017カイセリ周辺(トルコ)

トルコ東部旅行(スルタン・ハニ)

カイセリを出発したが、雪景色で真冬に戻ったかのようだ。
そういえばカイセリの近くにはエルジエス山という有名な山があると聞いていたが、結局悪天候で視界が悪く、見ることはできなかった。
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途中にはキュルテペという紀元前2000年頃のアッシリア商人の交易所の遺跡があるはずだ。
目を凝らしたが見つからなかった。
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雪も少なくなってきた。
9:32、ブンヤン村への分岐を通過。
次の目的地、スルタン・ハニの隊商宿を探す。
地図では道の南側にあるはずで、「スルタン・ハニ」と書かれた看板もあったのだが、Aさんによると違うらしい。
やがて道の北側の集落にそれらしき建物が見えてきた。(帰国後とある本を読むとやはり道の南側にあるようである。以下の画像はスルタン・ハニとして紹介するが、違う可能性もある事を事前にお断りします。)
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9:47、スルタン・ハニの隊商宿に着いた 38°58'22.49"N 35°53'42.96"E。
「マルコ・ポーロクエスト」という本で読んで以来、まさか本当に見られるとは思わなかった。
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1230年にルーム・セルジューク朝のカイクバード1世が「他のどんな隊商宿も田舎じみて小さく見えるように」作ったものらしい。
Aさんに言わせると壁の高さが9メートルなので中規模の隊商宿だとか。
2008年から修復が行われており、外側の壁面は復元されて美しい。
ただし中は修復中で、「マルコ・ポーロクエスト」に書かれていた中庭の真ん中にある「アンズ色の石で造られた四つの優美なアーチによって支えられた感じは、まるで宙に浮遊しているかのようで、まるで象嵌細工の宝石箱のように、軽やかで巧緻な彫刻が全体に施されている」小モスクを見ることはできなかった。
中には共同宿舎、浴場、個室、作業場、倉庫、台所、馬小屋があるそうだ。
浴場は蒸し風呂で、中庭の西隅にある。
スルタン・ハニの後部は、高い中央広間からなっている。

入り口の鍾乳石飾り。
この壁面の美しい色合いを見るだけで満足だった。
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周りを歩いてみた。
円柱や角柱の張り出し部分がある。
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壁には動物の顔が取り付けられていて、雨水がよだれのようにポタポタと口元から落ちている。
ちょうど雨上がりだから見れた光景だった。
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動物の顔は色んなところについている。
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角錐の屋根の塔と城壁を結ぶ連絡通路か建物がありそうだ。
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何とか中を見たいと思って近くの小屋の上に上って見たが、これが限界だった。
「マルコ・ポーロクエスト」の著者が言うように、ポーロ一行も泊まったに違いない。
なので尚更見たかったのだが。
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別の面には小さな入り口と、ここだけなぜか動物の顔が多い。
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カイセリ~スィワス間にはこのような隊商宿が大変多い。
このように堅固なつくりであれば、旅人も安心して眠れただろう。

周りの村の風景。
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イランに比べると建物が鮮やかだ。
アナトリア高原は乾燥しているといっても気温が低いため、天水が蒸発することもなく利用できる。
水の恵が豊かなのだろう。
イランの村はその点どうしても砂ぼこりにまみれている感がある。
9:55出発。

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トルコ東部旅行(カイセリ・フナトゥ・ハトゥン・キュルリイェスィ)

