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イタリア旅行・フィレンツェ~その3

【ヴェッキオ橋】
橋の真中まで来ると、ようやく川が見える。
で、その景色がまた良い。
画像は西側のサンタ・トリニタ橋方面を見たところ。
Fi1914123_0e
夕景で有名らしいが、昼間見ても一瞬時間が止まったかのような軽い衝撃があった(画像より実物のほうがいいです)。
真中に来るまで景色を見せないと言うのは、やはり演出だろうか?

東側のグラツィエ橋方面。
Fi1914123_1e
西側の眺めよりは落ちますね。
右手に見えるのはミケランジェロの丘。

ヴェッキオ宮殿。
Fi1914123_2e
フィレンツェ共和国政庁舎で、サンタ・マリア・デル・フィオーレと同様フィレンツェが有数の都市国家になった1299年に建設が開始された。

映画「ハンニバル」でレクター博士がパッツィ刑事を殺害した現場。
43 46' 10.13"N 11 15' 19.76"E
Fi1914123_3e
劇中、日本人観光ツアー客の声が聞こえたがあんなに遅い時間にツアーをやっているんだろうか?
メディチ家治下の1478年、有能なロレンツォ・デ・メディチを恐れた反対派のパッツィ家は反乱を起こすが市民に阻止されて失敗する。
反対派は捕らえられてヴェッキオ宮殿の窓から縛り首にされた。
反乱の黒幕は、メディチ家に敵対するローヴェレ家出身の教皇シクストゥス4世と言われる。
ヴェッキオ宮殿の建つシニョリーア広場には、メディチ家追放後に統治したサヴォナローラの火刑跡もあるが、カメラフィルムを買っていて見る時間がなくなってしまった。




歴史を知っていた方が観光もより味わい深いと言う事で、フィレンツェの歴史をまとめてみる事にした。大雑把な流れはフィレンツェ以外の都市にも共通している。
とにかく目まぐるしく情勢が変わって、面白いのだが訳がわからなくなる。
13世紀は前述の通りなので、14世紀から。

1330年代まで繁栄の時期が続く。
1340年~:イングランド王エドワード3世に金を貸していたフィレンツェの代表的商社が、その支払停止により金を回収できなくなる。またエドワードの軍備調達業務を請け負った為に敵対するフランス王フィリップ6世が国内のフィレンツェ人の商品を差し押さえる。
これらによりフィレンツェの商社が次々と破産、追い討ちをかけるように黒死病が伝染する。イタリアを不況が覆い一般民衆の不満が増大。危機感を抱いた支配層は権力を1人のリーダーに集中させてより強力な支配を行なわせるようになった。シニョリーア制と言われる。
破産した旧来の商人に代わって、新興商人が力を持ち始める。

1370年~:アヴィニョンの教皇庁がローマへの復帰を図ってローマ近辺の領主を征服し始める。フィレンツェ近辺にも及んできた為、新興商人は教皇庁の徴税業務等で潤ってきた旧勢力を攻撃し、遂に教皇庁に対して戦争を起こす。
この戦争でのフィレンツェの敗北とその後の一連の内紛の結果、再び旧勢力が実権を握りより権力を集中させるようになった。

1390年~:ヴィスコンティ家治下のミラノが急速に勢力を拡大しその支配がフィレンツェ近辺に及んだ為、フィレンツェとミラノは対立する。やがて劣勢になったフィレンツェはミラノに大敗した。
一方オスマン・トルコの圧迫でイタリア内陸部に勢力を拡大しようとしたヴェネツィアは、ミラノの拡大を見てフィレンツェと同盟する。

1430年~:権力争いの結果、大商人コージモ・デ・メディチがフィレンツェの支配者になる。軍事力を持たないメディチ家は直接統治できないので共和国の選挙に介入して支配した。
ギリシア古典研究サークルのメンバーだったコージモは学者や芸術家を支援し、やがて上層市民は「学芸愛護」を競うようになった。フィレンツェがルネサンスの中心地になった理由。

1454年~:オスマン・トルコによるビザンツ帝国の滅亡により、脅威にさらされたヴェネツィアとミラノは戦いを止め和解する。更にフィレンツェ、教皇庁、ナポリ王国が加わって25年間のイタリア同盟を結ぶ。しばらく平和が続く。この時フランチェスコ・スフォルツァがミラノの実権を握った。

1469年~:コージモが死去してしばらく後、孫のロレンツォが跡を継ぐ。彼は優れた外交能力でイタリア5大勢力の均衡を保ち、平和と安定を維持した。これによりルネサンス文化がイタリア全土に広がった。
「学芸愛護」の家庭で育ったロレンツォは学者や芸術家への支援を惜しまず、ルネサンスの最盛期をもたらした。

1492年~:ロレンツォの死と、教皇アレクサンデル6世とその子チェーザレ・ボルジアによる教皇領拡大の野心により5大勢力の均衡が崩れる。
間もなくトルコ征服を夢想したフランス王シャルル8世がイタリア遠征を開始し、いともあっけなくフィレンツェ、教皇庁、ナポリ王国に進撃してしまう。当時フランスやスペインは強力な集権的国家になっており、イタリア諸国にこれを止める力はなかった。
教皇庁、神聖ローマ帝国、スペイン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を締結してフランスに対抗すると、ようやくシャルル8世は撤退した。この遠征により脆弱なイタリアが露見して、以降イタリアは周辺の列強の抗争の場になる。

