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2005年9月

イタリア旅行・その他印象に残った事

Fi1957460_0e トイレ。
今回の旅で一番インパクトが強かったのがビデ。用を足した後、ビデにまたがり直して足を踏ん張って股間を洗う、というのはどう考えても面倒だ。結局使わなかった。
ビデとは知らずに買ってきた野菜を洗ったり服を洗濯する人もいたとか。

エレベーター。
イタリアのエレベーターは「閉める」ボタンがない。勝手に閉まるのをじっと待つ。でもたとえ急いでいる時でも無ければ無いで諦めがつく。

パン。
ホテルの朝食は全てバイキングだったが、パンが菓子パンばかりで参った。朝っぱらからアップルパイ。一説によると、イタリア料理には糖分が少ないのでその分パンを甘くしているとか。




Fi1957460_1e イタリア人。
男性は年齢を問わず見栄えがする。背は低いのだが胸板が厚く、ジャケット姿がバッチリ決まる体型である。それに気さくで性格も明るい。しかし添乗員によると、恋人にはいいのだが夫としては?堅実さが足りないそうだ。まあ性格は人それぞれだと思います。
女性は気が強そうで無愛想。私が男前なら態度は違ったかも知れないが。添乗員によるとイタリアは女尊男卑の国だそうだ。でも態度はつっけんどんでも、意外と親切。ティボリで帰りのバスのチケットを買おうとして近くのバールに入ったのだが、女主人は私の持っているチケットが一日乗り放題のチケットとわかると、知らなかった私に辛抱強く説明してくれた。慌てていてお礼もそこそこに立ち去ったが、本当にありがとう。

交通事情。
信号無視は当り前。信号の「青」の時間が極端に短いのは、信号機が歩行者の安全を守る設備ではない事を意味している。なので歩行者は信号に従わずにそれぞれ勝手にドライバーと意思確認しながら横断歩道を渡っているように見える。あくまで人間同士のコミュニケーション。私もイタリアの流儀に従って信号無視していたが、ある時、渡りきった目の前に警官が立っていて焦った。でも無視された。
それから交通事故が多い。8日間で3回衝突事故に遭遇した。

スリ。
何回も注意するように言われたが、実際今回のツアー客も2回危うい目にあった。一回は両側からいきなり手を掴まれたそうで、もう一回はポケットに手を突っ込まれた。

現地ガイド。
行く先々で現地ガイドが付いていて、しかも頻繁に変わっていた。中には特に観光案内するでもなく、何のためにいるんだ、という人もいたが。イタリアでは雇用対策のため必ず現地ガイドを付けなくてはいけないらしい。
以前ある旅行社に、イタリアで日本語ガイドを付けたら幾らかかるのか聞いたら、9時間で39000円との事(H17.2月のヴェネツィアで)であった。
団体ツアーだと割安感があるが、サービスは充実させて欲しいものだ。




Fi1957460_2e 土産物。
観光地の屋台で売っている物は、置物のコロッセオやスカーフ、ポストカードなどありきたりでつまらない物ばかり。
美術館、博物館、寺院の中にはそこでしか売っていない物があり、希少性を求めるならいいかなと思った。
またスーパーで売っている物は安く品数が多いので、じっくり見ると日用品で面白い物が見つかったかも。お菓子も安いので大量に買う場合は助かる。ちなみにファンタ0.5㍑はホテル近くの屋台で3ユーロもしますが、スーパーでは1ユーロもしません。

帰国してからクセになった事。
海外から帰国すると変なクセを身につけてくるのだが、今回は信号無視と車内での過剰なまでのスリ警戒。未だにカバンの状態を頻繁にチェックしている。

今回はもともとヴェネツィア以外は眼中になかったのだが、今考えるとローマは良い!見所が多くて市内散策をすると宝探しをしている気分だ。1週間は滞在したい都市である。
今までこの旅行記を僅かでも見てくださった方々、ありがとうございました。





参考にした資料。
・書籍
イタリア史 森田鉄郎編 山川出版社
ローマ 弓削達 文芸春秋
地球の歩き方・ローマ2000~2001 ダイヤモンド社
同2003~2004版
地球の歩き方・イタリア2005~2006 ダイヤモンド社
ローマ古代散歩 小森谷慶子・賢二 新潮社
ヴェネツィアの冒険家 H・H・ハート 新評論
ヴェネツィア(上・下) C・ヒバート 原書房
・ネット
ウィキペディア
http://www.welcometoscana.com/indexjp.html
http://veneziancafe.hp.infoseek.co.jp/tour.html
http://hkmd.hp.infoseek.co.jp/htm/roma/
http://art.pro.tok2.com/index.html

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イタリア旅行・ティボリ~その3

Fi1957439_0e_2 「ネプチューンの噴水」を近くから見る。
大きいだけあってこの噴水の辺りだけ水音がうるさいです。
そういえばこの辺を歩いていた時に、かすかに単調な音楽が流れていた。
庭園内に音楽を奏でる場所なんてないはずなんですが。
まさか、「オルガンの噴水」復活!なんて事はないですよね?



ネプチューンの噴水の上から庭園を眺める。
41 57' 50.03"N 12 47' 46.06"E
Fi1957439_1e
この庭園の中、実はベンチが全くない。
休むとしたら、画像の池の縁に腰掛けるしかないですね。
うとうとして池に落ちないよう注意。


Fi1957439_2e こんもりした苔のばけものみたいですが、これも噴水。
41 57' 48.03"N 12 47' 40.27"E
てっぺんと内側に水が噴き出ています。
彫刻が入った石室だと思いますが、苔に覆われて何が何だかわからなくなっています。




小さな噴水も至る所にあります。
水音がちょろちょろと小川のせせらぎのようで、眠気を誘います。
Fi1957439_3e
しかし良くこんなもの造ったなあ。相当金がかかったろう。
それに冬場は寒いだけだぞ、こんな風景。
でもたぶん避暑別荘だから夏しか使わなかったんだろう。もったいない。

別荘の建物から一番遠いところ。
41 57' 50.64"N 12 47' 41.11"E
Fi1957439_4e
この奥まった場所にも噴水があります。
撮影している私の、左右両側にあります。
遊歩道を歩いていると、水音が近づいては遠ざかり、また別の場所から誘うように流れてきます。水音のシンフォニーを聞いているだけでも楽しいです。

さて、観光時間もタイムリミットになりました。
帰りはA24経由のローマ行きバスで、40分足らずでローマに着きました。
その後市内でおみやげを買って無事帰路につきました。

旅行中、話し相手になってくれたツアー客の方々、添乗員さん、親切にして下さったイタリア人の方々に感謝します。

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イタリア旅行・ティボリ~その2

楕円の噴水の上から広場を眺める。
Fi1957406_0e
案内板を見ると、一見わからない場所にも噴水がある。
楕円の噴水の上は「ペガサスの噴水」だったかな・・・?
忘れてしまった。

楕円の噴水から一段下に降りて、真ん中辺まで歩いていくと「ドラゴンの噴水」がある。
41 57' 46.94"N 12 47' 44.62"E
Fi1957406_1e
他の噴水は古代の彫刻をモチーフにしているようだが、この噴水だけは雰囲気が違う。
背景は別荘の建物とテラス。

ドラゴンの噴水から真横に歩いた突き当たりに「ふくろうの噴水」がある。
41 57' 45.60"N 12 47' 41.18"E
Fi1957406_2e
これは面白い!
祠の中のふくろうや小鳥や何かを捧げている女性の人形が水力で右に左に動くのだ。
水の音が小鳥のさえずりのようにピーヒョロロと鳴っていて、見ているとほのぼのとしてくる。
見ていると、ある程度水が溜まったら動く仕掛けのようである。


ふくろうの噴水から更に下がった所にあるテラスから、ローマの方向(南西)を眺めたところ。
41 57' 46.83"N 12 47' 39.90"E
Fi1957406_3e
ここに立った時ちょうど正午になったのですが、いきなり四方八方から教会の鐘の音が聞こえてきて、何とも言えない福福しい気分になりました。
本当に鐘の音に包まれた、という感じです。それに教会が至る所にあるんだなあと実感しました。もしかしたらローマの教会の音も混ざっていたかな。
ここから見る景色はのどかです。古代からの別荘地なので、よく見ると遺跡もあるようです。


Fi1957406_4e テラスから四角い池の縁をまっすぐ歩いて行くと、突き当たりに「ネプチューンの噴水」がある。
41 57' 48.47"N 12 47' 43.06"E
園内で一番大きな噴水で、水しぶきも豪快、涼味満点です。
上にあるのはたぶん「オルガンの噴水」。昔は水力でオルガンの音色を奏でていたそうです。

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イタリア旅行・ティボリ~その1

9月14日。
テルミニ駅近くのタバキでティボリ行きの切符を買う。たまにはイタリア語で買い物しようとガイドブックに書いてある買い物の時の文例をそのまま話したら、答えがイタリア語で返って来て意味がさっぱりわからなくて困った。
こういう時は無理せずに、イタリア語はわからん、という態度を露骨に示した方が、相手もそれなりの受け答えをしてくれるのでコミュニケーションがスムースに行くようだ。

地下鉄B線のポンテ・マンモーロ駅で降りて、そこからティボリ行きのバスに乗る。バス待ちの行列がきっちりあるわけでなく、乗客はバス停の周りになんとなく佇んでいた。う~ん、何だか日本とは勝手が違うぞ。

出発。バスに乗って外を眺めていると、ヴィラ・アドリアーナという文字が目に飛び込んで来た。あれ、ヴィラ・アドリアーナってこんな解りやすい所にあったのか!ここも見学すればよかったと悔しがる。ヴィラ・アドリアーナはハドリアヌス帝の別荘で世界遺産。

しばらくすると綺麗な赤茶の建物が立ち並ぶ風光明媚なティボリの丘が見えた。なる程昔から別荘地だったと言うのもうなずける。ガイドブックによるとローマから1時間程で目的の停留所ペヌリティマーテに着く筈だが、イタリアのバスは次に止まる停留所の名前を言ってくれない。これではどこで降りれば良いのかさっぱりわからない。
隣の女の子にここはペヌリティマーテか?と停留所を指差して身振りで質問したらここはフェルマータだ、との答え。フェルマータって何だ?ローマに帰ってから添乗員に聞いたら「停留所」という意味だった。そりゃそうだ。

結局降りる場所がわからないので、終点で降りた。ペヌリティマーテは終点のひとつ手前なので、何とかなると思ったのだ。
降りると、同じバスに乗っていたじいさんが、「おまえヴィラ・デステに行くんだろ?ちょっとここで待ってろ(イタリア語で)」。と言うので待っていたら、Uターンして来た先程のバスに乗れと言い、運転手に「こいつをヴィラ・デステまで乗せてやってくれ」と言ってくれた。私の中で、イタリア人の株が大いに上がったのは言うまでもない。

Fi1957367_0e さてペヌリティマーテで降りて土産物屋が集まる坂道を降り、ヴィラ・デステの入口に着いた(画像 41 57' 44.47"N 12 47' 49.16"E )。
ヴィラ・デステは16世紀に造られた貴族の別荘で、古典的な噴水庭園で有名。
造ったのはイッポーリト・デステ(イッポーリト・デ・エステ)で、父はエステ家の当主でフェッラーラ公のアルフォンソ1世、母はチェーザレ・ボルジアの妹ルクレツィア・ボルジアという超名門の家柄。
フランス王フランソワ1世の推薦で枢機卿になり、後に教皇領のティボリ総督になった。
教皇の座を狙っていたらしいが、教皇パウルス4世の時に失脚、引退して造ったのがヴィラ・デステ。失脚した原因は調べていないのでわかりません。
当時はスペインとフランスが争ったイタリア戦争の最中。教皇庁はスペイン寄りになったりフランス寄りになったりしていた。

さて受付で9ユーロ払って中へ。
邸宅の中は全面フレスコ画が描かれた見事な部屋や彫刻が立ち並んでいたが、私としては一番の売りである庭園を早く見たい。しかしどこに出口があるのか良くわからない。カフェと土産物売り場は思いっきり地下にあるし、変な屋敷だ。


Fi1957367_1e ようやく出口が見つかって、テラスから北西方向を望んだのがこの画像。
41 57' 45.57"N 12 47' 46.05"E
イトスギとオリーブが茂る谷から涼しげな水音が聞こえてきます。
遠くにはティブルティーナ山地。



早速テラスから谷間に降りて行く。
まずは古代ローマの建築物を再現した「ロメッタの噴水」。
そこから横に一直線に「百の噴水」がある(画像 41 57' 45.52"N 12 47' 42.99"E )。
Fi1957367_2e
噴水は3段になっており、一番下の段はユーモラスな顔の口から水が噴き出ている。
ひとつひとつ顔が違っていて、犬顔、猿顔、化け物顔と様々である。
これだけ沢山の顔が一斉に水を吹き出している様は笑いを誘う。
この前を歩くと実に気分が涼しくなります。

Fi1957367_3e まっすぐ歩いた突き当たりが、「楕円の噴水」。
41 57' 48.19"N 12 47' 47.96"E
実はこの噴水の背後が回廊になっていて、噴水の中を通れる趣向になっている。
しかし残念ながら立ち入り禁止でした。

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イタリア旅行・ローマ~その15

【ローマの模型店】
歴史物のプラモデル(1/72サイズ)に興味があるのですが、歴史の国イタリアの模型店には掘り出し物があるのではと勝手な想像をしまして、今回いくつか行ってみる事にしました。
行くと言っても全く情報がない為、「ヤマイな人いらっしゃ~~い!」さんの「ROMA modelissmo情報(http://www.globetown.net/~daikin1962/Modellismo.html)」を参考にさせて頂きました。

Fi1957339_0e_2 まずテルミニ駅近くのGiocattoli。

共和国広場とマッシモ宮殿の間の道沿いにある。
41 54' 05.70"N 12 29' 50.56"E
プラモデル、鉄道模型、ヒストリカルフィギュア、帆船模型、普通のおもちゃ等々をまんべんなく少しずつ置いている、といった感じ。
ただミニカーは多かった。

お目当ての1/72歴史プラモはイタレリ、IMEX主体で30ケ程と少なく、見るべきものはなかった(以下個数は概算です)。
ミリタリープラモはイタレリ、タミヤ主体で他にズベズダ、エッシー、ドラゴン、ICMなど90ケ(うち車両物50ケ)。
ちなみにタミヤの1/35ドイツ重ロケットランチャー41型(¥735)が10ユーロ。倍の値段ですね。 
航空機プラモはハセガワ主体で90ケ。
鉄道模型はプライザー、CORGI,HERPA,ROCO,MARKLINなどが多少。
ミニカーは種類はよくわかりませんが2500ケとダントツに多い。




Fi1957339_1e_2 Baby's Store Modellismo。

地下鉄B線ボローニャ駅を降りて広場を見渡すと、一番大きな郵便局の建物があるので、その右の路地をちょっと入った所。
41 54' 51.96"N 12 31' 12.37"E
期待した店なんですが、シエスタらしく閉まっていた。残念です。
しかし営業時間の案内文が何もなかった。そんな物なんですかね。




Fi1957339_2e_2 GIORNI。

地下鉄A線オッタヴィアーノ・サン・ピエトロ駅下車。
場所はちょっとわかりにくく、駅を出てオッタヴィアーノ通りをリソルジメント広場に向かい、広場に着く手前のグラッキ通りを左(東)に歩いていくと通りの右側にある。
41 54' 25.76"N 12 27' 33.81"E
店内はやや広く、期待したのだが・・・。

お目当ての1/72歴史プラモはイタレリ主体で他のメーカーも満遍なくあり、300ケ程。
珍しい物もあったが、どれも私が過去に日本で見たものだった。
ミリタリープラモはイタレリ、タミヤ、ドラゴン主体で他に韓国のメーカー、イースタンエクスプレス、トランペッターなど250ケ。
ちなみにタミヤの1/35ドイツ重ロケットランチャー41型が10.15ユーロ。 
航空機プラモは400ケ。
鉄道模型は150ケ。
鉄道模型のストラクチャーは200ケ。
車・バイクのプラモは150ケ。
軍艦プラモはハセガワ、イタレリ、レベル主体で100ケ
帆船は50ケ。
ミニカーは700ケとやはり多い。

時間がないので値段は調べられなかった。安いものもあるのかもしれない。
ちなみに店は12:00~15:30はシエスタで開いていない。今回も15:30直前に着いたので入ることができた。

結論を言うと、1/72歴史プラモの品揃えに関してはローマも東京も変わらない、という事でした。以上。




この後、大急ぎでホテルに向った。
地下鉄のホームに立っていた警察官の後を通ったら、警察官をわざと避けたと思われたらしく「切符を見せろ」と言われる。話に聞いていた抜き打ちチェックを体験できた。

集合時間ギリギリにホテル到着。すぐにバスで空港に出発した。
と、添乗員が突然妙に押し殺したような声で、「たった今空港から連絡がありまして、飛行機が出発延期になったそうです」。
バスはUターンしてホテルに戻った。

副操縦士が急病との事で25時間出発延期になった。航空会社は海外に予備の操縦士を置かない、という事を初めて知った。
今後の宿泊代と食事代は航空会社持ちなので、金が足りなくなると言う事はないのだが、帰国してからの仕事が辛くなるなあ、とそればかり考えていた。

1日伸びたので、明日はローマ郊外のティボリに行く事にした。イタリア語や英語がわからなくても移動や食事はできる、という事がわかったので、オプションツアーを使わずに一人で行く事にした。

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イタリア旅行・ローマ~その14

【コロッセオからアッピア街道への旅⑧】
ドミネ・クォ・ヴァディス教会に着いた 41 51' 59.25"N 12 30' 13.25"E 。
Fi1957316_0e
1世紀、ネロ帝のキリスト教徒大迫害から逃れる為ローマからの脱出途上の聖ペテロが、ここでキリストに出会って「ドミネ・クォ・ヴァディス?(主よ、どこに行かれるのですか?)」と尋ねた事から付いた名前。
キリストは、迫害に遭っているキリスト教徒の代わりに再び十字架に架けられに行く、と答え、ペテロは恥じてローマに引き返したそうだ。
その後ペテロが逆さ磔になった場所に建ったのが、サン・ピエトロ寺院。

ドミネ・クォ・ヴァディス教会は意外とこじんまりとした教会だが、アッピア街道のたたずまいには似合っている。建物は17世紀に再建。




Fi1957316_1e 残念ながら、これ以上観光する時間がなくなったので戻る事にする。
南の方を見ると、どうやら田園風景がありそうな雰囲気。
帰国後、グーグル・アースでこの辺を見たら、やはり昔の墓地や遺跡が点在する畑が広がっていた。ああ、歩きたかったなあ、アッピア街道。
まあ聖ペテロゆかりの場所で、彼に倣って引き返すというのも、旅の良い思い出か。




Fi1957316_2e 再びサン・セバスティアーノ門に着いた。
表から見ると、堂々とした門構えである。
この辺は特に車の交通量が多く、中々横断歩道が渡れなくてイライラする。




Fi1957316_3e チルコ・マッシモの手前に戻った。

ここですぐ近くのチェリオの丘に上がってみる事にした。
チェリオの丘はローマ七丘のひとつでありながら、ガイドブックに紹介されていない。
どんな所だろうかと気になったのだ。

