農業共同村があります。
これは生産物の販売と物品の購入、生産計画は組合で行い、水と農機具も共有だが、生産と消費は個人の自由で行われる(収入は個人の努力と能力次第)というものです。
このキブツ・ゲネサレは1937年に創設され、現在は人口700人で、バナナ、柑橘類、牧草、小麦、綿花の栽培、酪農、養鶏、漁業を行っています。
キブツ・ゲネサレ経営のホテルは、食堂、売店(土産物)、バー、受付のあるメインホール 32 50' 38.35"N 35 31' 21.91"E と、宿泊棟から成っています。
その他に、リハビリ機器製造の工場や、前述のイガル・アロン・センターがあります。
食事はバイキングでしたが、肉がなくて酢漬け?の魚があったのは、珍しかったです。
さて、今日は、ガリラヤ湖の西のカナとナザレの街、ツイッポリの遺跡を観光した後、ヨルダン川西岸沿いに南下して、死海のほとりエン・ボケックに向います。
Fi2341453_3e キブツ・ゲネサレを出て、ガリラヤ湖西岸を南下。すぐの所にミグダル村があります。
(たぶん、このあたり 32 50' 13.11"N 35 29' 52.02"E )
ヘレニズム時代、ここはガリラヤ地方の4大都市のひとつでした。
土器製造と染色工業で栄えました。
また、魚の加工業が盛んで、作家ヨセフスは、ここをタリカエア(魚の塩漬け)と呼びました。
魚の塩漬けは、エルサレム、アレキサンドリア、ローマに輸出されました。
第一次ユダヤ反乱の際、反乱軍の指揮官ヨセフスは、ここでローマの将軍ティトスに敗れました。
ここはマグダラとも言い、新約聖書のマグダラのマリアの出身地です。
イエスが、マグダラにあるファリサイ派の人の家に招かれた時の事、町にいる「罪深い女」(娼婦)が突然入ってきて、イエスの足元に近寄って、泣きながら足に接吻し、香油を塗りました。
イエスがこの家にいる事を聞いて、香油を持ってきたのです。
それを見たファリサイ派の人が、
「この人(イエス)が本当に預言者ならば、この女がどんな女かわかるはずだ。罪深い女なのに」と呟きました。
するとイエスは、「この人が多くの罪を許された事は、私に示した愛の大きさでわかる。赦される事の少ない者は、愛する事も少ない。」と言った。
この女性、マグダラのマリアは、イエスによって「七つの悪霊」を追い出してもらい、十字架に架けられたイエスの最後を見、復活後のイエスに最初に会ったそうです。
Fi2341453_4e ミグダルを過ぎてすぐ、ガリラヤ湖を離れて西側に進みました。
画像中央の奥に見える丘は、ヒッティンの丘と思われます。
(たぶん、このあたり 32 48' 02.07"N 35 27' 26.15"E )
十字軍時代の1187年、アイユーブ朝のスルタン、サラーフ・アッディーン(サラディン)が、ここで十字軍に大勝しました。
サラーフ・アッディーンは、エルサレム王国のボードワン4世と休戦協定を結んでいたが、ボードワンの死後、その配下でカラクの領主、ルノー・ド・シャティヨンは休戦協定を破って、たびたびアラブ人の隊商を襲って略奪した。
6月、サラーフ・アッディーンはジハードを宣言して、騎兵を主力にした1万2千の兵と2万の補助軍を率いて、ダマスカスからエルサレム王国に入った。
これに対し、エルサレム王ギーは、騎士1200、軽装騎兵3500、歩兵1万8千を率いてサーフリーヤ(後述のツィッポリ)に陣を張った。
7月、サラーフ・アッディーンは、十字軍をおびきよせようと、ガラリヤ湖畔のティベリヤを攻めた。
策にはまったギーの軍は、東進してハッティンの丘に陣を張った。
この真夏の時期、水の豊富なガラリヤ湖畔にいるサラーフ・アッディーンに対し、ギーは乾ききったハッティンの丘にいた。
7月4日、ひそかにギーの軍を包囲したサラーフ・アッディーンの軍は、風上から火を放ち、たちまち乾いた草むらは火の海になった。
喉の渇きで弱った十字軍は、イスラム軍騎兵の突撃で壊滅した。
国王ギー以下、ルノー、十字軍の騎士達が捕らえられ、ルノーはサラーフ・アッディーンの手で処刑、騎士達も処刑された。
しかしサラーフ・アッディーンは、ギーにヘルモン山の残雪で冷したバラ香水のシャーベットを勧め、「王は王を殺しません」と言って殺さなかった。
この後、サラーフ・アッディーンは、アッコーを始めとする地中海沿岸都市を落とし、9月に2万の兵でエルサレムを包囲、キリスト教徒の安全保障と引き換えに10月2日、エルサレムは開城された。
サラーフ・アッディーンの厳命により、略奪と殺戮は行われなかった。
第一回十字軍がエルサレムを占領した時、大量のイスラム教徒とユダヤ教徒が殺され、神殿の丘の前を馬に乗って進むと、手綱までが血に染まった、というのと対照的である。この辺の経緯は、概ねリドリー・スコット監督の映画「キングダム・オブ・ヘブン」に描かれています。
(次は、カナの町へ)

最後に、サラーフ・アッディーンの生涯をまとめます。
サラーフ・アッディーンは、正式名を、サラーフ・アッディーン・アブー・アル・ムザッファル・ユースフ・イブン・アイユーブ・イブン・シャージーと言います。
アイユーブ家という、クルド系軍人の家柄で、イラク、シリアのザンギー朝に仕えていました。
1168年、弱体化したエジプトのファーティマ朝が十字軍に占領される危険が生じた為、ザンギー朝のヌール・アッディーンの命で、叔父シールクーフと共にエジプトに派遣されました。
シールクーフが死ぬと、その軍事力を引き継いでエジプトの実権を握り、アイユーブ朝を開く。
1171年、当時イスラム世界は、スンニ派であるアッバース朝カリフ(バグダッド)とシーア派であるファーティマ朝カリフ(カイロ)に分立していたが、サラーフ・アッディーンはファーティマ朝の宰相としてスンニ派への切り替えを進め、虚弱なファーティマ朝カリフの自然死を待って、その王族を隔離して子孫の誕生を防ぎ、アッバース朝カリフの名のもとファーティマ朝を滅ぼした。
1174年、サラーフ・アッディーンの領土拡大を危惧したザンギー朝のヌール・アッディーンとの間に衝突の危機が生じたが、ヌール・アッディーンが死去した。
サラーフ・アッディーンはシリアのダマスカスに進出する。
1175年、ザンギー朝を破り、アッバース朝カリフからエジプト、シリアの支配権を認められる。
この時点で彼の敵は、ザンギー朝と、エルサレム王国のボードワン4世だった。
1176年、ヌール・アッディーンの未亡人と結婚し、その後継者の地位を得る。
1183年、全シリアを併合し、スンニ派の下に、イスラム世界の核心であるエジプト、シリアの再統一に成功する(これが彼の最大の偉業と言われる)。
ボードワン4世とは暫定的な休戦条約を結んでいた。
1185年、イラクのモスルも支配する。
この時点で彼の敵は十字軍のみになった。
1187年、ハッティンでエルサレム王ギーを破り、地中海沿岸都市、エルサレムも占領する。
1191年、第三回十字軍により、アッコーが奪回される。
その後、イングランド王リチャード1世との戦いが繰り広げられる。
1192年、リチャードとの間に休戦条約が結ばれる。
1193年、ダマスカスで病死。
「富は他人の為に使われるべきもの」と言った彼の遺産は、わずかに金貨1枚、銀貨47枚だったという。
彼は寛大で信仰心が篤く、約束を守る人柄から、騎士道精神の模範とされ、十字軍からも褒め称えられた。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・ペテロ首位権の教会

ガリラヤ湖周辺のタプハ観光の続きです。
パンと魚の増加の教会のすぐ南東にある、ペテロ首位権の教会に行きます。
画像は、タプハ(七つの泉)の由来になった泉の1つ 32 52' 25.51"N 35 32' 58.82"E 。
Fi2338740_0e
ここから湧き出した水は、張り巡らされた水路によって、教会の敷地内に行き渡っています。
(※画像の泉は、枯れているようでした。)

南に下りて行くと、ガリラヤ湖畔に達します。
そこに、ペテロ首位権の教会堂が建っています 32 52' 17.24"N 35 32' 56.78"E 。
素朴なこの教会堂は、4~5世紀に建っていた教会の跡に、1943年にフランシスコ会が建てたものです。
Fi2338740_1e

教会堂の中
です。
Fi2338740_2e
祭壇にあるのは、メンザ・クリスティという大きな岩です。
復活したイエスは、ガリラヤ湖に帰っていた弟子たちの前に現れて、この岩でパンを与えたそうです。
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。
主であることを知っていたからである。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。
魚も同じようにされた。
イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
(ヨハネによる福音書・21章12~14節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)

Fi2338740_3e 教会堂のすぐ側の園地に、イエスと弟子ペテロの像が立っていました 32 52' 16.72"N 35 32' 56.28"E 。
食事の後、イエスがペテロに、自分の後継者として宣教を託している姿だそうです。
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
二度目にイエスは言われた。
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
三度目にイエスは言われた。
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。
そして言った。
「主よ、あなたは何もかもご存じです。
わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
はっきり言っておく。
あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。
しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。
このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
(ヨハネによる福音書・21章15~19節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
ここは、ガリラヤ湖の広々とした眺めと、砂浜が目の前です。
イエスがペテロとアンデレの兄弟を弟子にしたのは、この海辺だそうです。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。
彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
二人はすぐに網を捨てて従った。
(マタイによる福音書・4章18節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
この後、宿泊地のキブツ・ゲネサレに帰りました。
ホテルで軽く自己紹介。
今日も、盛り沢山の一日でした。

ペテロ(ペトロ、ピエトロ)ゆかりの地は、前回旅行したローマにもありました(サン・ピエトロ寺院、ドミネ・クオ・ヴァディス教会)。
どういう人なのか少し気になったので、ペテロの生涯をまとめてみました。
1. ガリラヤ湖畔のベッサイダで生まれる。ギリシャ名をシモンと言った。
2. 職業は漁師だったが、熱心党(前述)に関心があったとも言われる。
3. 洗礼者ヨハネ(後述)の弟子になっていたらしい。その時一回イエスに会っている。
4. ガリラヤ湖畔でイエスに声をかけられ、最初の弟子になる。
5. 弟子の中で最年長者だったので、リーダー的存在になり、常にイエスに付添った。
6. 彼の家族はイエスを支援し、カペルナウムの彼の家がイエスの活動拠点になった。
彼自身は漁業のかたわら、イエスの説教に耳を傾けた。
7. イエスの評判が高くなるとファリサイ派(前述)らが迫害するようになったが、彼の信頼は変わらなかった。
8. イエスと弟子がヘロデ・アンティパス(前述)から逃れてゴラン高原のフィリポ・カイザリア近くを旅した時、彼は弟子を代表して「あなたこそメシア(救世主)です」と言った(ペテロの信仰告白)。
「メシア」とは、神的領域に達した人という意味もあるが、当時のユダヤ人にとってはユダヤ人の独立闘争を指導し神の国を達成する人という意味合いがあった。
この後に、彼が後者の考えを述べると、イエスは否定して叱りつけた。
9. イエスが伝道の為エルサレムに向うと、彼はガリラヤで多数の信徒を集めてエルサレムに向った。
イエスを快く思わないエルサレム神殿の大祭司の暴力的圧力に対抗する為であった。
10.イエスが自分の最後を悟って最後の晩餐(後述)を開いた時、彼に対して、他の者の為に仕える事がメシアの業であると言い、自分の死後の弟子や信者の指導を託した。
11.ゲッセマネ(後述)でイエスが大祭司の配下に襲われた時、彼は抵抗して1人の耳を切り落とした後で逃げた。
12.捕らえられたイエスの様子を見に、大祭司の屋敷に忍び込んだ時に見つかりそうになり、イエスの事を知らない、と三度叫んで見殺しにした(後述)。
13.イエスの処刑後、墓に行ってイエスの死体が無い事を確認した。
14.ガリラヤでイエスの復活に立ち会った。
そこで彼はイエスの事業を継承する事を決意した。
15.イエスの弟子団を作り、入団儀式としてバプテスマを採用した。
またイエスの意義を確かめる為旧約聖書を調べた。
16.エルサレム神殿の前で、大祭司らにイエスを殺した非を訴え、イエスが正しい事を弁証した。
数千の信徒が加わり、更に増加した為、エルサレムに教会を作って指導した。
17.彼は度々奇跡を起こし、教会員も非常に増えたので、彼の名声は頂点に達した。
18.ヤッフォで異邦人コルネリアスの使いに会い、カイザリアでコルネリアスを教会員として受け入れた。
彼はユダヤ人以外の異邦人を受け入れる考えを持っていたが、これはユダヤ人の強い非難を浴びた。
19.アグリッパ1世(前述)が統治者になると、ユダヤ人の人気取り政策のため彼は投獄された。
20.彼は脱獄し、エルサレム教会をヤコブに託してエルサレムを去った。
21.エルサレム会議で、彼はユダヤ人のみを伝道し、パウロは異邦人を伝道する事を取り決めた。
22.妻を伴って小アジア各地のユダヤ人に伝道した。
23.ローマに行って長期間伝道した。
24.ネロ帝のキリスト教徒大迫害に遭い脱出するが、アッピア街道でイエスに会って引き返す。
25.逆さ磔になり殉教(現在サン・ピエトロ寺院がある場所)。
カトリックでは初代ローマ教皇として扱われている。
彼は無学で平凡な漁師に過ぎず、囚われたイエスを否認するなど弱さも持っていたが、誠実な人であったらしい。
イエスもその誠実さゆえに彼を信頼した。
ペテロは、マービン・ルロイ監督の映画「クオ・ヴァディス」に登場します。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・パンと魚の増加の教会

ガリラヤ湖周辺の観光の続きです。
祝福の山の南、カペルナウムの西にある、タプハを観光します。
タプハはアラビア語で、ギリシャ語ではヘプタペゴン(七つの泉)と言います。
実際に泉が点在する場所です。
Fi2335976_0e ここは、パンと魚の増加の教会です 32 52' 24.81"N 35 32' 56.99"E 周辺。
イエスがここで行った奇跡を記念して、5世紀に建てられたものです。
教会堂、前庭、宿坊からなり、南北56m、西側33m、東側24.3mの台形をしています。
教会堂は東、前庭は西です。
前庭の中央には、直径5mの大鉢(カンタルス)が置いてあり、前庭の東西南を宿坊用の部屋が囲んでいます。
また、教会の敷地の床の至る所に、主に幾何学模様のモザイクが施されています。
モザイクは、この教会の見せ場と言えます。
教会堂の内部です。
Fi2335976_1e
教会堂はバシリカ様式で、25m×19mの広さです。
基礎と土台は白い石灰岩で、その他は玄武岩で造られていて、内部は湖の砂とセメントを混ぜ合わせたモルタルで塗られています。
教会堂の奥には、半径3.3mの半円形のアプスがあり、その壁に沿って聖職者用の椅子が据えられています。
アプスの正面は、6.9m×6mの内陣になっていて、その中に卓上の祭壇があります。
また、祭壇の下には、「主の食卓」と言われる未加工の大きな石灰岩が置かれていて、十字架の痕跡が残っています。
内陣からこちらに向って、左右をそれぞれ4本の列柱が立っています。
列柱の外側を側廊と言って幅3.6m、列柱の間の広間を身廊と言って幅7.9mあります。
また、内陣の左右両脇には、翼廊という小広間があります。

Fi2335976_2e 内陣の中、祭壇の脇に、十字架の付いたパンを入れた籠と、両側を2匹の魚が挟むモザイクがあります。
ここで使われているモザイクの嵌め石は、10cm平方あたり76個だそうです。
また、この近くには、「聖なる父」を記念した銘文があります。
パンと魚のモザイクは、五つのパンと二匹の魚で、5千人以上の人々を満腹させたという、イエスの奇跡にまつわる物です。
使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。
イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。
イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。
「群衆を解散させてください。
そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。
わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
しかし、イエスは言われた。
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」
彼らは言った。
「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
というのは、男が五千人ほどいたからである。
イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
すべての人が食べて満腹した。
そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
(ルカによる福音書・9章10~17節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
貧しい群衆に対して、イエスが自分の僅かな食料を、分かち合いの心で配った結果、皆が満足した、とも取れます。
しかし男だけでも五千人というのは、並大抵の人数ではありません。
参考資料によると、この件の直前に人望があった宗教指導者、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)が、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに殺されており、また時期は過越しの祭(ユダヤ人の三大季節祭のひとつで、モーセによるエジプトからの解放を祝う意もある)の頃であり、この会食の後、人々がイエスを王にしようとした、という記述があるそうだ。
群集の中には、イエスを担ぎ上げてユダヤの独立を図ろうとする人々もいたのではないか、と書かれていました。
モザイクの中で主要なものは、左右の翼廊で発見された6.5×5.5mの長方形のパネルです。
それぞれ蓮の花で縁取られていて、中には動植物と建物の絵が一面に描かれています。
画像は右(南)側の翼廊のパネルです。
Fi2335976_3e
画像奥の中央には、蓮の葉から飛び出そうとしている水蛇の子に、襲いかかろうとしているアネハヅルが見えます。
また奥の右端の方に、ギリシャ文字で6~10の数字がついた塔(ガリラヤ湖の水位を測る河川水位計)が見えます。
画像中程から下にかけて、二羽のあひると一羽の鶴があります。
蓮を覗き込む、鶴の目線がユーモラスです。
左(北)側のパネルは、上から、インド睡蓮の花に乗る赤とさかのあひる、鴨、二羽のあひる、赤いきょうちくとう、青鷺、黒雁、インド睡蓮に乗る鳩、いぐさとあひる、青鷺、イシチドリ、ハシビロガモ、シノリガモ、二羽の鵜を従えた白鳥、水蛇を殺そうとしているフラミンゴ、蓮の蕾の上に乗る四十雀、いぐさといばら。
昔のガリラヤ地方の自然の豊かさを目の当たりにしているようです。
他に町の門と東屋、塔もあります。
ここには火災で焼けた跡があります。
ここで使われているモザイクの嵌め石は、10cm平方あたり100~105個だそうです。

使われている顔料ですが、石灰岩を原料としていて、2種の青、明灰色、3種の赤、2種の黄色が用いられています。
また、北の翼廊の北側には二羽の孔雀のモザイク、東側にはサウルスという人についての銘文があるそうです。
Fi2335976_4e こちらは左(北)の側廊の柱の間にあるモザイクです。
おそらく、穴熊と戦う鳥です。
この他に、花冠を頂いた二羽の鳥、二羽の青鷺、二羽の黒雁があります。
童話の挿絵を見ているようで、なんだか和みます。
ここで使われているモザイクの嵌め石は、10cm平方あたり105~107個だそうです。
ここのモザイクには2つの特徴があるそうで、
今まで幾何学模様しかなかったパレスチナの教会の床に、絵画的モザイクを導入した事、
ナイル川流域の風景(ヘレニズム時代のモザイク画の主要な題材で、後述のツィッポリでも見られます)に、ガリラヤ湖の動植物が組み合わさっている事、
だそうです。
また、この教会堂の下には、更に古い時代の礼拝堂が発掘されているそうです。
この教会は、7世紀初めにササン朝ペルシアによって破壊されたようです。
その後は忘れ去られていましたが、発掘後に復元され、現在に至っています。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・山上の垂訓教会

ガリラヤ湖周辺の観光の続きです。
Fi2332937_0e 画像は、祝福の山の上に建つ、山上の垂訓教会です 32 52' 50.73"N 35 33' 20.96"E 。
祝福の山は、ガリラヤ湖の湖面から125mの高さがある丘です。
イエスは、ここで12使徒を選びました。
また、イエスの評判を聞いて集まって来た、大勢の群集を見たイエスは、この丘に登って弟子達に教えを語りました。
それは山上の垂訓として知られる、次の言葉です。
心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
(マタイによる福音書・5章3節~10節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
山上の垂訓教会の中の8つの壁には、上記の8つの句がラテン語で記されています。
Fi2332937_1e
また、
「敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈れ」
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」
「求めよ、されば、与えられん。
捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」
「狭き門よりはいれ。
滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
そして、そこからはいって行く者が多い」
(以上、マタイによる福音書・7章 一部を除き財団法人日本聖書協会・口語訳から引用)
と言った有名なフレーズが、ここで生まれました。
この八角形の教会は、フランシスコ会が1937年に建てました。

Fi2332937_2e 教会の裏手には、手入れされた庭園が広がっています。
でも、ここにいると丘の上という感じではないです。下の眺めがよく見えませんでした。
「丘」のイメージを撮りたいときは、教会からかなり下った場所から狙った方が良いと思います。
ちなみに、イエスが垂訓を行った場所は、ここではなくハッティンの丘だ、という説もあるようです。
※参考資料は、旅行日記の最後にまとめて挙げます。

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イスラエル旅行・カペルナウム~その2

ガリラヤ湖畔のカペルナウム観光の続きです。
Fi2329808_0e 画像の左側は、オリーブ油を絞る石臼 32 52' 49.96"N 35 34' 28.83"E 周辺。

置いてある大きな石で潰したようです。
右はオリーブ圧搾器。オリーブ油が溝を伝って下のくぼみに溜まる仕掛けのようです。

Fi2329808_1e この辺には、シナゴーグのあちこちの部分が散乱していました。
これらの破片のおかげで、シナゴーグの外観がほぼ完全に再現できるようになりました。
シナゴーグの北壁と東壁、北側の列柱は復元されたものです。
画像には、コリント式の柱頭、建物の上層部分、モザイク壁画が並べられています。
どれも様々な彫刻、模様で一杯です。
Fi2329808_2e これは、花模様と幾何学模様を囲んだメダリオンを浮彫した、シナゴーグのフリーズ(列柱の上に載っている屋根の一部)です。
こうした彫刻には、ユダヤ教の祭具であるメノラー、角笛、香シャベルや、旧約聖書に現れるぶどう、ざくろなどがある。
「(神から賜った地は)小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」
(申命記・8章8節)
真ん中にあるダビデの星は、魔術的な意味合いの物ではないか?と文献にありました。
他に五角形の星型もあるそうです。
Fi2329808_3e この浮彫は契約の箱を運ぶ車、トーラー(律法)聖櫃だそうです。
日本で言うと山車のようなものだそうです。
何か行事がある時に、建物の奥から運び出したのでしょうか?
これら彫刻の中には、生き物もあったそうですが、そのほとんどは偶像破壊主義者(イスラム教徒?)によって破壊されたそうです。
これでカペルナウムの観光が終りました。
現在15:00、ここの気温23度。

