いらっしゃいませ

201709aa右下のお好きなカテゴリからお入り下さい  ↑マルコ・ポーロの行程図(往路) 
海外旅行airplane、山歩きfuji、ウォーゲームsagittarius、SF模型impactを主に掲載しています。

尚、記事は掲載日あるいは文中の追記日時点の情報です。情報が古い場合があります。

本文中に座標(例:35 46' 16.43"N 140 23' 28.86"E)が記述されているものがありますが、これは”グーグル・アース”(地球検索ブラウザー)の座標です。
観光地または画像の撮影地点の座標を示しています。

左上のジャンプ窓に上記の座標をコピー&ペーストして入力し、脇の検索ボタンを押すと座標の場所に飛べます。

”グーグル・アース”については
こちらを。無料でダウンロードできます。

※座標は私が調べた物ですので、間違っている場合があります。

※閉鎖されたDoblogから移住してきました。画像データは移行できなかったため、ほとんどの記事に画像がありません。これから少しずつ貼り付けていきます。

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その7(ティアーブの港)

11:16、ティアーブ(Tiab)の港着。Dsc02784a港というから埠頭をイメージしていたらそんなものはなく、ただ海岸に船が浮かんでいる(座礁している?)ような、船の墓場みたいなところだった。大きな船が手持無沙汰にゴロゴロしていて、それはそれで大迫力。見に来てよかった!Dsc02785aどうも今は干潮時で、夜の満潮時に出港するらしい。Dsc02787aDsc02791aDsc02792ajpg櫓の上には暇そうな漁師さんらしき人たちが詰めていた。箱に入ったPCのモニターpcが秘密基地感を高めている。Dsc02786a_2Dsc02788a櫓の近くの犬。下痢してるんだかさかんに野グソしていたcoldsweats01Dsc02789a番犬ファミリー。近づくと盛んに吠えたててうるさいpoutDsc02790aポーロ一行が訪れた時代にこんな大きな船はなかっただろうが、港の様子は案外こんな感じか。Dsc02793aDsc02794aDsc02795aDsc02796aDsc02797aDsc02798aDsc02799aDsc02800aDsc02801aエンジンテストをしていて盛んにポンポン黒煙を吐いている。中々迫力だったshipDsc02802a11:30発。カラーイーの海岸

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イラン南東部・ホルモズガーン州旅行~その6(バンダル・アッバースからティアーブへ)

バンダル・アッバースからティアーブに向かうcar
ティアーブに行くには、まず東100キロにあるミーナーブに行かなければならない。

ペルシャ湾岸の道路を走る。
やけに大きな像が立っている。何をしている像なのかわからない。Aさんに聞くと、収穫を祝い踊る
漁師の像だという。Dsc02748aそういえば、海岸近くでは女たちが水中にもぐって何かを獲っている。エビを獲っているのだという。
海水浴場がしばらく続く。Dsc02750aバンダル・アッバースには3月になると全国から人が来てホテルが一杯になる。
3月はイランの正月に当たる。正月休みに寒さを逃れて温暖なバンダル・アッバースに来るのだ。
9:36、ガソリンスタンドgasstationに立ち寄る。イランの車の燃料は、主にガソリンと天然ガスの2種類ある。
今日は天然ガスで走る車。後方のトランクケースに天然ガスを入れるボンベがあり、ガソリンスタンドで補充する。
レバーで、ガソリンか天然ガスかを選択できるようになっている。Dsc02752a
市街地を出ると、やがて道路は海岸から離れ、内陸を走るようになる。Dsc02753aDsc02754a2007年に見たのと同じ光景、道路際に水やジュースを売る露店が立て続けに現れる。この暑さならではの風景だ。Dsc02757a大学、工場は町の外に移動させられている。Dsc02755a沿道は、公園、バーベキュー場、キャンプ場が現れている。
北側を見ると、一面の荒地で、遠くに
ザグロス山脈の南端部が見える。Dsc02756a南側には時折干上がった河が見える。冬にならないと雨が降らず水が流れないのだ。そのような土地柄なので、全長90キロの送水管をミーナーブのダム湖からバンダル・アッバースに引く工事が進められている。Dsc02758aDsc02759aDsc02760aがあるが、キュウリ、ナス、タマネギを育てている。タマネギはイラン人の大好物だし(実際抗菌力があるので体に良い)、キュウリはイランのサラダの定番のようなものだ。これらの畑には細いホースが埋められていて、水を供給するようになっている。
book「住民はわれわれのような食物を常食としない。
それというのも、コムギのパンや肉類を常食しようものなら、すぐ病気にかかるものだから、健康を保つ為にそれらを避けて、ナツメヤシの実とマグロの塩漬けとそしてタマネギとをもっぱら摂っており、かかる食事が彼らの健康に適合しているありさまである。」

