016アダナ、アヤス、コザン周辺(トルコ)

トルコ東部旅行(コザン・シスの城砦遠景~昼食~コザンダム湖)

アナヴァルザを後にして更に北のコザンに向かう。
キリキアの平野は続いているが、景色がだんだん山がちになっていく。
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コザンの市街地に入る前、丘の上にコザンの城砦 37°26'37.24"N 35°48'35.81"Eを見つけた。写真ストップ。
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城砦のアップ。
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馬蹄型の見張り塔の他、いくつか廃墟が確認できた。
ここに登るのは時間的に無理。これで我慢する。

コザンは小アルメニア王国の首都でかつてはシスと言った。
キリスト教の総大司教座所在地であった。
アルメニアは紀元前1世紀頃カフカス地方を中心にシリアまで拡大した帝国だった。
その後ビザンツ帝国やセルジューク朝の侵略を受け追われたアルメニア人の一部がキリキアに住み着いた。
彼らはこの地域に王国を築くまでになり十字軍国家と同盟してビザンツ帝国やセルジューク朝と争った。
この王国を本家のアルメニアと区別して小アルメニアあるいはキリキアのアルメニア王国という。
13世紀後半のヘトゥム朝はモンゴルと同盟して勢力拡大を図ったが、逆にモンゴルを破ったマムルーク朝のバイバルスの攻撃の矢面に立たされることになった。
ここも1266年、バイバルスによってライアス同様破壊された。

東方見聞録に記述はないが、1271年、モンゴル帝国の使節たるポーロ一行がその同盟国の首都であるシスを通ったのは自然なことと思われる。
恐らく歓待を受けただろう。

現在コザンはアダナ県の北部に位置する町になっている。
ちなみに日本版ウィキペディアで「シス」を検索したら、スターウォーズの話しか出てこなかった。

コザン市街地 37°26'54.07"N 35°48'53.23"Eに入ってレストランの場所を聞きまわる。

13:57、コザンのレストラン着。
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色々出てきた。
大根と玉葱のサラダ、玉葱とパセリのサラダ、トマトとシシトウ2種を焼いたもの、トマトとパセリのペースト、人参、レタス、パセリ、キャベツのサラダ。
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ピレ(トルコ風ピザ)。
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ニンニク付きシシケバブと、薄いパンで羊のひき肉を包んだペーユーティーという料理。
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キューネ・フェというお菓子。
何で昼食にこんなに食べるのか、トルコ人は大食なのかと思ったが、食習慣の違いだと分かったのは、この夜やけに少ない料理を見た時だった。
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15:07、出発。
谷あいの見事な町の景観に見とれて写真ストップ。
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これこそアレクサンダー大王が小アジアからシリアに抜ける際に通ったというキリキアの門だろうか?
通過した大王はイッソスの戦いでアケメネス朝軍を破った。
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15:19コザンダム湖通過。
湖面は地中海と同じ緑色をしていた。
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山間の険路の様相が濃くなっていく。
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もう完全に山道。
所々雨水の滝ができている。
でも道の上には選挙用の政党の赤白の小旗が掲げられていて山中とは思えない雰囲気だ。
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途中の集落。
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山間の村。
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トルコ東部旅行(都市遺跡アナヴァルザ)

感動も覚めやらぬまま、時間もないのでユムルタルクを後にする。
これから北に戻ってアナヴァルザに向かう。
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緑の田園風景が続く。
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と、思っていたら道を間違えて東に向かっていた。
食料品店で道順を確認しなおす。
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正しい道に入った。
念願のユムルタルクを後にすると再び雨が降り出した。
でもユムルタルクにいる間だけでも晴れていてよかった。
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東方見聞録の
「この国には都市や町が多く、なにものにもよらず物資はきわめて豊富である。
鳥獣ともによく繁殖しているので、どんな種類の狩猟でも楽しむことができる。」
という記述を髣髴とさせる豊かな田園風景。
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綿花や小麦などの畑が続いている。
ポーロ一行もこの道を進んだのか?

12:45、アナヴァルザに着いた 37°15'9.60"N 35°53'47.13"E。
とある一軒の家の庭先に入った。
何もかも雨に打たれて濡れている。
遺跡から出土した様々なものがそこらに置かれている。
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アナヴァルザはローマ~ビザンツ時代の遺跡。
この村全体が遺跡になっているらしく、他の家にも出土したものが置かれているようだった。
この家のやたら愛想のいい主人は遺跡の管理人をやっている。
ここで入場料(3トルコリラ)を払った。

ピントがずれてしまったが庭に置いてあったもの。
建築物の一部だろうか。
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ビザンツ時代の邸宅の部屋だったところ。
いまだに色鮮やかなモザイクが残っている。
しかし野ざらしなので雨水が溜まるにまかせている。
模様が良く見えない。
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別のモザイクを見に行く。
ここも一応屋根は付いているが基本的に野ざらしだ。
ビザンツ時代の高級邸宅跡地。
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床のモザイクには魚介類が描かれている。
地中海に近いせいだろう。
黒鯛とイルカが見える。
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えびもあった。
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こちらは何だかよくわからない。
ビザンツ時代のモザイクは日本で言えば鳥獣戯画のようなものに思えてくる。
パレスチナのパンと魚の増加の教会で見た鳥類のモザイクと同様、ユーモラスで表情豊かだ。
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これは蛸。
言われるまでわからなかった。
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ここは浴室だったのだろうか。
水を通す導管が見える。
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これらの遺跡は1950年代に発掘されたそうだがいまだに色鮮やかだ。
保存状態は悪いが。

