074フフホト(内蒙古自治区)

銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その15(フフホト・万部華厳経塔(白塔))

マルコ・ポーロが東方見聞録に、
「テンドゥク(天徳軍)は東方に位置し、境内に都市・集落を多く含んだ大州であって、カーンに隷属する。首府も同じくテンドゥクと呼ぶ。」
と書いた、天徳軍に向かう。フフホト市区の東17キロ、白塔村の「万部華厳経塔」である。
高さ55.6メートルもある事から、マルコ・ポーロも恐らく目にしたのではないかと思われる。Dsc00891a14:04、
万部華厳経塔に着いた。
万部華厳経塔のある「豊州遺跡」は天徳軍と呼ばれていた。
文末資料によるとその城壁は東西の長さ1180メートル、南北1125メートルの方形であり、高さは最高で5メートル、門は東西南にあった。
その中で、万部華厳経塔は北西部分にあり、大明寺という寺の蔵経塔だったらしい。
建設年代は、10世紀後半から11世紀前半、遼の時代だった。
現在は国の重要文化財保護地になっている。
入り口から入る。Dsc00892a観光をしているのは我々くらいのもので、寒風が吹きすさんで身を切るような冷たさである
銀川の拝寺口双塔と同様、風鐸のかすかな美しい音色が、物悲しい雰囲気を醸し出している。
塔の平面は八角形をしており、基壇の一辺は6.6メートル、基壇の高さは約4メートル。
7層からなり、円錐形の屋根とその上の相輪は壊れていたものを修理によって復元している。
基壇にはひょうたん型の文様が2層あり、その上が何かの花草の浮彫、その上が高欄で、雷文系の組子文様、更に何かの花草の浮彫がある。
その上は3層からなる蓮座になっている。
その上が入り口のある建物になっており、1層と2層は外面に浮彫がある。
1層では、アーチ型の入り口は北側と南側にあり、その左右に武器を持つ四天王の浮彫、他の6面には格子窓があり、左右に菩薩像、上に仏坐像の浮彫がある。角の部分には龍の浮彫が巻き付いている。
2層では、アーチ型の入り口は東西面にあり、その左右に武器を持つ四天王の浮彫、他の6面には格子窓があり、左右に菩薩像の浮彫がある。角の部分には龍の浮彫が巻き付いている。
3層以上には浮彫はなく、ただアーチ型の入り口と格子窓があるのみである。
北東方向から塔を見る。Dsc00893a南側から塔を見る。Dsc00902a基壇の何かの花草の浮彫。Dsc00903a南側から塔を見上げる。Dsc00900a西南西から塔を見上げる。Dsc00904a南面のアーチ型の入り口と四天王の浮彫。青い額とアーチの間には、篆書体で「万部華厳経塔」との文字が見えるが、100年前の改修時につけられたものかもしれないと文末資料にあった。Dsc00901a_2屋根の下の風鐸Dsc00898a北側の入り口。近年に取り付けられた木製の階段があり、中に入ることができる。Dsc00894a入り口から下を見たところ。Dsc00899a入り口右側の四天王の浮彫。取れかかっていて、鉄の棒で補強されている。Dsc00897a入り口の扉。落書きが多い。Dsc00896a内部には細い八角形の回廊がある。
東西南北に画像のような壁龕があり、昔は仏像が安置されていたらしい。
お供え物のようなものが置いてあった。
壁が厚い為、内部は暗く、懐中電灯かヘッドランプが必要。
今回は懐中電灯もなく、入らなかった。
上に上がる階段は、北側から入ると左に回り込んだ位置にある。
内部には金の時代にはめ込まれた石碑が1層目に6か所あり、地名、人名が刻まれている。もとは9か所にあったらしいが、3か所は紛失している。
他に各層の内部の壁面の、日の光が当たる部分に、遼時代以降の各時代に書かれた題記が無数にあるようだ。題記は漢字、契丹文字、女真文字、モンゴル文字、チベット文字、パクパ文字で書かれている。これも資料的価値があるとの事。Dsc00895a14:26発。
張家口へ向かう。


引用・参考文献

書名   :モンゴル仏教紀行                                                   
著者名  :菅沼晃 著                                  
出版者  :春秋社
 
書名   :村田治郎著作集 3 中国建築史叢考                                                   
出版者  :中央公論美術出版

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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その14(フフホト・内蒙古博物院)

