073パオトウ(内蒙古自治区)

銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その7(パオトウ・チベット寺院・美岱召

12:33、パオトウ街着。
12:43、昼食restaurant北京料理店にて。
 

Dsc00689a_3Dsc00685a_2Dsc00686a_2Dsc00687a_3Dsc00688a_2
13:19発、フフホトに向かう。途中、美岱召に立ち寄るcar
市街地を抜けるとしばらく農家、畑が続くcar
Dsc00690a_2Dsc00691a14:20、美岱召(マイダリ・ジョー)着。パオトウの東70キロにあるチベット仏教寺院。
マイダリとはマイトレーヤ(弥勒)がモンゴル語に転化したもの。「霊覚寺」「寿霊寺」とも呼ばれる。
チンギス・ハーンの末裔でモンゴル高原を再統一した
アルタン・ハーンが、その全盛期(1565年)に建てた離宮(明朝は福化城と命名)が基になっている。信心深く、チベット仏教に帰依していた。
一時期、明の首都北京にまで迫ったアルタン・ハーンだが、1571年に和平条約締結後、明から順義王に封じられた。
アルタン・ハーンは1582年に死去したが、その後1606年にチベットから
化身ラマ(活仏)であるマイダリ・ホトクトを呼び、本格的なチベット仏教寺院になった。順義王一族の居館と寺院が併存するつくりになっている。そのためアルタン・ハーン一族の菩提寺的な寺であり、五当召のような学問寺ではない。
また、建築様式はチベット様式の
五当召 と異なり、チベット様式と中国様式の折衷である。全体は城壁に囲まれた城であり、寺院としては大変珍しい。建物の配置は、一部は中国式の左右対称であるが、他はチベット寺院のようにバラバラである。
早速入口へ向かう。
Dsc00716a立派な牌坊がある。後方に見える山は大青山(東部陰山山脈)。Dsc00715a中に入ると、広大な駐車場と広場。Dsc00714a美岱召を囲む城壁。周囲680mの長さ。高さは4m。城壁の形はややいびつな正四角形である。Dsc00692a本当の入り口である泰和門。扁額には1606年に建てられたとある。Dsc00693a裏側から見た所。城壁に上がれる。Dsc00713a泰和門を入った一番目の建物は天王殿であるが、現存していない。実際は大雄宝殿になる。
大雄宝殿(ツォクチェン・ドゴン)。弥勒仏を祀っている。
前殿である大経堂と後殿である大雄宝殿で構成されている。外見は中央が流れ屋根の中国様式、両側が白壁のチベット様式なのが面白い。

大経堂には十八羅漢の壁画がある。
大雄宝殿の奥には釈迦仏と二大弟子(アーナンダ、マハーカーシュヤパ)が描かれている。
その他、仏伝故事、四天王、ゲルク派の開祖
ツォンカパにまつわる絵、大黒天、怪奇な姿の護法神(ドクシト)、礼拝する明代、清代のモンゴル貴族たち、アルタン・ハーンの妻である三娘子と想像される絵、マイダリ・ホトクトと思われる絵が描かれている。Dsc00694aDsc00695aDsc00696aDsc00697a大雄宝殿の西側を北に向って歩く。
乃琼殿(ネーチュンギーン・ソム)。マイダリ・ホトクトの住居。
マイダリ・ホトクトは、ダライ・ラマ四世(ユンテン・ギャムツォ。アルタン・ハーンの甥、または孫または甥の子供との説あり)がチベットのデプン寺に入った時、代わりに内モンゴルに派遣されたと言われる。
彼はこの寺で、弥勒仏の像を造り、開眼供養を行った。この寺がマイダリ・ジョウと呼ばれる由縁である。
清朝以来、guadierの神殿に改築されていたが、元々祀られていたnal qiongの神像はまだここに立っていなかった。
Dsc00698a内部。形相から見て、悪魔から仏法を守る護法神(ドクシト)の諸神と思われる。
悪魔に恐怖心を抱かせるため、憤怒の表情、怒りに逆立つ髪、人間の生首を身に付けている。また目は三眼であり、顔は三面四面が多い。
修行者が恐怖心に耐える事は、密教の特色で、密教の秘密仏である。
中央は牛面である事から、ドクシトの中心尊であるヤマンタカだと思われる。チベット仏教正統派であるゲルク派の開祖ツォンカパの守護神である。
左端は乗馬している点から見て、ハモと思われる。形相から想像できないが女神であり、弟の生皮を鞍として乗馬し、二人の童子を従え海を渡っていく。
右端はよくわからないが、法王かもしれない。いわゆる閻魔であり、インドのYamaである。地獄の王である。
Dsc00700a佛爷府(ゲゲーン・ホトクティーン・オルド)。清朝時代の化身ラマの仏殿。ゲゲーンやホトクトは最上級の化身ラマの呼称である。
寺院に居住している化身ラマはなかった。唯一の化身ラマが来て、ここに一時的に滞在した。
Dsc00702a西万佛殿(バローン・トゥメン・ボルハネー・ドゴン)。マイダリ・ホトクトの宣教の場所。
清朝では、仏堂に変わった。
Dsc00703a今では、洞窟(後方の岩?)の風景スポットになっている。Dsc00712a八角庙(ナイマン・オンチョグト・ソム)。大威徳金剛尊神(ヤマンタカ?)を供え奉る神殿Dsc00705a琉璃殿(シルワールト・ドゴン)。1566年に建てられたにアルタン・ハーンのための礼拝堂。
屋根が緑色の瑠璃瓦で葺かれている事からこの名がある。
Dsc00711a美岱召で最も精緻かつ典型的な明代建築。Dsc00709aすぐそばに小さな白塔がある。Dsc00710a内部。過去仏である燃灯仏、現在仏である釈迦牟尼仏、未来仏である弥勒仏の三仏が祀られている。
ニンマ派の開祖パドマサンバヴァ、ツォンカパ、ダライ・ラマ、緑ターラー等の女性菩薩が描かれている。
Dsc00708a14:45発。フフホトへ向かう。

引用・参考文献

ウィキペディア

書名   : モンゴル仏教紀行                                                   
著者名  :菅沼晃 著                                  
出版者  :春秋社 

書名   :蒙古学問寺                                                    
著者名  :長尾雅人 著                                  
出版者  :中公文庫

書名   :地球の歩き方・中国 2013~2014年版
著者名  :地球の歩き方編集室 著                                  
出版者  :ダイヤモンド・ビッグ社

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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その6(パオトウ・チベット寺院・五当召)

パオトウから五当召に行く途中。
火力発電所が見える。パオトウのエネルギー源は石炭。火力発電所で使用している。
Dsc00649a_2Dsc00650aDsc00651aDsc00652aDsc00653aDsc00654aDsc00655aDsc00656aDsc00657aDsc00658a
10:10、五当召(ウータン・ジョー)着。召とはモンゴル語で寺を指す。 

1.五当召の概要
包頭から東北70キロの標高207メートルの山中にある。内モンゴルの中でも重要なチベット仏教寺院。内モンゴル最大のチベット式学問寺院。
文化大革命による破壊をほぼ遁れた(ただし経典類は全て焼却された)ため、創建時からの状態が残っている。
創建は17世紀後半~18世紀後半とされる。1756年には清朝の乾隆帝から「
広覚寺(広大なる悟りを具する寺)」の寺名を賜っている。
主要な宮殿は6個ある。特に創建時からある
ドィンコル・ドゴンや、小ポタラ宮と呼ばれるツォクチェン・ドゴンは有名。
寺の内部には、様々な仏像、壁画があり、見ごたえがある。
 