更に奥に移動すると大きな戦車競技場跡がある。
これを見る限りかなり大きな町だったのだろう。
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競技場の観客席に上がる階段も残っている。
とにかく規模が大きい。
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さっきの小さな村からは想像もできなかった。
秘密基地に来たようだ。

一見岩塊に見えるがこれも彫刻が施してある。
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左端の空き地は公会堂があった場所だ。
中央右寄りには水道橋の橋脚が見える。
壮大な眺めだ。
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岩壁の上には城砦の跡がある。
ここもユラン・カレと同様、ビザンツ帝国の東の境界だったので城があったのだ。
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水道橋の橋脚のアップ。
水はセイハン川から引かれていてこの都市の住民の需要をまかなっていた。
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トルコ東部旅行(地中海岸ユムルタルク・アヤスまたはライアス)

ユラン・カレを出て南に向かう。
地中海沿岸のユムルタルクに行く。
こここそマルコ・ポーロ一行が上陸した地点である。
今回最も来たかった場所のひとつで期待に胸がどきどきする。もう間近である。
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ついにユムルタルク(アヤス)の港町に着いた 36°46'0.13"N 35°47'31.03"E。
長い波止場の先端近くから海岸を眺めたところ。
崩れた城砦が見える。
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ユムルタルクはアダナ県の町で人口4000人くらい。
アヤスはその遺跡の名前だそうだ。
Aさんによるとユムルタルクとは睾丸という意味だそうである。
なぜこのような名前になったのか不明である。

城砦で最も原型を留めている箇所。
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今は漁師の倉庫として使われているようである。
この建物の奥には現在の港があり、多くの漁船や漁師でにぎわっていた。
残念ながら肝心なときに撮影に失敗したため画像は残っていない。
また、この城砦を間近で撮った写真も同様に失敗して残っていない。
このような事は恐らく初めてで、今回の旅行はついていない。
ここに港の中の画像があるので参考にされたい。
http://v8.lscache1.c.bigcache.googleapis.com/static.panoramio.com/photos/original/1587086.jpg

アヤス城砦の説明板。
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アヤスは紀元前7世紀にギリシャの植民地になった。
続いてペルシャ帝国、海賊集団、ビザンツ帝国、十字軍、小アルメニア王国、マムルーク朝、ラマダーン・ベイリク(君侯国)、オスマン朝の支配を受け今に至っている。
船の積荷に初めて消費税がかけられた場所だそうだ。
ちなみにマルコ・ポーロ一行が上陸したのは小アルメニア王国の時代である。
当時はライアスと呼ばれた。

沖合いの小島にも城砦跡があるが、渡るのは難しそうだ。
夏なら泳いで渡れるかも。
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城砦のアップ。
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このように陸と海の両方から港を守っていたのだろう。
緑がかった海の色が地中海らしくて実に気分が良い。
ありがたいことに晴れ間がのぞきだした。

これはマルコ・ポーロ一行が上陸したとされる波止場の残骸である。
これから近くに行く。
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ユムルタルクの港に戻って、海岸沿いの城砦とホテルを回りこんで、ポーロ一行が上陸したとされる波止場に向かう。
途中、モスクがある。
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ポーロ一行が上陸したとされる波止場の残骸。
ここが東方見聞録の記述の開始地点である。
感激に言葉も出ない。
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先端部は崩れて海中に没している。
ポーロ一行は当時の輸送用のコグ船で来たのか戦闘用のガレー船で来たのか?
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波止場の周りの沿岸部にも城砦や城壁の残骸が残っている。
ポーロ一行が上陸した当時を思い浮かべてしまう。
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先ほどまでいた新しい波止場には大きな船が停泊していた。
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波止場から陸へと道が続いている。
ポーロ一行もここから歩き始めた。
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ライアス港のある小アルメニア王国はモンゴル帝国の勢力範囲であり、フビライ・ハーンの使節たるポーロ一行は安全に旅ができるはずだった。
しかし当時、エジプト・シリアのマムルーク朝のスルタンで1260年にパレスチナのアイン・ジャールートでモンゴル軍を大敗させたルクヌッディーン・バイバルスが、ちょうど小アルメニア王国に侵攻しようとしていた。
ライアスは過去にもバイバルスの侵略を受けており、ローマ教皇の命でポーロ一行に同行していた二人のカトリック僧、ヴィケンザのニコロとトリポリのググリィエモは恐怖のあまり十字軍テンプル騎士団の一行とともに帰ってしまったのである。
やむなくポーロ一行は彼らだけで使命を果たさねばならなくなった。

「ライアスに着いてみると、折悪しくもバビロンのスルタンたるボンドクデールが大軍を率いてアルメニアに侵入し、その国内のいたるところを荒らしまわっている際だったので、彼ら使節一行もいつ殺害されるか分からないという危険にさらされていた。
この情勢を見たかの二名の説教僧は大いに恐れて前進するを肯んぜず、結局同行するのを取りやめたいと申し出た。
かくして彼らは所持する信任状・信書のいっさいをニコロ兄弟に託してこれと別れ、テンプル武士団の隊長と同行して引き返してしまった。」(東方見聞録)