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イスラエル旅行・カペルナウム~その1

ガリラヤ湖周辺の観光の続きです。
まず、湖畔のカペルナウムを観光します。
カペルナウムは、地中海とシリアのダマスカスを結ぶ通商路上にある漁村です。
ローマ軍がここに駐屯し、百人隊長がシナゴーグ(集会所)を造りました。
ヘロデ王の子、フィリポスとアンティパスの領土の境界線がここにあり、交易税を徴収する税関があった。
イエスは、初期の宣教において、ここを根拠地にしました。
第一次ユダヤ反乱の指揮官で、後に「ユダヤ戦記」等を著した作家、フラヴィウス・ヨセフスは、ヨルダン川の戦いで負傷し、ここに運ばれました。
2世紀以降、ユダヤ人キリスト教徒がここに教会を建てて住んでいた。
画像は、カペルナウムに向う所。道沿いの潅木の花 32 52' 50.47"N 35 34' 24.59"E が綺麗でした。
Fi2326439_0e

カペルナウムには、前述のシナゴーグの遺跡があります 32 52' 51.85"N 35 34' 30.54"E 。
画像は、そのシナゴーグの土台です。
Fi2326439_1e
黒い石は玄武岩で、2千年前のイエスの時代のシナゴーグ跡です。
その上の白い石は石灰岩で、3世紀に建てられたシナゴーグの跡です。
ここではない別の場所から運ばれて来た石です。
Fi2326439_2e 3世紀に建てられたシナゴーグの中です。
初期ガリラヤ型式シナゴーグという様式だそうで、その中で最も立派で保存状態が良い物です。
広さは、20.4×18.65m。
シナゴーグの前面は、南、エルサレムの方向を向いています。
前面の前に、両側に階段が付いた台地があります。
この画像は、その台地から撮ったもの。
部屋の中は、東西と北の三辺に円柱が立ち並んでいます。
柱の台座はアッティカ式、柱頭はコリント式と言うそうで、高さ7m以上。
その上には二階の間があって、主に女性の祈りの場だった。
一階の部屋の壁面には、石造りのベンチが設けられていて、床は敷石で舗装されている。
また、円柱にはギリシャ語とアラム語の碑文が彫られていて、このように書かれているそうです。
「モスの子、ヘロデ及びその子ユストスは、彼らの息子達と共に、この円柱を建立せり。」
「ゼビダーの子、ヨハナンの子、ハルフ、この円柱を造れり、彼の上に祝福あらん事を。」
ここはシナゴーグの東隣にある、中庭です 32 52' 51.77"N 35 34' 31.10"E 。
Fi2326439_3e
幅11.25mの不等辺四角形で、三方を列柱で囲まれ、床は敷石で舗装されています。
画像は、敷石に彫られた当時のゲームの跡。何のゲームかは、わかりません。

これはシナゴーグの前(南)に広がる遺構です。
Fi2326439_4e
2千年前の家屋は、湖岸で集めた黒玄武岩を積み上げて造りました。
屋根は木の枝や幹で組まれて、土と藁を混ぜたものを塗っていました。
奥に見えるのは、シナゴーグの近くにあったと言われるペテロの家の跡で、その上に5世紀ごろに八角形の教会が建てられました。
現在、更にその上に建物があるようです 32 52' 50.10"N 35 34' 30.86"E 。
30歳の時、イエスはナザレで初めての宣教を行ったが、不調だった。
彼はここカペルナウムに移り住んで、シナゴーグで度々説教を行った。
小ローマと言われたデカポリス(十の都市)の領域に近く、色々な人々が住んでいたカペルナウムは、彼の新しい教えを受け入れやすかったそうである。
彼はここで、ペテロの義理の母や、ローマ百人隊長の部下の病気を治すなど、数々の奇跡を行った。
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
(マタイによる福音書・8章14、15節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
カペルナウムの町の大部分は、シナゴーグの東側にあるようです。
見た記憶がないので、たぶんまだ埋まっているのだと思います。

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イスラエル旅行・ガリラヤ湖~その2

ガリラヤ湖遊覧の続きです。
ガリラヤ湖は、南北21キロ、東西12キロ、最大水深44メートルで、周りを400m位の山々に囲まれています。
琵琶湖の1/4の広さです。
また、海面下210mにあり、世界最低所の淡水湖です。
ゲネサレ湖、ギンネサルの海、ティベリヤの海とも言われます。
ヘブライ語のキネレット(琴)の意味だそうです。
豊かな水と肥沃な土地のせいで、この辺は実に緑が豊かです。
そのため、古代から多くの都市が栄えました。
また、現在のこの辺りの眺めは、大昔とさしてかわらないそうです。
Fi2323913_0e これは西岸を眺めたところ。
画像中央の崖みたいになっている場所の、奥にうっすらと見える丘は、サラーフ・アッディーンが十字軍を破った、ハッティンの丘です(後述)。
岸には、ガリラヤ湖畔最大の都市、ティベリヤ 32 47' 38.47"N 35 31' 58.46"E があります。
ヘレニズム時代、ヘロデ王の子、ヘロデ・アンティパスが自分の領地の首都として造りました。
第2代ローマ皇帝ティベリウスに敬意を表した名前です。
ここでガリラヤ湖での、イエスにまつわる話を載せます。
まずはイエスと弟子が、ベッサイダに向う途中で嵐に遭った話です。
イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。
イエスは眠っておられた。

弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」
そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
(マタイによる福音書・8章23節~27節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用) 
ガリラヤ湖では、危険な山おろしが突然襲ってきます。
Fi2323913_1e こちらは東岸です。
クルスィ 32 49' 41.06"N 35 39' 16.28"E といって、国立公園やビザンツ時代の遺跡がある所です。
ここでのイエスにまつわる話。
一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。
イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。
「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」
イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。
この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。
イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。
たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。
そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。
ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。
悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。
悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。
すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。
この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。
そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。
彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。
成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。
そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。
彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。
そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。
悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。
「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」
その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
(ルカによる福音書・8章26節~39節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
Fi2323913_2e こちらは北東岸のベッサイダ 32 54' 37.15"N 35 37' 49.98"E です。
ヘロデ王の子、フィリポスがここに町を造って、ローマ皇帝アウグストゥスの娘の名に因み、ユリアと名付けました。
また、イエスの十二使徒のうち、ペテロ、アンデレ、ピリポの故郷でもあります。
この近くの湖面を、イエスは歩いて渡りました。
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
皆はイエスを見ておびえたのである。
しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
(マルコによる福音書・6章45節~52節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
Fi2323913_3e さて、いよいよ北西岸の船着場に近づきました。
山上の垂訓の丘、我々の観光バスが見えます。
運転手さん、お疲れです。
これから、イエスにまつわる観光地を見学します。

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イスラエル旅行・ガリラヤ湖~その1

ゴラン高原から再びガリラヤ湖畔へ。
ガリラヤ湖東岸のエン・ゲブに着きました。
(たぶん、ここ 32 47' 11.49"N 35 38' 11.03"E )
ここで昼食。
午前中の爽やかな高原ドライブのお陰で、食欲旺盛です。
Fi2321255_0e ゴラン高原はワインの産地でもあり、ヤルデンワインを飲んで見る事にしました(画像)。
その他はお決まりのピタと前菜、オニオンスープ。
デザートはなつめやし。

Fi2321255_1e これがメイン・デッシュのセント・ピーターズ・フィシュ(聖ペテロの魚)です。
このような由来があります。
(イエスと弟子達の)一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。

ペトロは、「納めます」と言った。
そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。
「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。
自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」
ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。
「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。
しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。
湖に行って釣りをしなさい。
最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。
それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
(マタイによる福音書・17章24~27節 財団法人日本聖書協会・新共同訳から引用)
つまり、神の子イエスは神殿税を納める必要がない、という事のようです。
しかしそれでは角が立つので、ペテロに釣らせた魚が咥えている銀貨を支払ったとの事です。
銀貨を咥えた魚が、ガリラヤ湖で採れるセント・ピーターズ・フィシュ(黒スズメダイ)です。
予想外の可愛い顔。食べるのがかわいそうだった。
揚げて調理されていて、軽い塩味とレモン汁が付いた、さっぱり味の白身魚でした。
このような何かの由来で名物になっている食べ物は、不味いんじゃないかと思っていましたが、結構美味しくて皆さん隅々まで丁寧に食べていました。
Fi2321255_2e さてレストラン近くの船着場から、湖を渡って北岸のカペナウムに行きます。
向こうから二階建ての大きな遊覧船がやって来て、イタリア人団体客をどっと吐き出しました。
この立派な舟に乗るのだな、と思っていたら、実はその隣にある小さな木造船でした。
小さいけれども、こちらは前述の二千年前の船を真似たそうで、雰囲気があってよかったです。
なんと船上で、日の丸掲揚と君が代吹奏(録音テープ)。
Fi2321255_3e
国旗掲揚なんて高校以来かなあ。
緊張してしまった。
イスラエルは周りを敵に囲まれているので、国家意識が強いのだろうか?

Fi2321255_4e さっきのレストランのピタの余りを、ちぎって投げるとカモメが殺到します。
空中でうまく捕ってくれる様子が見事で、面白かった。
知床遊覧船を思い出しました。
ガリラヤ湖周辺は、イエスの宣教活動の中心でした。
ここからしばらく、イエス・キリストに関する場所が続きます。
イエスの生涯をまとめておこうと思ったのですが、時間がないので後でまとめます。

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イスラエル旅行・ゴラン高原~その2

ゴラン高原観光の続きです。
ゴラン高原のキブツ、メロン・ゴランの近くの、ベンタル山に着きました。33 07' 46.74"N 35 47' 07.89"E 
ここはイスラエルの東端の国境地帯です。
目の前に、シリアとの間にある中立地帯の町、クネイトラがあります。
中立地帯には、国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)という軍隊が駐留していて、オーストリア、カナダを中心に千名余りが活動しています。
自衛隊も40名程参加しています。
そのため、このベンタル山にも国連の車両が停まっていました。
画像は、ベンタル山から見た、周囲のパノラマです。
通常のサイズに伸ばして見てください。
P300a
実に雄大な景色で、ゴラン高原が一望の下です。
画像左端が南で右端が北、中央は西になります。
左端にあるのは、イスラエルで一番高いところ(1165m)にあるコーヒーショップ、コーヒー・アナン(雲)です 33 07' 44.10"N 35 47' 06.83"E 。
他のブログに書いてあったのですが、店の名前が、現国連事務総長の名前とよく似ています。
その下には塹壕と銃座があります。ここは昔イスラエル軍の砦だったようです。
右に視線を移すと、イスラエル領内のゴラン高原の景色が続きます。
こちらは、前の画像の続きで、更に右側です。
通常のサイズに伸ばして見てください。
Fi2318796_1e
左端にある白い山は、ヘルモン山(2815m)。
少し右の山すその奥に、シリアの首都ダマスカスがあります。
その下にある旋回銃座は、中に入って回転させる事ができます。
ヘルモン山から右側は中立地帯です。
画像中央あたりに、たぶんクネイトラの町 33 07' 26.05"N 35 49' 29.75"E があり、その周辺に自衛隊が駐屯しているそうです。
ここは標高が高く、風も強いので、結構寒かったです。
第三次中東戦争の時、クネイトラから西側の幹線道路上には、シリア軍の機甲・機械化旅団4個が展開していました。
6月9日、イスラエル軍のマンドラー機甲旅団とゴラニ歩兵旅団は、シリア軍の対戦車防御が手薄なゴラン高原北部を攻撃し、大損害を受けながらテルファヘル、ナムシュ、カラを突破しました。
味方の兵士が上を渡れるように、鉄条網の上に身を投げ出したといいます。
6月10日にはバニアスを占領し、シリア軍は浮き足立って逃げ出しました。
午後2時にはクネイトラが無血占領され、ゴラン高原一帯がイスラエル軍の占領下になりました。
今やイスラエルが、シリアのダマスカス平原を見下ろす立場になりました。
これ以降、ゴラン高原は休戦地区になっています。
第三次中東戦争は六日間戦争と言われ、イスラエル軍がたったの六日間でエジプト、ヨルダン、シリアを破った戦いです。
そのためアラブ諸国では、屈辱の大きさからナクサ(挫折)と言われました。
1974年から、UNDOFがゴラン高原におけるイスラエル・シリア間の停戦監視、及び両軍の兵力引き離しに関する履行状況の監視を行っています。
(中東戦争の背景であるパレスチナ問題については、こちら
Fi2318796_2e ヘルモン山(2815m)です 33 24' 36.87"N 35 51' 00.19"E 。
正確に言うと、右端がアマナ山、中央がセニル山、左端がヘルモン山です。
古くから聖なる山と呼ばれ、その斜面には多くの聖所遺跡があります。
山頂には真夏でも残雪があり、大気中の水分が急激に冷却する夜間には、大量の露が発生する、という事が旧約聖書にも書かれています。
また、新約聖書によると、フィリポ・カイザリヤでのペテロの信仰告白の六日後、イエスと三人の弟子がヘルモン山に登ったそうです。
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」
イエスが、その神性により変貌した出来事だそうです。
ヘルモン山の残雪は、ヨルダン川の水源になっています。
この雪は、富裕階級の飲み物を冷す為に用いられました。
十字軍の時代、サラーフ・アッディーンは夏のヒッティンでの勝利の後、捕らえたエルサレム王ギーに、ヘルモン山の雪で冷したバラ香水のシャーベットを薦めて労わりました。
現在、この山への登りは7時間かかるそうです。
さて、そろそろガリラヤ湖に帰る時間になりました。
ベンタル山には、鉄の廃材(軍事廃材か?)で作った恐竜やら動物やらのオブジェが並べてあります。
中立地帯という、ただでさえ特殊で緊張感のある場所で見る、変なオブジェの数々は、かなり妙な気分にさせてくれます。
Fi2318796_3e 画像は、ゴラン高原を南下中の風景。

※参考文献は、旅行日記の最後に挙げます。

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イスラエル旅行・ゴラン高原~その1

バニアスを出発して、ゴラン高原の上を通ってガリラヤ湖に帰ります。
Fi2315496_0e ヨルダン川の源流にいた牛。
思わず目が合ってしまった。
食肉用だそうである。

Fi2315496_1e 丘の上の城砦は、ニムロデの要塞 33 15' 08.21"N 35 42' 48.02"E 。
十字軍の砦との説明でしたが、別の資料によると、イスラム帝国が造ったようです。
1228年、アイユーブ朝の総督が、十字軍のダマスカス進撃を阻止する為に、途上にあるこの場所に建てたようです。
マムルーク朝のバイバルスが、それを更に強化しました。
十字軍がパレスチナから一掃されると、無用の長物になりました。
現在は、国立公園になっています。
Fi2315496_2e これは別の方角から見た所。
中には、天守閣、貯水池、見張り塔、外部への抜け穴があるそうです。
天守閣からの眺めは絶景でしょう。
接近する敵軍の様子も、一目瞭然です。

Fi2315496_3e ゴラン高原の景色です。
車窓から撮ったので、残念ながら影が映ってしまいました。
でもここは見渡す限りの緑で、気持の良いドライブが楽しめます。
ゴラン高原は、標高2815mのヘルモン山から、南のヤムルーク渓谷まで、70キロにわたって南北に連なる高原です。
テルという火山丘や、火山岩が無数に転がっていて、ちょっと日本の阿蘇山あたりに似ているかもしれません。

※参考文献は、旅行日記の終わりに挙げます。

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イスラエル旅行・バニアス~その2

バニアス観光の続きです。
Fi2312473_0e この画像は、ゼウスの神殿前から東側をみたところです。
正面は、神聖なる山羊の墳墓寺院跡です。
3世紀に建てられた、神聖な山羊の骨を埋葬した聖域です。
南北に伸びた3つの長いホールから成り立っており、12.5m×6.6mの中央ホール壁に沿って、0.6平方mの長方形の壁龕に支えられた二つの回廊がありました。
壁龕には、土器片と大量の羊と山羊の骨が入っていました。
このため、ここはバニアスの神殿で使われた神聖な山羊の骨を埋葬する墳墓として使われたのではないかと言われています。
寺院が発掘された時、様々な像の断片の山に覆われていました。
それらの中には、アテネ、ゼウス、アフロディテ、アポロ、ディオニソス、パンの像があったそうです。
中でも保存状態が良かったのは、足元で兎を攻撃している猟犬を伴った、1/2サイズの狩猟の女神アルテミスの像でした。
これらは奉納物としてここに持ってこられ、ビザンツ時代の終わりかイスラム時代の始めに異教の品として破壊されたのだと思われます。
また、この建物の右側には、牧神パンと踊る山羊の神殿がありました。
神聖なる山羊の墳墓寺院の前には、ネメシスの中庭がありました。
4m幅の舗装された中庭は、復讐と正義の女神ネメシスに捧げられたものです。

ネメシスの信仰は、この地域で普及していました。
中庭に接した岩壁の壁龕には、「我々の皇帝の保護の下、牧神パンの聖職者であるバレリオスが、女神ネメシスに岩壁の下を切り払って造った神殿を捧げる・・・」という銘があります(英語資料を和訳したもので、間違っている可能性があります)。
Fi2312473_1e ここは牧神パンと妖精の中庭ゼウスの神殿です。
左側が牧神パンと妖精の中庭。
アウグストゥスの神殿と並んで古い屋外聖地でした。
セメント?の基礎の上に3枚の厚い板で15×10mの長方形の囲いが造られました。
これは北側で崖に接しています。
崖には小さな洞穴や壁龕が掘られました。
右側に見えるのは、ゼウスの神殿です。
ローマ帝国のトラヤヌス帝の頃(紀元100年前後)、造られました。
色大理石の板で作られた8.25×7.6mのホールと、4.25mの広さの表玄関です。
建物の正面は、素晴らしい出来のコリント式柱頭を持つ4本の列柱で飾られていました。
聖なる儀式は、屋根の上でも行われていたようです。
これらの壁龕には、牧神パンの他、パンが恋した妖精エコーや、パンの父で旅人、泥棒、商業、羊飼いの守護神ヘルメスの像が収納されました。
Fi2312473_2e これは、牧神パンと妖精の中庭にある壁龕のアップです。
壁龕の下に銘が掘られています。
英文資料によると、恐らく「聖職者ビクター(リュシマコスの息子)は、この女神をエコーの愛人パンに捧げた」と書かれているのだと思います。
牧神パンは、上半身が山羊の角が生えた人間の姿、下半身が山羊の姿という、牧畜の神です。
赤ん坊の時、愛嬌のある顔で全ての神を面白がらせた事から、パン(全ての)という名前になりました。
また、彼は昼寝を邪魔されると怒り狂って辺りに恐慌をもたらした事から、パニックの語源になった。
ちなみにバニアスは、パンにあやかったパニアスという名前だったが、後にアラブ・イスラム帝国の支配化になった時、Pの発音がないアラブの言葉によりバニアスになったそうだ。
美しい森の妖精エコーは、ゼウスの浮気を手伝った為に、ゼウスの妻ヘラによって鸚鵡返ししかできないようにされた。
ある時ナルキッソスに恋をしたが、鸚鵡返ししか出来なかった為振られてしまった。
そのショックで声だけの存在になったという。
こちらはゼウスの神殿の壁龕左横の銘文のアップです。
Fi2312473_3e
何と書かれているのか良くわかりません(英文資料にはいくつかの銘文が記述されていますが、どれがこれなのかわかりません)。
恐らくこれも、寺院や壁龕や像を設置するにあたって、大きな寄付をした人について説明しているのだと思います。

Fi2312473_4e これは、バニアスのあるヘルモン国立公園の案内図です。
右上がバニアスの泉と洞穴です。
左下には、高さ10mの美しいバニアスの滝がありますが、バニアスの泉から一時間かかるそうで行くのはあきらめました。
バニアスの泉の南側には、都市の遺構(フィリポ・カイザリヤ?)が発掘されています。
近くの売店 33 14' 52.96"N 35 41' 38.42"E には、土産物のダビデ王家の系図がありました。筆頭はアダムでした。
尚、新約聖書によると、ここでペテロの信仰告白という出来事がありました。
イエスが弟子達と共にフィリポ・カイザリヤの近くを旅していた時、弟子達に「お前達は人の子(イエスが自分を指して言う言葉)の事を何者だと思っているのか」と尋ねた。
すると、シモン(ペテロ)が、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
イエスは、「シモン、あなたは幸いだ。
あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
わたしも言っておく。
あなたはペテロ。
わたしはこの岩(ペテロ)の上にわたしの教会を建てる。
陰府の力もこれには対抗できない。
わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と答えた。
シモン(ペテロ)がイエスの事を、“メシア”と言った理由には2つあるそうです。
① イエスの人格の奥深くの神的な部分に触れて、その傾倒的な信頼(信仰)の気持から。
② ユダヤ人の独立を達成し、ユダヤの神の支配をもたらす救世主として(当時はローマの支配)。
イエスの答えは、①に対するものだったようです。
ついでイエスは、「やがてエルサレムで私は、長老や祭司長や律法学者たちの迫害に遭い、多くの苦しみを受けて死ぬが、しかし三日後に復活する」と言いました。
するとシモンには、②の感情が湧き起こりました。
メシアが独立を成し遂げずに、権力者によって殺される訳がありません。
そこで、このような事を話さないよう、イエスを諌めました。
すると、イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱りました。
イエスは、自分は②ではないと表明したと思われます。
そして、イエスに従う者は自分を捨て、この世の受難を覚悟せよ、と弟子達に表明しました。
ここでバニアスの歴史をまとめます。
① バアル神ヘルモンとガドの聖域があった。
② 紀元前200年、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世が、プトレマイオス朝エジプトをここで破り、パレスチナを支配化に治める。
③ 紀元前20年、ヘロデ王国に加えられる。
④ 紀元前2年、ヘロデの遺領の一部を後継したフィリポスが、ここに首都を造りフィリポ・カイザリヤと名付ける。
⑤ 61年、ヘロデのひ孫アグリッパ2世が、ローマ皇帝ネロに敬意を表して、ネロニアスと名付けた。
⑥ 66年、アグリッパは第一次ユダヤ反乱の鎮圧の為に、ローマの将軍ウェスパシアヌスをカイザリヤからここに招いた。
「彼はそこで20日の間、軍隊を休養させ、彼自身も宴会を楽しんでいたが、神に対して勝利の感謝の献げ物を捧げることも忘れなかった」(ヨセフス「ユダヤ戦記」)。
⑦ 70年、反乱を鎮圧したティトス(ウェスパシアヌスの子)は、ここで行われた凱旋競技において、ユダヤ人の捕虜を多数殺した。(ティトスの凱旋門がローマにあります)
⑧ 4世紀以降、この地域のキリスト教の中心になる。
⑨ 7世紀、アラブ・イスラム帝国が支配すると、名前がバニアスに変わった。
ゴラン高原の中心地であり、その富と暮らし振りはダマスカスに匹敵するほどであった。
⑩ 1129年、十字軍が占領し、防衛施設を造った。
⑪ 1164年、ザンギー朝のヌール・アッディーンが奪回し、十字軍の再利用を防ぐ為に、その防御施設を破壊した。
⑫ 1920年、イギリス委任統治領とフランス委任統治領の間で、境界争いが起きた。
⑬ 1941年、連合国側のオーストラリア軍が、枢軸国側のビシーフランス支配下のバニアスを占領した。
⑭ 1967年、第三次中東戦争が起き、イスラエルがここを占領する。
バニアスを出発して、ゴラン高原の上を通ってガリラヤ湖に帰ります。