(東方見聞録)Dsc02762aシュロの林。
book「・・・コルモス(ホルムズ)平野というみごとな平地が開け、東西南北に向って二日行程の範囲で広がっている。
ナツメヤシをはじめ各種の果実が豊かに実り河川がそこを流れ、シャコだとかオウムそのほかの禽鳥が繁殖しているが、どれもわれわれの国のものとは種類を異にしたものばかりである。」
(東方見聞録)Dsc02763aDsc02764aDsc02765a10:35、ミーナーブに入った。Dsc02766aティアーブに行くには、ミーナーブの市街地に入る手前で道を海に向って右折しなければならない。途中、道を走る人などにどこで右折すればよいのか聞きながら進んでいく。Dsc02768aDsc02769a日陰で休む人々。Dsc02770aDsc02771aここで、ティアーブもその一部とされる、旧ホルムズについて書きます。
旧ホルムズは800年前に栄えた港町。
現在のホルムズ海峡の名前のもとになった町だ。
記録によると、紀元前4世紀のアレキサンダー大王のインド遠征の帰途、その分遣隊であるネアルコスの艦隊が停泊した
ハルモゼイア地方のアナミス川河口がその場所と言われている。
2世紀の地理学者、プトレマイオスの地理書には
ハルムザと書かれている。
別の書籍によると、町自体は3世紀のサーサーン朝初期に生まれ、ゾロアスター教の神アフラ・マズダに由来して命名され、後世に
オルムズ、ホルムズになった、と書かれている。
また、ホルムズは別名
ムーギスターンとも呼ばれた。
その意味は、拝火教徒の地、霧の地、モンゴル支配の地のいずれかが考えられている。
ポーロ一行は中国に向う途中の1272年に訪れ、東方見聞録ではこのように述べられている。

book「コルモス平野を二日間の行程で突き切ると初めて外洋に達するが、この海岸地区に海港都市コルモス(ホルムズ)がある。
この港には、各種の香料・宝石・真珠・絹布・金襴織・象牙そのほかの商品を船舶に満載した商人がインドからやってきて、コルモス市中でこれを売却するのだが、彼ら海商から直接に買い入れた商人は更にこれを第三の商人に転売し、かくしてこれら商品が世界各地に出回るわけである。
実際コルモス市は貿易の殷盛な都市である。」

book「これら(ペルシャの)諸王国の住民は、上記した馬匹を連れてインド海に臨むキシやコルモスの町まで出かける。
するとこの地には馬匹を取り扱う業者が来合わせていて、これを買い込みインドに連行し、そしてそこで上記のような高値で売却することになっている。
ところでインドという国は暑気がとても強くて、せっかく馬匹を買い入れても、これを長く飼育することもできなければ繁殖せしめることもできない。
たまたま何かの機会に子ウマが生まれたとしても、四肢が不具であったり奇形をなしていたりして、全く役に立たないものばかりなのである。」

11,12世紀以降、インド洋貿易で馬horseの取引が活発になった。
ズファール、アデン、シフルのアラブ馬horseと、イラン内陸部のカズウィーン、クルディスターン、ルーリスターン、シューリスターン、イスファハーン、シーラーズ、シャバンカーラ、クーヒスターンのペルシャ馬horseが、ホルムズに集められ、インドのマァバールに運ばれて売却されたという。
インドでは10世紀後半以降、南インドでの諸王国の対立と、北インドに侵入したトルコ系、アフガン系国家の対立の激化により、トルコ系民族がもたらした騎馬弓兵による戦闘方法がインド全域に波及し、馬の需要をもたらしたそうである。
また、ポーロ一行は中国からの帰途、1297年に再訪していて、東方見聞録ではこのように述べられている。

book「コルモス(ホルムズ)は海に臨んで建てられたりっぱな大都市で、ケルマンのスルタンに隷属している。
しかし都市コルモスの統治は1人のメリックの手中に独占されている。
またコルモス市は管下に多数の都市城邑を有している。
住民はサラセンでマホメットを尊崇する。
(中略)
コルモス市については、既に本書の前章においてキシ、ケルマンとあわせて述べておいたから、それ以上に申し述べる事項はない。
ただどんな経路をとって帰来するにもせよ、このコルモス市にはどうしても立ち寄らねばならないのだから、最後の項目に挙げたにすぎない。」

