047マシュハド、ネイシャーブール(イラン)

イラン北東部旅行(ネイシャーブール・シャーデ・ヤッハ遺跡)

14:38、当初の目的であるシャーデ・ヤッハ遺跡に向かう。キャラバンサライの脇の道をしばらく南に向かい、途中で北西に向かう。
14:47、到着した。モンゴル軍によって壊滅した後、生き残った住民が戻って再建したものの地震にあって廃墟になった
ニーシャープールの遺跡との事。Dscn5381a

資料館が併設されていて、この遺跡で出土したセルジューク朝時代の皿、壁画の一部、土器、水差し、オイルランプ、人間の頭の像、遺跡の壁の一部と思われるものがある。撮影は禁止。画像上はこの遺跡から発掘された人骨、画像下は近くの村で発掘された5500年前の埋葬遺体。生まれたときと同じ胎児の姿で埋葬されている。上は写真、下は実物を書き写した。Dscn5444a

遺跡はまだ全体のごく一部しか発掘されていない。このように屋根で覆われている。内部の撮影は禁止。Dscn5380a

内部を書き写した。下手な絵で分かりづらいが、部屋や路地が入り組んでいる。ガラス工房やガラスを製作した釜の跡が見られる。牢獄もあるそうだ。Dscn5443a遺跡内部の遺体だけ撮影許可が下りた。これは13歳男子。Dscn5377a35歳男性。普通の死に方ではない。いかにも地震で押しつぶされたかのようだ。112642a_245歳男性と35歳女性。112641aもしマルコ・ポーロ一行がニーシャープールを通過したとしても、見たのは廃墟のみだったかもしれない。彼らはこの惨状を見ただろうか?

 

15:30、マシュハドに向け出発。

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イラン北東部旅行(マシュハド~テヘラン~ドバイ~羽田)

Dscn5405a 13:00、食事を終え、13:30、マシュハドの空港に着いた。




Dscn5406a 搭乗手続きが始る前、待合室の土産屋を物色する。石造りの建物のミニチュアを見つけて買った。
ここで思いがけない事態が。我々が乗るテヘラン行きの便の前の便の出発が4時間遅れになってしまったのだ。もし我々が乗る便が4時間も遅れたら、ドバイ行きの便に乗り継げなくなってしまう。予定通りの帰国は無理になる。
Aさんから、イランの国内便は遅れや中止が多いので、余裕を持ったスケジュールを組まないとだめだと言われた。スケジュールを組んだのは私ではないが、次回は注意することにしよう。
不安のうちに待っていると、予定通り15:30に搭乗できた。安心したが、ドバイ行きの便に乗るまで油断できない。

Dscn5407a 15:51、離陸。画像は機内食。





Dscn5409a 17:06、テヘランのメフラーバード国際空港着。




Dscn5412a タクシーでエマーム・ホメイニー国際空港へ。道路が渋滞していて多少あせる。




Dscn5416a 18:30、エマーム・ホメイニー国際空港着。念のためAさんから搭乗手続きについて教えてもらう。
ここでAさんと別れる。レストランで話した日本の事、イランの事、色々な事が懐かしく思い出される。握手して別れた。
その後、スーツケース、手荷物のX腺検査、エミレーツ空港のカウンターでチケット受け取り。カウンターの場所がややわかりにくい。
パスポートのチェックを受けて出発ロビーに入ると、店は7つ程しかなく閑散としている。トイレも汚い。店は化粧品、お菓子、ペルセポリスやゾロアスターの置物、ミーナカーリーなど。特に目新しいものはなかった。
予定時刻の20:30になってもセキュリティチェックエリアが開かず、ずっと待たされる。さすがにこれはおかしいぞと思ったら、腕時計の針がいつの間にか大幅に進んでいた。
20:30、セキュリティチェック。21:07、搭乗。