※引用・参考文献は旅行記の最後に記述します。

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イスラエル旅行・バニアス~その1

ゴラン高原に向う旅。

Fi2309631_0e レバノンとの国境にあるヘルモン山(2814m)の白い頂が見えてきました。

右側に続いている尾根がゴラン高原で、見ての通りイスラエルの北側の平野までさえぎる物がありません。

つまりゴラン高原に立つと、イスラエル北部が筒抜けになります。

以前、ゴラン高原がシリアの領土だった時、シリア軍はこのフーラ盆地の農村を上から砲撃し、これが引き金になってイスラエル軍との間に、たびたび砲撃戦が起こりました。

1967年の第三次中東戦争の時も、大砲撃戦が繰り広げられました。

既に、エジプトやヨルダンと戦火を交えていたイスラエルでしたが、ソ連が介入する事を恐れてシリアとは交戦を避けていました。

しかし、フーラ盆地の住民から、ゴラン高原から飛んでくる砲弾を何とかしてくれ、と苦情が殺到しました。

イスラエルは、エジプトやヨルダンとの戦いに目途がついた時点で、シリア攻撃に踏み切りました。

このような戦略上の要地なので、第三次中東戦争の際、イスラエルが占領して今に至っています。

もう1つ、イスラエルが手放さない理由は、飲料水を供給しているヨルダン川の水源が、ゴラン高原にあるからです。

Fi2309631_1e レバノン国境近くのテル・ダン 33 14' 54.87"N 35 39' 09.40"E 付近です。

画像には写っていません。画像の左側外にあります。

2000アールの広さの遺跡丘で、丘の中と周囲には泉が湧いており、国立公園にもなっている。

また、ここには「金の子牛」が置かれた祭壇跡があるそうである。

これは、古代オリエント時代、北イスラエル王国のヤロブアム1世が置いた国家聖所の祭壇である。

北イスラエル王国にはカナン人が多く住んでいた為、イスラエル人の宗教とカナン人の宗教との調整を図らなければならなかった。

そこで王は、両民族に無理のない神のイメージを考え出した。それが子牛だった。

カナン人(シリアやヒッタイト人も)の神は、牛の上に立つ神像だった。

そこから神像を取り払って、イスラエル人にも受け入れられるようにした。

イスラエル人には、子牛の上に姿の見えない自分達の神がいると思わせたのである。

この方法は、北イスラエル王国の滅亡と共に終った。

王がここに国家聖所を建てたのは、北イスラエル王国の北限を示す為だった。

旧約聖書にはしばしば「ダンからベエルシェバまで」という文句が登場するが、ダンがイスラエルの北限、ベエルシェバが南限だった事から、イスラエルの領域を表す言葉として用いられた。

Fi2309631_2e テル・ダンを過ぎると、バニアスまで道の両側に延々と地雷原が続く。

黄色い看板のある鉄条網に囲まれた区域がそうです。

以前、ダンのすぐ東側はシリア領でした。

バニアスやゴラン高原もそうでした。

そして国境だったこの付近には、イスラエルの攻撃に備えて要塞や地雷原が造られていました。

第三次中東戦争の時イスラエルは、シリアの機甲部隊主力がいるクネイトラに北から接近する為に、精鋭ゴラニ歩兵旅団がバニアスへの道路の確保を狙って攻撃しました。

バニアスのシリア軍基地は6月10日に陥落しました。

バニアスに着きました。

バスから降りると、さすがに高原だけあって空気が美味しいです。

北に歩くと、バニアスの泉と呼ばれる大きな池があります 33 14' 54.61"N 35 41' 39.57"E 。

透明な水は清々としていて、多くの魚が泳いでいます。

泉の脇の道を辿って、更に石段を北に少し登ります。

Fi2309631_3e 画像は南側を振り返った所。

バニアスは、古代オリエント時代にはフェニキアのバアル神が祀られていました。

ヘレニズム時代になって、ギリシャの牧神パンが祀られるようになりました。

ここから見える森と泉と、これから見る洞穴や神殿が渾然一体となって、牧神パンの聖域を形作っています。

ヘロデ王の死後、後継者の1人であるフィリポスがここに首都を造り、ローマ皇帝カイザル・アウグストゥスに敬意を表してフィリポ・カイザリヤと名付けました。

この泉は、4つあるヨルダン川の源流の1つです。

画像の先、南の果てまでヨルダン川は流れて、死海に至ります。

「ヨルダン川は地上に見える流れとしては、

パネイオン(バニアス)の洞窟に始まり、

セメコニティス湖(フーラ湖、現在は干拓された)の沼地や低湿地を経て、

さらに120スタディオンを流れた後、

ユリアス(ガリラヤ湖北側)という街を経て、
ゲンネサル湖(ガリラヤ湖)に流れ込んでその湖の真ん中を通り抜け、

さらに砂漠地帯を延々と流れた後、

アスパルティティス湖(死海)に注ぐのである」

(ヨセフス「ユダヤ戦記」)

Fi2309631_4e パネイオンと呼ばれる牧神パンに捧げられた岩屋の周辺です。

この崖に沿った80mの自然のテラスに、7つの神聖な場所がありました。

画像中央に見える黒々とした穴が、牧神パンの洞穴です 33 14' 56.10"N 35 41' 39.94"E 。

今でこそバニアスの泉から水が湧いていますが、かつてこの洞穴の底から湧いていました。

「・・・陰鬱な洞穴があり、

その中に険しい絶壁があって計り知れないほどの深淵に達しており、

そこには水が深くよどんでいて、

どんなに長い測り縄をおろしてみても底を探る事ができないのである。

この洞穴の底から泉が湧き出しており、

ある人々の考えでは、

そこがヨルダンの水源である。」

(ヨセフス「ユダヤ戦記」)

ここでは生贄が捧げられ、もしそれが水中に沈めば神に受け入れられたが、もし血が現れたら神に拒絶された事になるそうです。

その後起きた地震により、洞穴の泉は枯れました。

この洞穴の手前には、かつてアウグストゥスの神殿がありました。

紀元前19年に、ヘロデ王が彼の支援者であるローマ皇帝アウグストゥスに敬意を表して建てた白い大理石の神殿です。

この神殿は10.5mの間隔で並行に置かれた長さ20mの板からできていました。

その板の内側には壁龕(聖像を祀る壁のくぼみ)が作られていました。

また、この板は土砂を防ぐ擁壁としても用いられていました。

画像の右側(洞穴の東側)には、牧神パンと妖精の中庭ゼウスの神殿があります(後述)。

画像の左上にあるのは、たぶんドルーズ派の聖所だと思います。

※引用・参考文献は旅行日記の最後に記述します。

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イスラエル旅行・ガリラヤ地方北部

12月30日。

今日は、午前中はゴラン高原のバニアス、午後はガリラヤ湖周辺の教会等を観光します。

出発前に、宿泊したキブツ・ゲネサレ 32 50' 38.35"N 35 31' 21.91"E の側にある、イガル・アロン・センター 32 50' 40.02"N 35 31' 29.58"E を見学する。

ここには2000年前の舟(もちろん木製)が保存されています。

センターは6階建ての立派な建物で、中には土産物屋があります。

Fi2306079_0e 画像は舟が置かれている部屋。舟の発見の様子を紹介する映像スクリーンやパネルが置いてあります。

ここでの撮影は全部失敗して画像がブレてしまいました。

Fi2306079_1e 仕方ないのでチケットにある舟の写真を載せます。

チケットの裏には・・・

長さ8.2m、幅2.3m、高さ1.2m、臍穴継ぎ方式で継ぎ合わされた条列の上に、肋材が釘付けされ、少なくとも、この舟は11種の木で造られている。

舟の大きさから、5人の乗組員が帆もしくは、1組のオールで航行していた。

と、日本語で書いてあります。

フラヴィウス・ヨセフスの「ユダヤ戦記」に、第一次ユダヤ反乱でのガリラヤ湖の戦いの記述があり、この船と思われる記述があります。

「彼らの乗った小舟は海賊用の小さな物で、(ローマ軍の)筏に太刀打ちできるようなものではなく、一艘ごとに乗り組んでいる者も少なくて、数を頼みに押し寄せてくるローマ軍を恐れてしりごみしていた」

木材の放射性炭素測定により、舟は紀元前120年~後40年に造られたとわかった。

当時、イエスと弟子もこれと同じタイプの舟に乗っていたそうです。

当然マスコミは、「イエスが乗っていた舟」と言って騒ぎ立てました。

Fi2306079_2e 画像は舟の真横を近くから撮った物です。

この舟の発見と保存作業の経緯です。

1986年、厳しい旱魃で干上がったガリラヤ湖の底で、キブツ・ゲネサレに所属する二人の兄弟が発見した。

当時、この舟に金貨が詰まっていたというデマが流れ、宝捜しに殺到する人に壊される前に緊急に発掘する必要に迫られた。

キブツ・ゲネサレの照明器具を使って、作業は夜も続けられた。

舟は2000年も柔らかい泥に浸かっていたので、木材はチーズ並みの柔らかさになっていた。

もし乾燥させたらたちまち砕けてしまうので、常に水をかけ続けなければならなかった。

発掘が終っても、壊さずに移動するのが一苦労だった。

舟をファイバーグラスと急結性のポリウレタン液で繭状に覆って補強し、キブツ・ゲネサレの避難所に曳航された。

木材の中の水分と不純物を取り出して乾燥させる作業を、14年かけて行った。

そして現在、このような姿で展示できるようになった。

見学の後、いよいよゴラン高原に向けて出発。

ガリラヤ湖から北に少し走ると、バスはどんどん高度を上げていく。

Fi2306079_3e 画像はガリラヤ湖を見下ろした所。

霞んでいますが、画像中央に湖が広がっています。

また、この近くにはコロザイン(コラジン) 32 54' 41.50"N 35 33' 51.03"E という、ヘレニズム時代のユダヤ人の町があります。

メデューサやケンタウロスの浮き彫り彫刻があるシナゴーグ、儀式用浴槽、モーセの座と呼ばれる台座がある。

イエスが「コラジン、お前は不幸だ」と言ってその不信仰を非難した町でもあるそうです。

またしばらく後にハツォール遺跡 33 01' 02.20"N 35 34' 05.33"E の側を通りかかりました。遺跡は崖の上で、何も見えませんでした。

フーラ国立公園の近くと思われます 33 06' 09.99"N 35 36' 31.77"E 。

湿原を農業用地として干拓した際に、一部を公園として残した物。

干拓は、水を良く吸収するユーカリの木を植えて行われたそうで、バニアスへの道すがらユーカリの木が良く見られました。

池と湿地が点在しており、渡り鳥の中継地です。

Fi2306079_4e 画像中央、飛び立とうとしているのは鶴だそうです。

彼方に見えるのは、ゴラン高原

のどかな風景の中、バスは北上してゴラン高原のバニアスへ。

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イスラエル旅行・アッコー~その8

アッコー観光の続きです。

レストランを出ると、すっかり日が暮れていました。ちょっと肌寒いです。
残念ながらもう観光はできません。

アッコーには他にも、
ハンマーム(もと浴場で今は市立博物館)
ハーヌル・ウムダーン(隊商宿で、ヤッフォにもあったアブドゥル・ハミッド2世の時計塔が建っている。明るければ見えたかもしれない)
ハーヌル・ファランジュ(ヴェネツィア人居留区にある隊商宿)
などがあります。

画像のアーチは駐車場として使われているようです(たぶん 32 55' 10.02"N 35 04' 05.31"E )。
Fi2303503_0e

夜の街も雰囲気満点です。
Fi2303503_1e_2
この後、半島の西端を海沿いに走るハ・ハガナ通り 32 55' 12.34"N 35 04' 59.90"E を北に向って歩きました。
暗いので写真はあきらめましたが、海沿いに城壁が聳えていました。

ハ・ハガナ通り沿いには、テンプル騎士団のトンネルもあるらしい。
入ってみたいなあ。

バスの運転手が行方不明で、しばらくうろうろする羽目に。見つけて乗車 32 55' 38.08"N 35 04' 09.69"E 。

バスは真っ暗闇の中を、内陸のガリラヤ湖畔、キブツ・ゲネサレに向いました。

パレスチナでの初めての宿。
もちろん夕食は食べずに就寝。

成田を出発して以来、ようやく落ち着けました。

明日はレバノン、シリア国境のゴラン高原に向います。

ここでアッコーの歴史をまとめます。

① 紀元前19世紀のエジプトの呪詛文書に名前が登場する。

② 紀元前15世紀、エジプトのトゥトモス3世の征服地の表に載る。当時アッコーはエジプト領のカナン人都市で、重要な港町だった。その中心は旧市街から1.5キロ離れたテル・エル・フカルという丘にあった。

③ 紀元前14世紀、エジプトのテル・アマルナ文書の手紙の中に登場。

④ イスラエル王国のダビデ王が征服した。

ソロモン王は、ツロ(フェニキア)の王ヒラムに譲った。これよりフェニキア人の都市になる。

⑥ 紀元前8世紀、アッシリア王センナケリブの征服表に載っていた。

⑦ 紀元前7世紀、アッシリア王アッシュールバニパルが占領し、反抗した住民を厳罰に処した。

⑧ 紀元前4世紀、アケメネス朝ペルシャ王カンビュセスはエジプト攻撃の際、ここに軍勢を集結させた。

⑨ ヘレニズム時代に入った紀元前333年、アレキサンダー大王に占領された。アレキサンダーはここに造幣局を作った。

⑩ 紀元前312年、エジプトのプトレマイオス1世が破壊した。

⑪ エジプトのプトレマイオス2世が再建してプトレマイスと改名された。

⑫ 紀元前200年、セレウコス朝シリアが占領。

⑬ ユダヤでマカバイ家の反乱が起きた時、ここは反ユダヤ的な都市だった。

⑭ 紀元前143年、マカバイ家の指導者ヨナタンがここで捕らえられ、殺された。ヨナタンはセレウコス朝の内紛が起きた時、ディオドトス・トリフォンの側についたが、この機会にユダヤの領土を増やそうと図った。そして自分の立場を強化する為にローマ、スパルタと同盟を結んだ。トリフォンは疑念を抱きヨナタンをここに誘い込んで彼と配下の兵を殺した。

⑮ 紀元前104年、ハスモン朝のアレクサンドロス・ヤンナイオスが包囲したが、エジプト軍が接近して包囲を解いた。

⑯ 紀元前65年、ローマの支配下に入る。

⑰ 紀元前47年、カエサルが訪問した。

⑱ 紀元前39年、ローマから帰還したヘロデ王がアンティゴノスを倒す戦いを始めた。

⑲ ネロ帝の時代、ローマ軍第3,5,10,12軍団の退役軍人が入植した。

⑳ 66年の第一次ユダヤ反乱の時、ユダヤ人に反感を持つ住民が2千人のユダヤ人を殺した。また、ヴェスパシアヌスはここに鎮圧軍の基地を置いた。

21 パウロが伝道旅行中に一泊した。ここには既にキリスト教会があった。

22 ビザンツ帝国の支配下に置かれる。

23 636年、イスラム軍が占領した。

24 ウマイヤ朝カリフのムアウィアが、キプロスと北アフリカ攻撃の為の艦隊を作った。

25 1104年、十字軍のボードワン1世がジェノバ艦隊の支援の下、ここを占領し略奪した。

26 1187年、アイユーブ朝のサラーフ・アッディーンが占領する。

27 1189年、エルサレム王ギーの軍2万が包囲すると、サラーフ・アッディーンがそれを包囲するという二重包囲戦になった。1191年、第3回十字軍のイングランド、フランス軍2万が到着して、ついにアッコーは陥落した。

28 エルサレム王国の首都となる(アッカ王国とも言われる)。人口は5万であった。

29 1291年、マムルーク朝のスルタン、エル・マリク・エル・アシュラフが占領、破壊する。パレスチナの十字軍は一掃された。

30 17世紀、エミル・ファクル・エ・ディンが市の一部を再建。

31 18世紀半ば、ダヘル・エル・アムルが内側の城壁を再建する。

32 18世紀後半、アフメッド・アル・ジャッザールがジャーマ・アル・ジャッザール、ハーヌル・ウムダーン、ハンマームを建築し、聖ヨハネ騎士団の廃墟(十字軍の街)の上に要塞を作った。

33 1799年、ナポレオンが2ヶ月に渡って包囲したが、ジャッザールが撃退した。梯子の長さが城壁の高さに50cm及ばなかったという。

34 19世紀、エジプト総督ムハンマド・アリーとオスマン帝国の争奪の舞台になった。

35 20世紀、イギリス委任統治領になり、要塞が監獄として使われた。

36 現在、旧市街はアラブ人、新市街はユダヤ人が住んでいる。

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イスラエル旅行・アッコー~その7

アッコー観光の続きです。

十字軍の街の脱出路を抜けると、そこはアラブ人街だった。
未だに脱出路の出口がどこなのかわかりません。資料によると、隊商宿エル・ボスタ近くらしいが、違うような気もします。
知っている方、教えて下さい。

石造りの情緒あふれる路地を辿って、半島の突端のレストランに急ぐ我々。
日暮れが近い街に点るオレンジ色の街灯が、いい感じです。
Fi2300693_0e

Fi2300693_1e バザールを通過する。

香辛料の香りが鼻をつく。
ここはマルコポーロ通りと呼ばれるスーク 32 55' 18.29"N 35 04' 13.07"E だろうか?

脱出路を出て以来、どこをどう通っているのかさっぱりわかりません。

Fi2300693_2e この辺りは、十字軍の時代にはヴェネツィア商人とジェノバ商人の居留区の境目ではなかったかと思われる。

彼ら商人は港のそばに住んでいた。
街並みは十字軍の時代と違うが、マルコ・ポーロもこの辺に泊まっていたのかも。

壁にはアラビア語の横断幕。油断すると迷いそうな街並み。
じっくり歩いてみたいなあ。

やっとレストランに着いた。
海沿いにあるアブ・クリストというシーフード・レストラン 32 55' 09.56"N 35 04' 07.16"E 。

十字軍時代はピサ商人の居留地だった辺り。

現在16:40。中途半端な時間ですが、実はこれ昼食です。
押せ押せのスケジュールで、アッコーに着いた時既に16時前。
日没になると観光できなくなるとの事で、十字軍の街観光を優先させたのでした。

Fi2300693_3e 現地で食べる初めての食事です。

まずはピタというパンと、前菜です。
ピタに前菜を挟んで食べます。

前菜は、
フムス(ヒヨコ豆のペースト)
・テヒニ(ゴマのペースト)
・ババガヌゥシュ(ナスのペースト)
・カットしたキュウリとトマトをレモンで和えた物
など10品位。

種類が多いので飽きる事がなく、おいしかったです。
画像では皿に盛り付けてしまったので、ごっちゃになっています。

Fi2300693_4e メイン・デッシュはシーバス、ヒラメ、エビ、イカ、ムール貝から選べました。

画像はエビです。

結構ボリュームがあったのですが、一日中歩き回っただけあって、なんとなく平らげてしまいました。

イスラエルではコーシェル・フードが一般的です。
コーシェル・フードとはユダヤ教で定められた食べ物の事で、例えばエビ、イカなど鱗のない魚類は食べてはいけません。

しかしこのレストランはアラブ系なのか、食べる事ができます。
最後はアラビック・コーヒーで締め。

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イスラエル旅行・アッコー~その6

十字軍の街観光の続きです。

食堂から伸びている脱出路です。
Fi2297817_0e
脱出路は、十字軍が食堂を作ったときに発見されたようで、ヘレニズム時代のもののようです。
北は旧市街?の城壁、南は港へ通じており、全長350mですが、現在通れるのはその一部、65mのみです。

ナポレオンがアッコーに侵攻した時、オスマン朝の知事アル=ジャッザールは、もしナポレオンが町を占領するような事があれば、この脱出路を使って逃げるつもりだったようです。

途中、別の部屋に道が伸びています。

どうなっているのか見てみたいのですが、後から人が来るので止まる訳にいきません。

途中何回かカーブして・・・。
Fi2297817_1e
先はどうなっているんだろう?ワクワクしながら進んで行きます。

トンネルはどんどん狭くなっていきます。
Fi2297817_2e

やっと出口に出ました。

Fi2297817_3e ここが一体どこなのか、もはや見当も付きません。
出口の脇にはこんな石板が。

これは十字軍時代の墓石で、司教の衣装を身につけた聖ニコラスと思われる聖者(中央)に、死者(左側)が祈りを捧げている図だそうです。



Fi2297817_4e 反対側にもう1つの石板がある。

ラテン語の文章が掘られた大理石。
これは何なのかわかりません。
当時の歴史的事件が刻まれた聖ヨハネ騎士団の指導者を記念する碑が出土されているそうだが、これがそれなのかな?