2.五当召の起こり
五当召は内モンゴル陰山山脈中の五当溝にある事からこの名になったという。
五当溝は5つの川が集まる場所なのでこの名がついたらしい。二つの谷が南に向かって合流し、合流地点の北の山の南面にある。従って草原地帯ではなく、低い山が連なる場所にあり、松林と巨大な岩石がある。
この付近では石炭と石灰が産出される。石炭は燃料及び財源になり、石灰と岩石と樹木はチベット建築物になくてはならないものである。
つまりチベット寺院群が建立される最適地だった。
また、五当召はモンゴル語でバタガル・スムともいう。それはこの付近にバタガル(芍薬)の花が野生しているからとの説があるが、後述する伝説に現れる女性の名前でもある。
開創は17~18世紀と寺伝にあるが、開創についてこのような伝説がある。
フフホト席力図召の化身ラマ(仏、菩薩、過去の偉大な仏道修行者の化身であるチベット仏教僧)のお供でチベットに行ったところ、「汝には良きラマあり」と言われた老人に子ができた。その子はラマと成りチベットにも留学し、業成りて帰国の途中、現在の五当召の在るあたりを他のラマと歩いていた。この谷にバタガルなる女が住んでいて、ラマ達と話を交わし共に茶を喫することになった。そこへ西からジュンガル王が兵20名を連れて北京へ向かう途中通りかかった。ジュンガル王は茶を喫する彼らを見て、自分もまた休息する事となった。ラマは王に茶をすすめる。しかし王は茶釜の小さいのを見て兵20名に飲ましむるにはとても足りるまいと思った。が、不思議な事に、その窯からは次から次と茶が出てきて、十分に兵たちに飲ませる事ができた。王はこの様を見て、このラマが凡庸の者ではないと知り、尊崇の念を抱いた。そこで王はラマに向って、何か望みがあれば援助したいと申し出た。するとラマはここに一宇の建立せられん事を請い、王はこれを受けたのでラマは喜び、その謝礼として王の馬を鞭であおった。すると王の馬はその後いささかも疲れることなく北京に到着したという。しばらくして1751年、現在の五当召ドィンコル堂が建てられるに至った。王に茶をふるまったラマこそかの老人の子であり、五当召の開創者となった。その名をblo-bzan bstan-pahi rgya-mtsho(ロプサン・ギャムツォ?)と言うが、五当召の化身ラマとなり、代々転生する事になるが、最初に建てられた堂の名にちなみ、一般には
ドィンコル・フトクト(フトクトは化身ラマ=活仏)と呼ばれる。
別の説もある。五当召を訪れた外国人にラチモア夫妻がおり、その紀行の中で開創に係る伝説が2つばかり述べられている。それによると寄進者はチャガンタイジなる老人で、開創のラマの名は記されていない。また五当召の事をバトガル・チェリン・スム(バトガル顕教学問寺)というのみで、バトガルの意味は不明である。
 

3.五当召での教義研究
独自の宗派の研究よりも、一般仏教学に重点が置かれている。
特に顕教(中国などに伝播した北伝の大乗仏教)に重く、密教は軽いのが特色。
たとえば大きなチベット仏教寺院で一般的に行われる密教的な舞踏は行わない。舞踏や音楽を習うよりも、学問に時間を割くという考え方である。
顕教の学習方法は暗記と討論である。討論は
タクサルと呼ばれ、問答形式で行われる。問者一人の周りを数人が円陣を作って座す。問者が円陣の中から一人を指名し問を出す。答者はインド的三段論法で独特の身振りで回答する。このタクサルは、インド仏教の問答の風格を最も後世に残しているものと思われる。
暗記は、タクサルにおいては問者答者とも教科書、参考書は一切携帯しない為、問答を行うには暗記が前提になる。
学部は4学部ある。
顕教学部(チュエ・ラサン):後述
時輪学部(ドィンコル・ラサン):後述
ラマレン学部(ラマレン・ラサン):チベット仏教最大の学僧でゲルク派(後述)の開祖、ツォンカパの著書「ラムリム」を研究する。
密呪学部(アゴワ・ラサン):密教学部(後述)を小規模にしたもの。
五当召においては、各学部は
大ラマが管轄する。その他に大衆部という日々の勤行や主要な法会を行う部があるが、その管轄者はテビラマと呼ばれ、大ラマよりも高貴とされる。 

4.建築様式
西チベットのシガツェにあるタシルンポ寺が手本とされる。
純粋なチベット建築であり、中国様式の影響はない。これが最大の特徴で、モンゴルでは唯一と思われる。
巨大な岩を畳み積んで外壁とし、木材は梁や柱に使うのみ。屋根は陸屋根で、中国式の流れ屋根はない。
山腹に沿って3階建て、4階建てになっているが、山腹からは2階、3階に直接入ることが可能である。
全ての建物の外壁と道路の舗石は石灰で白く塗られている。高貴な仏殿・宮殿にはさらに軒下に黒ずんだ赤い帯状がめぐらされる。帯の部分及び屋上は金の装飾物が布置される。
境内を囲う外塀がなく、境内が判然としない。従って山門もない。これもチベット様式の特徴である。
建物は山形に沿って建てられており、計画性・左右対称性は少ない。
 

5.五当召の各殿堂
7個の主要な堂と、これに付随する倉庫・厨房がある。加えてドィンコル・フトクト、チャンジャ・フトクト、カンジュルワ・フトクトの3人の化身ラマの3宮殿及び倉庫があり、これらは谷の低地から尾根伝いに並んでいる。その両側東西の谷間に多くの僧房が散在している。
広場から見た全景。手前中央がツォクチェン・ドゴン、左側がチュエラ・ドゴン。
Dsc00683aツォクチェン・ドゴン(大衆殿)
谷の最下部の平地にあり、最も大きな堂。日々の勤行や主要な法会を行う。1階の壁の厚さは1.8メートルに達する。1757年建立とされる。
1階入り口には四天王、輪廻図、須弥山図がある。中に入ると前殿で左右両壁に釈尊伝があり、南の壁にも数々の画像がある。1階奥には一切蔵経堂があり、中央奥に文殊、弥勒、観音の像があり高さ6メートルの経棚がある。かつての経典は文化大革命で焼却された為、現在の経典は青海省のタール寺から持ってきたもの。
2階奥が仏殿で、白多羅(ターラー)三尊、釈迦五尊、緑多羅(ターラー)三尊他多数の像がある。前殿には五台山、ポタラ宮、五当召など様々な壁画あり。

チュエラ・ドゴン(顕教学部堂)
ツォクチェン・ドゴンのすぐ西に在り、2番目に大きな堂。第5代当主(第5世化身ラマ)により1835年建立。五当召最大の高さ10メートルの弥勒仏がある。また、第5代当主の像がある。

            ツォクチェン・ドゴン。Dsc00659aDsc00680aDsc00681aチュエラ・ドゴンからドィンコル・ドゴンに向かう途中の道沿いにあるマニ車
マニ車は円筒形で、側面にはマントラが刻まれており、内部にはロール状の経文が納められている。右回り(時計回り)に回転させると、回転させた数だけ経を唱えるのと同じ功徳があるとされている。この季節、素手で触ると張り付いてはがせなくなるから注意。
Dsc00661a同じく左手には僧房が立ち並ぶ。文化大革命で破壊されたが、今世紀に復元された。Dsc00660a高台の上のドィンコル・ドゴン、ドクシト・ドゴンを見上げる。Dsc00671aDsc00672aドィンコル・ドゴン(時輪学部堂)
創建時の堂。4言語で書かれた「広覚寺」の額がある。ツォクチェン・ドゴンの背後の丘上にあり、寺全体の中心位置にある。1階の壁の厚さは2メートルに達する。
前殿と後方の仏殿からなり、前殿1階の壁際には四天王像、シャンバラ国(チベット人が理想とする未来の国)の25王と7法王画像、21の坐仏画像、数百の学師画像とその前にドィンコル・フトクトの塑像安置。またドィンコル・フトクトの師、カンジュルワ化身ラマの像がある。
仏殿1階の左右の壁には十八羅漢画像、奥にはツォンカパ像とその左右に二大弟子、他の四体は不明。