次に見に行ったのはフナトゥ・ハトゥン・キュルリイェスィ 38°43'14.90"N 35°29'28.47"E。
1237~1246年にルーム・セルジューク朝のカイクバード1世の妻フナトゥ・ハトゥンによって造られた、ジャーミィー、廟、神学校が集まった複合施設だそうだ。
ハマム(風呂)もあり、暖房はここから採っていたそうだ。
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ジャーミィーのものと思われる高い鉛筆型のミナレット、ドームが見えた。
よく見かける角錐の屋根もある。
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ミナレットの台座は白大理石でできているようだ。
こんな所にも鍾乳石飾りが施されている。
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ドームの素材は石だろうか?重厚感があってイランのドームとは違った雰囲気だ。
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神学校の入り口。雪が邪魔してよく見えない。
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入り口の鍾乳石飾り。
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中に入れた。
雪がしんしんと降っている様も趣があっていい。
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昔学生が学んでいた部屋は土産物屋になっている。
探すと昔の名残の彫刻が見られた。
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回廊には水タバコその他の土産物がずらりと並ぶ。
こちらも店は開いてなかった。
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一番奥には洞穴のようになっている。
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その奥にメッカの方角を示すミフラーブがある。
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脇の壁龕には燭台?が置いてあった。
火を灯したらいい感じになりそうだ。
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さて、一通り観光を終えたので地下通路を通って喫茶店で食事することにした。
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ちなみにポーロ一行が来た時点でカイセリに存在していたものとして、他にウル・ジャーミィーがある。
これは13世紀前半のダニーシュマンド朝時代に建てられた。
3つの側廊のある祈祷室、レンガで出来た1本のミナレットがあるそうだ。

ここは喫茶店というかファストフード店です。
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8:45~9:00に食事。
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ホテルで作ってもらった朝食のサンドウィッチを食べる。
さすがにお腹がすいたので大きなパン全部平らげた。
トルコのパンはおいしい。
温かいお茶で体を温める。
観光は終わったものの、天候が悪くてさすがに気が滅入ってしまった。
観光時間があまりとれない事もあるのだが、これは日程が少ないので仕方がない。
食事の時間もあまり取れないが仕方がない。
この先も天気が悪くないといいが。
悪天候でこの先予定通りにエルズィンジャンに着けるのか心配だ。

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トルコ東部旅行(カイセリ・カイセリ城)

次にカイセリ城に向かった 38°43'15.59"N 35°29'20.67"E。
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ここに最初に城が建造されたのはローマ帝国・軍人皇帝時代の3世紀、ゴルディアヌス3世の時代といわれる。
ビザンツ時代の5世紀、ユスチニアヌス1世の時代に改変が行われた。
現在の城砦はその遺構の上に建てられたらしい。
ルーム・セルジューク朝時代の13世紀、カイクバードの時代だった。
城は15世紀前半のズルカドル・ベイリクの時代と15世紀後半のカラマン・ベイリクの時代、オスマン朝のメフメト2世の時代に復元・強化された。
つまり、ルーム・セルジューク朝時代の城らしく、ポーロ一行も見たのではないかと思われる(モンゴル軍に破壊されていた可能性もあるが)。
道行く人の格好は日本とそう変わらない。
画像は城の北側。
櫓は正方形または長方形で、全部で19ある。

城の北東の入り口。
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火山岩からなる城壁には重厚感が漂っている。
中世の城は渋くて素晴らしい。
入り口は南西にもあるが、こちらは防御用の外塁が備わっており二重門になっているらしい。
残念ながら見ることはできなかった。

入り口はそれほど大きくない。
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左脇に説明板がある。
画像の最下部に彫刻のようなものが見えるが、獅子だったろうか?
落ち着いて見れなかったので見落としてしまった。

城内にはバザールの店が立ち並んでいる。
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時間が早いせいか店は開いていない。
中にはファティフ・ジャミと呼ばれる小さなモスクがあるそうだが確認できなかった。

雪が降って閑散としているせいか荒廃しているように感じる。
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城内はそれほど広くはなく、バザールにはちょうど良い広さだ。
けれども城の雰囲気を感じるにはバザールの店舗は邪魔ではないか。
テーマパークにして昔の兵隊でも歩かせたらたまらないのだが。
昔はこの中に町があったそうなので、もしかしたらこの風景は当時の姿に近いのかもしれない。