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イスラエル旅行・アッコー~その5

十字軍の街観光の続きです。

Fi2295280_0e 騎士のホールから中庭に出ました。
次は中庭の南にある食堂に向います。







Fi2295280_1e_2 食堂です。
あるいは地下聖堂とも言われています 32 55' 23.18"N 35 04' 09.07"E 。

なぜ食堂かと言うと、
① 二つの通路を持つ広間である事。
② 東側の壁に3本の煙突がある。
だからだそうです。

3本の太い柱は直径3m。
ここの柱は特に美しいです。

発見された時、この部屋の中は土や石で一杯だった。
18世紀にこの部屋の上に要塞を建てたオスマン朝の知事、アル・ジャッザールが、部屋が重みで潰れないように充填物を入れたそうである。

ここは歓迎式も行われたようです。
ある資料によると、ポーロ一行はここで歓迎されたそうです。

部屋の隅にあるコンソール(壁際に付けられた照明器具)です。
Fi2295280_2e
下に白ユリの装飾が付いています(画像中央)。
白ユリがフランス王家の紋章である事から、この部屋を造ったのは第二回十字軍を指揮したルイ7世と言われている。

十字軍の街には7つのホールがあるらしいですが、公開されているのは以上の3つだけです。

両側に店が建ち並ぶ屋根つきの通りがあるらしいですが、今回そこを歩いたかどうか定かではありません。

この部屋の中央の階段を下りると、脱出路が伸びています。
Fi2295280_3e
最後にこの脱出路に入っていきます。

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イスラエル旅行・アッコー~その4

十字軍の街観光の続きです。

Fi2292378_0e ここは騎士のホールです 32 55' 25.10"N 35 04' 09.30"E 。

本部や牢獄と違って、かなり広そうです。
ここでは騎士達が敵襲に備えて武術の訓練をしていたらしい。

正面奥に、騎士のレリーフがあります。

Fi2292378_1e 中はひんやりとしている。

四角い石が綺麗に積んであります。
ヘレニズム時代の遺跡はもっと雑でした。

ちなみに石切り場が近くにあって、建築用に使われたそうです。


ここも騎士のホールの一部ですが、ちょっと独立しているようです。
Fi2292378_2e
何に使われたのか?

Fi2292378_3e 隅には出土品と思われる石臼(ぶどう絞り器?)がありました。







Fi2292378_4e 今ではコンサートなどに使われているそうです。
一度ここで聴いてみたいものです。


ここで十字軍騎士団についてまとめます。

十字軍の騎士団(騎士修道会)は、パレスチナの占領地を守る為に作られました。

最初の遠征が行われた後にほとんどの兵士が帰国した為、占領地をどう守るかが問題になった。
一部の兵士が聖地巡礼者を守る為に自ら残ったのがはじまり。
教会が彼らを取り込んだ為、鎧を身に着けながら修道僧のような生活をするという、特異な戦士が生まれた。

代表的な騎士修道会は、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、チュートン騎士団など。

やがて彼らは経済的、軍事的に大勢力に成長し、後に財政難に直面したフランス王フィリップ4世がその財産目当てにテンプル騎士団を壊滅させるという事件が起きている。

聖ヨハネ騎士団は、もともと十字軍が始まる前に巡礼者の医療組織として生まれた。
しかし12世紀には軍事組織としても発展し、エジプト遠征の際には500人の騎士(従者なども含めると2千人位)を派遣できた。

彼らは鎖帷子の上に、白い十字架マークのついた黒いサーコートを身につけていた。
後に衣装が変わり、マルコ・ポーロが訪れた時は、赤地に白い十字架のついたサーコートをまとった彼らを見た事だろう。

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イスラエル旅行・アッコー~その3

十字軍の街観光の続きです。

Fi2289556_0e 本部の奥には牢獄がありました。
画像はその入口です。







Fi2289556_1e 牢獄とは思えない見事なアーチ。

幻想的な眺めです。
のんびりと十字軍時代に想いを馳せていたいものです。





Fi2289556_2e ここは20世紀のイギリス委任統治時代まで、牢獄として使われていたそうです。

武装闘争を行なっていたシオニストが収容されていたのだと思います。
彼らはここから脱出したらしいのですが、詳しい事はわかりません。


部屋の奥には、このような鉄格子があって、更にその奥にも部屋が見えました。
Fi2289556_3e

ここで中庭に出て、騎士のホールに向います。

Fi2289556_4e 中庭は、オスマン時代の高さ30mの城砦に囲まれています 32 55' 24.17"N 35 04' 09.07"E 。

前述の本部または病院は、この中庭の東側に位置するようです。
これから入る騎士のホールは、北側に位置するようです。
西側のホールは、まだ未発掘のようです。

ここは迷路のようで、自分がどこにいるのかわからなくなります。


ここで十字軍の歴史をまとめます。

異教徒に対するキリスト教の聖戦は、既に11世紀半ばのスペインでイスラム教徒からの国土回復戦争(レコンキスタ)という形で実施されていた。
教皇アレキサンデル2世はイスラム教徒と戦う者の全ての罪を許すと宣言し、多くのフランス騎士がレコンキスタに参加していた。

十字軍は、トルコ系のルーム・セルジューク朝に攻撃されたビザンツ帝国のアレクシオス1世が教皇ウルバヌス2世に救援要請を行なった事で始まった。
この時アレクシオスが嘘を吐いたのだろうか、聖地パレスチナではキリスト教徒が男色の辱めを受けて迫害されているという噂が流れた。

この為クレルモン公会議で、聖地への十字軍の派遣を行なう事、参加者はキリストの兵士として免罪される事が決まった。

西欧にとっての十字軍は崇高な聖戦だったが、実際は聖地で一旗揚げようと目論んだり東方貿易の利権を得ようという野望が入り混じった物だった。

一方イスラムにとっては蛮族の侵略以外の何物でもなく、自国の利益の為には「聖戦」のスローガンを掲げる事も、十字軍国家と同盟を結ぶ事もいとわなかった。

十字軍発生の背景
・西欧では人口と生産力が増大していたので外部に進出する余裕があった。
・教皇の権威が高まっていた。
・商人が東方貿易の拡大を望んだ。

十字軍は結果的に西欧に以下の影響をもたらした。
・先進的なビザンツとイスラムの文化、技術を西洋にもたらした。
・大規模な人間、物資の移動と、遠征資金調達の為の徴税業務は、経済・金融の発達をもたらした。
・遠征資金の負担と戦死により騎士(封建領主)が没落し、相対的に国王の権力が強まった。

1. 第一回十字軍(1096~)
①まず隠者ペトルスの民衆十字軍が、後からゴドフロアらのフランス騎士十字軍がアナトリア半島から聖地を目指した。

②民衆十字軍はルーム・セルジューク軍の襲撃で失敗したが、騎士十字軍15万(うち戦闘要員3万5千)はルーム・セルジューク軍を破ってエルサレムを占領、異教徒の大虐殺を行なう。
この過程でシリア、パレスチナにエルサレム王国を始め多数の十字軍国家が建設された。
この頃の中東のイスラム勢力はセルジューク朝の分裂と内紛で弱体化し、十字軍の敵ではなかった。

③十字軍の兵力調達の為、聖堂騎士修道会、テンプル騎士団を設立して大量の移民を行なう。

④南シリアのイスラム国ブーリー朝は、十字軍よりも北シリアのイスラム国家を警戒してエルサレム王国と同盟していた。
イラクのザンギー朝は南シリアを手に入れる為、ブーリー朝に十字軍へのジハード(聖戦)を呼びかけたが失敗する。しかし十字軍国家エデッサの征服に成功した。

2. 第二回十字軍(1147~)
①エデッサ陥落の知らせに衝撃を受けて、フランス王ルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世が参加。
アナトリアで兵力の大半を失いつつ聖地に着いた彼らは、何故かエデッサに向わず同盟を破棄してブーリー朝のダマスカスを攻撃する。

②ブーリー朝の救援依頼を受けたザンギー朝(ヌール・アッディーン)は十字軍を撃退。
同時に念願の南シリア進出を果たす。

③エルサレム王は国力の弱ったエジプトのファーティマ朝攻撃を計画する(豊かなエジプトを占領すれば聖地パレスチナの支配も転がり込む)。
事の重大さを悟ったヌール・アッディーンは救援依頼に応え、機先を制して武将サラーフ・アッディーン(サラディン)を送って防衛する。

④サラーフ・アッディーンは、ファーティマ朝カリフの死後アイユーブ朝を立て、ヌール・アッディーンが死ぬとザンギー朝も併合してエジプト・シリアを統一する。

⑤サラーフ・アッディーンは、ジハードを宣言して十字軍国家への攻撃に着手し、ヒッティン(後述)で大勝した後エルサレムを奪回する。

3. 第三回十字軍(1189~)
①エルサレム陥落に衝撃を受けた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍3万、イングランド王リチャード1世の軍8千、フランス王フィリップ2世の軍数千が参加。
フリードリヒ1世はアナトリアで謎の溺死、神聖ローマ軍は到着前に崩壊しパレスチナに着いたのは千人。

②フィリップ2世は要衝アッコーを占領すると責任は果たしたとばかりに帰還してしまい、サラーフ・アッディーンとリチャード1世の対決になる。
しかし遂にエルサレムは奪回できず、リチャード1世は僅かな領土を確保して和議を結んで帰還する。

4. 第四回十字軍(1202~)
モンフェラート候ボニファティウスが指揮(3万5千)。
海上輸送を担当したヴェネツィアは、十字軍が輸送代金の支払い遅滞に陥ると、その代わりにヴェネツィアに反目する都市ザーラやビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルの攻撃を要求。

パレスチナに行かずにキリスト教国を攻撃するという失態だが、教皇も追認せざるを得なかった。

5. 第五回十字軍(1217~)
シャンパーニュ公ブリエンヌが指揮(5万)。
エルサレムとの交換を狙ってエジプトのダミエッタを占領しアイユーブ朝の合意を得るが、同行した教皇特使ペラギウスが神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の到着を期待して合意を破ってカイロに進撃、堤を破られて増水したナイル川の中で身動きが取れなくなり敗退。

6. 第六回十字軍(1228~)
十字軍参加の遅延により教皇から破門された神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が指揮。
開明的なシチリアの宮廷で育った為イスラム教に理解があり、アイユーブ朝のスルタンと交友関係があったフリードリヒは、身内争いに悩むスルタンと交渉して戦う事無くエルサレム、ナザレ、ベツレヘムを手に入れた。

しかしイタリアの支配を巡ってフリードリヒと争っていた教皇は、この平和的解決が気に入らずに、フリードリヒ領のイタリアに攻め入った。

またエルサレムは後にダマスカス王によって奪回された。

7. 第七回十字軍(1248~)
フランス王ルイ9世が指揮。
アイユーブ朝のスルタン死去でエジプト占領の好機だったが、土壇場で対モンゴル戦用に育成されていたバイバルス指揮のマムルーク軍団の反撃に遭い、辺境から到着した敵の援軍に補給路を断たれて捕虜になる。
身代金と引き換えに釈放された。

②アイユーブ朝は皇太子が暗殺されて後継者がいなくなり、混乱の後にマムルーク軍団長アイバクに政権移譲された(マムルーク朝)。
アイバクは邪魔なバイバルスを追放。しかしアイバクも部下に暗殺される。

③モンゴル軍のシリア侵攻という国難に直面したマムルーク朝は、不和になっていたバイバルスと和解してモンゴル軍をアイン・ジャールート(後述)で撃退する。
その後バイバルスはスルタンに即位。

8.第八回十字軍(1270)以降
①フランス王ルイ9世がチュニスを攻撃するが、現地で病死して撤退。

②バイバルスは十字軍国家の一掃に取り掛かるが途中で死去。

③1291年に十字軍最後の拠点アッコーが陥落して、十字軍国家はパレスチナから姿を消した。

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イスラエル旅行・アッコー~その2

アッコーの十字軍の街観光の続きです。

ここで今回の旅行の主目的である、マルコ・ポーロのパレスチナ滞在について触れてみます。

1270年末にヴェネツィアを出航したニコロ・ポーロと弟のマッフェオ、息子のマルコは、1271年にアッコーに着きました。

彼らの旅の目的は、モンゴル帝国の皇帝フビライの要求をローマ教皇に伝え、その答えをフビライに伝える事にありました。

フビライの要求とは、
①キリスト教の学者百人を送る事。
②エルサレムのキリストの墓所の上にあるランプの聖油を持って帰ること。
の二つでした。

①については、フビライはキリスト教に関心を持っていたので(彼の母をはじめ、重臣の中にもキリスト教徒がいた)、キリスト教を究めた者が仏教徒やイスラム教徒よりも優れている事を国民に証明出来れば、彼自身入信しても良いと考えていたからだった。
②については、聖油が奇跡を起こすと聞いていたからだった。

これはポーロ家にとってもチャンスで、うまくいけば東方貿易において有利な立場に立つ事ができました。

Fi2286491_0e 画像は十字軍の街の上にある建物、たぶん宝庫の塔です 32 55' 25.86"N 35 04' 11.39"E 。右側はビジターセンターになっています。






ところが、当時は肝心の教皇が空位でした。

1269年にクレメンス4世が死去して以来、枢機卿達はローマのシスティーナ礼拝堂 に集まって、大多数の一致で決まるまで投票を続けていました。
決定したら白い煙を、未決定ならば黒い煙を立てると言う方法でしたが、実に3年間も 黒い煙が立ちつづけました。

怒った貴族達は、決定するまで扉を施錠して枢機卿達を礼拝堂に閉じ込めました。
この「コンクラーベ(鍵のかかった)」という言葉は法王選挙の名前として現在も使われ ています。

フビライの信書を携えて中国から帰ったニコロ・ポーロは、これを聞いてとりあえずヴェネツィアに帰ったのですが、一向に決まる気配がありません。
フビライを待たせる訳にもいかないので、マルコを連れてパレスチナに来たのでした。

ニコロは手始めに、教皇の代理としてパレスチナの十字軍を指揮していた教皇特使テオバルド・ビスコンティ・デ・ピアチェンツァに相談する為に、アッコーに来たのでした。
テオバルドはこれを、キリスト教が中国にまで広まるまたとないチャンスだと考えていました。
しかし決まらない事には仕方がなく、とりあえずポーロ一行はテオバルドの許可状を得て、聖油をもらいにエルサレムに行きました。

Fi2286491_1e 画像は十字軍の街に降りていく入口です 32 55' 25.05"N 35 04' 11.30"E 。

一見地下に降っていくように見えますが、どうもオスマン帝国の時代に十字軍の街の上に要塞を建築した為に、地下室みたいになってしまったようです。




エルサレムから戻っても未だに教皇が決まらないので、ポーロ一行は中国に向けて旅立つ事にしました。
その際テオバルドは、要望に応えられない理由、教皇が決まったら要望に応えるよう努力する事、ポーロ一行が任務遂行の為に大いに努力した事を、教会を代表する公式の手紙に書いて与えました。

ポーロ一行が旅立ってライアスの港にいた時、テオバルドの使者がやってきて、すぐにアッコーに戻れと命令しました。

画像は、入口から出てきた所にある騎士のホールへの入口。
Fi2286491_2e
十字軍時代のアーチの組み方が良くわかる場所との事です。
アーチの真上に逆三角形の石材を組み込んでいます。

実は新教皇にテオバルドが選ばれたのでした。

彼はグレゴリウス10世と名乗り、アッコーに戻ったポーロ一行に祝福を与えました。
そしてフビライに献上する様々な贈り物を渡しましたが、百人の学者は無理だった。

代わりにグリエルモとニコロという二人の司祭に、中国で司教や司祭を任命する権限を与えて同行させました。

一行は再びライアスに向かい、いよいよアルメニアに入ろうとしていた。

ここは聖ヨハネ騎士団の本部または治療院です 32 55' 24.87"N 35 04' 10.80"E 。
Fi2286491_3e
ここは、旧市街の地面から8m下がった所にあります。
まるで葉を広げたヤシの木が連続しているかのような独特のアーチ。
四角い5本の柱が天井を支えています。

ポーロ一行がテオバルトに接見したのは、たぶん司教の館とか城ではないかと思い ますが、このような雰囲気の場所だったのだろうか?

ところが、二人の司祭が逃げ帰るという事態が起きてしまった。

一行は、フビライと仲の良いイル・ハン国の領域(現在のイラン、イラク、トルコ東部)を通って中国に到達しようとしていたが、不敗を誇ったイル・ハン国軍は、エジプトのスルタン、バイバルス(後述)に敗れてかつての勢いを失っていました。

また同じモンゴル人国家で、イル・ハン国の北方にある反フビライ派のキプチャク・ハン国(現在のウクライナ、ロシア、カザフ共和国)とも対立していた。

上記の状況から、アルメニアにはバイバルスのイスラム軍が侵入しており、キリスト教の司祭である彼らは捕らえられるのを恐れたのである。

丁度、十字軍であるテンプル騎士団の一隊がアッコーに向おうとしていた為、二人は騎士団と共に帰ってしまいました。

仕方なくポーロ一行は彼らだけで中国に向いました。そしてマルコ・ポーロの東方見聞録の記述はアルメニアから開始された。

一説によると、二人の司祭は帰還した事を教皇グレゴリウス10世に報告しなかった為、教皇は二人が中国を旅していると思っていたそうである。

またグレゴリウス10世は、イル・ハン国と同盟してバイバルスを挟撃する為に、数年後のリヨンの公会議で十字軍を説教したが、彼の死去で結局実行されなかった。

余談ですが、今回の教皇選挙で中々決まらなかった事が問題になり、リヨンの公会議で選挙改革が行なわれた。この時決まった方式は現在も続いている。

画像は同じく聖ヨハネ騎士団の本部。
Fi2286491_4e
更に奥に進んで行きます。

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イスラエル旅行・アッコー~その1

世界遺産の町アッコーに向います。

Fi2283674_0e これはイスラエル第3の都市ハイファ 32 49' 26.80"N 34 58' 39.09"E の一部と思われます。

カルメル山と地中海に挟まれた、岬の上の海と丘の街。
ローマのウェスパシアヌスの軍団駐屯地として作られた。

少数派の宗教が共存する街で、自由と平等の町といわれるそうだ。
またイスラエル唯一の地下鉄がある。

カルメル山は、古代オリエント時代にフェニキアの神バアルの聖所があった。

北イスラエル王国のアハブ王の時、王によるバアルの祭儀導入に反対する預言者エリヤが、カルメル山がイスラエルの神の物である事を証明する為、バアル神の450人の祭司と対決した。
バアルの祭司はバアル神に叫んだが何も起こらなかった。しかしエリヤが叫ぶとイスラエルの神は火で応えて積まれていた犠牲を焼いた(旧約聖書)。

このエピソードは、カルメル山での祭儀がバアル神からイスラエルの神へ移行した事を表しているそうです。

アッコーの旧市街に着きました。

Fi2283674_1e 画像は、ワイツマン通りから見た旧市街の入口 32 55' 28.23"N 35 04' 19.06"E の左側です。

かつて十字軍の時代やオスマン帝国の時代に大いに栄えたアッコー(アッカ、アッコン、アクレ、アークルともいう)は、今はハイファの陰に隠れた一都市に過ぎなくなっています。

旧市街は城壁に囲まれていて、南に突き出た半島になっています。半島の内側はアッコー湾で港になっています。
今の旧市街はアラブ人地区になっていて、その街並みはオスマン帝国時代(18世紀)に造られた物。

かつてイスラム勢力に占領された14世紀にアッコー(アークル)を訪れたドイツの聖職者ルドルフ・フォン・ズーヒェムは、著書「聖地案内記」でこう述べている。

「先にも言った通り、偉大な都市アークルは、海岸に面して四角い切り石で建てられておりました。
・・・・四方に塔が高く堂々と聳え、・・・・それら二つの塔の間には、それぞれ1つの市門がありました。
市内の街路は非常に清潔で、建物は皆同じ切り石で、同じ高さに作られ、そのすべての壁はガラス窓と壁画で美しく飾られていました。
・・・・街の道路は、絹のような布か、美しい天幕の覆いがあり、それが直射日光を遮っておりました。」

Fi2283674_2e 画像は、駐車場でバスを降りて十字軍の街の入口に向う所です 32 55' 25.61"N 35 04' 15.31"E 。

正確に言うと聖ヨハネ騎士団という、聖地巡礼者の医療を担った組織の支配地区です。

十字軍の時代には、十字軍の複数の騎士団が市内に支配地域を持っていて、そこにはそれぞれ総司令部と修道院が建っていました。
また、イタリアやドイツ商人の居住地区があり、港では東西の商品が大量に経由して行きました。
当時の城壁で囲まれた市街は、現在の旧市街の3倍の広さがありました。

日が暮れて観光ができなくなる前に急いで入ります。

Fi2283674_3e 中に入るとフェスティバル・ガーデンという中庭があります 32 55' 25.47"N 35 04' 14.17"E 。

コンサートなどに使われているそうです。城壁に囲まれたこの場所で聴く音楽は格別でしょう。
観光案内所もここにあります。



中庭の向こうにある緑色の屋根のモスクは、ジャーマ・アル・ジャッザールです 32 55' 21.74"N 35 04' 12.83"E 。
Fi2283674_4e
18世紀、オスマン帝国の知事アフメッド・アル・ジャッザールが建てた物で、イスラム教の始祖ムハンマドの頭髪があるとの事。
また内部は大理石、シャンデリア、ペルシャ絨毯で飾られ、相当美しいそうだが今回は観光せず。残念。

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イスラエル旅行・カイザリヤ~その4

カイザリヤ観光の続きです。

これはどう見ても荒れ野原にしか見えませんが、画像中央奥の白い標柱が立っている辺りにローマン・ヒッポドロームと言われる戦車競技場があります。
周りをバナナ畑が囲んでいます。
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時間がなくて側まで行けませんでした。半円劇場のチケット売り場前から撮った物です。
カイザリヤに入るときに、道路の左側を見ていると比較的間近に見ることができます。