丘の周辺を歩いてみるが、どこが入口なのかよくわからない。
仕方なく、パラティーノの丘の向いのサン・グレゴリオ・マーニョ教会の敷地に入る。
ここから坂道を上がっていくと、画像のような植物園みたいな公園に着く。
41 53' 04.62"N 12 29' 40.06"E
いつの物かわからないが、遺跡も多少あるようだ。

期待した眺めは、樹木のためほとんど得られず。
ガイドブックに載らないわけである。
(くまなく歩いた訳ではないので、眺めの良い場所もあるかもしれません)




Fi1957316_4e 南西の斜面の草地は、周りに樹木が多いせいか市内の喧騒から逃れる事ができる。
静けさを求めてくるのか、何人かの人が読書したりもの想いにふけっていた。

朝からぶっ通しで歩いてきた私も、ここで腰を落ち着けた。
たちまち睡魔が襲ってきた。
しばらく意識混濁状態を楽しんだ後、丘を下った。

近くのチルコ・マッシモ駅から地下鉄に乗って、今度は市内の模型店めぐりに出かける。

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イタリア旅行・ローマ~その13

【コロッセオからアッピア街道への旅⑦】
Fi1957247_0e カラカラ浴場を出て、更に南東に向う。
浴場前のこの交差点からは南側に何本か道が伸びている。
アッピア街道に繋がるサン・セバスティアーノ通りは画像正面の細い道。
車が多くて通りを渡るのが面倒だ。




サン・セバスティアーノ通りに入ると、市内中心部とは違った鄙びた雰囲気。
Fi1957247_1e
木々が生い茂る石畳の道は情緒満点。昔の旅行者気分でうきうきしながら歩く。

左側の石積みの壁は昔のものだろうか?古代ローマの名門貴族スキピオ家の墓もこの辺りだろうか?
Fi1957247_2e
この通りは結構車が多い。石畳なので通過音がダダダッーと、とにかくうるさい。




Fi1957247_3e サン・セバスティアーノ門(アッピア門)に着きました 41 52' 24.68"N 12 30' 05.41"E 。
アウレリアヌスの城壁にある最大の門で、5世紀に再建された物。
手前にあるもう一つの門のようなものは、カラカラ浴場に水を供給する水道橋の遺構ドゥルーゾの門らしい。
サン・セバスティアーノ門の右側には小さな入口があり、城壁博物館の入口らしい。城壁の上に登れるそうだ。




Fi1957247_4e 門の外に出た。一応ここからがアッピア街道だと思います。

アッピア街道は紀元前4世紀にアッピウス・クラウディウスが建設した街道で、イタリア半島東端のブルンディシウムまで続いていた。
馬車が快適に通れるように道幅を広く、道は直線に、砂利を使って舗装されている。半島南部の統治や軍隊の移動に役立った。
建設当時はイタリア半島を二分するサムニテス戦争(山岳民族サムニテス族との数十年に渡る戦い)の真っ最中で、戦時中にもかかわらずこのような長期的な建設作業が行なわれていた。

映画「スパルタカス」のラスト、磔にされた無数の反乱奴隷がこのアッピア街道沿いに街路樹のように彼方まで続いているシーンを思い出した。

街道は相変わらず車が多く、沿道にはレストランなどが軒を連ねていて期待した田園風景は見えない。
鉄道高架の下に何か遺跡のようなものがあったが何だろうか?第1マイル標石ではないようですが。
観光の時間も残り少なくなってきたが、もう少し先に行ってみる事にする。

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イタリア旅行・ローマ~その12

【コロッセオからアッピア街道への旅⑥】
Fi1957212_0e チルコ・マッシモを出て広い通りを南東に歩いて行くと、右手に壮大な遺跡が見えてくる。

カラカラ浴場。
3世紀に造られた古代の健康ランド。
無愛想なおねえさんに6ユーロ払って中に入ると、庭園が広がっていた。
全体の敷地は約10万平方メートル。大きな浴場の建物以外に談話室 41 52' 47.59"N 12 29' 27.01"E 、図書館 41 52' 44.39"N 12 29' 25.31"E 、競技場 41 52' 41.48"N 12 29' 29.86"E 、貯水槽 41 52' 40.86"N 12 29' 28.96"E がある。

造ったのはカラカラ帝で、前述のセヴェルス帝の子。共同皇帝である弟のゲタ帝を殺し、それを批判したアレキサンドリア市民二万人を殺害した事で暴君と言われる。
当時外敵から帝国を守る為重要性が増していた属州軍隊の圧力?によりローマ帝国内の全ての自由民にローマ市民権を与えた。既に属州に対して経済的な優位を保てなくなっていたイタリア半島の特権を放棄し、事実上イタリアは単なる属州のひとつに過ぎなくなった。しかしこれにより相続税収入が増えて国庫は潤った。
最後は戦役中に近衛軍団長官に殺された。

画像の手前の部屋は発汗室 41 52' 46.41"N 12 29' 31.58"E らしい。奥のひときわ高い壁は高温浴室のドーム 41 52' 44.59"N 12 29' 33.71"E 。浴室は3通りあって、温度の高い高温浴室、ぬるめの微温浴室、冷たい冷温浴室。まるで日本の温泉といっしょだ。
湯を沸かす炉は地下にあった。発生する熱風を壁と壁の間を循環させる、一種の床暖房も備えていた。
室温が暑くなり過ぎると、天井の換気窓を開けて調節した。




Fi1957212_1e ドーム状の体育室 41 52' 47.67"N 12 29' 32.94"E から、微温浴室を備える中央ホール方向を見る。
当時はこのドームの壁にも華麗な壁画が描かれていたのだろう。今では想像するのも難しい。




Fi1957212_2e 反対側のドーム状体育室 41 52' 43.72"N 12 29' 38.40"E に展示されているモザイク壁画。




体育室か運動場の床のモザイク。
未だに色鮮やかなモザイクが残っている事に感動した。一瞬、このモザイクの上を歩く二千年前の市民達の情景が浮かんだ。
Fi1957212_3e
更衣室または運動室。
Fi1957212_4e
市民はタダ同然で入場でき、体育室で汗を流した後思い思いに入浴し、入浴後は庭園で涼んだり、図書室や競技場で時間を過ごした。古代ローマ人が現代人と同じ欲望を持っていた事を実感できる遺跡だ。
浴場の大きさで言えば、テルミニ駅近くのディオクレティアヌス浴場の方が圧倒的に大きいが、やはり名前のインパクトから言ってカラカラ浴場が浴場遺跡の代表格だろう。
なお、庭園は日よけがないので夏は帽子必携です。

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イタリア旅行・ローマ~その11

【コロッセオからアッピア街道への旅⑤】
Fi1939773_0e 画像は、パラティーノの丘のドムス・アウグスターナの低い方の敷地にある巨大な噴水 41 53' 15.77"N 12 29' 11.47"E 。
アマゾン族の半月形の盾を模したデザインだそうだ。
ここは割と遺跡が残っていて見ごたえがあった。噴水にはどうやって降りるんだろう?




迷路のような遺跡を南に歩くと、パラティーノの丘の南の絶壁に面したテラスに出る。
当時の皇帝や貴族は酒を酌み交わしながら、眼前に広がるチルコ・マッシモ(戦車競技場)の競技を眺めたに違いない。想像すると楽しくなる。
Fi1939773_1e
チルコ・マッシモ。
620×120mの楕円形のローマ最大の競技場。
創建は予想外に古く紀元前7世紀だと言う。4世紀には30万人を収容したそうだ。
当時の様子は映画「ベン・ハー」のクライマックス・シーンで見るしかない。復元模型の写真を見ると、周囲をかなりの高さの観覧席が取り巻いている。この画像の手前まで観覧席が迫っていたようである。

時間にせかされて、パラティーノの丘を降りてチルコ・マッシモに向う。
丘の南側は絶壁で降りられない。
東側の静かな林の斜面を降りて、サン・グレゴリオ通りを南に歩く。




Fi1939773_2e チルコ・マッシモの中に入った 41 53' 05.66"N 12 29' 14.09"E 。
パラティーノの丘で想像したよりも狭く感じる。
戦車競技の馬になったつもりで、4分の1周ほど走ってみた。
馬の気持が少しわかった。
パラティーノの丘を見ると、丘の斜面を覆っている壮大なセヴェルス帝の宮殿跡が大迫力だった。
ちなみに画像の奥は、「真実の口」があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会。

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イタリア旅行・ローマ~その10

【コロッセオからアッピア街道への旅④】
フォロ・ロマーノの東端にある、ティトゥス帝の凱旋門 41 53' 26.45"N 12 29' 18.91"E 。
Fi1939768_0e
1世紀にネロ帝(キリスト教徒の大迫害を行なった)の命令で、ユダヤ戦争を鎮圧したウェスパシアヌス帝と息子ティトゥスを記念して、ティトゥスの弟、ドミティアヌス帝が1世紀に建てた。

画像の凱旋門の内側左に、4頭の馬に曳かれた戦車に乗っているティトゥスが見られる。

ユダヤ戦争は、多神教のローマに支配される一神教のユダヤという背景のもと、ユダヤ総督がユダヤ神殿を略奪した事に端を発した。シリア総督の敗北後にネロ帝がウェスパシアヌスを反乱鎮圧に向わせた。
その後帝国内の反乱でネロ帝が自殺しローマが混乱状態に陥ると、ウェスパシアヌスはローマに取って返し皇位に就いた。そして息子ティトゥスに命じてエルサレムを陥落させた。凱旋門はエルサレム陥落を記念した物。その後マサダ砦の陥落でユダヤ戦争は終結した。

ウェスパシアヌス帝は元老院の皇帝弾劾権を拒絶して皇帝の権力を強め、有料の公衆便所を作ったそうである。

ティトゥス帝の時代には、ベスビオ火山の噴火が起こった。
門の向こう側にコロッセオが見えるが、ティトゥス帝の時代に盛大な落成式が行なわれた。

凱旋門の右側、南の方角にパラティーノの丘がある。
牧畜の神パレスに由来するそうであるが、共和制ローマ時代以降の特権階級が住む高級住宅(宮殿)街だった。英語のパレスの語源だそうだ。
紀元前8世紀には人が住み、ローマの建国者、ロムルスの家らしき物が西端にある。

涼やかな室内噴水のある邸宅前でコロッセオのチケットを見せて入場。
階段を上ると世界最初の植物園、ファルネジアーニ庭園 41 53' 24.16"N 12 29' 09.29"E があるが、ティベリウス帝の屋上庭園跡の上に16世紀に作られた物。

画像は、庭園南端の高台から南東を望んだ所。
Fi1939768_1e
眼前に広がっているのは、ドムス・フラウィア。
1世紀にフラウィウス朝のドミティアヌス帝が造った公務用の建物。
八角形の池がある中庭(画像中央付近 41 53' 19.42"N 12 29' 11.64"E )を中心に、建物が取り囲んでいた。占星術で死を予告された為、暗殺を警戒して鏡のように磨き上げた大理石を壁に据え、自分の背後の人々を監視したという。

画像左端は謁見や閣議が行なわれた建物。中央やや左のトンネルはネロ帝の地下通路と思われる。白い建物は考古学博物館。画像右端の木の陰にちょっと見えるのは、紀元前1世紀にアウグストゥスが自宅の側に建てたアポロ神殿の基礎と思われる。
元の姿をイメージするには、かなりの想像力を要求される。書籍で復元模型の写真を見たが、当時のパラティーノの丘は建物で覆い尽くされていて、丘全体がお城のようであった。

ドミティアヌス帝は、兄ティトゥスの跡を次いで皇位に就いたが、政治的、軍事的に無能で、仕舞いには元老院を無視し議員を死刑にした。結局元老院議員らの計画で暗殺された。
芸術や競技に熱中し、コロッセオで大競技大会を行なった。




Fi1939768_2e スタディオ 41 53' 15.41"N 12 29' 15.10"E 。
これも皇帝宮殿の一部で、競技用か馬場として造られたらしい。画像左側の壁には皇帝観覧席がある。
3世紀に親衛隊将校だったセバスティアヌスという人が、キリスト教棄教を迫られて無数の矢で射抜かれたのがこの場所との事。のちに聖人になった。
また画像中央やや上にある円は、東ゴート族の王テオドリックが作ったそうだが、何の為に造ったのだろうか?
テオドリックは5世紀に東ローマ皇帝にそそのかされてイタリアに侵入。オドアケルの国を滅ぼした後、ローマ人との融和政策により30年の平和をもたらした。




Fi1939768_3e ドムス・アウグスターナ 41 53' 17.63"N 12 29' 13.84"E 。
ドミティアヌス帝がドムス・フラウィアの後に造った私邸。
敷地が高低2箇所にまたがっており、画像は高いほうの敷地。この画像の木の生えている辺りに、中心に四角い神殿のある大きな池があったそうだ。
ドミティアヌス帝の宮殿は、公邸、私邸を合わせるとパラティーノの丘の大部分を占める。いかに皇帝とは言え、かなりのひんしゅくだったらしい。




Fi1939768_4e リヴィアの家 41 53' 21.06"N 12 29' 09.07"E 。
リヴィアは初代皇帝アウグストゥスの后。画像は中庭で、正面は接客室。前述のドミティアヌス帝の宮殿に比べてかなり慎ましい。

リヴィアは名門貴族クラディウス家のティベリウス・ネロと結婚していたが、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)が結婚を望んだために離婚した。リヴィアとティベリウス・ネロには子供がいたが、それが前述のティベリウス宮殿を造営した後の第2代皇帝ティベリウス。

ティベリウスはアウグストゥスの家臣として各地を転戦し有能さを示した。アウグストゥスは最終的にティベリウスを後継ぎにする事に決め、他の候補者が死亡等で消え去った事もあって皇帝になった。
行政・軍事面で有能な名君だったが、財政引締めにより元老院と市民の人気はなかった。後にカプリ島に隠棲し、親衛隊長を通して統治した事で親衛隊の権力を増大させた。また隠棲時には性的倒錯にふけったという。

その跡を継いだカリギュラ帝は、ティベリウス帝の遺言で若くして帝位に就いた。父はティベリウスの甥で養子となった対ゲルマニア司令官ゲルマニクス。
ティベリウス帝の晩年の恐怖政治から、最初ローマ市民は快く迎えたが、市民に迎合的な政策で経済が破綻し、人気がなくなった。精神異常者とも言われる。最後は親衛隊長の1人に殺された。殺された場所は、このリヴィアの家とティベリウス宮殿を結ぶ地下通路だったと言われる。

カリギュラは昔ペントハウス紙が製作したポルノ大作の題材にもなってました。カリギュラ役:マルコム・マクダウェル、ティベリウス役:ピーター・オトゥールという信じられない顔ぶれ。

リヴィアの家の西には大地母神キュベレー神殿跡があったが、どこがどう遺跡なのか良くわからなかった。説明板がある訳ではないので、しっかり確認したい場合は詳細な図入り専門書が必要かもしれない。

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イタリア旅行・ローマ~その9

【コロッセオからアッピア街道への旅③】
Fi1939759_0e コロッセオからフォーリ・インペリアーリ通りを西にちょっと歩くと、古代ローマファンなら悶絶しそうな光景が展開する。
フォロ・ロマーノ。

画像の右側カンピドーリオの丘と、奥のパラティーノの丘との谷あい広がる、古代ローマの政治経済の中心地。
元々湿地だったが、紀元前6世紀に排水工事が行なわれて整地され、人が集まるようになった。

画像はフォロ・ロマーノの入口付近からの眺め。
手前(画像の下半分)にあるのがエミリアのバジリカ 41 53' 33.37"N 12 29' 09.85"E 。商取引の公会堂で紀元前2世紀に建造。5世紀の西ゴート族の略奪で焼け落ち、その時の溶けた銅貨の跡があるそうだが見忘れてしまった!残念!




Fi1939759_1e セヴェルス帝の凱旋門の上の土産物屋から、東側を眺めたところ。

画像左端がセヴェルス帝の凱旋門 41 53' 34.22"N 12 29' 05.03"E 。3世紀にペルシャのパルティア王国遠征を記念して作られ、その戦いの様子が刻まれているとの事。セヴェルス帝はリビア出身でヨーロッパ人以外で初めて帝位に就いた人。軍事力を背景に帝国を安定させた、五賢帝から軍人皇帝時代への移行期の皇帝。
帝国軍の士官学校であった親衛隊への入隊はイタリア人しか認められていなかったが、セヴェルス帝は隊員をイリュリクム人(現在のクロアチア)に変えた。これにより帝国軍へのイタリア人の影響はなくなった。

凱旋門の右下にある丸い井戸のような物は、ローマのへそ。ローマの中心とされた。

そのすぐ上にある壁のような物は、ロストリ 41 53' 33.31"N 12 29' 04.97"E 。紀元前1世紀にカエサルが移築した演説台。カエサルもここから聴衆に話し掛けたのだろうか。

そのすぐ上に立っている柱は、フォカスの記念柱 41 53' 32.88"N 12 29' 05.40"E 。フォカスは7世紀の東ローマ帝国第6代皇帝で教皇ボニファティウス4世にローマのパンテオンを贈り、その謝礼に教皇が建てた。フォロ・ロマーノで一番新しい建造物。
フォカスは軍隊の百人隊長だったが、軍費削減を行なった皇帝マウリキウスを軍隊の支援のもと殺害し帝位についた。正統性がないため各地で反乱が起こり、最後はカルタゴ総督の子、ヘラクレイオスに殺された。
ボニファティウス4世はパンテオンを聖堂に変え、カタコンベにあった殉教者の遺骨を移して弔った。この11月1日を「諸聖人の日」とした。

その右側に柱の跡が整然と並んでいるのは、ユリウスのバジリカ 41 53' 31.35"N 12 29' 05.40"E 。カエサルが着工し1世紀にアウグストゥスが完成させた司法・行政用の建物。画像部分は4世紀にディオクレティアヌス帝(帝国の4分統治体制を確立した)が再建したそうだ。当時はこの柱が並ぶ敷地全体が大きな一つの建物だった。

ユリウスのバジリカとフォカスの記念柱の間の道が、聖なる道。柱が立ち並ぶこの道で、凱旋行進や宗教儀式の行列行進が行なわれた。

画像右端に聳えているのがサトゥルヌス神殿 41 53' 33.11"N 12 29' 03.15"E 。農業の神サトゥルヌスを祀った物で、柱から上は紀元前4世紀のもの。地下には共和国の金庫があった。

フォロ・ロマーノの真中にあるカエサルの神殿前から西側を見たところ。
撮影地点 41 53' 31.20"N 12 29' 08.65"E 。
通常のサイズに伸ばして見てください。
Fi1939759_2e
画像の左端がユリウスのバジリカ。
その右を聖なる道が通り、その脇を記念柱などが立ち並んでいる。
記念柱の背後に高く聳えているのはローマ市庁舎で、その後に前述のカンピドーリオ広場がある。当時カピトリーノの丘と呼ばれたこの場所には大きな神殿が建っていた。
柱の手前に小さな建物があるが、カエサルの告別式の演説に使ったユリウスのロストリらしい。
芝生の向こうにはセヴェルス帝の凱旋門が見える。

