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イタリア旅行・ピサ~その1

9月11日。
ピサの半日観光(オプション)に向う。フィレンツェ駅前に集合なのだが、宿泊しているホテル43 45' 58.75"N 11 17' 03.16"Eが駅から遠いので、路線バスに乗る。バス停は住宅地にあり、辺りは日曜の朝なのでひっそりと静かだ。日曜日は安息日なので朝に騒ぐのはご法度だとの事。
フィレンツェ駅前からピサまで、トスカーナ地方名産のイトスギ林や水道橋を眺めながら高速道路を一時間半位。駐車場に着くとヨーロッパ中から何十台も観光バスが乗り付けていて、ピサの知名度の高さに感動する。
ここから連絡バスでドゥオーモ広場へ(画像43 43' 45.04"N 10 23' 23.77"E)。
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ドゥオーモ広場に着いた。瞼に飛び込んできたのは、青い空と緑の芝生を背景に聳える白い3つの建物(画像43 43' 22.05"N 10 23' 34.06"E)。
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清らかで爽やかな印象に思わず「素晴らしい」。巨大な宝箱を見ているようだ。
今回ピサに来たのは、有名なピサの斜塔を見たい!というよりも「東方見聞録」の共著者、ルスティケロの故郷を見たかったからだ。

1296年、マルコ・ポーロは何らかの理由で交戦中のジェノヴァ軍に捕まり、ジェノヴァのパラッツオ・サン・ジョルジオの牢に繋がれた。
(注:以下は断定調で書いていますが、必ずしも史実として証明されている訳ではありません。)
牢内では暇を持て余す囚人が大勢いて、彼らはマルコ・ポーロの口から止め処なく語られる聞いたことも無いような国々の話に夢中になった。やがて噂は市内にも広がり、ジェノヴァの高貴な人間さえ聞きに訪れるようになった。
マルコ・ポーロは、彼らに何度も同じ話をするのにうんざりしてきた。そこで話を本にまとめる事にした。マルコは人気者になっていたので、囚人としてはかなりの自由を享受できた。そこで旅行中のメモをヴェネツィアの自宅から取り寄せたり、本を著述する事も許された。

丁度牢獄にピサのルスティケロという作家がいた。マルコは彼に著述を頼む事にした。ルスティケロはフランス語の読み書きが出来たので、より好都合だった。なぜなら方言の多いイタリア語よりもフランス語の方が万人に受け入れられると考えたからだった。
ルスティケロの一生については定かではないが、パリの国立図書館に、彼が書いたアーサー王伝説の写本があるそうだ。騎士道物語作家だったらしい。彼が過ごした時期のピサは、繁栄の最後の一瞬だった。ドゥオーモと洗礼堂は完成していて、鐘楼は傾きつつも四層目まで作られて放置されていた。アルノ川が弧を描いて流れる市内には、おびただしい塔が林立していた。

彼がジェノヴァの牢獄にいた理由は、ピサを覇権争いから脱落させたメロリアの海戦(1284年)に参加していたからだった。双方200隻のガレー船が戦ったこの戦いで、ピサはジェノヴァに叩きのめされ40隻のガレー船と1万5千の捕虜が連行された。この為「“ピサを見たければジェノヴァに行け”という格言が生まれ・・・市内には、何らかの悲しみを抱えていない家は一軒としてなくなっていた。」(ピサ年代記)
ジェノヴァの牢獄では、毎日30人の捕虜が死亡して海に捨てられたという。
1290年にはジェノヴァ軍がピサの港、ポルト・ピサノを破壊し、ピサの命運は決まった。

さて、「東方見聞録」の著述は1296年から始められた。ルスティケロはマルコの話すばらばらな話を順序立て、章と章、段落と段落の間がスムーズに移行するように工夫し、全体として調和が取れるようにするという編集者の役割を果たした。更にそれをフランス語に翻訳した。とは言え「東方見聞録」は冗長で少々退屈な読み物だと感じる。これが当時の物語の特徴なのか、ルスティケロの能力の限界による物なのかはわからない。
途中1298年のクルゾラ沖の海戦により多数のヴェネツィア人捕虜が収容され、牢獄はごったがえした。病気や飢えが蔓延し、多数の死者が出た。これらの脅威と戦いながら、「東方見聞録」は1298年に完成した。
翌年1299年には講和条約によりヴェネツィア人とピサ人は開放されたので、ぎりぎりの完成だった。ルスティケロという協力者がいなかったら「東方見聞録」は完成せず、マルコ・ポーロも歴史に名を留める事はなかっただろう。解放後のルスティケロの消息はわからない。

その後、「東方見聞録」は僧侶や学者の要望で様々な言語の写本が作成され、その種類は100以上に及んだ。最初はマルコ・ポーロの想像の産物と思われていたその内容は、15世紀から徐々に真実である事がわかりだした。初期の世界地図に書き込まれた地名は、「東方見聞録」の内容から転記された。
ルスティケロが「東方見聞録」の著作を引き受けた理由はわからないが、恐らくいつ死ぬかもしれない牢獄の中で自分の作品を残したかったのだろう。もしそうならその願いは十分に果たされた。

ドゥオーモ。
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1063年に建設が開始され1118年に完成した。
パレルモ沖の海戦でイスラム勢力に勝利した事を記念して作成されたと言われる。
今日は日曜日なのでミサを行なっており、内部の撮影はできなかった。

何度見ても均整のとれた美しい建物だ。
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クーポラは先がとがっていて、イスラム寺院の様式が使われているそうだ。
鐘楼がドゥオーモの陰からこちらを覗き込んでいるようでユーモラス。
これらの建物が建つ前は、ハドリアヌス帝の宮殿があったと言う。

ドゥオーモの周りで盆踊りの練習。
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ではなくて、鐘楼を手で支える図を撮影してるのだ。
日本人、中国人、アメリカ人、ドイツ人、フランス人・・・
世界中の人が同じポーズを取って楽しんでいるのを見ると、しみじみと平和を感じます。

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