ドクシト・ドゴン(護法秘仏堂)
ドィンコル・ドゴンのすぐ西に在り、ドィンコル・ドゴンに敷設されたとみられる。9体の憤怒仏を祀っている。1750年建立。
中央がドィンコル・ドゴン、左がドクシト・ドゴン。
Dsc00663aDsc00665aタクサルを行う場所。ここだけでなく、この広場のいたるところで行われる。Dsc00664aDsc00666aドクシト・ドゴンからチュエラ・ドゴン後方を見る。手前の建物はサニット倉で、サニットラマ(顕教学部長)が住んでいる。Dsc00675a 輪廻図Dsc00674aタルチョーと呼ばれるチベットの五色の祈祷旗。五色の順番は青・白・赤・緑・黄の順に決まっており、それぞれが天・風・火・水・地すなわち五大を表現する。仏法が風に乗って拡がるよう願いが込められている。Dsc00676aラマレン・ドゴン(ラマレン学部堂)
ドクシト・ドゴンの後方、高所にあり、「ツォンカパの教法を広大にする堂」と記される。第5代当主により1892年建立。
1階奥中央に高さ9メートルのツォンカパ座像があり、左右に二大弟子ゲンドゥン・トゥパ(ダライ・ラマ1世)、ケートゥプジェ(パンチェン・ラマ1世)の像がある。2階中央に供台、他に千灯明、ドクシト五尊がある。
Dsc00677aDsc00667aアゴワ・ドゴン(密呪学部堂)
ドィンコル・ドゴンのはるか後方にあり、「牟尼の教を増長する堂」と記される。
一階内部には、第四代当主の座像、22の仏龕があり、中に釈尊他羅漢像がある。これ以外は壁画で、ドクシト(護法神)が多い。
二階にはツォンカパ像、薬師像、護国天像がある。
Dsc00668aDsc00678aアゴワ・ドゴンのそばの谷間にも、僧房が多数ある。Dsc00669aアゴワ・ドゴンからドィンコル・ドゴン方向へ戻る途中。中央の建物はラブラン倉と思われ、ドィンコル化身ラマ宮殿の一隅にあり、化身ラマに奉仕するための倉である。Dsc00679a更に下ってツォクチェン・ドゴンの横。左の建物はイフ倉と思われる。最大最重要の倉で、ツォクチェン・ドゴンやチュエラ・ドゴン関連の管理を行う。Dsc00670a近くの山だが、タルチョーがいたるところに翻っていて壮観だった。Dsc00682a見学しなかったが、他にソボルガン(モンゴル語で「塔」)がある。
中に各代の化身ラマの位牌、すなわち舎利塔が安置されている。
在家信徒の礼拝所で、この建物の周りを手に数珠を持ち、呪文を唱えながら何千回も回るのである。これにより病気平癒などの功徳があるという。
その為、在家信徒は一定の宿舎に滞在を許される。

       
チベット仏教僧(ラマ)。Dsc00684a「バクシ(博士=ラマ僧)はまた多数の寺院・僧院を有しており、その中には教派を同じくする二千人以上の僧侶をも収容し、その規模はさながら小都会のごとき広大なものもある。
これらの僧侶は庶民に比べるとずっとこざっぱりした服装をしており、頭髪と髭を全部そり落としている。
彼らは灯明を煌々と点じ梵歌を声高々と誦して、その奉ずるもろもろの偶像のために以上のような勤行儀式を執行する。
これらバクシたちの中には、教義上その妻帯が認められている者があって、彼らだけは現にそのとおり妻を娶り多数の子供を持っている。」(東方見聞録)
パオトウ市街に戻る。11:26発。
 

1.チベット仏教(ラマ教)について
1)インド初期仏教の教義
仏教は紀元前5世紀頃、インドの
ゴータマ・シッダールタ(釈迦)が説いた教えである。ゴータマ・シッダールタは目覚めた人(ブッダ=仏陀)であったことから仏教と呼ばれる。時代背景として社会が成熟し、社会不安が増大した事、科学技術の進歩により合理的思考が発達した事があげられるという。従来の宗教(精霊信仰など)では解決できない問題が増えたため、時代の要請に応えたともいえそうだ。同時代には、中国の諸子百家、西洋のギリシャ哲学がある為、恐らく世界的現象の一つだったのだろう。
仏教の基本的な考え方は「
因果論」である。種々な原因が寄り集まって現在の結果が作られる為、永久不変の存在はないという考えである。悪い結果からは悪い原因が求められ反省し、良い行いは良い結果を生むであろうという倫理観である(善因善果・悪因悪果)。「輪廻転生」という思想があるが、輪廻転生は、この因果論に基づき良い行い、悪い行いが来世の生の在り方を決めるとされ、悟りを開かない限り輪廻転生から抜け出す事(解脱)ができず、苦しみ続けるとされる。また「縁起」という思想があるが、これも因果論に基づき、全ての結果は原因と条件が関係しあってできるもので、独立不変の結果はないとする。縁起的には全ての事物・考えに永久不変独立絶対のものはなく、絶対的存在は無であり「」であり、それゆえ無常であり苦である。絶対的存在はないので永遠不滅の魂(アートマン)もなく、生存中でも輪廻転生は起こり得るとされる。輪廻転生の苦から逃れるには「悟り」を開くことしかなく、悟りを開く方法として出家・修行・善行があるが、全て個人の実践により行われる。絶対的存在である「神」は存在しないので、神に救いを求めるという考えはない。極めて現実的・実践的な教えであった。 

2)インドにおける仏教の変遷
紀元前4世紀頃、ゴータマ・シッダールタの教義の解釈をめぐって多くの派閥に分かれるという
部派仏教の時代に入った。そのうちの上座部仏教(従来小乗仏教という蔑称でよばれていたもの)は、東南アジアに伝播した。
紀元前後、民衆の要請に充分応える事ができなくなっていた部派仏教に、
大乗仏教という新しい思想が現れた。これは、自分の解脱を優先していた当初からの教義に対し、出家や修行をしなくても、他者への救済(利他行)を続けていれば、未来の世で解脱できる(仏陀に成る=成仏)という考えである。これはアフガニスタンを経て東アジアに伝播した(中国には1世紀に伝播、日本には漢訳経典が6世紀に伝播)。
その後、大きな思想転換があった。無神論である仏教が有神論的傾向を持つようになってきたのである。「
勝初仏」と呼ばれる絶対最高の創造神的なものが現れたのである。勝初仏は「縁起をするもの」であり、あらゆるものの不変の第一原因になるものである。この誕生の背景は、仏教がより民衆の要請に応えるべくインド民俗信仰、汎神教的なヒンドゥー教の要素を取り入れたり、新しく現れたイスラム教などの熱狂的献身的な唯一最高神への信仰に対抗するためだったかもしれない。汎神教的な諸仏は自受法楽的(自らの悟りを味わい楽しむこと)であるのに対し、一神教的な勝初仏になったのは仏になる手前の段階である菩薩であり、利他的な救済者としての性格を帯びるようになった。菩薩が勝初仏になったというのは、そもそもゴータマ・シッダールタ自身が師を持たず一人で悟りを開いた事から、「最初」「原本」「最高」という思想への発展が行われ、成仏しなくとも「原本」になりうる、という事からだったかもしれない。これら汎神教と一神教的な仏教は、仏は必ず菩薩であった、という事から結びつく。つまり菩薩が仏を生み、仏が菩薩を生む、を繰り返していけば、最初に成仏した一神教的な勝初仏を頂点とした多くの仏(=神)のピラミッド構造、転化して汎神教的なマンダラ的世界が完成する。勝初仏からあらゆるものが創造される。
7世紀にはこのような「
密教」が盛んになった。密教では修行及び秘密の儀式(例えば即身成仏)により成仏する。密教は中国には7世紀、日本には9世紀に「真言宗」として伝播した。チベットに仏教が伝播したのは7世紀以降で、主に8~11世紀であった。
しかしインドでの仏教は既に衰退へと進んでいた。6世紀に侵入したエフタルはゾロアスター教系の一神教であり、仏教徒を弾圧した。同じ6世紀以降、ヒンドゥー教が伸長し、仏教を圧迫、12世紀にはイスラム教のゴール朝が弾圧し、インドから仏教は一掃された。
 

3)チベット仏教の誕生
チベットは地形が険しく、気候も厳しい。なぜそこに仏教は伝播したのか?インドの隣国であるにもかかわらず、7世紀まで伝播しなかったのはなぜなのか?それは前記のような仏教への弾圧が背景にある。弾圧のたびに、仏教徒は隣国(東南アジアなど)へ逃れたのである。特にインド最大最後の仏教寺院ヴィクラマシーラ寺の座主は、破壊を受けてチベットに亡命した。
しかしチベットの文明度はインドに比べると低く、複雑な仏教を充分に受け入れる事が難しかった。仏経典をチベット語に翻訳する為、文字の開発や新しい用語を発明する必要が頻繁に生じた。それは中国の僧侶が仏経典を漢訳するのとは比較にならないほど困難な作業だったと思われる。
ところが、上記の様な悪条件が、インド仏教とチベット仏教の相似性を生むことになった。チベットが仏教を本格的に受け入れたのは国教化された8世紀とされるが、一時衰退し11世紀に復興した。これはインド仏教後期、というかほとんど末期の教義である。それは基本的には大乗仏教で密教だったが、他国に比べて最後期にあたるものである。従ってインド仏教最後期の教義が引き継がれているのである。また、チベット語への翻訳の困難さは、逆に仏経典を正確に直訳する事に繋がった。新造語を大量に作り、元のサンスクリット語の文体を想像できるレベルにまで直訳したのだ。また、量においても原典や漢訳をしのいでいる。現存する経典で、チベット訳にあってサンスクリット原典や漢訳にないものが沢山ある。また教団の形態も、インド仏教の形態を引き継いでいると思われる。
 