Dscn5417a 21:52、離陸。エミレーツ航空だから大丈夫だと思うが、ドバイに着くまで何となく安心できない。もう胃の心配はいらないので機内食は平らげた。小さなナンが付いていたが、もうイランのナンを食べられないと思うと寂しい思いだ。

Dscn5420a 23:40、ドバイに到着。日本から到着した時と違い、セキュリティチェックはとても厳しかった。チェックを通過して関空行きの便の搭乗ゲートを確認して、ようやく気持ちに余裕ができた。久しぶりに日本人を見た。

【8日目】

Dscn5418a 土産物屋を覗いてイスラム建築のミニチュアがないか探したが、まったくなかった。ラクダの置物が多い。土産物屋はとにかくたくさんある。


Dscn5422a おもちゃ屋でこんなコスチュームまで売っていた。着たあと空気を入れて脹らますらしい。


Dscn5421a 開放感あふれる庭園もあった。1:55、関空行きの便に搭乗。運よく窓際の席。




Dscn5431a 2:50、離陸。ドバイの夜景が美しい。下の方に雷雲があり、光って見えるのが面白かった。


Dscn5432a 機内食は鶏肉のピリ辛ロースト。もう帰るだけなので胃や喉の調子に気遣うことなく、ビールも飲んだ。暇なのでインディ・ジョーンズをずっと見ていた。


Dscn5433a 朝食はトマトの春巻き。まもなく旅も終わりに近づいた。寂しさが募る。




日本時間17:00、関西国際空港着。スーツケースが無事出て来るかどうか不安だったが見つけて一安心。羽田行きの搭乗手続きをする。ビールとつまみを食べて搭乗ゲートに向かう。

19:15、離陸。

20:25、羽田着。羽田は家まで近いので助かる。

イランの雄大な大地、おいしいナンの味が忘れられない。

今回はトゥノカイン地方の風景やネイシャーブールの廃墟を見られて良かった。

今回も現地ガイドのAさんはじめ、日本の旅行会社の方々、現地の運転手の方々、色々な人たちにお世話になった。ありがとうございました。

参考・引用文献:
書名 :地球の歩き方 E 06(2007~2008年版) イラン
著者名 :地球の歩き方編集室/著作編集
出版者 :ダイヤモンド・ビッグ社

書名 :西アジア史 2(イラン・トルコ)
シリーズ :新版世界各国史 9
著者名 :永田雄三/編
出版者 :山川出版社

外務省海外安全ホームページ

ウィキペディア

書名 :完訳東方見聞録 1
シリーズ :平凡社ライブラリー 326
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

書名 :シルクロード紀行
副書名 :イラン・トルコの遺跡を訪ねて
著者名 :折橋徹彦,北川原俊一郎/著
出版者 :花曜社

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イラン北東部旅行(マシュハド・再びハラメ・モハッタル広場~昼食)

まだ時間があるので、ハラメ・モハッタル広場に行った。ゴウハルシャード・モスクと霊廟の金色のドームがもっと見れる場所に行って撮影したかったからだ。

昨日行ったエマーム・レザー通り側の入り口から右に歩き、ハラメ・モハッタル広場の南東側を探すことにした。画像はラザヴィー広場の建設中のエイヴァーンとミナレット。
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112717a 南側のコウサルkausar広場の入り口付近。霊廟の金色のドームが隠れて良く見えない。


112718a 上記の入り口付近からやや東に移動したら、わりとよく見える場所があった。




Dscn5398a 拡大して撮影。撮影していたら通りががりのイランの子供たちに何故か笑われた。


ゴウハルシャード・モスクのドームも撮影。
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112719a 更に北に移動。Shahid navvad e safavi通り側の入り口前に来た。霊廟の金色のドームはアーザーディー広場を囲む建物に阻まれて見えず。ここでホテルに戻ることにした。