マルコ・ポーロの波止場に関する説明板。
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1271年マルコ・ポーロが上陸し三日間滞在した。
ここには中国やインドから商品が運び込まれた。
アラビアの香辛料、インドの真珠とダイヤモンド、中国の絹布と金糸織。
ヴェネチアとジェノアの商館もあった。
東方見聞録の記述と一致している。
「海に臨んで都市ライアスがあり、貿易の一大中心地をなしている。
それというのも、あらゆる種類の香料や絹布・金糸織、そのほか奥地に産する種々な貴重物資がすべてここに運び出され、一方ヴェニスやジェノアをはじめとする各地各国の商人がここにい集し来たって、それら貨物を仕入れてはこれを世界中に商販するというありさまだからである。」
ライアスの繁栄は、小アルメニア王国がモンゴル帝国と同盟関係を結んだことによる結果だった。
だがマムルーク朝の勢力が優勢になると、ライアスはバイバルスの侵攻によって焼き払われてしまう。

波止場から港に戻る。
海岸沿いの家も城砦と同じ石積みを使っている。
城砦を利用したのか石材を積みなおしたのか。
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ヤムルタルクは海水浴場があるので、この辺りにはホテルも一軒あったが、そこはつぶれていた。

城砦の中。
運よくこの一枚だけ失敗せずに撮影できていた。
中はがらんどうである。
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トルコ東部旅行(アダナ近郊ユラン・カレ(蛇の城))

街を離れ初春の緑が目に麗しいキリキア平野を走る。
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前方の丘の上にユラン・カレが見えてきた 37° 0'52.12"N 35°44'50.98"E。
ビザンツ時代の7世紀~8世紀に築かれた要塞である。
ビザンツ帝国の東方の最前線だったため、城砦が築かれたようだ。
もし13世紀にも使用されていたら、ポーロ一行も泊まったのかもしれない。
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門を入ると山道が続く。雨が降っているのでつらい。
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距離は短いがこのような岩場も登らなければならない。
雨で滑りそうで怖い。軽登山靴を履いてきて正解だった。
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城壁の門に到着。一息つく。
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この城は遠くシリアからの侵入を見張るために造られたそうだ。
晴れていればキリキアの平野が見渡せるはずだが、雨にけぶって見えないのが残念。
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頂上部にはうっすらと城壁が見えた。
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見張り塔らしきものも。
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これも見張り塔だろう。
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馬蹄形をした遺構もあった。何の跡だろうか?
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見張り塔の中。
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見張り塔の天井。
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ところでユラン・カレとは蛇の城という意味だが、Aさんによると次のような伝説があるという。
「昔ここには上半身が人間で下半身が蛇という蛇の女神が住んでいた。
ある若者がここに迷い込み蛇の女神の魅力のとりこになってここで暮らした。
そして3年後、絶対にこの場所を口外しないという約束を交わして里に下りた。
ある時、王が病気になった。
蛇の女神の体のゆで汁を飲むと治るという。
ある者が、蛇の女神の所在を知る者の体には蛇の刻印がある、と王に進言したため、王は国中の人間の体を調べたところ、果たしてかの若者の体には蛇の刻印があった。
若者はついに蛇の女神の所在を明かしてしまう。
蛇の女神は若者を恨んだが、次のような秘密を若者に明かして死ぬ。
自分の下半身のゆで汁は飲んだ者を死に至らしめるが、頭のゆで汁を飲めばあらゆる知識が得られるという。
若者は王に下半身のゆで汁を飲ませて殺し、自分は頭のゆで汁を飲んだという。」

蛇の女神は古来神として住民の尊崇を受けていたが、イヴをそそのかした蛇を悪とするキリスト教の伝播により悪神となりこのような伝説が生まれたのではないかとの事だった。
雨もやまないので下に下りることにした。
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途中の城門。
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円筒形の見張り塔。
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城壁と見張り塔の遺構と思われる。
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木の枝に多数布やらビニールやらが結び付けられていた。
日本のおみくじを結ぶのと同じ理由とのこと。
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麓では農家のビニールハウスが立ち並んでいた。
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雨で背負っていたザックの中身(本など)がずぶぬれになってしまった。
上半身は防水加工の冬山用ヤッケを着ていたので問題ないが、下はチノパンだけなのでかなり濡れている。
Aさんは傘を忘れたためもっとひどい。
麓に降りる途中に休憩所があるのでそこで温かいお茶をご馳走になった。

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トルコ東部旅行(アダナ・ウルジャーミー→タシュ橋→メルケズ・ジャーミィー遠景)

3月23日

5:18起床。
モーニングコールの前に起きてしまった。
ボーイが何故か朝食を運んできた。
昨日のAさんとの話でてっきり朝食はランチボックスかと思っていたので、慌てて断る。
その後でランチボックスとは部屋に持って来るという意味かと考え直し、運び直してもらった。
洗濯物は昨夜からの短時間ではハンカチ以外乾いておらず、残りは暖房機の上で無理やり乾かした。
洗濯ばさみと登山用の細引(細いロープ)は重宝している。
シャワーの後、朝食を食べる。
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今日の行程は、アダナ(ウルジャーミー→タシュ橋(メルケズ・ジャーミィー遠景)→ユラン・カレ→ユムルタルク(アヤス)港→アナヴァルザ)→コザン(コザン城砦遠景)→フェケ→ピナルバシ→カイセリである。