内蒙古博物院へ向かう途中です。フフホト市内の風景。Dsc00846aDsc00847aDsc00849aDsc00850aDsc00851aDsc00852aDsc00853aDsc00854a10:36、内蒙古博物院に着きました。
もともと1957年に開設されたのが文化大革命で閉鎖に追い込まれ、1981年に再度公開された。
今の建物は2007年にできたもので、全14棟からなり、まるで未来都市のような景観である。Dsc00855aDsc00856aDsc00857aそれでは行きましょう。Dsc00858a人がこんなに小さい!Dsc00859aそれにしてもユニークな造形ですね。Dsc00860a博物館はいくつかのエリアに分かれていますが、私が見たのは以下のエリアです。全て回り切れませんでした。
全ての収蔵点数は12万以上と言われ、2時間程度では全てを見るのは無理です。
1.恐竜の時代
2.マンモスなど哺乳類
3.内モンゴル自治区の地形、自然
4.鉱物
5.宇宙研究
6.モンゴル人の歴史
写真は自由に撮ることができます。Dsc00861a1.まず大きな恐竜の骨格が現れます。長さ30メートル程でしょうか?とにかく大きいです。
この博物館の目玉と言えるでしょう。Dsc00862aプテラノドンも飛んでいます。
また、モンゴル高原は昔海だったので海中生物の化石が多く発見されるというのも驚きです。Dsc00863a2.マンモスの骨格は、全長9メートル位でしょうか。これは何の骨格だっけ。Dsc00864a3.内モンゴル自治区の砂漠、湖、草原、山地について詳しく解説しています。
魚は鯉、狗魚など思ったよりも少品種でした。
4.鉄、石炭、レアアースの有数の産地であることを説明しています。レアアースの標本があります。
5.ロケットの発射台、着陸(回収)場所がある為、宇宙研究が行われていることを説明しています。Dsc00865a6.モンゴル人の歴史
モンゴル族の移動式天幕の実物展示です。Dsc00866aDsc00874aこれは大ハーンの姿でしょうか。蝋人形が良くできています。Dsc00867a金の装飾品、腰帯、モンゴル帝国の役人が被る鉄の帽子です。Dsc00868a誰の像だったか…覚えていません。背後の絵の人物でしょうか?
元朝が北に追いやられた時、元朝の宮殿にあった皇帝や将軍の石像が、全て首を刎ねられたという話を思い出しました。Dsc00869aこれらは
元上都遺跡から出土された建築物です。現地に、瓦などが散乱していたのを思い出しました。Dsc00870aDsc00871aDsc00872a宣教師との謁見のシーンでしょう。謁見しているのは誰なのか?Dsc00873a清の時代の短銃です。Dsc00875aこれも清代で、何のシーンかわかりませんが…。背後の地図は黄河の湾曲部(オルドス地方など)に見えます。Dsc00876a当時の娯楽品の数々。Dsc00881aDsc00877aアバグモンゴル人女性の装飾品。Dsc00878aパオの暮らしDsc00880a祭事の衣装Dsc00882a定住したモンゴル人?Dsc00883a冬の狩りの様子。Dsc00884aDsc00885a12:29発。
12:34、近くのレストランで昼食。ここもサンタクロース飾りです。地元料理を食べる。Dsc00890a前菜…豆で作った皮。Dsc00886aパイ生地にイモの千切り。Dsc00887aシイタケのから揚げ。Dsc00888a豚肉とネギと?のパイ巻。Dsc00889a13:46発、次は
白塔(万部華厳経塔)へ。

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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その13(フフホト・チベット寺院・五塔寺)

五塔寺へ向かう途中です。Dsc00816a9:43、五塔寺(タボン・ソボルガ)に着きました。中に入ります。Dsc00817a中に入ると建物がいくつか見えますが、Dsc00818aDsc00821a一番異色で目立つのがこの「金剛座舎利宝塔」。
五塔寺で、唯一昔から残っている建物らしいです。
石の土台の上に、1119体もの仏像が彫られている高さ16.5メートルの金剛座があり、その更に上に5本の塔が建っています。Dsc00819aDsc00764aDsc00765a金剛座の最下部。Dsc00830a金剛座の下の方には、「金剛般若経」と思われる経文が、サンスクリット語、チベット語、モンゴル語で彫られている。Dsc00831aDsc00824aDsc00823a仏像の多さに圧倒されます。Dsc00829a直線的な美しさを感じます。Dsc00832a後ろ側に、1725年に造られたというモンゴル語の天文図があります。
直径1.5メートルです。Dsc00825aチベット仏教の学問寺に時輪学部(天文学部)があるように、天文図はチベット仏教になくてはならないものなのでしょう。Dsc00828a他に須弥山分布図、Dsc00826a六道輪廻図があります。Dsc00827a供物を供えている場所もあります。Dsc00833a中には、金剛座の屋上に上がる階段があります。Dsc00840a登ってみます。Dsc00839a屋根の上に建つ舎利宝塔。最も高いものは6.62メートルあります。Dsc00836a塔に彫られた仏像を間近に見ることができます。Dsc00835a金剛座の上からの眺めも良いです。Dsc00838aDsc00834aDsc00837a他の建物も見てみます。
これは「
慈灯寺」の額が掲げられた建物。
五塔寺は、清朝によって1727年、
小召(バガ・ジョー)というチベット寺院の子院として建立され、「慈灯寺」と名付けられた。
小召は、五塔寺の近くにあったが、今は楼門しか残っていない。Dsc00842a「慈灯寺」の額。Dsc00845aこのとんがりコーンのようなものは何か?Dsc00841a他にも建物がいくつかありますが、幾分雑な造りです。Dsc00822aDsc00843aDsc00844a10:02発。次は
内蒙古博物館へ。