ローマン・ヒッポドロームの近くにはビザンツ時代の道路と広場跡もあります。

大理石で舗装された広場の両側には、白い大理石と黒い斑岩で作られた2体の彫像がある。
斑岩の像はハドリアヌス帝ではないかと言われ、ビザンツ時代にここに移設されたものらしい。

ここも時間がなく観光できませんでしたが、競技場と同様道の左側を見ていると見ることができます。

ここでカイザリヤの城壁を出て、北側にある導水橋に行きます。

南北に伸びる、ヘロデ時代の導水橋 32 30' 50.19"N 34 53' 49.74"E です。
Fi2278144_1e
カイザリヤに飲料水を供給する為に造られました。

北方の都市ハイファ近くのカルメル山( 32 44' 05.55"N 35 02' 15.73"E )の南斜面の泉が水源で、最初は岩壁の水路を伝います。
途中シャニの泉の水を加えた土管を流れ、ゼルカ川を越えたカバラ沼沢地で2本に分離した導水橋となる。
一方は海岸に並行して砂岩の尾根に貫通した人工トンネルを流れ、尾根を抜けると再び導水橋になる。
そして海岸伝いにカイザリヤの北端に達する。

全長9キロあります。
画像は内陸側から見た所。

この画像は波打ち際から見た所です。
Fi2278144_2e
遺跡のある砂浜、素晴らしいです。

導水橋の断面
です。
Fi2278144_3e
導水橋の上には直系17cmの3本の土管が置かれていました
第一次ユダヤ反乱の際には、鎮圧軍の第2、10軍団の工兵が改修しています。

この水路とは別に、農業用水を供給する地表面の水路がありました。

さて、これでカイザリヤ近辺の観光が終ったので、更に北にある世界遺産の町アッコーに向います。


ここでヘレニズム時代のユダヤ人の歴史についてまとめます。

ヘレニズム時代は、政治的にはアレキサンダーの征服からその後継者であるセレウコス朝、プトレマイオス朝の滅亡までを指す。
しかし文化的にはローマ時代、ビザンツ時代まで続いた。

ヘレニズム文化とはギリシャ文化と東方文化の融合文化で、ローマ文化はヘレニズム文化の模倣に過ぎなかった。
またヘレニズム精神とは、個人主義と世界市民主義(全人類を同胞とみなし、民族や宗教に囚われずに自由に生きる考え方)に代表される。

1. プトレマイオス朝エジプトの支配時代(312BC~)
アレキサンダーが急死すると、配下の将軍達の間で戦争が起きた。
戦後の取り決めではパレスチナはセレウコス朝シリアに与えられるはずだったが、実際にはプトレマイオス朝エジプトが居座った。
その為両者の間で五度に渡る戦いが起こった。

この時代のユダヤ州は半自治状態で、大祭司がユダヤの最高議会に相談しつつ総督の代わりに行政を執行していたようである。

紀元前198年、プトレマイオス朝はバニアス(後述)でセレウコス朝シリアに敗れ、パレスチナの支配権を引き渡した。
この時プトレマイオス朝を支持するユダヤ人の集団がエジプトに移住し、共同体を作った。

この頃のエジプトでのユダヤ人社会で、注目すべき点がいくつかあった。

一つは、律法(トーラー)をギリシャ語訳した事で、ヘブライ語の知識が乏しくなった為に行なわれた。
これは後にキリスト教のテキストとして西洋において注目され、西洋文化の基礎を築く上で影響のある文書の一つになった。

また、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)があった事が伝えられている。
神への犠牲を行なうのではなく、ただ祈りと信仰告白と聖書朗読のみの場所は、今までの宗教では例が無かった。
後のキリスト教、イスラム教の礼拝にも影響を与えたと考えられる。

2. セレウコス朝シリアの支配時代(198BC~)
セレウコス朝は連邦主義的な統治を行なっていた為、ユダヤ人に対してもこれまで以上に政治的経済的自由を約束した。

しかし、ローマに大敗して朝貢を強いられた時から状況は変わり始めた。
国家財政を立て直すために各民族の神殿を略奪しようとした。

この動きに乗じて、より多くの年貢を支払う代わりにエルサレム神殿の大祭司の位を得ようとする者が現れた。
更に大祭司の位を巡る争いがエスカレートし、大祭司の位を追われた者がエルサレムを攻撃する事態になった。

セレウコス朝は、この反乱の原因はユダヤ教の特殊性にあると考え、エルサレム神殿をゼウスの神殿に変え一切のユダヤの習慣を禁止し、ユダヤ教を弾圧した。

これらの迫害に対して、祭司マカバイ家の集団を中心にした抵抗が起こった。
シリア軍を打ち破るまでになり、ユダヤの律法と習慣を尊重するよう法律を変えさせる事に成功した。

しかしマカバイ家は政治的宗教的独立を目指すようになり、セレウコス朝内部の王位争いに乗じて巧みに力を伸ばし、遂に支援したセレウコス朝の王から完全独立の約束を取り付けた。

3. ハスモン朝時代(141BC~)
マカバイ家のシモンはユダヤの民衆に認められて王位に就き、ハスモン朝(マカバイ朝)を開いた。
ハスモン朝はサマリアの他、東ヨルダン、ガリラヤ、イドマヤの一部を征服して領土を広げた。

しかし、相変わらずセレウコス朝の攻撃を受けた他、ユダヤ教の宗派であるサドカイ派とファリサイ派の勢力争いが続き、最後は王位を巡るヒルカノスとアリストブロスの兄弟の争いに介入したローマのポンペイウスに占領され、ローマの保護国にされた(同じ頃セレウコス朝もローマによって解体された)。

その後も王位を巡る争いは収まらず、ペルシャの強国パルティアの支援を受けたアリストブロスの子アンティゴノスがハスモン朝を再興した。
ヒルカノスの武将でイドマヤ人のヘロデはローマに救援を求め、再介入したローマ軍によってハスモン朝は滅亡した。

この時代には、ユダヤ教の宗派が色々と現れた。

この世の終末の後の神の救済を待ち、それまで神に忠実であるよう訴えたハシダイ
エルサレム神殿から離反し、民衆から離れて宗教的清浄さを徹底したエッセネ派
律法を重視し、それに忠実でありながら、実際の生活で実施できるよう律法を妥協的に解釈したファリサイ派
上層階級の利益集団であり、律法に確言されていない事は自由に行なってよい(それゆえヘレニズムの思想も受け入れた)という考え方で、神殿祭儀を重視したサドカイ派
前述の、エルサレムの祭儀から独立したサマリア人の集団があった。

4. ヘロデとその後継者の支配時代(30BC~)
父の代からローマに忠実だったヘロデは、ローマ皇帝アウグストゥスから同盟国として認められ、ダビデ王時代に匹敵する程の領土を任された。

彼は建築事業に没頭し、特にエルサレム神殿の増築は一部のユダヤ人に感謝された。
相次ぐ建築事業は雇用を生み、農地の拡大政策によって経済状況は良くなった。
一方でこれらの事業の為に重税を課し、権力維持の為には手段を選ばなかった。

ヘロデの死後、三人の息子(アルケラオス、ヘロデ・アンティパス、フィリポス)が分割統治した。
アルケラオスは恐怖政治を行なって追放され、その領地(ユダヤ州)がローマの知事の管轄になった時、税の引き上げに反発した熱心党(ユダヤを神の直接支配に置き、外国勢力を除外する事を目標にした集団)による反乱が起きた。

その後、皇帝崇拝を強いるなどのローマ側の挑発により、ユダヤ州では緊張状態が続いたが、カリギュラ帝の遊び仲間として台頭したヘロデの孫アグリッパ1世は、クラディウス帝の帝位継承を支援して感謝され、ヘロデ時代の領土を任された。
これによりパレスチナは安定した。

しかしアグリッパの死後は、再びローマの支配に戻った。

この時代、独自の律法解釈による宣教活動を行なったイエスが現れ、その死後もエルサレムで弟子による宣教が続いた。
既存のユダヤ教宗派を批判してエルサレムを追放されるとシリアで活動し、ユダヤ人以外への宣教が始まった。

5. ローマの支配とユダヤ人社会の壊滅(44~)
ローマとユダヤの緊張状態が続く中、ユダヤ総督がエルサレム神殿を略奪し暴動が起きた。
過激派の熱心党はマサダ要塞を占領しエルサレムに入城、ユダヤ総督とシリア総督のローマ軍を撃退した。
しかし反乱軍は穏健派と過激派の内戦で衰退、ウェスパシアヌスとその子ティトゥスのローマ軍がエルサレムを鎮圧し、数年後にマサダ要塞も落ちた(第一次ユダヤ反乱)。
エルサレム陥落を記念した凱旋門が、ローマにあります。)

この反乱でパレスチナのユダヤ人の3分の1が犠牲になり、廃墟になったエルサレムにはローマ軍第10軍団が置かれた。
ユダヤ教は、神殿を失った事で神殿祭儀重視のサドカイ派は衰退し、律法重視のファリサイ派の主導で、シナゴーグでの礼拝生活と聖書を学ぶ教学院での律法解釈の活動にまとめられた。
ここから現在のラビ的ユダヤ教に発展していく。

キリスト者はこの反乱の最中にエルサレムから退去し、エルサレムを中心としたユダヤ人に対する伝道は衰え、異邦人に対する伝道が中心になった。
それがユダヤ教の一分派から宗教としてのキリスト教に発展する糸口になった。
しかし次第にローマによる迫害も過熱していく。

132年、パレスチナのユダヤ人は再び反乱を起こした。当時の資料が乏しい為その社会的背景はわからない。
表面的な原因は、旅行好きな五賢帝ハドリアヌスが、廃墟のエルサレムを訪れた際にユダヤ神殿跡地にユピテル神殿を造った事で、その結果ユダヤ人の民族感情が爆発したようである。

ラビ・アキバに説得されたユダヤの最高法院は反乱に踏み切り、カリスマ的指導者で救世主と目されたバル・コクバのもと、祭司から貧しい農民までが反乱に参加した。
反乱軍はエルサレムとユダヤ州の大部分を占領したが、ローマ軍の精鋭によって鎮圧された(第二次ユダヤ反乱)。

エルサレムはアエリア・カピトリーナというローマ風の町に作り変えられ、ユダヤ人の立入りが禁じられた。
ユダヤ州は古代イスラエル人の強敵ペリシテ人にちなんでシリア・パレスチナ州に改名された。
ユダヤの宗教と習慣は徹底的に弾圧され、ユダヤ社会はパルティア王国その他の地域に四散した。

その後、パレスチナに残ったユダヤ教は活動の場をガリラヤ、そしてベト・シェアリームに移し、そこで神の掟に関する数々の口伝の記録を始めた。
これが現在律法と並んでユダヤ教の信仰の基礎になっているタルムードの土台になった。

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イスラエル旅行・カイザリヤ~その3

カイザリヤ観光の続きです。

これは戦車競技場の西側を北に向って歩いている所です。
通常のサイズに伸ばして見てください。
Fi2275221_0e
画像左端に伸びている半島は、カイザリヤの港(セバストスの港と言われた)の南防波堤 32 30' 06.11"N 34 53' 22.54"E です。

かつては南東から北西に大きく弧を描いた長さ600m、幅70mの堤でした。
ここからは見えませんが、これの北側にも防波堤があり、長さ250mでした 32 30' 13.50"N 34 53' 27.60"E 。

当時ここは激しい潮流と沈泥のある難所で、防波堤の建設は最新技術を使って成し遂げられました。
その1つがローマ人の発明である水硬コンクリートです。

建設手順は、
① 陸上である程度コンクリートを流し込んだ木枠を作る。
② 海上の防波堤建設予定地に曳航する。
③ 更にコンクリートを流し込んで沈める。
④ その上に建築物を組み立てる。

重い石材を現場に運ぶのが困難なので、水中で固まるコンクリートという方法を採ったのです。

ヘロデの死後、地盤沈下が始まって、防波堤のほとんどは水没しています。
現在では水中考古学という新しい学問によって調査が進められている。

完成した港は、エジプトのアレキサンドリアに比肩する程の規模になりました。

ここで面白い事に気付きました。
実はカイザリヤの少し南に、たぶん火力発電所の港と思しきものがあるのですが( 32 28' 11.76"N 34 52' 59.59"E )、この港の防波堤の形が、参考文献で見た当時のカイザリヤの防波堤の形にそっくりなのです。
と言う事は、潮流などを計算した当時の設計技術が、現代の設計技術に照らしても間違っていなかったという事ではないでしょうか?
あくまで私の推測ですが。

「(防波堤)の部分は巨大な塔によって仕切られていたが、
その中でも特別に高くそびえ立ち特に美しい塔はカエサルの継息子の名にちなんでドゥルシオンと呼ばれた。
入港した船が停泊する為の数多くのアーチ型の屋根が並んでおり、
その前の円形の石壁全体が上陸する者たちのための広い散歩道となっていた。(ヨセフス「ユダヤ戦記」)」

防波堤の上に立っている建物は、十字軍時代の見張り塔。
画像中央奥に連なっているのが、十字軍の街。
画像右半分は戦車競技場です。

画像は十字軍の街の南城壁です 32 30' 01.03"N 34 53' 30.56"E 。
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十字軍の街は周囲を城壁と堀に囲まれていて、東側は650m、南北は275mでした。
カイザリヤ全体の1/6または1/10の規模でした。

中には十字軍時代の教会と市街、アウグストゥス帝記念神殿、ビザンツ時代の教会があります。

堀は底面幅が7m、石垣の斜堤は角度60度、高さ8mです。
画像右側の斜堤の上にちょっと見えるのが城壁でしょうか?城壁は今では僅かしか残っていないようです。

これらの防御設備は十字軍の時代の中でも一番遅いルイ9世の時代に造られたようです(1251年?)。
堅固な要塞を造ったものの、もはやイスラム勢力の侵攻は防げず、1265年に陥落しました。

斜堤の上に立っている建物(画像左半分)は何なのかよくわかりません。未完成に終った教会堂でしょうか?
これは十字軍の街の南城壁の南側にあった遺構です。
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正直言って何の遺構なのかわかりません。
参考文献によると、城壁の南側にビザンツ時代(3世紀)に建てられた初期キリスト教最大の神学者オリゲネスによる蔵書3万冊を誇る図書館と初期キリスト教の教理学校が発掘されたそうです。

ここがその一部だろうか?

遺構の前には、色鮮やかな様々な動物の絵が描かれた床がありました。
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戦車競技場の東側部分
を北から眺めた所です。
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ビザンツ時代の街並みでしょうか?
詳しい資料がないのが残念です。
発掘作業は今も進められています。

「港に隣接して同様に白い石でできた家並みがあり、町の通りが港へ向かって等間隔で走っていた。
また港の入口の反対側には小高い丘の上にカエサルの神殿がひときわ美しくそびえたっていた(ヨセフス「ユダヤ戦記」)。」

遠くに見える煙突は火力発電所。
アラブ産油国と仲が悪い為、燃料は石炭だそうです。


ここでカイザリヤの歴史をまとめます。

① 古代オリエント時代末期、シドン人の王アブダシュタルトがストラトンの塔近くに集落を作る。

② 紀元前2世紀、ドルの支配者ゾイルスが領有。

③ ハスモン朝のアレクサンドロス・ヤンナイオスが領有。ユダヤ人が入植。

④ 紀元前1世紀、ローマのシリア属州になる。

⑤ アントニウスがこの町をクレオパトラ7世に贈る。

⑥ アウグストゥス帝がヘロデ王に返す。

⑦ 紀元前22年、ヘロデ王が新しい町を作る。

⑧ 1世紀、アルケラオス(ヘロデの子)が廃位され、ローマのユダヤ属州州都になる。

⑨ アグリッパ1世(ヘロデの孫)が領有する。

⑩ ペテロがコルネリウスにキリスト教を宣教する。

⑪ ユダヤ総督フェリックスの時代、ユダヤ人と非ユダヤ人の間の緊張関係が流血事件に発展する。

⑫ パウロが2年間投獄されここからローマに護送された。

⑬ ユダヤ総督フロルスの時代、第一次ユダヤ反乱の火種となる騒動が起こる。

⑭ ネロ帝自殺後、反乱鎮圧中のヴェスパシアヌスがこの町に滞在中、旗下の軍団により皇帝に推戴される。ローマ植民市になる。

⑮ セヴェルス帝がメトロポリスの称号を与える。

⑯ 2世紀、キリスト教の司教座になる。

⑰ ビザンツ時代の3世紀、キリスト教教理学校と図書館ができる。

⑱ 4世紀、キリスト教会の大司教座であった。

⑲ 5世紀、エルサレムが大司教座になり優位性を奪われた。

⑳ 6世紀、サマリア人住民がユダヤ人住民と共謀してビザンツ帝国に反乱を起こす。

21 7世紀、イスラム帝国のカリフ、オマールが占領する。

22 11世紀末、第一回十字軍の際、ゴドフロワに貢納して攻撃を免れる。

23 12世紀初、十字軍のボードワン1世が占領、イスラム住民を虐殺・略奪して町が衰退し始める。

24 1251年、フランスのルイ9世が要塞を作る。

25 1265年、マムルーク朝のスルタン・バイバルス(後述)が占領する。

26 1291年、マムルーク朝が破壊する。

27 1873年、最初の発掘調査が行なわれる。

28 ボスニアからのイスラム教徒の集落ができ、20世紀半ばまで存続。

29 近郊にユダヤ人が入植する。

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イスラエル旅行・カイザリヤ~その2

カイザリヤの半円劇場の続きです。
これは観客席の上から見た、劇場の裏手です。
何かの遺構がありました。
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これは貴賓席に続く通路です。
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ローマ時代の観客はここから入場したんだろうなあ。

劇場の西側、海沿いにあるヘロデの宮殿跡です 32 29' 48.88"N 34 53' 21.03"E 。
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この壮麗な邸宅は、三方を海に囲まれていて、専用の船着場があり、中央には列柱付きのプール(長さ35m、幅18m、深さ2.5m)や、オプス・セクティレと呼ばれる色大理石のはめ込みモザイクの床があったそうだ。
兵隊さんがいてちょっと近寄り難かった。

劇場の北側には戦車競技場があります。
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ガイドブックには全く載っていなかったので、最近発掘されたものでしょう。
思いがけない物があって嬉しかったです。

ローマ市にあるチルコ・マッシモよりは小さいですが、あちらは単なる原っぱになっているのに対して、こちらはオベリスクなんかが立っていたんじゃないかと思われる中央部分の遺構や、周囲を取り囲む壁の遺構が残っています。
当時の様子をかなりイメージできる感じです。

「彼(ヘロデ)は更に五年目毎に開催する競技大会を開設し、これも同様にカエサルの名にちなんで名づけ、その第一回大会を第192オリュムピアスに盛大に開いた。この競技会では優勝者のみでなく、二位と三位の者たちも王の富からほうびにあずかった(ヨセフス「ユダヤ戦記」)。」

競技場への出入り口
です。隣の子供と比べるとわかりますが、結構狭いようです。
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ここでカイザリヤや、この後観光するマサダ要塞を造ったヘロデ王の生涯をまとめます。

新約聖書では、ヘロデは東方の三博士からベツレヘムでメシア(つまりイエス)が生まれた事を知らされ、ベツレヘムの2歳以下の幼児を全て殺したと伝えられています。

ユダヤ人におけるメシアは、ユダヤ人の独立を達成してユダヤの神の支配を実現する人を意味したので、イドマヤ人のヘロデは気が気でなかったと思われます。

しかし本当にこんなに残酷な人だったのでしょうか?