4)チベット仏教の教義
全ての命あるものが持つ仏の性質を開発し、菩薩となり
六波羅蜜(6つの修行の達成)を行い、結果として成仏する事を目的とする。その為に「智慧」と「方便」を重視する。
「智慧」とは「
空性」を理解する事だが、「空性」とは、ゴータマ・シッダールタが説いた「縁起」をより深く一般化したもので、あらゆる現象が原因と条件の関係性の上に成り立ち、関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっており、それゆえそれ自身で存在するという実体は存在せず、全ての存在は「空」(無実体・無我)であるとするもの。
「方便」とは悟りに近づく方法の事で、「
菩提心」(悟りと命あるものの救済を強く願う心を持つこと)と「大慈悲」(他の生命に対して自他怨親のない平等な気持ちを持つこと)を言う。
また、僧院教育の現場においては、密教的な修行よりも、存在・認識についての教学・論争による論理的思考能力と正確な概念知の獲得を重視している。
成仏を速やかに達成するための特別な方便として、各宗派においてインド後期密教の流れを汲む
無上ヨーガ・タントラの実践が行われている。無上ヨーガ・タントラとは、8世紀後半以降に作られたインド後期密教経典群のチベット仏教における総称。本尊の観想を中心とした生起次第を重視する父タントラ、身体修練によって空性大楽の獲得を目指す究竟次第を重視する母タントラ、それらを不可分に実践する不ニタントラの三段階がある。
父タントラは、ブッダとその性的パートナーが「性的ヨーガ」を実践して曼荼羅を生成する過程を追体験する修行が中核となっている。性的ヨーガは、現在の出家僧団においてはあくまで観念上の教義として昇華され、なおかつ一般の修行と教学を修得した者のみに開示される秘法とされた。
母タントラは、性的要素に呪殺、黒魔術的・オカルト(隠秘学)的要素も加わっているとされるが、本来は、修行者の身体における四輪や五輪等に代表される
チャクラ(人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す)や「五秘密」などの内的ヨーガを重視した心身変容と、ブッダ(覚者)の智慧との合一を図る内容が中核となっている。
不ニタントラは、「時輪タントラ」の事であり、父タントラと母タントラの統合を企図したものである一方、イスラーム勢力の脅威が迫っていた時代状況を反映し、イスラームとの最終戦争を予言するくだりもある。
呪術的、性的な要素については、出家僧団内においては実際的な行法としては禁止されたものの、その背景にある深遠な哲学自体は認められたため、教学および象徴的造形としては残された。
ラマと呼ばれる高僧、特に
化身ラマ(仏、菩薩、過去の偉大な仏道修行者の化身であるチベット仏教僧)を尊崇することからかつては一般にラマ教と呼ばれ、仏教とは異質な宗教と見なす事もあったが、末期インド仏教の継承者との一般の認識を得るにつれ、現在では使用されなくなっている。 

5)宗派と信仰対象
宗派は
ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4つがある。
信仰対象は、最高位の仏としての勝初仏があり、その他、明王、歓喜仏、阿弥陀如来、十一面観音、文殊菩薩、ターラー菩薩、パルデン・ラモがある。
聖地としては、ダライ・ラマの宮殿である
ポタラ宮大召、小召、レボン、セラ、ガンデンの各寺院を擁するチベットの首府ラサ、チベット高原のカイラス山(6566m)と麓のマナサロワル湖、中国山西省の五台山が有名である。 

6)歴史
①仏教伝来とチベット仏教の誕生
7世紀前半、吐蕃の
ソンツェン・ガンポ王が仏教に帰依、8世紀には国教とされた。8世紀から9世紀にかけてサンスクリット語の経典をチベット語訳する事業がすすめられ、チベット大蔵経として完成した。
②分裂
9世紀の吐蕃王朝滅亡と共にチベット仏教の出家教団は衰退し、インドで流行していた在家密教が主流になった。チベット仏教は四散した吐蕃王家が建国した西チベットのグゲ王国が保持していた。
③復興
11世紀、インドから入国した
アティーシャにより出家教団が再興された。顕教(中国などに伝播した北伝の大乗仏教)の哲学研究が行われる一方で、インドから後期密教がもたらされた。ここから顕教と密教を総合的に学習する伝統が生まれた。
④サキャ派政権とモンゴルへの伝播
13世紀、チベットはモンゴル帝国の侵攻を受けたが、
サキャ派政権はチベットの自治支配権を得た。さらに、フビライがモンゴル皇帝に即位すると、座主の甥パクスパは元朝の帝師として遇され、他の宗教を退けて一地域の宗教に過ぎなかったチベット仏教を元朝の国教にする事に成功するという偉業を成し遂げた。その結果チベット仏教はモンゴル人貴族に広く浸透した。
カギュ派ゲルク派
14世紀後半、元朝が北に追われるとカギュ派系パクモドゥ派が政権を握った。
カギュ派衰退後は、カギュ派系のカルマ派と15世紀に誕生したゲルク派が競うようになった。両派は化身ラマを座主として勢力を伸ばした。そのうち、ゲルク派の最上位化身ラマを
ダライ・ラマといい、16世紀に北元朝のアルタン・ハーンが定めた称号である。
⑥ゲルク派の
ダライ・ラマ政権
ゲルク派は、過度の性的ヨーガを禁じ、無実体・無我を観ずる事を重視した。また、在家修行よりも教団での出家修行を重視した。部派仏教、顕教、密教を統合した修道体系を構築した。
17世紀半ば、オイラート部がチベットを征服し、グシ・ハン朝を開くと、ゲルク派のダライ・ラマをチベット仏教全宗派の最高権威とした。これによりゲルク派が正統派として認知されるようになった。
グシ・ハン朝を滅亡させた清朝も、ダライ・ラマ政権の後ろ盾になった。
近代になると、ロシアやイギリスがチベットと交渉するようになり、チベット仏教の研究も進んだ。
⑦チベット動乱と亡命政権
20世紀後半、中華人民共和国のチベット支配に対する反乱が起きた。
チベット動乱と呼ばれる。ダライ・ラマ政権や他宗派の座主、多くのチベット人がインドやネパールに亡命した。ダライ・ラマ政権はインドで存続し、国際的な布教活動を行うようになった。
一方、チベット本土では、文化大革命時の弾圧を経て中華人民共和国の統制によるチベット仏教の存続が行われている。
 

7)チベット寺院について
チベット寺院は大きく2種類に分けられる。学堂を中心とした
学問寺と、化身ラマを中心とした化身ラマ寺である。
元々ゴータマ・シッダールタ生存中には、寺はなく、ただ教団の修行者の住居・学堂と遊園があるのみであった。修行者は人里離れた学堂と遊園で学行に励んだ。
ゴータマ・シッダールタ死去後、その供養の為、遺物を納める塔を建て、後に発明された仏像と共に住居・学堂の中心になり、寺院になったと思われる。
化身ラマ寺の代表格は、かつてのラサのポタラ宮殿である。ポタラ宮殿は化身ラマであるダライ・ラマを中心とした寺院で、民衆の信仰の対象であり、政治の中心地でもあった。学問を行う場所ではない。同じように化身ラマが中心となる寺院が、チベット、モンゴルを中心に多数ある。
 

8)学問寺について
学問寺は、主に学問・研究を行う学僧からなる場所だが、毎日宗教的な礼拝勤行もあり、定期的に法事や法会も行われる。大きな法会としては、
大祈願会(モンラム・チェンポ)、大衆供(ツォクチェ)がある。
同時にほとんどの僧侶が、いずれかの学部に所属する。代表的な学部は4学部ある。
顕教学部(チュエ・ラサン)は法学、相学(人相・家相・地相などを見て、その人の性格や運勢などを判断する学問)、哲学、論理学、文法学、戒律を学ぶ。、
密教学部(ジュットパ・ラサン)は仏像類の属性・性格を知り、それぞれの経典を暗記する学問らしい。
時輪学部(ドィンコル・ラサン)は天文学で、天文現象や暦について学ぶ。
薬学部(マンパ・ラサン)は薬学、医学を学ぶ。
学僧は、入学から卒業までに約20~30年を要するという。その過程で学位を授かるが、低いものから
サラパ、ゲプシ、アリンジンパ、ドランパ、ハランパである。ハランパの学位を授かるのは大変栄誉な事であり、学僧は、チベット僧のどの官職に就くかよりも、どの学位を得るかが最大の関心事である。
 