Dscn5400a 昼間のベイトル・モガッダス広場を撮影。

11:20、ホテルに戻って帰国の準備をする。


Dscn5401a ホテル前でタクシーを待ち、12:15出発。途中ジャノメミシンの文字が書かれた店が数軒あった。


Dscn5402a 12:30、昨日昼食を食べたシャンディーゼという店で昼食を摂る。サラダと麦のスープ、にんにく。



Dscn5403a イラン最後の食事で、胃の調子を気にして今まで控えてきた牛肉のひき肉のキャバーブを食べた。やっぱり美味しい!バターを混ぜたご飯と一緒に食べるとたまらない。

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イラン北東部旅行(マシュハド・再びバザーレ・レザー)

【7日目】

7:00前に起床。とうとうイランに滞在する最終日になってしまった。思えばあっという間だった。
今日は午前中フリータイムで、午後に飛行機でテヘランへ、そして夜中にドバイに着く予定。
9:00前にホテルのレストランで朝食を食べ、まず昨日いったバザーレ・レザーを見て回ることにする。目的は観光のほか、イスラム建築のミニチュアを手に入れること。昨日来たときにエマーム・レザーの霊廟の建物を見つけて購入済みなので、他にもないか捜すことにした。画像はインテリアとおもちゃの店で、左に聖墓らしきミニチュアがある。
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112706a 800mもの商店街を見て、反対側の入り口に出た。織物を売っている人たちが何人もいてバザールの客に声をかけていた。でも中々売れないようだ。

112705a 学校の社会科見学だろうか、バザールからかわいい子供たちが大勢出てきた。




バザーレ・レザーの中には二本の通りがあり、それぞれ両側に店が立ち並んでいる。もう一本の
800mの商店街を見て回ることにした。このように宗教画や霊廟の写真を背景にして記念写真を撮る写真屋が何軒もある。
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112708a 撮影されたサンプル写真。




112711a 二階にも店がある。でも一階ほどのにぎやかさはなかった。


二階から一階の通りを見下ろしてみた。
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同じ種類の商品を扱う店の品物は、どの店も似たり寄ったり。でもこの店は珍しくチャングムのポスターが貼ってあった。
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招き猫が置いてある店もあった。
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112714a インテリア・ショップでは蝶の標本が結構多い。帆船模型はダウ船があったら絶対買ったのになかった。

バザーレ・レザーを全て見て回った。時々日本語で話しかけられるのは嬉しかった。中国人に間違われることもあったが(チーノと言われる)。結局他のイスラム建築のミニチュアは見つからず、残念でした。

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イラン北東部旅行(ネイシャーブール~マシュハドの夜)

112645a 干しアンズ売りのおばさんからアンズを買う。


112646a 途中の放牧風景。




112647a 中々タイミングが合わない。16:30に料金所を通過し、17:10にホテルに戻った。


Dscn5389a 18:20~19:30の間、夜のライトアップされたハラメ・モハッタル広場を見に行った。エマーム・レザー通りもハラメ・モハッタル広場も昼間と変わらない人出だった。土産店も開いている。ライトアップされたハラメ・モハッタル広場は昼より美しい。