① 誕生前のヘロデ家
ヘロデ家は、ヘロデの祖父アンティパテル1世の時、ハスモン朝(後述)の王アレキサンドロス・ヤンナイオスによりイドマヤ地方の将軍に登用されたイドマヤ人の一族。
イドマヤ人はエドム人の事で、旧約聖書ではユダヤ人の祖ヤコブの兄のエサウの子孫に当る。

ユダヤ人から見ると、エルサレムを攻囲した新バビロニアに荷担した人種なので恨みに思っており、またユダヤ教を信仰するものの宗教行為の違いから半ユダヤ人とみなしていた。

ヤンナイオス王が死んでその子ヒルカノス2世アリストブロスの間で王位争いが起きると、ヘロデの父アンティパテル2世はヒルカノス2世を擁立する為に奔走、ローマ共和国のポンペイウスに取り入ってその支援でヒルカノス2世を即位させた。

カエサルがローマの実権を握るとアンティパテル2世は直ちに忠誠を誓ったので、カエサルはヒルカノス2世の地位を保証する一方、アンティパテル2世を徴税官にして実質的に権力を与えた。

② 青年時代
ヘロデはアンティパテル2世の第2子として紀元前73年に生まれた。武芸に優れてヒルカノス2世に愛されていたという。
その兄弟ファサエルと共に、父アンティパテル2世の力により要職に就いていた。

ガリラヤ知事になった時、山賊エゼキアスの乱を鎮圧して信望を得た。ただしこの時ユダヤの最高法院の承諾を得ずにエゼキアスの処刑を強行したため問題になった。

カエサル暗殺の首謀者でシリアに逃れたカッシウスは、カエサルの養子オクタヴィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)との対決を控えシリアに酷税を課したが、ヘロデは忠実な徴税官として時に町を焼き払ったりした。

カッシウスがオクタヴィアヌスとアントニウスの連合軍に敗れると、アントニウスに賄賂を贈ってガリラヤ領主になった。

アリストブロスの子アンティゴノスがパルティア王国の支援でヒルカノス2世に対して反乱を起こすと、ヘロデはローマに支援を求め、オクタヴィアヌスとアントニウスはパルティアに対抗する為ヘロデを名目上のユダヤ王にした。
ヘロデはアンティゴノスを倒してアントニウスに賄賂を贈って処刑させ、ハスモン朝を滅ぼした。

ヒルカノス2世の孫マリアンメと結婚して名目上はハスモン家の後継者を名乗った。

③ 王国の確立期
まずヘロデはユダヤ人の信用を得るために、バビロンに亡命していたヒルカノス2世を帰国させて父と呼んで敬った。
高齢のヒルカノス2世はヘロデにとって脅威ではなかった。

しかし義母アレクサンドラの子アリストブロス3世はハスモン家の直系で、王かつユダヤの大祭司になればユダヤ人の支持を得る事ができる危険人物だった。
そこでヘロデは若年を理由にアリストブロス3世を大祭司に任じなかったが、怒ったアレクサンドラはエジプトの女王クレオパトラ7世の支援で息子を大祭司にしてしまう。

しかし間もなくアリストブロス3世は謎の水死を遂げ、これをヘロデの暗殺だとしてアレクサンドラはクレオパトラに訴えた。クレオパトラの愛人アントニウスはヘロデを召喚するが、その利用価値を認めて罪に問わずに帰した。

その後もクレオパトラとヘロデの確執は続き、ヘロデはヤッフォとガザをエジプトに渡さなければならなかった。

しかしアントニウスがオクタヴィアヌスに敗れクレオパトラが自殺すると、アントニウスの支持者だったヘロデはクレオパトラとの不和を強調してオクタヴィアヌスに釈明、地位の保全に成功する。更にヤッフォとガザを返してもらった。

帰還したヘロデはアレクサンドラを殺した。また嫉妬心と猜疑心から妻マリアンメを殺した。

④ 王国の最盛期
今やローマ皇帝となったアウグストゥスの下、ヘロデはかつてのダビデ・ソロモン王国に匹敵する程の領土を任された。ヘロデは内政に関してはローマの干渉を受けなかったが、外交は認められなかった。

ヘロデはユダヤの最高議会と大祭司を宗教的な機関にしてその政治的権力を奪った。
また土地税、人頭税、橋梁使用税、港湾使用税など、税金を掛けられる物は全て課税して国家財政を潤した。
軍隊はユダヤ人でなく外国人傭兵を使い、スパイ警察を設立して反対勢力を弾圧した。

特筆すべきは建設事業で、カイザリヤサマリヤの壮大な都市建設、マサダエリコでの城塞・宮殿建設など、国内の施設は充実した。また多くの人を雇用する事にもなり、経済状況はより良くなった。

また大規模なエルサレム神殿の再建は、ユダヤ人の支持を得るためだった。
ヘロデはユダヤ領内においてはユダヤの慣習に従うなどユダヤ人には気を配っていたが、ヘレニズム文化とその異教の神の流入はユダヤ人の反感をかった。

もともとユダヤ王朝(ハスモン朝)を滅ぼし、ユダヤ議会や祭司を有名無実にしたヘロデへの反感は強く、反対派はファリサイ派(後述)やエッセネ派(後述)に集結した。

⑤ 晩年
ヘロデは10人の妻との間に15人の子をもうけたと言われる。その為、晩年は高齢の上病の身で後継者争いに悩まされる事になった。

最初の妻との間にアンティパテルという子がいたが、マリアンメと結婚すると遠ざけられた。これが後の後継者争いの火種になった。

マリアンメを真剣に愛していたヘロデは、その間に出来たアレキサンドロスアリストブロスを後継者として育てた。そして妹サロメの娘をアリストブロスの妻にした。

しかしハスモン家の血を引く彼らは気位が高くヘロデ家を見下し、アリストブロスは妻に辛く当った為、サロメは二人を陥れようとヘロデに讒言した。そこでヘロデは遠ざけていたアンティパテルを王位継承者にして様子を見ることにした。

長年疎んじられていたアンティパテルは二人への対抗心を露にし、二人も父の翻意に対する不信感を露にしたので、結局二人は投獄された後処刑された。
邪魔者がいなくなったアンティパテルは更に権力を握ろうと工作し、ヘロデに毒を盛ろうとした。これが発覚してアンティパテルも処刑された。

その5日後にヘロデは死んだ。
王国は遺言により、アルケラオス、アンティパス、フィリポスの3人の子に分割された。


ヘロデは政治的経済的に有能な君主だったと思います。またローマ共和国内乱という動乱期に次々と主人を変え、権力を維持し続けた才覚も大した物です。
各地に残る壮大な建築物は、彼が精力的な人物であった事を物語っています。

しかし彼は猜疑心・不信感に苛まされて最愛の妻を殺した他、権力維持の為には手段を選ばずという面があり、数々の残虐行為も行なったようです。それが新約聖書のエピソードに反映されているのだと思います。

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イスラエル旅行・カイザリヤ~その1

カイザリヤに着きました。

カイザリヤ(カエサレア)は、かつて古代オリエント時代の終わり、アケメネス朝時代に作られたストラトンの塔と呼ばれるフェニキア人の集落と小さな港でした。

ヘレニズム時代、ヘロデ王は戦略的要所であるにもかかわらず防波堤付きの港がないこの地方に目をつけ、交易目的で港と町を作りました。
時のローマ皇帝カイザル・アウグストゥスに対する賛辞として、カイザリヤと付けた。

現在この辺りは別荘地帯になっており、またイスラエル唯一のゴルフ場がある。
カイザリヤの中心部分は遺跡のテーマパークのようになっていて、観光客で賑わっています。

さて、遺跡としてのカイザリヤは、十字軍の街と港を中心に半径1.2キロ位の南北に長い楕円形をしているのですが、楕円の西半分は海になっているので東側の半円部分が該当します。
円周部分にヘロデまたはビザンツ時代の城壁があり、その内側に遺跡が散らばっています。

北側には、ストラトンの塔の遺跡丘とユダヤ人居留区跡、第一次ユダヤ反乱の火付け役になったシナゴーグ(教会堂)らしきものがある。

中央には、前述した十字軍の街と教会、港の見張り塔などがある。
東側には、ビザンツ時代の街、広場、戦車競技場がある。

今回観光した南側には、半円劇場、ヘロデの宮殿、戦車競技場がある。
全部回るのは時間的に不可能なので、今回は南側だけです。

画像はカイザリヤを囲む城壁跡と思われます。
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まずは半円劇場です 32 29' 45.57"N 34 53' 28.79"E 。
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チケット売り場を抜けると目の前に劇場の裏手が見えます(画像)。
ここにはカイザリヤの模型が置いてあって全体を把握するのに役立ちます。

劇場では、演劇や剣闘士と猛獣の戦いなどが行なわれていました。
約500年に渡って使用され、その間多くの改修が施されています。
1960年代前半に発掘調査が行なわれました。
現在では夏になるとコンサートが開かれるそうです。

今日は、イスラエルの若い兵隊が大勢見学に来ていてちょっと緊張しました。

劇場の前には、劇場から発掘された物品が並べられています。
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ここからはエフェソスのディアナ像、婦人像、仮面風女性頭部、土製ランプ、土器、彫刻、碑文が発掘されています。

劇場の中に入りました。
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座席は縦に6つに区分けされていて、それぞれ13段の石段があります。
各区分けの座席の上方には、それぞれ出入り口があります。
中央に四角い部分がありますが、属州の総督が座りました。

石段の中には、「ポンティウス・ピラトゥス、ユダヤの代官」「ティベリウス帝記念神殿」と記された奉納碑石が再使用されていた。
ポンティウス・ピラトゥスはイエスに死刑判決を下したローマのユダヤ州総督で、彼がここに住んでいた事がわかる。

座席の最上段から舞台を見下ろした所です。
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人が立っている場所が舞台で、両脇に美しい漆喰装飾を施された壁龕(聖像を祀る壁のくぼみ)があった。
舞台下段正面は2世紀に改修されて、画像のように方形と半円形が交差する大理石で覆われた壁龕が付けられた。

観客席の下、直径30mの半円形の部分は貴賓席で、周囲には排出用水路がある。
床は花柄、幾何学模様、うろこ模様などが彩色漆喰で描かれていたが、2世紀の改修で大理石の敷石になった。
貴賓席の座席は小石を塗り固めた物だったが、後に石板で作られた。
ローマ時代後期には貴賓席の部分に水が溜められて、模擬海戦が行なわれた。

舞台の裏手に広がる半円形の台状部分は3世紀に付け加えられた。

画像右上方に連なる城壁は、ビザンツあるいは十字軍時代のものらしい。

舞台の配置は、海からの風を計算に入れて観客席に音が良く届くように設計されているそうだ。
気のせいか下からの呼び声は良く聞こえた。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その6

ヤッフォを出発して、北のカイザリヤに向います。

テルアビブ市内
に入りました。
海岸線と並行しているハ・ヤルコン通りを北上します。
この通りにはシェラトンやヒルトンなどリゾートホテルが軒を連ねています。
画像はオペラタワー 32 04' 26.37"N 34 45' 57.65"E 。ホテル、ショッピングセンター、映画館があります。
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独立公園
です 32 05' 28.86"N 34 46' 18.78"E 。
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敷地内に何故かヒルトンホテルが建っています。
テルアビブの地名は建国にからんだものが多いようです。

イスラエルの一般的なマンションだそうです。
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外壁は白い石材を貼り付けてある。

市内北側のハ・ヤルコン川を越えた辺り、マカビー競技場だと思われます。
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“マカビー(鉄槌)”という名は、イスラエルの代表的なビールやスポーツチームの名前に使われています。
ヘレニズム時代にセレウコス朝に対して反乱を起こした英雄、ユダ・マカバイに因んでいるのかもしれません。

テルアビブを出るとシャロンの野が広がっています。
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北のズィカロン・ヤコブまで60キロに渡って続くかんきつ類の畑が広がる平原です。

ソロモン王の恋愛詩(旧約聖書)に「私はシャロンの野花、谷のユリ」という一節がある通り、春は野花が咲き誇る場所らしい。

また、バビロン捕囚時代(後述)の預言者第二イザヤが、捕囚から解放されて再びパレスチナに帰還する事を預言して、
「これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」
と言った(イザヤ書35章2節3節、財団法人日本聖書協会の「口語訳聖書」検索サービスより引用)。

長年マラリヤが発生する沼地だったが、ユダヤ人入植後に再び緑の平野になった。

さてカイザリヤに近づいてきました。


ここで古代オリエント時代のイスラエル人の歴史をまとめます。

1. パレスチナ入植時代(1230BC~)

非武装のイスラエル人がカナン人の町の隣や間に平和的に移動し定住した。
移住した集団はベテルやシケム周辺に入植した北のグループと、カデシュ・バルネアからユダ地方に入植した南のグループがあった。

しばらく後に力を蓄えると、場合によっては武力を用いて町を取得する事もあった。
このころのイスラエル人は様々な集団から成っていて、完全な統一体ではなかった。

彼らはカナン人の行き方から多くを学んだが、独自の信仰は捨てなかった。カナン人はアシュラとアシュトレトを始めとする自然宗教・豊穣宗教の神を信仰していたが、イスラエル人は自身の神がイスラエル人に同伴し恩恵をもたらす啓示宗教を持っていた。

旧約聖書ではこの時代について、モーゼの後継者ヨシュアがヨルダン川を越えてカナンの地に入り、イェリコやハツォルを武力で陥落させた、とある。

2. 士師(カリスマ指導者)の時代(1200BC~)
入植地の周囲にはペリシテ人、アンモン人、モアブ人、ミディアン人がいて絶えず脅かされた。
彼らに対抗する為、士師と呼ばれる指導者に率いられた兵で対抗した。士師は神から召された戦いに抜きん出た人たちで、脅かされた部族から兵を招集し、危機が過ぎ去ると元の生活に戻った。

有名な士師としては、キション川の戦いでイスラエル諸部族を率いてカナン人連合軍に勝った女士師デボラ、ペリシテ人を破ったサムソン(旧約聖書では怪力の勇者として描かれ、デリラの密告で殺されてしまう)がいる。
この防衛戦はイスラエルの諸部族を団結させたが、ユダの諸部族はまだ加わっていなかった。

カナン人の勢力は衰えたが、やがて強力なペリシテ人やアンモン人が攻撃を始めると、士師の組織で対抗するのは難しくなった。より強い指導力でより素早く防衛する政治体制、王制が必要になった。

3. 王制への移行とサウル王の時代(1012BC~)
イスラエルの諸部族は1人の王を望んだ。
当時の指導者、士師サムエルは、王は自分の民に重荷を課す存在で、ただ一つの支配者としての神を否定する、として危惧したが認めざるを得ず、神の名に置いてアンモン人を破った士師サウルを王として選んだ。
サウルは防衛に成功した。彼は行政を組織せず、軍事的な王であり続けた。

その頃ユダの古い家柄の出身で、琴の奏者としてサウルに召されたダビデという若者がいた。
彼はペリシテ人のゴリアテを倒すなど有能な戦士として頭角を現し、その為サウルはライバルとして恐れ殺そうとした。
ダビデは逃れてペリシテ人に雇われて、イスラエル人以外の民族と戦う事になった。

やがてペリシテ人はイスラエル人に総攻撃を仕掛け、ギルボア山で打ち破ってサウルを自害に追い込んだ。戦いの直前にサムエルが黄泉から蘇ってサウルに破滅を告げたと言う。

これを聞いたダビデは故郷ユダに帰り、そこでユダの王に選ばれた。
サウルの跡を継いだ息子と摂政が暗殺されると、イスラエルの諸部族はダビデを王として望んだ。

4. ダビデ王の時代(1004BC~)
今やイスラエルとユダの王になったダビデは、強力な軍隊で周囲の国々を征服し、その版図はパレスチナだけでなくヨルダン、シリア、レバノンに及ぶ大国になった。
これは当時のメソポタミアとエジプトの勢力が衰えていた結果による物だった。メソポタミアのアッシリアはアラム人の侵略に悩まされ、エジプトは二つの国に分裂していた。ダビデはこれらに干渉される事無く力を振るう事ができた。

彼は行政組織を作ってイスラエルとユダを一つの国、イスラエル王国としてまとめた。そして二つの中間にあるエルサレムを首都に定めた。また祭儀的に諸部族をエルサレムに結びつける為、神の契約の箱をエルサレムに運んだ。

しかしイスラエルとユダは必ずしも一枚岩であった訳ではなく、息子アブサロムがイスラエル諸部族の力により王位を得ようと反乱を起こした事もあった。

ダビデは有能な王、旧約聖書に最も詳述された王として後世に伝えられた。
晩年のダビデは後継者問題に悩まされたが、結局息子の1人ソロモンを選んだ。

5. ソロモン王の時代と王国の分裂(965BC~)
ソロモンはまず後継者争いの対抗派閥を締め出した。
そしてダビデの時よりも強力に官僚組織と行政機構を拡大した。また軍備増強の為の駐屯地と穀物倉、戦車部隊を作った。王の住居を強化する為にフェニキア人を雇って神殿(第1神殿)と宮殿を造った。

彼は有能な戦士であるダビデとは違って、賢い裁判官として知られる。シバの女王との知恵比べやソロモンの審判(自分の子だと主張する二人の女に策略を使って本当の母親を割り出した)のエピソードが有名である。
彼は平和な時代に平和的な統治を行なった王として、その栄光が後世に語り継がれた。

しかし軍備増強や建築作業は国民に賦役を強いて諸部族の団結を阻害し、王国の分裂を招く事になった。また結局はダビデが得た版図の一部を手放さなければならなかった。

ソロモンの死後、跡を継いだレハブアムはイスラエル諸部族により重い賦役を要求し、その結果イスラエル諸部族は離反して北イスラエル王国となった。レハブアムは南ユダ王国の王に過ぎなくなった。

6. 北イスラエル王国の状況(926BC~)
北イスラエル王国は、以前ソロモンに対して反乱を起こしエジプトに逃亡していたヤロブアムが王になった。
北王国は南王国と違って多数のカナン人がいたため、両民族の信仰の調整を図らねばならなかった。彼はベテルとダン(後述)に金の子牛を置いて聖所とした(両民族に無理のない神のイメージを追及した結果である)。
また彼の治世以降南王国とたびたび戦争を起こした。

ヤロブアムが死ぬと、王の配下が王の一族を根絶して次の王になる、という現象が続いた。これは、北王国では王は神によって選ばれるという考え方だった為、神の啓示の受領者である預言者の言葉に王の命運が左右された為である。

オムリ王の時、再び政権は安定した。オムリはカナン人との融和策のためカナン人の居住地域に近いサマリアを新首都にした。
その子アハブはフェニキア王の娘と結婚しフェニキアの祭儀を国内に導入する事で北西を安定させた。しかし北東の強力なダマスコ(シリア)が圧迫し、アハブは戦死した。

ヨラム王の時、将軍イエフがフェニキアの祭儀導入に反対していた預言者から王に指名された。イエフは王の一族と丁度訪問していた南王国の一族、そしてフェニキア王の娘とフェニキア神の祭司を皆殺しにした。
彼は30年近く治めたがその間ダマスコによって東ヨルダンを失った。

イエフの死後も北王国とダマスコの緊張は続いた。しかしそれを上回る脅威が既に到来していた。最新の武器と残酷な戦術を持つ職業軍人からなるアッシリア帝国が再び勢力を盛り返していた。時にアッシリアが弱まるとダマスコやアンモン人が侵略した。

北王国はアッシリアに度々朝貢して占領を免れていたが、紀元前773年、帝国をより拡大させようとしたティグラト・ピレセルⅢ世によってついに首都サマリア以外を占領された。その際住民は捕囚としてアッシリアに連れ去られた(アッシリアは征服地の住民を別の場所に分散移住させ、代わりに別の民族を入植させるという統治を行なった。反乱を防ぐ為である)。

ティグラト・ピレセルが死ぬと、従属諸国に反アッシリアの機運が高まり北王国も荷担したが、その結果シャルマナサルⅤ世により紀元前722年にサマリアも占領された。更に上層階級と住民が捕囚になった。

連れ去られたイスラエル人は独自の共同体を作る事無くアッシリア帝国に同化され、消え去った(この失われた10部族の一部が縄文時代の日本に到達し、日本人と同化したと言う荒唐無稽な説がある。日本人=ユダヤ人説については後述)。

7. 南ユダ王国の状況(926BC~)
王朝が次々と代わった北王国に対して、南王国の政権は安定していた。
例えば前述のイエフが訪問中の南王国の一族を殺した時、南王国では皇太后アタルヤが残りのダビデ王家一族を殺して自ら王になったが、後に運良く生き残っていた一族のヨアシュを祭司が正統な王として認めると、アタルヤは殺されてダビデ王家が復活した。
南王国ではダビデ王家のみが王になるという原則が貫かれた為、アタルヤは預言者に認められる事無く殺された。

ダマスコが力を得ると、北王国同様南王国も侵略された。
北王国がアッシリアに滅ぼされると、イスラエルの独自性や信仰の守護者は南ユダ王国のみになった。ここからユダヤ人の歴史が始まる。

アッシリアは南王国にも侵略し、南王国は朝貢しアッシリアの祭儀を受け入れざるを得なかった。しかし度々反乱を起こした。ヒゼキア王預言者イザヤに励まされながら結局エルサレムの独立は守った。

やがて絶頂期を過ぎたアッシリアに周辺民族が進入し、メソポタミアに新バビロニア王朝が成立すると、南王国のヨシヤ王はアッシリアの従属から逃れてイスラエルの神を復活させる事に力を注いだ。
南王国内でそれを達成すると、彼は北王国の旧領との統合を考えほぼ達成した。
また犠牲祭儀をエルサレム神殿でのみ認め、ここに巡礼させる事で民族の統一を図った。
しかし新勢力バビロニアに対抗すべく今や旧敵アッシリアと同盟したエジプトとの戦いで戦死し、その勢力下に置かれた。

カルケミシュで新バビロニアはエジプトを破り、南王国を服従させた。
やがてネブカドネツァルがエルサレムを包囲し、紀元前597年に陥落させた。王族、上層階級、役人、専門家ら1万人が捕囚され、バビロニアに連れ去られた。

ネブカドネツァルはゼデキヤを南王国の王に任命したが、彼も反乱を起こした為にエルサレムは再び包囲され紀元前587年に陥落した。
この時の第二回捕囚とエルサレムの破壊で南ユダ王国は滅んだ。

8. バビロン捕囚時代(587BC~)
南王国滅亡後のユダ地方は、新バビロニアに忠実なユダヤ人に任された。しかしこれに不満を持つ一部の人達が反乱を起こしてエジプトに移住した事が伝えられている。

新バビロニアはアッシリアと違い、捕囚したユダヤ人を分散させずに一定個所にまとめた。その一つがバビロンの東のテル・アビブという場所で、現在のイスラエル国の主要都市の名前にもなった。

ユダヤ人は捕囚下にあっても自分達のアイデンティティを守ろうと団結し、その結果ユダヤ教が整備され宗派として成立した。また旧約聖書の編集も行なわれた。

その頃、アケメネス朝ペルシャの王キュロスが周囲の国々を征服し始め、紀元前539年にはバビロンが陥落した。
アケメネス朝の他民族の支配方法はアッシリアや新バビロニアとは違っていた。古い法制度や祭儀、土着の行政の保存と回復が国家の内部を安定させると考えられていた。従って捕囚されたユダヤ人も解放され、実際に帰還した人々もいたのではないかと考えられる。

捕囚時代のある預言者は、キュロスは神に選ばれてユダヤ人を解放した、と言い表し、パレスチナへの帰還はモーセのエジプト脱出にも例えられた。

9. アケメネス朝時代(538BC~)
キュロスは勅令によりエルサレム神殿の再建を許可し、財政支援を約束した。
神殿(第二神殿)が再建された事により、統治上の問題が起きた。この頃、ユダ地方は独立した州ではなかったので、アケメネス朝の総督が治めてはおらず、行政官が任命されていた。神殿が再建された事により、宗教的な権威である大祭司が行政に大きな影響を及ぼすようになった。

神殿はできたものの、伝統に基づいた正しい知識でユダヤ人の秩序に心を配る人物がいなかった為、ユダヤ社会の習慣と法は守られなくなった。例えば神への犠牲の執行がいい加減になったり、別の民族の女性との結婚が行なわれた(上層階級にとって、それは権力の強化に繋がった)。
それを知った捕囚された家族の出身のエズラとネヘミヤという指導者が、アケメネス朝の認可の元、ユダ地方にやってきて律法に基づいた以前の秩序を取り戻すべく行動した。更に破壊されていたエルサレムの城壁の再建に取り組んだ。

エルサレムの再建が進むにつれ、ユダ地方を監督していた隣のサマリア人は自分達の権威が失墜するのを恐れて再建を阻もうとした。北王国滅亡後、異邦人が入植したサマリアではイスラエルの神への信仰があったが、ユダヤ人はそれを正統派とはみなさなかった。
ユダが州に昇進すると共に、サマリア人は政治的影響を失いエルサレム神殿とその祭儀から独立した(この分派は今も存続している)。