その右側、画像全体の中央左寄りにある大きな箱型の建物はクーリア(元老院) 41 53' 34.66"N 12 29' 07.45"E 。もともと紀元前1世紀にアウグストゥスが造り、4世紀にディオクレティアヌス帝が建て直した。この建物だけ完璧な姿なのに驚いたが、実はムッソリーニが復元した物。カエサルが暗殺された元老院とは場所が違うと思われる。
その右、画像中央はエミリアのバジリカ。

更にずっと右側の教会の建物に取り込まれている8本の大理石柱は、2世紀に造られたアントニウス・ピウスとファウスティーナの神殿 41 53' 31.58"N 12 29' 11.89"E 。皇帝が妻の死後、妻を祀った物。教会は後世に作られた。

画像の右端ちょっと見えるのはロムルス神殿 41 53' 30.66"N 12 29' 13.82"E 。4世紀、マクセンティウス帝が死亡した息子のために建てた。ミルヴィオ橋の戦いでコンスタンティヌス1世に敗れた為、未完成だったと言われる。

アントニウス・ピウスとファウスティーナの神殿とロムルス神殿の下に見えるのは、カエサル神殿。カエサルの遺骸を火葬した場所に建てられている。中には祭壇跡(火葬した場所)があるが、何も知らなかった私は中を見ないで通過してしまった。今となっては本当に残念です・・・。

こうしてフォロ・ロマーノを見回しても石切り場にしか見えません。
しかし当時は、この芝生は敷石が敷かれた広場になっており、大きなバジリカと神殿が広場を取り巻いて立ち並んでいた。現在残っている神殿の柱や復元されたクーリア(元老院)の高さが参考になるが、数階建てのビルディング街のような感じだったのだろう。
広場に集まった市民に、ロストリ(演説台)から自分の主張を訴え、クーリア(元老院)で決定する。これが共和制の舞台装置だった。

前の画像の続き。
Fi1939759_3e
左端はカエサル神殿。
画像では見えないが、神殿の後ろに紀元前6世紀のエトルスキ族支配時代のレギア(王宮)跡がある。

道を挟んで聳えているのが、ヴェスタの神殿 41 53' 30.11"N 12 29' 10.37"E 。ヴェスタはかまどの神で、柱に囲まれた場所に聖火が消えないように灯され続けていた。台座は2世紀?のものだが柱はムッソリーニが復元した物。

ヴェスタの神殿の手前には、アウグストゥスの凱旋門の跡がある。

その後には聖火を守るヴェスタの巫女の家があるが、画像では良く見えない。巫女の彫像や台所があるこの場所も見所の一つなのだが、庭園跡 41 53' 29.34"N 12 29' 11.00"E くらいしか記憶にない。事前にわかっていればしっかり見たのだが・・・。事前準備不足だった。

その右、パラティーノの丘の斜面に建っているのがティベリウス宮殿 41 53' 27.60"N 12 29' 10.40"E 。1世紀にティベリウス帝~カリギュラ帝が造った物だが、赤レンガの3階建ての建物は2世紀にドミティアヌス帝、ハドリアヌス帝によって追加された。
ティベリウス帝とカリギュラ帝については、パラティーノの丘(後述)参照。

その右に聳える3本の柱は、カストルとポルクスの神殿 41 53' 30.24"N 12 29' 08.45"E 。紀元前5世紀の共和制ローマ軍と王政復古を計るエトルスキのタルクィニウスの戦いの際、ローマの勝利を告げた二人の騎士(双子のギリシア神、カストルとポルクス?)を祀った物。柱は1世紀、台座は紀元前2世紀?のもの。
画像右端は聖なる道とユリウスのバジリカで、ここで前の画像に繋がる。




Fi1939759_4e 画像は、ウェスパシアヌス帝の市場と穀物倉庫だと思われる。
ヴェスタの巫女の家の東側にあり、緑の草地の上の赤茶色の遺跡が綺麗だった。

フォロ・ロマーノは、百万都市ローマの中心にしては随分狭い。
実際その機能はフォーリ・インペリアーリに移っていった。

フォロ・ロマーノにはこれ以外にも色々なものがある。
じっくり見れば2,3時間はかかる。
しかも入場無料。
今回は時間がなく、後ろ髪を引かれる思いで歩いていました。

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イタリア旅行・ローマ~その8

【コロッセオからアッピア街道への旅②】
Fi1939752_0e コロッセオ。
1世紀に造られた円形劇場・闘技場。
直径156~188m、高さ57m。
様々な見世物でローマ市民の不満をそらすために使われ、「パンとサーカス」のサーカスの役割を担った。

この建物だけ異様にでかい。
これだけ目立つ物がよくぞ二千年の歳月を越えて残った物だ。
周りを一周してみたが、どこから見ても当然眺めは同じで面白くない。
昔は壁面が彫刻で飾られて綺麗だったんだろうなあ。
そういえば映画「グラディエーター」に当時の外観が出てたっけ?
もう一度見直してみたくなった。

画像左側の人が集まっているあたりが入口で、荷物チェックされる。
入ってしばらく歩くと切符売り場。
パラティーノの丘(後述)の入場券も兼ねて10ユーロ。
ジャパニーズガイドを希望するか?みたいな事を聞いてきたので、YESと答えるとにっこり笑って更に4ユーロ請求。
ちなみに私はイタリア語はおろか英語もわかりません。
きっと日本語の話せるガイドが引率してくれるんだろうと思っていたら、パスポートを出せと言われ、その通りにしたら引き換えに大きな受話器みたいなものを渡された。
なんだ単なる音声ガイドか、でもないよりマシということで早速中に入る。

2階に上がって斜めから見たコロッセオ内部 41 53' 23.24"N 12 29' 34.22"E 。
通常のサイズに伸ばして見てください。
Fi1939752_1e
画像右端下の階段状の部分が皇帝の席。
当時は身分によって座席が厳格に分けられていた。
舞台の床は剥がされていて、床下の小部屋が見える。
見世物を演出する人たちの移動や、猛獣の檻置き場として使われた。
こうして見ると思ったよりも小さい。
これだけ朽ちていると、残酷な見世物に熱狂する人たちで埋め尽くされた当時の情景を想像するのは難しい。

さあ剣闘士の入場です!といった感じか 41 53' 25.20"N 12 29' 30.50"E 。
Fi1939752_2e
残念ながら舞台の上は立入り禁止だった。
舞台の中央から周囲を眺め回したかったんですが。
「グラディエーター」の主人公よろしく皇帝席を睨み付けて。

オーディオ・ガイドを聞くと、当時の元老院議員席に刻まれた名前や、何かの記念碑など、色々細かい事がわかるのですが、この後のスケジュールを考えると気が競っていてほとんど忘れてしまった。

こりゃ入場するたびに時間をかなり食いそうだ。

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イタリア旅行・ローマ~その7

【コロッセオからアッピア街道への旅①】
9月13日、ツアーの最終日。
朝、コロッセオから南の城門の外のアッピア街道まで、古代ローマの遺跡めぐりに出かける。
その後、模型屋を数軒まわるつもりだ。
16:30前にホテル集合なので、かなりハードスケジュール。でも頑張ろう。

Fi1939741_0e まずホテル近くのテルミニ駅から、地下鉄でコロッセオ駅まで。
画像奥はテルミニ駅 41 54' 07.44"N 12 29' 57.18"E 。
ローマ最大の駅で1950年代に完成した。
屋根が独特の波打つようなデザイン。




Fi1939741_1e 画像は地下鉄構内。
危険ゾーンだと言われ、薄暗くてちょっと怖い。
画像右寄り緑色の券売機は壊れていて使い物にならず。
結局乗車券を地上のタバキ(タバコ屋)で買う。
この国は人間同士のコミュニケーション抜きでは事がスムーズに運ばないようだ。
乗車券は75分間有効で地下鉄、バスが乗れて1ユーロ(140円弱)。
海外旅行初心者にとっては、これ本当に楽でいいです。
逆に東京を旅行する外国人は、いちいち料金を確認しなければいけないので大変だと思った。

日本もそうだけど、ここの地下鉄も居心地悪い。
車体は落書きだらけでぎょっとする。
扉がやたらと分厚くて、金庫か宇宙船みたいだ。開け閉めが派出。
だれかが何かいじったらしく、扉が閉まらなくなってしまい、へんなキーを差し込んで閉めていました。
走行中も結構揺れました。
でも、何と言っても厭なのは、スリが怖くて寝られない事。
観光疲れで瞼が重いのですが、寝たら最後、とか言われ、目をカッと見開いていました。

大都市ローマの地下鉄はA線B線の2路線しかない。
掘ったらすぐ何かの遺跡にぶちあたる。
だから地下鉄を作れない。
遺跡を壊すくらいなら作らない方がいいよ。




Fi1939741_2e 地下鉄B線のコロッセオ駅下車。
画像はコンスタンティヌスの凱旋門 41 53' 23.20"N 12 29' 26.35"E 。

4世紀、4人の皇帝により分割統治されていたローマ帝国を再統一したのがコンスタンティヌス1世。
ライバルであるマクセンティウス帝を破って帝国西側の覇権を握ったミルヴィオ橋の戦いを記念して作られた。
帝国を再統一したことでコンスタンティヌス大帝と呼ばれ、キリスト教を公認した事で聖人に列せられている。聖俗両面で英雄扱いされている。

壁面には色々な彫刻がある。他の建築物から持って来ているとはいえ、日光陽明門みたいに一応意味(ストーリー)があるんだろうな。そういうのがわかったら面白いんですが。




Fi1939741_3e コロッセオのテラスから見た凱旋門。
手前にあるのはメタ・スダンテと呼ばれる1世紀に作られた噴水の跡。
凱旋門を通る道を塞ぐ位置にあるのが、ちょっと変な気がしたが、凱旋門も含めて公共の広場か何かだったのだろうか?
当時の再現図を見てみたい気分だ。

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イタリア旅行・ローマ~その6

Fi1939335_0e LA TANA DEI REという店で昼食。
ピザはまあまあ。スパゲティ(ペペロンチーノ、カルボナーラ)はしょっぱくてNGでした。
前菜のモッツァレラチーズが一番おいしかった。
イタリアのバールで何回かサンドウィッチを食べましたが、モッツァレラチーズのおいしさが印象的でした。
日本ではあまり食べた事無かったですが、国産の味はどうなのかな?




Fi1939335_1e イタリア旅行最後の夜、JTBのMY BUSツアーでオペラ・アリアとカンツォーネ・ディナーに行ってきた。
今回の旅では地元の音楽を聞く機会がなかったので、ここで耳も満足させようと思ったのだ。

レストランは各国の観光客で満員。
歌手は中々上手でした。ソロで歌うと聞きほれてうっとりしてしまいました。
歌手全員で歌うと、大音響で音が割れて気持悪い。
カンツォーネは帰れソレントへ、サンタ・ルチア、フニクリ・フニクラなど知っている曲でしたが、アリアの方は元々無知なのでよくわからず。
2時間半の間、会場みんなで合唱して盛り上がりました。

歌が聞けて料理フルコース、ワインとミネラルウォーター飲み放題で70ユーロ(一万円弱)なら安いかなと思いました(特に根拠はありません)。
歌手は合間にCDやサイン入り記念写真を売りに来たり売上の勘定したりで、ある意味大変そうでした。
サイン入り記念写真、支払いが千円か10ユーロ(1400円弱)か選択制でしたが、結構大雑把で笑ってしまった。
ここのショーが終わると、すぐに上のフロアの別の店に移動して同じようにやっていました。

さて、明日(9/13)は最終日でフリータイム。
もともと自然派の私は、連日の都市歩きに飽きてきた事もあり、ローマ観光の王道ヴァチカン博物館見学を差し置いてローマ近郊のティボリで自然を味わおうと前記のMY BUSツアーに申込みしましたが、定員割れでダメでした。
そこでとにかく歩きたい!と言う事でアッピア街道まで歩くことにしました。

はっきり言ってローマ滞在2日では全然日数が足りませんね。

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イタリア旅行・ローマ~その5

Fi1939327_0e スペイン広場の名の由来になったスペイン大使館。
17世紀に建造。




Fi1939327_1e スペイン広場 41 54' 20.89"N 12 28' 56.01"E 。
手前は舟の噴水。
その奥はスペイン階段で18世紀に作られた。
右の建物は詩人キーツが住んでいた家。
奥の建物はトリニタ・デイ・モンティ教会で17世紀に完成した。
教会の前のオベリスクは巡礼者の目印として18世紀に作られた。
トリニタ・デイ・モンティ教会は修復中だったが、面白いのはその覆いに教会の建物が印刷されている事。観光客への配慮だろうか?
前述のヴェネツィアのサン・マルコ広場の時計塔はエッフェル塔の覆いだった。何かの洒落だろうか?




Fi1939327_2e 映画かテレビの撮影をしていた。
有名人かな?と思って近づいてみたが知らない人だった。
有名人だったら、もっと人だかりができてるんだろうな。
若い俳優は撮影の合間、神経質そうに体を動かしていた。
「ローマの休日」の撮影もこんな感じだったのかな?




トリニタ・デイ・モンティ広場 41 54' 22.01"N 12 28' 59.19"E からスペイン広場を見下ろす。
Fi1939327_3e 
広場から奥に伸びるコンドッティ通りは、有名な喫茶店カフェ・グレコや高級ブティックが建ち並ぶ。
スペイン階段は眺めが良く、休んで疲れを取るには絶好の場所だった。
撮影のおかげで、一時的に階段は劇場の座席になっていた。

ラテラーノのオベリスク 41 53' 12.61"N 12 30' 17.25"E 。
Fi1939327_4e
世界最大のオベリスク(高さ32m)。紀元前15世紀にエジプト王国で作られた物を、4世紀にローマ皇帝がローマに運び、16世紀に教皇がこのサン・ジョバンニ広場に建てた。
背後左の建物はラテラーノ宮殿で、14世紀に教皇がアヴィニョンに移るまで教皇の住居だった。
背後右はサン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ教会(側面)で、コンスタンティヌス帝によって4世紀に創建された。サン・ピエトロ寺院より古い聖堂で、ローマの司教座教会になっている(ローマ大司教はローマ法王が兼任)。ラテラーノ条約が結ばれた場所でもある。

オベリスクは巡礼路に沿って建てられている。
地図かグーグル・アースを見るとわかりますが、ラテラーノのオベリスクの前の通りを一直線に行くとサンタ・マリア・マッジョーレ教会、その前の通りを一直線に行くとトリニタ・デイ・モンティ教会のオベリスク。完璧に巡礼路が整備されていて面白い。

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イタリア旅行・ローマ~その4

Fi1939323_0e_3 マルケルス劇場 41 53' 31.44"N 12 28' 46.52"E 。
紀元前1世紀、カエサルが着手してアウグストゥスが完成させた。
16世紀に全く違う様式で3階部分が追加された。
初めて見たとき、なんてケチくさい建物かと思った。
全部立て直せば良いのに、と思ったのだ。
でも、何故現在ローマにこれほど遺跡があふれているのか、という疑問の回答がこれだと思いました。




Fi1939323_1e カンピドーリオ広場 41 53' 35.96"N 12 28' 58.50"E 。
かつてカピトリーノの丘と言われた古代ローマの中心地。
キャピタル(首都)の語源だそうです。
そんな由緒ある場所に16世紀、ミケランジェロが設計した広場。
画像ではわかりづらいですが、形が逆台形になっていて中央にマルクス・アウレリウス帝の騎馬像がある。
奥に建っているのはローマ市庁舎。




Fi1939323_2e トラヤヌス帝のマーケット 41 53' 44.09"N 12 29' 10.02"E 。
トラヤヌスは五賢帝の1人でローマ帝国を史上最大の領土にした2世紀の皇帝。
ローマ市民の支持を得るために、穀物の配給を行なった市場。
「パンとサーカス」のパンの役割を担った。

この辺にはフォーリ・インペリアーリと呼ばれる、歴代皇帝が作ったフォロ(公共の集会所)が連なっている。フォロはフォーラムの語源だそうだ。
道路の近くに、こんな堂々たる遺跡があるのに驚くが、かつてムッソリーニが現在のローマ市の中心ヴェネツィア広場とコロッセオを結ぶ道路を、遺跡を無視して引いた為との事。

サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 41 53' 51.52"N 12 29' 54.11"E 。
Fi1939323_3e
4世紀、聖母マリアのお告げにより、真夏に雪が降った場所に建てられた教会。
建物は増築により、色々な時代のものが寄せ集まっている。
ヴァチカン市国の領土。




Fi1939323_4e トレヴィの泉 41 54' 03.60"N 12 28' 59.79"E 。
中央のネプチューンと海馬を操るトリトンの彫刻は18世紀に作られた。
自国通貨を肩越しに、一枚投げるとローマに再訪でき、
2枚投げると意中の人と結ばれ、
3枚投げると嫌いな人と別れられる。
別れる方が高くつくんですね。
スリがうようよいるから投げたらすぐ戻って来いと脅され、観光気分半減でした。

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イタリア旅行・ローマ~その3

堂内至る所にある彫像のひとつ。
Fi1938541_0e
誰の像なのかはわからない。
ドーム天井の4本の支柱の上部には、4つの彫像(それぞれロンギヌスの槍、十字架の木片、ヴェロニカの布、聖アンドレアの遺体を祀っている)が掲げられている。

今回色々写真を撮ったのですが、ネガをスキャンしてPCに取り込んだ画像を見たら、暗くて全然ダメでした。
写真屋にプリントしてもらったやつは普通に写っていた。
不思議だ・・。




Fi1938541_1e 法王の遺骸のひとつ。
薄暗い堂内で目を凝らすと、意味ありげな彫刻やお墓が随所にある。

堂内でのガイドの説明は禁止されている。
そのためガイドは外で事前に説明をする。
それでは大した説明は受けられないので、事前にガイドブックを見ておいたほうがいいと思います。
私は観光の後ガイドブックを見て、こんなのもあったのか~!と後悔しました。

有名なのは、ミケランジェロのピエタと、聖ペテロの像ですが。




Fi1938541_2e ヴァチカンのスイス人衛兵。
ヴァチカンの兵士になる条件:スイス人でカトリック教徒、身長と年齢制限あり。
「ハンサムであること」というのはガイドの嘘だと思いますが。

「スイス人」と言うのは、16世紀にカール5世がローマを略奪した際に、スイス傭兵が教皇を守って全滅したその忠誠心を買われての事らしい。

ちなみに手荷物検査をしたのはスーツにサングラスのガードマンでした。
スイス人衛兵が行なったのでは、記念撮影で検査どころではなくなりますから。




Fi1938541_3e 所変わって、ティベリーナ島 41 53' 26.93"N 12 28' 39.37"E 。

古代にはテヴェレ川の渡河地点で交通の要衝だったため、ローマ発祥の地のひとつ。
後に医学の神殿が建てられた。
今は病院と教会がある。

「真実の口」があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会 41 53' 17.80"N 12 28' 53.50"E 。
有名な真実の口。
Fi1938541_4e
どこかの公園にあるのかと思ったら、交通量の多い道沿いの教会の外にあった。
平将門の首塚みたいな感じか。
毎日排気ガスを吸っていると思うとかわいそうだった。
もとは下水道の蓋だったらしい。
「ローマの休日」に出演しなかったら、こんなに有名にならなかっただろうなあ。