引用・参考文献

書名   :モンゴル仏教紀行                                                   
著者名  :菅沼晃 著                                  
出版者  :春秋社 

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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その12(フフホト・王昭君墓)

2:20、目が覚めた。いつの間にか眠ってしまった事に気付く。またすぐに眠りに付く。
6:00、時計のアラームで目が覚めた。
6:30、起床。
7:18~朝食。
Dsc00787a7:37、現地ガイドのBさんと会う。
7:47、出発。ホテル
華辰大酒店の外観。Dsc00788a今日は、王昭君墓、五塔寺、白塔、内蒙古博物館を観光した後、河北省張家口に向かう。
まずフフホト市南9キロの、王昭君墓に向かう。
8:15、朝日が昇った。
Dsc00789aDsc00790aDsc00791aDsc00792a8;32、大黒河を渡る。
8:42、
王昭君墓着。Dsc00793a王昭君は、楊貴妃などと並んで中国四大美人の一人だが、ここにその墓所があるとは知らなかった。
王昭君は、紀元前一世紀の前漢王朝時代の人。生没年不明。出生地は中国南部の湖北省沙市と言われる。
前漢の元帝の時代、その後宮に入ったが、紀元前33年、遊牧民族の匈奴との親睦の為、匈奴の呼韓邪単于に嫁ぐことになる。
かつては強大な勢力を誇った匈奴も、この頃は内紛により弱体化し、東西にわかれて争っていた。
その一人、呼韓邪単于は前漢に入朝し、同盟を結ぶことで、匈奴の再統一を図ろうとした。
そして、入朝したとき、後宮の宮女と結婚させてほしい、と申し出た。
元帝は喜び、両国の紛争がなくなることを願い、宮女である王牆(王昭君)を呼韓邪単于の閼氏(妃)とする詔を下した。
王昭君は呼韓邪単于の閼氏として寧胡閼氏(異民族を慰める妃)と号したと言われ、男子を一人もうけた。
しかし呼韓邪単于は3年後に没し、遊牧民族の慣習に従い、義理の息子である復株累若鞮単于と結婚することになる。
そして復株累若鞮単于との間に二女をもうけた。

 

この話が悲劇として後世に語り継がれるのは、元帝のお召しを望んでいたにもかかわらず、絶世の美女が政略結婚の為に北の異境の地に送られてしまった事からだろう。
また、実子ではないとはいえ、子供と結婚するという慣習は、漢民族には受け入れられないものであり、王昭君も最初は断ったという説もある。

 

一方で、王昭君は、中々元帝のお召しが来ないのにしびれをきらし、自ら望んだという説もある。
その他、元帝のお召しがなかったのは、次のような事があったからという説もある。
元帝は、宮中の絵師に後宮の宮女たちを描かせ、それを見て召し出す宮女を決めていたという。
宮女たちは、絵師にわいろを贈り、自分を美人に描かせようとしたが、貧しい家の出であった王昭君はわいろを贈ることができず、美女に描かれることもなかった。
王昭君が最初に召し出されたのは、呼韓邪単于の閼氏になれという詔を伝えるときだったという。
元帝は、王昭君があまりに美しいのを見て後悔したが、既に呼韓邪単于に伝えている事であり、今ここで人を代えれば、あらぬ疑念を生む恐れがある。もはや決定を覆すことはできなかった。
元帝は怒り、絵師たちを市中で公開処刑したという。

ガイドのBさんによれば、ここは王昭君が匈奴の地から、出生地である湖北省沙市への道中で没した場所という。

董必武の詩碑が立つ。
Dsc00794a王昭君の石像。Dsc00795aDsc00797a参道の羊と?。Dsc00796aDsc00813a呼韓邪単于と王昭君の像。
現在では、匈奴と漢民族の間に平和をもたらした民族融和の象徴になっている。
Dsc00798aこの盛り土が王昭君墓。高さ33メートル。
さすがにこの時期は花や草が枯れているが、春夏ならばもっと青々としているそうだ。
王昭君の墓は、周囲の平原が枯れていても、墓の上だけは青々としていたので「
青塚」とよばれているそうだ。Dsc00799a墓を示す石碑。Dsc00800aDsc00801aDsc00802a_2盛り土に上がる途中に供養所がある。Dsc00812a盛り土の上には東屋が立つ。Dsc00803a中に王昭君の墓碑がある。Dsc00804a頂上からの眺めは良く、フフホトの市街から外縁に拡大を続ける建設中のマンション群が見渡せる。Dsc00805aDsc00809aDsc00810aDsc00811a参道を挟んで、左に昭君古里館、右に匈奴博物館昭君博物館がある。Dsc00808a昭君古里館は中国式の建物で、王昭君の郷里の家を表している。Dsc00807aDsc00815a匈奴博物館は遊牧民のパオ式の建物。Dsc00806aDsc00814a9:17出発。五塔寺へ。