紀元前4世紀に、マケドニアからアレキサンダーがやって来た事で状況は一変した。アケメネス朝はあっけなく滅亡してしまった。その結果、ギリシャの文化と精神が流入してきた。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その5

ヤッフォ観光の続きです。

これはアンドロメダの岩です 32 03' 22.23"N 34 45' 01.93"E 。
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アンドロメダはエチオピア王ケフェウスと王妃カシオペアの娘です。
ある日カシオペアは、海の妖精ネレイドの50人の姉妹よりも自分の娘は美しいと自慢したために、ネレイドの祖父海神ポセイドンの怒りをかった。
ポセイドンは恐ろしい大鯨を送って、エチオピアの沿岸を荒らし回った。

ケフェウスは、娘を生贄として捧げない限りポセイドンの怒りは収まらないという神託を受け、泣く泣くアンドロメダを海岸の岩に鎖で繋ぐ。
そこに通りかかった主神ゼウスの子ペルセウスは、持っていたメドゥーサの首を使って大鯨を退治した。

彼はほうびとして彼女を妻にもらいうけた。二人は7人の子供をもうけて幸せに暮らしました。
ケフェウス、カシオペア、アンドロメダ、ペルセウスと愛馬ペガサスは、のちに星座となった(ギリシャ神話)。

アンドロメダが繋がれた岩礁です。
ビューポイントがあるのですが、時間が無くて行けませんでした。これはハ・ピスガ公園の少し北東の道路から撮った物です。

左側に見える建物は、ジャーマ・アル・バフル(海のモスク)というイスラム寺院です。 32 03' 19.37"N 34 45' 08.93"E

これはジャーマ・アル・マフムディーヤの尖塔です。 32 03' 17.76"N 34 45' 19.33"E
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19世紀のオスマン帝国時代に建てられたイスラム寺院で、イスラム教徒しか入れないそうです。
ヤッフォには色々な教会、モスクが立ち並んでいます。

これは何でしょうか?
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色大理石の壁面が綺麗だったので思わず撮りました。
ジャーマ・アル・マフムディーヤの一角か、オスマン帝国の官庁か?
壁面の文字が読めたらわかるんですが。

これはクロック・タワーです。 32 03' 18.30"N 34 45' 22.26"E
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20世紀初めに、オスマンの皇帝アブドゥル・ハミッド2世が統治30周年を記念して建てました。ヤッフォの入口にあり、シンボルとも言えます。
ピンク色の入口の扉が可愛らしい。
この皇帝は他の都市にも時計塔を建てているそうです。

これもオスマン時代の建物でしょうか?
今は商店街になっています。
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ヤッフォはこじんまりとしていて、そぞろ歩きしたくなる街です。
古い石造りの教会や家々、海とテルアビブの眺め、立ち並ぶギャラリーでのアート鑑賞、のみの市での買い物・・・。
今回の下車観光時間は20分少々で、実現できず残念です・・・。

これから旧約聖書に関わる場所が色々出てくるので、古代オリエント時代のイスラエル人の歴史をまとめようと思います。

その前に今回は、イスラエル人の祖先がパレスチナに最初に移住した時代を表した旧約聖書の創世記の後半部分と出エジプト記の内容をまとめます。
ただ記述するのは面白くないので、それらがどのような史実を意味しているのかを、参考文献に基づいて付記します。

1.神の啓示により、上メソポタミアのハランから遊牧民の族長アブラハムと甥のロトが「乳と蜜の流れる地」カナン(パレスチナ)にやってくる。
神はこの地を彼らの子孫に与えると約束した。
やがてアブラハムとロトのグループは諍いを起こしたので、二人は相談して別行動をとる事にした。ロトはソドムとゴモラの町が栄える南部を選ぶ。

→当時北からやってきた独自の神、宗教を持つイスラエル人のグループがあったが、土地や町を占領した訳ではなく、町の王には服従して良好な関係を築いた。

2.神は悪徳が栄えるソドムとゴモラの町を滅ぼしたが、ロトの家族だけは脱出させた。ロトはモアブ人アンモン人の祖になった。

→町の王となんらかのトラブル発生か?

3.子供ができないアブラハムは妻サラの勧めで仕え女のハガルとの間にイシュマエルを設けた(アラブ人の祖)。
サラは神の奇跡で90歳にしてイサクを設けた。しかし神はイサクを生贄として捧げるよう要求し、アブラハムが従おうとすると二人を祝福してその子孫を無数に増やすと言った。
アブラハムはノアの3人の息子のうちセムの系統に属する。言語学上のセム語族やハム語族は、聖書の記述に基づいている。

4.イサクは妻リベカとの間にエサウエドム人の祖)とヤコブを設けたが、リベカはヤコブを愛していたので策略によりヤコブに相続権を得させた。
怒ったエサウの下から逃れたヤコブは独立し、エサウと和解する為の旅の途中で神と戦って勝ち、イスラエルの名を与えられる。
ヤコブは12人の子を設けイスラエル人の祖になった。

→イスラエル人の信仰が土着の神の信仰に勝って、カナンに広まっていった事を表す。また「イスラエル」という連合体があった事を表す。

5.12人のうちヨセフは兄達によってエジプトに売られたが、王に気に入られて高官になる。
やがて飢饉でエジプトに逃れてきた兄達を見たヨセフは、ヤコブと兄達をエジプトに招いて暮らす。ヤコブとヨセフの子はそれぞれイスラエル12部族の祖になった。

→エジプト人は自らの仕事の為にシリアやパレスチナの職人や奴隷を使い、中には高位に昇る人もあったが、エジプトの史料に「ヨセフ」の名はない。ただし飢饉を逃れてイスラエル人の集団がエジプトに移住した事は考えられる。

6.やがてイスラエル人は奴隷として酷使されるようになった。彼らはモーセに率いられて再び「約束の地」カナンを目指す。
追いかけたエジプト軍は紅海で全滅、モーセはシナイ山で神から十戒を授かるがカナンに入る直前のネボ山(ヨルダン領内)で死んだ。
カナンへの定住は後継者のヨシュアに任された。

→当時エジプトのラメセス二世が首都建設を行なっていて、イスラエル人が強制労働に狩り出されたと思われる。
また恐らく実際にモーセが逃亡したと思われるナイル河口の湿地帯では侵入した軍が損害を受ける事があったらしく、エジプト国境軍は追跡の手を緩めたのではと思われる。
その後モーセが地中海岸ではなく内陸のヨルダンを通ったのは、海岸にはエジプトの要塞が多数あったからである。またシナイ山には恐らく古くから聖所があり、そこでモーセら多数の指導者が会合して山の神の権威の下、律法(トーラー)が定められたと思われる。

出エジプト記については、セシル・B・デミル監督の超大作映画「十戒」がわかりやすい。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その4

空港でちょっと問題があり、出遅れましたがやっと観光開始です。

本日(12/29)は、ヤッフォ~カイザリア~アッコーと地中海沿岸を観光して、ガリラヤ湖畔のゲネサレに泊まる予定です。

まずはテルアビブから少し南にある港町ヤッフォへ。


ヤッフォは紀元前15世紀に存在が確認されている古い街ですが、今の街並みは16世紀以降のオスマン・トルコ時代の物です(歴史については最後にまとめます)。
昔からパレスチナの玄関口として栄えました。1271年、マルコポーロもアッコーから海路でこの町に到着、陸路を辿ってエルサレムに向いました。

ヘブライ語の「ヤッフェ(美しい)」もしくは旧約聖書のノアの子ヤペテ(小アジアやメディア人の祖)が名の由来と言われています。
ヨッパ、ジョッパとも言われ、日本の果物屋にも並んでいるジャッファ・スイーティーのジャッファはヤッフォの事です。

今回は時間がなく、ほとんど観光できませんでした。

画像は皮なめしシモンの家に続く旧市街です。
奥に見えるのが、シモンの家の側に建つ灯台です。
 32 03' 13.19"N 34 45' 01.27"E
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皮なめしシモンの家は、イエスの弟子ペテロ(後述)が伝道の途中に泊まった場所です。


当時、皮なめし業はひどい悪臭を放つ為に蔑まされた職業だった。しかしペテロはイエス同様、そうした人々の中で伝道した。
ある日、カイザリア(後述)駐在のローマ軍百卒長コルネリウスの使いがここを訪れ、イエスの信仰を教えて欲しいとペテロに言いました。
当時ユダヤ人が異邦人と交際する事は禁じられていたが、ペテロは天からの異邦人伝道のお告げを受けて、カイザリアにてコルネリウスにバプテスマを授けて教会員とした。
異邦人にキリスト教が伝わるきっかけになった画期的な出来事だったが、ペテロはユダヤ人の強い非難を浴びる事になった。

最近この家は観光客の多さに嫌気が差し、滅多に解放しなくなったとか。今回は遠くから眺めただけです。

手前に何故かナポレオンの像(案内板?)があります。ナポレオンはエジプト遠征の後1799年にヤッフォに上陸してアッコーに向いました。

ここはヤッフォの中心部にあるハ・ピスガ公園です 32 03' 15.53"N 34 45' 11.66"E 。
公園の中央には、旧約聖書のイサクの犠牲をあらわしたオブジェがあります。
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彼方にはテルアビブの街が望め、本当に近くにあることがわかります。

画像中央は古代博物館。 32 03' 17.28"N 34 45' 13.87"E
建物はオスマン時代の官庁を改築したもので、中にはこの辺の出土品や模型がある。
歴史が古い街だけに、色々な物が発掘されているのだ。
博物館の周辺にも、この辺り一帯を囲んでいたと思われる紀元前18世紀のエジプトのヒクソス人王朝時代の土塁が発見されています。

画像左下には野外劇場のステージが見えます。 32 03' 16.91"N 34 45' 12.28"E

聖ペテロ教会です。 32 03' 17.10"N 34 45' 07.78"E
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フランシスコ会の教会で、ルイ9世が作った十字軍の砦の上に19世紀に建てられたそうです。
この周辺にも主に墓などの遺構が発見されている。ヘレニズム時代の建物や、紀元前17世紀の幼児甕棺葬跡など。

ハ・ピスガ公園から聖ペテロ教会に行く途中に、何の変哲もない小さな橋があります。後で「愛の橋」という名前だと知りました。何でそんな名前なのかわかりませんが、ロマンチックのかけらもありませんでした。 32 03' 16.42"N 34 45' 09.16"E

この大きな建物は何なのか?よくわかりませんでした。わかったら書き込む事にします。
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ラムセス2世の門の遺構です。
 32 03' 13.45"N 34 45' 10.06"E
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紀元前13世紀頃の地層から発掘された門の土台、抱き柱、壁です。

壁は黄色と赤褐色の泥レンガ、抱き柱は固く加工した砂岩でラメセス2世の名前と5つの肩書きが刻まれているそうです。

ラムセス2世は紀元前13世紀のエジプト王で、メソポタミアのヒッタイトとシリア・パレスチナをめぐって争った。エジプトが勝ったカデシュの戦車戦が有名。またアブ・シンベル神殿を造営した。旧約聖書のモーセがユダヤ人の奴隷解放を訴えた王とも言われる。


ここでヤッフォの歴史をまとめます。


①紀元前15世紀、エジプト王国のトゥトモス3世が征服した町の一つとして初めて史料に名前が現れた。

②エジプト王の穀倉地帯を守る砦があった。

③ペリシテ人に征服される。

イスラエル王国のソロモン王がエルサレム神殿造営の為に、レバノンの糸杉をここから陸揚げした。

⑤紀元前8世紀、イスラエルの預言者ヨナが主から逃げる為ヤッフォから出航した。
ヨナは主から、「ニネベに行き、ここは悪が栄えているので滅ぼす、と告げよ」と言われるが、ニネベはイスラエルの敵国アッシリアの首都なので、主の言いつけを守るのが怖くてヤッフォから舟で逃げた。
ところが嵐になった為その原因が誰かを決めるクジ引きでヨナが当ってしまい、海に放り出される。
海で大魚に飲み込まれて三日三晩反省させられた後、ニネベに行って言いつけ通りにしたが、ニネベの人々は主に従ったので滅亡を免れた、以下伝々・・・という話。ピノキオの原型と言われる(旧約聖書)。

アッシリア王国のセンナケリブ王に征服された。センナケリブは南ユダ王国のエルサレムを包囲した王。

⑦紀元前5世紀、ペルシア王がフェニキアのシドン王にヤッファの街を贈った。

⑧ヘレニズム時代に入って紀元前3世紀、ギリシャの植民地になる。貨幣の鋳造が行なわれた。

ハスモン朝時代にユダヤ人が支配する。経済的にヤッフォを重視したので、征服の際記念硬貨を鋳造した。

⑩紀元前1世紀、ローマ人が征服して破壊したがすぐに再建。

アウグストゥス帝ヘロデ王にこの街を返した。この地方の中心都市になった。

⑫1世紀、ペテロがコルネリウスの使いに会う(新約聖書)。

⑬中世には、エルサレム巡礼者や商人にとっての玄関口になった。

⑭18世紀末、ナポレオンが上陸した。

⑮19世紀初頭、街がほぼ今の姿になる。

⑯19世紀後半、シオニストに対するアラブ人の反ユダヤ闘争の中心地になる。

⑰移住の結果、ユダヤ人の人口がアラブ人をしのぐ。

⑱1950年、テルアビブ市と合併。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その3

テルアビブ上空です。
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テルアビブ(春の丘)はイスラエル最大の都市です。

元は荒れ果てた砂丘であったが、20世紀初頭に移住したユダヤ人が近代都市建設の為土地を購入したのが始まり。
バルフォア宣言(後述)をきっかけに人口が急増し、ヨーロッパからの移民によりヨーロッパ風の商業・文化都市として発展した。
また地中海に面したリゾート都市でもある。

画像左上がほぼ北です。
上方やや下にある緑地帯はハ・ヤルコン公園 32 05' 50.66"N 34 46' 52.20"E 。
上方やや下、右端にある丸い緑地はハ・メディナ公園 32 05' 11.88"N 34 47' 22.67"E 。
中央少し斜め右上の大きな建物が市役所 32 04' 53.50"N 34 46' 50.01"E 。

市役所の前の通りを左側に行った画像の端付近に初代首相ダヴィド・ベングリオンの家があります。
ベングリオンはポーランド出身で、シオニストとしてオスマン軍と戦った。
イギリス委任統治時代にユダヤ国家準備を指導、イギリス撤退後に自ら起草したイスラエル独立宣言を発表し、選挙で初代首相に選ばれた。

画像右下の緑地の左下周辺に、歴史博物館やビアリク博物館があります。
歴史博物館:ヨーロッパからの移民の歴史を紹介 32 04' 23.42"N 34 46' 14.49"E 。
ビアリク博物館:ハイム・ビアリクという文学者の記念館。

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上の画像のやや東側です。
画像左上少し下に丸いハ・メディナ公園があります。

そこから斜め右下に伸びる道路が突き当たる所の左側に、テルアビブ美術館 32 04' 37.88"N 34 47' 15.83"E 。
19世紀~20世紀の世界の有名な画家の作品を多数展示している。

突き当たる所の右側に、日本大使館があるアジアハウス

画像右上の高層ビルが立ち並んでいる辺りに、28階建てのダイヤモンド・ストックセンターがあります 32 05' 00.93"N 34 48' 10.56"E 。
イスラエルの主要産業はダイヤモンド研磨加工業で、その研磨輸出高はベルギーに次いで世界二位です(1987年)。
かつてヨーロッパのユダヤ人が、迫害を受けても財産を簡単に持ち出せるようダイヤモンドを取り扱ったのがきっかけとか。
また資源が乏しいので、高付加価値の加工業を志向している事も理由のようです。
有名なデビアス社とダイヤモンド産業の覇権をかけて争った事もあるようです。

この辺り、サファリパークと国立公園だと思いますが・・・ 
32 01' 46.95"N 34 49' 18.41"E 。
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市街地とベン・グリオン空港の間にあり、自然史博物館などがある。

テルアビブのベン・グリオン空港
に着きました 32 00' 13.22"N 34 52' 21.68"E 。
最近建て直されたそうで、実に綺麗でした。美術館を歩いているよう。
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今後シリアやレバノンなどに行く予定の人は、パスポートにイスラエルの入国スタンプを押さないように言わなければいけません。
押されていると、上記の国々のビザが発給されません。

しかし対応はその時々で変わるので、押すなと言っても押されてしまったり、逆に記念に押して欲しいのに押されなかったりという事があるそうです。
要は、押してほしいかほしくないか、係官にしっかり伝えた方が良いようです。

逆に、過去にレバノンなどに行った人は、別室で色々質問されます。

荷物の受取場です。

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1972年5月この空港で、後に日本赤軍と名乗った人達が銃を乱射して100人もの一般旅行者を殺傷しました。

パレスチナ解放人民戦線がサベナ航空ハイジャック事件でメンバーを射殺された報復として、チェックの甘い日本人にテルアビブ空港襲撃を依頼しました。
荷物を受け取ったメンバーは、自動小銃と手榴弾を取り出して犯行に及んだ。
更に4ヵ月後にはミュンヘン五輪事件が起きた。


ここでパレスチナ問題(パレスチナの領有を巡るパレスチナ人とユダヤ人入植者の紛争)の経緯をまとめます。


1.前史
①19世紀前半、ヨーロッパ列強の力によりエジプトをムハンマド・アリー(前述)に奪われたオスマン帝国は、国内の西欧化を進める必要性を痛感した。タンジマート改革と呼ばれる上からの改革により、全臣民の法の下での平等と、生命・名誉・財産を保障した。

この結果農地の私有化と商品経済が進行し、農産物の輸出を見込んだ商業的農業が発展したが、一方で農業資金の借金を返せずに土地を手放す没落農民が増えた。手放した土地は金を貸した少数の都市商人の下に集められていった。これが後にシオニスト(ユダヤ人によるパレスチナでの祖国回復を唱える人)の土地購入を容易にした。

②19世紀後半には、ロシアで迫害されていたユダヤ人が大量にパレスチナに流入した。彼らは主にアラブ人を雇用する経営者として入植した(第一次アリヤー)。
※ユダヤ人の迫害については後述。

③ドレフュス事件に代表される反ユダヤ主義に対抗して、テオドール・ヘルツルがユダヤ人の国家建設を主張した(シオニズム運動)。また世界シオニスト機構を設立した。

④20世紀初めに、経営者としてではなく労働者として入植し、共同社会を実現しようとするユダヤ人が大量に現れた(第二次アリヤー)。自らが労働者になる事で土地所有を正当化しようとした。この共同社会の実践的モデルがキブツ(後述)と呼ばれる共同経営村落である。

2.第一次大戦
①オスマン帝国がドイツ側に付くと、イギリスは中東地域でのアラブ人の独立を約束してオスマン帝国に対抗させた(フサイン・マクマホン協定)。アラビアのロレンスが活躍した時期。

②一方で戦費調達のためにユダヤ系財閥のロスチャイルドに、パレスチナでのユダヤ人国家設立を約束した(バルフォア宣言)。

③またフランスとの間で、アラブ地域を両国で分割する秘密協定を結んだ(サイクス・ピコ協定)。

以上の様に、イギリスはパレスチナの領有に関して三者と矛盾する協定を結んだ。パレスチナ問題を複雑にした元凶となり、三枚舌外交と言われた。

3.イギリスの委任統治時代
① 一次大戦中、アレンビー将軍によりパレスチナは軍事占領され、戦後国連の要請によりイギリスの委任統治領になった。
イギリスの統治目的はスエズ運河の防衛とユダヤ人国家樹立で、アラブ人の支援は軽視されていた。

その為相次ぐ移民で発展するユダヤ人社会と、ユダヤ人の急増に脅かされながら貧困の中に停滞して有効な手が打てないアラブ人社会との間で緊張が高まった。その結果100人以上の死者を出した「嘆きの壁事件」が起きてしまった。
更にアラブ・パレスチナ大反乱と呼ばれる武装闘争を引き起こした。
イギリスは両者を話し合いで解決させようとしたが暗礁に乗り上げてしまう。

4.第二次大戦
①アラブ人がドイツ側に付く事を恐れたイギリスは、一転してユダヤ国家の建設を否定し、アラブ人国家の独立を認めた。
シオニストはイギリスに失望し、以後独力での国家建設を目指す。

一方アメリカのシオニストは有力な政治圧力団体に成長し、アメリカがシオニストを庇護する礎が築かれた。
またナチスによるホロコーストは、ユダヤ人に対する国際世論の同情を呼んだ。

5.戦後~60年代半ば 
①戦後、シオニストはイギリスにユダヤ人国家の設立を要求。拒絶されるとイギリスに対して武装闘争を開始した。

②もはや手におえなくなったイギリスは国連の介入を要請。国連は調査を開始したが、次の選挙戦でユダヤ票が欲しいアメリカのトルーマンはシオニストに有利なパレスチナ分割案を国連で可決させた。アラブ側は受け入れを拒否した。

③パレスチナはシオニストとアラブの軍事衝突で内戦状態になったが、準備を整えていたシオニスト軍はイギリス軍撤退直後に反撃を開始、主要地を占領してイスラエル建国を宣言した。

アラブ諸国は更に軍隊を送ったが結局敗北した(第一次中東戦争)。
この時、イスラエルが占領しなかったヨルダン川西岸地区は領土拡張を狙うヨルダンに、ガザ地区はエジプトの支配下になった。

④第一次中東戦争中にシオニストは、パレスチナのアラブ人(パレスチナ人)を計画的かつ強制的に追い出した。その最中にシオニストの武装組織がパレスチナ人を虐殺する事件が起きた(デイル・ヤーシン村事件)。
パレスチナ難民の帰還を促した国連決議をイスラエルは拒絶した。

追い出されたパレスチナ人はヨルダン川西岸とガザ地区に逃れ、難民キャンプで劣悪な生活を強いられ、アラブ諸国に逃れた人々も差別に苦しんだ。その中で武装闘争によってパレスチナ奪還を目指す新たな民族運動が始まった。

⑤パレスチナ民族運動を支えたのがエジプトのナセルだった。英仏がイスラエルを巻き込み、エジプトのスエズ運河国有化に反発して戦争(第二次中東戦争)を起こすと、パレスチナ解放を目標に掲げてアラブ世界の主導権を握った。この事はパレスチナ人に希望を与え、ナセルが設立に関わったパレスチナ解放機構(PLO)はパレスチナ民族運動の基盤になった。