ホルムズはイラン東部における唯一の
海への玄関口であり、海のシルクロードと陸のシルクロードの接点でもあったのだろう。
その繁栄振りが偲ばれる。

ところが、ポーロ一行が立ち去った後数年で、旧ホルムズは存亡の危機に瀕する事になった。
イスラム史家によると、1299年にケルマン王の侵略を受けて、ホルムズ王とその住民はキシュ島に避難し、次いでジャラウン島(現ホルムズ島。バンダル・アッバスの沖合い6キロにある。)に移ったと言う。
ムスタウフィーによると、1300-1301年、山賊の被害がひどくなったためホルムズ王クトブ・ウッディーン・タハムタンが住民ともどもジャラウン島に移ったと言う。
アブー・アルフィダーゥによると、1300-1301年、モンゴル軍の侵略により町が荒廃した為、ジャラウン島に移ったと言う。

ジャラウン島のホルムズは新ホルムズと呼ばれ、ペルシャ湾貿易最大の拠点となった。
旧ホルムズはその後も存続したが、主に新ホルムズへの物資補給港としての役割を担っただけだったようだ。

ところで私が
旧ホルムズに行く理由なのですが、それはマルコ・ポーロ一行の中国への行程決定に大きな影響を与えた町だったからです。
当初、ポーロ一行はホルムズから中国に向けて出航する予定でした。
その方が陸路よりも早く、楽に中国に到達できると思われたからです。
しかし、事はそううまくは運びませんでした。
港に行った彼らは、とても長期の航海には耐えられそうもない、貧弱な船を目の当たりにしました。

book「彼らの船はとても造りが粗末で、難破するものが少なくない。
その理由は、造船に際して鉄釘で組み合わせもせず、もっぱらインドクルミの皮で製した糸で縫い合わすだけだからである。
彼らはインドクルミの皮を水に浸し、それがウマのたてがみ状になると、これをより合わせて糸を作り、この糸を用いて船を縫い合わす。
この糸は海の塩分にあっても腐らないから、十分に堅牢で長持ちするわけである。
彼らの船は舵1つの一本マスト、一枚帆で、甲板はない。
これらの船は積荷を終わると、荷の上に皮革を覆い、その上にインド向け売り込みの馬匹を載せる。
この地方には釘の材料となる鉄がないから、やむなく木釘を使用したり糸で縫い合わせたりする方法をとるのだが、しかしこのために、かかる船で航海する場合、少なからぬ危険が伴うわけなのである。
インド海ではしばしば暴風に見舞われるものだから、この種の船がそれに遭って難破した例は実際のところすこぶる数多いものがあったのである。」(東方見聞録)

一行は仕方なく、陸路で中国に向わざるを得なくなりました。
そしてもと来たケルマンに戻って行きました。
彼らにとって、この事は非常に大きな出来事、残念な出来事だったはずです。
もちろん、東方見聞録の内容にも大きな影響を与えました。

ところで、旧ホルムズに行くには、その場所がわからなくてはいけません(当り前ですが)。
しかし、
旧ホルムズの正確な場所はよくわかっていないようです。
書籍で述べられていた場所を上げると、
ミナブ川北岸の
ティアブ、テペ・スルフ。ブルチク
ミナブ南方16キロの
クンビル
ミナブ南西の
カレサラワンなどがありますが、私が知る限り、ミナブ南西の海岸近くのK103地点のようです。
もっとも最新の情報ではないので、もっと違う場所があるのかもしれませんが。

ちなみに2007年の旅行にあたって、いろいろな旅行会社に旧ホルムズに行きたい旨を打診しましたが、その存在すら知りませんでした。
要するに一部の歴史研究者の研究対象にとどまっている場所のようです。
今回は、現地の詳細な地図もなく道路事情も不明なまま、僅か1日程度の時間で、そのようなマニアックな場所を目指すわけです。
当然、旧ホルムズに関連する遺跡のある場所に辿り着けるとは考えていません。
でも、ある程度近くに行って、どのような場所に存在していたのか、現在の港の様子はどうなのか、その雰囲気だけでも確かめられたら、と思いました。

話を戻します。

ティアーブに向かう道路に入った。あとは直進だ。2007年に比べて沿道の家の数が増えたように感じる。Dsc02772aDsc02773aDsc02774aDsc02775a11:04、1本目の川通過。
11:05、2本目の川通過。
11:06、ティアーブの入り口。何もなかった2007年とは様変わりである。Dsc02777a地元の人に港への行き方を聞きながら進んでいく。Dsc02778a町の中心部に入った。Dsc02780aDsc02781aモスクがある。Dsc02782aあと少しで
ティアーブの港だ!Dsc02783a

参考・引用文献:

書名 :完訳東方見聞録 1
シリーズ :平凡社ライブラリー 326
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

書名 :完訳東方見聞録 2
シリーズ :平凡社ライブラリー 327
著者名 :マルコ・ポーロ/著 , 愛宕松男/訳注
出版者 :平凡社

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