今日の行程は、大体東方見聞録の「小アルメニア」の章の部分に当たる。その記述を以下に示す。
「アルメニアといっても、大アルメニアと小アルメニアの二つがある。
小アルメニア王はタルタール人(モンゴル人)に服属してはいるが、賢明な政治を国内に行っている。
この国には都市や町が多く、なにものにもよらず物資はきわめて豊富である。
鳥獣ともによく繁殖しているので、どんな種類の狩猟でも楽しむことができる。
ただし健康にはあまり適した土地ではない。
否むしろとても不健康だといったほうがよいかもしれない。
かつてこの国の貴族たちは勇敢で武勇を誇ったが、現在では惰弱で下劣な上に大酒のみでしかなくなった。
海に臨んで都市ライアスがあり、貿易の一大中心地をなしている。
それというのも、あらゆる種類の香料や絹布・金糸織、そのほか奥地に産する種々な貴重物資がすべてここに運び出され、一方ヴェニスやジェノアをはじめとする各地各国の商人がここにい集し来たって、それら貨物を仕入れてはこれを世界中に商販するというありさまだからである。
それに商人たると否とを問わず、およそ内陸に出かけようととする者は全てこの町を起点として出発するのである。
この小アルメニア王国を取り巻いて、南方には契約の土地(パレスチナ)が、今ではイスラーム教徒の手中に陥ったまま連なっており、北方ではトゥルコマニアの一部をなすカラマニア(アナトリア半島の南東沿岸部)の地に接し、東方および東北方ではカエサリア、セヴァスタそのほか数多い都市を持ったトゥルコマニア(アナトリア半島内陸部)が続いている。
これらはいずれもタルタール人に隷属している。
ただ西の一方のみは海となっており、この海を隔てて彼方がキリスト教国なのである。」

今日行くユムルタルクがライアスに当たり、コザンは小アルメニア王国の首都シスに当たる。
また、今日の宿泊地カイセリはカエサリアに当たる。
ユムルタルクを起点として大体ポーロ一行が辿ったのではないかと思われる道を通過していく。

6:50、ホテルのロビーへ。
コンヤに向かう年配の日本人ツアー客が数名いた。
ホテルの外観を撮影。
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7時にAさんBさんがやってきた。

7:10、出発。
アダナ市内の中心部へ。
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天気は雨。旅行中はたいてい晴れなのに、出発前の胸騒ぎはこれだったかと考える(実はこれだけですまなかった)。

アダナはトルコで5番目に大きい都市。
紀元前14世紀にヒッタイトが占領した町である。
この周辺は山がちなアナトリア半島の中でも大きな平野が広がる場所なので、古くから栄えてきたのだろう。
ヘレニズム時代にはローマの基地が造られた。
19世紀後半、オスマン朝政府はこの地域の遊牧民を強制的に定住させて綿花栽培を行わせた。
当時綿花の生産国だったアメリカが南北戦争で供給できなくなったための代替地となったのだ。
東部に住むクルド人が季節労働者としてやってきた。
土地を買占めて綿花農場を経営したアルメニア人商人が、たびたびトルコ人やクルド人の小作人と衝突した。
1909年に起きた兵士の反乱「3月31日事件」に呼応してアルメニア革命組織とトルコ人の間で衝突が起きた。
1915年のアルメニア人強制移住令に伴いアルメニア人が大虐殺を受けるという事件が発生した。
現在でも綿花栽培が行われており、綿工業が盛んである。
アダナはマルコ・ポーロ一行の通り道ではないが、せっかくなので市内を見て回ることにした。

時計塔の前を通る。高すぎて全部は撮れず。
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セイハン川にかかる由緒あるタシュ橋そばを通る。
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通過。
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市内のウル・ジャーミィー着 36°59'5.60"N 35°19'52.04"E。
1507年、ラマダーン・ベイリク(ベイリクは君侯=地方政権)のハリール・ベイが着工したモスク。
13世紀後半~14世紀、アナトリアではセルジューク朝が衰えると各地で地方政権が生まれたが、ラマダーン・ベイリクもそのひとつ。
ラマダーン・ベイリクは当時伸張著しいオスマン朝によって16世紀前半に滅ぼされたのでその直前に創建されたものだろうか?
画像は霊廟。
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霊廟の中。棺のようなものが置いてある。
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霊廟から隣の建物を見たところ。
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ジャーミィーのミナレット。
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ジャーミィーのエイヴァーン(入り口)。
イランの繊細なタイル模様と違って単純明快で素朴だ。エジプトの神殿みたいだ。
中にはハリール・ベイの墓があると思われるが、入れなかった。
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エイヴァーンの鍾乳石飾り。
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ジャーミィーの向かいの建物。確かマドラサ(神学校)だったと思う。
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中に入ると泉亭のある中庭の周りを部屋が囲んでいる。
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現在でも伝統美術の講義が行われているそうである。