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イタリア旅行・ローマ~その2

ヴァチカン市国に入った。
ヴァチカン市国は1929年に成立した。そのいきさつは以下の通り。

1861年のイタリア王国成立の際、ローマには教皇ピウス9世の要望で入城したフランス軍が居座っていて、併合する事はできなかった。
教皇領のローマを併合してイタリアの首都にする事はイタリア国民・政府の悲願だったが、教皇は教皇俗権(教皇国家)を失う事を恐れて周辺のカトリック教国による共同占領を持ちかけていた。
フランスは国内のカトリック派の歓心を買う事と、オーストリアがローマに入城して教皇を保護するのを警戒して、教皇の要望に応じた。

1867年フランスは、イタリアとの9月協定により、ローマを首都にしない事を条件に撤兵したが、ガリバルディの義勇軍がローマに迫ると再び占領した。
その後フランスはプロシアとの戦争が避けられなくなると、自国防衛の兵力不足からローマから撤兵した。

1869年、イタリア国王エマヌエーレ2世は、ローマ問題が国内の不満(不況やフランスに抵抗できない政府に対する)を爆発させるきっかけになると判断し、強引にローマに入城し市民の圧倒的支持の下で併合・遷都した。教皇はイタリア政府との交渉を一切拒絶してヴァチカン宮殿に篭った。

1929年、ファシズム政権のムッソリーニは教皇庁と妥協し、カトリックがイタリア唯一の宗教である事、教皇が主権を持つヴァチカン市国を成立させる事、イタリア統一後にイタリアが没収した財産を教皇庁と教会に返還する事、学校でカトリックの授業をする事、税制上教会を優遇する事を取り決めた。このラテラーノ条約によりイタリア政府と教皇庁は和解した。

Fi1938515_0e 画像はサンタンジェロ城 41 54' 10.90"N 12 27' 58.90"E 。
2世紀、ローマ皇帝で五賢帝の一人であるハドリアヌス帝が皇帝の霊廟として建造した。前記のアウレリウス帝の時城塞に改築された。
6世紀にペストがローマに蔓延した時、教皇グレゴリウス1世が近くを通ると大天使ミカエルがペストの終焉を告げた事から、城塞の上に天使を冠した礼拝堂が建てられた。
その後城塞として更に強化され、16世紀に神聖ローマ帝国皇帝カール5世がローマを略奪したときは、教皇の避難場所として使われた。

ヴァチカンの地下駐車場付近には水溜りがあったが、ホームレスの小便との事でした。
入らないように気をつけて下さい。




Fi1938515_1e サン・ピエトロ寺院 41 54' 07.73"N 12 27' 12.19"E 。
カトリック教会の総本山。キリスト教を公認したローマ帝国皇帝コンスタンティヌスが4世紀に聖堂を建造したのが始まり。1世紀にネロ帝の迫害で処刑された聖ペテロを祀り、処刑された場所に建てられた。

16世紀、フランスを破った教皇ユリウス2世により再建が開始され、建設責任者としてブラマンテ、ラファエッロなどが引き継いだが最終的にミケランジェロの計画に従ってその死後1626年に完成した。

ユリウス2世の後の教皇レオ10世が、建造費工面の為免罪符を発行して反発を招き、宗教改革に繋がってカトリック勢力を大いに弱めたというおまけがある。

画像右端には、法王選挙コンクラーベが行なわれる建物が見える。




サン・ピエトロ広場に建つオベリスク 41 54' 08.05"N 12 27' 26.06"E 。
Fi1938515_2e
もとエジプトにあったものらしいが、聖ペテロの処刑場所に置いてあったものを16世紀に移設した。

サン・ピエトロ広場は140人の聖人・教皇の大きな彫像が立つ回廊に囲まれている。これだけスケールが大きいと荘厳さよりもその財力のすごさに驚いてしまう。今までのお布施の総額は一体いくらなのか?
広場には座席がたくさん用意されていた。何かのセレモニーがあるんだろうか?

サン・ピエトロ寺院の奥にある聖ペテロの椅子。
Fi1938515_3e
フランク王カールから贈られた物で、周囲をベルニーニ作の装飾に囲まれている。

ドーム天井付近の絵。
Fi1938515_4e
今までミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ピサのドゥオーモを見て、それぞれその壮大さ、豪華さに驚いたが、サン・ピエトロ寺院はそれらを明らかに上回っている。やはり総本山としての面目が許さなかったのだろう。

広く薄暗い堂内には天窓から柔らかな光が差し込み、天井付近至る所に配置されている聖人の巨大な彫像群が照らされて浮いているように見える。物音は反響し、エコーがかかっている。そしてひんやりとした空気。宇宙空間を浮遊しているような、または巨大な水槽の底にいるような感じだ。非現実的な世界。昔の人だったら神の国だと思ったろう。
一方で、世俗的君主である教皇の代官の酷い支配で、地獄を見た人達もいた。

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イタリア旅行・ローマ~その1

フィレンツェを去って、ローマに向う。
ローマまで休憩を入れて3時間。
Fi1914291_0e 途中、オルヴィエートの側を通る(画像42 43' 08.02"N 12 06' 48.94"E)。

オルヴィエートは、紀元前にエトルスキによって作られた町。
小高い丘の上にある理由は、防衛上有利な事の他に、低地は湿地が多くマラリア蚊が繁殖するので、高地の方が居住性がよかった為という。
中世には他の都市同様自治都市になったが、ローマに近い事から教皇の避難場所にもなった。

中世の面影が残るこの町にも、結構そそられる。




Fi1914291_1e ローマに到着。
北側から市内に入る。石畳の道はえらい振動でまいった。

画像はピンチアーナ門付近41 54' 34.05"N 12 29' 17.49"E。
ローマ市は周囲をアウレリアヌスの城壁によって囲まれている。
城壁につけられた門のひとつ。
アウレリアヌスの城壁は、3世紀に軍人皇帝であるアウレリアヌスが命じて作ったもの。
3世紀には、ローマ帝国は明らかに衰え、反乱や蛮族、ササン朝ペルシアの侵入が相次いでいた。
アウレリアヌスは帝国を安定させる為に尽力した。この城壁もその活動の現れ。




Fi1914291_2e アメリカ大使館(ボンコンパーニ宮)。
41 54' 23.58"N 12 29' 26.92"E
テロ対策の為、厳重な警戒だった。

この後ホテルへ。




9月12日。ローマ観光開始。

Fi1914291_3e_2 画像はヴェネツィア宮殿41 53' 46.25"N 12 28' 54.63"E。
ヴェネツィア出身の枢機卿ピエトロ・バルボが1455年に建設。
バルボが教皇になった後は、教皇の住居になったが、1564年にヴェネツィア共和国の大使館になった。
1797年、ヴェネツィアがナポレオンに占領されオーストリア帝国領になると、オーストリアが使用した。
後にイタリアが取り戻し、ムッソリーニ政権が使用した。
中央のバルコニーから、ムッソリーニは演説を行なった。




Fi1914291_4e ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。
ヴェネツィア宮殿の隣、ヴェネツィア広場に面して立つ堂々とした、悪く言えばド派出な建物。
41 53' 41.24"N 12 28' 58.71"E

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世はサルディニア王で、1861年にイタリアを統一した国王。
これを記念して1911年に建てられたが、周りの景観と相容れないデザインが不評で、インク壷、ウェディングケーキ、入れ歯などと呼ばれたそうだ。

中央の騎馬像がエマヌエーレ2世、台座の下で右手を上げているのが「ローマの像」、その下に一次大戦の無名戦士が祀られている。
最上部の両端には勝利の女神と馬車がある。
施された彫刻はイタリア諸州と諸都市を表している。

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世は、新生イタリア王国においても”2世”という呼称をやめなかった。あくまでもサルディニア国王主導の国家で、国民主導の国家でない事を強調したかった為と言われる。


ローマの旧市街は名所・旧跡が多く、町全体が博物館になっているような物です。
歴史も古いので、予備知識という事でローマ市の歴史を書き出してみました(すいません作成中です)。

紀元前3千年~:
新石器時代。

紀元前18世紀~:
青銅器時代、テーヴェレ川流域のいくつかの丘に定住が始まる。

紀元前13世紀~:
鉄器時代
カピトリーノの丘に定住が始まる。

紀元前8世紀~:
伝説によるとパラティーノの丘にローマが建国された。

紀元前6世紀~:
エトルスキ族により支配される事により交易が盛んになる。同時に都市も発達。
エトルスキ族の王を追放し、共和制へ移行。

紀元前4世紀~:
ガリア人の襲撃後、セルウィウスの城壁が築かれる。
サムニテス戦争。
アッピウス=クラディウスによりローマ共和国の公道アッピア街道が建設される。
ラテン諸都市、ローマ市の支配に反抗。

紀元前3世紀~:
ローマ市の人口10万に。
イタリア半島の中南部を支配する。
第一次、第二次ポエニ戦争。

紀元前2世紀~:
第三次ポエニ戦争。
グラックスの改革。

紀元前1世紀~:
同盟市戦争後、イタリア半島の諸都市にローマ市民権が与えられる。
ユリウス法発布。
スパルタクスの乱。
ポンペイウス、カエサルの活躍。
オクタヴィアヌスがローマ帝政を始める。
キリスト誕生。

1世紀~:
ローマ市の人口100万に。
ローマ大火後、ネロ帝がキリスト教徒を迫害。
5賢帝時代始まる(ローマ帝国の最盛期)。

2世紀~:
トラヤヌス帝の時、帝国版図最大になる。
5賢帝時代が終り、ゲルマン人の帝国への移動が多くなる。

3世紀~:
帝国内の全自由民にローマ市民権を与える。ローマ市及びイタリア諸市の帝国内での地位が相対的に弱まる。
軍人皇帝時代始まる。

4世紀~:
コンスタンティヌス帝がキリスト教公認。
ビザンティウム(コンスタンティノープル)に遷都する。
ニケーア公会議で、ローマ司教がコンスタンティノープル司教より優位である事を認める。
ゲルマン民族の大移動始まる。
キリスト教以外の宗教を禁止。
テオドシウス帝死後、帝国が東西に分裂。

5世紀~:
西ゴート王アラリックがローマ市を略奪。
ヴァンダル族がローマ市を略奪。
相次ぐ略奪でローマの町が荒廃し始める。
ローマ司教レオ1世の時、西ローマ帝国でローマ司教が他の司教よりも優越権を持つ事が公認される。
ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ帝国を滅ぼし、オドアケルの国を建国。
東ゴート王テオドリックがイタリア半島を制圧し、東ゴート王国を建国する。

6世紀~:
東ローマ(ビザンツ)帝国が東ゴート王国を滅ぼし、イタリア半島を制圧。
ランゴバルド族がイタリア半島をほぼ制圧し、ランゴバルト王国を建国する。。

8世紀~:
ビザンツ皇帝レオ3世が聖像禁止令を出す。東西教会の対立が深まり、ローマ教皇はフランク王国に接近する。
フランク王ピピンが旧ビザンツ領を奪って教皇に寄進(教皇領始まる)。
フランク王カールがランゴバルト王国を滅ぼす。

9世紀~:
フランク王カールがサン=ピエトロ大聖堂で教皇レオ3世によりローマ帝冠を受ける。
イスラム勢力が地中海に進出しローマ市を攻撃。
フランク王国が仏独伊に分裂。

10世紀~:
ドイツ王オットー1世がローマでローマ帝冠を受ける。神聖ローマ帝国成立。

11世紀~:
教会が東西に分裂する。
教皇とドイツ王の間で司教及び修道院長の叙任権をめぐる争いが始まる。
教皇ウルバヌス2世により十字軍遠征が始まる。

12世紀~:
ローマ市が自治都市(共和制)になる。ローマ市の再建が進む。
ドイツ王フリードリヒ1世がイタリアを遠征、ロンバルディーア同盟に阻止される。
教皇インノケンティウス3世がローマ市の実権を握る。

14世紀~:
フランス王フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世を捕らえ、教皇庁をアビィニョンに移す。以降ローマ市は衰退し貴族の専制支配が続く。
貴族の専制に反発して平民コーラ・ディ・リエンツォが反乱を起こし、ローマ市を支配するが失脚する。
教皇インノケンティウス6世がローマでの教皇領復活を狙い、ローマ周辺を征服する。
教皇グレゴリウス11世がローマ帰還を果たす。
シスマ(教会分裂)始まる。

15世紀~:
コンスタンツの公会議で教会分裂が解決する。
ルネサンスが始まり16世紀までラファエッロ、ミケランジェロが活躍する。
教皇アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアが教皇領の拡大を図る。

16世紀~:
教皇ユリウス2世がフランスと対立する。
ルターの宗教改革始まる。
神聖ローマ帝国皇帝カール5世とフランス王フランソワ1世の間でイタリア戦争始まる。
カール5世がフランスと同盟したローマを略奪。
更にペストが伝染しローマの人口が3万に。
教皇グレゴリウス13世がグレゴリオ暦制定。

17世紀~:
新教との対立、西欧諸国の絶対王権確立により、教皇の勢力弱まる。

18世紀~:
フランス革命軍がローマ占領、共和制を宣言。

19世紀~:
ナポレオンが教皇領をフランス帝国に併合。
ウィーン体制。
第一回イタリア統一戦争が失敗。
教皇がガエータに逃亡し、ローマ市に共和国政府ができるが、フランスによって追放される。
第二回イタリア統一戦争。ヴェネツィアと教皇領のローマを除くイタリア諸国がサルディニア王国に併合され、イタリア王国が成立。
イタリア軍がローマ占領、首都にする。

20世紀~:
ムッソリーニがローマに進軍し、ファシスト党内閣成立。
教皇庁とムッソリーニがラテラノ条約締結。ヴァチカン市国成立。
第二次世界大戦後、イタリア共和国成立。

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イタリア旅行・ピサ~その2

ピサの斜塔として有名な鐘楼。
Fi1914231_0e
1173年に建設開始、3階部分まで作った時に地盤沈下で傾き始め、工事を中断。
1234年以降4階部分が作られたが、また中断。
14世紀に入って再開され、ようやく完成した。
最上階だけ反対側に傾いており、バランスを取るようになっている。
傾きを実感する為に、倒れこんでいる方の真下から見上げたのがこの画像。
圧迫感があります。

反対側に回って真下から見上げた画像。
Fi1914231_1e
圧迫感がありません。
現在は最新の土木工事によって傾きが緩和されています。工法についての説明板がありました。

30分間毎に約30人ずつという制限がありますが、塔に昇る事ができます。
Fi1914231_2e
日本からでも予約できるそうです。
画像は、鐘楼に入場する人たち。

鐘楼に登って手を振る観光客。
Fi1914231_3e
なんか誇らしげに見えます。
また来られたらぜひ昇ってみたい。

上空では珍しく軍用機が何回も飛来していました。
Fi1914231_4e
9月11日だから、テロ対策のデモンストレーションでもしているのかな?
観光客は歓声を上げていました。
広場の片側には土産物屋がずらり。
暑いのでジェラートがうまい!
この後フィレンツェに戻りました。

ピサの歴史をまとめてみました。

・エトルリア時代(紀元前8世紀~)に建設された?
エトルリア時代はエトルスキ族が北・中部イタリアを支配した時代。エトルスキ族の起源ははっきりしていないが、ローマ人がトゥルスキと呼んだ事が“トスカーナ”の名の由来になった。エトルスキ族はフィレンツェ、アレッツォ、オルヴィエートも建設した。

・紀元前3世紀~
ローマ時代のオーレリア街道沿いにあったため、交易の中心地として繁栄。

・10世紀~
地中海に進出したイスラム勢力の脅威で中々発展できなかったが、末頃から活発な商業活動を始める。

・11世紀~
1011年、イスラム軍により略奪される。
1063年、パレルモ沖海戦でイスラム軍を破る。
ジェノヴァと同盟しイスラム勢力をティルレーノ海北部から追い払う。
1096年~十字軍が始まり、西欧諸国に近い事からその準備や輸送で莫大な利益を上げる。

・12世紀~ 
十字軍の活動に伴い東地中海にも進出する。エルサレム攻囲の際200隻の戦艦を派遣し、エルサレムでの勢力が大きくなる。ピサ司教ダイベルトがエルサレム大司教に選ばれる。
12世紀前半には、コルシカ、エルバ、サルデーニャ北部を領有しパレスチナ、シリアの沿岸都市に居留地を得る。居留地では治外法権を得、エルサレム王国では免税特権を与えられていた。
東方貿易での活動が活発になるに従って、ヴェネツィア、ジェノヴァとの抗争が激化する。

・13世紀~ 
1284年、メロリア海戦でジェノヴァに敗れ、海上の覇権を失う。以降内陸への進出を図ってフィレンツェと対立する。

・14世紀~ 
1343年、ピサ大学設立。

・15世紀~ 
1406年、フィレンツェに併合される。
1494年、フィレンツェでサヴォナローラの神政始まる。ピサが独立する。

・16世紀~ 
1509年、フランスに頼ってピサの領有を目指していたフィレンツェに再併合される。
1511年、フランスと教皇庁の対立の中、フランス派のフィレンツェがピサで反教皇派の宗教会議を開く。教皇庁がフランスに勝利した後、フィレンツェは責任を取らされ共和制が崩壊する。
トスカーナ大公コージモ1世がピサの振興を図る。

・17世紀~ 
ガリレオ・ガリレイが「振り子の法則」を発見する。その後ピサ大学の講師になり「落下の法則」を発見する。

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イタリア旅行・ピサ~その1

9月11日。
ピサの半日観光(オプション)に向う。フィレンツェ駅前に集合なのだが、宿泊しているホテル43 45' 58.75"N 11 17' 03.16"Eが駅から遠いので、路線バスに乗る。バス停は住宅地にあり、辺りは日曜の朝なのでひっそりと静かだ。日曜日は安息日なので朝に騒ぐのはご法度だとの事。
フィレンツェ駅前からピサまで、トスカーナ地方名産のイトスギ林や水道橋を眺めながら高速道路を一時間半位。駐車場に着くとヨーロッパ中から何十台も観光バスが乗り付けていて、ピサの知名度の高さに感動する。
ここから連絡バスでドゥオーモ広場へ(画像43 43' 45.04"N 10 23' 23.77"E)。
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ドゥオーモ広場に着いた。瞼に飛び込んできたのは、青い空と緑の芝生を背景に聳える白い3つの建物(画像43 43' 22.05"N 10 23' 34.06"E)。
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清らかで爽やかな印象に思わず「素晴らしい」。巨大な宝箱を見ているようだ。
今回ピサに来たのは、有名なピサの斜塔を見たい!というよりも「東方見聞録」の共著者、ルスティケロの故郷を見たかったからだ。