Dscn5386a 霊廟の黄金のドームも輝いている。





Dscn5392a ホテルの近くのベイトル・モガッダス広場。中央に見えるのはバザーレ・レザーの入り口。


Dscn5394a 人も車も絶えることがありません。





112648a 20:00、ホテルのレストランで夕食。今日はちょっと変わった鶏肉料理。名前は忘れてしまった。
今日はネイシャーブールで目的の遺跡が見られて満足だった。
ところで昨日、本日と所謂トゥノカイン地方(タバス及びラザヴィー・ホラーサーン州と南ホラーサーン州)を辿ってきたが、東方見聞録の次の記述について感想を書いてみたい。
「(コビナン(現在のケルマーン州のクボナン)から)八日間の行程を終わるとトゥノカインという地方に着く。この地方はペルシアの北辺に位置し、都市城邑が多い。国内に一大平原があって、その中にアルブル・ソル、すなわちキリスト教徒が「乾燥した樹」と呼ぶ樹がある。(中略)この樹の周辺には、ただ一方向の約十マイル彼方で多少の木が生えている以外、方百マイル以上にわたって全く樹木がない。土人の言によれば、アレクサンダー大王とダリウス王の間に激戦が行われたのはこの地点だったという。この国は暑からず寒からずの良好な気候に恵まれているために、その都市や集落にはなにものにもよらず良質の品物が十分に出回っている。住民はすべてイスラーム教徒である。」(東方見聞録)
「アルブル・ソルの地とは、ホラーサーン地方の一部を意味する。聖地にあって奇跡を現す開闢以来の巨大な長寿木という中世キリスト教徒の伝説と、大王が東方遠征中、人語を語る太陽樹・太陰樹に出会ったとするアレクサンダー物語の説話とが絡み合い、更にそれが、この地方に茂生するスズカケの大樹に関連づけられて成った地名である。」(完訳東方見聞録Ⅰの注釈)

「都市城邑が多い」と書いている割には砂漠などの荒地が非常に多く、イランは砂漠の中にオアシス都市が点在する国だという印象を強くした。ただし地図を見ても一目瞭然だがタバス以南の荒地が続く風景に比べると都市・集落・畑地・放牧地・果樹園は格段に多く、上記の記述は間違っていないと思う(ただしポーロ一行が実際に辿ったルートが今回のルートと一致している証拠は何もない)。「(中世キリスト教徒が呼ぶところの乾燥した)樹の周辺には、ただ一方向の約十マイル彼方で多少の木が生えている以外、方百マイル以上にわたって全く樹木がない。」という記述だが、注釈通りこれがスズカケの樹だとすると、タバスよりももっと北の地域の砂漠の中かオアシス周辺に生えていたのだろう。タバス以南はほとんどがシュロの樹だった。

今日は23時前に寝た。

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イラン北東部旅行(マシュハドからネイシャーブールへ)

112625a 12:45、タクシーにてマシュハドを出発してネイシャーブールに向かう。しばらく町の中を走った後、料金所に着いた。


町を出ると砂漠地帯だ。
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マシュハドとネイシャーブールを隔てるビナルッド山脈を回り込むように道を進んでいく。
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13:24、お湯をもらってチャイ・タイム。
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112630a 出発。赤茶けた砂漠が続く。




112631a 13:50、サファヴィー朝のアッバース1世専用のキャラバンサライがあった。このキャラバンサライはイスファハーンからマシュハドまで、30km毎に存在する。アッバース1世がマシュハドへの巡礼のときに使ったものだ。撮影しなかったので画像には写っていません。

112633a 14:01、darrudへの分岐を通過。ビナルッド山脈の南西側をずっと走っていく。


112635a 丘の間に建物が密集した集落があった。集落があるところには水が出るのだろうか?



112636a ビルナッド山脈の主峰(3211m)に近づいた。真ん中に見える白い頂がそうだ。マシュハドは山脈をはさんで反対側にある。

14:15、kharvへの分岐通過。

112638a 14:18、Aさんがリンゴ、干しアンズ売りを呼んで商品を見る。この辺りはアンズの産地だそうだ。結局買わなかった。kharvへの分岐からネイシャーブールまで、畑のほか果樹園、放牧地が多い。養鶏場もあった。