引用・参考文献

ウィキペディア

書名   :西域・黄河名詩紀行 カラー版 第4巻 黄河                                                   
著者名  :井上靖/〔ほか〕編                                  
出版者  :日本放送出版協会

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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その11(フフホト・夜の風景)

夕闇せまる、フフホトの街。
先程訪れた席力図召が見える。
左に見える金色の像は四祥で、象の上に猿が乗り一番上は雉だが、猿の上がわからない。Dsc00762a
Dsc00763aDsc00767aDsc00769a_217:30、羊毛、ラクダ毛製品製造工場の直売店に行く。
東方見聞録にこうある
「ラクダの毛で織った色さまざまな良質の駝毛布も又この地の特産をなす。」
ラクダ製品は、毛布はなかったが布団があったので買った。Dsc02666a
中はまさしくラクダの毛。暖かいらしい。Dsc02667a18:05発、外は暗くなっていた。Dsc00770aDsc00771aDsc00772aDsc00773a18:50、レストランにて夕食。Dsc00781aDsc00780aDsc00774aDsc00775a地元料理、カラス麦の餅。結構腹持ちがいい。Dsc00776a次から次に出てきて見ただけでお腹いっぱい。しかもこれら見かけは違うが全てカラス麦なので、味は同じだ。Dsc00777aDsc00778aDsc00779a20:17、腹一杯で苦しい中、出発。
20:30、ホテル華辰大酒店着。
明朝は7:50前に出発。
朝食のレストランは2階で6:30から。
モーニングコールを6:00に設定してもらう。
部屋は14階。Dsc00784aDsc00783aDsc00786aDsc00785a
昨晩の睡眠時間が短かったせいか、いつの間にか眠ってしまった。
明日はまず、
王昭君墓へ。


引用・参考文献

書名   :完訳東方見聞録 1                                                    
シリーズ :平凡社ライブラリー 326                                             
著者名  :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注                                  
出版者  :平凡社

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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その10(フフホト・チベット寺院・大召)

大召(イフ・ジョー)に着いた。
大召は1579年、北元朝の
アルタン・ハーンによって建立されたチベット仏教寺院。
ダライ・ラマ3世の勧めによって、内モンゴルに建てられた初めての寺院である。
その名が示す通り、フフホトで最も大きな寺院でもある。
明朝からは「弘慈寺」、清朝からは「無量寺」の名が与えられている。

寺の前に大きなアルタン・ハーン像がある。
大召は彼が建立したのであるし、
フフホトの町自体、彼が造ったのであるし、
内モンゴルの民衆にチベット仏教が広まったきっかけを作ったのも彼なので、
このような大きな像があって当然なのだ。
Dsc00747a寺の外には牌楼が立っている。
その奥に
山門があり中に入ると、左右に楼閣がある天王殿がある。
全くの中国式建築だ。Dsc00748a
天王殿の前にはタルチョーでぐるぐる巻きにされた馬が
上に乗っているのは、あの恐ろしいハモではなさそうだが
Dsc00759a天王殿には恐らく護法神像と思われるものがある。
チベットの神像、仏像は、日本と違って着色されており、生々しい。
しかしここにあるのは、全く人間に近い、まともなお姿ではないか。
チベットの護法神像はこんなものではない。Dsc00749aDsc00750a
天王殿を抜けると、菩提過殿がある。
席力図召 と同様、手前にはタルチョーらしきものが巻き付けられている左右2本の柱杆が立っている。
正面に鉄灯籠がある。Dsc00751a
仏澤万物と書かれた額の下を、中に入っていく。Dsc00752aすると、いましたよー護法神(ドクシト)ヤマンタカ
牛面で目は3つ、怒りに逆立つ髪、無数の手、そして奇異なのは配偶神(女性原理-シャクティを持つ女神)と合体している事だ。
ヤブ・ユム形と言われ、配偶神同士が一体化する事で真の力を持つと言われている。
ヤマンタカはチベット仏教正統派であるゲルク派の開祖ツォンカパの守護神である。その為、あらゆるチベット寺院で姿を見る事ができる。
しかし、ここまでの異形は、日本の神々には見られない。Dsc00753a
菩提過殿を通り抜けると、いよいよ本堂である大雄宝殿がある。
流れ屋根を持つ中国式の建築だが、下半分は煉瓦を積み上げた壁になっており、チベット式と言えなくもない。
壁には、席力図召と同様、六道輪廻図、須弥山図が描かれている。Dsc00754a
大雄宝殿を近くから見る。
大雄宝殿は前殿である
経堂と後殿である仏殿からなる。
席力図召と違ってこちらの屋根はオレンジ色であるが、繊細な装飾は勝るとも劣らない
中には、高さ2.55mの
銀製の釈迦牟尼像があり、これはダライ・ラマ3世が法要を行った仏像であるとの事。
それから10mもの
龍の彫刻が左右にある。
その他、内部には様々な壁画がある。
ツォンカパの伝記、四天王、西方浄土変、十六羅漢、釈迦五尊、降六師神変など。
これらは、大召の3つの寺宝と言われる。Dsc00756a
ここにもヤマンタカが祀られている。Dsc00758aこれは、大雄宝殿の右隣にある東配殿(サンドイ殿)。
上記に挙げた建物以外にも、様々な建物がある。Dsc00755a
大雄宝殿を右側から見た所。
屋根の上の龍の飾り物なども、とても綺麗です。
こういうのを見ると、日本の神社や寺院は重厚さはあるが、装飾の派手さでは大陸の神殿、寺院にかなわないなと思いますDsc00757a
山門前から見た牌楼。Dsc00760aDsc00761a
次は夜のフフホトの街へ。