門を埋めたような跡も見られる。
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城壁の上に上がる階段があったが、店舗の裏なので行くことができない。
上がって城内を俯瞰して見れたら面白いと思ったのだが。
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城外に出た。
雪はますます勢いを増して降り止む気配がない。
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いつの時代のものかわからない。
ユスチニアヌス1世の時代だろうか?町の所々に城壁がある。
これは先ほどの城壁と違ってアーチが連なっていて美しい。
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トルコ東部旅行(カイセリ・サハビエ神学校)

次にサハビエ神学校に向かった 38°43'24.09"N 35°29'12.95"E。
サハビエ神学校はルーム・セルジューク朝時代の1267年に建てられた。
この時代既にモンゴルに服属していたが、優れた建築物の建設は行われていたらしい。
ここには60人の学生がいてイスラム教の他数学、科学を学んでいた。
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付属する水のみ場。
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入り口。
左右の細やかな彫刻が見事だ。
中には残念ながら入れなかった。
中には鍾乳石模様のアーチ型の壁がん、三方を回廊で囲まれた長方形の中庭があるそうだ。
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鍾乳石飾り。
カメラのズーム機能の故障で周りの彫刻が写らなかったのが残念。
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トルコ東部旅行(カイセリ・医学史博物館、ミマール・スィナン公園、アタテュルク公園)

次に医学史博物館に行った 38°43'26.03"N 35°29'3.10"E。
ルーム・セルジューク朝のカイホスロウ一世が1205年に医学部兼マドラサとして建てた。
次のような逸話があるという。
王の娘ケブヘルネシベ・スルタンが高級将校と恋に落ちた。
将校は王に結婚を願い出たが、王は断り、戦争に勝ったら認めると言った。
将校は勝ったが、王はまた断った。
将校は戦争で負った傷により死んだ。
娘は悲しみのあまり癌になって死んだ。
王は病気を治すため、この建物を建てたという。
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入り口は2つある。
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現在エルジエス大学がここを修復中で、入ることができない。
雪が降ってきた。
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中をのぞいてみた。
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古そうな水のみ場がある。
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窓から中をのぞいた。
隊商宿のように中庭を囲んだ造りになっているそうだ。
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重厚な色合いが何とも言えない塔。
イランのモスクにあるドームではなく、キリスト教会にあるような角錐の塔。
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ミマール・スィナン公園に立つ彼の像。
ミマール・スィナンは16世紀のオスマン帝国最高の建築家。
イスタンブールにある世界遺産のスレイマニエ・ジャーミィーを建設した。
彼はカイセリで生まれた。
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アタテュルク公園。
立っている像はトルコ共和国を建国したムスタファ・ケマル。
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トルコ東部旅行(カイセリ・ドネルキュンベット)

まず最初に向かったのがドネル・キュンベットという小さな霊廟 38°42'50.47"N 35°29'44.91"E。
ルーム・セルジューク朝のカイクバード一世が1218年に娘のために造ったものだ。
地下に埋葬所がある。
入り口は閉ざされていて中には入れなかった。
中に入ると入り口の上に人頭の猫のモチーフを見ることができるという。
またなかの壁がんは少しずつ回転するという伝説があるそうである。
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入り口の上の鍾乳石飾り。古色蒼然たる風情が何とも言えない。
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生命の樹のモチーフ。
樹の上には双頭の鷲が立っている。
生命の樹はイスラムのものではなくアナトリア古来から伝わる多神教の影響によるものだとか。
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別の面にある生命の樹と双頭の鷲。ライオンのモチーフもある。
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イスラムらしい細やかな幾何学模様の壁面。
この壁面は全部で12枚ある。
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霊廟は通りの真ん中に鎮座している。
台座は独特の形をしている。
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イスラム建築といえばイランのレンガ造りの黄土色の建物、というイメージがこびりついていたが、このような石造りの重厚感はキリスト教の建築を見ているようで新鮮だった。