112639a 14:30、ネイシャーブール 36°11'49.95"N 58°48'5.94"Eの中心部に着いた。
ネイシャーブールは3世紀、サーサーン朝のシャープール1世がホラーサーン防衛のために建設した
ネーウ・シャープフルが前身だそうだ。後ニーシャープールと呼ばれ、シャープール2世の時再建された。
9世紀にはターヒル朝の首都になった。内城・外城二重の城壁を持ち、中には40以上の街区があった。内城は4、外城は11の門を持ち、城から一日行程には
364の村、更にその周辺はニーシャープール地方と呼ばれ、ホラーサーンの中心都市として栄えた。
9世紀後半にはサッファール朝の支配下に置かれたが、両王朝の時代にイスラム化が急速に進んだ。
11世紀には中央アジアのトルコ系民族がホラーサーンに侵入して牧地を荒廃させ、ガズナ朝が追放しようとするとホラーサーン各都市の略奪を始めた。ニーシャープールの支配者層は、侵入したトルコ系遊牧民を管理できないガズナ朝に代わり、トルコ系のセルジューク家に治安維持を依頼し、ニーシャープールに入城させた。ここにセルジューク朝が誕生する。
11世紀後半、著名な学者・詩人オマル・ハイヤームを生んだ。セルジューク朝の大宰相、ニザーム・アルムルクはニザーミーヤ学院と呼ばれるマドラサをニーシャープールはじめ主要都市に建てた。またここを統治していた時のスルタンの弟が、反乱を起こした。
12世紀には大思想家ガザーリーがニザーミーヤ学院で教鞭をとった。
12世紀後半にはセルジューク朝が分裂し、政治的混乱からニーシャープールは荒廃し始める。この時期、
神秘主義詩人シェイフ・アッタール・ニーシャープーリーが活動した。
13世紀前半、モンゴルのチンギス・ハーンがホラーサーンに侵入し、ニーシャープールを壊滅させた。これ以降、以前のような繁栄が戻ることはなかった。
13世紀後半にはチャガタイ・ハーン朝軍がイル・ハーン朝のホラーサーンに侵入し、ニーシャープールで略奪を行った。

112640a 14:35、サファヴィー朝時代のキャラバンサライを見学しようとしたが、何かの取材中で中に入れなかった。この他ネイシャーブールにはオマル・ハイヤーム、シェイフ・アッタールのお墓がある。

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イラン北東部旅行(マシュハド・ゴンバデ・サブズ)

112618a 次の観光地、ゴンバデ・サブズ(緑のドーム)という霊廟に着いた。Aさんによると600年前、イスラム神秘主義(スーフィズム)者のピーレー・パーラン・ドゥーゾという人が元の建物を建てたらしい。サファヴィー朝のアッバス1世が今の建物を建てたとの事。全体の高さは16m、エメラルド色のドームはトルコ石でできており、高さ8 m、直径8.5 m、八角形の土台は高さ8 m

ゴンバデ・サブズの入り口。
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土台部分表面のタイル模様も素晴らしい。

中は男女の部屋に分かれており、絨毯が敷き詰められていて数名が熱心に祈りを捧げていた。
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中に古代の医学についての本の著者、シェイフ・モハンマド・ハキーム・モオメン(
Sheikh Mohammad Hakim Mo'men)の墓があるらしいが、よく分からなかった。

112615a ドーム天井部分。装飾が良好に残っている。

初代エマーム、アリーの肖像が掲げられていた。
112616a

市内のレストランで昼食を食べる。
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112622a レストランの中の様子。




112621a レストランのメニュー。何が書いてあるのかさっぱりわからない。

112623a 今回も魚料理を頼んだ。

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イラン北東部旅行(マシュハド・バザーレ・レザー)

112611a ハラメ・モハッタル広場を後にして、バザーレ・レザーに行った。Aさんによるとアルサケス朝パルティア時代以来のものだという。画像は入り口部分 36°16'58.07"N 59°36'46.58"E。

長さ800mの2階建ての建物に約350軒の店があるそうだ。
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とにかく人でごった返している。

112613a サフランの販売店。昨日も観光したがマシュハドのあるラザヴィー・ホラーサーン州はサフランの産地として有名である。一口にサフランといっても様々な種類があるらしい。
全体を回るのは今日は時間的に無理なので、明日のフリータイムに改めて来ることにして、バザーレ・レザーを出た。

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イラン北東部旅行(マシュハド・ハラメ・モハッタル広場)