引用・参考文献

ウィキペディア

書名   :モンゴル仏教紀行                                                   
著者名  :菅沼晃 著                                  
出版者  :春秋社

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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その9(フフホト・チベット寺院・席力図召)

席力図召(シレート・ジョー)に着いた。
席力図召は、内モンゴルで最初のチベット仏教寺院かつフフホト最大の寺院である大召をもしのぐ政治力、経済力を持つに至った寺である。
その白いストゥーパ(白塔)は、内モンゴルで最大と言われる。

1585年、アルタン・ハーンの子センゲ・ドゥーレン・ハーンによって建てられた。
席力図召(シレート・ジョウ)の名前は、寺の第一世化身ラマ(活仏)であるシレート・グーシ・チョルジに由来する。

シレート・グーシ・チョルジは16世紀~17世紀の人で、元の名をシディトゥ・ガブジと言っていた。
1578年、チンギス・ハーンの末裔で北元朝のアルタン・ハーンとチベット仏教ゲルク派の高僧ソナム・ギャムツォ(ダライ・ラマ3世)が青海のチャブチャル寺で会談し、チベット仏教がモンゴルに再導入されることが決まった時、シディトゥ・ガブジはダライ・ラマ3世の付き人として参加し、再導入に至る政治活動に関わっていた。
1586年、ダライ・ラマ3世が青海からフフホトを訪れた時、シディトゥ・ガブジも随行していた。彼はサンスクリット、チベット、モンゴル語に精通していた。その為、ダライ・ラマ3世からパンディダ・グーシ・チョルジの称号を与えられた。
アルタン・ハーンもまた、シディトゥ・ガブジを尊敬しており、席力図召に住まわせ、内モンゴルの僧俗両方にチベット仏教を広めさせた。
1588年にダライ・ラマ3世が亡くなる前、「自らの死後にはシディトゥ・ガブジが自分の法座(シレー)に座って、自分の転生者をチベットよりも東に探すように」との遺言を残した。
シディトゥ・ガブジは遺言通り行動し、ユンテン・ギャムツォ(アルタン・ハーンの甥、または孫または甥の子供との説あり)をダライ・ラマ4世に認定した。彼はチンギス・ハーンとチベットの高僧という神聖な2つの血を結合させることに成功した。
シディトゥ・ガブジは、ダライ・ラマ3世の法座(シレー)に座ってダライ・ラマの権威を代行した事から、シレート・グーシ・チョルジと呼ばれるようになった。彼は師として、ダライ・ラマ4世を育てた。
彼の布教活動は、ハルハ部族(15世紀に北元朝のダヤン・ハーンが作ったモンゴルの6部族の一つで、西に位置する)に及んだ。その為、後世のハルハ部族の有力者たちはシレート・グーシ・チョルジに特別な感情を抱いていた。
シレート・グーシ・チョルジは、その宗教学的な見解を「本義必用経」として著した。これは13世紀のフビライ・ハーンの帝師パクスパの著作「彰所知論」を一層発展させた内容であった。
シレート・グーシ・チョルジが亡くなった後、席力図召の最高位のラマは、シレート・グーシ・チョルジの化身ラマであるシレート・ホトクトが務めるようになった。

1688年、タリム盆地の北のジュンガル盆地を拠点とするジュンガル部族※のガルダン・ハーンが、ハルハ部族の内紛に介入して侵攻すると、清朝との戦争が始まった。その際、フフホトは清朝の北辺防護の要とみなされるようになったが、シレート・ホトクト4世が防衛の任に当たった。
その後、フフホト仏教界のリーダーとなり、清・ジュンガル戦争の際、清朝の勝利祈願を行ったことが認められ、大規模な寺院修繕・拡張工事を許され、更に清朝の康熙帝から
「延寿寺」(ウルジ・エゲネクト・ボルガークチ・スゥメ)の寺名が与えられた。席力図召には清・ジュンガル戦争での康熙帝の戦功を満州、モンゴル、チベット、漢字で記す石碑が建てられた。
この頃から、席力図召はフフホトにおける最も政治力・経済力を持つ寺院になった。