引用・参考文献 

ウィキペディア 

書名   :完訳東方見聞録 1                                                    
シリーズ :平凡社ライブラリー 326                                             
著者名  :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注                                  
出版者  :平凡社
 

書名   :蒙古学問寺                                                    
著者名  :長尾雅人 著                                  
出版者  :中公文庫
 

書名   :蒙古ラマ廟記                                                    
著者名  :長尾雅人 著                                  
出版者  :中公文庫

書名   : モンゴル仏教紀行                                                   
著者名  :菅沼晃 著                                  
出版者  :春秋社
  

書名   :地球の歩き方・中国 2013~2014年版
著者名  :地球の歩き方編集室 著
出版者  :ダイヤモンド・ビッグ社

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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その5(パオトウ市内のキリスト教会)

パオトウの朝。起床6:00、その後シャワー。
朝食cafeは7:30から摂った。

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「奇石宴」と呼ばれる、食材に似た石を器に盛って料理に見せかけた物らしい。
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ホテルの外観。
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Bさんにロビーで会い、ホテル7:55発。

今日も盛りだくさんだ。
まず
市内のキリスト教会へ、それから五当召美岱召を見学する。その後黄河沿いを東に向かい、フフホトにて大召席力図召を観光する。

キリスト教会を見学するのには訳がある。
前述の銀川の項で、マルコ・ポーロはこう語っている。
「エグリガイア(寧夏)地方についてはこれだけで済ませ、続いてテンドゥクと称する東方の土地を語りたいが、これでいよいよわれわれは
プレスター・ジョンの領域内にはいることになるであろう。」
プレスター・ジョンの領域に入る事に、期待を膨らませているのである。

プレスター・ジョン(司祭ジョン)は、聖地パレスチナをイスラム教徒から奪還しようとしていた12世紀頃の西欧のキリスト教徒が待望していた、はるか東方に存在すると想像されていたキリスト教国の王の名前である。(プレスター・ジョンについては後述)
ここから、彼が東方から軍勢を引き連れて、西欧の十字軍と共にイスラム国家を打ち負かすという神話が生まれた。この神話は以後2世紀に渡り存在し、13世紀初頭には広く知られるようになっていた。

キリスト教国から来たポーロ一行が、プレスター・ジョンの領地に到達したと知って、興奮しないわけがなかった。そこで今回は内モンゴルのキリスト教会を訪問することにしたのだが、ただし、残念ながら色々と妥協しなければならない事が多かった。

まず「プレスター・ジョン」の領地はパオトウではなく明日訪問するフフホト(東方見聞録のテンドゥク)である。(フフホトが「プレスター・ジョン」の根拠地であったという説については後述)これは日程の都合上仕方がなかった。
次に、「プレスター・ジョン」は
ネストリウス派教徒であったが、今回訪問する教会はローマ・カトリック派である。「プレスター・ジョン」、正確にはオングート王ゲオルギスは、ポーロ一行が中国を去った1290年とほぼ入れ違いに中国に入った教皇使節モンテ・カルビノにより臣下共々ローマ・カトリックに改宗したが、ゲオルギスの死後、その臣下はネストリウス派の僧侶達によって再びネストリウス派に改宗してしまった。中国のローマ・カトリック派はモンゴル帝国の衰退と共に消滅した。今回訪問する教会は25年前に建てられたものである。(ネストリウス派については後述)

朝の街中。

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教会に着きました。
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掲示板を見ると普通の教会と変わらないようです。
時季が時季だけに、生誕の話です。
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建物が大きいです。
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市内には1万人の信徒がいるらしいです。ただ十字架が赤いというのは、中国政府公認教会のあかしなのか、中国では赤い色がおめでたい色だからなのか。
赤い十字架というと赤十字hospitalを連想してしまいます。(中国では政府の監督下にない教会は非合法とされ取り締まりの対象になる。海外の影響を受けている宗教活動は非合法で、例えばローマ・カトリックでもローマ教皇(法王)の指導・影響を受けている団体は非公認。中国はバチカン市国と国交していない)

1階です。予想に反してかなり広いです。高齢者と青年以外のフロアとの事です。1階にはキリスト教関係の書籍や信徒の為のバッジがたくさん置いてあります。

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2階は高齢者用のフロアです。ちなみに3階は青年用です。このように世代別にフロアが違うというのは、予想外でした。やはり同じ世代でまとめたほうが信徒にとっても安心感が得られるという事なのか。
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「神の家」という事だと思います。
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8:36出発。
これから有名な
五当召というチベット寺院に向かいます。
再び街中の風景です。

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1.プレスター・ジョン伝説と、中世ローマ・カトリック派とモンゴル帝国の関係
1)イスラム勢力の台頭と十字軍
7世紀に生まれた
イスラム教は、元々アラブ人の為の宗教だった。アラブ人は、交易と隊商からの略奪を生業としていたが、教祖ムハンマドにより事実上アラブ人同士の略奪はできなくなってしまった。そこで彼らは外の世界に活路を求めた。
最初の標的になったのはササン朝ペルシア帝国とビザンチン帝国という大国だったが、意外にも勝利してしまった。

アラブ・イスラム帝国は、2つの帝国に比べて住民からの搾取が少なかったため、むしろ住民から歓迎された。
こうして中東地域はイスラム帝国の手に落ち、西は北アフリカからイベリア半島まで、東は中央アジアまで支配地域を拡大した。この過程でイスラム教はアラブ人以外の民族も改宗が認められた。
11世紀、テュルク人のイスラム教国
セルジューク朝がビザンチン帝国を攻撃した時、ビザンチン帝国はローマ教皇に助けを求めた。
ローマ教皇の呼びかけの元、西欧のキリスト教国による
十字軍が編成され、中東に派遣された。
当初、十字軍はイスラム教国を退けて聖地エルサレムと地中海岸地域の占領に成功したが、シリア、エジプトを統一したイスラム教国
アイユーブ朝の反撃により、ほとんどの占領地を奪回された。その後も十字軍の派遣は続けられたが、事態は好転しなかった。

 

2)発端
12世紀前半、中央アジアでイスラム教国カラ=ハン朝がモンゴル系の
西遼(カラ=キタイ)に攻撃され、中央アジア東部から追い払われると、十字軍にも噂が達した。西遼の王耶律大石(グル=ハン)がネストリウス派キリスト教徒らしいという噂から、十字軍には、東方のキリスト教国の王プレスター・ジョンがイスラム教国を撃破して聖地奪回に協力するという神話が生まれ、西欧諸国に広まっていった。
13世紀に入るとイスラム教国最強のホラズム=シャー国が
モンゴル帝国チンギス・ハーンに滅ぼされ、チンギスの一族にはネストリウス派キリスト教徒がいるという情報が伝わると、プレスター・ジョンへの期待は高まっていった。
しかし、13世紀半ばにモンゴル帝国がロシア、ポーランド、ハンガリーのキリスト教国に侵攻すると、モンゴル帝国がプレスター・ジョンの王国ではない事を認めざるを得なくなった。ただ、幸運にも侵攻の途中でモンゴルの皇帝
オゴタイ・ハーンが死去した為、後継者を決める為に侵攻軍はただちに帰国した。これに勇気づけられ、ローマ教皇やフランス王は、モンゴル皇帝のローマ・カトリックへの改宗と、ヨーロッパ侵攻計画の情報収集の為、いくつかの使節をモンゴル宮廷に派遣する事になった。この派遣は、モンゴル帝国がシルクロードを支配した事で交通路の安全が高まった事により活発になったものである。また、彼らのプレスター・ジョンの王国への探求心がなくなった訳でもなかった。プレスター・ジョンの王国はモンゴル帝国の支配下に入り存続しているとみなされた。

 