1296年、マルコ・ポーロは何らかの理由で交戦中のジェノヴァ軍に捕まり、ジェノヴァのパラッツオ・サン・ジョルジオの牢に繋がれた。
(注:以下は断定調で書いていますが、必ずしも史実として証明されている訳ではありません。)
牢内では暇を持て余す囚人が大勢いて、彼らはマルコ・ポーロの口から止め処なく語られる聞いたことも無いような国々の話に夢中になった。やがて噂は市内にも広がり、ジェノヴァの高貴な人間さえ聞きに訪れるようになった。
マルコ・ポーロは、彼らに何度も同じ話をするのにうんざりしてきた。そこで話を本にまとめる事にした。マルコは人気者になっていたので、囚人としてはかなりの自由を享受できた。そこで旅行中のメモをヴェネツィアの自宅から取り寄せたり、本を著述する事も許された。

丁度牢獄にピサのルスティケロという作家がいた。マルコは彼に著述を頼む事にした。ルスティケロはフランス語の読み書きが出来たので、より好都合だった。なぜなら方言の多いイタリア語よりもフランス語の方が万人に受け入れられると考えたからだった。
ルスティケロの一生については定かではないが、パリの国立図書館に、彼が書いたアーサー王伝説の写本があるそうだ。騎士道物語作家だったらしい。彼が過ごした時期のピサは、繁栄の最後の一瞬だった。ドゥオーモと洗礼堂は完成していて、鐘楼は傾きつつも四層目まで作られて放置されていた。アルノ川が弧を描いて流れる市内には、おびただしい塔が林立していた。

彼がジェノヴァの牢獄にいた理由は、ピサを覇権争いから脱落させたメロリアの海戦(1284年)に参加していたからだった。双方200隻のガレー船が戦ったこの戦いで、ピサはジェノヴァに叩きのめされ40隻のガレー船と1万5千の捕虜が連行された。この為「“ピサを見たければジェノヴァに行け”という格言が生まれ・・・市内には、何らかの悲しみを抱えていない家は一軒としてなくなっていた。」(ピサ年代記)
ジェノヴァの牢獄では、毎日30人の捕虜が死亡して海に捨てられたという。
1290年にはジェノヴァ軍がピサの港、ポルト・ピサノを破壊し、ピサの命運は決まった。

さて、「東方見聞録」の著述は1296年から始められた。ルスティケロはマルコの話すばらばらな話を順序立て、章と章、段落と段落の間がスムーズに移行するように工夫し、全体として調和が取れるようにするという編集者の役割を果たした。更にそれをフランス語に翻訳した。とは言え「東方見聞録」は冗長で少々退屈な読み物だと感じる。これが当時の物語の特徴なのか、ルスティケロの能力の限界による物なのかはわからない。
途中1298年のクルゾラ沖の海戦により多数のヴェネツィア人捕虜が収容され、牢獄はごったがえした。病気や飢えが蔓延し、多数の死者が出た。これらの脅威と戦いながら、「東方見聞録」は1298年に完成した。
翌年1299年には講和条約によりヴェネツィア人とピサ人は開放されたので、ぎりぎりの完成だった。ルスティケロという協力者がいなかったら「東方見聞録」は完成せず、マルコ・ポーロも歴史に名を留める事はなかっただろう。解放後のルスティケロの消息はわからない。

その後、「東方見聞録」は僧侶や学者の要望で様々な言語の写本が作成され、その種類は100以上に及んだ。最初はマルコ・ポーロの想像の産物と思われていたその内容は、15世紀から徐々に真実である事がわかりだした。初期の世界地図に書き込まれた地名は、「東方見聞録」の内容から転記された。
ルスティケロが「東方見聞録」の著作を引き受けた理由はわからないが、恐らくいつ死ぬかもしれない牢獄の中で自分の作品を残したかったのだろう。もしそうならその願いは十分に果たされた。

ドゥオーモ。
Fi1914195_2e
1063年に建設が開始され1118年に完成した。
パレルモ沖の海戦でイスラム勢力に勝利した事を記念して作成されたと言われる。
今日は日曜日なのでミサを行なっており、内部の撮影はできなかった。

何度見ても均整のとれた美しい建物だ。
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クーポラは先がとがっていて、イスラム寺院の様式が使われているそうだ。
鐘楼がドゥオーモの陰からこちらを覗き込んでいるようでユーモラス。
これらの建物が建つ前は、ハドリアヌス帝の宮殿があったと言う。

ドゥオーモの周りで盆踊りの練習。
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ではなくて、鐘楼を手で支える図を撮影してるのだ。
日本人、中国人、アメリカ人、ドイツ人、フランス人・・・
世界中の人が同じポーズを取って楽しんでいるのを見ると、しみじみと平和を感じます。

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イタリア旅行・フィレンツェ~その4

ウッフィツィ美術館。
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発音しづらいこの名前はイタリア語のウッフィーチョ(事務所)から来ている。全トスカーナ地方の支配を達成したコージモ1世が1560~1580年にメディチ家の事務所として建造したもの。1569年にトスカーナ大公になったコージモ1世は、フィレンツェ本位の統治からトスカーナ諸都市の振興を図る統治に努めた。

建物はコの字型をしており、13世紀から18世紀の絵画を時代順に鑑賞できる。美術の教科書などで名画として紹介されている絵の本物が次から次と現れる様は圧巻。それらを美術史の流れの中で鑑賞できるのは何とも贅沢であった。敦煌の莫高窟と同様入場前は期待していなかったが、見終わってみると満足感は大きかった。

特に絵画に対する思い入れがない人の場合、専門ガイドによる説明か、美術解説書の携帯をお勧めしたい。ただ漫然と見るより、それぞれの絵に凝縮された作者の想いや時代背景、絵画技法の進化を知った上で見るとより満足感が得られると思います。

16:00前に入場しましたが、並んだ時間は5分位でした。
団体ツアーなので見学時間は僅か1時間半でしたが、博識なガイドAさんの無駄のない説明のおかげで結構おなか一杯になりました。以下は鑑賞した絵の抜粋です。

第2室(13世紀):
「聖母子」(ジョット):それまでの宗教画になかった遠近法を用いた革新的な絵。配色も立体感を出すように工夫されている。

第7室(ルネッサンス初期):
サンロ・ロマーノの戦い(パオロ・ウッチェッロ):近くの槍と遠くの槍の違いや、倒れた槍の配置などに遠近法を使っている。遠近法の進化が見て取れる。
バッティスタ・スフォルツァ、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの肖像画(ピエロ・デッラ・フランチェスカ):優雅でなくしかも横顔!という特異な肖像画。横顔なのはスフォルツァの片目が潰れていたからとの事。背後の風景に遠近法を使用。

第8室(フィリッポ・リッピ):
聖母子と2人の天使:フィリッポ・リッピは美しい尼僧をモデルに絵を描いていたが、描き上げた時には尼僧は孕んでいたと言う。その後その尼僧と夫婦になり、妻をモデルに描いたのがこの絵。大変可憐で個人的には羨ましい。イエスを持ち上げている手前の天使は自分の子供をモデルに描いたもので、イエスよりかわいらしく描く所など作者の人間っぽさを感じさせる。他の画家が描くマリア像と違い荘厳さはないが、俗っぽくしゃれているのが魅力。

第10~14室(ボッティチェリ):
ヴィーナス誕生:この美術館の看板とも言えるボッティチェリの二つの作品の一つ。柔らかで繊細な印象が素晴らしい。
春:「ヴィーナス誕生」と同じ人物、ヴィーナス、風の神ゼフィロス、フローラも登場している。ゼフィロス、フローラから春(プリマヴェーラ)が生まれて足元に花園が広がっている。かつて地面の花園は絵の劣化で良く確認できなかったが、近年の調査で、実に500種類の花が咲き乱れしかもそれらは実在し全て春の花である事が確認されたそうだ。9人の登場人物でストーリーが作られ、盲目の天使の放つ矢の向きなど、絵に登場する物(花も含め)全てが何らかの意味を持つ。「ヴィーナス誕生」の近くにあり、二つを見比べる事ができる。「ヴィーナス誕生」のヴィーナスに比べるとこの絵のヴィーナスの目は左右が不釣合いで醜い。これは肉体の美しさよりも精神性を重視している事の現れだそうだ。

第15室(レオナルド・ダ・ヴィンチ):
キリストの洗礼:ダ・ヴィンチの師、アンドレア・デル・ヴェロッキオとの共作で、ヴェロッキオが16歳のダ・ヴィンチに試しに左端の天使を描かせた物。これを見たヴェロッキオはショックで以降二度と絵を描かなかったという。私はヴェロッキオの天使も良いと思いますが。
東方三博士の礼拝(未完):躍動的でドラマティックな絵だが、遅筆のダ・ヴィンチが製作中に、ミラノのルドヴィコ・イル・モーロに招かれてあちらで「最後の晩餐」に取り掛かったため、遂にこの絵は完成しなかった。もしミラノに行かずにこちらを完成させていたら、やはり名画の誉れ高い作品になったと思う。ダ・ヴィンチの遅筆は有名で、「最後の晩餐」があれほど傷んだのは、じっくり描きたいが為に乾きは遅いが劣化しやすい油絵の具を使用したからと言われる。

第25室(ミケランジェロ):
聖家族:手前に伸びた腕という難しい構図だが、彫刻家であるミケランジェロは解剖学による人体の構造についての知識があり、見事に表現している。衣服に当たる光による立体的な表現も見事。

第26室(ラファエッロ):
ルイ10世の肖像画:教皇ルイ10世の座る椅子の背もたれの丸い真鍮に映る窓や、遠近法の線の中心点が右側外にある点など、絵の外の広がりを感じさせる作品。構図が非常に計算されている。
ひわの聖母:大変有名な作品だが未だに修復中で、下手糞な模写が飾られていた。これなら本物の写真を飾ったほうが良いと不評であった。

第28室(ティツィアーノ):
ウルヴィーノのヴィーナス:優美なヴィーナスも美しいが、体の重みで作られたシーツの皺の表現も見事。

第43室(カラヴァッジョ):
バッカス:非常に写実的で光の使い方もうまい。バッカスといえば酒の神、祝祭の神だが、そのイメージとかけ離れている。後でバッカスの持つ狂気、破壊性を現していると知って、その表現力に驚いた。
メドゥーサ:丸い盾に描かれたメドゥーサの首。その鋭い眼光が脳裏から離れない。

時代が進むにつれ、平面的な絵から躍動的な動きの一瞬をとらえた絵に進化して行くのが解る。
あと、遠近法の技法で左右どちらから見ても同じに見える絵があったが、誰の何と言う作品か忘れてしまった。

館内の写真撮影は禁止だが、撮っている人が結構いて館員がしきりに注意していた。大目に見てもらえるのは外の景色のみ。
前の画像はヴェッキオ宮殿の方向を撮った物で撮影場所は43 46' 04.69"N 11 15' 17.62"E。

この画像はヴェッキオ橋を撮った物。ここからのヴェッキオ橋の写真は至る所で見かけます。
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あと展示物の前のバー付近には赤外線センサーの見えない網があり、バーを越えるとブザーが鳴る。でも網が見えないのでブーブー鳴らしていても気付かない人が多い。結局館員が注意していた。
出口付近にはかなり充実した土産物コーナーがある。ここを出ると再入場できないので注意。出口のすぐ左には郵便局があり両替ができる。レートは良いそうです。二千円札を出したら知らない札だと言われ、ガイドが説明して両替してもらった。

サンタ・クローチェ教会。
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1295年に完成。サンタ・マリア・デル・フィオーレを見た後では簡素に見えてしまう。
しかしここに葬られている人はミケランジェロ、ガリレイ、マキャベリ、ロッシーニ、マルコーニなど有名人ばかり。
43 46' 09.13"N 11 15' 36.59"E

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会。
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1420年に完成した円と正方形の幾何学模様が美しい建物。
9/11のピサ観光の後に行きました。
前の広場は広々としていて休むにはもってこいだが、日陰がないのが残念。
43 46' 24.41"N 11 14' 56.16"E

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イタリア旅行・フィレンツェ~その3

【ヴェッキオ橋】
橋の真中まで来ると、ようやく川が見える。
で、その景色がまた良い。
画像は西側のサンタ・トリニタ橋方面を見たところ。
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夕景で有名らしいが、昼間見ても一瞬時間が止まったかのような軽い衝撃があった(画像より実物のほうがいいです)。
真中に来るまで景色を見せないと言うのは、やはり演出だろうか?

東側のグラツィエ橋方面。
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西側の眺めよりは落ちますね。
右手に見えるのはミケランジェロの丘。

ヴェッキオ宮殿。
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フィレンツェ共和国政庁舎で、サンタ・マリア・デル・フィオーレと同様フィレンツェが有数の都市国家になった1299年に建設が開始された。

映画「ハンニバル」でレクター博士がパッツィ刑事を殺害した現場。
43 46' 10.13"N 11 15' 19.76"E
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劇中、日本人観光ツアー客の声が聞こえたがあんなに遅い時間にツアーをやっているんだろうか?
メディチ家治下の1478年、有能なロレンツォ・デ・メディチを恐れた反対派のパッツィ家は反乱を起こすが市民に阻止されて失敗する。
反対派は捕らえられてヴェッキオ宮殿の窓から縛り首にされた。
反乱の黒幕は、メディチ家に敵対するローヴェレ家出身の教皇シクストゥス4世と言われる。
ヴェッキオ宮殿の建つシニョリーア広場には、メディチ家追放後に統治したサヴォナローラの火刑跡もあるが、カメラフィルムを買っていて見る時間がなくなってしまった。




歴史を知っていた方が観光もより味わい深いと言う事で、フィレンツェの歴史をまとめてみる事にした。大雑把な流れはフィレンツェ以外の都市にも共通している。
とにかく目まぐるしく情勢が変わって、面白いのだが訳がわからなくなる。
13世紀は前述の通りなので、14世紀から。

1330年代まで繁栄の時期が続く。
1340年~:イングランド王エドワード3世に金を貸していたフィレンツェの代表的商社が、その支払停止により金を回収できなくなる。またエドワードの軍備調達業務を請け負った為に敵対するフランス王フィリップ6世が国内のフィレンツェ人の商品を差し押さえる。
これらによりフィレンツェの商社が次々と破産、追い討ちをかけるように黒死病が伝染する。イタリアを不況が覆い一般民衆の不満が増大。危機感を抱いた支配層は権力を1人のリーダーに集中させてより強力な支配を行なわせるようになった。シニョリーア制と言われる。
破産した旧来の商人に代わって、新興商人が力を持ち始める。

1370年~:アヴィニョンの教皇庁がローマへの復帰を図ってローマ近辺の領主を征服し始める。フィレンツェ近辺にも及んできた為、新興商人は教皇庁の徴税業務等で潤ってきた旧勢力を攻撃し、遂に教皇庁に対して戦争を起こす。
この戦争でのフィレンツェの敗北とその後の一連の内紛の結果、再び旧勢力が実権を握りより権力を集中させるようになった。

1390年~:ヴィスコンティ家治下のミラノが急速に勢力を拡大しその支配がフィレンツェ近辺に及んだ為、フィレンツェとミラノは対立する。やがて劣勢になったフィレンツェはミラノに大敗した。
一方オスマン・トルコの圧迫でイタリア内陸部に勢力を拡大しようとしたヴェネツィアは、ミラノの拡大を見てフィレンツェと同盟する。

1430年~:権力争いの結果、大商人コージモ・デ・メディチがフィレンツェの支配者になる。軍事力を持たないメディチ家は直接統治できないので共和国の選挙に介入して支配した。
ギリシア古典研究サークルのメンバーだったコージモは学者や芸術家を支援し、やがて上層市民は「学芸愛護」を競うようになった。フィレンツェがルネサンスの中心地になった理由。

1454年~:オスマン・トルコによるビザンツ帝国の滅亡により、脅威にさらされたヴェネツィアとミラノは戦いを止め和解する。更にフィレンツェ、教皇庁、ナポリ王国が加わって25年間のイタリア同盟を結ぶ。しばらく平和が続く。この時フランチェスコ・スフォルツァがミラノの実権を握った。

1469年~:コージモが死去してしばらく後、孫のロレンツォが跡を継ぐ。彼は優れた外交能力でイタリア5大勢力の均衡を保ち、平和と安定を維持した。これによりルネサンス文化がイタリア全土に広がった。
「学芸愛護」の家庭で育ったロレンツォは学者や芸術家への支援を惜しまず、ルネサンスの最盛期をもたらした。

1492年~:ロレンツォの死と、教皇アレクサンデル6世とその子チェーザレ・ボルジアによる教皇領拡大の野心により5大勢力の均衡が崩れる。
間もなくトルコ征服を夢想したフランス王シャルル8世がイタリア遠征を開始し、いともあっけなくフィレンツェ、教皇庁、ナポリ王国に進撃してしまう。当時フランスやスペインは強力な集権的国家になっており、イタリア諸国にこれを止める力はなかった。
教皇庁、神聖ローマ帝国、スペイン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を締結してフランスに対抗すると、ようやくシャルル8世は撤退した。この遠征により脆弱なイタリアが露見して、以降イタリアは周辺の列強の抗争の場になる。

遠征の際、ロレンツォの跡を継いだピエーロは進んでフランスの軍門に降った為、弱腰を避難されてメディチ家はフィレンツェから追放され、共和制に戻る。ルネサンス末期の神秘主義の風潮の下、ロレンツォの生前からメディチ家による専制支配を糾弾していたサン・マルコ修道院長のサヴォナローラが神政を開始し、禁欲的な政治を行なう。しかし教皇の堕落を批判した為に破門され、反対派が力を得て火刑に処せられる。

1499年~:シャルル8世の後フランス王になったルイ12世がイタリア遠征を企てる。標的をミラノに絞り、領土の分割等を条件に巧みにヴェネツィアやチェーザレ・ボルジアと同盟して攻略した。ミラノのルドヴィコ・イル・モーロはフランスに捕らえられた。
更にスペインとナポリ王国の分割協定を結んだルイ12世はナポリ王国を占領したが、分割方法でもめたスペインに攻められ最終的にナポリ王国はスペインの支配下に置かれた。
たちまちイタリア5大勢力のうち2つが消滅した。
一方、チェーザレ・ボルジアとメディチ家の脅威にさらされたフィレンツェはフランスの保護に頼っていた。チェーザレ・ボルジア失脚後の教皇ユリウス2世はフェッラーラを狙ってヴェネツィア、スペインと同盟し、フェッラーラを支援するフランスと対立した。

1512年~:ラヴェンナで教皇とフランスが決戦し教皇側が勝った。フランスはイタリアから総退却し、フランス側のフィレンツェはスペインの攻撃で共和制が崩壊し、メディチ家が復権した。その後メディチ家から教皇が出るとフィレンツェと教皇の結び付きは強固になった。

1519年~:スペインのカルロス1世がカール5世として神聖ローマ帝国を後継した。元々の神聖ローマ帝国とフランスの対立と、イタリアを巡るスペインとフランスの利害がカール5世(カルロス1世)対フランスのフランソワ1世という形に集約され、ネーデルランドやイタリアで戦争が勃発し1559年まで続いた(イタリア戦争)。
カール5世は圧倒的に優勢で、フランスを打ち負かした。カール5世の拡大を恐れた教皇クレメンス7世はミラノ、ヴェネツィア、フランスと同盟して対抗したが再び打ち負かされ、ローマは蹂躙された。これを聞いたフィレンツェ市民は教皇側のメディチ家を追放し、共和制に戻した。しかし1529年にカール5世とイタリア諸君主を集めた和約によりイタリアでのカール5世の支配が確定すると、スペインはフィレンツェを占領して再びメディチ家を支配者に据えた。
フランソワ1世はオスマン・トルコと同盟して三たびカール5世に戦いを挑んだが、戦況は思うように進まず結局和解した。