シレート・ホトクト6世は、1756年、席力図召に座床した。
シレート・ホトクト6世の父のセレンはハルハ部族の王族で、康熙帝の側近であり信任が厚かった。セレンの夫人は康熙帝の娘であり、セレンとその息子たちは清・ジュンガル戦争で戦功を立てた。
このような名家の出であったため、席力図召の政治力・経済力は一層高まることになった。毎年多くのハルハ部族のモンゴル人がフフホトを訪れ、ハルハ部とフフホトの人的交流は活発になった。
シレート・ホトクト6世が1785年に亡くなった後、シレート・ホトクト7世もハルハ部族から転生したが、わずか3歳で夭逝してしまった。
清朝の乾隆帝は、ハルハ部族とフフホトの関係が深まることに神経をとがらせ、チンギス・ハーンの末裔から化身ラマが出る事を禁じたため、シレート・ホトクト8世以降は、青海から化身ラマを迎える事になった。

1887年、席力図召は大火に見舞われた。席力図召は幾たびも大火に見舞われたが、そのたびに復興してきた。
しかし、1966年から始まった文化大革命は、席力図召に痛烈な打撃を与えた。多くの文化財が失われ、建物は倉庫に転用された。シレート・ホトクト11世は連日にわたって暴力を受けた。
内モンゴル自治区では、未だに真の信仰の自由は保障されていない。
※ジュンガル部族はオイラト部族連合の1つだが、元々オイラト部族は13世紀に兄フビライ・ハーンと大ハーン位を争って負けたアリクブケを支援していた部族であった。
14世紀末に、アリクブケ家のイェスデルが、大ハーンのトグス・テムルを殺害し、100年前の遺恨を晴らし大ハーンに就くと共にオイラト部族も勢力を拡大していた。
その後、内紛によりモンゴル諸族は混乱し、結果的に西方のオイラト部族連合と東方のフビライ恩顧のモンゴル部族連合に分裂していた。
その中でオイラト部族連合のジュンガル部族は、17世紀後半から勢力を伸ばしていた。

早速、席力図召に入る。
まず
山門がある。左側に鼓楼、右側に鐘楼がある。全くの中国式の建築様式である。Dsc00745aこれが鐘楼。Dsc00738aこれが鼓楼。Dsc00739a前方を見ると門のような過殿がある。
手前には左右2本の柱杆が立っていて、タルチョーと呼ばれるチベットの五色の祈祷旗がぶら下がっている。
参道の左右には金色のマニ車が並んでいる。Dsc00737a
過殿を間近に見る。
緑の瑠璃瓦、赤い柱、金色の屋根飾り、軒下の極彩色の繊細な装飾など、なかなか美しい。
流れ屋根で、全くの中国式。Dsc00741a
過殿をくぐり、中に入る。
左右に
碑亭がある。
清・ジュンガル戦争での康熙帝の戦功を満州、モンゴル、チベット、漢字で記した石碑だ。
「平定ガルダン紀功碑」という。
正面に鉄灯籠が立っている。
奥には、
本堂(大経堂、大雄宝殿)がある。
一番奥に流れ屋根があるが、何だろうか?Dsc00742a
本堂に近づいて見る。
石壁に囲まれたチベット式の建築物だ。
フフホト唯一のチベット式建築物と言われる。
配色は落ち着いた緑に、赤と金が映えて美しい。
壁には左側に六道輪廻図、右側に須弥山図が描かれている。
本堂の中は、タテヨコ8本ずつ、計64本の柱が天井を支えている。従って正方形である。
奥には釈尊像がある。
2階には、緑ターラー菩薩、文殊、釈尊、観音、白ターラー菩薩がある。Dsc00743a
江沢民元国家主席とシレート・ホトクト11世が会見したときの写真らしい。Dsc00740aDsc00735aDsc00736a次は大召へ。


引用・参考文献

ウィキペディア

書名   :モンゴル仏教紀行                                                   
著者名  :菅沼晃 著                                  
出版者  :春秋社 

書名   :蒙古学問寺                                                    
著者名  :長尾雅人 著                                  
出版者  :中公文庫

書名   :内モンゴル自治区フフホト市シレート・ジョー寺の古文書                                                 
著者名  :楊海英/雲廣/編                                  
出版者  :風響社

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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その8(美岱召~フフホト)