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トルコ東部旅行(カイセリの夕食と歴史について)

19:20、大都市カイセリに入った。
19:25、ホテル到着。お疲れ様。
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部屋の状態。
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浴室の様子。小さいが浴槽もある。
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ホテルのレストランで食事。これはメニュー。
Bさんが出てこない。心配だ。
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マッシュルームスープ。
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サラダと、トマトソースとヨーグルトの中にひき肉・玉ねぎを包んだラビオリが入ったマントゥー。
カイセリの名物料理だ。味はすっぱい。
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牛肉、ピーマン、唐辛子の入ったケバブ。
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Bさんやっと来た。さすがに疲れた様子。腹の調子が悪かったようだ。今日は本当にお疲れさまでした。
部屋に戻って洗濯をして早々に寝た。
明日はカイセリ、シウァスの観光、楽しみだ。


3月24日

5時過ぎ、今日もモーニングコール前に起きてしまった。
時差ぼけのため良く眠れず。
外を見ると地面が濡れている。いやな感じだ。
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洗濯物はかなり乾いている。
シャワーを浴びて出発の準備をする。

今日の予定は、
カイセリ(ドネル・キュンベット→医学史博物館→ミマール・スィナン公園→サハビエ神学校→カイセリ城→城壁→フナトゥ・ハトゥン・キュルリイェスィ)→スルタン・ハニ(隊商宿)→サルキスラ→スィワス(ウル・ジャーミィー→ギョク神学校→チフテ・ミナーレ→シファーイエ神学校→スィワス城砦)→ザラ→レファーイエ→エルズィンジャン、
である。

昨日の後半および今日の行程は、東方見聞録の「トゥルコマニア地方」の章の部分に当たる。
その記述を以下に示す。

「トゥルコマニアの住民は三種類からなる。
第一は、マホメットを信じその教法に従うトゥルコマン人で、耳慣れない言語を使う単純な民である。
彼らの生業は牧畜であるから、山間であれ平地であれ、いやしくも好適な牧地のある所ならどこでも居住する。
トゥルコマン種といわれる良馬や高価で立派なラバを産する。
トゥルコマン人以外の二種類は、アルメニア人及びこれと雑居して都市・集落に住むギリシア人で、ともに商業や手工業に従事する。
世界でも無比に美しい絨毯や、深紅色そのほか色とりどりの高級絹布、そのほか種々な産物がある。
コニア、カエサリア、セヴァスタがこの国で最も主要な都市をなす。
このほかにも都市・集落の数は多いが、いちいちそれらに言及していては際限がないから省略する。
以上の三種族はいずれも近東タルタール人に臣属し、その選任した領主の統治を受けている。
トゥルコマニアについてはこれくらいにとどめ、次は大アルメニアの話に移ろう。」

トゥルコマニアとは、アナトリア半島内陸部にあったセルジューク家の分家、ルーム・セルジューク朝の領域をほぼ指すものと思われる。
13世紀前半、モンゴル軍がイランに侵入すると多くの文化人が安定したルーム・セルジューク朝の宮廷に避難し、ここは当時の西アジアの文化の中心地になった。
多くの建築物、城郭、宮殿、モスク、マドラサ(神学校)、隊商宿、病院が造られた。
その中心は首都コニア(コンヤ)、カエサリア(カイセリ)、セヴァスタ(スィワス)であった。