【6日目】

Dscn5368a 日の出前のマシュハドの町。

Dscn5369a 6:00前、雲の中から太陽が姿を現した。





Dscn5371a 完全に姿を現した太陽。

112601a 朝食はホテルのレストランで。バイキング形式。人参のジャムが美味しかった。




9:00、ホテルを歩いて出発する。画像はホテルの入り口。
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今日は午前はマシュハド市内の観光、午後は近郊のネイシャーブールの遺跡を観光する。

112602a 9:10、エマーム・レザー通りを歩いてハラメ・モハッタル広場の入り口に着いた 36°17'6.71"N 59°36'47.64"E。
ハラメ・モハッタル広場はシーア派十二エマーム派の第
8代エマームであるレザーの聖墓と、これにまつわるモスク、神学校、博物館、図書館などが集まっている宗教施設群である。レザーはイランで殉教した唯一のエマームであるため、イラン中から昼夜を分かたず大勢の信徒が巡礼に訪れる場所になっている。
今日はゴウハルシャード・モスクとエマーム・レザーの聖墓のみ観光する。

まず目に付くのが巨大なミナレット。
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112606a 入り口の建物。この中でボディチェックを受ける。カメラを持っていたので制止されてしまった。やはりハラメ・モハッタル広場内は撮影禁止だった。

ここは別の入り口だが、一人ひとりボディチェックを受けている。
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112607a 仕方がないので手荷物預かり所にカメラを預けに行った。




画像は観光後に入り口前から撮影したもの。
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入り口を入ると、まずラザヴィー広場というものすごく広い広場に出る 36°17'11.24"N 59°36'47.85"E。周囲にはミナレット6本、エイヴァーン3つ、入場口が2箇所ある。ミナレットやエイヴァーンなど現在も建設中だった。
そのまままっすぐ建物に入るとゴドゥス広場という小さな広場に出る。ここの中央にはエルサレムの岩のドームの縮小版の建物があり、手を水で清める場になっている 36°17'13.74"N 59°36'51.20"E。

Dscn5372a 更にまっすぐ進むとゴウハルシャード・モスクの中に入る 36°17'14.80"N 59°36'52.61"E。画像はモスクのドームを撮影したもの。
ゴウハルシャードは建てた人の名前だがどのような人物なのかよく分からない。Aさんはティムール朝の創始者ティムールの孫、シャハロ・ミルザの妻だといい、「地球の歩き方/イラン」ではティムールの長男(
ジャハーンギール?)の妻だと書いており、またティムールの孫で第3代君主のシャー・ルフの妻と記述されているものもある。いずれにせよ、15世紀前半にゴウハルシャードが自費で造ったもの。
モスクの中には赤い絨毯が敷き詰められた礼拝のための大広間が通路の両側にある。

ゴウハルシャード・モスクを出ると更に小さい広場がある。広場の中央には噴水があり、赤い絨毯が敷き詰められていた 36°17'15.71"N 59°36'53.89"E。
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その向こうにエマーム・レザーの霊廟の建物がある。霊廟はサファヴィー朝時代に建てられたもので、金でできたドームが建っている。この建物の入り口?のエイヴァーンはティムール朝時代のものだそうで、表面を豪華に彩る青いタイルは厚さ5
cmもあって容易に剥げ落ちないようになっているそうだ。
残念ながら異教徒である私は霊廟はおろか手前の小広場にすら入ることができない。ゴウハルシャード・モスクの出口で眺めるのみだった。上の画像はハラメ・モハッタル広場の入り口から霊廟のドームの方向を撮影したもの。

Dscn5373a この後ゴウハルシャード・モスクの北側のシェイフ・バハーイーの聖域に出て、小広場の北西側からモスクの建物と霊廟を眺めた。
その後、北西側のジョムフーリイエ・エスラーミー広場というメッカの方角を示す大理石の方位盤がある広場に入り、霊廟の北西側に着いた。
ここには格子窓があり、霊廟の中を見ることができる 36°17'19.17"N 59°36'53.03"E。
100m位先に人だかりがあり、何かを触ろうとしていた。その肝心の何かはエマーム・レザーの聖墓だろうが、残念ながら遠すぎて良く見えなかった。この格子窓には大勢の信徒が聖墓を見ようと顔をつけて目を凝らしていた。中には男女を問わず、嗚咽して泣き出す人もたくさんいた。
その様子に少し胸打たれながら、今度は外国人信徒向けの指導室という所に入った。ここはビデオで霊廟等の説明をしてくれる場所らしい。残念ながら時間がなく、ビデオは見れなかった。またこの部屋には「エマームが指導者たるべき事」について書かれた本が日本語を含め多数の言語版で置かれている。上の画像は霊廟の金色のドーム。