遠征の際、ロレンツォの跡を継いだピエーロは進んでフランスの軍門に降った為、弱腰を避難されてメディチ家はフィレンツェから追放され、共和制に戻る。ルネサンス末期の神秘主義の風潮の下、ロレンツォの生前からメディチ家による専制支配を糾弾していたサン・マルコ修道院長のサヴォナローラが神政を開始し、禁欲的な政治を行なう。しかし教皇の堕落を批判した為に破門され、反対派が力を得て火刑に処せられる。

1499年~:シャルル8世の後フランス王になったルイ12世がイタリア遠征を企てる。標的をミラノに絞り、領土の分割等を条件に巧みにヴェネツィアやチェーザレ・ボルジアと同盟して攻略した。ミラノのルドヴィコ・イル・モーロはフランスに捕らえられた。
更にスペインとナポリ王国の分割協定を結んだルイ12世はナポリ王国を占領したが、分割方法でもめたスペインに攻められ最終的にナポリ王国はスペインの支配下に置かれた。
たちまちイタリア5大勢力のうち2つが消滅した。
一方、チェーザレ・ボルジアとメディチ家の脅威にさらされたフィレンツェはフランスの保護に頼っていた。チェーザレ・ボルジア失脚後の教皇ユリウス2世はフェッラーラを狙ってヴェネツィア、スペインと同盟し、フェッラーラを支援するフランスと対立した。

1512年~:ラヴェンナで教皇とフランスが決戦し教皇側が勝った。フランスはイタリアから総退却し、フランス側のフィレンツェはスペインの攻撃で共和制が崩壊し、メディチ家が復権した。その後メディチ家から教皇が出るとフィレンツェと教皇の結び付きは強固になった。

1519年~:スペインのカルロス1世がカール5世として神聖ローマ帝国を後継した。元々の神聖ローマ帝国とフランスの対立と、イタリアを巡るスペインとフランスの利害がカール5世(カルロス1世)対フランスのフランソワ1世という形に集約され、ネーデルランドやイタリアで戦争が勃発し1559年まで続いた(イタリア戦争)。
カール5世は圧倒的に優勢で、フランスを打ち負かした。カール5世の拡大を恐れた教皇クレメンス7世はミラノ、ヴェネツィア、フランスと同盟して対抗したが再び打ち負かされ、ローマは蹂躙された。これを聞いたフィレンツェ市民は教皇側のメディチ家を追放し、共和制に戻した。しかし1529年にカール5世とイタリア諸君主を集めた和約によりイタリアでのカール5世の支配が確定すると、スペインはフィレンツェを占領して再びメディチ家を支配者に据えた。
フランソワ1世はオスマン・トルコと同盟して三たびカール5世に戦いを挑んだが、戦況は思うように進まず結局和解した。

1555年~:フランソワ1世の後のアンリ2世がフィレンツェ近郊のシエナのスペインへの反乱を支援すると、フィレンツェはスペイン側に立って勝利し、カール5世の後のスペイン王フェリペ2世によりシエナの領有を認められた。

1559年、アンリ2世とフェリペ2世は和約しイタリア戦争が終った。フランスは宗教紛争により内政に専念しなければならなくなり、イタリアにおけるスペインの支配が確定した。

1569年、メディチ家はトスカーナ大公の称号を与えられたが、相変わらずスペインの強い影響から逃れる事は出来ず、国家活動は沈滞した。

1571年、スペインの無敵艦隊がレパントの海戦でオスマン・トルコを破り、トルコの脅威は減退したがスペインの支配は強力になり、特に南イタリアにおいて過酷な支配を行なった。

17世紀:フェリペ2世の死と30年戦争によってハプスブルク家(スペイン、オーストリア)の力が弱まり、ブルボン家(フランス)との力が均衡する。これにより再びイタリアは両家の抗争に巻き込まれる。

18世紀:スペイン継承戦争、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争の間、イタリアは両家の抗争の場になり、度々支配者が入れ替わった。トスカーナ大公国はポーランド継承戦争の時にオーストリアの影響下に置かれ、メディチ家断絶後はオーストリア皇女マリア・テレジアの夫ロートリンゲン公フランツ・シュテファンが領有し、当時のイタリア諸国の中では際立って近代的な政治が行なわれた(公平な税制、裁判。拷問・死刑、宗教裁判の廃止。自由小農民の育成など)。
イタリアではこのような啓蒙主義的改革は外国人支配者によって行なわれたが、保守的な意識から抜け出せない民衆に受け入れられず、改革は後退した。
一方知識層の中には啓蒙思想の影響を受けて、イタリア諸国の時代遅れな専制政治や外国人支配を変える必要を感じ始めた人々がいて、後のイタリア統一運動へと繋がっていった。しかしこの時点では抑圧され無気力になった民衆を動かす力にはならなかった。
(以下中断)

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