1555年~:フランソワ1世の後のアンリ2世がフィレンツェ近郊のシエナのスペインへの反乱を支援すると、フィレンツェはスペイン側に立って勝利し、カール5世の後のスペイン王フェリペ2世によりシエナの領有を認められた。

1559年、アンリ2世とフェリペ2世は和約しイタリア戦争が終った。フランスは宗教紛争により内政に専念しなければならなくなり、イタリアにおけるスペインの支配が確定した。

1569年、メディチ家はトスカーナ大公の称号を与えられたが、相変わらずスペインの強い影響から逃れる事は出来ず、国家活動は沈滞した。

1571年、スペインの無敵艦隊がレパントの海戦でオスマン・トルコを破り、トルコの脅威は減退したがスペインの支配は強力になり、特に南イタリアにおいて過酷な支配を行なった。

17世紀:フェリペ2世の死と30年戦争によってハプスブルク家(スペイン、オーストリア)の力が弱まり、ブルボン家(フランス)との力が均衡する。これにより再びイタリアは両家の抗争に巻き込まれる。

18世紀:スペイン継承戦争、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争の間、イタリアは両家の抗争の場になり、度々支配者が入れ替わった。トスカーナ大公国はポーランド継承戦争の時にオーストリアの影響下に置かれ、メディチ家断絶後はオーストリア皇女マリア・テレジアの夫ロートリンゲン公フランツ・シュテファンが領有し、当時のイタリア諸国の中では際立って近代的な政治が行なわれた(公平な税制、裁判。拷問・死刑、宗教裁判の廃止。自由小農民の育成など)。
イタリアではこのような啓蒙主義的改革は外国人支配者によって行なわれたが、保守的な意識から抜け出せない民衆に受け入れられず、改革は後退した。
一方知識層の中には啓蒙思想の影響を受けて、イタリア諸国の時代遅れな専制政治や外国人支配を変える必要を感じ始めた人々がいて、後のイタリア統一運動へと繋がっていった。しかしこの時点では抑圧され無気力になった民衆を動かす力にはならなかった。
(以下中断)

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イタリア旅行・フィレンツェ~その2

サンタ・マリア・デル・フィオーレの中。
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驚くほど地味で簡素。
外見とは大違い。
天井近くには若干きらびやかなモザイクらしきものがありましたが。

サン・ジョバンニの洗礼堂。
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サンタ・マリア・デル・フィオーレのドゥオーモよりも古い。
当時は、全ての新生児は決められた日にここの洗礼盤で一斉に洗礼を受けた。
これによって、フィレンツェ市民としての同胞意識を育んだ。
サン・ジョバンニはフィレンツェの守護聖人。
ヴェネツィアにとってのサン・マルコと同様、都市が固有の守護聖人を持つことによって宗教意識を共有し、結束力を高めた。

洗礼堂の見せ場、天国の扉。
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ヴェッキオ橋43 46' 05.13"N 11 15' 09.78"E。
沿道に建物が続いていてアルノ川が見えないので、大抵は橋を渡っている事に気づかないようだ。
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橋の両側は貴金属の店が軒を連ねる。
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黄金の詰まったショーケースがこれだけあると、よだれが出てきそうだ。
世界一贅沢な橋かもしれない。
でも、力の象徴である黄金があぶなっかしい橋の上にあるという所に違和感を覚えるのは私だけだろうか?
橋は交通の要所で自然に人が集まる場所だから、誰が見ても気持ちよい貴金属屋を持ってきたのか?

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イタリア旅行・フィレンツェ~その1

9月10日。
ヴェネツィアを離れ、フィレンツェに向う。
今回の旅の最大の目的を果たしたので、割と気楽になった。
途中パドヴァ45 24' 36.13"N 11 52' 11.92"Eを通るので何か昔の建築物が見れるかなと期待したが、高速道路は市街地からかなり離れた場所を通っていた為結局何も見えなかった。

13世紀、パドヴァには大学教授で哲学者・天文学者・医師のピエトロ・ダーバノという人がいた。シチリアに伝わっていたアヴェロイズム(アリストテレス哲学に基づく考え方)を北イタリアに移入し、後に近代自然科学へ影響を与えたパドヴァ学派の基になった人だ。
彼はマルコ・ポーロに会って色々質問し、パドヴァに戻って論文を書いた。その中の「赤道直下で人間は生存可能か?」という問題について、マルコ・ポーロが話した内容に触れている。

マルコ・ポーロの東方見聞録はコロンブスを刺激しアメリカ大陸を発見させたと言われるが、上記の様にルネサンスの先駆けとなる考え方にも多少は影響を与えたようである。自由闊達で宗教にもとらわれない当時のヴェネツィアの雰囲気の中で育ったマルコ・ポーロは、事実をありのままに話し、旅行記にまとめた。結局事実に勝る物はなく、それゆえ後代の人に影響を与え続けているのだろう。

さて、車窓の風景を眺めると鄙びた田園風景の中に、ひっきりなしに教会が現れるのに気づいた。
日本人である私の感覚からすると、これほど教会が沢山あることに大分奇異な印象を受けたが、考えてみれば日本の農村にも神社や祠は至る所にあって、結局それと同じ事かと思った。
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フィレンツェに着いた。
まずミケランジェロの丘43 45' 48.32"N 11 15' 53.18"Eでフィレンツェ市街を一望する。
通常のサイズに伸ばして見てください。
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ヴェッキオ橋、ウッフィツィ美術館、ヴェッキオ宮、ドゥオーモ、サンタ・クローチェ教会・・・アルノ川北岸側の市街が全て見渡せました。
街並みは綺麗でしたが、ヴェネツィアの街並みを見た後では新鮮味はなかった。もっと晴れていれば印象が良かったかも。

フィレンツェは13世紀頃からようやく発展し始めた後発の都市国家だった。
イスラム海賊が地中海沿岸を荒らし回った為、襲撃の恐れがある海岸沿いの道が敬遠され、内陸の道が通商路となり、路上のフィレンツェに発展のチャンスが訪れた。
同じような地理的条件で先に発達していたシエナが没落し、その代わりに教皇庁からアルプス以北の徴税業務を委託され、金融業が発達。
フランドルやイングランドで商業・金融活動をしているうちに毛織物や羊毛を輸入して加工するようになった。それが東方へ輸出する西欧の主力商品になった。それまで立ち遅れていた西欧にはたいした輸出品がなかった。
金融面ではフィオリーノ金貨を発行したが、その品位の安定度から国際市場の決済手段になった。
こうして13世紀末には、フィレンツェは有力な都市国家として台頭した。

この後TAVERNETTAという店で、旬の野菜入りフェトチーネパスタとフィレンツェ風ステーキを食べた。割とおいしかった。

左から、洗礼堂、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母教会)のドゥオーモ、ジョットの鐘楼。
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ミラノやヴェネツィアのドゥオーモと違い、ピンクやグリーンの大理石をふんだんに使った、実に華やかな建物群だ。

合成が失敗してしまい、見苦しくてすいません。
43 46' 21.92"N 11 15' 17.99"E
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ジョットの鐘楼は高さ85メートル。
背後のサンタ・マリア・デル・フィオーレは1296年に建設開始、172年後に完成。
キューポラの屋上には登ることができ、そこからのフィレンツェ市街の眺めは素晴らしいそうだが、結構順番待ちで並ぶようだ。

サンタ・マリア・デル・フィオーレの入口。
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表面の配色といい彫刻の配置といい、品があって素晴らしい出来栄えだ。
ダンテもこの建物が作られていくのを見ていたのだろう。
完成した現在の姿を見たら、どのような言葉を発するだろうか。
1321年、ダンテはラヴェンナ市長の命でヴェネツィアを訪れた。
お互い有名人だったマルコ・ポーロと顔位は合わせたのだろうか。

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その9

【マルコ・ポーロの家と埋葬地を探す旅の続き】
サン・ロレンツォ教会のすぐ側まで来たが、工事中なのか取り付くしまがない。
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1324年1月8日に、マルコ・ポーロは遺言書を作成した(現在も残っている)。
教会への寄付、中国から連れてきたタタール人の召使を開放しいくらかの金を与えること、サン・ロレンツォ教会に埋葬すること、等々。
その3時間後にマルコ・ポーロは死んだ。

後代の複数の研究者がマルコ・ポーロの遺産について色々調べている。莫大な富を持ち帰ったというエピソードが残っている位なので興味のある所である。結果は様々な細工物だったり不動産だったり・・・。しかし人並み以上だったと言う証拠はどこにもなかった。

マルコ・ポーロはサン・ロレンツォ教会の父ニコロの隣に埋葬された。
しかし1582年から始まった教会の改修工事により、その墓所はわからなくなった。
更に1766~1827年にはその墓石も消滅した事が、記録に残っている。

遺骨はどこに行ったのか?改修の際に共同墓地に捨てられたか教会の礎材になったのか。
いずれにせよこの敷地のどこかに存在しているのだろう。
供養代わりに敦煌鳴沙山の砂を撒いた。
彼はヴェネツィア帰還後結婚し3人の娘をもうけたが、子孫の足取りも1403年で途切れている。

見たところサン・ロレンツォ教会は観光地でも何でもなく、地元の人が普通に通っている教会のようだ。
不審者に思われるのもいやなので早々に立ち去る事にする。
45 26' 13.54"N 12 20' 41.84"E
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サン・マルコ広場に戻ると、天気はすっかり晴れ広場の水も引いていた。
サン・マルコ寺院が燦然と輝いている。
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ファザードの上には、ヴェネツィア共和国の威信の象徴である4頭のブロンズの馬が見えた(画像中央)。1204年にビザンツ帝国を崩壊させた際、コンスタンティノープルの競技場から略奪したものだ。1797年にナポレオンによって持ち去られた後オーストリア軍によって戻された。1979年に保存のためサン・マルコ美術館に移された。ファザードにあるのは複製だそうだ。サン・マルコ小広場の柱の聖テオドルス像も複製との事。

さて、サン・マルコ広場では悪天時のうっぷんを晴らすがごとく、世界中から集まった観光客が鳩とたわむれ大はしゃぎしている。
結婚衣裳のカップルを驚かせようと、足元に鳩の餌を撒くおどけた表情の友人。
鳩を集めるのには失敗したようだ。

大理石の華やかな政庁の建物、最古の喫茶店で映画「旅情」、「エヴァの匂い」、「リプリー」で使われたカフェ・フローリアンの楽団の奏でる音楽に囲まれていると、誰しもうきうきしてくるようだ。
当時のヴェネツィアも、今日に負けない活気とヨーロッパやイスラムからの商人や旅行者で一杯だったのだろう。
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この後広場に面したコッレール博物館を見学した。
2階には昔のヴェネツィアの都市図、地図、御座船の模型、19世紀の家具、統領の肖像画と遺物、硬貨、レパントの海戦関連の品々、衣装、武器がある。ここに中国の広東にあったといわれるマルコ・ポーロの彫像のコピーが置いてあるそうだが、残念ながら日本語しかわからない私は気がつかなかった。

3階は絵画室で、主に15、6世紀の絵画がある。16世紀のヴェネツィアの代表的画家、ヴィットーレ・カルパッチョ(カルパッチョという料理の語源になった)の作品が多い。私は残念ながら彼の代表作「2人のヴェネツィア女」に気が付きませんでした。

上記の彫像以外にマルコ・ポーロに関するものは見あたらなかった。マルコ・ポーロの名はヴェネツィアの空港に冠されているとは言え、市内に際立った物が何もないのはちょっと残念である。
パラ・ドーロや宝物館、鐘楼にも入りたかったが時間がないのであきらめた。


夜のサン・マルコ広場。
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観光客はまだまだ大勢いる。
今日は目的を達成できて、本当によかった。
ところで今ヴェネツィア映画祭をやっているはずだが市内にポスターらしきものはなし。
どこでやっているんだ?ホテルに帰ってTVニュースで見るしかないな。

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その8

【マルコ・ポーロの家と埋葬地を探す旅の続き】
そのままスカレッタ通りをまっすぐ行くとサンタ・マリーナ広場に出る。
45 26' 18.00"N 12 20' 20.40"E
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更にまっすぐ、ボロゴロコ通りを歩くとサンタ・マリア・フォルモーザ広場に出る。
ここに建つサンタ・マリア・フォルモーザ教会は、聖母の訪問を受けた聖マーニョが7世紀に創建した。今の建物は15世紀以降に作られたもの。
サン・ジョヴァンニ・クリソストーモ教会と同じ、マウロ・コドゥッチの設計。
1611年に建てられた鐘楼の入口にはグロテスクなマスクがあるらしいが見落としてしまった。
45 26' 14.94"N 12 20' 26.13"E
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広場の南側に並ぶサンタ・マリア・フォルモーザ運河の4つの橋のうち、一番左側の橋を渡って南東に進む。
途中左折してMezzo通りに入りSan.Severo運河にかかる橋を渡ろうとしたが場所が良くわからず、結局Sal.Zorzi通りに入って別の橋を渡った(画像)
45 26' 10.17"N 12 20' 34.56"E。
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この辺特にわかりにくく、詳細な地図がないと歩けない。
狭い路地なので全く見通しが利かない。
橋をわたってすぐ左折し運河沿いにひたすら進む。
袋小路に突き当たる直前で右折するとBorgoloco.San.Lorenze通りの入口がある(画像)45 26' 13.30"N 12 20' 32.68"E。
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ここをまっすぐ歩くと・・・。


サン・ロレンツォ運河の向こうにマルコ・ポーロが埋葬されたと言われるサン・ロレンツォ教会がある。
思ったよりも大きいので驚いた。
45 26' 13.49"N 12 20' 38.44"E
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イタリア旅行・ヴェネツィア~その7

【マルコ・ポーロの家と埋葬地を探す旅の続き】
アーチの内側、左側を見る。
大理石と思しき石に十二宮が彫り込まれている。
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アーチの上側。
触れてみる。
これをマルコ・ポーロが使っていたかと思うと実に感無量だ。
アーチを潜った先にも同じ彫刻があるが、こちら側の方が保存状態が良い。
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更に少し東、ミラーコリ小運河のほとりの建物に、ポーロ家があったという記念銘板がある。
45 26' 19.35"N 12 20' 16.69"E
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今このあたりには民衆劇場、マリブラン劇場がある。

ヴェネツィアでのマルコ・ポーロの人生のハイライトは、やはり中国への出発の時と、帰還した時ではないだろうか?
17歳でこの家を出発した時、私が初めて海外旅行に出かけた時のように不安と期待が入り混じった気持だったろうか?
また40歳で20数年ぶりに我が家を見た時、感じていたのは故郷に帰って来たという安心感だろうか。それとも、はるかに進んでいた中国での暮らし振りとの落差にがっかりし、逆に中国を懐かしんでいただろうか?

首尾よく見つけて感動もさめやらぬまま、今度は埋葬地に向う事にする。
ミラーコリ小運河にかかるマルコ・ポーロ橋を渡って、更に東に歩いていく。
45 26' 19.02"N 12 20' 16.42"E
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イタリア旅行・ヴェネツィア~その6

【マルコ・ポーロの家と埋葬地を探す旅の続き】
サン・ジョヴァンニ・クリソストーモ教会に着いた。
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今の建物は1504年に作られた。中にはヴェネチア派絵画の元祖、ジョバンニ・ベッリーニの絵がある。
教会の手前を右折してちょっと東に向うと・・・。


ありました。
「コルテ・プライモ・デル・ミリオン」
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ミリオン地区の看板。
ミリオンは百万の意味でマルコ・ポーロのあだ名。
何でもスケールが大きい中国の事物を当時のヴェネツィアの人に説明するのに「百万」を多用した事から、ほら吹きという意味合いで付けられた不名誉なあだ名だ。
この辺一帯にポーロ家の屋敷があった。

入口を潜って狭い路地に入る。
急に人通りがなくなりちょっと怖い。
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コルテ・セコンダ・デル・ミリオンの広場に出る。
ちょっと薄汚い感じだ。
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見つけました。
ポーロ家の玄関?と言われている11世紀のビザンツ様式のアーチ。
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画像の場所(アーチ)の”グーグル・アース”(地球検索ブラウザー)での座標は45 26' 19.63"N 12 20' 15.08"Eです。

”グーグル・アース”についてはこちらを。
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20050701303.html

"FLY TO"ボタンを押してすぐ下の窓に上記の座標をコピー&ペーストして入力し、脇のSearchボタンを押すと座標の場所に飛べます。
旅先で歩いた場所などを再確認するのにすごく便利です。

ちなみに今まで紹介した場所の座標です。
①サン・マルコ広場:45 26' 02.41"N 12 20' 16.50"E
②ドゥカーレ宮殿中庭のブロンズ井戸:45 26' 02.74"N 12 20' 23.66"E
③溜息の橋:45 26' 02.44"N 12 20' 26.14"E
④メルチェリーア通りの入口(時計台):45 26' 04.86"N 12 20' 19.02"E
⑤リアルト橋:45 26' 16.92"N 12 20' 08.35"E
⑥ドイツ人商館(中央郵便局):45 26' 17.38"N 12 20' 11.04"E
⑦サン・ジョヴァンニ・クリソストーモ教会:45 26' 20.70"N 12 20' 13.00"E

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その5

【マルコ・ポーロの家と埋葬地を探す旅の続き】
雨も上がったし、観光客は水に浸かりながらむしろ楽しんでいた。
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水深は深いところで20センチ位だったろうか?
私は仕方なく、ずぶずぶと広場を歩いて通過した。

後でホテルに帰ってから靴を洗わずにいたら、たちまち悪臭を放ちはじめた。
たぶん単なる雨水ではなく下水から吹き出た水も混ざっているのだろう。
ヴェネツィアを旅行される方は万が一こういう事態に備えて、つま先から膝まですっぽり覆えるビニール袋を持参される事をお勧めする。

画像付近にはカフェ・クアードリがある。かつてワーグナーが店の前で演奏し、誰も賞賛しないと不満を言ったそうだ。


サン・マルコ広場から北の方向、リアルト橋に向う。
広場とリアルト橋を結ぶメルチェリーア通りには、ブランド品店、みやげもの屋が立ち並んでいる。
二つの観光名所を行き来する観光客でいつもごった返している。
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13世紀に舗装され、「世界で最も快適な街路の一つ」と評された事もある。
マルコ・ポーロも幾度となく通ったに違いない。
舗装されない街路は泥でぬかっていて、当時の女性は高い下駄を履きたがった。
また街路を清潔にしようという考え方はなく、ゴミは家の前の街路に投げ捨てられていた。それを清掃したのは豚だった。


リアルト橋に着いた。
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大運河にかかる橋で、いつも活気に満ちている。
12世紀は浮き橋で、13世紀は木造だった。現在の橋は1591年に作られたもので長さ48メートル、高さ7.5メートル。

リアルトは島内で比較的高い場所にあるため最初に定住が行なわれた。
ヴェネツィアが拡大すると行政機能はサン・マルコに移されたが、商業の中心地であり続けた。最初の銀行は12世紀に開業し西洋と東洋の為替業務を支配した。
「ヴェニスの商人」のシャイロックが金貸し業をした場所でもある。
せっかくだから、橋の上に行ってみる事にする。

リアルト橋から大運河を見下ろす。
通常のサイズに伸ばして見てください。
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リアルト橋についてこのような話があるそうだ。
中国から帰った時マッフェオ・ポーロは汚い衣服を着ていたが、ある日綺麗好きの彼の奥さんが服を乞食に与えてしまった。
それを聞いたマッフェオは血相を変えて、リアルト橋で無意味に糸車を回しながら気違いの振りをし始めた。
ヴェネツィア中にその事が広まって、多くの人が見物に来た。
そして3日目に、服を持った乞食が見物に来たのを見つけると、彼から服を奪って帰ったと言う。
後に、ニコロ、マッフェオ、マルコの3人は多くの人を招いて家で大宴会を開き、それぞれの汚い服を切り裂いた。おびただしい宝石が出て来た。
中国から帰還する際、莫大な金銀を宝石に替えて軽くした上で、盗賊に見つからないよう服の縫い目に巧みに隠したのだった。


リアルト橋から少し東側に戻って、北にあるサン・ジョヴァンニ・クリソストーモ教会を目指す。
また雨が強く降り出してきた。
1872年から中央郵便局として使われている、かつてのドイツ人商館の脇を北に向う(画像)。
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ドイツ人商館は1228年には存在したが、今の建物は1508年に作られたもの。
かつてドイツ人技術者は、ムラーノ島の鏡製造において技術的に寄与していた。

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その4

どこをどう通ってきたのかわからないが、大運河に出た。
オレンジやアイボリーの壁、ダークグリーンの窓を基調にした建物が軒を連ねて美しい。
運河上には、ヴァポレット、モーターボート、ゴンドラがせわしなく行き交っている。
おとぎ話の世界にいるようだ。
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有名なリアルト橋を背に、ゴンドラは行く。
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大運河周辺には有名な建造物、史跡が密集している。
じっくり見られないのが残念。
12,3世紀の邸宅パラッツォ・ドナやパラッツォ・パルツィッツァが見られるはずなんだけど。
せめて詳細な地図を持ってくればよかった。

・・・と思っていたのだが、帰国して写真を見ていたら撮った写真の中にパラッツォ・パルツィッツァらしきものがあった。サン・シルヴェストコの船着場に近い事、ビザンツ様式らしきアーチがあるのでたぶんそうだと思う。
ここに差し掛かった時、何故か船頭が指差して「マルコ・ポーロ」と言ったので訳もわからず撮ったのだが、マルコ・ポーロに関係する物とは思われない。どういう意味だったのだろうか?