美岱召を出てフフホトに向かう途中
農家が続いている。

やがてフフホト市トゥムド左旗に入る。

15:25、マンション等の建物が現れる。高層マンションの建築ラッシュだDsc00717aDsc00718a15:40、市街地に入る。Dsc00719aDsc00720aここでこの旅行の本来の目的に立ち返る。目的とは、マルコ・ポーロの足跡を辿る事なのだ。そこで東方見聞録の記述を見る事にする
テンドゥク(天徳軍)は東方に位置し、境内に都市・集落を多く含んだ大州であって、カーンに隷属する。首府も同じくテンドゥクと呼ぶ。」
テンドゥク(天徳軍)とは、どこにあるのだろうか?
文末の資料を見ると、概ねこのようである。
唐の時代の話である。「天徳軍は七五三(天宝十二)年に朔方節度使下の鎮軍として設置された」とも「七五五(天宝十四)年に建設された大同川の大安軍を改称して天徳軍とした。」ともある。
しかし、「安史の乱で城が焼かれたため、旧城から約三里の距離にあった永清柵に兵馬を移し天徳軍と名乗った。
ところが、八一三(元和八)年の春に西受降城の南面が黄河の氾濫によって削られたため、西受降城を修築するよりも旧天徳軍城を再利用した方が財政支出が少ないとして、大同川に天徳軍を復置し、西受降城は子城に兵一千人を残して放棄した。」
西受降城とは、中国北方の草原地帯を支配したテュルク系の突厥が中国に侵入するのを防ぐ為に築いた城である。
陰山山脈は山が険しく、防御にうってつけであった。唐は陰山山脈の間道に「中受降城を基点として、東西四百里の地点に東西受降城を建設した」。
旧天徳軍城は、フフホトの西約200キロにあったとされている。
その後、天徳軍は突厥滅亡後も北方遊牧民諸族との外交の場として機能した。
しかし、「唐滅亡後の九二〇(神冊五)年十月になると、契丹の遼が後唐支配下にあった天徳軍を陥落させてその住民を「陰山南」に移した」とあり、
続けて「「陰山南」こそが、現在も遼代の仏塔が残るフフホト東郊の白塔村「豊州遺跡」であるとされている」とある。
従って、マルコ・ポーロ来訪時の天徳軍は、フフホト東郊の
白塔村「豊州遺跡」であり、村の由来となった遼代の仏塔とは、「万部華厳経塔」であり、今回来訪する場所である。

続けて東方見聞録の記述を見る

「この地の王はプレスター・ジョンの後裔で、代々プレスター・ジョンを号し、カーンに服属している。
現在の王は名をジョルジといい、カーンの名代でこの地の統治に当たっているが、その領域はプレスター・ジョンの故国全体ではなく、わずかにその一部に過ぎない。」

遼滅亡後の12世紀以降の金・元の時代、「この地」陰山山脈周辺を支配していたのは、テュルク系の
オングト部族であり、ネストリウス派キリスト教徒であった。
金の時代には陰山近くの長城線を防備し、北方遊牧民から金朝を守っていた。
北のモンゴル高原で、モンゴル部族のテムジン(チンギス・ハーン)が勢力を広げ、アルタイ山脈南麓を拠点とするナイマン部族と最後の決戦が近づいた時、ナイマン部族長のタヤン・ハーンはオングト部族長アラクシ・テギン・コリに対して共にテムジンを撃滅すべしと要請した。
しかしアラクシは、ナイマン部族使節をテムジンに差し出し、タヤン・ハーンの攻撃が近いことを通告した。
テムジンはナイマン部族の機先を制し、1204年、オングト部族の来援を得てナイマン部族を撃滅した
1206年、テムジンはクリルタイによって大ハーンに推挙され、チンギス・ハーンと名乗ることになる
その後、チンギス・ハーンは破竹の勢いで金を破り、カラ・キタイ(西遼)、ホラズムシャー朝を滅亡させ、ロシア諸侯を破った。
チンギス・ハーンは自分の今日あるのも、オングト部族長アラクシの協力あればこそと感謝。
しかし、その後アラクシとその長子がナイマン部族派のオングト部族民に殺害される事件が発生。
チンギス・ハーンは、アラクシの遺児ボヤオ・ハイを保護し側近とし、17才になると自分の娘アラハイを降嫁し北平王に任じた。
「ジョルジ」すなわち
ゲオルギス王は、ボヤオ・ハイの孫にあたり、名前の通りキリスト教徒である。当初ネストリウス派であったが、ローマ教皇使節モンテ・コルヴィノによりローマカトリック派に改宗したことで知られる。
ただし、ゲオルギス王時代以降の首府は天徳軍ではなく、フフホトの北西約180キロにあった
オロン・スムである。
コルヴィノが1305年に発信した書簡には、「ゲオルギス王の寄進により、ローマ教会堂が王府に建立され」たとあるが、確かにオロン・スム遺跡に西欧風建築の教会堂が発見されている。
ここは少し疑問の残るところだ

続けて東方見聞録の記述を見る

「しかしテンドゥク王としてこれを統治するプレスター・ジョンのこれら子孫に対しては、歴代カーンが自らの皇女もしくは宗室の王女を降嫁せしめて妃とならしめるのが例となっているし、更にプレスター・ジョンはキリスト教徒である関係から、住民の大部分もまたキリスト教を信奉するようになった事実を特に御記憶願いたい。」
ボヤオ・ハイを北平王に任じた際、チンギス・ハーンは、「オングト王と子々孫々通婚して姻戚となる事を約し、義親子となって血盟した」。
実際に、ボヤオ・ハイの子、クン・ブカはグユク・ハーンの娘と、同じくアイ・ブカはフビライ・ハーンの娘と、アイ・ブカの子であるゲオルギス王はテムル・ハーンの娘を降嫁されている。
これに対し、代々のオングト王も忠勤に励んだ。
「アイ・ブカはフビライ・ハンのためにアリク・ブカの乱を討ち、あるいは李璮を済南に囲むに助力し、さらに西北に叛王の党を破り、ゲオルギスは成宗(テムル・ハーン)の為に北西辺境を守備して、しばしば大功があったが、晩年に及んでドアとの戦いに敵軍の手中に陥り、敵の誘惑に屈せず、ついに殺害の悲運に遇うなど、一族をあげて元朝の皇室のため尽力するところ甚だ大きなものがあった。」