トゥルコマン人とは20あるトルコ民族の集団のうち、オグズと呼ばれる集団に属するクヌク氏族から出たセルジューク家に従い、イスラム化した遊牧民を指すようだ。

11世紀に西アジアを席巻したセルジューク朝は、1071年にアナトリア東部のマラーズギルドでビザンツ軍を破った。
これ以降、セルジューク朝の統制に不満を持つ多数の「トゥルコマン人」がアナトリアに流入した。
その後セルジューク朝によりアナトリアに派遣されたセルジューク家の一員であるスライマーンが建てた王朝がルーム・セルジューク朝である。
ルーム・セルジューク朝は東方への進出をもくろんでイラン・イラクの本家セルジューク朝とたびたび争ったがその度に負け、アナトリアの支配に専念するようになった。
ライバルであるダーニシュマンド朝、ビザンツ帝国、サルトゥク朝、メンギュジク朝、アイユーブ朝に勝利してアナトリア中央部を根拠地とする政権を確立して西アジアの強国になった。
その最盛期は13世紀前半で、カイホスロウ一世、カイカーウス一世、カイクバードの治世のときである。
それまで内陸国家だったルーム・セルジューク朝はこの時期黒海沿岸と地中海沿岸に拠点を得て、海洋への進出を果たした。
政治的に安定したこの時期に、経済的・文化的に大いに繁栄し、12世紀に滅亡していた本家セルジューク朝の後継国家と目されるようになった。
しかしポーロ一行が訪れた13世紀後半には、その勢いは失われていた。
1243年、ルーム・セルジューク朝軍はスィワス東方のキョセ・ダグで、バイジュ・ノヤン率いるモンゴルのタマー軍に壊滅させられたのである。
この時はまだモンゴルに貢納義務を負うだけで済んでいたが(むしろルーム・セルジューク朝軍はモンゴルと同盟した小アルメニア王国を攻撃したりした)、フラグ指揮によるモンゴル帝国の中東遠征が始ると、タマー軍はアナトリアへの移動を命じられた。
1256年、ルーム・セルジューク朝軍は再びタマー軍に敗北し、ルーム・セルジューク朝のスルターン位はモンゴル帝国の決定に基づくものとなり、属国化した。
フラグが西アジアにイルハン朝を創建すると、ルーム・セルジューク朝はその過酷な貢納要求を受けるようになった。
ポーロ一行がトゥルコマニアを訪れたのはこのような時期である。
今日はポーロ一行も目にしたはずのルーム・セルジューク朝期の数々の建築物を観光する。
そして「大アルメニア」の入り口であるエルズィンジャンに宿泊する。

東方見聞録で気になるのはトゥルコマン人を単純な民と書いている点である。
となるとポーロ一行は、イスラーム文化の担い手であるトゥルコマン人には会うことがなく、牧畜を営むトゥルコマン人にしか会わなかったという事になるのだろうか?
モンゴル帝国の使節である彼らがルーム・セルジューク朝の宮殿で文化的なトゥルコマン人に会わなかった、というのは考えがたいとも思われるのだが。
商取引上、商業や手工業の担い手であるアルメニア人やギリシア人と会ったことは確実だろう。
結局ポーロ一行は使節というより商人に過ぎなかったのではないか、とも思えてくる。

「トゥルコマン種といわれる良馬や高価で立派なラバ」、「世界でも無比に美しい絨毯や、深紅色そのほか色とりどりの高級絹布」については、以下の2著作において探索の試みがなされている。
興味がある方は読んでみてください。

書名:バイクでシルクロード  副書名:マルコ・ポーロの道を行く  シリーズ:現代教養文庫 1077
著者名:T.セヴェリン/著 , 中川弘/訳  出版者:社会思想社

書名:マルコ・ポーロクエスト  副書名:フビライの古都へ  シリーズ:世界紀行冒険選書 20
著者名:ウィリアム・ダーリンプル/著 , 大出健/訳  出版者:心交社

7:00、AさんBさんとホテルのロビーで待ち合わせてカイセリの観光に出発する。
カイセリの建物はポーロ一行が通過した1272年頃に存在していたものが多いので楽しみだ。

画像はホテルの入り口。
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トルコ語で「おはよう」を教えてもらう。「ギュナイドゥーン」というそうだ。