3)プラノ・カルビニ
まず1245年に教皇使節プラノ・カルビニがモンゴル帝国の首都カラコルムに派遣された。
そこでプラノ・カルビニは、
グユク・ハーンの皇帝即位式に招かれた。グユク・ハーンはキリスト教に好意を持っており、実際2名の側近はネストリウス派キリスト教徒であった。また、イスラム教徒を排除した「内閣」を作ったが、これは宗教的な理由というより政治的な理由によるものらしい。
グユク・ハーンの側近チンハイは、ローマ教皇への返書のラテン語訳を任されたが、プラノ・カルビニに同行した司祭が、ローマ・カトリックがキリスト教の唯一正当な形態であると言ったことに対し、「高慢」であると書き加えたらしい。
また、グユク・ハーンの命令によりバグダード攻撃を計画していたモンゴル人の将軍は、イスラム勢力の目を欺くためフランス王ルイ9世指揮下の十字軍をエジプトに侵攻させようと画策し手紙を送った。そこには「十字架に敵対する敵に対してキリスト教徒の軍が勝利するよう神に祈る」「(カトリック派に限らず)全ての十字架の信仰者は、神の目とモンゴル皇帝の目から見て1つである」と書かれていた。
この手紙を運んだネストリウス派キリスト教徒は、ルイ9世に、「グユク・ハーンはプレスター・ジョンの孫であり、キリスト教徒である。十字軍がエルサレムを奪還するのを手助けしたいと望んでいる」と報告した。

 

4)ウィリアム・ルブルク
ルイ9世の返書はドミニコ会修道士アンドレがモンゴルに届けたが、既にグユク・ハーンは死去していた。代わりに王妃が返書を書いたが、その内容にはキリスト教徒と十字軍への支援について一切触れられておらず、モンゴル帝国への貢物の要求だけだった。
しかしアンドレの報告にあった、中央アジアのゲルマン人奴隷の話は、ルイ9世の宮廷にいたフランシスコ会修道士ウィリアム・ルブルクに刺激を与えた。ルブルクは中央アジアのモンゴル人に、ローマ・カトリックを布教する事を決心した。
1253年、皇帝
モンケ・ハーンのカラコルムの宮廷で、アルメニア派修道士の元に身を寄せていたルブルクは、早速宮廷内の各宗派の権力争いに巻き込まれた。
イスラム教徒を敵視していたアルメニア派修道士はイスラム教徒と度々口論になったばかりか、ルブルクが持参したルイ9世の紹介状を勝手に書き換えて翻訳し、イスラム教徒に対する戦争に参加するよう促す内容に変えていた。
モンケ・ハーンは典型的なモンゴルのやり方に従い、各宗派がどのような力を示すのかという視点から、各宗派を平等に扱っていた。(モンゴル帝国の宗教政策については後述)
ルブルクはモンケ・ハーンがどの宗派も信仰していない事を悟った。ルブルクは外交目的でなく、権力争いでもなく、ただハーンが望まれるならば神の言葉を述べ伝えるために拝謁したのだと説明したが、モンゴル人達は神の言葉を単なる「予言」と受け止めているようだった。
モンケ・ハーンは、グユク・ハーンと同様、各宗派を討論会で対決させる事を楽しんでいた。ある時、ルブルクは、ネストリウス派、イスラム教徒、仏教徒を論破しその面目を失わせたが、ローマ・カトリックに改宗する者は一人もいなかったと述べている。
モンケ・ハーンは、ルブルクとの最後の会見において、このように述べた。「我々モンゴル人は神はただ一人であり、神を通して我々は生き、死に、そして神に向って我々の心を向けるのだと信じている。しかし、ちょうど神が人間の手に多くの指を備えられたように、神は人間にいくつもの道を与えられた。神は汝らに聖書を与えたが、汝らキリスト教徒はそのことに気が付いていない。」そして、ルブルクは当てはまらないと前置きしたうえで、キリスト教徒は不和をもたらし、強欲であると非難した。
後にモンケ・ハーンは仏教への傾倒を示すようになった。

 

5)モンゴルとの同盟とイスラム勢力の反撃
その頃、中東では、モンケ・ハーンの弟、
フラグがバグダード(アッバース朝)とエジプト、シリア(マムルーク朝)への侵攻を開始しようとしていた。フラグの妻と副官キトブカがキリスト教徒であることから、キリスト教国とモンゴル帝国の同盟によるイスラム教国攻撃の機運が高まった。
キリキアのアルメニア王は、キリスト教徒の保護とエルサレムのキリスト教徒への帰属を条件に、兵士をモンゴル軍に提供した。
バグダード占領時には、カリフを始めとするイスラム教徒は虐殺され、キリスト教徒は難を逃れた。フラグはネストリウス派総主教の為に宮殿を提供し、聖堂を建てた。
1260年、フラグの軍はシリアに侵入し、アレッポを落した。ところがそこにモンケ・ハーン死去の知らせが届き、フラグは兄フビライを後継者として支援するため、キトブカに後事を託して本隊は帰国の途についた。
これはモンゴル軍に備えてその戦術を研究していたマムルーク朝にとって絶好の機会となり、モンゴル軍に降るのを良しとしないアッコーの十字軍の協力もあり、マムルーク朝軍はアッコーで休息を取った上で、ダマスカスを落したキトブカの軍とアイン=ジャールートで衝突し、大勝利を収めた。
以降マムルーク朝の
バイバルスは、イスラム教に改宗したモンゴル帝国の構成国であるキプチャク・ハン国(ロシア西部、ウクライナ、カザフスタン)と同盟を結び、フラグをけん制した。
一方フラグはイラン、イラクを領有して
イル・ハン国を建国し、ビザンチン帝国やローマ教皇に軍事援助を求め、シリア及びエジプト侵攻を試みたが事態は膠着した。

 

6)プレスター・ジョンの王国へ
モンゴルの新しい皇帝、
フビライ・ハーンもまた、利用しうる限りにおいて各宗派を平等に扱っていた。
ただし中国(南宋)の占領に成功したものの中国人には不信感を抱いており、道教や儒教を抑圧した。その為、中国に支援基盤のない外国人の宗教、イスラム教、仏教、キリスト教、ユダヤ教、特にイスラム教に傾いていた。
ところが20年もの間、財務大臣として権勢をふるったイスラム教徒のアフマド・ファナーカティーの巨額の不正蓄財が暴露されると、イスラム教徒も制限を受けるようになった。
1274年にローマ教皇の親書を持ってモンゴル宮廷に到着したヴェネツィアの商人マルコ・ポーロがフビライ・ハーンの寵愛を受けたとの説もあるが、歴史的な証拠はない。
マルコ・ポーロは「東方見聞録」の中で、プレスター・ジョンは、モンゴル高原中北部のケレイト部族のワン・ハーン(トオリル)だとし、チンギス・ハーンとの戦いの様子を記している。ワン・ハーンはテムジン(チンギス・ハーン)の父と親しく、後にテムジンの盟友として他部族を次々と平らげたが、テムジンの宿敵ジャムカを匿った事から戦いとなり敗れた。
また、「東方見聞録」では内モンゴル陰山山脈北側の
オングート部族がプレスター・ジョンであり、モンゴル宮廷への旅の途中でその領域を通過したと書いている(オングート部族については後述)。
両部族ともネストリウス派キリスト教徒であることから、プレスター・ジョンと見なしていると思われる。ここでのプレスター・ジョンはもはやイスラム教徒を共に討つ同盟国ではなく、単なるモンゴル帝国内の一王国に過ぎない。

 

7)モンテ・コルビノとその後
フランシスコ会修道士、モンテ・コルビノはモンゴル帝国の東部(元王朝)で、めざましい成功を遂げた。
モンテ・コルビノが大都(北京)のモンゴル宮廷に達したのは、フビライ・ハーン死後の1294年で
テムル・ハーンの治世だった。
コルビノはほとんど単独で、1万人をローマ・カトリックに改宗させた。ただしそれはほとんどが他教徒からの改宗ではなく、キリスト教内の多宗派(ネストリウス派、アルメニア派、ギリシャ正教など)からの改宗者だった。
また、コルビノは、モンゴル帝国の帝室に近いオングート王ゲオルギスとその家臣を改宗させる事に成功した。コルビノは、彼に協力する僧侶があと2,3人もいれば、モンゴル皇帝を改宗させることもできたであろうと述べている。
しかし彼の布教活動は、ネストリウス派の妨害にさらされ、何度も窮地に立たされた。命を失いかねない事もあった。
彼の中国での活動を知ったローマ教皇は、彼をカンバリク(大都=北京)の大司教、東洋の総主教に任命した。彼は40年間布教を続け、中国で死去した。
コルビノの死後、彼の宗徒である大都のアラン族は、彼に代わる後継者を派遣してくれるよう、ローマ教皇に求めた。それはモンゴル帝国内でネストリウス派僧侶に対抗して勢力を維持するために必要な事だった。
後継者ではなかったが、教皇使節マリニョーリのヨアネスが大都を訪れた。彼は旅の途中で、モンゴル帝国の西側がイスラム教化され、キリスト教徒が迫害される光景を見た。また大都において、他教徒との栄誉ある討論を行い、ローマ・カトリックが偶像崇拝に近い行いをしていると非難されたと述べている。
ヨアネスは帰国後、モンゴル皇帝からローマ教皇に宛てた、フランシスコ会修道士をもっと派遣するようにとの親書を伝えた。しかしヨーロッパでは黒死病(ペスト)が大流行し始め、結局派遣されることはなく、中国のローマ・カトリックは14世紀には消滅した。
中国での布教は、16世紀の大航海時代、フランシスコ・ザビエルが果たせなかった中国布教の遺志を継いだアレッサンドロ・ヴァリニャーノの派遣を待たねばならなかった。