ジャーミィーか、マドラサか、どちらかの部屋にあった棺。窓の外から覗いて見た。
実際の遺体は地下にあるそうだ。
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ウル・ジャーミィーの観光を終え市外のユラン・カレに向かう。
途中再びタシュ橋の傍を通る 36°59'10.70"N 35°20'6.97"。ここで写真ストップ。
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タシュ橋は紀元前2世紀、セレウコス朝?時代に作られた橋。
その後幾度も改修が行われた(ローマのハドリアヌス帝によって作られたという資料もある。どっちが本当なんだ?)。

トルコの財閥が建てたというメルケズ・ジャーミィーが見えた。
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イスタンブールの世界遺産、ブルー・モスクのコピーのようだ。でも美しい。
トルコの大規模なモスクというとこのような鏡餅型のドームが印象に残る。
イランのモスクのドームは小ぶりで下部がやや長い円筒形になっているという印象がある。
オスマン朝以来トルコの大規模なドーム建築はイスタンブールのキリスト大聖堂アヤ・ソフィアのビザンツ建築技法を受け継いでいる。
それがイラン建築との違いになって出ているのだろう。

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トルコ東部旅行(トルコの歴史について)

【アナトリア地方の歴史について】

1.新石器時代~古代オリエント時代

アナトリア地方の文明化はメソポタミアやシリア地方の影響を受ける形で行われた。コンヤ近郊のチャタル・フユックで、紀元前7000年に農耕・牧畜が行われた痕跡を示す約1000戸の遺跡が発見された。カイセリ近郊のキュルテペでは、紀元前2000年頃のアッシリア商人の交易所の遺跡が発見された。また、カマン・カレホユックでは紀元前20世紀頃に製鉄技術があったことを示す遺跡が発見されている。紀元前17世紀~13世紀には、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイトが、その製鉄技術と馬を利用した戦車でアナトリアを中心に勢力を拡大した。ヒッタイト滅亡後にアナトリアの主要交易ルートを掌握したフリュギア人は、紀元前8世紀に王国を作ったが紀元前7世紀には滅亡した。紀元前9世紀~紀元前6世紀にはウラルトゥが、アナトリア東部に王国を作っていた。メソポタミア地方のアッシリアは、紀元前10世紀にはオリエント世界の有力国になり、紀元前7世紀に滅亡するまでアナトリアに進出してヒッタイト、フリュギア、ウラルトゥと争った。フリュギア滅亡後のアナトリアの最大勢力はリュディアで、アッシリア滅亡後はイラン高原のメディアとたびたび争ったが、メディアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアに紀元前6世紀に滅ぼされた。オリエント世界を統一したアケメネス朝はアナトリア西岸のギリシア諸都市の反乱をきっかけにギリシアへ侵攻した。

2.ヘレニズム時代~ビザンツ帝国時代

紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンダーはアケメネス朝を滅ぼした。その死後、後継者戦争の結果、セレウコス朝がアナトリアを含むアレクサンダー帝国のアジア部分全域を支配した。しかし各地で独立運動が頻発し、紀元前3世紀後半にはアナトリアでペルガモンが独立した。親ローマのペルガモンは紀元前2世紀にローマ共和国に領土を遺贈して属州になった。セレウコス朝も紀元前1世紀にローマに滅ぼされた。紀元前1世紀に帝政に移行したローマは、4世紀にコンスタンティヌス1世がキリスト教都市建設を目指して首都をコンスタンティノープル(現イスタンブール)に移した。4世紀末に帝国は東西に分裂し、アナトリアは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領域になった。6世紀には大聖堂アヤソフィアが建設された。ビザンツ帝国は15世紀に滅亡したが、14世紀まで千年近くアナトリアに勢力を保ち続けた。

3.トルコ化とモンゴルの支配

11世紀にイランのトルコ系王朝セルジューク朝がビザンツ帝国を破ると、トルコ系民族が大量にアナトリアに流入した。セルジューク家の一員がアナトリアに派遣され、ルーム・セルジューク朝を創った。ビザンツ帝国は西欧諸国に救援を求め、11~12世紀に十字軍がアナトリアを侵攻・通過した。13世紀前半、モンゴル軍がイランに侵攻すると更に大量のトルコ系民族がアナトリアに流入した。この頃ルーム・セルジューク朝も最盛期を迎えたが、13世紀後半にはモンゴル帝国のイルハン朝の属国化し、14世紀初頭に滅亡した。ルーム・セルジューク朝の没落とともにアナトリア各地では13世紀後半以降、ベイリクと呼ばれる地方政権が多数現れた。最も大きなものがアナトリア中部のカラマン・ベイリクだった。カラマン・ベイリクはトルコ語の公用語化を初めて宣言した国となった。これらベイリクは14世紀前半までイルハン朝の圧力化に置かれた。