ここで私がわかる範囲でカイセリの歴史について書いておきます。

ヘレニズム時代には、カッパドキア王国の首都マザカだった。

1世紀のローマ時代に、第二代皇帝ティベリウスによって町の名前がカエサリアに改名された。

4世紀に、聖バジルがこの町の北に教会と修道院を作った。

7~9世紀、とりわけ725年にはアラブ人の侵入に苦しめられた。

11世紀後半、セルジューク朝によってアルメニアを追われた多くのアルメニア人がこの町の付近に定住した。

1067年ごろにセルジューク朝の軍勢が姿を現したが、1082年まで占領されることはなかった。

1097年、第一次十字軍は一時ここを占領したが、保持することはできなかった。

カッパドキアを領有したダニーシュマンド朝のトゥルサン・ベイがここを首都にした。

12世紀に、ルーム・セルジューク朝の支配下に置かれた。

ルーム・セルジューク朝のカイクバードが、城壁を作って防御拠点にした。
遠征の準備を進めていたカイクバードはこの町で死んだ。

13世紀に、バイジュ・ノヤン率いるモンゴル軍に激しく抵抗し、占領後は虐殺と略奪を受けた。

マムルーク朝のバイバルスがモンゴル軍を破り、この町に入ってセルジューク朝の玉座に就いたが、現地の支持が得られず撤退した。

14世紀に、ルーム・セルジューク朝最後のスルタン、マスウード2世がこの町で死去し、王朝は滅亡した。

1335年頃、モンゴル人エレトナが独立を宣言し、ここを首都にした。
その支配は1380年まで続いた。

1397年、オスマン朝のバヤズィト1世がここを占領した。

1402年、オスマン朝がティムールに敗れたのに乗じて、カラマン・ベイリクがここを併合した。

1419年、マムルーク朝が占領した。

1515年、オスマン朝のセリム1世がここを再占領した。

16世紀のオスマン朝時代には、羊毛や穀物で有名だった。

1960年、時の首相メンデレスは、政府批判の遊説を行うためこの町に向かっていた共和人民党党首イノニュの列車を軍隊を使って止め、引き返させた。
これはカイセリ事件と呼ばれ、軍部がクーデターを起こす要因になった。

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トルコ東部旅行(フェケからカイセリへ)

16:01、フェケ市街に入った。
ここも赤白の小旗が目立つ。
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この辺りまでが小アルメニアの北限だろうか。
ここからはマルコ・ポーロが東方見聞録で言うところの「トゥルコマニア地方」に入る。
この地方の記述については3月24日の日記で紹介したい。
ここから右側が切り立った崖の山道。
私からは見えないが右側の座席にいるAさんは「これは危ないよ。」などと言っている。
その割りに運転手のBさんはスピードを上げているので少々不安。
でも夜になる前に山道を抜けないともっと危険なので仕方がない。

16:39、サルムベイリを過ぎた辺りから雪が出てきた。
緑の大地の背景に粉砂糖を降りかけたような山。
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もうすっかり冬景色だ。
さっきまで春だったのに、目まぐるしく景色が変わるのでちょっと驚いている。
冬と春の境目を旅しているようだ。
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路面も凍結している。
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Bさん、大してスピードも下げずにひたすら走っていく。
とにかくBさんだけが頼りだ。
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こんなに雪深い所だとは思わなかった。
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かと思えば雪がなくなったりする。
17:17、ボズギュネイ通過。
17:34、モラフュセイン通過。
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途中吹雪になる。
茫洋とした白い嶺が続く。
冬場にアナトリア半島を旅したポーロ一行の様子を想像してしまう。
彼らもこんな景色を見ながら進んだのだろうか。
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日暮れが近づいて辺りは薄暗くなってきた。
もうこれで写真撮影は無理。
そのうちにピナルバシ到着。
ここから良い道に出る。もう安心だ。
18:10、カイセリから75キロ地点のサービスエリアで休憩。
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カイセリ[トルコ]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/europe/turkey/kayseri/

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