続けて東方見聞録の記述を見る

「この地方には瑠璃色の顔料、すなわち群青の原料となる石を産するが、質と言い量と言いすばらしいものである。」
青い石といえば真っ先に思い浮かべるのがラピスラズリだが、当時は大変貴重な鉱物で、アフガニスタンの山中でしか採掘できなかった。フフホト周辺で大量に採れたという話は聞いたことがない。
現在のフフホトが建設されたのは1565年で、北元朝の
アルタン・ハーンによってであった。
フフホトとは「
青い城」を意味する言葉だそうで、東方見聞録の記述と偶然にも一致する。
文末資料には、
「ここの城壁は青いレンガ製で、遠くから見ると、城郭都市自体が青く見えたことから、「青城」の異名を持つようになる。」
とあった。

アルタン・ハーンは、ここを拠点として明朝やオイラート部族と戦い勢力を拡大したが、最終的には明と講和し、明から順義王に封じられる。
アルタン・ハーンは、漢族をここに移住させ、農耕に従事させた。その為、フフホトの人口の9割は漢族である。漢族の居住区域は、明から「
帰化城」とよばれた。
明から国境貿易を許されると、中国からモンゴルへと向かう大量の物資の集積地として栄えた
また、多くのチベット仏教寺院を建立した為、「寺院の町」とも呼ばれた。往時は「七大寺、八小寺、七十二の名の知れない小寺」があったと言われる。
そしてオルドス地方あるいは内モンゴルの精神的な中心都市として発展していくことになる。
清朝に占領されると、「清は、帰化城の北東隣に綏遠城を築き、オルドス地方の防衛を担当する八旗の駐留地とした。
帰化城と綏遠城はあわせて「
帰綏」と呼ばれ、清代以降、中央政府の直轄地として内モンゴルの政治、経済、文化の中心地となった。」
内モンゴルは、外モンゴルがソ連の強力な後押しによってモンゴル人民共和国として独立したのに対し、中国に組み込まれたままであった。
そこで日本の支援の下、独立運動が続けられ、「蒙古連合自治政府」が発足する。
しかし日本の敗戦とともにその運動は中国共産党が担うようになった。
1947年、内モンゴル人民政府が発足。1949年に成立した中華人民共和国に組み込まれた。
1950年、帰綏県が
地級市 に昇格してフフホト市となり、内モンゴル自治区の省都となる。
1966年から始まった文化大革命では、モンゴルの民族的なものが否定され、多くの寺院が破壊され、チベット仏教僧は還俗させられた
文革終了後、復興が始まったが、現在どれだけの寺院が復興され宗教活動を行っているのか定かではない。
現在の人口は200万人以上、4つの県、1つの旗、4つの市轄区からなる。一番賑やかなのが新城区で、回民区はイスラム教徒が多い。

フフホト周辺の各時代の支配国は以下の通り。
紀元前4~3世紀(戦国時代):趙
紀元前3世紀:秦
紀元前2~1世紀:前漢
1~3世紀:後漢
4~6世紀(五胡十六国、南北朝):鮮卑(モンゴル系?)系王朝、匈奴系王朝
7世紀:突厥(テュルク系)
7~9世紀:唐(モンゴル系?)
10世紀:契丹・遼(モンゴル系?)
11~12世紀:金(ツングース系)
13~14世紀:モンゴル、元
14~16世紀:明
17~19世紀:清(ツングース系)
20世紀:中華民国、中華人民共和国

15:50、中心街に入る。Dsc00721aDsc00722aDsc00723aDsc00724aDsc00725aイスラム街
東方見聞録にこうある
「この地の王はキリスト教徒だが、住民の中には偶像教徒・イスラーム教徒も相当にいる。」Dsc00726aDsc00727aDsc00728aDsc00729aDsc00730aDsc00731aDsc00732aDsc00733aDsc00734aDsc00746a
これから席力図召の観光に向かう。


引用・参考文献

ウィキペディア

書名   :モンゴル仏教紀行                                                   
著者名  :菅沼晃 著                                  
出版者  :春秋社 

書名   :完訳東方見聞録 1                                                    
シリーズ :平凡社ライブラリー 326                                             
著者名  :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注                                  
出版者  :平凡社

書名   :オロンスム モンゴル帝国のキリスト教遺跡                                                   
著者名  :横浜ユーラシア文化館/編                                  
出版者  :横浜ユーラシア文化館

書名   :唐後半期における陰山と天徳軍                                                   
著者名  :齊藤茂雄 

http://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/47/kiyo4705.pdf 

標題   :綏遠城(フフホト城、帰化城)                                                   
著者名  :BTG 城郭都市研究会・『大陸西遊記』編集部

http://www.iobtg.com/C.Huhehaote.htm

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