 

2.ネストリウス派について
1)発端
宗教においては度々、自分たちが何を信じているのか?それをどう表現すべきか?それは何を意味しているのか?という問題に直面し、それを明確化する必要が生じてくる。
初期キリスト教においても同様で、一番の問題は、キリストの本質は神か人か、という事であった。
特徴的なのは、それが異なった地域を基盤とした高位の聖職者(権力者)が異なった解釈を持ち、覇権をかけて争う、という状況だった。
アンティオキア学派は、キリストの人格の中には、2つの異なったペルソナ、人としてのものと神としてのものが共存するという「キリスト両性説」を唱えた。
アレキサンドリア学派は、キリストは人の姿を取って生きた神であるという「キリスト単性説」を唱えた。
5世紀のコンスタンティノープルの総主教
ネストリウスは「キリスト両性説」を支持し、アレキサンドリアの総主教キュリロスはこれに反発した。
時のビザンチン帝国皇帝テオドシウス2世は個人的にネストリウスを好感していたが、皇帝に大きな影響力を持っていた姉のプルケリアはネストリウスに反感を持っていた。キュリロスはこれを利用し、反ネストリウスを宣伝させた。
431年、
エフェソス宗教会議が開かれたが、その議長がキュリロスに決まった時点で争いの決着は着いていた。「両性説」は異端とされ、皇帝はキュリロスを支援しネストリウスは追放された。
しかし「両性説」は帝国東部では大きな影響力を持っており、これらの地域はローマ教会から離れ
東方教会を設立、ササン朝ペルシア帝国の首都クテシフォンに首座を置き、ビザンチン帝国の権威を否定した。
その後「両性説」と「単性説」の和解を図り、数回の宗教会議が開かれたが、結局和解はならなかった。
『ネストリウス派における大きな問題は、神が人間の姿を取って生きるということは何を意味するのかという点であろう。なぜなら、彼らは次のようにも述べているからである。「もし何者かが、苦しみや変化が神の本質に含まれると考え、そう教えたとすれば、また、もしもわれらの主の位格(ペルソナ)の結合について語るときに、主は完全な神でありかつ完全な人であると告白しないならば、彼は破門されねばならない」。』
その後の宗教会議を経て、ペルシアでの「単性説」論者は控えめになり、アジアでは「両性説」が公式の教義になった。

 

2)ペルシアでの状況
5世紀のササン朝ペルシア帝国において、ネストリウス派は決して安泰というわけではなかった。
ササン朝の国教は
ゾロアスター教であり、ネストリウス派に限らずキリスト教、ユダヤ教、マニ教は「人々にただ一つの神を崇めるように教え、太陽や火に敬意を払う事を教えない」として度々弾圧の対象になった。
それでも7世紀や11世紀当時の人の記述の中には、ネストリウス派が中東においてかなりの勢力を持っていることを示しているものがある。

 

3)中央アジアへの伝播
ソグディアナ(サマルカンドを中心都市とする現在のウズベキスタンとタジキスタンの一部)出身の
ソグド人は、中央アジアにネストリウス派を広めるのに貢献した。
ソグディアナはシルクロードの中継地点であり、東洋と西洋のあらゆるものが通過した。その為ソグド人商人はシルクロードを活発に往来する事になった。
また、ソグディアナは政治的文化的中心地から遠く離れているため、その権力が及びにくく、特定の宗教に支配される事もなかった。
結果的に中東でネストリウス派に感化され改宗したソグド人商人は、それを中央アジアや中国に広める役割を果たした。

 

4)テュルク人、モンゴル人への布教
テュルク系遊牧民に最初にネストリウス派キリスト教を布教したのは、6世紀のササン朝のペルシャ人聖職者であった。彼はテュルク語を覚え、アルファベットをもとにテュルク語を文字で表記する方法を考えてテュルク人に教えた。またソグド人聖職者が布教に貢献した事は十分考えられる。
テュルク人やモンゴル人固有の宗教はシャーマニズム的であり、狩猟、収穫、治療など実際的な成果をシャーマンを通じて求めるものであった。恐らくネストリウス派の布教も、シャーマンの手法を用いたものと思われる。
7世紀には、十字架の力によって雷雨を止めた事に感動したテュルク人の王が家臣と共に改宗した事が伝えられている。
また、8世紀にもテュルク人の王が家臣と共に改宗した事が伝えられており、この時はネストリウス派の主教座が中央アジアに設けられた。
11世紀にも20万人ものテュルク人やモンゴル人が改宗したことが伝えられている。
12世紀にはモンゴル系の西遼(カラ=キタイ)がネストリウス派を保護していた。中央アジアの遊牧民の間では、ネストリウス派は主要な宗教になりつつあった。
彼らが改宗した理由ははっきりしないが、シャーマニズム的な力と、ネストリウス派のシルクロード商人から得る様々な利益を重視した可能性がある。

 

5)中国への伝播
中華文明は東洋においては唯一最古の文明であり、周辺地域から得るものは何もなかった。従って外国から流入するものに対して比較的無関心であった。
しかし7世紀以降の
唐朝初中期においては、外国の文物に関心を引かれる皇帝が現れ、人や物が流入するようになった。
ネストリウス派もこの頃ソグド人、ペルシャ人商人や聖職者によって中国にもたらされた。皇帝から布教を認められたが、中国人改宗者がどれほどいたのかはわからない。一般的には、ネストリウス派教徒は中国内の外国人共同体の範疇に収まっていたと思われる。
ネストリウス派に限らず、外来宗教はその実用面、ネストリウス派であれば天文学と医学の知識から価値を見出されていたようである。
8世紀の皇帝、玄宗は外来物に対し熱心であったが、9世紀の武宗は外国に対する警戒から、道教を保護し外来宗教を非合法化した。
10世紀には、中国にネストリウス派信徒を見つける事ができなかったとの記録がある。

 

6)イスラム教の台頭とモンゴルの支配
7世紀に発生したイスラム教は、8世紀半ばにはシルクロードの西半分を支配するまでになった。
イスラム商人が交易の主導権を握るにつれ、中央アジアでもイスラム教に改宗する国家が増え、11世紀にはシルクロード交易をほぼ掌握していた。
しかしその周辺地域、草原の遊牧民の間ではネストリウス派はまだ大きな勢力を持っていた。
12世紀前半、中央アジアに建国したモンゴル系の西遼(カラ=キタイ)はネストリウス派を保護した為、イスラム教の勢いは後退した。
その後、13世紀にはネストリウス派信徒を多く持つモンゴル帝国がユーラシア大陸の大部分を占領し、イスラム勢力は大幅に後退した。
モンゴル帝国の支配のもと、様々な宗教が布教を認められ勢力の拡大を競い合う時代が到来した。
ネストリウス派もその争いに巻き込まれていた。ローマ・カトリック派が西欧からモンゴルへ改宗と布教の使節を送ったのと同様、ネストリウス派の
パール・サウマとマルコスもモンゴルから西欧に向けて旅をしたのである。

 

7)衰退
14世紀になると、モンゴル帝国の西半分では、交易による利益に関心がある王族は、交易と税務と財務に長けているイスラム商人を援助するようになり、やがて彼ら自身もイスラム教に改宗していった。
また一部の王族は、イスラム教徒による他教徒の虐殺を支援した。一説ではネストリウス派は14世紀後半に
ティムールにより絶滅させられた。
中央アジアでは、イスラム教徒の上流階級の地位が固定化し、経済的にも指導的立場になった。
このような状況の中で、ネストリウス派信徒は激減していったと思われる。
また、モンゴル帝国の東半分(
元朝)では、次第にチベット仏教が有力になり、諸部族も改宗するようになった。
14世紀後半に元朝が
明朝に追放され、元朝の支援を受けていた中国のネストリウス派は、新しい明朝のもとではむしろ敵対視されたようである。
一方北に逃れた諸部族もチベット仏教が支配的で、ネストリウス派の部族は減少していったと思われる。