4.オスマン朝時代

13世紀末に創建されアナトリア北西部の1ベイリクに過ぎなかったオスマン朝は、優れた君主が続いた事や独自のエリート養成システムによって急成長し、14世紀末までにアナトリア西部とバルカン半島南部、すなわちアジアと欧州同時に領域を広げた。15世紀初にティムール帝国に破れ一時滅亡したが、まもなく復活して16世紀後半まで領土の拡張を続けた。最盛期は16世紀中盤のスレイマン1世の時代で、この時点で北はハンガリー、南はアラビア半島、東はイラク、西はモロッコを領有し、黒海と地中海の制海権を得た。当時欧州の覇者だったハプスブルク家のカール5世(カルロス1世)に脅威を与え、イランのサファヴィー朝と争った。領土拡張を可能にしたのは、スルタンに経済的軍事的に権力集中した国家体制と最新火器を装備した常備軍(イェニチェリなど)だった。またアラブ地域を支配するために、スルタンはイスラム教スンナ派世界の盟主である点が強調された。

しかし16世紀末には拡大は限界に達する。原因は戦費の増大による財政悪化と、欧州やイランの軍事力が刷新された事による。そのため限られた領土から効率よく徴税する必要に迫られ、財務局を中心とする徴税システムに変革された。財務官が各地の徴税を行うが、地方の徴税は地元の人間が下請けで行うこともあった。17世紀前半には財政悪化によってイェニチェリや民衆の暴動が起こったが、税制改革の一定の成功により帝国が崩壊する事はなく17世紀後半は安定した。だが暴動を起こすイェニチェリに最新の兵器を渡す事はなくなり軍事力は弱体化した。

18世紀も、帝国内の経済活動は活発だった。しかし様々な問題が出てくる。ひとつは軍事力の弱化で、特に18世紀後半にはロシアに連敗を喫する。ひとつは肥大した官僚機構の維持により国庫収入が減り、必要な改革を行う余力がなくなった事、ひとつは地方の徴税請負人が富を蓄え、アーヤーン(地方名士)と呼ばれる彼らの中には軍事力を持った危険な存在が現れた事である。

19世紀になると、問題が深刻な状況になった。欧州列強に敗北を重ね、領土と利権を次々に失った。またバルカン諸民族の独立運動が活発になった。アナトリアやバルカンはアーヤーンによって分割支配される様相を呈した。これに対し、オスマン朝はようやく軍事力や国家機構の西洋化に着手するが、既得権を守ろうとする守旧派の妨害により、改革は一進一退を続けた。それでも軍隊の西洋化を皮切りに、スルタン専制を嫌う世論に押されて憲法発布(すぐに失敗)、大衆文化の西洋化が行われた。しかし増大する軍事費・宮廷費・喪失した領土からのトルコ人保護のため、財政は破綻した。

20世紀になると、反専制を目指す青年将校グループ(統一派)の要求により第二次立憲制が始ったが、第一次バルカン戦争によりバルカン領土のほとんどをバルカン諸民族に奪われると、トルコ系イスラム教徒とそうでない者の平等により帝国の統一を図るオスマン主義から、トルコ系イスラム教徒主導により統一を図るトルコ主義が強まった。第一次世界大戦において、オスマン朝はユーラシアのトルコ系民族の政治的統合を目指した汎トルコ主義によりドイツと同盟し、敗北して連合国によるアナトリア地域を含む分割統治案を受け入れた。しかしこれに反発した統一派は、オスマン朝政府とは別にムスタファ・ケマルを中心として革命政権を樹立し、分割統治案に従い進出してきたアルメニア軍とギリシア軍を奇跡的に撃退、連合国に分割統治案破棄を認めさせた。1922年、革命政権はオスマン朝の廃止を議会で決議した。

5.共和国時代

1923年、革命政権は議会の決議によりトルコ共和国の成立を宣言した。ケマルは反対派を弾圧する一方で国内のトルコ化、西洋化、非イスラム化を進めた。また民衆の情感に訴えるため救国者、国父(アタテュルク)としてのケマルを強調した。第二次世界大戦後は、民主化が進められ複数政党制が導入された。しかし1政党による行き過ぎた独裁、政党間の対立の激化による社会不安を生み、その度に軍部の介入が行われた。反アタテュルク主義政党が選挙で選ばれた際の軍部の介入は、欧米の世論の反発を招いた。国内問題としてはトルコ化により抑圧されるクルド人人権問題と過激化するクルド人組織との対立がある。経済的には、不完全な税制による国庫収入不足による財政赤字、インフレ、貧富の差の問題があり、経済力も欧州諸国に追いついていない。またアナトリア東西の経済格差の問題もある。外交的には、トルコは一貫して西洋への仲間入りを目指してきた。OEEC、NATOへの加盟を果たしたが、EUの正式加盟については上記民主主義の抑圧、経済的な混乱、クルド人人権問題により見送られた状態であり、改善に向けて歩んでいる状態である。

【トルコ民族(テュルク系民族)の歴史について】

トルコ民族は元を辿ると北アジアに住んでいた遊牧民族だった。6世紀には突厥が出て、中国北方からアラル海にまたがる大帝国を築いた。やがて東西に分裂し、8世紀の中頃に滅びた。入れ替わりにウイグルが出て、中国北方からアルタイ山脈までを支配した。ウイグルは9世紀半ばに滅びたが、その後西遷して現在の中国・新疆ウイグル自治区辺りを支配した。トルコ民族の活動の場は中央アジアに移り、10世紀半ばにカラハン朝が出て現在のウズベキスタン共和国東部から中国・新疆ウイグル自治区西部までを支配し、12世紀前半に滅びた。また10世紀後半にガズニ朝が出て、現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン東部、アフガニスタン、パキスタンを支配し、12世紀前半に滅んだ。中央アジアから西進し11世紀前半に成立したセルジューク朝は、現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン、イラク、シリア、イスラエル、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジアを支配し、12世紀後半に滅んだ。11世紀末に興ったホラズムシャー朝は、ウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン、アフガニスタン、パキスタンを支配し、13世紀前半に滅んだ。その他イランではカラコユンル、アクコユンル、サルグル、アフシャールの各王朝が出ている。オスマン朝については上記の通り。現在、トルコ民族はバルカン半島からシベリアまで広範囲に居住している。