ゴンドラを降りて、河岸のパリア(paglia)橋から溜息の橋を見る。
溜息の橋は1600年頃作られ、正義を象徴する浮き彫りと当時の統領の紋章が施されている。
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このあとダンドロ館近くのTROVATOREという店で、イカスミのスパゲティとイカと小魚のフライを食べる。
その間、雨が本振りになり雷が大音響と共に鳴り出した。
あの音だと、どこか近くに落ちたな、と思いつつ、午後の自由時間に行動できなくなるのではと、気が気でなかった。

昼食が終ると、他のツアー客が雨宿りするのを尻目にすぐにホテルに向ってダッシュ。
途中サン・マルコ広場では水が浸水しはじめていた。
ホテルに着くと、午後の行動に備えて雨具に身を固めて、雨脚が弱まるのをじっと待った。

雨が止んだので、早速マルコ・ポーロの家と埋葬地を探しに行く。
これらの場所については、一般のガイドブックには載っていないので、前述の本かhttp://veneziancafe.hp.infoseek.co.jp/tour.htmlを参考にした。

ホテルを出て再びサン・マルコ広場へ。
広場までの通りでは、びしょぬれの観光客が疲れ果てた表情でホテルに戻るところだった。
この辺は有名ブランド店が軒を連ねている。
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サン・マルコ広場は完全に水没していた。
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この広場は他の場所よりも低いのですぐ水没する。
9/22の朝日新聞によると、年に30回は水没しているそうだ。
ヴェネツィアの住民は慣れていて、このような時に歩行者が通れるように舗道の脇には小さな橋げたが積まれている。

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その3

ドゥカーレ宮殿に入ると、まず黄金階段の天井の見事な漆喰装飾に目を奪われる(画像)。1559年に完成した儀礼用の階段。
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写真撮影はここまで。

内部には天正少年使節が謁見したとされる部屋(謁見の間?)、世界最大の油絵がある大評議会の間、甲冑、武器がある十人委員会武具の間などがある。
より小ぶりな別の評議室(元老院の間?)は、13世紀の貴族たちの評議の情景を髣髴とさせる物があった。

各部屋に飾られている大きな油絵にはその片隅に「サン・マルコの獅子」が描かれているが、ルネサンス期には覇気に満ちた表情なのに、近世になるとヴェネツィアの衰退を象徴するかのようにうなだれた表情になる。

国家審問委員会の間は法廷で、小さな出口がある。有罪を言い渡された被告は、ここから直ちに隣のパーリアの牢獄に連行される。何とも無駄がない。

法廷からパーリアの牢獄間を繋ぐ「溜息の橋」の小窓からpalazzo o delia paglia運河を望む。
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牢獄に入ると一生出られないと言われ、囚人が渡りながら溜息をついたとされる。この小窓から最後の外の景色を見ながら。

パーリアの牢獄の独房は窓がなく、囚人の落書きが見られる。カサノヴァが脱獄した事で有名。


サン・マルコ寺院に入る。
9世紀にエジプトから運ばれた(盗んだ)聖マルコの聖骸が祀られている。
聖マルコは聖テオドルスに変わってヴェネツィアの守護聖人になった。

寺院の創建は830年だが、現在の聖堂は概ね11世紀後半に作られカノッサの屈辱で有名な神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世が聖別式に臨席している。
その後13世紀前半に現在の玉ねぎ型の頂塔がのせられた。また1075年の法令で帰国する船は貴重品を寄進するよう命令され、それを使って表面装飾が施された(小さな尖塔や彫像など)。
更に入口が現在のように5つのアーチに作り変えられた。中央3つの入口付近の彫刻は13世紀のもの。

大聖堂の一番左の入口の上には、画像のような13世紀頃のモザイク画がある。
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「サン・マルコ大聖堂に運ばれる聖マルコの遺体」を描いた物だ。聖堂内部は撮影禁止だが、同様な金色のモザイクがドームやアーチのあらゆる所に施されている。
主に旧約聖書のエピソードを題材にしている絵で、当時は読み書きが出来ない人にも聖書の内容を教える役割を果たしていた。

マルコ・ポーロの少年時代はこのモザイクの装飾作業中で(モザイクは1277年頃完成した)、マルコ・ポーロも職人が働く様子を見たのだろう。


ガラス工房を見学する。

13世紀にはまだ市内にもガラス工場が建っていた(現在は北側のムラーノ島に集中)。
マルコ・ポーロも、ガラス職人の巧みな技を間近で見たであろう。
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ガラス職人は少なくとも13世紀には同業組合を結成し、その製法の秘密を明かす事は無かった。
当時ガラス職人は、あらゆる職人の中で最も尊敬され大事にされていた。
その娘が貴族と結婚した場合、通常ならばこのような身分違いの結婚でできた子供は大評議会の議席を得る事はできなかったが、ガラス職人の場合は認められる事があった。
また統領の就任パレードの先頭は、常にガラス職人の組合だった。

ヴェネツィアンガラスは実用品というよりも工芸品で、耐久性・耐熱性がそれほどあるわけではなく、グラスの場合は値段も最低1万円はするようである。色とりどりのガラスを溶かしてくっつけたペンダントやブローチが買いやすい。


昼前にゴンドラ観光に出発。
小雨が降ってきたので心配したが、無事行なわれてよかった。
想像していたよりもよかったです。
ゴンドラのゆったりとした揺れが心地よい。

運河の水面近く、低い目線から見たヴェネツィアの街は新鮮でした。
運河に面した人々の生活が、生々しく感じられた。
橋を渡る女性は、丈の短いスカートは避けたほうが良い。
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当時のヴェネツィアの家々は、窓が小さく少なく、狭い運河に面しているので光が入ってこず、室内は暗くじめじめしていた。
衛生設備もなく、水洗処理は潮の満ち引きにまかせていた。
人々は光を求めて路上で過ごす事を好んだ。

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その2

デザートはジェラート。
3個も入っていて、こちらの料理はパスタもピザも量が多くて感激です。
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泊まったホテル内はヴェネツィアの路地と同様、通路が迷路のようだ。自分の部屋に行き着くのにひと苦労。
日本の旅館で、2号館、3号館と増築して通路が複雑になっているものがあるが、あれと似ている。

ヴェネツィアのホテルの浴室は水はけが悪く、浴槽に溜めた大量のお湯を排出すると浴室の排出口から汚い水が出て来てびっくりした。

当時、巡礼の途中にヴェネツィアに立ち寄ったバッサウの司教が、宿屋をこう評している。
「ストーブも下水もなく、衛生設備は何もない。ベッドは貧弱で、調度はガタガタに傷んでいる。だが、ヴェネツィアの宿の主人たちは、寝室を花で飾ると言う喜ばしい習慣を持っている」

花はありませんでしたが、ヴェネツィアングラスの明かりが花を咲かせていました。
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9月9日。
ヴェネツィアの観光開始。
今日の午前は他のツアー客と主要個所を観光する。そして午後の自由時間に、いよいよマルコ・ポーロの家と埋葬地を探しに行く。

肉眼で見るサン・マルコ広場に感激!
13世紀のサン・マルコ広場は今ほど路面が高くなく、画像右端の鐘楼もまだ低く工事を継続していた。
現在の路面は1722年にトラカイトとイストリア石で敷かれた物。
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三方をアーケードのある建物で囲まれている。
北が旧行政館(画像左に見える)、南が新行政館、西がナポレオン翼。

13世紀のヴェネツィアは、「素朴な生き方とか、政治や商業における潔白とか、厳格高尚な精神といったものはほとんど期待されず、市内は仕事と快楽、情熱と悪徳で常に沸き返っていた」。
「道徳や習慣に厳しい事は一切なく、ヴェネツィアの女はその無節操さでイタリア中に聞こえ」ていた。
隔離後のゴッサムシティみたいな所だったのか?

しかし「市民は本質的には明るく、享楽的で、屈託なく、今と変わらなかった。彼らのカレンダーは、多くの楽しい華やかな聖人の日や、祭日で一杯だった」。
そういえばヴェネツィアの男性は至る所気楽そうに鼻歌を歌っていた。

サン・マルコ運河に面したサン・マルコ小広場。
画像左側はドゥカーレ宮殿、右側はサンソヴィーノ図書館。
ドゥカーレ宮殿の柱廊の近くはブローリオ(策略)と呼ばれ、貴族達が歩きながら策略を巡らした場所。
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2本の大理石の太い柱はフェニキアのチュロスからの略奪品で12世紀に運ばれて来た。3本目の柱もあったが近くの海中に沈んだらしい。2本の柱は長らく横倒しにされていたが1172年に技師ニコラ・バラッチエリが立たせる事に成功した。

右の柱の上には聖テオドルスの像が置かれた。聖テオドルスはポントゥスで殉教したギリシア人兵士でヴェネツィアの最初の守護聖人。ワニを踏んでいる。頭はポントゥス王ミトリダテス像から、胴体はローマ時代の彫刻の一部と考えられている。
左の柱の上はヴェネツィアの象徴、「サン・マルコの獅子」だが、マルコ・ポーロの生存中には置かれていなかった。

13世紀、この2本の柱の間に賭博台が置かれていた。バラッチエリがヴェネツィアにおける賭博の独占権をもらった事による。また、ギャンブルと同時に処刑や拷問もこの柱の間で行なわれるようになった。

当時、この近くの波止場には、ヴェネツィアの輸出品(ガラス、塩、魚、木工品、織物、錬鉄)や、東洋と西洋の積み替え用の荷物(絹、香辛料、宝石、各地の織物)、ギリシャ等の寺院から略奪した大理石の石材が山積みされていた。
ヴェネツィアは中世ヨーロッパ最大の商業都市であり、貨物の集散地だった。

左奥に見えるサン・マルコ運河の向こうのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会は、当時は鐘楼がなく小さな建物だった。

ドゥカーレ宮殿の中庭。
通常のサイズに伸ばして見てください。パノラマ合成が完璧に失敗しています。
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ドゥカーレ宮殿はヴェネツィアの統領の政庁。
810年に城砦として作られたが、残念ながら今の建物は14~15世紀のもの。
12世紀の建物も一部残っているらしいが、どこにあるかわからない。
中庭は16世紀に造られ、画像奥に見えるブロンズの井戸も16世紀。
中庭の北側にはサン・マルコ寺院がある。

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イタリア旅行・ヴェネツィア~その1

イタリア本土とヴェネツィア本島(ジューデッカ島)を結ぶリベルタ橋からヴェネツィアを望む。心躍る光景だ。
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ヴェネツィアは100以上の島、100の運河、400の橋があると言われる。

マルコ・ポーロの生きた1254年~1324年のヴェネツィアは、東方貿易を巡るジェノヴァとの抗争の時代だった。この頃のヴェネツィアとマルコ・ポーロの動きを年代順にまとめてみた。

1204年、ヴェネツィアの統領ダンドロが第4回十字軍と共にビザンツ帝国を崩壊させ、新たにラテン帝国を建国した。これによりクレタ島などの新領土を大幅に増やし、東方貿易において圧倒的優位に立った。
1230年、ドミニコ会とフランチェスコ会が到来。教会の建造を始める。
1254年、父ニコロと叔父マッフェオがコンスタンチノープルに向け旅に出る(背景としてヴェネツィア商人の東地中海における優位があった)。
ヴェネツィアでマルコ・ポーロ誕生。
その後ニコロとマッフェオはラテン帝国とビザンツ帝国間の不穏な動きを察して黒海方面に移動。最終的に中国まで行くことになる。
1261年、小アジアに逃れて抵抗していたビザンツ皇帝がジェノヴァと共同してラテン帝国を倒し、ビザンツ帝国を再建した。ヴェネツィアは苦境に。ジェノヴァとの抗争が激化。
1268年、ロレンツォ・ティエポロが統領に選ばれる。
1269年、ニコロとマッフェオが中国の上都(=シャンドウ、ザナドゥ)からヴェネツィアに帰還する。

1270年、ニコロ、マッフェオ、マルコが中国に旅立つ。
1274年、上都に到着。
1282年、教皇マルティヌス4世が、フランスのアンジュー家のシチリア王復位への助力を断られた腹いせに、ヴェネツィアに聖務停止令を出す。あらゆる宗教行事が禁止に。
1285年、地震と洪水が発生。
1290年、ニコロ、マッフェオ、マルコが中国を出発。
1291年、十字軍の根拠地、パレスチナのアークル(=アクレ、アッカ)がエジプトのマムルーク朝に占領される。ヴェネツィアはイスラム教徒との協定でキリスト教巡礼者の護衛に関する独占的権利を得る。これにより東方貿易で優位に立つ。ジェノヴァが反発。
1294年、ライアスの海戦でヴェネツィアがジェノヴァに敗れる。
1295年、ニコロ、マッフェオ、マルコがヴェネツィアに帰還。

1296年、マルコがジェノヴァ軍に捕まる。牢獄内で東方見聞録の作成開始。
1298年、クルゾラ沖の海戦でヴェネツィアがジェノヴァに大敗。東方見聞録の作成完了。ニコロ・ポーロ死亡?
1299年、ミラノのマテオ・ヴィスコンティの仲裁で、ヴェネツィアは不利益を被ることなくジェノヴァとの停戦条約に調印する。マルコが釈放されヴェネツィアに帰還。
1309年、フェラーラのエステ家の後継者問題でヴェネツィアとローマ教皇が対立。クレメンス5世がヴェネツィアと市民を破門する。ヨーロッパ各地で商業活動に深刻な影響。
1310年、上記の問題に乗じてマルコ・ケリーニが反乱を起こすが失敗する。
1310~1318年、マッフェオ・ポーロ死亡。ヴェネツィアが多額の罰金をローマ教皇に払い、破門を解除される。
1321年、ダンテがヴェネツィアを訪れる。
1324年、マルコ・ポーロ死亡。
1347年、大地震。
1348年、黒死病が伝染して荒廃する。

災害等はあったものの、商業活動地域の拡大、ジェノヴァの衰退、自身の政治体制安定度の高さから、このあとヴェネツィアは順調に発展を続け間もなく絶頂期を迎えることになる。

車が入れるのはローマ広場までで、ここからはモーターボートでホテルに向う。
ヴェネツィア本島内の交通手段は船と足だけだ。
目立つのは観光客ばかりで、そのせいか落し物をするとすぐに拾って声をかけてくれる。
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大運河を経てホテル近くの船着場へ。
建物の表玄関は運河に面してつけられている。
運河はメイン・ストリートなのだ。
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船着場からホテルまで細い路地を通る。
島内は至る所建物が密集して狭い路地が毛細血管のようだ。
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13世紀のヴェネツィアは既に土地不足だった。
市民の商品に対する飽くなき欲望を満たす為に、外国から労働者、技術者が連れてこられ、工場が次々に建てられた。
ガラス工場は、大評議会の命令でムラーノ島に移転させられた。

LA Caravellaという店で夕食。
1皿目の料理のトマトスパゲティは中々おいしい。
メインディッシュのサーモン・グリルはまあまあ。
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イタリア旅行・ミラノ~その4

ドゥオーモの中は広くて薄暗くてひんやりしている。
外の喧騒とは隔絶した別世界だ。
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片側の壁沿いには懺悔室がいくつもあり、信徒が懺悔していた。
初めて見たが、このような光景を観光旅行で見ると言うのは、何か後ろめたさを感じる。
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そっと椅子に腰掛けると、たちまち落ち着いた気分になった。
この薄暗さ、広さ、ひんやりとした空気、全て瞑想に最適の環境を計算して作られているように思われる。
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忙しい観光の合間、束の間の休息を味わってからドゥオーモを出た。

GALILEOという店で、ミラノ風カツレツを食べた。
1皿目の料理はサフラン色のリゾットだが味はまあまあ。
カツレツはスパイスが効いていておいしかった。
両方ともミラノの名物料理。
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ちなみに観光した場所の”グーグル・アース”(地球検索ブラウザー)の座標は以下の通りです。
①サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
45 27' 57.45"N 9 10' 12.24"E
②スフォルツァ城
45 28' 12.26"N 9 10' 44.24"E
③スカラ座(そばにスカラ広場とダビンチ像が見える)
45 28' 02.77"N 9 11' 19.15"E
④ヴィットリオ・エマヌエレ2世のガッレリア(上から見ると十字架の形だった)
45 27' 56.27"N 9 11' 20.76"E
⑤ドゥオーモ(尖塔が林立しています)
45 27' 51.07"N 9 11' 26.70"E

”グーグル・アース”についてはこちらを。
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20050701303.html