 

8)現代
20世紀初頭、中国のオルドス地方(内モンゴル自治区南部の一部)のエラクト族などにキリスト教の行為の痕跡の可能性が報告された。
ネストリウス派は、
アッシリア東方教会として、中東、米国で活動している。1980年の統計では約17万6700人。

 

3.モンゴル帝国の宗教政策について
モンゴル人は実際的な民族であった。その関心は食料の獲得、戦闘での勝利、健康の維持など日常的な要求であり、それを霊的にかなえる実用性が宗教に求められていた。
モンゴル人固有の神は唯一至高の神、天空神テングリであり、シャーマンが神と霊的に交信して要求をかなえようとするものである。
宗教に求めるものは実用性である為、当座の要求がかなうのであればどのような宗教でもかまわなかった。その宗教が役に立たないと証明されるまでは、その宗教は有用なものとして、他の宗教と平等に扱われた。
マルコ・ポーロの東方見聞録に、皇帝フビライ・ハーンの言葉が引用されている。
「礼拝され、全世界で崇拝されている予言者は4人いる。キリスト教徒は神とはイエス・キリストだという。イスラム教徒はムハンマドだと、ユダヤ人はモーセだと、仏教徒はそれは初めて神を偶像の姿で現したシャカムニだという。私はこの四者をともに崇敬し、崇拝する。それによって私は天においてもっとも偉大でもっとも真実な者に間違いなく敬意と崇拝を送り、それに助けを祈ることができる。」

 

またモンゴル人は、宗教を特定の共同体に固有のものとして認識していた。共同体が違えば宗教も違って当然という考え方である。
モンゴルの支配地域が広がるにつれ、自分たちの支配は正当であると住民から見なされなければならないと考えるようになった。
その為には、その土地の宗教指導者と良好な関係を築くことが有効であると考えた。住民にとっての救いとは、自分たちの信じたい宗教を信じる事だと考えた。
だから改宗を強いたり宗教を弾圧するどころか、宗教指導者に対しては税を免除する事にした。
皇帝モンケ・ハーンは、フランシスコ会修道士ルブルクとの最後の会見において、このように述べた。
「我々モンゴル人は神はただ一人であり、神を通して我々は生き、死に、そして神に向って我々の心を向けるのだと信じている。しかし、ちょうど神が人間の手に多くの指を備えられたように、神は人間にいくつもの道を与えられた。神は汝らに聖書を与えたが、汝らキリスト教徒はそのことに気が付いていない。」
そして、ルブルクは当てはまらないと前置きしたうえで、キリスト教徒は不和をもたらし、強欲であると非難した。

 

モンゴルの皇帝は、宗教間の対立を防ぐ為に努力した。様々な宗教間のバランスをとり、可能な範囲で各々が自分の信仰を保つことができるようにするものだった。
しかし各々の宗教指導者は、自分たちは他の宗教の指導者よりも優れており、それに対抗しても責任を問われないと考えたため、この政策はうまくいかず、結果的に多くの争い、流血さえももたらした。
また、実際にはモンゴル人は各々の宗教を平等に取り扱う事はできなかった。
『「クルアーン」が述べている事と類似している。「あなた達は(あなた達の)妻たちを公平に扱う事はできないだろう。たとえ(そうしようと)望んでも」(4.129)』。
モンゴル人の特定の宗教への偏愛は、その宗教を増長させ、他の宗教の怒りを呼び起こしてしまった。
最終的に、モンゴル帝国の西側はイスラム教に、東側はチベット仏教に帰依する事になった。

引用・参考文献
書名   :完訳東方見聞録 1                                                    
シリーズ :平凡社ライブラリー 326                                             
著者名  :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注                                  
出版者  :平凡社

書名   :シルクロードの宗教                                                    
副題   :古代から15世紀までの通商と文化交流
著者名  :R.C.フォルツ/著 , 常塚聴/訳                                  
出版者  :教文館

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銀川~フフホト~チャガンノール遺跡旅行~その4(銀川~鳥海~バヤンノール~パオトウ)

これから黄河沿いを北上して内蒙古自治区のパオトウに向かう。

銀川を去る前に、ラクダの毛布を入手できないか、Bさんに聞いてみた。
それは、「東方見聞録」に以下の記述があるからである。
「カラチャン市(銀川)ではラクダの毛で駝毛布を織造しているが、その品質の良さは世界に類がない。
白い駝毛を使った白駝毛布は特に上等で見事な品である。
しかもこれら駝毛布の生産は莫大な量に上がっており、商人の手を経て世界の各地、特にカタイ国(中国北部)に多く搬出されている。」
やはり前回と同様、銀川では見かけないが、内蒙古自治区でなら心当たりがあると言う。
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15:05、黄河を渡る。
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16:00、鳥石高速道分岐を通過。
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16:10、黄河を渡る。
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16:15、鳥海(ウーハイ)市海南区老石担分岐通過。
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16:30、鳥海市海勃湾区通過。鉱山のようなものが見える。
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16:36、鳥海到着。トイレ休憩toilet。少し下痢気味。昼食または氷点下の寒さが原因か?16:54出発。

17:02、鳥海北通過。遠くに山並みが見える。
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17:30、巴位贡分岐通過、沿黄公路に入る。周囲は荒れ地が続く。
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17:35、バヤンノール市黄河大橋を渡る。川幅の広さに圧倒されるcoldsweats02
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17:38、バヤンノール市磴口区分岐通過。
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17:52、薄暗くなり走行中の撮影終了。

18:17、バヤンノール市臨河区通過。

18:38、夕食休憩restaurant
烩酢菜と呼ばれる、豚肉とじゃがいもと塩に漬けたキャベツの煮物、肉と木の実と野菜の炒め物、キュウリと豚肉ときくらげの炒め物。
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19:46、出発。荒地、畑、林が続く。

20:04、刈沼分岐通過。

20:36、鳥位山通過。

20:50、公届子通過。

21:10、白彦花通過。

21:25、哈徳口通過。
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21:32、包鋼、都市の光が見えるhappy02

21:50、
パオトウ中心地の鋼鉄通り(鋼鉄大街)に入る。
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パオトウ(包頭)市は中国の地方行政単位としては上から2番目の地級市になる。
中国の地方行政単位の最上位は省、自治区、直轄市、特別行政区、2番目は地級市、地区、自治州、盟、3番目は市轄区、県級市、県、旗、特区、林区、4番目は県轄区、街道、鎮、郷、ソム、5番目は村、社区になっており、同じ市、区と言っても権限が異なっている。

パオトウは清朝中期に村落ができた比較的新しい町で、20世紀後半に周恩来首相が街づくりを命令した。
市の名称はモンゴル語で「鹿のいる場所」を意味するところから、中国語では「鹿城」とも称されたが、他にも諸説がある。
市区は東河、青山、昆都侖、九原の4つの区に分かれ,建設路と鋼鉄大街で繋がっている。
バヤン鉱区
のバイヤンオボ(白雲鄂博)では鉄鋼、レア・アースを豊富に産する。その為、鉄鋼業が盛んな工業都市であり、その中心は包頭製鋼所である。
民族は、モンゴル族、漢族、回族、満州族が居住している。


パオトウ周辺の各時代の支配国は以下の通り。
紀元前4~3世紀(戦国時代):趙
紀元前3世紀:秦
紀元前2~1世紀:前漢
1~3世紀:後漢
4~6世紀(五胡十六国、南北朝):鮮卑(モンゴル系?)系王朝、匈奴系王朝
7世紀:突厥(テュルク系)
7~9世紀:唐(モンゴル系?)
10世紀:契丹・遼(モンゴル系?)
11~12世紀:西夏(チベット系)
13~14世紀:モンゴル、元
14~16世紀:明
17~19世紀:清(ツングース系)
20世紀:中華民国、中華人民共和国

22:00、天外天大酒店に到着。
明日は朝食は7:00~、出発は8:00の予定。
部屋に入るとTシャツと靴下だけ洗濯。あとは荷物の整理と明日着るものの準備。この時期の平均最高気温は-5度、平均最低気温は-18度で、風typhoonが吹けば体感温度は更に下がる。服装には要注意だsign01
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ようやく長い一日が終わったconfident
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引用資料:

ウィキペディア

書名   :完訳東方見聞録 1                                                    
シリーズ :平凡社ライブラリー 326                                             
著者名  :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注                                  
出版者  :平凡社

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