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トルコ東部旅行(成田→イスタンブール→アダナ)

2008年3月、トルコ共和国の中部・東部に行ってきました。

一日目:成田→イスタンブール→アダナ

二日目:アダナ(ウルジャーミー→タシュ橋(メルケズ・ジャーミィー遠景)→ユラン・カレ→ユムルタルク(アヤス)港→アナヴァルザ)→コザン(コザン城砦遠景)→フェケ→ピナルバシ→カイセリ

三日目:カイセリ(ドネル・キュンベット→医学史博物館→ミマール・スィナン公園→サハビエ神学校→カイセリ城→城壁→フナトゥ・ハトゥン・キュルリイェスィ)→スルタン・ハニ(隊商宿)→サルキスラ→スィワス(ウル・ジャーミィー→ギョク神学校→チフテ・ミナーレ→シファーイエ神学校→スィワス城砦)→ザラ→レファーイエ→エルズィンジャン

四日目:エルズィンジャン(エクシ・スの温泉)→テルジャン(ママ・ハトゥンの霊廟と隊商宿)→アスカレ→リリカ→エルズルム(チフテ・ミナーレ→ヤクティエ神学校)→パシンラー(ハサン城砦遠景)→チョバンデデ橋→ホラサン→エレスキルト→アール→ドウバヤズット

五日目:ドウバヤズット(イラン国境→メテオ・ホール→ノアの方舟→アララト山麓の草原→イサク・パシャ宮殿→絨毯製作見学→バザール)

六日目:ドウバヤズット→アール空港→イスタンブール→

七日目:→関空→羽田

今回もマルコ・ポーロの追っかけの旅です。
1270年末にヴェネツィアを発ったポーロ一行は、パレスチナでエルサレム聖墳墓教会の聖油とローマ教皇からモンゴル皇帝フビライ・ハーンへの親書を得て1271年末にアークル(アッコー)を出航しました。フビライ・ハーンの要望である、他教徒を論破できる二人のカトリック僧も同行していました。
アナトリア半島南岸の小アルメニア王国の港、ライアス(アヤス)に上陸した一行は、敵対するエジプトのマムルーク朝のスルタン、バイバルスが小アルメニアに侵攻を開始した事を知ります。二人の僧侶は恐怖のあまり逃げ帰ってしまいます。
しかしポーロ一行はカエサリア(カイセリ)、セヴァスタ(スィワス)、アルジンガン(エルズィンジャン)、アルジロン(エルズルム)、アララト山麓と旅を続け、ペルシャ(イラン)に達しました。ブログトップページの「マルコ・ポーロの行程図」をご覧になるとおおよそのルートがわかると思います。
今回の行程は、マルコ・ポーロが東方見聞録に書きしたためた記念すべき最初の場所です。
また、ポーロ一行が冬に辿った行程をたぶんほぼ忠実に辿っています。
途中の遺跡もセルジューク朝時代のものが非常に多く、ポーロ一行が見た、あるいは泊まったであろう場所が数多くあります。ポーロ一行の旅路の再現度の高さも今までの旅以上の感があります。
それに初春の緑豊かなキリキアの平原から雪深いアナトリア高原へ、そしてフィナーレはアララト山麓の遊牧の大草原と、非常にドラマチックな景観の旅でもありました。今思い出しても心震える思いがします。
※移動中の車内からの撮影、またカメラのズーム機能が故障したため、見苦しい画像になってしまった事をご了承ください。


一日目

午前9時すぎに家を出て成田に向かった。

今回の旅は、どうも胸騒ぎがする。良からぬ予感というか・・。
トルコの個人旅行ということで金額が膨らんだこともあるが、これ以外にも何かありそうだ。
たぶん、元々あまり行く気がない場所だったせいもあるだろう。
何しろトルコについて東方見聞録では、たったの3章しか記述がない。248章あるうちの3章である。
しかもその内容も簡単でありふれたもので、特産品とか住人についてだった。
ただひとつ目を引くのはアララト山についての記述で、少しばかり緑の草原と白銀の頂をイメージさせてくれる。
そういうわけで、数年前のイスラエル旅行の際、飛行機から偶然アララト山を眺めた時に、これさえ見ればトルコには行かなくてもいいと納得していたのだ。
それが今回、大枚はたいてトルコに行くことにした理由は、中国やイランに少し飽きた、という一点に尽きる。行ったことのない国に行きたくなったのである。
それにしても今回の旅行計画を立てたとき、世界遺産が全く含まれていないのには少しがっかりした。
マルコ・ポーロのルートには世界遺産の街が含まれていない。少し寄り道すれば何箇所か世界遺産に立ち寄れるが(特にカッパドキアは目と鼻の先だ)、そんな時間の余裕は全くない。
あくまで本来の目的はマルコ・ポーロの行程を辿ることにあるので、色気は出さず、残念ながら世界遺産はあきらめることにした。