⑥やがて米ソの冷戦構造に組み込まれたイスラエルとアラブの対立は、ヨルダン川の水利用権の対立やパレスチナ人とイスラエルの衝突を絡ませながら緊迫化し、紅海への出口を封鎖されたイスラエル軍による奇襲攻撃という形で戦争に突入した。

この戦いでイスラエル軍は僅か六日間でアラブ諸国軍を敗走させ、ヨルダン川西岸とガザ地区だけでなくシナイ半島やゴラン高原も占領した(第三次中東戦争)。
ナセルの権威は失墜し、新たに大量のパレスチナ難民が生まれた。

6.60年代後半~湾岸戦争
①エジプトの権威が失墜した事により、その庇護下にあったパレスチナ民族運動は自立して活発な活動をするようになった。

イスラエル軍を撃退したアラファトがPLO議長になるとその活動は大胆になり、その傘下のパレスチナ人民解放戦線やパレスチナ民主解放戦線などの非主流急進派が過激な武装闘争を行なった。
また、アラブ諸国は各々勝手にこれらの運動を自国の都合に合わせて利用し始めた。シリアやイラクは急進派を支え、サウジアラビアは穏健派に協力した。

②PLOの基地があったヨルダンは、自国内で自治政府のようにふるまうPLOに対する危機感からこれらを弾圧した。その為PLOはレバノンに逃れた。

弾圧後、急進派はますます過激なテロを行なうようになり、「テルアビブ空港襲撃事件」や「ミュンヘン五輪事件(スピルバーグが映画化)」を引き起こした。

③エジプトのサダトは占領地の返還とパレスチナ人の自治をイスラエルに要求したが拒絶された為、奇襲攻撃をかけてイスラエルに打撃を与えた(第四次中東戦争)。最後にはアメリカに支援されたイスラエルが戦況を逆転させたが、軍事的優位に基づく自信は大きく揺らいだ。

また、戦争が始まるとかねてからサダトの要請を受けていたアラブ産油国は、イスラエルが占領地から撤退するまで石油輸出を削減すると宣言した(第一次オイルショック)。この為国連はパレスチナ人の民族自決権とPLOの正当性を認める決議を行なった。

④一方PLO主流派はヨルダン川西岸とガザ地区にパレスチナ人国家を作るという現実路線に変換した。しかし急進派がこれに反発して対立が深まった。またPLOが本部を置いたレバノンでは現地勢力(キリスト教右派など)との摩擦により内戦化した。

⑤当時急進派アラブ諸国(シリア、イラク)はPLOやソ連も含めた関係各国全てが参加する和平方式を主張していたが、サダトは国内の経済危機打開のため、アメリカの援助及びシナイ半島返還と引き換えに突然イスラエルと個別に平和条約を結んでしまった。これに怒った急進派諸国により、エジプトはアラブ諸国から孤立し、サダトは暗殺された。

⑥エジプトとの平和条約で後門の狼がいなくなったイスラエルは、PLOの軍事拠点壊滅を図ってレバノンに侵攻した。この為弱体化したPLO主流派はチュニジアに逃れた。この時イスラエルは、キリスト教右派がパレスチナ難民を虐殺するのを黙認した為、国際的に非難された。

⑦一方でヨルダンは西岸の併合に固執し、シリアと接近して弱体化したPLOを押さえ込もうとした。またイスラエルでは和平反対派の右派リクードが政権に就いて西岸とガザでのユダヤ人入植を拡大した。

長年の占領地生活、PLOの弱体化に絶望感が深まったパレスチナ人は、ガザでイスラエル軍用車がパレスチナ人を轢き殺す事件をきっかけに民衆蜂起(インティファーダ)を起こした。

⑧弱体化したPLOに代わってパレスチナ人の心を掴んだのがハマスで、パレスチナ全土の解放とイスラム国家樹立を主張して和平論のPLO主流派と対立した。この為イスラエルはインティファーダに対して容赦ない弾圧を加え、世界の世論はパレスチナ側に傾いた。また、インティファーダを見たヨルダンは領土拡張の夢を諦め、西岸を放棄すると宣言した。

ハマスの伸長を恐れるPLOは、遂にイスラエル国家の生存権を認め、西岸、ガザにパレスチナ人国家独立を宣言し、多くの国の承認を得て完全独立に向けて前進した。

⑨しかし湾岸戦争が勃発すると、長年パレスチナ人を支持したイラクへのパレスチナ人の心情を反映してPLOはイラク支持に回った。その為アラブ産油国や欧米諸国の反発を招いて、パレスチナの独立宣言は反故にされた。

7.湾岸戦争後
①戦争後の中東地域再編をリードしたいアメリカは、中東和平会議を開いてパレスチナ問題を解決しようとしたが進展がないままに終った。

一方、湾岸戦争でスカッドミサイルの威力を見たイスラエルでは、和平推進派の労働党のラビンが政権に就いた。インティファーダを見てパレスチナ民族運動の実力を知ったラビンはイスラエル政府として初めてPLOをパレスチナ人の代表として認め、秘密交渉を行なった結果、西岸とガザでのパレスチナ人の暫定自治と、その後の和平に至る段取りを取り決めた(オスロ合意)。
しかしラビンはイスラエル極右勢力に暗殺された。

②次の首相には和平反対派リクードのネタニヤフが就いた(選挙前にパレスチナ人テロが激化したせいか?)。その為和平交渉は停止し、ユダヤ人入植地は再び拡大した。

③ワンマン振りで国民の人気がなくなったネタニヤフは選挙で敗れ、労働党のバラクが政権に就いた。和平交渉が再開されたが中々合意に至らず中断した。

④リクードの党首で中東戦争の英雄シャロンがエルサレムにあるイスラム教の聖地アル・アクサ・モスクに足を踏み入れたため、怒ったパレスチナ人が蜂起する(第二次インティファーダ)。

一方、和平交渉が再開されイスラエルの譲歩もあって合意寸前になったが、丁度行なわれた選挙でシャロンが首相になってしまい、和平交渉は決裂した。
シャロンはパレスチナ人のインティファーダに対して強硬策で臨み、入植地域も拡大した為、パレスチナ人との報復合戦の泥沼にはまり込んでしまった。

⑤アメリカのブッシュ政権はパレスチナ問題への不介入の姿勢を示していたが、同時多発テロが発生すると一転して積極策に変わった。イスラエルとパレスチナ双方に和平への取り組みを求めた。
しかしパレスチナ側はイスラエルを庇護し続けたアメリカへのテロに喝采を浴びせ、むしろテロは増加した。
それに対してシャロンも報復やアラファトの監禁、パレスチナ難民の虐殺で臨むという悪循環に陥った。更にシャロンは国内のユダヤ人優勢の人口比を維持する為、一方的に西岸とガザを分離壁で囲いこみ始めた。囲い込まれたパレスチナ自治区は経済的に封鎖された。

⑥イラク戦争に臨んでいたブッシュは、中東の安定化の為にはパレスチナ問題の解決が不可欠と考え、ロードマップと言われるイスラエル国家とパレスチナ国家の平和的共存への具体的な段取りを提案し、シャロンとパレスチナ自治政府のアッバスは受け入れた。
しかし急進派ハマスが反発してテロを激化させた為、シャロンも報復で臨み、全く実行されないまま時が過ぎた。

⑦しかし現在では、和平への難問解決に向けての取り組み(ジュネーブ合意)がなされたり、アラファト死去後に急進派が攻撃抑止を約束した事、シャロンが持ち前の押しの強さをユダヤ人入植者にも発揮しガザからの撤退を実現させた事、シャロン自身が右派リクードを抜けて中道新党カディマを作った事で、和平に向けて前進しているように思える。

ただしアッバスの力の限界から相変わらずテロが収まらない事、西岸からの撤退を実現できる唯一の政治家シャロンの入院により、今後のイスラエル、パレスチナの選挙結果次第では予断を許さない状況である。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その2

アルメニア上空の眺めです。
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なんとアララト山(5,156m)が見えました。
39 42' 05.00"N 44 18' 19.27"E
アララト山は旧約聖書のノアの箱舟が漂着した場所です。
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アダムから九代経ったが、地上には悪がはびこってしまった。神は人間を創造したことを後悔し、創造した物全てを洪水で滅ぼそうと決心した。
ただし義人ノアとその家族と、全ての動物一つがいを箱舟に入れて助ける事にした。
ノアの家族は、周りの人に嘲られながら箱舟を作りつづけた。
やがて神が降らせた雨は四十日四十夜降り続き、地上の生き物は全て滅んだ。
雨が止んだ後も水はなかなか引かず、ようやくアララト山に漂着した。
神はノアに二度と洪水で滅ぼす事はない、と約束した。

アララト山には漂着跡の船型地形や錨が発見されたと言われるが、真疑の程はわかりません。洪水については、メソポタミア地方のティグリス、ユーフラテス川の洪水を参考にしたのではと言われる。

マルコ・ポーロも東方見聞録で、”大アルメニアの中央に「ノアの箱舟山」と言われるコップ型の高山があり、誰も山頂を極めた者がいない。山麓では万年雪に潤された牧草の生育が旺盛で、夏になると多くの人が家畜を連れてやってくる。”と述べています。

旧約聖書の地に向う途中で、アララト山が見えるとはラッキーでした。進行方向に向って左側窓際の座席に座ると見えます。

トルコ上空。
遠くに高そうな独立峰があります。何という山だろうか?
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2時間後、ようやくパレスチナの海岸が見えてきました。
下に見えるのはテルアビブの海水浴場。5キロに渡って続くリゾート海岸です。
32 05' 22.84"N 34 46' 12.79"E
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イスラエルの面積は四国より一回り大きい程度。実際車で移動するとかなり狭く感じます。
人口は670万人。
公用語はヘブライ語とアラビア語。
宗教はユダヤ教80%、イスラム教15%。
首都は西エルサレムだが、各国の公館はテルアビブにある。
時差は日本の7時間遅れ。画像の時刻はイスラエル時間に合わせてあります。

アララト山が出たついでに、ここでイスラエルと関係深い旧約聖書の創世記の最初の部分についてまとめます。
旧約聖書は、「律法(トーラー)と呼ばれる祭儀と行動規範の書(=モーセ五書)と、イスラエルの興廃を中心とする歴史、および将来の救済を予告する預言書、さらにユダヤ教では諸書と呼ばれる詩や知恵文学からなる」大量の書物です。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典になっています。

そのうち創世記は一番最初の書物で律法のひとつです。著者はモーセと言われています。

1. 天地創造(神が七日で創った)
2. アダムとイブ、失楽園
3. カインとアベル(アダムとイブの長子カインが弟アベルを殺す話)
4. ノアの箱舟
5. バベルの塔(ノアから更に時が経ち、ニムロデ王が神に挑戦してバベルの塔を造ったので、神が怒って人々の言語を分けて分裂させた話)

以上が創世記の最初の部分で、ここから先はカナンの地(パレスチナ)入植以降の話が続く。
また後でまとめたいと思います。

創世記の前半部分はジョン・ヒューストン監督の大作映画「天地創造」が解りやすいです。大味ですが映像は迫力あります。

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イスラエル旅行・テルアビブ=ヤッフォ~その1

12/28~1/4に旅行会社のツアーにてイスラエルに行きました。
コースはテルアビブ~ヤッフォ~カイザリア~アッコー~ガリラヤ湖~ゴラン高原~ナザレ~死海~エルサレム~ベツレヘム~テルアビブです。

今までと同様、マルコポーロゆかりの地を訪ねるというのが一番の訪問理由です(1270年末にヴェネツィアを発ったポーロ一行は1271年に十字軍最後の根拠地アッコーに到着、エルサレムを往復して同年冬に中国に向け出発しました)。
それ以外にも、3つの宗教の聖地で世界史的に重要な場所である事にも大いに惹かれました。

以前から行きたいと思っていましたが、治安が悪くてツアーを催行する旅行会社がありませんでした。しかし2004年10月にパレスチナ自治政府のアラファト議長が亡くなると、過激派組織が2005年内にイスラエルへの攻撃を控える事を約束、イスラエルは軍と植民者をガザから撤退させるなど、和平ムードのもと治安がだいぶ改善されました。これに伴い、国内の旅行会社数社がツアーを再開しました。

12/28現在、外務省が発表する危険情報では、イスラエルの危険度はインドやフィリピンと同程度になっています。現地の事情に通じたガイドが終日付添って、身勝手な行動をせずに周囲の状況に気を配れば、十分安全な旅行が楽しめると判断しました。

前回のイタリア旅行からわずか3ヶ月後の旅行で、本当はもっと間をあけて旅行したかったのですが、イスラエルの政情は不安定でこの先治安が悪化するとも限らず、思い切って行く事にしました。

12月28日。

画像は正月ムードの成田空港。
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日が変わって12月29日。
ウズベキスタン航空にて途中関西空港で客を拾い、ウズベキスタン共和国の首都タシケントに向います。

現在日本からイスラエルへの直行便はありません。イスラエル政府は直行便への搭乗時に武装したイスラエル兵によるチェックを要求します。日本政府は成田空港にイスラエル兵を常駐させる訳にいかないので、直行便がないそうです。


画像はタシケント空港41 15' 28.54"N 69 16' 31.14"E 。
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日本と同様寒いです。今冬初めて雪を見ました。
空港では乗り継ぎ便の搭乗まで簡素なロビーで待ちます。免税店が1軒あり、タバコ、酒、化粧品、お菓子、ウズベキスタン人形、焼き物の食器、織物を売っています。
他にバーのカウンターが1つ。

チェックイン時には靴も調べられます。

日本からイスラエルに向うルートとしては、ヨーロッパ経由で行くかタシケント経由で行くのが一般的だそうですが、ヨーロッパ経由だとそれぞれの距離の長短の関係から日本からヨーロッパまでは大型機、ヨーロッパからイスラエルまでは中型機になり、大人数だと後者の予約が取りづらいそうです。

日本からタシケントまでは約8時間、タシケントからイスラエルまでは約5時間なので、それぞれ同規模の航空機の運行になります。
乗り継ぎの待ち時間等々を含めると到着するまで18時間近くかかります。


途中、カスピ海 (40 29' 54.86"N 51 25' 42.19"E) の上を横断します。画像はカスピ海の東岸に差し掛かったところ。
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こちらの画像はカスピ海の西岸に差し掛かったところ。バクー油田らしきものが見えました。
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横断に要した時間は25分でした。地球は狭いです。
この後、イラクを迂回してトルコ方面に向います。


凍てついた見慣れない風景が続きます。異星を眺めているような気分です。アルメニア共和国のセヴァン湖だろうか?40 16' 00.94"N 45 38' 32.43"E
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さてイスラエルに着く前にパレスチナ地方の歴史をまとめる事にしました。
パレスチナ地方には様々な民族、文化、宗教の史跡が混在しており、整理しないと混乱します。

「イスラエル」と言うのはユダヤ人の祖であるヤコブの別名なので、一般の書籍でイスラエル史というとユダヤ人の歴史を指すようです。ユダヤ人は世界各地に離散したので、今のイスラエル国がある場所にずっとまとまって暮らしていた訳ではありません。
(旧約聖書によると、アブラハムの孫であるヤコブは兄エサウとの和解の旅の途中、東ヨルダンのヤボク川で神と格闘し勝った。この時神からイシャラー(勝者)エル(神)、つまり神の勝者という名をもらった。)

現在イスラエルとパレスチナ自治政府がある地域は、地理的な区分けではシリア南部、またはパレスチナ地方と呼ばれます。パレスチナという名前は、紀元前13世紀にギリシャから「海の民」の一部としてシリア南部に上陸したペリシテ人に由来しています。最新鋭の鉄器を使うペリシテ人は、長い間イスラエル人のライバルでした。

1. 石器時代(紀元前11000年~紀元前30世紀)
ナトゥーフ期と呼ばれる定時狩猟採集段階から、穀物栽培と家畜飼育の新石器時代に移行。イェリコ(後述)などで塔や周壁を備えた大集落ができる。やがて土器の製作が始まる。

2. 古代オリエント時代(紀元前30世紀~紀元前4世紀)
青銅器時代に入り、生産力の増大に伴って大小多くの都市が生まれる。比較的肥沃なパレスチナにはアムル人、カナーン人、ペリシテ人、イスラエル人が陸続と移住した。
またエジプト文明とメソポタミア文明の中間地点に当る事から両者の衝突の場になった。数千年に渡りヒッタイト、アッシリア、新バビロニアがエジプト諸王朝と支配権をめぐってたびたび争っていたが、たまたま両者が弱体化すると小王朝が分立した。

中でもイスラエル人はダビデ王、ソロモン王の頃首都をエルサレムに置きシリア南部とパレスチナを領有したが(イスラエル王国)、ソロモン王の死後北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、エジプトとメソポタミアの力が復活すると両国とも滅ぼされた(この時北イスラエルが先に滅亡して構成していた部族が消滅した為、残った南ユダの部族がユダヤ人として後世に残った)。

最終的に他民族支配に寛容なアケメネス朝ペルシャに支配された。

ユダヤ教(後述)が完成したのはこの時期。
旧約聖書(後述)はパレスチナへの移住からローマ支配の直前までのイスラエル人、ユダヤ人の歴史等を記述したもの。

3. ヘレニズム時代(紀元前4世紀~6世紀)
マケドニアのアレキサンダー大王がアケメネス朝を倒して支配下に置き、ギリシャ・ヘレニズム文化が伝わった。その後継者であるセレウコス朝シリアがユダヤ人にギリシャの神を強要した事から反乱が起き、結局ユダヤ人は独立する事に成功した(ハスモン朝)。

しかしポンペイウスのローマ軍がセレウコス朝もろともハスモン朝を滅ぼし、ローマの支配下に入った。
ローマに取り入っていたイドマヤ人のヘロデはパレスチナの支配を任されたが(ヘロデ王国)、その死後しばらくして再びローマの支配下に入った。キリストが活動したのはこの頃である。

ヘロデ家とローマの支配の間、抑圧され続けたユダヤ人は、ユダヤ総督がユダヤ神殿を略奪した事で反乱を起したがローマの将軍ティトスによって鎮圧された。その後再び反乱を起こしたが五賢帝ハドリアヌスにより徹底的に破壊され、ユダヤ人はエルサレムから追放、世界各地に離散(ディアスポラ)した。
エルサレムはローマ風に作り変えられ、キリスト教が公認されると聖地として整備された。

ローマ帝国分裂後は、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国の攻防の地になった。

4. イスラム帝国と十字軍の時代(7世紀~15世紀)
7世紀にムハンマド(マホメット)が創始したイスラム教の大征服の波がパレスチナに押し寄せ、10世紀までアラブ系イスラム帝国の支配下に入った(正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝)。イスラム帝国は他宗教に寛容で、多くのキリスト教巡礼者も訪れたパレスチナは平和な日々が続いた。

9世紀以降、他地域から流入したりマムルーク(奴隷)としてカリフ(イスラム教における神の使いの代理人、政治的最高権力者)に購入されたトルコ、イラン、モンゴル系の軍人がイスラム帝国の政治に介在または各地で独立しはじめ、11世紀にはトルコ系のセルジューク朝がパレスチナを支配した。

しかしセルジューク朝に攻撃されたビザンツ帝国がローマ教皇に助けを求めた為、11世紀末~13世紀に西欧から十字軍(後述)が聖地奪還を目指してパレスチナに侵攻、占拠した。
やがて態勢を立て直したイスラム勢力(ザンギー朝、アイユーブ朝)はジハード(聖戦)を唱えて反撃、マムルーク朝の時完全に奪還した。

マムルーク朝は16世紀にトルコ系のオスマン帝国に滅ぼされた。

5. オスマン=トルコ帝国の支配(16世紀~20世紀)
広大なオスマン帝国の中で、パレスチナはダマスカス州総督が支配する帝国直轄領の1地方に過ぎなくなった。オスマン帝国は地元の名家を活用した支配を行なった。

17世紀末からフランスとの綿花の交易が活発化したアッコーは、18世紀半ばにはシリア最重要の港になった。交易独占で巨利を得たシリア・パレスチナの地域勢力は、一層保護主義的な経済体制の確立を目指し、ヨーロッパ列強の力を利用してオスマン帝国からの自立を図った。その為オスマン帝国のシリア・パレスチナ支配が揺らぎ始めた。

18世紀末には、ナポレオンがアッコーに侵攻したが失敗した。

19世紀には、エジプト総督ムハンマド・アリーが一時期シリア・パレスチナを支配してオスマン帝国に取って代わる勢いを見せたが、大幅な政治勢力の変動を望まないヨーロッパ列強の干渉で挫折した。しかしエジプトは実質的にアリーの支配下になりオスマン帝国から切り離された。

これ以降、ヨーロッパ列強はキリスト教徒保護を名目にエルサレムに進出し、オスマン帝国の弱体化を図った。
結局第一次大戦での敗北により、オスマン帝国のパレスチナ支配は終った。

6.近現代(19世紀以降)
近現代はパレスチナ問題(後述)に尽きる。
19世紀から迫害を逃れたユダヤ人がパレスチナに入植を開始。
第一次大戦後、国際連盟の要請という形でイギリスの委任統治領になった。
パレスチナの領有をめぐるユダヤ人とアラブ人の対立の中、第二次大戦が発生。

大戦後、イギリスの撤収を待ってユダヤ人がパレスチナの一部を占領、イスラエルを建国。
反発したアラブ諸国との間に中東戦争が勃発する。しかしアラブ諸国は敗走を重ね、4次に渡る戦争でパレスチナのアラブ人(パレスチナ人)は追放され難民化、イスラエルはアメリカの庇護の下、全パレスチナを占領する。

パレスチナ人が民族運動によってパレスチナ地域に独立国家樹立を目指しているのが、今の状況です。

以降少しずつUPする予定です。
参考文献は旅行日記の最後に挙げます。
移動中の車窓から撮った写真が多く、見苦しい物もありますがご了承ください。
画像の中には、私が記述している場所かどうか確信が持てないものがあります。
ほとんど確信が無い物は「XXXか?」。
少し確信が無い物は「XXXと思われる」。
というように表現します。

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