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イラン北東部旅行(マシュハドのホテル)

112579a 16:10、マシュハドに着いた。

112580a マシュハドはイランの北東に位置し、その人口、大きさはテヘランに次いでイラン第二位である。人口は250万、ラザヴィー・ホラーサーン州の州都になっている。
シーア派十二エマーム派第
8代エマーム・レザー(アリー・リダー)の殉教地として有名で、年間2000万以上の巡礼者、旅行者が訪れ、世界最大の聖都だそうだ。特産品はトルコ石、絨毯など。

112582a 9世紀、アッバース朝の後継カリフを誰にするかを巡って第6代カリフのアミーンと兄のマームーンの間で内戦となり、マームーンが勝利して第7代カリフになった。
マームーンはシーア派信徒の支持を得るため、シーア派十二エマーム派の第
8代エマームであるレザーを自分の後継カリフにすることを宣言したが、アッバース朝はスンニ派であるためスンニ派信徒の離反を招いた。
しかしレザーはマームーンとともにホラーサーンに赴いたときに急死する。シーア派十二エマーム派ではレザーはマームーンに毒殺されたと見ており、埋葬された場所にはモスクや町ができ、マシュハド(殉教地)と呼ばれるようになった。

9世紀、スンニ派のガズニ朝の王、スブクティギーンに破壊された。

1009年、その息子のマフムードはドームのついた建物を建てた。

1118年、その娘が廟のまわりの塀を作った。

その後、モンゴル人の攻撃を受けたが、ティムール朝時代には王朝がスンニ派であるにもかかわらずモスクが建てられ多額の寄進が行われた。ティムールの後継者シャー・ルフとその妻ゴウハル・シャードが廟を保護した。

十二エマーム派を国教としたサファヴィー朝時代にはよりシーア派信仰が奨励され、マシュハドはイラン最大の聖地となった。特にアッバース1世がシャイバーニー朝からマシュハドを奪還し、イスファハーンからマシュハドまで徒歩で巡礼して自らの信仰心を表すと、聖地としての名声をより高めることになった。

アフシャール朝時代、ナーディル・シャーはここを首都にして、インドからの戦利品など多額の寄付をした。

ガージャール朝時代にも多額の寄進が行われた。この時代にはイギリスの干渉で隣国アフガニスタンとの国境が確定し、ホラーサーン地方の主要都市ヘラートがアフガニスタン領になると、マシュハドはイラン領ホラーサーンの中心都市となった。末期には中央政府の力が地方に及ばなくなり、各地で反乱が起きたが、マシュハドでもモハンマド・タキー・ハーンが蜂起した。

1912年、ロシアがマシュハドを攻撃した。

パフラヴィー朝時代には町の近代化が行われた。

イスラム共和国になった現在も霊廟の拡張工事が進められている。

112584a バザーレ・レザーの近くのホテルに着いた。テレビ番組は土地柄のせいか、宗教物が多いように感じた。


浴室はバスタブはなく、シャワーのみ。
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112585a ホテルのレストランで夕食を食べる。魚料理を頼んだ。

Dscn5366a 夜、ホテルから見たマシュハドの町。夜遅くまで明るく、人通りが絶えない。時折アザーン?と思われる声が響き渡る。
明日の観光は9:00からだが、日の出が見たいのでモーニングコールは5:30にしてもらった。Aさんは何で?という顔をしていたが。23時には寝た。

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