成田空港駅で下車、金の節約のため空港ではパン2個の昼食を済ます。最近一日の食費を切り詰めることに注力している。
13:45、イスタンブール行きトルコ航空機に搭乗。
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14:43、離陸。
緊急時の安全説明の音楽、有名な曲だが何だろう(アイバンクのCMで流れている曲)。耳に残る曲だ。
画像は最初の食事。
Dscn5727a
かなり発ってからバルハシ湖の北側を通る。バルハシ湖に流れ込む河は見えたが湖は見えず。
それから実に長い時間を過ごす。
007の新作映画やトルコ音楽を聴いて時間をやり過ごす。
音楽チャンネルのジャンルには好んで聴く客層が多いのか80年代洋楽ポップスがある。
トルコの音楽も充実しているが色々ジャンルがあって面白い。
ポップスのほかアラベスク(アラブ風)、スピリチュアル。
クラシックとトラディショナルは何が違うんだろうか?トラディショナルは馬が疾走するようなテンポの速い曲が多い。元々騎馬民族だったトルコ人のルーツを感じる。

24:00、ようやくヴォルガ河に近づいた。
Dscn5728a 
運がよければボルゴグラード(旧スターリングラード)上空を通るかもしれない。
実は今ウォーゲーム「ストリーツ・オブ・スターリングラード」をプレイしている途中なのだ。
飛行機はサラトフ付近でヴォルガ河沿いに南下、ボルゴグラードの北側で進路をそれ西側に向かってしまった。
その後カラチ~ロストフ上空を通過。

25:20、ニコポリの南に達した頃二度目の食事。
Dscn5729a
25:30、日没。
26:44、イスタンブールのアタテュルク空港に着陸。長い長い半日が終わった。
現地時間19:44(以降時間表記はトルコ時間)。時計の時刻を修正する。
不吉なことに外は雨。
セキュリティチェック、入国審査を終え、国内便の空港に続く連絡通路を延々と歩く。
002a_2
国内便の発着ロビーに着いてモニター画面を見るが、これから乗るアダナ行きの搭乗ゲートわからず。
うろうろ探していたら上の方に大きな電光掲示板があった。
ゲート№確認するもどこにあるのかわからず、案内所の無愛想なねえちゃんに聞いてやっとわかった。
Ⅹ線検査を受けた時係員のにいちゃんから「よい旅を」と日本語で言われたのが嬉しかった。
アダナ行きの搭乗ロビーに着いてやっと余裕。

21:00、定刻どおり搭乗開始。
21:30離陸。
軽食はトルコパンのサンドウィッチ。

23:15、アダナ空港着陸。
待てど暮らせどスーツケースが出てこない。
他の何名かと一緒に空港係員に荷物預かりのタグを見せて抗議すると、バスで別の手荷物受取場に連れて行かれ、そこに置き去りにされたスーツケースがあった。
そこを出てようやく現地ガイドのAさん、運転手のBさんとご対面。
両名の名前を聞いたが疲れて覚えられない。

23:57、アダナ市内のホテル着。
明日の待ち合わせ時刻等を確認してAさんと別れる。
部屋は4階。
007a 

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洗濯してから寝た。
横になったが当然の事ながら時差のため中々寝付けない。

【トルコの概要について】

正式国名:「トルコ共和国」
面積:日本の2倍
人口:7041万(2006年)
首都:アンカラ
元首:アフメット・セゼル大統領

地形:三方を黒海、エーゲ海、地中海に囲まれたアナトリア半島と、バルカン半島の一部からなる。黒海沿いに黒海山脈、地中海沿いにトロス山脈、半島の中央部にアナトリア高原がある。

気候:黒海山脈とトロス山脈に遮断されたアナトリア高原は乾燥しており、東部山岳地帯では牧畜が盛ん。黒海、エーゲ海、地中海沿岸は雨量が多く、綿花、柑橘類、ヘーゼルナッツなどの商品作物栽培が盛ん。一般的に夏は乾燥し冬は雨が多い。
民族:トルコ人が8割以上、次いで多いのがクルド人。その他トルコ人と同じテュルク系民族であるクルグズ人、カザフ人、ウズベク人、アゼルバイジャン人がおり、非テュルク系民族ではチェルケス人、アラブ人、ユダヤ人、スラブ系民族がいる。

宗教:大部分はイスラム教スンナ派。

言語:公用語はトルコ語だが、一部地域ではクルド語、アラビア語も話される。

休日:土・日曜日
通貨:トルコリラ。2009年4/1現在では1トルコリラ=59円。

治安状況:
2009年4/1現在、以下の地域を除いて危険情報は出ていない。
イラクと国境を接するハッカーリ及びシュルナクの2県:「渡航の是非を検討してください。」
イスタンブール県及び南東部10県(トゥンジェリ、エラズー、ビンギョル、ディヤルバクル、マルディン、バトマン、ムシュ、ビトリス、シールト、ヴァン):「十分注意してください。」

アダナ[トルコ]旅行ガイド ~フォートラベル~
http://4travel.jp/overseas/area/europe/turkey/adana/

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