"FLY TO"ボタンを押してすぐ下の窓に上記の座標をコピー&ペーストして入力し、脇のSearchボタンを押すと座標の場所に飛べます。

ミラノを後にして、いよいよマルコ・ポーロの生まれ故郷、念願のヴェネツィアに向う。
以降、ヴェネツィアとマルコ・ポーロに関する記述は、以下の著作に基づいています。
ヘンリー・H・ハート著「ヴェネツィアの冒険家」
クリストファー ヒバート著「ヴェネツィア〈上〉」
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イタリア旅行・ミラノ~その3

ガッレリアの中央付近の床には牛のモザイクがある。
これにかかとをつけて時計回りに回ると金が儲かると言う。
みんな何故か反時計回りに回っていました。
ガッレリアの中には、ぼったくりバール(カフェ)もあると言われた。
その店を覗いたら客がほとんど入っていなかった。
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ガッレリアを抜けると、左手にドゥーモ(大聖堂)がありました。
さすがに大きい。
1386年に着工して500年かかってようやく完成したそうだ。
正面は修理中で見られないのが残念。
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建物の周りは数え切れないほどの彫刻で覆われている。
そびえたつ尖塔は135本。
聖母マリアを祀っているので、ひときわ高い尖塔には金色のマリア像がある。
ゴシック建築の傑作と言われるだけあって、実に美しい。
屋上に登れるのだが、時間が無くて登れない。
間近で林立する尖塔を見たら、感動もひとしおだろう。
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入場前にテロ対策の荷物チェックを受ける。
イタリアはイラクに派兵しているしカトリックの国なので、有名な寺院内に入るときは必ずチェックを受ける(そういえばもうすぐ9月11日だ)。
聖堂内に入る。
何かのミサが終りかけているところで、パイプオルガンの荘厳な響きがすばらしい。
静かに蝋燭が点される中、祈りを捧げる人たち。
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仰ぎ見るステンドグラスは暗い室内に映えて色鮮やか。
写真はピントがズレてしまいました。
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イタリア旅行・ミラノ~その2

スフォルツァ城。
ヴィスコンティ家の後ミラノの実権を握った傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァにより1466年に作られた。
見るからに実用的で堅牢そうな城だ。
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内庭への城門。
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スカラ広場。
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周囲をスカラ座や市庁舎が囲み、真中にはレオナルド・ダ・ビンチの像がある。
向こう側にはヴィットリオ・エマヌエレ2世のガッレリアの入口がある。
イタリアの信号は歩行者に冷たい。
7,8秒で変わってしまうので、すぐに横断歩道を渡らなければ。
というか、みんな信号無視して渡ってる。

スカラ座。
新宿ミラノ座や新宿スカラ座には行った事があるが、本家は初めて。
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ヴィットリオ・エマヌエレ2世のガッレリアの中心部。
ヴィットリオ・エマヌエレ2世のガッレリアは世界最初のアーケード街。
ヴィットリオ・エマヌエレ2世はイタリアを統一したサルディニア王。
中にはファッションブランド店が並ぶ。
画像はキンピカのプラダ本店。
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上部には世界四大陸を描いた絵画。プラダの上はヨーロッパだったかな。
マクドナルドの上は何だっけ?マックが世界を支えている図は現実味あります。

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イタリア旅行・ミラノ~その1

日本からイタリアに向かう飛行機からの眺め。

ブレスト=リトフスク?
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ウィーン。
さすがに上空から見ても綺麗な街並みです。
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オーストリアアルプス。
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9月8日。
ミラノ観光の始まり。

今回の旅行に先立ってイタリア史の本をかじってみた。
ローマ帝国を経て6世紀のランゴバルド族の侵入以降100年前のイタリア統一まで、イタリアはひとつの国としてまとまった事がなく、歴史を辿っても非常にわかりずらい。
しかし地中海の真中に位置することから交易上有利で、ローマ帝国、ルネサンスと、二度も世界史をリードした国である。
大航海時代以降は、交易の主導権を奪われてフランス、スペイン、オーストリアの半植民地状態になってしまう。
今回、歴史に関する記述に関しては、山川出版社の「イタリア史」を参考にしております。

マルコ・ポーロの生きた13~14世紀のミラノは、ヴィスコンティ家が支配を始めた頃で、経済的にもフィレンツェ、ヴェネチア、ジェノヴァと並んでイタリア商人の勝ち組になった。

写真はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。
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ヴィスコンティ家後の支配者スフォルツァ家のルドヴィコ・イル・モーロがレオナルド・ダ・ヴィンチを招いて描かせた「最後の晩餐」の壁画がここにある。
入るとまず徹底した湿温度管理に驚く。壁画のある部屋に入るまで、外気を入れないよういくつもの小部屋を通過しなくてはならない。
「最後の晩餐」は劣化が激しいが、空間の広がりを感じさせかつドラマチックな構図等々、美術に無知な私でも同時代の他の絵との違いは歴然だった。

ファッションの街ミラノは繊維産業が盛ん。
駅前には針と糸のオブジェ。
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イタリア旅行・飛行機からの眺め

イタリアに行ってきました。
ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ローマを周る、一般的なツアーです。
8日間のはずでしたが、帰りの飛行機が一日遅れになってしまい、9日間になりました(前回の敦煌もそうだった・・・)。
今回の旅の目的は、ヴェネチアのマルコ・ポーロの家と埋葬地を訪ねる事です。またローマでは模型屋に行ってきました。両方ともおいおい上げていきたいと思ってます。
出発した9/7は丁度台風14号が日本海を北上中で、飛行機も並行して北上しました。
日本上空は雲だらけでした。
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かなりの高度にまで雲がある。
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ハバロフスク周辺。
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モスクワ~カリーニン間(たぶん)。
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ミンスク市。
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KURSK~その23

第7ソ連軍プレイヤーターン(7/17~18)。
独軍有利のまま最終ターンになったが、敵ユニットの補給を断てば全滅させなくても得点になるので、突破~包囲できる場所が無いかどうか調べる。
前ターン突破したKharkov周辺で独ラウス軍団司令部を包囲できるかもしれないと考え、攻撃することにする。
ヘクス919の第282歩兵師団を攻撃して、更にヘクス1017の第213保安師団を蹂躙してヘクス1119のラウス軍団司令部を包囲する。

1.移動フェーズ
上記計画に基づき移動。
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2.戦闘フェーズ
第1戦闘セグメント。
①ヘクス0919の第282歩兵師団(5ステップ)に対して、第25、32,33親衛、64,68狙撃兵軍団+一個狙撃兵師団(総戦力55)で攻撃。
砲兵の弾幕射撃で4シフト有利。
空軍地上支援で2シフト有利。
独空軍地上支援で2シフト不利。
独軍は耐久力5ステップで賽の目1不利。
戦闘結果は、攻撃側2、防御側4損害。
独軍は3ステップロスで1ヘクス後退。

第2戦闘セグメント。
①引き続きヘクス0918の第282歩兵師団(2ステップ)に対して、第32,33親衛狙撃兵軍団(総戦力24)で攻撃。
独軍は耐久力2ステップで賽の目1有利。
戦闘結果は、攻撃側2、防御側3損害。
今一歩足りず第282歩兵師団を全滅させる事ができなかった。
独軍は1ステップロスで2ヘクス後退。ラウス軍団司令部の西側に配置する。
これでラウス軍団司令部の包囲はできなくなった。

3.機械化移動フェーズ
①折角なので攻撃を続行する。ヘクス1017の第213保安師団(2ステップ)に対して、第2,23戦車軍団(総戦力26)で攻撃。
蹂躙攻撃なので2シフト不利。
独軍は耐久力2ステップで賽の目1有利。
戦闘結果は、攻撃側2、防御側2損害。
ソ連軍の攻撃はKharkovまで2ヘクスに迫ったところで終った。
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第7ターン終了時の損害状況。

独軍
・全滅
第45,72、168歩兵師団
・5ステップロス
第3装甲師団
・4ステップロス
第2,9、19、20装甲師団、第78SM歩兵師団。
・3ステップロス
第68、26、251、137、6、7、258、327、383、282歩兵師団、第4、6、11装甲師団、LAH、DR、TK、第10装甲擲弾兵師団。
・2ステップロス
第7、8、12装甲師団、第75歩兵師団
・1ステップロス
GD,第20装甲擲弾兵師団、第56、293、208、161、262歩兵師団、第707保安師団
その他一個戦闘団が1ステップロス。

ソ連軍
・全滅
第108、140、181、167、280、246、356、250、60、69、194、271、348、354、217、415、41、324、110、397、303狙撃兵師団、第48、77、89狙撃兵軍団、第3、16、19、6戦車軍団、第5親衛機械化軍団、その他1個師団。
・4ステップロス
第28狙撃兵軍団
・3ステップロス
第3機械化軍団、第30、18親衛、15狙撃兵軍団、第20戦車軍団
・2ステップロス
第1親衛戦車軍団、第25親衛、29狙撃兵軍団
・1ステップロス
第2,23、31戦車軍団、第16親衛、8親衛、32親衛、33親衛、36親衛、40狙撃兵軍団、第397、110狙撃兵師団、第160要塞化師団、その他1個師団。
・対戦車砲
28レベル
・砲兵
9レベル
・孤立
第38軍司令部、7個師団。

勝利ポイント取得状況
独:71、ソ:14
得点差57で、独軍の戦術的勝利。

終っての感想。
・独軍の作戦は突出部の先端から攻めると言う事で確定だと思われる。
・大戦力のソ連軍が立て篭もったLgovを攻め落とすのは容易でなく、十分な戦力を準備してからでないと無理。
・独軍は所属変更を多用して、砲兵弾幕射撃を活用できるようにすべきかもしれない。
・ソ連軍の、OrelとKharkov攻略の方法とタイミングについては研究の余地あり。
・支配領域が及ばない都市と大河川が前線にある場合は、思わぬ場所から突破される可能性があるので注意が必要。
・防御方法は、他のゲームと同様二重戦線が有効だが下手すると最前線のユニットが退却できなくなるので(退却時はスタック制限がある)、抜け道を作る必要がある。

補給判定のタイミング等々、細かい部分に神経を使うゲームである。
ゲームに慣れないうちは、行動ミスで独ソどちらにも勝機があるような気がする。

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KURSK~その22

第7ターン(7/17~18)開始。
空軍フェイズ。
双方迎撃なし。

独軍プレイヤーターン。
既に勝利に必要な点数を取っているので、ソ連軍に隙を見せないよう戦線を固める。増援として登場へクスがKharkovに近いSS Wiking装甲擲弾兵師団を選択し、Kharkovに配備する。
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前ターンのソ連軍予備グループ戦闘準備により、2点取得。
また、残った補充ポイントで2個装甲擲弾兵師団の損害を回復し、ソ連軍の勝利点が2点減った。

勝利ポイント取得状況
独:71、ソ:14

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KURSK~その21

第6ソ連軍プレイヤーターン(7/15~16)。
なんとか引き分けに持ち込むために、独軍から勝利点を奪える場所を探す。
前線付近の勝利点ヘクスは全て独軍が固く守っており、奪うのは不可能。
sudzhaの南、rakitnoeの歩兵師団を突破して包囲されている第38軍に補給線を繋ぎ、包囲している独第2軍の諸司令部を撃破して得点を稼ぐ、という方法を考えたが、rakitnoe付近は地形が峻険で交通の便が悪く、戦力を集められない事がわかった。
視点を変えて、今までにまったく戦闘が起きていないKharkov周辺を見ると、もしかしたら戦線突破してこのターン中にKharkovを占領できるのではないかと思えて来た。
この付近は戦線が薄くKharkovまでは大して距離がない。ソ連軍は予備軍に戦闘準備させれば戦力を集める事ができる。若干だが砲兵ユニットも残っていた。
前線の独軍歩兵師団を第1戦闘セグメントで砲兵を使って最大火力で攻撃、第2戦闘セグメントで全滅寸前にして機械化移動フェーズで機動モードにした戦車軍団で蹂躙して止めを指す。そのまま道路移動でKharkovに突入。
強襲モードの歩兵軍と機動モードの戦車軍、それに数個の砲兵が揃えば戦線突破が可能だとわかった。
後は攻撃戦力のあるfatezhとOrel周辺で攻撃を続行する。

1.移動フェーズ
上記計画に基づき移動。南西方面軍直属の戦車軍団とステップ方面軍の第5親衛軍に戦闘準備させた。
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2.戦闘フェーズ
第1戦闘セグメント。
①Kharkov東方ドネツ河と塹壕線に守られたヘクス0920の第161歩兵師団(5ステップ)に対して、第2、23戦車軍団、第25親衛、64,68狙撃兵軍団+一個狙撃兵師団(総戦力61)で攻撃。
定点守備モードかつ塹壕かつ龍の歯効果で、3シフト不利。
大河越えで2シフト不利。
窪地の下からの攻撃で1シフト不利。
砲兵の弾幕射撃で4シフト有利。
空軍地上支援で2シフト有利。
独空軍地上支援で2シフト不利。
独軍は耐久力5ステップで賽の目1不利。
戦闘結果は、攻撃側2、防御側3損害。
独軍は1ステップロスで2ヘクス後退。
ソ連軍は損害をステップロスで吸収し戦闘後前進するが、塹壕線なので1ヘクスで停止。
独軍が2ヘクス後退した事によって第2戦闘セグメントで攻撃できなくなり、計画は破綻してしまった。
②fatezhの第2、9、20装甲師団(12ステップ)+9戦力の対戦車砲、13戦力の砲兵に対して、第5親衛、20戦車軍団、第1親衛機械化軍団、第10戦車軍団、第1親衛戦車軍団、第28親衛狙撃兵軍団(総戦力84)で三方から攻撃。
まず独軍対戦車砲の攻撃を受ける。
ソ連軍の地形効果等を見ながら9戦力のうち8戦力を三方に振り分けて攻撃する。
3スタックにそれぞれ1損害を与えた。攻撃戦力は大幅に減り71になった。
ソ連軍の攻撃。
独軍は13戦力の砲兵でソ連砲兵に対砲兵射撃。
6シフト分のソ連弾幕射撃を無効にした。
都市なので1シフト不利。
空軍地上支援で2シフト有利。
独空軍地上支援で2シフト不利。
独軍の耐久力は12ステップなのでサイの目3不利。
戦闘結果は攻撃側3、防御側3損害。
双方損害をステップロスで適用。
③オリョール東方の第25、41狙撃兵軍団、第110、397狙撃兵師団(総戦力24)で、ヘクス4128の第262歩兵師団(4ステップ)+対戦車砲3戦力、砲兵7戦力を3方から攻撃。
まず独軍対戦車砲の反撃により、3スタックがそれぞれ1ステップロス。総戦力は18に。
ソ連軍の攻撃。
もと8シフトあった弾幕射撃は独軍対砲兵射撃で3シフトに減らされる。
独軍定点守備モードで1シフト不利。
独空軍地上支援で1シフト不利。
結果は攻撃側2、防御側3損害。
独軍は2ヘクス後退、ソ連軍はステップロスで適用したが攻撃戦力が大幅に削がれてしまった。
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第2戦闘セグメント。
①fatezhの第2、9、20装甲師団(9ステップ)+1戦力の対戦車砲に対して、第5親衛、20戦車軍団、第1親衛機械化軍団、第10戦車軍団、第1親衛戦車軍団、第28親衛狙撃兵軍団(総戦力65)で三方から攻撃。
まず独軍対戦車砲の攻撃を受ける。
1損害を受けて攻撃戦力は61になった。
ソ連軍の攻撃。
都市なので1シフト不利。
独軍の耐久力は9ステップなのでサイの目2不利。
戦闘結果は攻撃側3、防御側3損害。
双方損害をステップロスで適用。
続く戦闘で独第2、9、20装甲師団の耐久力は定数の1/3に減ってしまった。
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3.機械化移動フェーズ
次ターンの独軍の攻撃に備え、戦線を整理する。
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第6ターン終了時の損害状況。

独軍
・全滅
第45,72、168歩兵師団
・5ステップロス
第3装甲師団
・4ステップロス
第2,9、19、20装甲師団、第78SM歩兵師団。
・3ステップロス
第68、26、251、137、6、7、258、327、383歩兵師団、第4、6、11装甲師団、GD、LAH、DR、TK、第10装甲擲弾兵師団。
・2ステップロス
第25装甲擲弾兵師団、第7、8、12装甲師団、第75歩兵師団
・1ステップロス
第20装甲擲弾兵師団、第56、293、208、161、262歩兵師団、第707保安師団
その他一個戦闘団が1ステップロス。

ソ連軍
・全滅
第108、140、181、167、280、246、356、250、60、69、194、271、348、354、217、415、41、324、110、397狙撃兵師団、第48、77、89狙撃兵軍団、第3、16、19、6戦車軍団、第5親衛機械化軍団、その他1個師団。
・4ステップロス
第28狙撃兵軍団
・3ステップロス
第3機械化軍団、第30、18親衛、15狙撃兵軍団、第20戦車軍団
・2ステップロス
第1親衛戦車軍団、第25親衛、29狙撃兵軍団
・1ステップロス
第31戦車軍団、第16親衛、8親衛、36親衛、40狙撃兵軍団、第397、110狙撃兵師団、第160要塞化師団、その他1個師団。
・対戦車砲
28レベル
・砲兵
9レベル
・孤立
第38軍司令部、7個師団。

勝利ポイント取得状況
独:69、ソ:16

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KURSK~その20

第6ターン(7/15~16)開始。
空軍フェイズ。
双方迎撃なし。

独軍プレイヤーターン。
あと3点で勝利が得られるが、北部勝利点ライン周辺はソ連軍が固めていて簡単に取れそうに無い。そこで他にポイントを稼げる場所を探してみた。
するとLgovの北、ヘクス3217に消耗した2個戦車軍団(第2戦車軍)が見つかった。
その少し南のヘクス3017にいる要塞化師団を退却させれば第2戦車軍の退路を断って全滅させる事ができそうだ。2個戦車軍団で4点得られる。

移動フェーズ。
上記の計画に基づき移動する。
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戦闘フェーズ。
第一戦闘セグメント。
①ヘクス3017にいる第160要塞化師団(3ステップ)に対して、LgovのLAH,DR装甲擲弾兵師団と前線に到着した第327歩兵師団+軍団砲兵の弾幕射撃(総戦力61)が攻撃。
戦闘結果は攻撃側3、防御側3損害。
第160要塞化師団は後退して独軍が前進し、第2戦車軍の退路を断った。
②へクス3217にいる第3、16戦車軍団(3ステップ)に対して、第251,137,258,383,78sm歩兵師団、第707保安師団、第5装甲師団、第653,654駆逐大隊+軍団砲兵の弾幕射撃(総戦力76)が攻撃。
ボロボロの3個軍団を集めての攻撃。
戦闘結果は攻撃側1、防御側5損害。
ソ連軍は退路を断つまでもなく全滅。独軍は4勝利点を得た。
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機械化移動フェーズ。
勝利に必要な得点を稼いで特にする事もなく戦線整理のみ。
尚、前ターンにLgovを占領したので、第17装甲師団が増援として来た。
独軍にはまだ余力がある。
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独軍の勝利点は69、ソ連軍は16。
差は53。独軍は2点余裕がある。

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